賢治作品では、風は形容のために、どのように使われるでしょうか。詩のなかの暗喩については、以前ほんのすこし触れましたので、ここでは童話に描かれる風について考えてみます。
まず、〈風のように〉 という直喩は全部で27例ありました。風に関する言葉は童話中に523例ありますから、その中では数量としては多くはないかもしれませんし、他の作家の作品と比べてみないと正確な答えは出ません。
内容は、〈走る〉など速い動作の形容が最も多く、21例ありました。
〈風のように走る〉という形容は、普通によく使われる形容ですが、ここで賢治の特色と言えば、それが物語のなかで、その場を盛り上げるのに重要な役割を持っていることではないかと思います。
ホモイが悦んで躍りあがりました。
「うまいぞ。うまいぞ。もうみんな僕のてしたなんだ。狐なんかもうこわくも何ともないや。おっかさん。僕ね、りすさんを小将にするよ。馬はね、馬は大佐にしてやらうと思ふんです。」
おっかさんが笑ひながら、
「そうだね、けれどもあんまりいばるんじゃありませんよ。」と申しました。ホモイは
「大丈夫ですよ。おっかさん、僕一寸外へ行って来ます。」と云ったままぴょんと野原へ飛び出しました。するとすぐ目の前を意地悪の狐が風のやうに走って行きます。(「貝の火」)
「むぐらは許しておやりよ。僕もう今朝許したよ。けれどそのおいしいたべものは少しばかり持って来てごらん。」と云ひました。
「合点合点。十分間だけお待ちなさい。十分間ですぜ。」と云って狐はまるで風のやうに走って行きました。(「貝の火」)
仔牛が厭きて頭をぶらぶら振ってゐましたら向ふの丘の上を通りかかった赤狐が風のやうに走って来ました。
「おい、散歩に出やうぢゃないか。僕がこの柵を持ちあげてゐるから早くくぐっておしまひ。」
(「黒ぶだう」)
「貝の火」で、ヒバリの子供を助けた兎の子ホモイは、鳥の王様から美しい宝珠を貰います。周囲の動物達から、敬いの言葉をかけられ、よい気分になったホモイは次第に尊大になっていきます。キツネはそんなホモイに取りいって、悪事をそそのかします。ホモイがいい気分になって野原に出たときに、〈風のやうに走って〉キツネが登場します。ホモイは、以前意地悪をされたキツネへの恐れを感じます。
キツネは盗んだパンをホモイに食べさせるために〈風のやうに〉走りさります。陰で悪事をやるキツネの恐ろしさ不気味さを表しています。
ちなみに、翌日すでにホモイを信用させた狐が、堂々とホモイの前に現れる時は〈向ふの向ふの青い野原のはずれから、狐が一生けん命に走って来て、ホモイの前にとまって〉となります。
「黒ぶだう」のキツネの登場の場合も同様です。牧場の子牛をそそのかして牧場から逃げ出させるキツネです。
いずれも一瞬現れるもの、消えるものへの、不安、恐怖などを強調して、〈風のやうに〉は効果的に使われているのではないでしょうか。
その他の走ることの形容でも、「セロ弾きのゴーシュ」の猫が逃げていく場面、「税務署長の冒険」では、密造の現場に検討をつけた税務署長が、山から駆け降りる場面と、密造者が署長を素早く縛りあげる場面の2か所、「土神ときつね」では、恋人の桜の木の前で土神と鉢合わせしたキツネが逃げ出す場面など、いずれも必死の心情が含まれています。
他の動作の形容は唯一、「カイロ団長」で〈からだはまるでへたへた風のやうになり、世界はほとんどまっくらに見えました。〉と、風の捉えどころのなさを、弱った体の形容に使っています。
唯一の状態の形容としては
河原からはもうかげろふがゆらゆら立って向ふの水などは何だか風のやうに見えた。(「或る農学生の日誌」)
これは風の透明性と動きを形容に使っています。
隣りには黒い洋服をきちんと着たせいの高い青年が一ぱいに風に吹かれてゐるけやきの木のやうな姿勢で、男の子の手をしっかりひいて立ってゐました。(「銀河鉄道の夜」)
ここでは、直接、〈風のやうに〉という形容でなく、間に他の言葉を入れて、一層具体的になります。
音の形容に風を使う例は、「かしわばやしの夜」では柏の木の不気味な声、「セロ弾きのゴーシュ」ではバイオリンの美しい音です。
「ひかりの素足」、「四又の百合」では、いずれも仏の言葉で、徳を表す、尊くよい音でもあり空気でもある不思議さを表します。
正遍知のお徳は風のやうにみんなの胸に充ちる(「四又の百合」)
〈正遍知〉は仏の称号(属性)を表す十号のなかで、宇宙のあまねく物事、現象について正しく知るという仏の徳性の一つでここでは仏を表します。正遍知のお出でを待ちわびる小さな国の人々の気持ちを綴った作品で、風は、仏の高い徳と心地よさ、最高のものを表します。
「にょらいじゅりゃうぼん第十六。」というやうな語がかすかな風のやうに又匂のやうに一郎に感じました。(「ひかりの素足」)
「如来寿量品第十六」は、賢治の信奉した「妙法蓮華経」の一部で、最も重要な教えを説く巻とされるものです。雪原で遭難し生死の境をさまよう子供の心に届く、尊く安らかな響きを表します。一郎はこの後生還します。
タネリは、ぎくっとして立ちどまってしまひました。それは蟇の、這ひながらかんがへてゐることが、まるで遠くで風でもつぶやくやうに、タネリの耳にきこえてきたのです。(「タネリはたしかにいちにち噛んでいたやうだった」)
野原で会ったヒキガエルは、意味不明な言葉を子供に吐きます。〈遠くで風でもつぶやくよう〉な言葉は、聞き取りにくくて低いガマの声から感じられる〈蟇の考え〉をうまく表現しています。
そこをがさがさ三里ばかり行くと向ふの方で風が山の頂を通っているやうな音がする。(「なめとこ山の熊」)
これは、遠くにある見えない滝の音の形容です。
豚は実にぎょっとした。一体、その楊子の毛を見ると、自分のからだ中の毛が、風に吹かれた草のやう、ザラッザラッと鳴ったのだ。(「フランドン農学校の豚」・及び初期形)
豚の毛が使われた楊子(歯ブラシ)を自分の餌の中に見つけて、ささくれ立つ豚の心情を表します。〈風に吹かれた草〉は、寒さや荒れた野原も連想させ、効果的です。
〈風のやうに〉は、ごく普通に使われる言葉ですが、賢治は使われる場面によって意味を変え、物語の効果的な描写にしています。
賢治の童話で、状況が心に響いてくるのは、〈風〉を媒体として使っている場合が多いからではないでしょうか。
暗喩による形容については、次の機会に考えてみたいと思います。