宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
10月の永野川(2013)
 10月7日
 よく晴れて、動くと汗ばむくらいです。
公園内でツバメ2羽、帰りが遅れたのでしょうか、越冬するのでしょうか。川岸の低木の陰に、ゴイサギが1羽、水に腹部が触れるくらいになってじっとしていました。このあたりには滅多にいないゴイサギですが、この場所では、2年に1度くらい見かけます。
カルガモが増えてきました。赤津川、泉橋上で、数羽のカルガモに、コガモ♀が1羽混じっていました。今季初です。
 コガモは、本格的な飛来の前の早い時期に、2,3羽の見られるのが不思議でした。どこかに迷い込んで夏を越していたのかと思っていましたが、もう県北ではたくさん飛来しているということですから、そこから来たのかもしれません。
 赤津川岸の新井町の休耕田にケリが14羽、この辺にもケリが訪れるようになりまし。
 大岩橋上の山林で、カケスの声のみ、2羽ほどでしょうか、冬鳥のシーズン間近です。
 公園内のワンド跡のヤナギがアレチウリにすっぽり覆われ、このままだと枯れてしまうのではないか心配です。アレチウリは芝生にまで伸び出していて、このままだと、またワンドを刈ろうという意見にもなりかねません。「アレチウリ」のみ除く、という選択もあるのではないか、そうすればかなりの景観と植物が救われると思いますが。
 
 17日
 台風が過ぎた後の快晴、日差しは強かったのですが、風は涼しくなりました。
 ヒヨドリが本格的にわたり始め、20羽の群に会いました。また賑やかになります。
 かすかにカワラヒワの声が聞こえたように思いましたが、姿は確認できません。
 永野川二杉橋上の取水口で、今季初めてのキセキレイ1羽に会いました。今日は鳥の数も少なかったので、これがご褒美となりました。
   
 27日
 また台風の翌日で、よく晴れて気持ちの良い日になりました。永野川、赤津川とも水量がかなり増えて濁り、河原も中州も無くなって、カルガモが岸辺に貼りつくようにして寄り添っていました。中州はなかったのですが、空中を飛ぶセグロセキレイ、ハクセキレイが目立ちました。
 公園のワンド跡、少し上流、滝沢ハムの草むらでは、チッチという小さな地鳴きの声が聞こえました。しばらく待ちましたが、鳥は現れず、一羽見えたのはホオジロの♂でした。カシラダカ、アオジとも違うようですが、ホオジロのように3回の連続でもないようです。
 新井町の赤津川岸でカワラヒワが2羽、今度は姿を確認できました。
休耕田の上で、8羽ほどの鳥が群れて飛びかったり田んぼに降りたりしていました。腹部の白さ、尾の両端の白い筋、などからヒバリのようです。声は囀りとは違って初めて聞く声でした。5分程後に、降りているヒバリ1羽確認できました。ヒバリはこれから南へ渡っていくことを教えていただきました。お恥ずかしいのですがヒバリが渡ることを初めて知りました。
 ケリ6羽、以前と同じ休耕田に降りました。ここは定位置になったのかもしれません。少しずつ季節が変わって来たようです。
 
鳥リスト
キジ、カルガモ、コガモ1、カワウ、カイツブリ、キジバト、アオサギ、ダイサギ、ゴイサギ、バン、イカルチドリ、ケリ、トビ、モズ、カケス、ハシブトカラス、ハシボソカラス、ヒバリ、ツバメ、ヒヨドリ、スズメ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、キセキレイ、カワラヒワ、ホオジロ
 
 
 
 
 







実らぬ年の秋の風
 
三一一 昏い秋   一九二四、一〇、四、
 
黒塚森の一群が
風の向ふにけむりを吐けば
そんなつめたい白い火むらは
北いっぱいに飛んでゐる
  ……野はらのひわれも火を噴きさう……
雲の鎖やむら立ちや
白いうつぼの稲田にたって
ひとは幽霊写真のやうに
ぼんやりとして風を見送る 
 
 賢治が花巻農学校の教師をしていた1924年の6月、7月は、7月23日まで40日間、雨が降りませんでした。農学校の教師として、賢治は学校の実習田の水の確保のために徹夜で見張りを続け、盛岡測候所に福井規矩三を訪ねて相談もしています。また身近に農家の水争いにも接し、農家の子弟の教え子たちの切実な状況も耳にしたと思います。しかしその心配や苦労もむなしく、凶作の秋を迎えます。
 近くの田では、日照りのために干割れして火も吹きそうで、稲はいまだに実が入っていません。そこには静かに風も吹いているのですが、人はそこに安らぐこともできず、風の吹く方向をみつめるしかありません。みつめたその先、〈風の向ふ〉の森では冷たい空気が北いっぱいに拡がって、もう冬がそこまで来ています。
この詩には、風の表現が2か所あります。〈風の向ふ〉は風の流れていく先、その距離を表しています。同時に何か不確かなよりどころのなさも感じさせます。
そして、〈風を見送る〉人は、不確かな風をみつめるしかない深い絶望を感じさせます。一方で〈風の向ふ〉の〈つめたい白い火むら〉は、気象学上の冬の風の冷たさです。また風は、気象的な問題として、凶作にも関わっているものでもあります。それを思った時、作者はまた一層のやり場のなさを感じたのでしょう。
 ここでは、風の気象学上の意味と風の空虚感が重なって詩に深い影を落としています。
 
 三三一  凍雨     一九二四、一〇、二四、
 
つめたい雨も木の葉も降り
町へでかけた用足(タシ)たちも
背簑(ケラ)をぬらして帰ってくる
 ……凍らす風によみがへり
   かなしい雲にわらふもの……
牆林(ヤグネ)は黝く
上根子堰の水もせゝらぎ
風のあかりやおぼろな雲に洗はれながら
きゃらの樹が塔のかたちにつくられたり
崖いっぱいの萓の根株が
妖しい紅をくゆらしたり
 ……さゝやく風に目を瞑り
   みぞれの雲にあえぐもの……
北は鍋倉円満寺
南は太田飯豊笹間
小さな百の組合を
凍ってめぐる白の天涯   ()内は原文のルビ
 
 
 最初の詩の10日後の日付を持つ詩です。季節は進み、東北ではすでに初冬です。〈凍雨〉は気象用語では、地表付近の温度が0℃以下で、上空の温度が0℃以上の場合、上空の0℃以上の空気を通過した雪、霰、雲が落下する間にいったん融解して水滴となり地上付近の0℃以下の空気で再び凍結したものを言い、雪、霰、が不透明なのに対して透明です。上空の0℃以上の空気の層に比べて、地表付近の0℃以下の空気の層が厚く、雨粒が再凍結するのに十分な冷気層があるときに起る、ということは、詩に描かれた場所が十分に寒いということだと思います。
 この詩では生活している人たちが中心に描かれます。まず恐らく金策か生活用品の買い物のために町へ出た人々は、冷たい雨の中を黙々と帰ってきます。氷のような風に、一瞬我に帰れば、空は雲に覆われ、笑うしかない現実だけがあります。
 その雲に覆われた風景は、風や雲のかすかな動きに時に僅かに彩りを見せます。人はそんな風景も目に入らず、また喘ぐように歩きます。これは生活の現実を描くものでしょうか。
 鍋倉・円満(万)寺、太田・飯豊・笹間は、花巻市街の西に広がる田園地帯の集落名で、上根子を挟んで北と南にあり、花巻の農村部全域を表すと言えるかもしれません。ます。この詩が吉野信夫編『現代日本詩集』(1933)に発表されたときのタイトル「県道」からすると、作者の位置は、上根子の現在の花巻大曲線でしょう。
 〈小さな百の組合〉は必死に活動している農民たちでしょうか。あるいは賢治の教え子たちを想定したのかもしれません。すべてを白く凍る大きな冷たい空が覆っています。
 この詩では、〈もの……〉という表現が2回使われます。〈もの……〉は第一には、そこに描かれ用足帰りの人を表しますが、それを含むより大きなものを描くという効果があります。ここでは、凶作の中に寒さを迎えたえた、農村全体ではないでしょうか。〈……〉でかこまれて、下げて表記されたのは、潜在して消えることのない現実を表そうとしているのではないかと思います。
 
三二四  郊外  一九二四、一〇、二九、
 
卑しくひかる乱雲が
ときどき凍った雨をおとし
野原は寒くあかるくて
水路もゆらぎ
穂のない粟の塔も消される
    鷹は鱗を片映えさせて
    まひるの雲の下底をよぎり
    ひとはちぎれた海藻を着て
    煮られた塩の魚(さかな)をおもふ
西はうづまく風の縁(へり)
紅くたゞれた錦の皺を
つぎつぎ伸びたりつまづいたり
乱積雲のわびしい影が
まなこのかぎり南へ滑り
山の向ふの秋田のそらは
かすかに白い雲の髪
    毬をかゝげた二本杉
    七庚申の石の塚
たちまち山の襞いちめんを
霧が火むらに燃えたてば
江釣子森の松むらばかり
黒々として溶け残り
人はむなしい幽霊写真
たゞぼんやりと風を見送る   ()内は原文のルビ
 
 ここでは夕暮れの風景が中心に描かれます。凍雨のなか、いくらかの日差しは西の山際で紅を帯びた模様を作っていますが、やがて森の影を残して暮れていきます。
 人は手に入らない塩干しの魚を思い、そこから作者がそこから想起した〈海藻〉のように粗末な衣服を着ていることのみが描かれます。それは既にあきらめ意外に感じられない人の姿であると同時に、賢治の心中でもあったのでしょうか。
 この詩は「凍雨」とともに「十一月」の総題で、吉野信夫編『現代日本詩集』(1933)に発表されています。その発表段階で、「昏い秋」で使われた最終二行が暗喩の形となって加えられます。賢治は発表を意識しての表現だったのかもしれませんが、同じ語句が二つ以上の詩に使われることはあっても、2行がほとんど同形ということは、この詩だけではないでしょうか。
〈十一月〉は農学校教師としての農業の仕事の、総決算のようなものだったのかもしれません。賢治はこののち深い絶望のなかから、新しい出発を決意することになります。
それは10年たって死を目前にした発表の折にも、深く心に残っていた時間だったのだと思います。
 
 







 9月の永野川
    9月の永野川
 
  7日、長雨があがり、ようやく、今月初めての探鳥に出ました。めっきり涼しくなり、9時半でも楽に歩くことができました。でも赤津川をまわっても、鳥に会いません。ツバメもそろそろ帰ったのか、時折2羽、3羽と会うだけでした。そんなか、いつもの泉橋を少しのぼったところと、緑地公園の中でセッカの声を聞くことが出来ました。
  休耕田に、チュウサギ4羽、1羽が少し大きくダイサギか、とも思いましたが、嘴は皆同じ黄色いです。チュウサギは既に冬羽になっていてもおかしくない、ということですが、ダイサギはどうなのでしょう。口角の様子などから、もっとはっきり確認できるようにしなければなりません。
  珍しいところでは、カワウが2羽水の増えた川を流れに乗って下って行きました。いつもの場所でホオジロはもう囀っていませんでした。
  除草剤散布された土手の法面は、やっと朽ちた草が片づけられましたが、周辺の緑の中で茶色く、つらいものがあります。
  永野川岸の刈られていない土手の法面はクズの香りが満ちて来ました。また、黄色いマメ科の花(おそらくクララ)、紫の豆科(多分ツル豆)、ピンクのヌスビトハギ、ママコノシリヌグイ、白いセンニンソウ、ノギク風の花、ひそかにそして鮮やかに草むらを彩ります。
  永野川二杉橋上の河畔の、周辺の市民が植えたと思われる、橙色のコスモス風の花の群落は、個人的にはどうも受け入れがたいものがあります。公園内の雑草の中に、数年前に植えられたヒガンバナが今年は花をつけました。もし善意で植えるとしても、ここまで、この地に自生するものにしてほしい、間違っても園芸植物は植えないでほしいと思います。
 
  17日、一昨日からの台風が過ぎて、快晴です。朝6時では肌寒くなりました。水かさは増していましたが、水はかなり澄んでいて、増水も1mは行かなかったようです。
  除草剤散布後の土手の法面には、ヒガンバナが、こんなにあったかと思うくらいあちこちに咲いていました。またツルボが薄紫の小さな花をつけていました。今まで気付かなかったのですが、これも草むらの中に咲いていたのでしょうか。
  除草剤散布前は、小学生向け植物図鑑に載っているものがたくさんあり、観察地としてはとてもいいと思ったのは私だけでしょうか。
  台風に乗って来たのか、サギ類が多く、コサギは田園でも電信柱にとまるのでしょうか、2羽見かけました。ダイサギが、あちこちで飛んだし、アオサギも5羽観察できました。
  新井町の田んぼの上で、今年はほとんど見かけなかったイワツバメが30羽程群れて低空を飛んでいました。10分後通ったときも、まだみかけました。ツバメも16羽群れになって飛びかっていましたが、こちらはすぐいなくなりました。
  モズがあちこちで高鳴きと思われる声で鳴くのですが、姿が見えません。これは高鳴きとは言えないのでしょうか。
  久しぶりで、カワセミ、イソシギも出てきてました。探鳥のシーズンが近づいているようです。
 
  27日、すっきりとした秋晴れとなり、9時過ぎでもまだ冷たい空気でした。
  なぜか鳥が少なく、いつもカウントの難しいスズメも、全部で18羽しかいませんでした。渡りの途中のコサメビタキやノビタキが来るころ、と教えていただいたので、注意していましたが会えませんでした。
  新井町付近の赤津川岸の稲刈り後の田に、ケリ5羽、アマサギ7羽が見えました。こちらは帰る前の準備でしょうか。
  モズが木のてっぺんに出てくるようになりました。また永野川と赤津川の合流点近くの草むらで、ホオジロの地鳴きが聞こえました。もうじき秋です。
  今年は、もう草を刈らないでしょうか。このまま草が枯れれば、冬鳥の場がえられるでしょう。
  大事な土手の法面は、除草剤散布のせいで草も生えていない状態で、もうこれ以上の手入れはないでしょう。その後にヒガンバナが咲き、これはこれできれいですが、これ一種が一面に拡がる風景はどうでしょう。もしかすると、それを目指しているのかもしれませんが、ごく自然に多種類の花が育つことこそ望ましいのではないでしょうか。公園の行く末についての行政の目標が見えてこないのが、危うい気がします。
 最後に永野川でカワセミの登場で、少し楽しい気分で帰りました。
 
鳥リスト
キジ、コジュケイ、カルガモ、キジバト、カワウ、アオサギ、ダイサギ、チュウサギ、アマサギ、コサギ、バン、イカルチドリ、ケリ、イソシギ、モズ、カワセミ、オナガ、ハシブトカラス、ハシボソカラス、セグロセキレイ、ツバメ、イワツバメ、ヒヨドリ、セッカ、スズメ、ホオジロ
 
 
 







風が語るお話―「鹿(しし)踊り(をどり)のはじまり」
 
そのとき西のぎらぎらのちぢれた雲のあひだから、夕陽は赤くなゝめに苔の野原に注ぎ、すすきはみんな白い火のやうにゆれて光りました。わたくしが疲れてそこに睡りますと、ざあざあ吹いてゐた風が、だんだん人のことばにきこえ、やがてそれは、いま北上の山の方や、野原に行はれてゐた鹿踊りの、ほんたうの精神を語りました。
 
   「鹿踊りのはじまり」の冒頭部分です。「鹿踊りのはじまり」は、1924年、唯一生前出版された童話集『注文の多い料理店』の最後を飾りました。
  賢治作品で風は、物語の語り手にもなります。「サガレンと八月」、「氷河鼠の毛皮」など、風はその場の状況を明確に描きだしながら、物語を展開させます。
 ここでは、ススキの野原にそそぐ美しい夕陽の風景のなか、風は人の言葉となって主体に物語を聞かせ、主体がそれを語るという入れ子構造になっています。
  背景は同じススキの野原です。湯治場へ出かける嘉十は、弁当の団子を食べ、団子を一つ鹿たちのために残して立ち去りますが、手拭を置き忘れます。
  取りに戻った嘉十は、6頭の鹿が集まって来て、いままで見たこともないその手拭を取り囲んでいる所に遭遇します。そして鹿の言葉を聞くのです。それは、〈鹿どもの風に揺れる草穂のやうな気もち〉を感じることができたからでした。
 
嘉十はにわかに耳がきいんと鳴りました。そしてがたがたふるへました。鹿どもの風にゆれる草穂のやうな気もちが、波になって伝はって来たのでした。
嘉十はほんとうにじぶんの耳を疑いました。それは鹿のことばがきこえてきたからです。
「ぢゃ、おれ行って見で来べが。」
「うんにゃ、危ないじゃ、も少し見でべ。」
こんなことばもきこえました。
「何時だがの狐みだいに口発破などさ罹ってあ、つまらないもな、高で栃の団子などでよ。」
「そだそだ、全ぐだ。」
こんなことばも聞きました。
「生ぎものだがも知れないぢゃい。」
「うん。生ぎものらしどごもあるな。」
こんなことばも聞えました。そのうちにとうとう一疋が、いかにも決心したらしく、せなかをまっすぐにして環からはなれて、まんなかの方に進み出ました。
  みんなは停ってそれを見てゐます。
  進んで行った鹿は、首をあらんかぎり延ばし、四本の脚を引きしめ引きしめそろりそろりと手拭に近づいて行きましたが、俄かにひどく飛びあがって、一目散に遁げ戻ってきました。廻りの五疋も一ぺんにぱっと四方へちらけようとしましたが、はじめの鹿が、ぴたりととまりましたのでやっと安心して、のそのそ戻ってその鹿の前に集まりました。(中略)
 
  鹿は、最初怖がっていた手拭が、何もしないものと分けると安心して団子をわけあい、順繰りに歌いだします。
 
 太陽はこのとき、ちやうどはんのきの梢の中ほどにかかって、少し黄いろにかゞやいて居りました。鹿のめぐりはまただんだんゆるやかになって、たがいにせわしくうなずき合ひ、やがて一列に太陽に向いて、それを拝むやうにしてまっすぐに立ったのでした。嘉十はもうほんとうに夢のやうにそれに見とれていたのです。
 一ばん右はじにたった鹿が細い声でうたひました。
 「はんの木の
  みどりみぢんの葉の向さ
  ぢゃらんぢゃららんの
  お日さん懸がる。」
 その水晶の笛のやうな声に、嘉十は目をつぶってふるへあがりました。右から二ばん目の鹿が、俄かに飛びあがって、それからからだを波のやうにうねらせながら、みんなの間を縫ってはせまわり、たびたび太陽の方にあたまをさげました。それからじぶんのところに戻るやぴたりととまってうたいました。
 「お日さんを
  せながさしょえば、はんの木も
  くだげで光る
  鉄のかんがみ。」
 はあと嘉十もこっちでその立派な太陽とはんのきを拝みました。右から三ばん目の鹿は首をせわしくあげたり下げたりしてうたいました。(中略)
 
  この鹿たちの動きは、「鹿(しし)(おどり)」の動きを表しています。
鹿踊は江戸時代の南部氏領、伊達氏領、現在の岩手県、宮城県、愛媛県に受け継がれてきて、祭などの時、その場を舞台にして踊られます。地域によって違う流派があり、花巻市は「春日流」の発祥地です。
  鹿をデホルメした頭を被った8人あるいは12人で、仲立ちを中心にして役割を持って演じ、身に付けた太鼓を鳴らし、頭の長い角を地面に打ち付け、地面を踏みならして踊る勇壮でリズミカルなものです。
  賢治はその踊りのなかに、鹿の動きを見いだしたのでしょう。それとも、鹿踊りの起源は、ほんとうに鹿の動きだったのでしょうか。〈はじまり〉という言葉は謎めいて、読者を引き込む一つの魅力となっていると思います。
 
嘉十はもうまったくじぶんと鹿とのちがいを忘れて、
「ホウ、やれ、やれい。」と叫びながらすすきのかげから飛び出しました。
 鹿はおどろいて一度に竿のやうに立ちあがり、それからはやてに吹かれた木の葉のやうに、からだを斜めにして逃げ出しました。銀のすすきの波をわけ、かゞやく夕陽の流れをみだしてはるかにはるかに遁げて行き、そのとほったあとのすすきは静かな湖の水脈のやうにいつまでもぎらぎら光って居りました。
 そこで嘉十はちょっとにが笑ひをしながら、泥のついて穴のあいた手拭をひろってじぶんもまた西の方へ歩きはじめたのです。
 それから、そうそう、苔の野原の夕陽の中で、わたくしはこのはなしをすきとほった秋の風から聞いたのです。
 
 最後にも〈わたくし〉は風から聞いたお話しであることを確認して、物語を閉じます。 ここに描かれる、一面の野原のススキ、燃え落ちようとする夕日の赤さは、風の中で一層輝きます。
  人間には垣間見ることしかできない動物の世界、しかしそこでの、一瞬の鹿との交流は、鹿たちの話す方言のやさしさ、嘉十のつつましい幸せと思いやりと相まって、一つの理想郷をつくっているような気がします。
  風が物語る、〈鹿踊りのほんたうの精神〉とは、あるいはこのことなのでしょうか。賢治は、風に自然界と人間を繋ぐ力を求めていたのかもしれません。







区界高原(くざかいこうげん)―2013年9月22日―

 口笛にこたふる鳥も去りしかば/いざ行かんとて/なほさびしみ   つ。(歌稿AB501大正6年5月)
 
 賢治の短歌集を初めて読んだ時、強く魅かれた一首です。短歌は賢治の文学の出発点ですが、学ぶ機会が少なく、この言いしれぬ孤独感がずっと心にあるのみでしたが、この短歌を含む〔簗川六首〕が区界付近で詠まれたのではないかという情報がありました。
 区界峠を越えて、詩も残している外山高原へ続く道もあり、あるいはここを辿って行ったのかもしれないと思いました。このことについては確認ができていませんが、少しでも、この短歌の世界に触れられればと思い決行しました。
 自宅からは、いくら早くても盛岡に着くのは9時59分でした。10時02分の山田線宮古行きは無理と思い、10時40分の県北交通の宮古行きに乗りました。 
  この路線は昔の街道とほとんど同じということでしたし、昭和3年に開通した山田線に賢治が乗るのは不可能ですから、バスが正解だと思ったこともあります。
 簗川には行政の出張所と簗川(河川)、ダムなどがあるようでした。路線から離れれば森林もありますが、この道の周囲は、古くからある田畑のようで、短歌の雰囲気はありませんでした。
  この辺から、停留所の間隔がどんどん伸びて行きます。ふと窓外を見ると今まで通って来た道は遥か下に見えます。たしか、ガイドブックには、高原は700mとありました。徒歩で峠を越えた人々―あるいは賢治も―のことを思うと愕然としました。
  区界のバス停近くには道の駅があり、普通のドライブコースのようでした。ここから、少し上のウォーキングセンターまで、なだらかな登り道15分程でした。
  ウォーキングセンターの方はとても親切で、区界高原の最高地点、兜明神岳までは、高原コースと、森林コースがあり、高原コースの方がアップダウンが少なく、見晴らしもよくて快適、林もあると教えてくださいました。
  膝に自信がないのと、二時間後にはバスに乗る予定だったので、行ける所まで行く、ということで高原コースを選びました。
途中までは牧草地帯ですが、ふと前方を見ると林の中に道が続いていて、なぜか、空がすぐ近くにありました。よく晴れていたので、青空を、風が雲を飛ばして行きました。
  これが峠なのだ、途中でしたが納得しました。白樺が点在し、野ばらが赤い実をつけていました。もし季節が違えばまた違った植物に会えるのでしょう。鳥の声もかすかに聞こえていました。もしここなら、賢治の短歌が生まれても納得できそうです。
  上までは行けませんでしたが、連なる山並みや、市営区界牧場の牛たちも見えました。
  20分くらい登り、ふと気づけば、「熊注意」の張り紙、クマよけ鈴を持った人に出会い、わが身の無謀さに気づき、ゆっくり周囲を眺めながら降りました。
  途中で宮古から来たというご婦人に会いました。森林コースから高原コースを回って1時間ほどで降りてきたとのことでした。上にはダケカンバやウメバチソウもあったことや、この辺では年に一度くらいはマツタケを採って食べること、マイタケご飯のおいしいことなど話してくれました。
  道路沿いの大木にからんだヤマブドウを見つけて、一房取ってくださいました。
  これが、賢治の世界で、葡萄酒をつくろうと皆が悪戦苦闘しているものか、こんなに豊かに実っているものなのだ、実感しました。
  この方は、津波で、知り合いの人が何人も犠牲になっていて、津波の直後には生きていて良かったという思いだけだったのに、今ではなぜ死んでしまったのか、なぜ助けられなかったのか、と心が痛む日々とのことでした。
 屈託のない笑顔の底の、この悲しみはいつ消えるのでしょうか。私たちにも何かできるでしょうか。想いを残しながら、その方とは、バス停で反対方向に分かれることになりました。