「楢ノ木大学士の野宿」は、宝石商から極く上等の蛋白石(オパール)を見つけてくるよう依頼された地質学士の「楢ノ木大学士」が、葛丸川周辺とみられる山に分け行って、様々の地学的体験をする様が描かれ、大正12年ころの作と推定されます。
賢治は大正7年(1918)3月15日、盛岡高等農林学校卒業と同時に盛岡高等農林学校盛教第八号により「地質土壌、肥料」研究のための研究生として在学することが許可され、地質調査を行っています。
年譜(注1)によると、この年の地質調査は次のように行われました。
4月10日から稗貫郡年調査決まる。
4月15日から20日:花巻近郊調査、豊沢、鉛温泉、台温泉 (書簡53父宛、1918年4月)
5月1日から5月3日:石鳥谷、葛丸川沿いに割沢、割沢より石鳥谷(書簡60父宛、1918年5月2日)
7月21日〜25日:豊沢川、葛丸川、岳川、稗貫川林業調査
9月21日〜26日:稗貫郡東北部土性調査
この間、6月に肋膜炎と診断されて山行きは中止するように薦められ、申し出により8月に実験指導補助の職を解かれますが、保阪嘉内宛書簡83(1918年7月25日)では、予定された地質調査だけはするという意志が述べられています。
またこの時期、家業の質・古物商を継ぐことを嫌い、将来的な仕事として、地学に関する仕事―セメントの原料を掘り当てて売る、県内産の土石、ウラニウム、チタニウムの生成、香水、油類の抽出など―をあげています。(書簡72父宛 1918年6月)また人造宝石への関心を持っていました(書簡131父宛 1919年1月)。このような賢治の思いも、作品の根底にあるものと思います。
この作品の舞台は5月の地質調査地です。
歌稿B668(大正七年五月より)「葛丸/ほしぞらは/しづにめぐるを/わがこゝろ/あやしきものにかこまれてたつ」は、この時の心情を詠みこんでいます。
野宿第一夜、「ラクシャン四人兄弟」と名づけられた周辺の岩頸が、地球の創成という大きな規模で話し合っている場面に出会います。
岩頸は
火山体の
大部分が
浸食されたあとに、
火道を
埋めていた
溶岩や
火砕岩が
浸食から
取り残されて塔状に
突出した
地形を言います。この場所について、細田嘉吉氏の論考(注2)がありますので、簡単に援用させていただきます。
早川典久『岩石鉱物鉱床学会誌』(日本岩石鉱物鉱床学会 1952)からの引用として、「第四紀の始めころ、第三紀の地層を突き破って現在の北の股沢と西の股沢の合流点付近に火口を持つ葛丸元山 (仮称) ができ、その後葛丸元山が陥没して葛丸カルデラをつくった。その時の外輪山は噴火と崩落を繰り返して、現在の青ノ木、高狸、無名峰、塚瀬、権現、諸倉など、葛丸諸山を形成した。」とあり、賢治の没後30年近い著作ですが、賢治はこの作品制作時に既にここの事実を看破していたのではないか、と思われます。
第一子は青ノ木森、第二子は高狸山、第三子は無名峰、第四子は横瀬森、4兄弟が「生まれるときになくなられた」父親は葛丸元山、となります。
さらに第四子が想いを寄せる「ヒームカさん」は東方にあって「カンランガン」(橄欖岩)が水と作用して蛇紋岩になった日向居木山(ヒナタオリギ山)、「ヒームカさんのおっかさん」は蛇紋岩の早池峰山としています。
擬人化された四人兄弟の岩頸―怒りっぽく未だに噴火を目論む第一子、睡っている第二子、優しい第三子、遙かに見える山ヒームカに憧れている第四子―話しています。楢ノ木大学士が聞いているのを前提で話していると言う設定もユーモアが感じられます。
自分たちが地殻の底で岩漿や蒸気の力で瞬間に地上へ飛び出して誕生することや、九つの氷河を持っていた四人の父や、自分たちを削っていく水や空気のことを語ります。語りながら、怒りっぽかった第一子も穏やかな気分になっていき、自分たちを削って行く空気や水のことを語りながら「きらきら光って」笑うのが印象的です。突然起こる野火、岩頸たちは色めき立ちますが、最後には飛んでいた鷹の子供の心配するまでに穏やかな気持ちになっています。
ここには風の言葉は三例あります。
鷹によく似た白い鳥が、鋭く風を切って翔けた
楢ノ木大学士が見た地上の風景です。鷹の飛翔の鋭さを「風を切る」ことで描きます。
「ヒームカさんのおっかさんへは
白いこぶしの花をあげたんだよ。そしたら西風がね、だまって持って行って呉れたよ。」
おとなしい第四子が敬愛する山への花のプレゼントについての表現です。あげたものは、一枝のコブシなのか、花の香りか、それとも白い花の輝きなのか、はっきりしませんが、風が運ぶのは、きっと「白いこぶしの花」すべてなのでなはいかと思わせます。
今こそ地殻ののろのろのぼりや風や空気のおかげで、おれたちと肩をならべているが、元来おれたちとはまるで生れ付きがちがうんだ」
これは、噴火の後、地上で岩頸に変化をもたらす風、「風化」を意味するものです。
……地殻の底の底で、とけてとけて、まるでへたへたになった岩漿や、上から押しつけられた古綿のやうにちぢまった蒸気やらを取って来て、いざといふ瞬間には大きな黒い山の塊を、まるで粉々に引き裂いて飛び出す。/煙と火とを固めて空に投げつける。石と石をぶっつけ合わせていなづまを起こす。百万の雷を集めて、地面をぐらぐら云はせてやる。……
風という言葉は使われませんが、地底から溶岩を噴き上げる噴火のエネルギーにも風を感じてしまいます。眼に見ぬところで強烈に吹き上げるもの、それも風です。
第二夜では石切場で野宿した大学士に、周囲の石たちの話が聞こえてきます。ホンブレンさん―ホルンブレンド(角閃石)、ジッコさん―磁鉄鉱、バイオタさん―バイオタイト(黒雲母)、オーソクレさん―オーソクレース(正長石)、プラヂョさん―プラヂオクレース(斜長石)と擬人化して描かれます。
ホンブレさんとバイオタさんが喧嘩、バイオタさんはジッコさんに仲裁を求めます。大学士は話の内容から石たちの種類を確定していきます。これらの話の内容には、晶出順序、結晶の形、風化の知識が正しく織り込まれているといいます(注3)。
石は次第に風化がもとになって最後には次第に声が聞こえなくなってしまいます。ここで描かれる風は「風化」の比喩です。
お前こそこの頃はすこしばかり風を呑んだせいか、まるで人が変ったように意地悪になったね。
その他風にあたれば病気のしょうけつを来します。
うむ、私も、うむ、風病のうち
けだし、風病にかかって土になることはけだしすべて吾人に免かれないことですから。けだし。
風の一つの作用として、風化を描いたのは、「風」というものの、多面性を捉えて、なおその上で崇敬の念をえがいたのです。
第三夜では、洞窟に野宿して洞窟人類になったつもりの大学士は、蛋白石のことを忘れこの旅の目的が恐竜の骨格を探すことだったと思い込んだ結果、白亜紀の恐竜、雷竜の足跡を発見、雷竜に遭遇して食べられそうになる夢を見ます。
賢治は、泥岩層が露出する北上川と猿ヶ石川の合流点から南の北上川西岸を、その白い泥岩層から、イギリスのドーバー海峡に面した白亜の海岸を連想し、イギリス海岸と名づけました。1923(大正12)年作と推定される、童話「イギリス海岸」は農学校の生徒との課外授業の様子を描いたものです。そこでは、そこでクルミの化石や偶蹄類の足跡の化石を見つけたことが記されています。
そして少し後、1925(大正14)年1月、三陸海岸への旅の際、羅賀(平井賀)の漁港で、露出する白亜紀の地層に直に触れ、船上から海岸線に連なる地層を眺め、白亜紀の地層に、雷竜の化石の存在を確信していたことが、その時の詩
「発動機船一」、「発動機船三」(「口語詩稿」)、「発動機船二」(「春と修羅第二集」補遺)に感じられます。
その後、1978(昭和53)年、その近くの岩泉町茂師の白亜紀宮古古層郡で日本初の恐竜化石が発見され、モシリュウと名づけられました。それは作品中に「雷竜」として登場させていた竜脚類でした。賢治は、発掘のはるか以前に、それを予想し物語を展開させたことになります。
また〔川しろじろとまじはりて〕(「文語詩稿五十篇」)下書稿、初期短篇「復活の前」などでは修羅意識の具体的イメージとして爬虫類を描きます。そして〔胸は今〕(「疾中」)では、そこからの救済も爬虫類が鳥へと進化することによってなされるという結論に達しています(注4)。
大学士は、上等の蛋白石を収集しないで帰り、宝石商とは喧嘩別れします。大地の声を聞くことで、大地の中に宝石ばかりを求める人間に疑問を持ったのです。
賢治はその思いも込めて、生成の物語を描いたのではないでしょうか。描かれる風や雲、野原、星も現時点だけでなく、その生成以来という進化論的発展の流れで捉え、作品のスケールを大きくしています。
さらにここでは岩頸も岩石も皆を命あるものとして描かれ、すべてのものに命を感じ取る賢治の本質(注5)が感じ取れます。書簡10(高橋秀松宛1915(大正7)年、8月29日 遠野ニテ)には
今朝から十二里歩きました 鉄道工事で新ら(ママ)しい岩石が沢山出てゐます 私が一つの岩片をカチツと割りますと初めこの連中が瓦斯だった時分に見た空間が紺碧に変つて光ってゐる事に愕いて叫ぶこともできずきらきらと輝いてゐる黒雲母を見ます 今夜はもう秋です スコウピオも北斗七星も願はしい静な脈を打ってゐます。
この年、岩手軽便鉄道、花巻―仙人峠間が開通しました。鉄道マニアだったと言われる賢治は、すぐに新しく開通した軽便鉄道に乗ったのでしょう。ここには黒雲母を発見した賢治の喜びと重ねるように、黒雲母が命あるもののように描かれ、さらに黒雲母の生成までの50億年の長い歴史までも一瞬にして感じ取っていたことがわかります。第一夜で、暴れん坊の岩頸の第一子が、風によって次第に土となっていく大地を知っても、怒ることなく「きらきらと笑って」いたこととも共通することと思います。
高橋秀松(注6)によると、盛岡高等農林学校入学当初から土曜日の午後から日曜日の夕方まで泊りがけで鉱物等の標本採集に出かけ、持ち物が五万分の一の地図、星座表、コンパス、手帳、懐中電灯、ハンマー、食料はビスケットをポケットに詰め込んでいたと言われ、大学士がビスケットを食べて夜を過ごしていたことを思い出しました。
「楢ノ木大学士の野宿」には、壮大な地球の歴史を描きながら、それを感じて生きていた賢治自身の時代をも描いていると思います。
そして風は、地上という平面と同時に、歴史という縦の世界にも吹いているのを感じることができます。
注1堀尾青史『宮沢賢治年譜』筑摩書房 1991
注2細田嘉吉「地学からみた「楢ノ木大学士の野宿」
(『宮沢賢治研究Annual vol.9』 宮沢賢治学会イーハトーブセン
ター 1999)
注3平澤信一「楢ノ木大学士の野宿」(『宮沢賢治大事典』
勉誠出版 2007)
注4大塚常樹「楢ノ木大学士の野宿」(『国文学 解釈と教材の研究』
48−3 學燈社 2003年2月)
注5「アニミズムの系譜」(浜垣誠司氏HP 2021年3月28日)
注6高橋秀松「賢さんの思い出(一)」
(川原仁左ヱ門『宮沢賢治とその周辺』1972)
参考:「白亜紀宮古層群」(化石・海底地層) たのはたジオワールドHP