賢治は作品中に、多くの樹木を取り上げています。一つ一つの樹木の様相や色彩、そして樹木の性質まで的確に捉えられて、風景を形作るものに生かされていると思います。
「装景手記」の章には、
「装景手記」、〔澱った光の澱の底〕、
「華麗樹種品評会 一九二七、九、」の三編の詩が含まれます。
賢治が「装景手記」と表記したノート(「装景手記ノート」)に記された作品の中から全集編集者によって
「装景手記」としてまとめられた三編です。
詩「装景手記」は、その下書稿とされる「装景家と助手との対話」に一九二七、六、一、の記述があるのでその時の成立、〔澱った光の澱の底〕は、1928年6月、東京、伊豆大島への旅行から帰った後の作品、章内の順序は違いますが、「華麗樹種品評会 一九二七、九、」はその日付の作品と思われます。
書簡228(1927年4月9日)によると、花巻温泉遊園地事務所の冨手一に南斜花壇の詳細な設計書、所要種苗表を作製し送っています。さらに次便(日付不明)書簡229で既植部の処理、土地改良、立地と植樹についての注意を書き送り、このころから花巻温泉遊園地の花壇の造園に関わり始めました。「装景」という言葉が作品に現れるのはこの頃が最初ですが、賢治は「装景」という言葉とどこで接していたのでしょう。
原田友作『園芸新説』(1904博文館 )は盛岡高等農林学校の図書館に賢治在学中から収蔵されて、賢治が目にしていた可能性があります。
荒れた地面に肥せよ、開けざる野を墾けよ……凡てこれ土地を愛するのである、爾して土地を装飾るのである、……
自然は其処に大いなる意識がある、決して無意味なものではない、吾々が此の意識に倣って(小刀細工にあらず)庭園を造ることに於て唯其の画趣を伝へることが出来るのである、
「土地の装飾」という考えが提言され、後の「装景」の考え方に受け継がれていきます。
田村剛『造園学概論
』 (1925(大正14)年 成美堂書店)は、1918年〜1920年、賢治の研究生時代の盛岡高等農林学校の図書館で、1918(大 正7)年に計2冊 受け入れています。また、1927年ころ、賢治も所蔵していて、草野心平の「米一俵送れ」という要望に応えてこの本を送りました(注1)。ここには
植物の実用的方面に対して、其の美的方面を利用するものがある。余は之れを総称して「風景装飾術」或は「装景術」と名づける。……
かくて経済と風景美を一致させ、進んで学術・衛生・道徳・宗教などあらゆる方面の目的を同時に達する理想境を現出しなくてはならぬ。……
「装景」(風景装飾)とは「人工」によって破壊せられた風景や天然風景の欠陥を見出して、これに装飾を加へることを主眼とするものである。……
近世造園には、現存する地貌又は他の目的で築造せられた知貌、そのままで加工し修飾する場合と、庭園の如く全然新たにその知貌を美的創作物として築造していく場合と、二つの異なる方面が認められる。これは美術工芸と芸術の対立のごときものであって、後者を狭義の造園といひ、前者を風致工または装景として区別することがある。植物の実用的方面に対して、其の美的方面を利用するものがある。……
庭は本来均された土地といふほどの義であるが、建物の周りの日用の場所をさすのである。庭園の原始的な本質的なものが之れだとすれば、石器時代既にその幼稚なものゝ始まってゐたことを、明らかに想像することが出来る。…中略…これ等原始の造園には造園として最も本質的な条件が備ってゐたことを注意せねばならぬ。なお茲に特筆すべきは、夫ら原始のひとびとは、海辺、湖上、河畔、山岳等自然的環境の異なるにつれて、ぜんぜん別様の生活様式を有し、従って居住の生活と戸外の造園生活とが、全く天然的条件で左右されてゐたといふことである
「装景」という言葉が使われ、風景美と経済、学術、道徳、宗教などとも調和を目指した、理想に満ちたものでした。さらに庭園と風致工との区別も論じています。
田村はこの著作以前に、1917(大正6)年に富士山北麓調査を実施、1918年(大正7年)に刊行した『造園概論』では「自然公園」という名称を生み出しました。国立公園の制定趣旨に関しては、自然保護派と対極の、国民に公開し利用をはかるという立場を採りました。この思想は戦後の国立公園政策にも引き継がれます。
本多静六『「本多造林学本論」(三浦書店 明治45年)は、「宮沢賢治の読んだ本―所蔵図書目録補訂」(注2)rにも記載があります。〔水楢松にまじらふは〕(「文語詩稿一百篇」下書稿一)には 「かしこを見ずや[緑→削]新緑の/柏は松にまじはりて/古きことばのモザイクや/クロスワードのさまなせり/かくのごときを静六は/ 混かう林と名づけしか」と名前が記されています。
本多静六は、林学博士であると同時に造園家で、設計や提案を出した公園は1901年の日比谷公園、大沼公園(北海道)をはじめとして76にのぼり、「日本の公園の父」とも呼ばれました。東京帝国大学教授時代の1902年、政府が設置した足尾鉱毒事件の第二次鉱毒調査委員会の委員も委嘱されていて、同委員会は1903年に、1897年の予防令後は鉱毒は減少したと結論づけ、洪水を防ぐために渡良瀬川下流に鉱毒沈殿用の大規模な「遊水池」を作るべきとする報告書を提出しましたが、鉱毒が消滅したという調査結果はありません。1930年国立公園調査会の委員に就任しています。
『天然公園』(1928(昭和3)年 雄山閣)では
おおよそ真善は美に超越し、美は真善を冒さざる範囲内に於て国民全体によって出来るだけ合理的に平等に欲求すべきものである。而して真に人類一般(道路や水力発電所等の開発)に必要なるものは之れを総べて善なりと解する。
とし、道路や水力発電所等の開発のためなら「美」―風景や天然記念物が破壊されることもやむをえない、という論に至ります。
このような思潮、また花巻温泉遊園地の花壇の設計という、ある意味社会との妥協の中で、賢治にとっての「装景」とは、どんなものだったのでしょう。賢治の「装景」に込めた思いと、自然の造形への敬意を、少し長いのですが詩「装景手記」全文を読みながら感じ取って見たいと思います。
装景手記
六月の雲の圧力に対して
地平線の歪みが
視角五〇度を超えぬやう
濃い群青をとらねばならぬ早いはなしが
ちゃうど凍った水銀だけの
弾性率を地平がもてばいゝのである
詩は釜石発花巻行きの列車に乗って、窓に展開する風景を、「装景」と捉えています。空、雲、樹木、山、地殻変動までを捉え、その樹木の美しさ、役割が感じられるように描きます。「六月の雲の圧力」は山並を雨雲が覆うことによる日照不足や低温による冷害を予測しての言葉と思われます。1927(昭和2)年夏、花巻地方は5、6月の日照不足と低温により大きな被害を生んでしまいます。
逆に1924年(大正13年)の「亜細亜学者の散策」(春と修羅第二集)に「気圧が高くなったので/地平線の青い膨らみが/
徐々に平位に復して来た」という同じような表現がありますが、「徐々に平位に復して来た」この年、1924年は旱害となりました。
体に感ずる列車の響きを「Gillarchdox! Gillarchdae!」というアルファベットを使った擬音語が前後の記述に合わせて変化させながら三カ所で使われています。ジルアーチは生物学用語で、魚の鰓が生成する以前の段階で弓状のものをいいます。
早池峰山は、釜石を出て、七つ目の平倉駅と次の岩手上郷の間で遠望でき、その切りたった峯を眺めていた賢治が使った「東の青い橄欖岩の〈鋸歯〉」を基にした言葉といわれます(注3)。
地殻の剛さこれを決定するものは
大きく二つになってゐる
一つは如来の神力により
一つは衆生の業による
さうわれわれの師父が考へ
またわれわれもさう想ふ
……そのまっ青な鋸を見よ……
すべてこれらの唯心論の人人は
風景をみな
諸仏と衆生の徳の配列であると見る
たとへば維摩詰居士は
それらの青い鋸を
人に高貢の心あればといふのである
それは感情移入によって
生じた情緒と外界との
最奇怪な混合であるなどとして
皮相に説明されるがやうな
さういふ種類のものではない
『造園学概論』には庭は石器時代からその歴史に従って変容するものとされていますが、さらにそれを進めて地殻変動時代にまで遡り、そこに働く「如来の神力」、「衆生の業」を感じたうえでの空と地平線との関係まで捉えた「園林造園学」こそが理想であるとしています。
次に賢治がこだわるのは、風景の中の色です。
ならや栗のWood landに点在する
ひなびた朱いろの山つゝぢを燃してやるために
そのいちいちの株に
hale glowとwhite hotのazaliaを副へてやらねばならぬ
若しさうでなかったら
紫黒色の山牛蒡の葉を添へて
怪しい幻暈模様をつくれ
止むなくばすべてこれを
截りとる Gillochindox. Gillochindae! ラリックスのうちに
青銅いろして
その枝孔雀の尾羽根のかたちをなせる
変種たしかにあり
やまつゝぢ
何たる冴えぬその重い色素だ
赭土からでももらったやうな色の族
銀いろまたは無色の風と結婚せよ
なんぢが末の子らのため
まず賢治が気にするのが「冴えない」「やまつゝぢ」の色です。「hale glowとwhite hotのazalia」―強力な燃えるような輝きを持つ赤いアザリア―と、強烈な白いアザリアを一株ごとに副えてやろう、または山ゴボウの黒紫色の葉と合わせて模様を作ってしまおうと提案します。これはまさに装景の思想です。それが出来なければ
「截りとる」という強い姿勢を示します。 Gillochindox. Gillochindae!は「截りとる」から連想した「ギロチン」から作った語(注4)で、かなり強い言葉です。
次には銀色または無色の風と結婚せよ、と呼びかけます。これは新しい品種に生まれ変われという、これは植物学的な祈りでしょうか。あるいは銀色または無色に染まって、ということでしょうか。ここには、風の透明性への強い信頼感があるように思います。いずれにしても、あるがままの自然を愛するのとは少し違った思想です。
次に賢治の脳裏に現れるのは、「十三歳の聖女テレジア」です。賢治は、花壇の設計の相談を受けていた花巻共立病院の見習い看護婦―義務教育を終えて十三歳前後、水色の制服を着ていたという―を連想しています。あるいは先ほど列車に乗ってきた「 ……電線におりる小鳥のやうに/頬うつくしい娘たち」は看護婦さんだったのかも知れません。
聖女のテレサ、テレジアは何名か存在するのですが、「幼きイエスの聖テレジア」、「小さき花のテレジア」とも呼ばれていた、19世紀フランスカルメン教会の修道女、リジューのテレーズ(1873〜1897)と思われます。
ユキヤナギはバラ科シモツケ属落葉低木で、春に白い小さな花を密集して咲かせます。学名Spiraea thunbergiiは、baby's breathとともに英名にもなっています。花言葉は、愛らしさ、愛嬌、殊勝です。賢治は、「小さき花のテレジア」から、白い小さな花を咲かせるユキヤナギを連想したのではないでしょうか。
さらに「聖女」→天女→天人菊の連想があり、天人菊の学名ガイラルデイアからGaillardox!の擬音語が生まれたといいます(注5)。
次には 重い緑青の松林、またその下の青いpass(山道)を据えます。ここならば「赤い碍子の電柱」という人工物を据えても、雲や風が行き来する風景を妨げないと主張しています。雲や風は必要不可欠な風景なのです。
「青くうつくしい三層の段丘」は綾瀬駅から樽沢駅付近までの猿ヶ石川の両岸の河岸段丘が推定されます。その南方には花崗岩の標高600メートル前後の丘陵―「グラニットの準平原」―が連なります。その斜面は採草地として利用されていたようで、その手入れの春の野焼きを「この地方では大切な状景」として、捉えています。
はんの木の群落の下には
すぎなをおのづとはびこらせ
やわらかにやさしいいろの
budding fernを企画せよ
それは使徒告別の図の
その清冽ながくぶちにもなる
かゞやく露をつくるには
・・・や・・・すべて顕著な水孔をもつ種類を栽える
思ふにこれらの朝露は
炭酸その他を溶して含むその故に
屈折率も高ければまた冷くもあるのであらう
次は色彩としては緑色のグラデーションを考えます。ハンノキの群落には、スギナを自生させ、budding fern(芽生え始めたシダ)を添えようと唱えます。まるで宗教画のような静寂さを作り出そうとしています。そして朝露をたくさん放出する植物を植えることで光の屈折率も高く冷たい異空間を作ろうといいます。
頬きよらかなむすめたち
グランド電柱をはなれる小鳥のやうに
いま一斉にシートを立って降りて行く
平野が巨きな海のやうであるので
台地のはじには
あちこち白い巨きな燈台もたち
それはおのおのに
二千アールの稲沼の夜を照して
これをして強健な成長をなさしめる
またこの野原の
何と秀でた麦であらうか
この春寒さが
あたかもラルゴのテムポで融け
雷も多くてそらから薄い硝酸もそゝぎかかったのだ
熟した鋼の日がのぼり
この国土の装景家たちは この野の福祉のために
まさしく身をばかけねばならぬ
頬・・・ つく
立つ
……グランド電柱にとまる小鳥のやうに
席につかうと企てゝ
みないかめしくとざされてあれば
肩をすぼめて仕方なく立つ……
列車は平野にさしかかり、そこにはよく成長した麦畑が現れ、夜間照明による栽培を夢見ます。春の寒さは緩和され雷の効果も現れました。これは雷の空中放電により、空気中の
窒素と
酸素が反応して
窒素酸化物が生成(
窒素固定)され、さらに酸素により
硝酸に酸化され、
亜硝酸塩が生成され、植物が栄養分として利用できる物質となることを言っています(注6)。雷と作物との関係は、稲妻の語源にもなっている雷が稲を実らせるという信仰もあり、また
古代ギリシアの
プルタルコス『食卓歓談集』では、落雷した、
ほだ木では
きのこの収穫量が増えると記述されるなど、古くからいわれています。『
グスコーブドリの伝記』では空気中から硝酸アンモニアを取り込んで雨と一緒に降らせ、作物の肥料とすることに成功しています。
この国土の装景家たちは
この野の福祉のために
まさしく身をばかけねばならぬ
「装景」の最終的な目的はやはり土地に生きる生物、人間への思いが含まれなければならない、ということに至ります。
この詩では、花巻温泉遊園地の花壇の制作という、装景の仕事についた賢治が、自然の風景の中にその方法を展開しているようです。それは造園という意識ではなく風景の中に色彩を感じ、大地や空の動きを感じ、最後には人間への思いを述べていると思います。
〔澱った光の澱の底〕 澱った光の澱の底
夜ひるのあの騒音のなかから
わたくしはいますきとほってうすらつめたく
シトリンの天と浅黄の山と
青々つづく稲の氈
わが岩手県へ帰って来た
こゝではいつも
電燈がみな黄いろなダリヤの花に咲き
雀は泳ぐやうにしてその灯のしたにひるがへるし
麦もざくざく黄いろにみのり
雲がしづかな虹彩をつくって
山脈の上にわたってゐる
これがわたくしのシャツであり
これらがわたくしのたべたものである
眠りのたらぬこの二週間
瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来たが
さああしたからわたくしは
あの古い麦わらの帽子をかぶり
黄いろな木綿の寛衣をつけて
南は二子の沖積地から
飯豊 太田 湯口 宮の目
湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
ぬるんでコロイダルな稲田の水に手をあらひしかもつめたい秋の分子をふくんだ風に
稲葉といっしょに夕方の汗を吹かせながら
みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
1928年6月7日から6月23日まで、伊豆大島および東京方面の旅行に出ていた賢治が、夜行列車で花巻に帰ってきた時の作品です。
「澱った光の澱の底」に象徴される都会の空気と対照的な澄んだ花巻を、シトリン(黄水晶)の空気、浅黄色の山、と青い稲田、で表します。
さらに黄色―電灯の光に群れる雀の豊饒さ、麦秋の田園が加わります。
「虹彩」とは普通は、眼球の角膜と水晶体の間にある輪状の薄い膜で眼球の色の原因となるものですが、賢治は、
太陽、月の近くを通りかかった
雲が太陽のスペクトルや月光に彩られる現象、彩雲(iridescent clouds)(注7)の意味で使っています。 全詩のなかで「虹彩」は、
あらゆる変幻の色彩を示し ……もうおそい ほめるひまなどない 虹彩はあはく変化はゆるやか いまは一むらの軽い湯気(ゆげ)になり 零下二千度の真空溶媒(しんくうようばい)のなかに(「真空溶媒」 『春と修羅』))
二きれひかる介のかけら 雲はみだれ 月は黄金の虹彩をはなつ(「牛」 「春と修羅第二集」下書稿一など)
の二例がありますが、「彩雲」という言葉は使われていません。「虹彩」という言葉を医学書か何かで知った賢治が、雲の色に転用してしまったのかも知れません。或は、当時は医学上の言葉としての使用がなかったのでしょうか。
二子は現北上市二子町、飯豊 、太田 、湯口 宮の目、湯本、好地 、八幡 、矢沢もいずれも花巻周辺に拡がる田園地帯です。「物見崎」のある二子地区も出てきます。
この地名を記すことで、農村のために働く志を示しています。これらの地名は、「三三一 凍雨」(「春と修羅 第二集」)でも、「北は鍋倉 円満寺/南は太田 飯豊 笹間/小さな百の組合を/凍ってめぐる白の天涯」と、町なかの高台にある農学校から、はるかにこれらの集落を見渡すように記されます。
「ぬるんでコロイダルな稲田の水」にふれると同時に、「つめたい秋の分子をふくんだ風」にも、これからの季節の予感、と不安も感じ、気候に左右されながら生きる生物、そして農業も暗示しています。
この詩には樹木は登場しませんが、田園の豊かな色彩と自然を暗示するものとしての風が重要な意味を持っています。
この後、まもなく結核に倒れ、1931人年に小康を得るまで、病床につくことになり、農民と共に生きようと始めた羅須地人協会も挫折してしまいます。
華麗樹種品評会 一九二七、九、
十里にわたるこの沿線の立派な華麗樹品評会である
けだしこの緑いろなる車室のなかは
殆んど秋の空気ばかりで
わたくしは声をあげてうたふこともできれば
ねころぶことも通路を行ったり来たりもできる
そらはいちめん
層巻雲のひかるカーテン
じつに壮麗な梢の列
また青々と華奢な梢が
つぎつぎ出没するのである
青すぎ青すぎ
クリプトメリアギガンテア
はんのきはんのき
アルヌスランダアギガンテア
楢はまさしく
・・・で
である
つぎがまもなく停車場ならば
これが最后の惑んで青いうろこ松
幹もいっぱい青い鱗で覆はれてゐる
またあたらしく帝王杉があらはれて
風がたちまち鷹を一ぴきこしらえあげる
「十里にわたるこの沿線の立派な華麗樹品評会である」には、次々に登場する沿線の樹木に心を躍らせる賢治の姿があります。
「みどりいろなる車室」、「そらはいちめん巻層雲の光るカーテン」、まるで林の中にいる錯覚に陥っています。
スギ、ハンノキ、ナラ、……森を樹種で捉えるのは、高等農林の知識に加えて、装景―風景の設計、花壇の設計に心を費やした日々があったからでないでしょうでか。
ウロコマツ、テイオウスギは標準和名ではありませんが木の様子をよく表すネーミングだと思います。或はそこにあった樹木の通称かも知れません。
タカは上昇気流に乗って舞い上がります。風に乗って舞うタカは、まるで風が作り出したもののようです。風という眼に見ないものを車窓から感じ取って一つの風景として捉え、見事な表現だと思います。賢治にとっての風は自然を司る大きな要素としていつも心にあったのでしょう。
青すぎ青すぎ
クリプトメリアギガンテア
はんのきはんのき
アルヌスランダアギガンテア
クリプトメリアはスギの学名Cryptomeria japonica、アルヌスはハンノキの学名Alnus japonica、ギガンテアはラテン語giganteaで巨大なという意味です。このように賢治が造語のように学名を用いるのは、何か意味があったのでしょうか。
同じような用法は、すでに「岩手軽便鉄道の一月」にも用いられています。
四〇三 岩手軽便鉄道の一月 一九二六、一、一七、
ぴかぴかぴかぴか田圃の雪がひかってくる
河岸の樹がみなまっ白に凍ってゐる
うしろは河がうららかな火や氷を載せて
ぼんやり南へすべってゐる
よう くるみの木 ジュグランダー
鏡を吊し よう かはやなぎ サリックスランダー 鏡を吊し
はんのき アルヌスランダー 鏡鏡鏡鏡をつるし
からまつ ラリクスランダー 鏡をつるし
グランド電柱 フサランダー 鏡をつるし
さはぐるみ ジュグランダー 鏡を吊し
桑の木 モルスランダー 鏡を……
ははは 汽車(こっち)がたうたうなゝめに列をよこぎったので
桑の氷華はふさふさ風にひかって落ちる
背景は同じで、釜石線の列車の中から窓外を見ていますが1月の風景です。「氷華」と表現されるのは、空気中の水蒸気が昇華して樹枝に付着した状態(霧氷)の一種、過冷却な雲粒が付着して凍結した樹氷の中の、大気中の水蒸気が樹木や植物の表面に直接昇華する樹霜で、「鏡を吊し」は、樹霜で白く凍りついた樹木に太陽光を反射してまぶしくきらきら光っている状態と思われます。この日1926年1月17日)の気象は、盛岡で最高気温1.4度 最低−11.3度 平均−3.8度で、夜遅くに雪が降りますが、多分夕方までは晴れていました。
樹木の名前が並べられているのは、それぞれの樹木が個性を持って現れてくるからでしょうか。或は、この頃からすでに、賢治には自然の配置が「装景」として移っていたのではないでしょうか。
「はんのき」の「鏡」だけが、1行に2列2個重ねた造字を使っています。それはハンノキは厳冬期からすでに雄花(花穂、雄花序)が見られ、加えて昨年の球果も残っていて、必然的に樹霜がたくさんつき反射度合いが高いからではないかと言われます(注8)。
樹木の名前に学名が併記されます。
ジュグランダー (オニグルミJuglans mandshurica var. sachalinensis)
サリックスランダー (ヤナギ類の一種Salix sp)
アルヌスランダー (ハンノキ
Alnus japonica)
ラリックスランダー (カラマツLarix kaempferi)
ジュグランダー (サワグルミ 現学名はPterocarya rhoifoliaだが、上記オニグルミ同様クルミ科Juglandaceaeに所属)
モルスランダー (ヤマグワ Morus bombycis)
「ランダー」の意味は、ドイツ語で土(Land)の複数形Lȁnderとも思われます。土に根付くもの、という意味を込めたのでしょうか。
「フサ」については諸説あるようですが、伊藤氏(注9)によればドイツ語の脚、足、台脚などを示す「
Fußフス」の複数形「Fűßeフサ」ではないかとしています。
〔北上川は熒気を流しィ〕(「春と修羅第二集」)にも学名が登場します。
(まあ大きなバッタカップ!) (ねえあれつきみさうだねえ)
(はははは) (学名は何ていふのよ)
(学名なんかうるさいだらう)
(だって普通のことばでは属やなにかも知れないわ)
(
エノテララマーキアナ何とかっていふんだ)
(ではラマークの発見だわね) (発見にしちゃなりがすこうし大きいぞ)
兄と妹の会話を彷彿とさせるこの詩は、何度も推敲を繰返し、昭和8年7月、「花鳥図譜、七月、」として『女性岩手』に発表されました。
ここで登場する花はオオマツヨイグサ、「エノテララマーキアナ」はオオマツヨイグサの学名「Oenothera
lamarckiana」です。Lamarckianaはジャン=バテイスト・ラマルク(1744〜1829)の命名であることを示します。ラマルクは初期の進化論の提唱者で、1809年『動物哲学』で用不用説――環境に応じてよく使用する器官は代を重ねるにつれて発達し、使用しなくなった器官は次第に縮小・退化し、一生の間に得た形質(獲得形質)は子孫に伝えられ、代を重ねるにつれて生物が変っていく――、つまり生物側に変化の主体性がある、――と説きました。
自然選択による進化理論を提唱したチャールズ・ダーウイン『種の起源』が出るのは少し後の1859年のことです。
学名を訊いて属性を知ろうとする妹とその聡明さに喜びながら知識を披露する兄の、至福の時を描くのに、学名はとても効果的な言葉であると思います。
さらに、学名は世界共通の表記法です。世界中の人が誰でも同じ立場に立ち、思いを述べ合ったり理解し合うことができること、賢治はこれを強く願っていたのではないか、賢治がエスペラント語にも強い関心を持ち、エスペラントの影響の感じられる造語を多用しているのもそれに通じるものではないかといわれます(注10)。
当時の釜石線は、この詩の順序の通り、小舟渡付近で、電信柱の列と交叉するところがあります。小舟渡付近で電線の下をくぐってから、瀬川鉄橋を渡り、鳥谷ヶ崎駅に向かい、瀬川鉄橋の下には桑畑が拡がっています。このことから、賢治は釜石発花巻行き電車に乗っていてイギリス海岸付近で読まれたものと思われます。
また藤原嘉藤治「わが年譜」によると
、同年1月30日に
花巻高女の氷上運動会が小山田駅そばの三郎堤で開催されることになり、17日は日曜日だったのでその下調べに、花巻高女の教諭で賢治の友人の嘉藤治は賢治を誘って多田という人と3人で出かけたということです(注11)。1月28日付『岩手日報』には、賢治たち「有志により創設された花巻スケート協会では第一回滑走試演を稗貫矢澤村三郎堤に開催し大いに気勢をあげた…」とあるのも、この日ことで、この時の楽しさが、作品の煌めくような言葉に反映しているのかも知れません。
同じように釜石線の列車の車窓からの景色を読んでいる作品があります。
冬と銀河ステーシヨン
そらにはちりのやうに小鳥がとび
かげらふや青いギリシヤ文字は
せはしく野はらの雪に燃えます
パツセン大街道のひのきからは
凍つたしづくが燦々(さんさん)と降り
銀河ステーシヨンの遠方シグナルも
けさはまつ赤(か)に澱んでゐます
川はどんどん氷(ザエ)を流してゐるのに
みんなは生(なま)ゴムの長靴をはき
狐や犬の毛皮を着て
陶器の露店をひやかしたり
ぶらさがつた章魚(たこ)を品さだめしたりする
あのにぎやかな土沢の冬の市日(いちび)です (はんの木とまばゆい雲のアルコホル あすこにやどりぎの黄金のゴールが
さめざめとしてひかつてもいい)
あゝ
Josef Pasternack の指揮する
この冬の銀河軽便鉄道は
幾重のあえかな氷をくぐり
(でんしんばしらの
赤い碍子と松の森)
にせものの金のメタルをぶらさげて
茶いろの瞳をりんと張り
つめたく青らむ天椀の下
うららかな雪の台地を急ぐもの
(窓のガラスの氷の羊歯は
だんだん白い湯気にかはる)
パツセン大街道のひのきから
しづくは燃えていちめんに降り
はねあがる青い枝や
紅玉やトパースまたいろいろのスペクトルや
もうまるで市場のやうな盛んな取引です (『春と修羅』)
「あのにぎやかな土沢の冬の市日(いちび)」は、土沢駅の少し北を通り、花巻から遠野などを経て、釜石までを結ぶ「釜石街道」の一部、土沢のメーンストリートでの市で、現在も毎月、第一、第三日曜日に市が立ちます。この街道を賢治は、「パッセン大街道」と名づけました。「パッセン」は、ドイツ語で「道」を意味するpaß(パス)の対格passen(パッセン)からの命名だと思われます。「蛙のゴム靴」でも「ありがとう。どうもひどい雨だ。パッセン大街道も今日はしんとしてるよ。」と街道の名前に使われていて、賢治が気に入っていたと思われます。
「もうまるで市場のやうな盛んな取引です」という風景の中で
、駅は「銀河ステーション」、列車は「銀河軽便鉄道」になります。樹木は、ヒノキ、ハンノキ、ヤドリギだけですが、市に負けないくらいきらびやかな沿線の風景を詠っています。
青いギリシャ文字の鳥、真っ赤なシグナル、流氷のかがやき、輝くハンノキ、ヤドリギの黄金、赤い碍子と松の森、羊歯の模様の窓ガラスの氷、凍ったヒノキから落ちる雫と青い枝、雪や氷に反射する紅玉色やトパーズ色のスペクトルなど煌めく色彩で満ちて、それぞれの樹木が皆周辺の自然と関係を持ち、風景を作っています。
Josef Pasternack(ジョゼフ パスターナック 1881〜1940)は、 ポーランド系アメリカ人で、アメリカに渡り、幾つかの交響楽団を経て1916ビクター会社の音楽指揮者となりました。当時のカタログなどで「ビクターコンサート管弦楽団」とあって指揮者名のないものはパスターナックかR.ブル度の指揮したものと言われます(注12)。
賢治は昭和2年秋羅須地人協会活動の一環として中古レコードの交換会を企画しました。その時の交換用紙が残っていて、パスターナック指揮のレコード2種が記録されています。
ビクター黒 ベートーベン第五交響曲 交響楽 ヂョセフ
パスターナック/ ビクターシムフォニーオーケストラ12吋 10吋 4枚
ビクター黒 ワグナータンホイゼル序曲 パスターナック/ ビクターオーケストラ 12吋 2枚
列車は「銀河鉄道」、オーケストラの指揮者のタクトに従うかのごとく、リズミカルに軽やかに走っています。下書稿には一九二三、一二、一〇の記載があります。この日付のころ、教科書売り込みで訪問した近森善一と、童話集出版の話が出て序文を書き始めています。この未来に向けての新しい試みが心を高ぶらせていたのかも知れません。
詩集『春と修羅』の最後を飾る詩、対をなすように第二集の最終に置かれた「岩手軽便鉄道の一月」、そして、時を経て1927年に「装景手記」の章にも描かれる、軽便鉄道は賢治にとって何だったのでしょう。
賢治が鉄道マニアだったことはよく知られていることですが、そのことよりも、鉄道は当時の最も早く最も遠くまで移動でき、未知の世界を知るための唯一の方法だったのではないでしょうか。新しい世界への旅に賢治はどんなに心を踊らせていたか、またその時々に繰返される沿線の風景はその都度新しい事実を認識させてくれたのだと思います。
「冬と銀河ステーション」では、市の賑わいで人々の暮らし向きを喜び、それに呼応する樹木
と自然とで作る光の世界を描きます。
「岩手軽便鉄道の一月」では白一色の風景の中、行き過ぎる樹木の樹霜を一つ一つ確かめるようにその輝きを描き、万国共通の学名を読み込むことで世界との繋がりを確信します。
「装景手記」においては、沿線の樹木の姿から自然の造形を感じ取り、そこに如来の意思と農業の未来を一体化した「装景」として描き、装景家としての意気込みを語ります。
「装景」関することでは、1926(大正15)年、1月〜3月にかけて花巻農学校に開校された「岩手国民高等学校」のために書かれたと推定される「農民芸術概論綱要」のなかの「農民芸術の分野」で、「光象生産
準志に合し
園芸営林土地設計を生む」と宣言しています。
「
光象」は光輝くもの、光環、幻日などの意(注13)、
「準志」は目的、用の意味があります(注14)
「光象」を太陽など自然の光の恵みとすれば、それに加えて生産の目的を持って実行されるのが、園芸営林土地設計―「装景」ということでしょうか。
沿線の風景のなかにその理想を夢見ての歓喜が溢れています。賢治の思いは、その後の病によって頓挫しますが、その後の作品の推敲や童話の制作が、それを繋いで行くのでしょうか。また続けて追っていきたいと思います。
注1堀尾青史『年譜宮澤賢治伝』 1966 図書新聞社
2「宮沢賢治の読んだ本―所蔵図書目録補訂」『日本文学研究資料新集
26宮沢賢治 童話の宇宙』有精堂出版1990(初出『銅鑼』
第40号 )
(賢治の死後病床周辺にあった書籍を弟静六氏が整理、飛田三郎氏が筆写
後 小倉豊文氏が筆写した「宮澤賢治所蔵図書目録」をさらに奥田広氏が
補訂したもの。)
3伊藤光弥『森からの手紙 宮沢賢治 地図の旅』 洋々社 2004
4伊藤前掲書
5伊藤前掲書
6中西載慶「根粒菌は凄い」東京農業大学webジャーナル0808
7斎藤文一『空の色と光の図鑑』草思社1995
8高松健比古「岩手軽便鉄道の一月」の樹木と気象について」
(栃木・宮沢賢治の会通信「ぎんどろ」263号2020、1
9伊藤前掲書
10高松健比古「【学名=世界共通語】と賢治の思い」
(栃木宮沢賢治の会通信264号 2020、2)
11佐藤泰平編・著『セロを弾く 賢治と嘉藤治』 洋々社
12佐藤前掲書
13『日本国語大辞典第二版』 小学館
用例には、道元『正法眼蔵』「陰精陽精の
光象するところ」も引用されています。
14森鴎外「審美綱領」(明治38年)「四 所動合志美」の章(『鴎外全集第21巻』岩波書店1973 243ページ ) に「準志(目的、用 Purpose)」の記述があります。
(「審美綱領」の凡例には、E.Hartmann『美の哲学』大綱を編述す」とあります。)
参考文献
森本智子「宮沢賢治と装景 「虔十公園林」を中心に」
『宮沢賢治研究Annual vol.8 』1998
鈴木誠「宮澤賢治の捉えた「造園家」と「装景家」」
『ランドスケープ研究60−5』日本造園学会 1960
小暮宣雄HP「こぐれ日常」2011、2