「青い槍の葉 」(mental sketch modified)
(ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
雲は来るくる南の地平
そらのエレキを寄せてくる
鳥はなく啼く青木のほづえ
くもにやなぎのかくこどり
(ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
雲がちぎれて日ざしが降れば
黄金(キン)の幻燈 草(くさ)の青
気圏日本のひるまの底の
泥にならべるくさの列
(ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
雲はくるくる日は銀の盤
エレキづくりのかはやなぎ
風が通ればさえ冴(ざ)え鳴らし
馬もはねれば黒びかり
(ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
雲がきれたかまた日がそそぐ
土のスープと草の列
黒くおどりはひるまの燈籠(とうろ)
泥のコロイドその底に
(ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
りんと立て立て青い槍の葉
たれを刺さうの槍ぢやなし
ひかりの底でいちにち日がな
泥にならべるくさの列
(ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
雲がちぎれてまた夜があけて
そらは黄水晶(シトリン)ひでりあめ
風に霧ふくぶりきのやなぎ
くもにしらしらそのやなぎ
(ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
りんと立て立て青い槍の葉
そらはエレキのしろい網
かげとひかりの六月の底
気圏日本の青野原
(ゆれるゆれるやなぎはゆれる) (『春と修羅』)
この作品の作者の発想日付は「一九二二、六、一二」です。1923年8月16日付、国柱会(注1)の機関紙「天業民報」に、「青い槍の葉(挿秧歌)」として発表されています。「挿秧」とは「田植え」のことで、「青い槍の葉」とは、稲の苗の葉先が尖った様子を表しています。
この詩には、大正時代の歌謡曲を思わせる曲が伝えられていて、その他の賢治や歌曲とは雰囲気が違います。佐藤成『教諭宮沢賢治:賢治と花巻農学校』(花巻農業高等学校同窓会 1982)の記載よれば、「田植は、農家はもちろん農学校にとっても秋の取り入れと並ぶ二大行事で、全職員全生徒総出で行われた。水田担当だった賢治は、すべてを掌握し「青い槍の葉」も田植歌として全生徒に歌わせ、力強い歌声があたり一面にこだました。」とあります。この詩のリズム、合の手、なども納得できます。「ひでりあめ」まで降る暑さのなか、一面の「どろのスープ」の中での「槍の葉」との格闘です。
でも、そこには、風や、揺れる風景が描かれ、詩として輝き、1924年年4月20日、賢治の生前唯一出版された『春と修羅』に所収されました。
エレキ―宇宙からの電波でしょうか―も感じられる地平線から寄せてくる雲、そして人びとが立っているのは「気圏の底」という大きな風景です。ヤナギのそよぎ、カッコウの声、雲の流れ、日照り雨さえ「黄水晶(シトリン)」と表現され、作者の労働へのエールが感じられます。挿入句の「ゆれるゆれるやなぎはゆれる」は、暑く苦しい田植の作業に吹き渡る救いのようなものです。そして最終章の
りんと立て立て青い槍の葉
そらはエレキのしろい網
かげとひかりの六月の底
気圏日本の青野原
で思いは最高潮に達します。
ヤナギは、ヤナギ科ヤナギ属の樹木の総称で世界に350種以上あります。枝が垂れ下がる種類には「柳」、枝が立ち上がる種類には「楊」の字が使われます。
詩中にある「かはやなぎ」が標準和名カワヤナギであれば、北海道南部〜本州の河原に自生する落葉小高木の「楊」で、高さ3〜6m、直径3〜30cmになり、葉は長さ7〜16cm、幅8〜20mmの線形で、ふちに浅い波状の鋸歯があり、裏面は白緑色で無毛です。葉裏の白は風に翻ると、硬質な音がするように感じられ、また電気仕掛けにも思えます。
賢治は白い葉裏が風に揺れる風景が好きで作品に多く読み込まれます。(注2)
この作品から5年後の作品に、 一〇七六 「囈語 」一九二七、六、一三、 (「詩ノート」)があります。罪はいま疾にかはり
わたくしはたよりなく
河谷のそらにねむってゐる
せめてもせめても
この身熱に
今年の青い槍の葉よ活着(つ)け
この湿気から
雨ようまれて
ひでりのつちをうるおほせ
この時も、思うのは「青い槍の葉」でした。熱を雨に変えて雨を降らせてという、切なすぎる願いです。
「ヒデリ(旱害)にケガチ(凶作)なし」という言葉が東北にはあるのですが、賢治が体験した凶作は、1924年はじめとして、ほとんどが旱害によるものでした。
賢治の農村体験は、1922年大正10年12月稗貫郡立稗貫農学校(後に花巻農学校)の教諭となってからです。1926年退職するまでの4年間を、賢治は「この四ヶ年はわたくしにとって/じつに愉快な明るいものでありました」(「春と修羅第二集」序)と記しているよう 徒たちと自作の演劇を上演するなど充実したものでした。
しかし生徒たちを通じて農村の窮状を知って、教室の中だけで行う活動に負い目を感じ、1926年4月に農学校教諭を退職し、実践によって農村に寄与したいという思いから、市内下根子の別宅で農耕生活に入ります。労働即芸術の生活を理想とし、教え子を中心にした共鳴者と「羅須地人協会」を発足させ、レコードコンサートや農業技術の学習を行います。しかし、周囲の無理解、激しい労働による心身の消耗から、1928年8月病床につきます。
1930年、小康状態の中で花巻温泉の花壇設計の指導などに従事します。1931年1月、東北砕石工場鈴木東蔵の石灰による農地の改良に共鳴し技師となりますが、宣伝や販売にも奔走し、9月上京中の旅館で発熱、以後1933年9月の臨終までほとんど病床にありました。
そのなかで、「文語詩稿五十篇」、「文語詩稿一百篇」、などの詩の推敲や、童話「風の又三郎」、「ポラーノの広場」、「銀河鉄道の夜」、「グスコーブドリの伝記」などの完成に向けた活動は行われます。絶筆は以下の二首です。
方十里稗貫のみかも/稲熟れてみ祭三日/そらはれわたる
病(いたつき)のゆゑにもくちん/いのちなり/みのりに棄てば/うれしからまし
絶筆にいたっても、稲への思い―そこに働くひとへの思い―が、溢れていて胸が痛みます。或いはそれは、農学校における四年間に生徒たちと共に汗を流した輝く風景があったからかも知れません。
注1:国柱会(こくちゅうかい 國柱日蓮宗僧侶日蓮宗僧侶・田中智学 によって創設された法華宗系在家仏教団体。純正日蓮主義を奉じ
る右派として知られる。 賢治は1914年(大正3年)9月、18才で島地大等著『和漢
対照妙法蓮華経』を読んで深い感銘を受け生涯の信仰を法華経と
し、浄土真宗の篤信家だった父と対立することになる。1920
年国柱会に入会し、1921年1月から8月にかけては、東京本
部で奉仕活動を行った。
注2:ヤナギ科ヤマナラシ属ギンドロ(別名「ウラジロハコヤナギ」)
は、賢治が愛した植物として、花巻市のぎんどろ公園をはじめ多
くの場所に見られる。またヤナギ科ヤマナラシ属ドロノキ、同ヤ
マナラシも葉裏が白く葉柄の構造上風に揺れやすく、賢治は詩に
読み込んでいる。また、豆畑で一斉に葉裏が白く翻る風景も賢治
は心惹かれていた。
ドロノキ
「どろの木の下から/いきなり水をけ立てて/月光のなかへはねあ
がったので」(六九〔どろの木の下から〕)
「いま来た角に日本の白楊(ドロ)が立っている」(〔一七一〕
〔いま来た角に〕一九二四、四、一九、
ヤマナラシ
「ドイツ唐檜にバンクス松にやまならし/やまならしにすてきにひ
かるやつがある」(一七「丘陵地を過ぎる」一九二四、三、二四)
豆畑
「トンネルヘはいるのでつけた電燈ぢやないのです/車掌がほんの
おもしろまぎれにつけたのです/こんな豆ばたけの風のなかで」
(「電車」一九二二、八、一七)、
「見たまへこの電車だつて/軌道から青い火花をあげ/もう蝎かド
ラゴかもわからず /一心に走つてゐるのだ/ (豆ばたけのそ
の喪神のあざやかさ)/どうしてもこの貨物車の壁はあぶない」
(「昴」一九二三、九、一六、)、
「こんなにそらがくもつて来て/山も大へん尖つて青くくらくなり
/豆畑だつてほんたうにかなしいのに/わづかにその山稜と雲との
間には/あやしい光の微塵にみちた幻惑の天がのぞき
(「雲とはんのき」一九二三、八、三一)
テキストは『新校本宮澤賢治全集』による。