宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
風と光―春 
 
「ふん。日の光がぷるぷるやってやがる。いや、日の光だけでもないぞ。風だ。いや、風だけでもないな。何かかう小さなすきとおる蜂(すがる)のやうなやつかな。ひばりの声のやうなもんかな。いや、さうでもないぞ。おかしいな、おれの胸までどきどき云ひやがる。ふん。」(「若い木霊」)
 
 〈木霊(こだま)〉は、樹木の精霊または、やまびこなどの反響を意味します。ここでは樹木の精霊であるとともに、躍動感にあふれて軽い木霊の動きは、森の木々に反響するこだまをも表しているかもしれません。
 まだ若い木霊は、春の始めの野原や森を、木や草に声をかけながら歩いています。暖かくなった喜びに胸の鼓動は高くなります。 
 春の光は、〈ぷるぷる〉震えます。恐らく風が少し吹くのでしょう。
 春の始め、気温は季節どおりには順調に進みませんが、光は季節に逆らうことなく強くなり、いくらか冷たく澄んだ春の始めの空気の中で、その輝きは、胸をときめかせるものがあります。
 賢治は、さらに誕生したばかりの蜂、ヒバリの声と連想をつなげ、春の予感を強くさせます。
 風の中で、まだ寝ている樹木もあります。
 
丘のかげに六本の柏の木が立っていました。風が来ましたのでその去年の枯れ葉はザラザラ鳴りました。
 若い木霊はそっちへ行って高く叫びました。
「おゝい。まだねてるのかい。もう春だぞ、出て来いよ。おい。ねぼうだなあ、おゝい。」
 風がやみましたので柏の木はすっかり静まってカサっとも云ひませんでした。若い木霊はその幹に一本ずつすきとほる大きな耳をつけて木の中の音を聞きましたがどの樹もしんとして居りました。そこで
「えいねぼう。おれが来たしるしだけつけて置かう。」と云ひながら柏の木の下の枯れた草穂をつかんで四つだけ結び合ひました。
 
 漢字の〈柏〉は松以外の針葉樹の総称ですが、ここに登場する柏は、ブナ目ブナ科の落葉中高木で、春、新芽が出るまで枯葉が落ちません。樹液の音も聞こえず、まさにまだ寝ているのです。
  次に出会った蟇は、暖かにしめって湯気の出る黒土の上でつぶやきます。
 
「鴾の火だ。鴾の火だ。もう空だって碧くはないんだ。
 桃色のペラペラの寒天でできてゐるんだ。いゝ天気だ。
 ぽかぽかするなあ。」
 
 木霊はその言葉に衝き動かされるように歩くうち、カタクリの葉のまだら模様が文字となって春を知らせているのに会います。そして、桜草が
 
「お日さんは丘の髪毛の向うの方へ沈んで行ってまたのぼる。
 そして沈んでまたのぼる。空はもうすっかり鴾の火になった。
 さあ、鴾の火になってしまった。」
 
 とつぶやくのを聞き、一層胸を躍らせながら〈鴇の火〉を求めて歩きます。そしてついに、〈鴇〉に会い、〈鴇の火〉を貰う約束であとを追うのですが、〈ペラペラの桃色の寒天で空が張られまっ青な柔らかな草がいちめんでその処々にあやしい赤や白のぶちぶちの大きな花が咲いてい〉る場所に導かれたところで、鴇は姿を隠してしまいます。
 鴇の飛び去った後、森から〈まっ青な顔の大きな木霊が赤い瑪瑙のような眼玉をきょろきょろさせて〉出てきて、木霊は逃げ帰ります。実際に春が来るのはもう少し先でした。
 
風のやうに光のやうに逃げました。そして丁度前の栗の木の下に来ました。お日さまはまだまだ明るくかれ草は光りました。
 栗の木の梢からやどり木が鋭く笑って叫びました。
「ウワーイ。鴾にだまされた。ウワーイ。鴾にだまされた。」
「何云ってるんだい。小(ぴゃ)っこ。ふん。おい、栗の木。起きろい。もう春だぞ。」
 若い木霊は顔のほてるのをごまかして栗の木の幹にそのすきとほる大きな耳をあてました。
 栗の木の幹はしいんとして何の音もありません。
「ふん、まだ、少し早いんだ。やっぱり草が青くならないとな。おい。小(ぴゃっ)こ、さよなら。」若い木霊は大分西に行った太陽にひらりと一ぺんひらめいてそれからまっすぐに自分の木の方にかけ戻りました。
「さよなら。」とずうっとうしろで黄金色のやどり木のまりが云ってゐました。
 
 この作品は「若い研師」第一章が独立発展したもので、さらに改作されて「タネリはたしかにいちいち嚙んでゐたやうだった」となります。
「若い研師」では、この作品と同様に、主人公の研師の春の予感を描きますが、原稿の欠落が多く内容は不明瞭です。
 「タネリはたしかにいちいち嚙んでゐたやうだった」では、主人公タネリは人間の子どもで、母親のいいつけで白樺の皮を剥ぎに行き、同じような出会いがありますが、蟇の言葉や鴇の誘いにも木霊のように激しく動かされることなく、子どもとして対応しそれがストーリーとなっています。
「若い木霊」という、より現実から離れたものを主人公にすることで、賢治は、自然に激しく感応する自分の内的なものが描きやすかったのだと思います。
 胸の鼓動とともに描かれる、鴇色、桃色などの色の系列は、賢治作品では性的なものを暗示すると言われています(注)。ここでは、自然に対峙する時賢治が抱いたある種の恋愛感情ともいえます。
 
 この作品で、風はいつも光とともに描かれ、それに〈鴇の火〉で象徴される、暖かさや妖しく胸をときめかせる春への予感を描いています。木霊は、これから来る春への期待に躍動する命の具現です。 
 そして賢治がいつも使う言葉、〈風と光〉は、このような自然の移り変わり、せめぎ合いの中で、実感として生まれたものではないでしょうか。
 
注 大塚常樹『心象の記号論』朝文社1999

 







2月の永野川(2014)
 
 ※15日のビギナー探鳥会は、残念ながら雪のため中止となりました。
 
6日
 昨日の降雪から寒波が続きますが、風もなく比較的歩きやすい日でした。
 二杉橋から歩き始めると、水が減った河川敷に、ハクセキレイ、セグロセキレイ、イカルチドリが、そこここに走って、アオサギ、ダイサギ、ツグミなども顔を見せます。珍しく畑の低木にジョウビタキ♀が留っていました。
 赤津川には、コサギ1羽、田にも1羽、久しぶりです。
 滝沢ハムの草むらの木でホオジロ7羽が活発に動き、アオジも2羽、これも久しぶりでした。
 大岩橋上の草むらで、カワラヒワ6羽、カシラダカ1羽、シメ1羽、結構草むらの上の出てきてくれ、公園内の草むらでもアオジ、オオジュリンも3羽、草むらから出てきました。
 公園のヤナギの大木付近にカワセミ♂、やはり会えました。
 池のヒドリガモはいませんでした。ここが寒いと、どこで過ごしているのでしょう。
 大岩橋上の山林と上人橋近くに山林でカケスの声が聞こえましたが、姿は見えませんでした。
 第五小近くで、カラスに追われた猛禽1羽、全体に白く腹の黒い縞模様が見え、尾の形状や大きさからオオタカでしょうか。
 寒さは身にしみましたが、多くの鳥に会え、よい探鳥日でした。
 
16日
 14日の大雪は、まだあちこちに障害を残していましたが、緑地公園に出かけました。     まだほとんど人の通っていない雪の公園を歩くと、アオジ2羽、スズメ20羽、キジバト5羽、モズ1羽、草むらに姿を見せます。ヤナギの大木の下で、カワセミ♂がとまっていて、しばらくするとホバリングを繰り返し、2回とも魚を捕えては食べていました。
 シメ、ツグミ、イカルチドリ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、いつもの顔ぶれですが、コガモ27羽が公園内に降りたのは珍しいことです。トビも3羽いました。
 雪で覆われた世界に、鳥たちはいつもと変わらず生きていることを実感しました。
人間としては、早く雪が解けてゆっくりカウントに出かけられることを願っています。
 
18日
 雪もどうやら消え、穏やかな日でした。雪で枯れ草が倒れたせいか草地が明るく見えます。
 カワセミの幼鳥が芽吹き始めたヤナギの枝に1羽、いつものポイントでホバリングする♂1羽、反対側の土手の木の枝にも♀1羽、3種を見比べることが出来ました。あるいは近くで繁殖しているのかもしれません。
 芝生で、ハシボソカラスが雪にぬれた野球?テニス?ボールを咥えては離し、長いこと戯れている感じでした。カラスが丸いものが好き、ということは聞いたことがありましたが、〈遊ぶ〉という感覚が鳥にもあるのを初めて見た気がしました。
 ヤナギの木の下の岸辺の草むらが一瞬動き、クイナが現れました。12月のビギナー探鳥会の時にリーダーさんが見つけたところです。本当に生息しているのかもしれません。こんな小さな公園でも適した場所なのです。大切にしたいと思いはあっても、なかなか動きが広がりません。
 桑の大木に、カシラダカ3羽、小さくて冠毛があり、確認できて喜んでいると、
反対側の岸辺の草むらに、10羽ほど上に出てきました。ホオジロと間違えていないかと思いましたが、今日はホオジロがいなくて、すべてカシラダカ、赤津川沿いでも時々出てくるのがカシラダカ、オオジュリンも2羽だけでした。
 大岩橋上の雑木林に、カワラヒワのようで黄色の強い鳥が3羽、1羽の頭部が黒くみえました。図鑑で確かめると、マヒワだったようです。マヒワにはあまり会わないし、黄色の強いカワラヒワもいるようで、初めて確認しました。
 草地が明るく、アオジが地面をつついているのが見えました。赤津川岸、第五小付近でもアオジが出てくれました。思えば第五小付近は、少し前まではアオジが群れていたのでしたが。
 河原に何度かイカルチドリが舞い、一瞬違った声、と思ったら、イソシギも1羽来ました。
 公園内で、エナガ、シジュウカラ、土手の木にシメ1羽、定位置のようです。もうここでシメの群れをみることは無くなりました。
ダイサギが滝沢ハムの池に3羽、公園に一羽、アオサギも公園と永野川睦橋付近に一羽、   カワウまで出て、充実した鳥見でした。
 赤津川の新井町の田んぼで、今年初めてヒバリのさえずりを聞き、カイツブリも2か所で繁殖の声をあげていました。もう季節が変わりつつあるのでしょうか。この寒さの中でも鳥は春を見据えているのでしょうか。
 今日は久しぶりにバードウォッチングを再開されたという男性とお会いして、しばらくご一緒しました。同じ思いを持つ方とのひとときは、とても暖かでした。
 
25日
 二杉橋から歩きました。高橋手前の広い河川敷では、イカルチドリ2羽が鳴きながら飛び、少し上でイソシギも1羽飛びました。アオサギが1羽突然目の前に現れたり、オナガが1羽横切ったり、この一画はこの辺では鳥種が多いようです。
 この頃、やっとツグミが多くなりました。群れてはいませんが、あちこちで1羽ずづ走ったり飛んだりして今日は9羽見かけ、ちょっと安心しました。
公園内の草むらにはなぜか小鳥の姿もなく、カワセミに会えませんでした。
 かわりに大岩橋上の河川敷では、カシラダカが次々に飛び出してきました。あるいは同じものを数えているのではないか気になります。オオジュリンは何とか1羽確認しましたが、ホオジロがあまり確認できず、これも混同しているのか気にかかります。
 公園の池にはヒドリガモが7羽戻っていました。どうもどこかと往復しているようです。
 滝沢ハムの池では、ダイサギと共にコサギが4羽、コサギは珍しい存在となり、少し不安です。
 シジュウカラも元気に鳴いて動き回り、暖かくなって、鳥たちも活発になったようです。新井町に加えて、二杉橋付近でもヒバリの囀りを聴きました。春も近いのです。でも鳥たちのたくさんいるこの季節が終わらないでほしい気もします。
 
鳥リスト
キジ、カルガモ、コガモ、カイツブリ、キジバト、カワウ、ダイサギ、コサギ、アオサギ、クイナ、バン、イカルチドリ、イソシギ、トビ、オオタカ、カワセミ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、オナガ、シジュウカラ、ヒバリ、ヒヨドリ、ウグイス、エナガ、ツグミ、スズメ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、カワラヒワ、マヒワ、シメ、ジョウビタキ、ホオジロ、カシラダカ、アオジ、オオジュリン

 
 
 







風に託すもの
  
  童話では、風を使った直喩に比べ暗喩の数は多くありません。作者の心象を表すことが目的の詩では、数々の印象深い暗喩表現が使われるのに対し、相手に話し伝えることを目的とする童話では、違った様相を見せます。
  今まで記したものもありますが、ここでもう一度暗喩の例を見てみましょう。
 
スールダッタよ、あのうたこそはわたしのうたでひとしくおまへのうたである。いったいわたしはこの洞に居てうたったのであるか考へたのであるか。おまへはこの洞の上にゐてそれを聞いたのであるか考へたのであるか。おおスールダッタ。
そのときわたしは雲であり風であったそしておまへも雲であり風であった。詩人アルタがもしそのときに冥想すれば恐らく同じいうたをうたったであらう。けれどもスールダッタよ。〔ア〕ルタの語とおまへの語はひとしくなくおまへの語とわたしの語はひとしくない韻も恐らくさうである。この故にこそあの歌こそはおまへのうたでまたわれわれの雲と風とを御する分のその精神のうたである。
 
  12月のブログ、「風の雲と空と―『竜と詩人』」でも記したように、「竜と詩人」では、風は世界そのもの、すべてを包括するもの、の暗喩でした。それゆえ雲や風を詠う時、人はひとしく雲になり風になり水になる、ということができるのでしょう。
 
  そのぐらぐらはだんだん烈しくなってネネムは危なく下に落ちさうにさえなりました。
「そら、網があったらう。そいつを空へ投げるんだよ。手がぐらぐら云ふだらう。そいつはね、風の中のふかやさめがつきあたってるんだ。おや、お前はふるえてるね。意気地なしだなあ。投げるんだよ、投げるんだよ。そら、投げるんだよ。」(「ペンネンネンネンネンネネムの伝記」)
 
  化物世界のお話で、主人公ネネムは木の枝に登って昆布を取らされています。〈風の中のふかやさめがつきあたり〉のは、強い風に吹かれて作業する手が揺れていることで、空中を海に見立てているゆえの表現です。
 この物語の発展形「グスコーブドリの伝記」は現実世界を描いているので、この表現はありません。
 
「バイオタさんがひどくおなかが痛がってます。どうか早く診て下さい。」
「はあい、なあにべつだん心配はありません。かぜを引いたのでしょう。」
「ははあ、こいつらは風を引くと腹が痛くなる。それがつまり風化だな。」
「いや、いや。そんなことはない。けだし、風病にかかって土になることはけだしすべて吾人に免かれないことですから。けだし。」(「楢ノ木大学士の野宿」)
 
 
  地学者楢ノ木大学士は、宝石を探しに山へ出かけ、野宿していると、岩石たちの話し声や苦しみの声を聞こえます。〈風病〉は、岩石が風化すること表し、岩石はその結果土となります。
 
……爪をはがしてヒンヒン泣く月毛、頭の中に風の入った人、トラホームの桃の木などが、毎日毎日どこから出て来るものやら、次から次とやって行くのでしたが、……(「三人兄弟の医者と北守将軍」散文形)
 
  病院に集まる人の症状をいう言葉です。この症状は、文中に〈「あゝ、お前は頭の中が、いつでもごうごうと鳴るんだらう。」と云ひました。/「はい、さやうでございます。時によりますと、しんしんと鳴ることもございます。」/「ふん、それは、風が頭の中の小さい小さいすき間を通る時だ。ごうごうといふのは、頭の中の野原を翔けて行く時だ。/よろしい、おい/軽石軟膏。」〉から考えると、脳神経の異常からくる「頭鳴り」だと思われます。
 
『何だと。おれはシグナルの後見人だぞ。鉄道長の甥だぞ』
『そうか。おい立派なもんだなあ。シグナルさまの後見人で鉄道長の甥かい。けれどもそんならおれなんてどうだい、おれさまはな、ええ、めくらとんびの後見人、ええ風引きの脈の甥だぞ。どうだ、どっちが偉い』(「シグナルとシグナレス」)
 
  〈風引きの脈の甥〉は、風を司り、風を巻き起こして方向を変えることのできるもの、という意味でしょうか。風の強さを使った暗喩です。
 
  風はネーミングにも多用されます。
  もっとも有名なのは〈又三郎〉で、東北や長野に伝わる伝説の風の神〈風の三郎〉を風の名前として使ったもので、「風の又三郎」では、突然転校してきた都会の少年は、子供たちに風の神かもしれない、と思われます。
  「ひかりの素足」では、吹雪の前の晴れた朝、子供がこれから来る遭難と死の予感を〈風の又三郎の言葉〉として感じて怖がります。
  そのほか、「雪渡り」では〈北風ぴいぴい風三郎〉、〈西風どうどう又三郎〉、「まなづるとダァリア」では〈北風又三郎〉と名前が付けられます。

  「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」では西風は〈ゴスケ〉、北風〈カスケ〉です。
 
山のうえから、青い藤蔓とってきた
  …西風ゴスケに北風カスケ
 崖のうえから、赤い藤蔓とってきた
  …西風ゴスケに北風カスケ
 森のなかから、白い藤蔓とってきた
  …西風ゴスケに北風カスケ
 洞のなかから、黒い藤蔓とってきた
  …西風ゴスケに北風カスケ
 
  と、韻を踏むように使います。
 風との関連はわかりませんが、陰陽五行思想―万物は五元素、五行(木・火・土・金・水)によって成り立ち、色彩、方角、季節等すべてのものがそれによって分類される―を感じさせるような色彩の使い方も不思議です。ここでは方角の記述はありませんが、青は東、赤は南、白は西、黒は北を表すので、この藤蔓もその方角からとってきたのかも知れません。
  タネリはこの後森の奥に迷い込んで、恐ろしい犬神と出会い逃げ帰ってきます。
 
  童話で、暗喩される風は、どちらかというと強風で、恐ろしさ、寒さを表します。これは何を意味するのでしょう。
 風のこの一面を、子供たちに知らせ、そのなかでも強く生きてほしいという、賢治のメッセージかもしれません。

 
 







1月の永野川(2014)とビギナー探鳥会のお知らせ
 
 
永野川緑地公園ビギナー探鳥会
日  時 2月15日(土)9時集合 12時解散
集  合 栃木市永野川緑地公園西駐車場
主  催 日本野鳥の会栃木
申込不要 雨天中止
会費200円 (会員100円)
双眼鏡と図鑑の無料貸し出しがあります。
 
年3会の探鳥会のなかで、もっとも鳥の種類が増える時期です。
カシラダカ、ツグミ、シメ、オオジュリンなど冬鳥も増え、
カワセミが高い確率で出現します。
 
9日 
  今年初めての探鳥です。雨が上がり比較的暖かな日となりました。
赤津川泉橋上でカワセミが鳴きながら飛び立ち少し上流でとまり、また飛び立ち、
2回繰り返して消えました。同じ個体でしょうが、下流に向かっても、飛びました。
  公園の中では確か違う個体が2羽、ホバリングして小さな魚を捉え川の中の石に停まることを繰り返していました。また永野川第五小付近でも下降していく姿も捉えました。今日はカワセミのあたり日です。
  新井町、赤津川岸の廃瓦工場の空き地の草むらで、このころよく小鳥の声を聞いていました。今日は動きが激しくいくらか小さめの影が動いたので待つこと5分、ようやくカシラダカが7羽草むらを飛びかう姿を捉えることができました。
 
  公園のヨシ原がアレチウリにからまれている姿は、枯れてますます痛々しくなりました。ヨシは順調に育つのでしょうか。このまま一斉に刈り取られることなく、ヨシを保護してほしい。何か指針がないと個人で動くことは難しいのですが、何か行動すべきか、と思います。
アレチウリの中にも、鳥は生息できるのでしょうが、やはり景観も大切でしょうから、〈ヨシの茂る場所〉にしたいものです。
  赤津川の合流点にある大きな桑の木で、エナガの声がするのでみると、16羽もいて、人を恐れることなく近くまで来てくれ、肉眼で充分観察できました。今年はエナガが多く、元日には住宅地の我が家にも来てくれました。
  上空を恐らくはチョウゲンボウ、ハト大で下面が白く、尾が長く、羽ばたきは少なかったのですが、特徴的な姿を見せてくれました。
カワラヒワも50羽の群れを確認、調整池のヒドリガモも18羽になりました。
  カルガモ、コガモは少ないのですが、冬鳥はいよいよ本番です。
 
16日
  昨日の気温の低さが残っていましたが、風もなく幾分楽でした。
スズメが上人橋上の河川敷でまず20羽程の群れで飛び立ち、その後もあちこちで群れをなして羽音を響かせて、何ともいえず、豊かな暖かな気分でした。
  赤津川の新井町の田で、キジ♂2羽の羽が、順光で肉眼でも、羽の色がすべて美しく輝いていました。この時期の♂二羽は、まだ同一巣で生まれた兄弟が一緒に行動しているのでしょうか。
  カワセミはもう繁殖を始めているとのお話で、12月に見たカワセミ2羽は、♀が若くてもツガイとのことでした。
  川沿いではなく園路のあるほうの公園内の草むらで、ホオジロが次々と飛び7羽、ほかでも一羽二羽と飛びました。カシラダカやオオジュリンは確認することができませんでした。

  永野川の西側の岸の木の枝にシメ1羽、公園内と併せて2羽でした。昨年も このあたりに1羽ずっといました。シメは同じ場所を目指して渡ってくるのでしょうか。
  エナガが3羽大岩橋下の川岸の木の枝に、声が大きいので対岸でも聞こえて、やっと捉えることができました。
  珍しく、永野川二杉橋付近で、コガモ25羽の群れに会いましたが、公園の  池のヒドリガモ、カルガモともに1羽もいなくなって、少し不安です。街中の巴波川などにも見かけるので、そちらに移ってしまったのかもしれません。
  ツグミも所々で1羽ずつ3羽、この季節としては淋しい数です。鳥の種類も少なく、カワセミやオオジュリンにも会えず、少し淋しい探鳥でした。
 
26日
  風もなく暖かな日でした。
上人橋付近で、住宅の屋根を掠めてチョウゲンボウが1羽南に飛びました。尾の長さ頭部の丸さ、大きさなど図鑑の通りの姿でした。
公園の川岸の、ヤナギの木の近くの草むらにカワセミが、水を浴びたり、離れた中州でとまったり、しばらくとどまっていました。数メートル離れたところにもダイビングする1羽を見つけました。カワセミを見ると、来てよかった、と思います。
  滝沢ハム工場の敷地内の樹木にダイサギが6羽留っていました。樹木に留るコサギの群れは見たことがありましたが、ダイサギは初めてです。どういう現象でしょうか。 
  草むらでスズメが群れていると賑やかです。時々飛び立つのはホオジロで公園内では7羽が群れて移動していました。
大岩橋上の草むら、赤津川の瓦の廃工場の草むらでも声はするのですが、姿を見せてくれず、カシラダカ1羽やっと出てきてくれました。これでは正確な記録は取れないのではないか心配になります。
  相変わらず、カルガモ、コガモともにすくないのですが、公園の池にはヒドリガモが6羽戻っていました。
 
鳥リスト
キジ、カルガモ、ヒドリガモ、コガモ、カイツブリ、キジバト、カワウ、ダイサギ、コサギ、アオサギ、バン、イカルチドリ、イソシギ、トビ、チョウゲンボウ、カワセミ、コゲラ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、シジュウカラ、ヒヨドリ、ウグイス、エナガ、ツグミ、スズメ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、カワラヒワ、シメ、ホオジロ、カシラダカ
 
 

 







風のように……
 
  賢治作品では、風は形容のために、どのように使われるでしょうか。詩のなかの暗喩については、以前ほんのすこし触れましたので、ここでは童話に描かれる風について考えてみます。
  まず、〈風のように〉 という直喩は全部で27例ありました。風に関する言葉は童話中に523例ありますから、その中では数量としては多くはないかもしれませんし、他の作家の作品と比べてみないと正確な答えは出ません。
  内容は、〈走る〉など速い動作の形容が最も多く、21例ありました。
〈風のように走る〉という形容は、普通によく使われる形容ですが、ここで賢治の特色と言えば、それが物語のなかで、その場を盛り上げるのに重要な役割を持っていることではないかと思います。

 
 
ホモイが悦んで躍りあがりました。
「うまいぞ。うまいぞ。もうみんな僕のてしたなんだ。狐なんかもうこわくも何ともないや。おっかさん。僕ね、りすさんを小将にするよ。馬はね、馬は大佐にしてやらうと思ふんです。」
 おっかさんが笑ひながら、
「そうだね、けれどもあんまりいばるんじゃありませんよ。」と申しました。ホモイは
「大丈夫ですよ。おっかさん、僕一寸外へ行って来ます。」と云ったままぴょんと野原へ飛び出しました。するとすぐ目の前を意地悪の狐が風のやうに走って行きます。(「貝の火」)
 
「むぐらは許しておやりよ。僕もう今朝許したよ。けれどそのおいしいたべものは少しばかり持って来てごらん。」と云ひました。
「合点合点。十分間だけお待ちなさい。十分間ですぜ。」と云って狐は
まるで風のやうに走って行きました。(「貝の火」)

 仔牛が厭きて頭をぶらぶら振ってゐましたら向ふの丘の上を通りかかった赤狐が風のやうに走って来ました。
「おい、散歩に出やうぢゃないか。僕がこの柵を持ちあげてゐるから早くくぐっておしまひ。」
 (「黒ぶだう」)
   
 「貝の火」で、ヒバリの子供を助けた兎の子ホモイは、鳥の王様から美しい宝珠を貰います。周囲の動物達から、敬いの言葉をかけられ、よい気分になったホモイは次第に尊大になっていきます。キツネはそんなホモイに取りいって、悪事をそそのかします。ホモイがいい気分になって野原に出たときに、〈風のやうに走って〉キツネが登場します。ホモイは、以前意地悪をされたキツネへの恐れを感じます。
  キツネは盗んだパンをホモイに食べさせるために〈風のやうに〉走りさります。陰で悪事をやるキツネの恐ろしさ不気味さを表しています。
ちなみに、翌日すでにホモイを信用させた狐が、堂々とホモイの前に現れる時は〈向ふの向ふの青い野原のはずれから、狐が一生けん命に走って来て、ホモイの前にとまって〉となります。
  「黒ぶだう」のキツネの登場の場合も同様です。牧場の子牛をそそのかして牧場から逃げ出させるキツネです。
いずれも一瞬現れるもの、消えるものへの、不安、恐怖などを強調して、〈風のやうに〉は効果的に使われているのではないでしょうか。
 
  その他の走ることの形容でも、「セロ弾きのゴーシュ」の猫が逃げていく場面、「税務署長の冒険」では、密造の現場に検討をつけた税務署長が、山から駆け降りる場面と、密造者が署長を素早く縛りあげる場面の2か所、「土神ときつね」では、恋人の桜の木の前で土神と鉢合わせしたキツネが逃げ出す場面など、いずれも必死の心情が含まれています。
 
  他の動作の形容は唯一、「カイロ団長」で〈からだはまるでへたへた風のやうになり、世界はほとんどまっくらに見えました。〉と、風の捉えどころのなさを、弱った体の形容に使っています。
 
  唯一の状態の形容としては
 
河原からはもうかげろふがゆらゆら立って向ふの水などは何だか風のやうに見えた。(「或る農学生の日誌」)
 
 これは風の透明性と動きを形容に使っています。
 
隣りには黒い洋服をきちんと着たせいの高い青年が一ぱいに風に吹かれてゐるけやきの木のやうな姿勢で、男の子の手をしっかりひいて立ってゐました。(「銀河鉄道の夜」)
 
  ここでは、直接、〈風のやうに〉という形容でなく、間に他の言葉を入れて、一層具体的になります。
 
  音の形容に風を使う例は、「かしわばやしの夜」では柏の木の不気味な声、「セロ弾きのゴーシュ」ではバイオリンの美しい音です。
  「ひかりの素足」、「四又の百合」では、いずれも仏の言葉で、徳を表す、尊くよい音でもあり空気でもある不思議さを表します。
 
正遍知のお徳は風のやうにみんなの胸に充ちる(「四又の百合」)
 
  〈正遍知〉は仏の称号(属性)を表す十号のなかで、宇宙のあまねく物事、現象について正しく知るという仏の徳性の一つでここでは仏を表します。正遍知のお出でを待ちわびる小さな国の人々の気持ちを綴った作品で、風は、仏の高い徳と心地よさ、最高のものを表します。
 
「にょらいじゅりゃうぼん第十六。」というやうな語がかすかな風のやうに又匂のやうに一郎に感じました。(「ひかりの素足」)
 
  「如来寿量品第十六」は、賢治の信奉した「妙法蓮華経」の一部で、最も重要な教えを説く巻とされるものです。雪原で遭難し生死の境をさまよう子供の心に届く、尊く安らかな響きを表します。一郎はこの後生還します。
 
タネリは、ぎくっとして立ちどまってしまひました。それは蟇の、這ひながらかんがへてゐることが、まるで遠くで風でもつぶやくやうに、タネリの耳にきこえてきたのです。(「タネリはたしかにいちにち噛んでいたやうだった」)
 
  野原で会ったヒキガエルは、意味不明な言葉を子供に吐きます。〈遠くで風でもつぶやくよう〉な言葉は、聞き取りにくくて低いガマの声から感じられる〈蟇の考え〉をうまく表現しています。
 
そこをがさがさ三里ばかり行くと向ふの方で風が山の頂を通っているやうな音がする。(「なめとこ山の熊」)
 
 これは、遠くにある見えない滝の音の形容です。
 
豚は実にぎょっとした。一体、その楊子の毛を見ると、自分のからだ中の毛が、風に吹かれた草のやう、ザラッザラッと鳴ったのだ。(「フランドン農学校の豚」・及び初期形)
 
  豚の毛が使われた楊子(歯ブラシ)を自分の餌の中に見つけて、ささくれ立つ豚の心情を表します。〈風に吹かれた草〉は、寒さや荒れた野原も連想させ、効果的です。
 
  〈風のやうに〉は、ごく普通に使われる言葉ですが、賢治は使われる場面によって意味を変え、物語の効果的な描写にしています。
賢治の童話で、状況が心に響いてくるのは、〈風〉を媒体として使っている場合が多いからではないでしょうか。
 暗喩による形容については、次の機会に考えてみたいと思います。