三一一 昏い秋 一九二四、一〇、四、
黒塚森の一群が
風の向ふにけむりを吐けば
そんなつめたい白い火むらは
北いっぱいに飛んでゐる
……野はらのひわれも火を噴きさう……
雲の鎖やむら立ちや
白いうつぼの稲田にたって
ひとは幽霊写真のやうに
ぼんやりとして風を見送る
賢治が花巻農学校の教師をしていた1924年の6月、7月は、7月23日まで40日間、雨が降りませんでした。農学校の教師として、賢治は学校の実習田の水の確保のために徹夜で見張りを続け、盛岡測候所に福井規矩三を訪ねて相談もしています。また身近に農家の水争いにも接し、農家の子弟の教え子たちの切実な状況も耳にしたと思います。しかしその心配や苦労もむなしく、凶作の秋を迎えます。
近くの田では、日照りのために干割れして火も吹きそうで、稲はいまだに実が入っていません。そこには静かに風も吹いているのですが、人はそこに安らぐこともできず、風の吹く方向をみつめるしかありません。みつめたその先、〈風の向ふ〉の森では冷たい空気が北いっぱいに拡がって、もう冬がそこまで来ています。
この詩には、風の表現が2か所あります。〈風の向ふ〉は風の流れていく先、その距離を表しています。同時に何か不確かなよりどころのなさも感じさせます。
そして、〈風を見送る〉人は、不確かな風をみつめるしかない深い絶望を感じさせます。一方で〈風の向ふ〉の〈つめたい白い火むら〉は、気象学上の冬の風の冷たさです。また風は、気象的な問題として、凶作にも関わっているものでもあります。それを思った時、作者はまた一層のやり場のなさを感じたのでしょう。
ここでは、風の気象学上の意味と風の空虚感が重なって詩に深い影を落としています。
三三一 凍雨 一九二四、一〇、二四、
つめたい雨も木の葉も降り
町へでかけた用足(タシ)たちも
背簑(ケラ)をぬらして帰ってくる
……凍らす風によみがへり
かなしい雲にわらふもの……
牆林(ヤグネ)は黝く
上根子堰の水もせゝらぎ
風のあかりやおぼろな雲に洗はれながら
きゃらの樹が塔のかたちにつくられたり
崖いっぱいの萓の根株が
妖しい紅をくゆらしたり
……さゝやく風に目を瞑り
みぞれの雲にあえぐもの……
北は鍋倉円満寺
南は太田飯豊笹間
小さな百の組合を
凍ってめぐる白の天涯 ()内は原文のルビ
最初の詩の10日後の日付を持つ詩です。季節は進み、東北ではすでに初冬です。〈凍雨〉は気象用語では、地表付近の温度が0℃以下で、上空の温度が0℃以上の場合、上空の0℃以上の空気を通過した雪、霰、雲が落下する間にいったん融解して水滴となり地上付近の0℃以下の空気で再び凍結したものを言い、雪、霰、が不透明なのに対して透明です。上空の0℃以上の空気の層に比べて、地表付近の0℃以下の空気の層が厚く、雨粒が再凍結するのに十分な冷気層があるときに起る、ということは、詩に描かれた場所が十分に寒いということだと思います。
この詩では生活している人たちが中心に描かれます。まず恐らく金策か生活用品の買い物のために町へ出た人々は、冷たい雨の中を黙々と帰ってきます。氷のような風に、一瞬我に帰れば、空は雲に覆われ、笑うしかない現実だけがあります。
その雲に覆われた風景は、風や雲のかすかな動きに時に僅かに彩りを見せます。人はそんな風景も目に入らず、また喘ぐように歩きます。これは生活の現実を描くものでしょうか。
鍋倉・円満(万)寺、太田・飯豊・笹間は、花巻市街の西に広がる田園地帯の集落名で、上根子を挟んで北と南にあり、花巻の農村部全域を表すと言えるかもしれません。ます。この詩が吉野信夫編『現代日本詩集』(1933)に発表されたときのタイトル「県道」からすると、作者の位置は、上根子の現在の花巻大曲線でしょう。
〈小さな百の組合〉は必死に活動している農民たちでしょうか。あるいは賢治の教え子たちを想定したのかもしれません。すべてを白く凍る大きな冷たい空が覆っています。
この詩では、〈もの……〉という表現が2回使われます。〈もの……〉は第一には、そこに描かれ用足帰りの人を表しますが、それを含むより大きなものを描くという効果があります。ここでは、凶作の中に寒さを迎えたえた、農村全体ではないでしょうか。〈……〉でかこまれて、下げて表記されたのは、潜在して消えることのない現実を表そうとしているのではないかと思います。
三二四 郊外 一九二四、一〇、二九、
卑しくひかる乱雲が
ときどき凍った雨をおとし
野原は寒くあかるくて
水路もゆらぎ
穂のない粟の塔も消される
鷹は鱗を片映えさせて
まひるの雲の下底をよぎり
ひとはちぎれた海藻を着て
煮られた塩の魚(さかな)をおもふ
西はうづまく風の縁(へり)
紅くたゞれた錦の皺を
つぎつぎ伸びたりつまづいたり
乱積雲のわびしい影が
まなこのかぎり南へ滑り
山の向ふの秋田のそらは
かすかに白い雲の髪
毬をかゝげた二本杉
七庚申の石の塚
たちまち山の襞いちめんを
霧が火むらに燃えたてば
江釣子森の松むらばかり
黒々として溶け残り
人はむなしい幽霊写真
たゞぼんやりと風を見送る ()内は原文のルビ
ここでは夕暮れの風景が中心に描かれます。凍雨のなか、いくらかの日差しは西の山際で紅を帯びた模様を作っていますが、やがて森の影を残して暮れていきます。
人は手に入らない塩干しの魚を思い、そこから作者がそこから想起した〈海藻〉のように粗末な衣服を着ていることのみが描かれます。それは既にあきらめ意外に感じられない人の姿であると同時に、賢治の心中でもあったのでしょうか。
この詩は「凍雨」とともに「十一月」の総題で、吉野信夫編『現代日本詩集』(1933)に発表されています。その発表段階で、「昏い秋」で使われた最終二行が暗喩の形となって加えられます。賢治は発表を意識しての表現だったのかもしれませんが、同じ語句が二つ以上の詩に使われることはあっても、2行がほとんど同形ということは、この詩だけではないでしょうか。
〈十一月〉は農学校教師としての農業の仕事の、総決算のようなものだったのかもしれません。賢治はこののち深い絶望のなかから、新しい出発を決意することになります。
それは10年たって死を目前にした発表の折にも、深く心に残っていた時間だったのだと思います。