宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
12月の永野川と永野川緑地公園ビギナー探鳥会(2013)
 
  21日のビギナー探鳥会、よく晴れて風もなく暖かでした。
まず双眼鏡のピント合わせ方の時、焦点となったのがツグミでした。
今季初めてです。そしてその後も現れませんでした。ツグミが少ないという情報が実感としてせまってきます。
  ヒヨドリが、公園内の川岸の木の枝から水に飛び込んでは上がる動作を繰り返していました。リーダーさんのお話では、ヒヨドリの行為としては、大変珍しい水浴びというお話です。
  私には確認できませんでしたが、その浅瀬の奥のブッシュから一瞬クイナが顔を出しました。この場所では、数年前にも確認しました。生息しているのではないかもしれませんが、この場所はやはり鳥たちに適した環境なのでしょう。
 草むらでは、たくさんの声が聞こえるのですが、姿を見せてくれません。ホオジロやスズメが何例か出た後、やっとオオジュリン2羽をプロミナに入れてもらえました。今季初です。渡良瀬遊水地ではたくさん見ることができるそうですが、ここでは数が少ないので、出会えるととても嬉しくなります。
  ヤナギの木にシメが1羽、これも今季初でした。かつてはシメが木の枝に群れをつくったこともあり、シメを見るためにここにきてくれたベテランさんもいらしたのですが、ここ2、3年、2、3羽確認出来ればよい方です。
  公園の池でヒドリガモとカルガモの大きさを比較している時、お目当てのカワセミが飛びました。皆で飛翔を追い掛けましたが、ついには、吸い込み口に飛び込んでしまいました。
  公園内で、遥か彼方の岸辺に、色の薄いカワセミの若鳥♀1羽、捉えて下さったリーダーさんには感謝です。
このところ私自身も2週間ほど来られず、今季初の冬鳥にたくさん出会いました。
  今日はビギナーさんがほとんどで、たくさんの質問を投げかけてくれ有意義な会でした。中学生や熟年の方も多く、幅広い人々が鳥を好きになってくれたら素敵です。
 
ビギナー探鳥会の鳥リスト
カルガモ、ヒドリガモ、クイナ、イカルチドリ、イソシギ、カワセミ、コゲラ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、シジュウカラ、ヒヨドリ、ウグイス、スズメ、ハクセキレイ、セグロセキレイ、カワラヒワ、シメ、ホオジロ、アオジ、オオジュリン、
 
12月6日
  風もなく暖かな日、出かけるのが11時ころになりました。
  幸先良く、上人橋付近で、シジュウカラ、カワラヒワ3羽に出会い、橋の上流で、カイツブリ2羽、電線にキジバト2羽、コガモが3羽と色とりどりでした。
  赤津川と永野川の合流点近くで、ダイサギで、嘴が黄色で足の黒い個体に交じって、嘴、脚が白っぽい個体が見えました。図鑑によると亜種ダイサギ冬羽、ということです。バードリサーチのお話では、必ずしも〈亜種ダイサギ〉の色ではないとのことですが、初めての出会いでした。
  滝沢ハム近くの以前チョウゲンボウと思われる個体を見た近くで、今回は電線にじっとしている個体に会いました。尾の横縞、嘴と足の黄色、眼の近くの黒い縦線も観察でき、チョウゲンボウの♀と確認しました。
  コガモは28羽と増えているのに対して、カルガモが先回から減り始め、今日は12羽でした。当たり前にたくさんいる鳥がいないのはさびしいことです。
  大岩橋上の山林の林縁のエナガ4羽、上人橋付近にも見られ(これは同じものかも)、公園内の桜の木にも見られました。エナガに会うと、なぜか楽しくなります。
 
 21日午後、ビギナー探鳥会の後、赤津川と永野川を廻ってみました。
  カワラヒワが、3・5・3羽と見えましたが、以前のような100羽単位の群れにはこの頃会いません。
  赤津川新井町地内にバン4羽、額盤の色が無いもの(若鳥)が1羽混じっていました。
  滝沢ハムの草むらで少し太めで、白い過眼線があり腹が黄褐色で背が緑褐色のものが一瞬見え、別の鳥かと思いましたが、おそらくはアオジです。
  公園の草むらでホオジロが飛び始めて朝と合わせて10羽ほど観察できました。
今回は少し間をあけてしまい、時間も少なかったのですが、近いうちに、またゆっくり冬鳥に会いに行きたいと思います。
 
12月26日
  雨の予報のなか午後になって少し持ち直し何とか持ちそうなので、出かけました。
いつもと反対にまず公園の中をまわると、桜の木にシジュウカラが3羽、冬になったな、という感じです。
  公園のヤナギの木付近の水辺に、カワセミが2羽つかず離れず、ずっと飛びかっていました。
  1羽は恐らく先日ビギナー探鳥会の時に見た胸の色の薄い幼鳥で、その時に見えなかった嘴の下の赤が見えました。今の時期、これは親子?ツガイ?、知識が足りません。少し上流に移って、ホバリングして採餌する姿も見えました。また第5小付近でも河畔の木の枝で餌を狙う姿も見て、とても楽しい日となりました。
  ヤナギの木にシメが1羽、ビギナー探鳥会の時に見た個体でしょうか。
  カルガモの27羽の群れて舞い降りるのに会いました。少しずつ増えていくのでしょうか。
  草むらには小さな声が聞こえるのですが、曇り空の下は寒く、なかなか出てきてくれません。カワラヒワが33羽(12・9・6・3・3)、スズメも20羽くらいの群れで時々飛び立ちます。
  滝沢ハム付近の桜の木に、カシラダカ1羽、ようやく見つけました。今季初です。もう少しよい天気の時に出かけ、あの草むらから出てくる小鳥たちに会いたいも
のです。
 
鳥リスト
キジ、カルガモ、ヒドリガモ、コガモ、カイツブリ、キジバト、ダイサギ、亜種ダイサギ♀、アオサギ、クイナ、バン、イカルチドリ、イソシギ、オオタカ、トビ、カワセミ、コゲラ、チョウゲンボウ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、シジュウカラ、ヒヨドリ、ウグイス、エナガ、ツグミ、スズメ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、カワラヒワ、シメ、ホオジロ、カシラダカ、アオジ、オオジュリン、
 

 
 
 
 







三陸への旅

 

三三八  異途への出発 一九二五、一、五、
 
月の惑みと
巨きな雪の盤とのなかに
あてなくひとり下り立てば
あしもとは軋り
寒冷でまっくろな空虚は
がらんと額に臨んでゐる
 ……楽手たちは蒼ざめて死に
   嬰児は水いろのもやにうまれた……
尖った青い燐光が
いちめんそこらの雪を縫って
せわしく浮いたり沈んだり
しんしんと風を集積する
 ……ああアカシヤの黒い列……
みんなに義理をかいてまで
こんや旅だつこのみちも

じつはたゞしいものでなく
誰のためにもならないのだと
いままでにしろわかってゐて
それでどうにもならないのだ
 ……底びかりする水晶天の
   一ひら白い裂罅のあと……
雪が一さうまたたいて
そこらを海よりさびしくする

 
 先に記したように、1924年は凶作でした。賢治は、農学校の生徒を通じて伝わる凶作の惨状には心を痛め、教師という立場の無力感、そしてこれから先への不安は大きいものでした。
  1924年12月に、初めての童話集『注文の多い料理店』を盛岡の光原社から出版します。童話集への抱負は、序文、広告文に綴られる読者への熱い想いや、出版社に語った、社名には〈光〉を入れること、装丁の色、青にこだわったことなど、強いものが感じられます。
  しかし童話集は売れず、児童文学雑誌『赤い鳥』には広告文を載せることができますが、主催者鈴木三重吉には賢治の真意を理解してもらうことができませんでした。
重なる絶望や不安のなか、賢治は1925年1月5日から9日まで、三陸海岸の旅に出ています。1924(大正13)年11月に種市まで延長したばかりの八戸線に乗って種市まで行きました。そこには賢治が鉄道好きで、新しく開通した路線に好んで乗っていたという事実もうかがえます(注1)。
  木村東吉氏(注2)によれば1月5日東北本線下り 21時59分発の夜行列車で、 積雪の花巻を発ち、1月6日未明八戸で八戸線に乗り換え、6時5分に種市につき、乗合自動車か徒歩で久慈に向かったとみられます。さらに海岸線を徒歩で辿り、また貨客船に乗ったりしながら釜石まで行き、釜石線で花巻に帰っています。
この旅では「旅程幻想詩群」と呼ばれる詩7篇、断片2篇、そこから発展した文語詩二篇を残しました。
  「異途への出発」は、その第一日、発想されます。暗く冷たい風景は、賢治の心そのままのようです。
  〈あてなくひとり下り立てば〉からは、列車から降りた時点の心象と思われます。木村氏の推定にしたがうと、これは6日未明の描写、ということになります。〈こんや旅だつこのみちも〉に矛盾するかもしれませんが、〈ひとり下り立てば〉を花巻の自宅とするとこの雪への臨場感、漠とした広さと、空虚さは似合わないと思います。賢治にとって、そこから新線の開通している八戸が旅の出発点だったのでしょうか。
〈月の惑み〉の読み・意味とも確定できません。心を表す場合の〈クラム〉を使って〈クラミ〉と読み、〈寒冷でまっくろな空虚〉ということから、月のない暗さを表すと仮定します。
  1925年1月5日の月齢は9.96(注3)で、6日の未明にはすでに月明はありません。〈いちめんそこらの雪を縫って〉、〈尖った青い燐光が〉見えるのは、降る雪の形容ですが、これは駅の明かりのせいかもしれません。
  さらに、風という語と、擬態語の用い方は、賢治の心象を一層効果的に表します。
  風の表現は、〈しんしんと風を集積する〉と使われます。これは雪の降るさまですが、〈風〉と表現することで、雪のはかなさ、軽さ、風景の広さを捉えた表現となっています。
  〈しんしんと〉は〈森森〉〈深深〉など、奥深く静寂な様を表す漢語の擬態語です。これは静けさだけでなく、作者の心に沁み込むような寂しさも感じさせます。
ここで、もう一つの擬態語〈がらん〉は、〈寒冷でまっくろな空虚は/がらんと額に臨んでゐる〉と用いられます。
  〈がらん〉は擬態語では広く空虚でさびしい様を表します。この語を〈額(ひたい)〉ととも使うことによって、周囲の茫漠とした空虚から、作者の心情のむなしさまでを感じさせます。
  さらに擬態語として用いるときは、普通〈がらんとした〉、〈がらんとして〉とするところを〈がらんと〉で切ることによって、いっそう不安定なおぼつかない思いが感じられます。
 
 6日の6時5分に種市に到着し、南下する途中の海岸で詠まれたのが「三四三曉穹への嫉妬」(一九二五、一、〔六〕)です。
近くの普代村で産出される薔薇輝石を詠み込み、明け方の空の星々に溶け込むように賢治の心は研ぎ澄まされています。これは、後に文語詩「敗れし少年の歌へる」に発展します。
 
 7日、貨客船の船上からで発想された、「発動機船 一」(「口語詩稿」)では〈冴え冴えとしてわらひながら/こもごも白い割木をしょって/発動機船の甲板につむ/頬のあかるいむすめたち〉と、明るい海と働く娘たちに心を和ませながら、やはり、〈……あの恐ろしいひでりのために/みのらなかった高原は/いま一抹のけむりのやうに/ この人たちのうしろにかゝる……〉と、逃げるように出て来た内陸部の凶作のことにまた向き合うようになります。
 
 この旅を反映した童話に「ポラーノの広場」があります。
主人公キューストは〈海産鳥類の卵採集の為〉、イーハトーヴオ海岸地方に28日間の出張を命ぜられます。

イーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町に立ちました。その六十里の海岸を町から町へ、岬から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったりそしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。

  さらにキューストは船で〈隣の県のシオーモ(塩釜)〉の港まで行き、さらにセンダ―ド(仙台)の大学まで行きます。盛岡から汽車でいける海岸で〈サーモ〉は八戸の鮫(さめ)港で、そこから六十里はほぼ八戸から牡鹿半島までに相当します。   キューストは海岸の人達の温かい歓迎を受け、〈わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ〉と心に誓います。 この海岸が賢治にとってどんなに美しく、また温かく豊かな想いを満たしてくれたか分かります。
 
  9日の「三五八 峠 」(一九二五、一、九、)では、釜石湾は 〈一つぶ華奢なエメラルド 〉と表現され、叔父と子どもたちの健やかな姿を思う作者がいます。風も、〈白樺を海の光へ伸ば〉す力として描かれ、〈二十世紀の太平洋を指している〉、という前向きな心情を表現します。さらに終行で〈あたらしい風が翔ければ/ 白樺の木は鋼のやうにりんりん鳴らす 〉となり、未来に向けての風が描かれ、〈りんりん〉というラ行音の擬音語も、その心情を暗喩するように澄んでいます。

  三陸への旅の詩群は、賢治の深い絶望から立ち直りまでを描きます。そこには賢治の心に寄り添うように、多様な風がありました。

追記
 三陸海岸には賢治の足跡をたどり賢治の詩碑が建てられています。詩碑については、浜垣誠司氏のHP「宮澤賢治の詩の世界」「石碑の部屋」に詳しい情報があります。 
 三陸海岸は東日本大震災で多大な被害を受け、いまだにほとんど復興していません。平井賀港の碑のように流されて他の場所に移されたもの、島越駅のように詩碑のみ残り駅舎や人家の全て流された場所もあります。住民の皆さんが平和な生活を取り戻せるよう、何かできればよいと思います。
 

1信時哲郎「鉄道ファン・宮沢賢治―大正期・岩手県の鉄道開業日と賢治の動向」
 (「賢治研究96」宮沢賢治研究会 2005、7)
2木村 東吉:『宮澤賢治 《春と修羅 第二集》研究』 (渓水社,2000)
2HP「計算サイト」
 
 
 
 

   
   

 
 








花巻(2013、9、23)
  賢治忌9月21日から、花巻では多くの関連行事が開催されます。
体調や時間の許す限り訪れるのが私にとっての決まり事でもあり喜びでもあります。
今年は「さいかち淵」のモデル地を訪ねました。昨年、地図を頼りに歩き、ついにたどり着けずに、諦めたところです。今年は、地元の方から情報を得ておこうと相談したところ、案内していただけることになりました。車でのアクセスの何と早くて簡単だったことか。(お礼の申し上げようもありません!)
  「さいかち淵」の碑は、花巻市石神町の住宅地のなかにありました。賢治の時代には、豊沢川はこの地点まで溢れて子供たちの水遊び場だったそうで、1941年に公開された日活映画「風の又三郎」の野外ロケはこの近くの豊沢川で行われたそうです。
碑は1972年に地元の有志によって建立され、碑文には、「さいかち淵」の一節〈・・・蝉が雨の降るやうに鳴いてゐる/いつもの松林を通って・・・〉と、それにちなんで、蝉が2匹とまっているように彫られていて、面白いものでした。
  少し離れた豊沢川の道治橋の下流が「まごい淵」です。こちらは1989年公開の映画「風の又三郎 ガラスのマント」のロケ地です。以前はススキの野原だったという広い河原も芝生が整備され、大きなサイカチが二本枝をひろげています。
  河畔にはヤナギやサイカチの大木があり、ススキの白い穂が揺れ、水量は泳げるほどではありませんが、豊かな景色でした。賢治の時代を偲ぶことはできないのかもしれませんが、映画のロケ地として選ばれたことは頷けます。
  ほかに、花巻軽便鉄道の跡、賢治産湯の井戸、鳥谷ヶ崎神社、高常組製作所、賢治の友人阿部孝の実家、鼬ぺい神社も訪ねました。賢治の時代から待ち合わせ場所に使われたという、高常組製作所は当時のハイカラさの残る廃屋でした。
  身照寺にお参りし、ぎんどろ公園で一休みしました。ぎんどろ公園も、杉などが伐採され明るくなっていました。ギンドロは成長していて、以前、耳元で聞こえたと思った葉擦れの音は、遥か高いところで鳴っているようでした。樹木は年とともに変り、公園もその時代の人の考え方によって変わるのだ、ここでもそんな思いがよぎりました。
  午後は、学会主催のエクスカーションで石鳥谷の賢治の足跡を訪ねました。
まず、昭和3年3月15日から1週間余り、石鳥谷町好知八重樫宅で、賢治が「石鳥谷肥料相談所」を開設した跡地へ行きました。
  この肥料相談所の開設に尽力し、賢治の世話人、助手役も務めた、石鳥谷出身で賢治の教え子の菊池信一(大正14年3月花巻農学校卒業、岩手国民高等学校大正15年1月15日〜3月27日在籍)は〔あすこの田はねえ〕の少年のモデルとも言われています。賢治の教えをそのままに、ひたむきに生き、雨ニモマケズ詩碑の建立にも携わりましたが、昭和12年12月、戦争が命を奪いました。
  石鳥谷道の駅構内の石碑は、石鳥谷町地形図をバックに、「三月」(口語詩稿)が彫られています。これは、石鳥谷肥料相談所の様子を描いたもので、深刻な凶作のあとの農民の姿が描かれています。見下ろした田んぼには田んぼアート、「なめとこ山の熊」があり、皆の笑顔を誘っていました。
  森と渓谷をぬって葛丸ダム湖畔の「葛丸」の石碑へ着きました。碑文は歌稿B668の〈ほしぞらは/しづにめぐるを/わがこゝろ/あやしきものにかこまれて立つ〉で、土性調査で野宿した折のものです。今でも人工物はダムのみ、空気も一段と冷たく、ここでの夜を想像して、身も震える思いでした。
  この地では「楢の木大学士の野宿」も発想されたと言います。闇の中で、古生代から続く大地と生息したであろう恐竜を感じとった賢治、思考のスケールが違うと思いました。
  個人的にはアクセスの難しい場所を案内していただき、たくさんの資料をご用意くださった、賢治学会、花巻賢治の会、石鳥谷賢治の会の皆様には心からお礼申し上げます。
  私が訪ねる9月、花巻はいつも晴れて、田は黄金色に色づき、空は青く平和です。賢治の望みを具現しているようで、胸がいっぱいになります。それを支えるように、市民のみなさんの暖かさが、旅の不安を包んでくれます。帰るとまた行きたくなる、花巻は私にとってそんなところです。
 
 







11月の永野川 12月のビギナー探鳥会のお知らせ
11月の永野川 12月のビギナー探鳥会のお知らせ
 
 
永野川緑地公園ビギナー探鳥会(主催・日本野鳥の会栃木)
ベテランリーダーのご案内で、常連さんから初心者、小さなお子さんまで集う楽しい会です。
日時 2013年12月21日(土)AM9:00〜12:00
集合 栃木市岩出町 永野川緑地公園西駐車場
申込不要
参加費200円(会員100円)
雨天中止
無料貸し出し 双眼鏡、図鑑
問い合せ 日本野鳥の会栃木(028-625−4051・またはホームページ)
 
  7日、昨夜からの雨が昼にやっと上り、まだ曇っていましたが出かけました。意外に鳥が多く、このところ少なかったスズメが、100羽単位の群れで出て来たほか、ハクセキレイ、セグロセキレイも多く、キセキレイも一羽確認できました。
  二杉橋上でカルガモに交じって、コガモが4羽、公園の調整池にヒドリガモも3羽初飛来、いよいよ本格的に渡りが始まったようです。シジュウカラ、コゲラも今季初、ホオジロも3羽目視できました。
  滝沢ハム近くの桜の木に、ハト大で、胸が白く、黒い縦班があり、尾が長めの鳥がいて、そこまで確認したところで、飛び去ってしまいました。旋回というよりは羽ばたいていたので、チョウゲンボウかと思いました。羽の細さは確認できなかったので、今一正確ではないかもしれません。 もう一羽、第五小付近で、カラスよりも小さめで尾が長いもの、カラスに追われていた。曇っていて色は黒っぽいとしか分からなかったのですが、あるいはオオタカかもしれません。猛禽類をもう少し確認できるようにしないと、不確かな報告になってしまいます。
  公園内で、カワセミが2羽連なって飛んできて、青さがひときわ美しかったのですが、途中で上流と下流に分かれてしまい、一瞬の幸運におわりました。
  ようやく緑になってきた、以前除草剤をまいた所を、今日また刈込が始まりました。今の時点ではあまり大差はないのですが、こちらの神経を逆なでされているようで不快です。公園課の目的、ビジョンを知りたいと思います。
 
17日
  久しぶりの快晴となり、日差しもたっぷりと暖か、今日も午後の探鳥です。スズメが戻って来たようで、100羽超の群れ、50羽、30羽と群れて草むらを飛び、電線に並ぶ姿は、とても気持ちを豊かにしてくれます。
  コガモ4羽、珍しくマガモ♂1羽、ヒドリガモ11羽、と冬のお客さんが増えています。
  キジが、一瞬ツグミと間違うような声でしばらく鳴いていて、遠いせいもあって小さく見えました。あるいは幼鳥の声なのでしょうか。また、公園の池で、カワセミがいつもと違う少し濁った太い声で鳴いていました。こちらも初めて聞く声でした。
  この季節に、また公園の草むらが刈られて、もう公園で冬の草むら、と呼べるのは、ワンド跡と川岸の狭い部分となってしまいました。大岩橋上の河川敷は大木が切られた跡が、完全な草むら状態で、川岸にはヨシやススキがありますが、大変見えにくいところです。車が多くて危なくても永野川や赤津川の川岸を歩く方がよい時もあります。今年の探鳥会は大丈夫でしょうか。たくさんの鳥たちがきてくれるよう祈るばかりです。
 
26日
  今日も雨上がりの風もない快適な日和でした。
  新井町の赤津川河畔の草むらで、かなり黄色の目立つアオジ、緑褐色のアオジと見つけました。今季初で鳴き声も確認しました。私の力では、まだ鳴き声だけでは確認できません。滝沢ハム近くの草むらでも1羽、帰り際永野川の第五小近くの河畔の草むらでも3羽、今年もやっと来てくれたな、という思いです。アオジは自分で図鑑を頼りに確認した最初の鳥なので、とりわけ嬉しいことです。
  調整池のヒドリガモは15羽に増えました。飛来地として定着したのかもしれなません。スズメ、カラスは午後から出てくるのでしょうか、あまりいませんでした。
  赤津川に、珍しくコサギ1羽、カルガモに交じっていました。コサギの減少はこの辺でも著しいようです。
  大岩橋上で、何か珍しい声が聞こえましたが、多分ヒヨドリだったと思います。ヒヨドリはとても多様な声をするものだとこの頃思います。
  滝沢ハムの広葉樹林も葉を落とし始め、コゲラ、ウグイス、シジュウカラも出てきました。我が家にも2日前、エナガの群れが初めて現れました。冬の探鳥は期待できそうです。
 
鳥リスト
キジ、カルガモ、ヒドリガモ、コガモ、マガモ、カワウ、カイツブリ、ダイサギ、アオサギ、コサギ、イソシギ、オオタカ、チョウゲンボウ、バン、ケリ、イカルチドリ、キジバト、カワセミ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、キセキレイ、カワラヒワ、ホオジロ、アオジ、ヒヨドリ、ウグイス、モズ、シジュウカラ、コゲラ、スズメ、ムクドリ、ハシボソカラス、ハシブトカラス
 
 
 
 







風と雲と空と―「竜と詩人」
 
風がうたひ雲が応じ波が鳴らすそのうたをたゞちにうたふスールダッタ
星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覚悟する  
あしたの世界に叶ふべきまことと〔〕美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる予言者、 設計者スールダッタ
 
 若い詩人スールダッタは、〈誌賦の競いの会〉に詩を発表し、絶賛の中に優勝します。老詩人アルタは、この賛辞を送って、詩の世界から去っていきます。
 スールダッタは、海辺にまどろんでいるとき、詩を発想したのですが、それがその下にある海の洞窟に閉じ込められた竜チャーナタのつぶやきを聞きそれを詩にして優勝したのだという噂が流れます。スールダッタは自らを悔い、竜チャーナタに侘びようと海辺に来ます。チャーナタは、アルタがスールダッタに与えた賛辞を聞き、答えます。
 
尊敬すべき詩人アルタに幸あれ、
スールダッタよ、あのうたこそはわたしのうたでひとしくおまへのうたである。いったいわたしはこの洞に居てうたったのであるか考へたのであるか。おまへはこの洞の上にゐてそれを聞いたのであるか考へたのであるか。おおスールダッタ。
そのときわたしは雲であり風であったそしておまへも雲であり風であった。詩人アルタがもしそのときに冥想すれば恐らく同じいうたをうたったであらう。けれどもスールダッタよ。〔ア〕ルタの語とおまへの語はひとしくなくおまへの語とわたしの語はひとしくない韻も恐らくさうである。この故にこそあの歌こそはおまへのうたでまたわれわれの雲と風とを御する分のその精神のうたである。
 
 それは、老詩人アルタ、スールダッタ、チャーナタそれぞれの詩は、表現こそ違っても、等しく雲と風をうたえば、そのことによってみな等しく雲や風になることができるのだ、ということでした。竜はスールダッタを讃えて、自分の大切な赤い宝珠を与えようとします。
 さらに、自分の過去―千年の昔、風と雲とを自分のものとしたとき、力を試すそうと荒れて人々を不幸に陥れたために、竜王によって十万年の間洞窟に封じ込められ、陸と海の境を守ることを命じられ、日々罪を悔い竜王に感謝する日々であること―を明かします。
スールダッタは、その許しと壮大な竜の運命に感動し、母の死を見届ることができたら、海に入り〈大経〉を求めることを誓い、その時まで宝珠を竜に預けて去ります。竜は人間の理解を得た喜びを感じながら、また洞窟の水に沈んで懺悔の言葉を続けるのです。
 
 この作品は、原稿末尾に一〇、八、二〇、と記述があり発想はこの時期と推定されますが、新校本全集では、草稿の用紙、字体などから原稿成立は大正11年以降、と推定しています。
 大正10年1月、賢治は、信仰していた法華経の実践と将来の職業の模索のために突然上京します。そして国柱会(信奉する田中智学主宰の宗教団体)で奉仕活動を行う中で、上京中の親友保阪嘉内に入信をせまりますが、嘉内は応ぜず、二人の距離は離れてしまいます。また納得できる職業も得られず、国柱会の実態も賢治の理想とはかけ離れていたのではないでしょうか。そんな折、8月中旬、妹トシの病気の知らせを受けて帰郷します。
 発想はこのような時期でした。このころ成立した作品は、「ひのきとひなげし」(推定大正10年ころ発想、最終手入れ推定昭和8年夏)、「連れて行かれたダァリア」(推定大正10年秋執筆)、「貝の火」(発想大正9年、現存稿成立大正10年)、「ペンネンネンネンネンネネムの伝記」(成立大正10年、あるいは11年)など、いずれも、何らかの成功を手にしたものが慢心によってそれを手放してしまうという物語です。そこには大正10年の上京中の深い傷を、自分の慢心のためと位置付けた賢治が感じられます。
 「竜と詩人」でも、竜は雲と風を自由に操る力を得たのに海を荒し、竜王の怒りに触れて幽閉され、詩人も詩の王座につき周囲に絶賛されながら、盗作のうわさを流されます。
しかしこの作品に強く感じられるのは、その後の救いです。
 詩人が詠った詩は、竜のものであると同時に詩人のものであるのということ、ひとしく雲と風になった二者が詠ったものということは、そこに介在する〈風〉、〈雲〉は存在そのものが詩であり、対峙すべき二者をも広く包み込むものであることを示します。そこには自然や宇宙への絶対の信頼を感じることができます。
 これは発想から現存稿成立までに賢治が模索しながらたどり着いた結果かもしれません。
 また、老詩人アルタがスールダッタに与えた賛辞、
 
あしたの世界に叶うべきまことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなわしむる予言者、 設計者スールダッタ
 
 さらに、スールダッタが竜に送った言葉、
 
さらばその日まで竜よ珠を蔵せ。わたしは来れる日ごとにここに来てそらを見水を見雲をながめ新らしい世界の造営の方針をおまえと語り合おうと思う。
 
には、最も大切なものは未来に向ける眼である、という思いも込められています。
 難解な物語ながら人の心をとらえるのは、その風と雲と空を詠みこんだスケールの大きさと、未来への眼差しではないでしょうか。
 
参考文献
 伊藤真一郎「「龍と詩人」論」(『作品論 宮沢賢治』 双文社出版 1984)
 小林俊子『宮沢賢治 風を織る言葉』(勉誠出版 2003)