本日は、藤岡町の潜龍山繁桂寺「はなまつり供養お茶会」に出かけてきました。
はなまつり供養お茶会は、24年の歴史がある行事とのこと。
曹洞宗繁桂寺山門
初めて伺ったのですが、新緑の中、静寂に包まれた境内で茶会を催すには恵まれた場所ではないでしょうか。
鐘楼とつつじ
方丈庭園
藤棚の下では、煎茶東阿部流による煎茶のお席も
藤は見ごろを終えているので、皆さん頭上を愛でるよりもお点前に集中。
さて、点心(お昼)をいただいた後に書院お席へ。席持は表千家流の岩波宗芳先生。先生には昨年、他のお席でお会いしておりますのでトークがてら正客席を失礼することに。
寺院ならではの書院造りの茶室も趣がある
初夏の一日を楽しむことができました。
また、当寺は藤岡佐渡守清房公なる戦国期の国人領主の菩提寺でもあり、公の墓所がありました。藤岡氏は代々、藤岡の地を領有していたが、天正五年(1577年)に、唐沢山城主の佐野宗綱により藤岡城は攻め落とされ、自刃したとのこと。
多くの下野国の大小領主が辿ったように、北条氏、上杉氏、佐竹氏に翻弄されて果てた、国人領主のひとりだったようです。
最後に、今回はお寺さんということで茶道にも通ずる、なるほどなと響く説法を、いただいた案内状より抜粋して掲載したいと思います。
言語道断禅語の一句である。現在は「あまりひどくて何とも言いようがない。もってのほかである」という強く否定する言葉として使われます。(中略)
この言葉の本来の意味は、人知、言語を越えた仏教の覚りの境地は人間の言葉を以って表現できないことを言ったものです。
言も語も言葉であり、道断の道は「言う」「述べる」の意味です。覚りの境地は筆舌に尽くし難しいほど奥深いことであり・深遠な心理をほめて言う言葉です。「不立文字、教外別伝」や「以心伝心」につながる言葉です。