種山ヶ原(たねやまがはら)は、
奥州市、
気仙郡住田町、
遠野市にまたがる物見山(種山)を頂点とした標高600-870メートルに位置した
高原地帯です。
北上高地の南西部の東西11キロメートル、南北20キロメートルに及ぶ平原状の山で、物見山・大森山・立石などを総称して別名「種山高原」とも呼ばれています。宮沢賢治は、大正6年盛岡高等農林学校時代、地質調査のため初めて訪れて以来、何度となく歩き、童話「
風の又三郎」や戯曲「種山ヶ原の夜」、その他多くの詩や短歌を残しています。
〔朝日が青く〕(第二集補遺)
朝日が青く
ひかりはひどい銅なので
この尾根みちの樹の影は
みんな右手の谷の霧
寒天質なよどみのなかに
おぼろに黒く射込まれる
……その灰いろの霧の底で
鳥がたくさんないてゐる……
まっ赤なあざみの花がある
樹をもるわづかなひかりに咲いて
巨きなカカリヤの花とも見えるそんなに赤いあざみの花
……この尾根みちにのぼってから
まだ十分にもならないのに
靴もづぼんも露でいっぱい
流れを渉ったやうになった……
軍馬補充部の六原支部が来年度から廃止になれば
〔約三字空白〕産馬組合が
払ひ下げるか借りるかして
それを継承するのだけれども
組合長の高清は
きれいに分けた白髪を
片手でそっとなでながら
ひとつ無償でねがひたい
われわれ産馬家といふものは
政策上から奨励されて
間にも合はないこの事業を
三十年もやってきた
さうしてそれをやったものは
みんな貧乏してゐると
さういふことを陳情する
……また山鳥のプロペラー……
もういまごろはちゃんと起きて
こっちが面白はんぶんに
山を調べに出ることを
手にとるやうに見すかしながら
何十年の借金で
根こそげすっかり洗ひつくし
教会のホールのやうになった
がらんと巨きな室のなかで
しづかにお茶をのんでゐる
……谷にゐるのは山鳥でない
かなり大きな鳥だけれども
行ったりきたりしてゐるところ
それが到底山鳥でない……
はげしい栗の花のにほひ
送って来たのは西の風だ
谷の霧からまっ青なそらへ
岬のやうに泛んでゐる
向ふの尾根のところどころ
月光いろの梢がそれだ
そのいちいちの粟のやうな花から風にとかされ無数の紐や波になって
ここらの尾根を通るのだらう
……この谷そこの霧のなかに
三軒かある小さな部落……
東は青い山地の縞が
しづかに風を醸造する
「種山ヶ原」を詠んだ作品には、風が詠みこまれていることが多いのですが、この詩には風の表現が3カ所あり、また大変感覚的なので取り上げてみました。
背景は種山ヶ原ですが、発想日付がありません。『新校本宮沢賢治全集第三巻 校異篇』によると〔朝日が青く〕は次のような推敲課程をへて成立しています。
「三六八 種山ヶ原 一九二五、七、一九、」(「春と修羅第二集」)の下書稿(一)はパート一から四までおおよそ170行に及ぶ長詩です。それぞれのパートがそれぞれの内容を中心にした独立して詩篇となります。推敲課程は次の通りです。
パート一→「種山ヶ原」定稿→改作
「朝日が青く」(
春と修羅第二集補遺)
パート二→パート三→「〔行きすぎる雲の影から〕」
(春と修羅第二集補遺)パート三→パート二→「若き耕地技手のIrisに対するレシタティヴ」(春と修羅第二集補遺)
パート四→「種山ヶ原三」→〔おれは今まで〕(春と修羅第二集補遺)
関連作品〔高原の空線もなだらに暗く〕 (口語詩稿)
「種山ヶ原定稿」はパート一から成立して、それを改作したものが〔朝日が青く〕
(第二集補遺)です。
ここで一つの疑問は、詩中の「
軍馬補充部の六原支部が/来年度から廃止になれば」です。
「陸軍軍馬補充部」は、陸軍の外局の一つで軍馬の供給、育成および購買、軍馬資源の調査を管掌しました。岩手県水沢地方は1872(明治5)年から軍馬を供給したとの記録があり、1898(明治31)年に胆沢郡相去村(現金ケ崎町六原)に軍馬補充部六原支部が設置されました。日露戦争大勝により盛んとなりました。その後、軍備縮小の時代となり、1924年ころから廃止の噂が流れましたが、結局1925(大正14)10月で廃止になったということで、「種山ヶ原」発想の3ヶ月後には廃止になったことになります。
1925年7月19日の発想段階で、賢治が来年度の廃止かと思っていたのかも知れませんが、一瞬この詩句はどうしても1924年のものに感じられてしまいます。賢治はこのころ花巻農学校の教師で、少し季節は違いますが、1924年4月29日、生徒を引率して軍馬補充部六原支部方面に遠足に行ったと言われています。(注1)
一つの仮定は、賢治が、種山の産馬組合の事情を書き込むために、パート一から〔朝日が青く〕を独立させたとき、1924年に訪れた六原支部に関することを書き込んだとも推定されます。そこから〔高原の空線もなだらに暗く〕(口語詩稿)に発展した、ということでしょうか。(注2)
軍馬補充部六原支部の統括下には種山出張所があり、種山の放牧場―藤沢放牧地、上野放牧地、高坪放牧地、大文字放牧地、姥石放牧地、菜種沢放牧地、小牧沢放牧地、鷹巣放牧地の各放牧地(名称は大正2年陸地測量地図5万分の1による)はその管轄下にありました。物見山を頂点として、周辺の放牧地が全て含まれ、賢治の詩に登場する種山ヶ原はほとんどが入っていました。賢治にとって風景と同様に、そこに生活する馬産農家の生活も身近なものだったと思います。
「高清」は多くの詩に登場します。実在の人というよりも、複数のモデルから虚構化された農村の指導的立場にある人物であろうといわれています(注3)。
関連詩
〔高原の空線もなだらに暗く〕 (口語詩稿)にも「高清」が登場します。この詩では高原の夕景のなかに、馬の動きや世話をする人びとを中心に描き、「高清」については、〈……そこに四疋の二才駒 /あの高清の命の綱も /首を垂れたり尾をふったり /やっぱりじっと立ってゐる /蛾はほのじろく艸をとび /あちこちこわれた鉄索のやぐらや /谷いっぱいの青いけむり/この県道のたそがれに / あゝ心象の高清は /しづかな磁製の感じにかはる〉で終わっています。古くからの家業を守りながら、時代の波の中で没落せざるを得ず、でも誇りを保って静かに対峙している像を「しづかな磁製の感じ」に象徴させています。
もう一つ、文語詩「開墾地落上」(文語詩稿一百篇)では、下書稿にある「村会議員」「高清」から見て、乾杯の音頭を取るような有力者となっています。
1925年7月19日の種山ヶ原行きのコースは、同日日付「鉱泉とネクタイ」では夜明け前の星空が描かれていることから、前夜、岩手軽便鉄道の宇洞(現鱒沢)駅で降り、小友(現遠野市小友)を経て長野(小友長野地区)あたりで野宿したと推定されます。同じ日付で岩手軽便鉄道の最終列車に乗車した記述がある「
岩手軽便鉄道七月(ジャズ)」があり、その日の最終便で花巻に戻ったと推定されます。
「種山ヶ原」パート三の発展形、「若き耕地課技手のIrisに対するレシタティヴ」から推定すると、この日の目的は測量班と共に、測量の手伝いだったようです。
種山ヶ原の状景を感じながら詩を追ってみます。
谷は深い霧に包まれ、朝日は青く煙っているのでしょう。樹木の影も鳥の声も皆霧の底に沈んでいます。「種山ヶ原」定稿に描かれる紫のアイリスは描かれず、「巨きなカカリヤの花とも見える」と形容されるほど赤い薊の花が描かれます。
カカリアはキク科エミリア属の熱帯アジア原産の園芸種で、赤、オレンジ、黄色などがあり、どちらかというとオレンジがかった赤です。書簡228昭和2年4月9日冨手一宛の、「花巻温泉南斜花壇所要種苗表」にも記載があります。
下書稿一には「
センターレア モシャタとも/見え/あるひはバーバンク氏の高弟によって/新につくられた大きなカカリア」という記述も見られます。「バーバンク氏」はアメリカの園芸家ルーサー・バーバンク(1849〜1926)で、大正4年8月14日書簡9高橋秀松宛には、自分のことをバアバンクス ブラザアと称する位親近感を持っていたようです。なおセンターレア モシャタは宿根矢車菊です。
「種山ヶ原」パート一下書稿には「あざみの花はここではみんな桃いろだ/花青系(アントケアン)は一つの立派な指示薬だから/その赤いのは細胞液の酸性により」とあり、土性に関心を持ち熟知していた賢治が、土性が酸性であることを感じ取っていたことがわかります。
その後、軍馬補充部六原支部の廃止のことが物語られます。軍の奨励による軍馬の供給は農家にとって実りはなく、借金を重ねて家の中には家財道具などがなくなっています。だから廃止になったら放牧場などを無償で払い下げてほしいという陳情を考えている、冷静に幾分したたかに事態を見つめている組合長、高清を、「静かにお茶をのんでいる」という言葉に象徴させます。
霧に煙っている谷には、ヤマドリ似た鳥がプロペラのように羽音を響かせていますが、なぜかここで、こだわってヤマドリを否定しています。
強烈な栗の花の匂いが風に運ばれてきました。「谷の霧からまっ青なそらへ/岬のやうに泛んでゐる/広い高原の遙か向こうの尾根の辺り」には、栗の群落が月光色の花を付けているのが見えます。
栗のにおいを、「そのいちいちの粟のやうな花から/風にとかされ無数の紐や波になって/ここらの尾根を通るのだらう」と、まず香りを感じ、それを発する小さな花を感じ、さらに一つ一つ花から発する香りを感じ取り、さらに一つ一つを運ぶ風を「無数の紐や波」と表現します。香り―栗の花―風の連想の中で、香りは風に乗って、「紐」という形あるものとして捉えられているのです。賢治は共感覚者で多くの共感覚表現が見られ、鳥の声の流れ(音)を「紐」(形)と表現しています(注4)。
栗の花を「粟(あわ)のやうな」と一つ一つ捉え、また「かげらふ」を「いくすじもの紐」と表すのは、〔朝日が青く〕定稿のみです。
視線は東の方角の山に向けられます。東にははるかかなたの山が見え青くきれいな縞模様はこちらの霧とは別世界でそこで「風は醸造され」て、またこちらに戻ってくるのかもと思います。
この東の山地に目を向けるのは、
〔朝日が青く〕のみで「種山ヶ原」下書稿一にも定稿にもありません。さらに「風を醸造する」と風の表現になるのは〔朝日が青く〕定稿で初めてです。風が吹き去るだけでなく、新しく生まれ、循環していくことを、はっきりと言いたかったのかも知れません。栗の花の香りのない、そのままの風が生まれてくることを願っているのかも知れません。
「この谷の霧のなかに三件かある小さな部落」、これは種山ヶ原に馬を放牧している農家でしょうか。かつて訪れた立石で、切り立った崖のはるか下で、そのような集落を発見したことがあります。「風の又三郎」で、馬を放牧している家族が住んでいたような……。切り立った崖は、少年が遭難しかけた場所なのか、地理感覚も現地踏査も少ない私には確信が持てず自分だけの思いとなっていましたが、私の想像を裏付けする記述を伊藤光弥氏の著作(注5)に見つけました。以下に記します。
種山西麓、江刺側には「荒廃裸地」が多く、上閉伊郡の上野放牧地まで馬を預けなければならなかったと推定されます。大正2年陸地測量地図によると物見山から西の立石に至る郡境の稜線沿いには数カ所の散岩の記号があります。江刺郡地質調査に参加した賢治が江刺郡井手村から出した、書簡39大正6年9月2日保阪嘉内宛ハガキには丸坊主の山と数本の赤松、「かなしめるうま」という注釈の付いた馬の絵が描かれ、まさに「荒廃裸地」の姿です。
上の原(上野放牧地
大正2年陸地測量地図による名称)に行って迷った嘉助は、底なしの谷や野馬、物見岩をみたりする可能性があります。嘉助の家は山本(奥州市江刺米里山本)にあったと仮定すれば、盛街道から井手にも出られ、谷二つ越えて木細工小学校にも通えたことになります。
〔朝日が青く〕を発想したとき、「種山ヶ原」の自然の中で、繰り広げられる、馬産農家のことがよぎったのでしょうか。
種山の酸性土壌のこと、荒廃裸地のこと、そこに生きる馬たち、人びと、取り巻く風……。その状景を振り返ったとき、一層の愛着を込めて丁寧に風を描き直したのかも知れません。
私は垣間見たに過ぎませんが、種山ヶ原には、自然そのものの美しさと風があります。賢治が描きだす風景を、これからも少しずつ綴っていきたいと思います。
注1「196陸軍軍馬補充部六原支部」
brog goone.jpsuzukikeimori「宮沢賢治の里より」2009年9月
2杉浦静「心象スケッチ「種山ヶ原」(一九二五、七、一九)から(〈高清〉連作へ―軍馬補充部六原支部廃止の余波――(『国語と国文学』令和2年5月特集号第九巻十七号 1158号 2020年5月 東京大学国語国文学会)において、この点について詳細があり、「軍馬補充部六原支部廃止の報道から、心象スケッチ「種山ヶ原」および高清連作は始動したといってもよい」とある。
3信時哲郎『宮沢賢治「
文語詩稿一百篇」評釈』 和泉書院 2019
4「春谷暁臥」(春と修羅第二集)
「……
羯阿迦(ぎゃあぎあ)居る居る鳥が立派に居るぞ/羯阿迦(ぎゃあぎあ)まさにゆふべとちがった鳥だ/羯阿迦(ぎゃあぎあ)鳥とは青い紐である……」
5伊藤光弥『森からの手紙』 洋々社 2004
テキストは『新校本宮沢賢治全集第三巻』に拠る。