宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
5月の永野川と永野川緑地公園ビギナー探鳥会

    17日永野川緑地公園ビギナー探鳥会報告

  晴天で風もなく暖かでした。
8日に確認したオオヨシキリは姿を見せず、カワセミは川岸の木の向こう側を飛び去ってよく見えませんでした。
  カルガモのペア、他に5羽の群れが見えました。
カルガモは1日に1個ずつ卵をうみ、生み終わってから抱卵を始めるということで、現在のんびりと泳いでいるペアはその途中なのだということです。全くお恥ずかしい話ですが、鳥類がすべてニワトリと同様に毎日一個ずつ卵を産む、ということを、この年齢になるまで知りませんでした。
カルガモの雄と雌には、かなりはっきりした違いがあることも教えていただきました。上・下尾筒の色の違いのほかに、羽の縁取りがはっきりしているのが♀、ということでこれなら遠くから見ても識別できます。また課題が一つ増えました。
  中洲のコチドリを望遠鏡で捉えていただきました。黄色のアイリングが可愛さを倍増させます。このあたりで今の時期にコチドリはいないと思い、普段注意していなかったことを恥ずかしく思いました。近くにイカルチドリもいて、皆さん、識別できたと思います。
ワスレナグサと思っていたものが、キュウリグサだったこと、空き地などで見かけるオレンジ色のヒナゲシは栽培種ではなく、ナガミヒナゲシという外来種であること、花が小さくピンクに近いアザミはキツネアザミといい、オニアザミ、ノアザミはもっと花が大きく美しいということも教えていただきました。
  オニグルミは雌雄別樹ではなく、雄花と雌花の咲く時期が違うので別の木に見えるとのことで、そのために受粉しにくくなるのを防いで、何本も近くに生えるとのこと、確かに実り始めた雌花の脇に、咲き残った雄花がついていました。
  アブラナ科植物を食草とするカメムシの一種、ハナムグリ、名前のわからないメタリックブルーの甲虫、テントウムシの幼虫など、それぞれがびっくりするほど美しく命を主張しているようです。
公園の川の中央に20p以上はありそうな大きな黒いウシガエル、成長した姿を初めて見ました。以前アオサギに咥えられたのを見た時は、アオサギの口にはあまり、普段見掛けるカエルよりはかなり大きい、といった程度でした。
  近くではコロコロと言う感じの声は、シュレーゲルアオガエルとのこと、こんなに身近にいるとは思っていませんでした。
土手の木のうろには何匹ものアマガエルがいて、子どもたちは大喜びでした。
  小学校低学年、幼稚園くらいのお子さんが数名参加し、最後まできちんと虫や鳥やカエルを熱心に見ていたのは頼もしい限りです。
鳥の種類は少なかったのですが、植物や昆虫のことを知り、自分の力の程を思い知った日でした。
 
ビギナー探鳥会の鳥リスト
キジ、ダイサギ、アオサギ、カルガモ、コチドリ、イカルチドリ、キジバト、カワセミ、ヒバリ、ハクセキレイ、ウグイス、ホオジロ、カワラヒワ、ムクドリ、ハシボソカラス、ハシブトカラス
 
8日
  暖かくなりました。
  いくらか雲が出て風も少し強い日でした。上人橋から歩き始めると、ウグイスが2か所で囀り、ホオジロの囀りも続きました。カイツブリもペアが多く、繁殖声をあげていました。
ツバメが多く、公園を次々に下ってきます。雨が近く低空を飛ぶので、数多く観察できるのでしょう。
  公園のヨシがいくらか伸び、アレチウリが枯れて落ち、ヤナギも葉を茂らせ、きれいになりました。オオヨシキリが元気に囀ります。この状況を保ってほしいとおもいます。今年はまだ土手の刈り取りが始まらないようです。
桑の大木が葉の出る以前に一斉に房状の花をつけていました。これは桑ではなかったのか、いつも実をたくさん付ける桑は葉がきれいに出揃い、控えめな花をつけています。ニセアカシアもほころび始め可憐です。もう少しすると甘い匂いでいっぱいになるでしょう。
  赤津川の合流点近くで、尾が細く長く、オオタカではない、いくらか小さい猛禽1羽、羽影からチョウゲンボウと思われます。
大岩橋上流で、カルガモに交じってマガモ♂が、二杉橋上流で、コガモのペア一組が残っていました。
  鳥種は少なかったのですがオオヨシキリを迎えることができ嬉しい探鳥でした。
 
18日
  昨日の探鳥会と同様好天でした。ノバラが咲き始めています。
昨日オオヨシキリの声が聞こえた上人橋上流ではほとんど鳥の声も姿も見られず、どこかでウグイス、ホオジロが囀りました。
  合流点近くで、アイリングは確認できませんが、おそらくイカルチドリが、鳴きながら旋回して、砂礫の上に止りました。もしかして営巣かもしれません。
  時々キジが顔を出します。
  赤津川の岸に、おそらくノアザミと思える、濃い紫の大きな花がみえました。キツネアザミとは全く違い、幼少のころ見たのはこちらだったと思います。
  イタチがスズメに追われた格好で道を横ぎりました。本当はスズメを狙っているところに私が来たので、逃げたのかもしれませんが。
公園で、昨日見たとき、カワセミが川の反対側を通り過ぎたので、そこで少しゆっくりしてみましたが、会えませんでした。もしかしてサンコウチョウ?というものも、こちら側に隠れたので待ってみたが、鳥影も見えませんでした。
  除草剤をまいたらしく、園路の周辺が幅1mくらい枯れ、芝生の中のタンポポやツメクサなども枯れていました。昨年、公園担当者に話を聞いたときは、もう来年は撒きません、と公言したのに。散歩する人の話では、鳥がいなくなった、といいます。オオヨシキリがいなくなったのもそのせいかもしれません。
  除草剤は地中に残留し、鳥だけでなく人間にとっても有害です。幼い子供も地面に触れる、このような公けの場所で、一切の注意喚起の立て札もなく、暴挙と言わざるをえません。どんな効果を狙っているのでしょうか。イネ科の植物は影響がないのか、ツバナの穂が美しく風になびいていました。
全体鳥が少なかったうえに、除草剤のかかった風景が心に重い日でした。
 
27日
  雨が上がったばかりで、風が少しあり、時々黒い雲が覆い、落ち着きません。
  上人橋上流で、ツバメが13羽、保育園舎から飛び出しました。どこかに巣があるのかもしれません。近ごろ珍しい数です。
合流点近くで、ミドリガメが2匹、大きくて不気味な姿を見せていました。ここでは年一くらい見かけますが増えてはいないようです。駆除しているのでしょうか。
  新井町付近では田植えがほとんど終わっていますが、ヒバリは相変わらず多いようです。もう子育ては終わっているのでしょうか。
緑地公園の北側のヨシ原で、オオヨシキリの声が聞こえ、少し安心しました。
  今年度はまだ草刈りを始めていないので、イヌムギが一斉に穂を出しています。除草剤を散布した跡が目立ちます。芝用の除草剤ではこのような枯れ色は付かないので、何のためにどんな薬品を使ったのでしょうか。注意喚起とともに明示すべきです。
  大岩橋近くの山林からハシブトカラスが14羽飛び立ちました。近ごろは珍しい光景です。ハシボソガラスは1羽ずつ時折、という感じです。
ビギナー探鳥会の時のように川の北側からカワセミが飛来して、川を少し下って、枯れ枝にとまりました。川の向こうに何があるのでしょうか。
手入れされた芝生の中央に、カルガモが2羽うずくまっているのを遠くで見つけました。もしかしたら抱卵中かもしれません。近くまで行きたい気持ちをおさえ、もし抱卵中なら無事で育つことを祈りながら帰ってきました。(でもまた行きたい……。)
  滝沢ハムの森のエゴの木がたくさん白い花をつけました。また秋には、ここにヤマガラやたくさんの鳥たちが来ますように。
 
鳥リスト
キジ、カルガモ、コガモ、マガモ、キジバト、カイツブリ、カワウ、イカルチドリ、アオサギ、ダイサギ、チョウゲンボウ、トビ、カワセミ、コゲラ、モズ、オナガ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、ツバメ、ヒバリ、ヒヨドリ、ウグイス、オオヨシキリ、ムクドリ、スズメ、ハクセキレイ、セグロセキレイ、カワラヒワ、ホオジロ
 
付記
  今年は幸運にも日光や矢板で、たくさんのキビタキやオオルリを見ることができました。たしかに美しい鳥たちでしたが、私にとってはやはりお客様か、スターという感じです。
  永野川で草むらの中にやっと見つけたオオヨシキリやウグイスは、なぜかいとおしく、いわば友だちか家族のようで、いないと不安になります。
日光にもたびたび訪れて、オオルリも普通に見るようになれば、そこにもたくさんの友だちや家族が増えて行くのでしょうか。
  今年の日光植物園は、初心者の私でもゆっくりと迎えてくれて、自力でオオルリやサンショウクイを見つけることが出来ました。これからはできればここもフィールドにしたい、と同時に永野川に来る鳥たちも、もっとよく知りたいと思います。

 







 風の色、風の香り、風の味―「外山詩群」から― (一)
 
 
〔一七一〕 〔いま来た角に〕 一九二四、四、一九、
 
いま来た角に
二本の白楊が立ってゐる
雄花の紐をひっそり垂れて
青い氷雲にうかんでゐる
そのくらがりの遠くの町で
床屋の鏡がたゞ青ざめて静まるころ
芝居の小屋が塵を沈めて落ちつくころ
帽子の影がさういふふうだ
シャープ鉛筆 月印
紫蘇のかほりの青じろい風
がれ草が変にくらくて
水銀いろの小流れは
蒔絵のやうに走ってゐるし
そのいちいちの曲り目には
藪もぼんやりけむってゐる
一梃の銀の手斧が
水のなかだかまぶたのなかだか
ひどくひかってゆれてゐる
太吉がひるま
この小流れのどこかの角で
まゆみの藪を截ってゐて
帰りにこゝへ落したのだらう
なんでもそらのまんなかが
がらんと白く荒さんでゐて
風がおかしく酸っぱいのだ……
風……とそんなにまがりくねった桂の木
低原の雲も青ざめて
ふしぎな縞になってゐる……し
すももが熟して落ちるやうに
おれも鉛筆をぽろっと落し
だまって風に溶けてしまはう
このうゐきゃうのかほりがそれだ
 
風……骨、青さ、
どこかで鈴が鳴ってゐる
どれぐらゐいま睡ったらう
青い星がひとつきれいにすきとほって
雲はまるで蝋で鋳たやうになってゐるし
落葉はみんな落した鳥の尾羽に見え
おれはまさしくどろの木の葉のやうにふるへる
 
  この作品の背景は、盛岡の北東に拡がる外山高原と言われます。山田線の区界駅からも到達できるのですが、まだこの時はここまで開通していません。賢治は盛岡駅か厨川駅まで列車で行き、そこから徒歩で旧小本街道を歩きました。旧小本街道は、外山高原の辺りでは、現在よりも標高の高い所を通っていました。
  賢治はなぜ外山に向かったのでしょう。
外山には御料牧場があり、高等農林獣医科の実習地だった関係から、農芸化学科だった賢治も度々訪れ、1915年には短歌を残しています(注)。
  また滝沢村にあった岩手県種畜場が1923年にここに移ります。種畜場は品種改良のセンターでもあり、賢治はそこで学ぶためによく通っていました。
また種畜場では農家の持ち馬の種馬検査が行われ、そこで優良馬の子孫を残す資格を得られれば飼い主の農家は将来を保証されたことになる、希望の象徴の場所でもあったのです。
  この時の歩行で、「外山詩群」とも呼ばれる次の5篇の詩を残しています。
 
六九 〔どろの木の下から〕一九二四、四、一九
〔一七一〕〔いま来た角に〕一九二四、四、一九
七三 有明 一九二四、四、二〇
七四〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕
七五 北上山地の春一九二四、四、二〇
 
  これらの作品群には、自然に包まれて光や風を体感したことが多数表現されています。この作品は、2番目で、独特な風の感じ方が描かれます。
 夜になったことを自分の影で感じるころ―月が出始めたころ―、風は〈紫蘇のかほり〉で、〈青じろい〉のです。実際に植物があってのことかもしれませんが、月の光でほのかに照らされた植物の動きに風を感じているのではないでしょうか。
  〈シャープ鉛筆 月印〉は何を意味するのでしょう。賢治が歩行の際、鉛筆と手帳を携帯していたことはよく知られています。
  〈シャープ鉛筆〉をシャープペンシルと仮定すると、次の事実に行きあたります。
1915年、早川金属工業(現在のシャープ)が早川式繰出鉛筆を発明し特許をとり1916年には「エバー・レディー・シャープ・ペンシル」と改名し、〈シャープペンシル〉の名前はここから生まれましたが、〈月印〉だったかは不明です。
  ドイツのステッドラー社は、1662年鉛筆を発明したフリードリッヒ・ステッドラーに始まり、1895年、三日月のマークを商標として登録していますが、日本に進出したのは1926年、シャープペンシルを展開したの1937年、この時点では存在しません。輸入品を手に入れることができれば可能性があります。
  〈シャープ鉛筆〉という銘柄は調べた限りでは見つかりませんでした。
思い浮ぶのは、コーリン鉛筆の商標、三角形の三日月です。この会社は1916年設立ですが、シャープペンシルは製造していません。
  20行後には〈鉛筆をぽろっとおとして〉の記述があるので、〈シャープ鉛筆〉はシャープペンシルではなく、鉛筆の形容かもしれません。であれ  ば、一番可能性があるのはコーリン鉛筆の月印です。
  ちなみにこの日1924年4月19日は満月でした。賢治は、月の光に一瞬自分の持っている鉛筆の商標を思い出し、ちょっと愉快な気分になったのかもしれません。
月の光は藪の中をぼんやりと映し出し、小川が蒔絵の図柄のようです。雲が多い  空はすさんで見え、〈風も酸っぱい〉のです。〈酸っぱい風〉は「疲労」(春と修羅第三集)では、疲れた体に吹く暑い季節の風に使われます。これは賢治のある屈折した思いを味として表現したのだと言えます。その想いは〈風……とそんなに曲がりくねった桂の木〉にも反映されています。
  張りつめて歩いていた気持ちが緩むように眠気が襲います。その想いは〈黙って風に溶けてしまはう〉と記します。賢治は風に包まれたひとときの安らぎをこの言葉で表したのだと思います。
  この詩は下書稿三まではタイトルが「水源手記」で、眠気に襲われる様をコサック兵の足音にして表現します。
 
 …コサック…
 …コサック…兵…
 …コサック…兵…が  
      …兵…が…駐屯…
        …が…駐屯…する…
            …駐屯…する…  (下書稿一)
 
  文字の配列を見ただけでも次第に襲ってくる眠気が感じられ、新鮮な表現ですがこの部分は定稿に残りませんでした。        
  〈うゐきゃう〉はセリ科ウイキョウ属の多年草で、香草フェンネルの和名です。平安時代に渡来し、江戸時代から長野、岩手、富山県で多く栽培されました。若い葉、種子には芳香があり、薬効は芳香、健胃作用です。
自生するものではありませんので、賢治の記憶にあった香りが浮かんだのでしょう。
  目覚めた賢治は〈風……骨、青さ〉と綴ります。空は澄んで星が一つ、心には鈴の音が聞こえます。体の芯まで沁みる澄んだ空気を風に託しています。
  この作品で、賢治は風を視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触角、と五感のすべてで捉えて表現し、そこに自分が存在することの喜びを表しているようです。
  作品群には、賢治の心を追うように、多彩な風があらわれます。次回も続けて他の作品の中の風を追ってみようと思います。
 
注 歌稿A・B 大正四年四月より
 231かゞやける/かれ草丘のふもとにて/うまやのなかのうすしめりかな
 232ゆがみうつり/馬のひとみにうるむかも/五月の丘にひらくる戸口
 
参考
池上雄三『宮沢賢治 心象スケッチを読む』(雄山角 1991)
小林俊子「「ポラーノの広場」の競馬場」(『宮沢賢治 絶唱 かなしみとさびしさ』(勉誠出版 2011)
小林俊子『宮沢賢治風を織る言葉』(勉誠出版 2003)
Wikipedia「 シャープペンシル」・「コーリン鉛筆」・「ステッドラー」
こよみのページ 「月齢カレンダー」
 
 

 







4月の永野川と5月のビギナー探鳥会のお知らせ
永野川緑地公園ビギナー探鳥会
日時 5月17日(土) AM9:00集合  12:00解散
集合 永野川緑地公園西駐車場
担当 日本野鳥の会栃木事業企画委員会
 
カワセミ、セキレイ、サギの仲間、キジ、ヒバリ、ツバメ、オオタカ・トビなどの猛禽、運がよければ渡りの途中のコムクドリ、渡ってきたばかりのオオヨシキリに出会えます。
この季節、ホオジロ、カワラヒワの囀りなども聞いてみましょう。
安全な公園で、初心者の方からベテランさんまで楽しめます。
 
5日
よく晴れましたが、風が強くまだ冷たく感じられました。
上人橋から土手に入ると、ツバメが1羽ずつ次々と下ったり上ったり、イワツバメも混じっています。先月、初認を見逃してしまったので、急に増えているのに驚きます。
赤津川でモズがトカゲをくわえて枝に飛び移ったので、はやにえを作るのか、と見ていたら、そのまま飛び去ってしまいました。秋に作ることが多く、枝に固定したものは、食べ残し、冬に備えて備蓄、等いろいろ説があるようです。
ヒバリも一気に増え新井町の田んぼでは2羽で争うように飛ぶ姿も見えました。
久しぶりに赤津川でカワセミも2羽、魚をくわえる姿も見えました。
公園内で、こちらも久しぶりに2羽で飛ぶシメに会いました。
ヒドリガモは6羽になり、二杉橋付近でマガモの♂1羽、カルガモに交じっていました。時折姿を見せる1羽のマガモには、どういう意味があるのでしょうか。
鳥は風に乗り、あるいは逆らって、光の中に遊んでいるように見えました。実際は懸命に生きているのですが。
 
15日
気温も上昇中、風もなく穏やかでした。
栃木工業高校のポプラ属の大木が、やわらかい葉が伸び始め、ひも状の花がたくさんつきました。何年もここを通っているのに、この情景を見るのは初めてです。
公園内の土手の桜の木の枝を、タヒバリが横に伝いながら移動して行きました。今季初めての出会いです。以前は芝生などでたくさん見られましたが、樹上でのこの行動は初めてです。
図鑑の枝の伝いかたがビンズイとそっくりですが、どちらかというと褐色が強かった気がします。声もよく確認できず、探鳥会や赤津川上流ではビンズイも記録されているので不安でした。バードリサーチで見せていただいた写真と比べると、やはり褐色が強くタヒバリに近かったようです。もう一度見れば確認できるのですが、今季はもう無理かもしれません。
ヒヨドリが30羽、14羽、6羽、と群れをなして飛びました。群れて鳴いていても姿が見えないと感じませんが、眼の前で群れて飛んでいると、やはり季節が変わるのか、と思います。
ヒバリが5か所、ウグイスも4か所で囀り、ホオジロが木の頂上で上手に囀っていました。バンの額板がはっきりと赤くなり、カルガモのペアが目立ちました。
鳥種は少なかったのですが、ゆったりとした気分で季節の変化を感じながら歩くことができました。
 
27日
暖かくなりました。
まだヨシは芽吹いたばかりで、枯れ草色が目立ちます。
公園の池のカモはすっかりいなくなりました。
川をツバメが登ったり降りたりしていますが、時折という感じで、今月始めのような賑わいはありません。また十年前にはぶつかりあうほどいた気がするのですが。
児童公園沿いの桜の並木に見かけない鳥が見えました。一瞬でしたが、コムクドリの白い顔と赤い斑が見え、次に茶色系で黒い模様の入った羽を持つ多分♀がツグミと交差して飛び立ち、大きさはほとんど同じでした。
昨年の5月中旬の探鳥会で確認されているので、これからまた出会うこともあるでしょうか、あるいは通過しただけでしょうか。
以前のタヒバリと同様、もう一度確認出来れば……、と思います。探鳥の日を増やしたくなりました。
モズが餌を与えている場面に会いましたがお相手はヒナではないようです。モズも求愛行動として行うのでしょうか。
今日はキジが川沿いの道路上に4回も現れ、じっと動かなかったりして、何を意味するのか、これも不思議でした。
今月は、いろいろ疑問が生まれました。少し勉強しなくては。
 
昨年、除草剤の撒かれた土手の法面、河川敷には、ヒメオドリコソウ、キュウリグサが一面に花をつけていて、ハナウドやカンゾウも芽吹いていますが、少ないようでした。この状態でまた刈り取られるのでしょうか。
年度末に公園の維持管理課に生物多様性、自然保護の考えを公園の管理にも入れて方針を立ててくれるよう、やっとできた賛同者の方と2名の連名で要望は出しました。できれば横のつながりを持って成果が出れば、と思って、環境課(生物多様性の保全)、商工観光課(観光資源としての公園)、学校教育課(教育現場に生きる公園)にも同時に出しました。受理はされましたがどこまで届いているか不明です。
うずま公園のヤドリギについて、商工観光課での話では、文学作品との関連を書いた表示板を出してほしい、という意見がすでに出ているということでした。この時の「市民間の対立する意見をことさらあおることなく、ヤドリギなどは密かに見ていてほしい」という話は、行政の理念のなさと事なかれ主義を象徴していると思います。
永野川緑地公園にも鳥の説明があれば、という希望も出始めています。それができれば、少しずつ周囲の考えも変わって行くのでしょうか。
大岩橋下の川辺に、オドリコソウの群落が今年もあって、花をつけ始めました。ここはどうか残りますように。
今季初めて、上人橋付近でコジュケイの声が聞こえました。今年も変わらず季節がめぐって同じ生物に会え、環境はよりよくなっていますように。
 
鳥リスト
キジ、コジュケイ、カルガモ、コガモ、ヒドリガモ、マガモ、カイツブリ、キジバト、カワウ、ダイサギ、アオサギ、バン、イカルチドリ、イソシギ、トビ、オオタカ、カワセミ、モズ、ハシブトカラス、ツバメ、イワツバメ、ヒバリ、ヒヨドリ、ウグイス、エナガ、ムクドリ、コムクドリ、ツグミ、スズメ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、タヒバリ、カワラヒワ、シメ、ホオジロ、
 
 

 







宮沢賢治「文語詩稿五十篇」・「文語詩稿一百篇」における〈風〉
 
この稿は、以前アップした、「宮沢賢治の文語詩における〈風〉の意味 第一章」、「宮沢賢治の文語詩における〈風〉の意味 第二章その1」、「宮沢賢治の文語詩における〈風〉の意味 第二章その2」を比喩と象徴という方向からまとめなおしたものです。
比喩に関しては、直喩、暗喩のみを取り上げ、換愉、提愉等については言及せず、課題が残ります。
また〈風〉という言葉が表現に際してもつ、〈象徴〉する力についても、さらに分析、明確化することが必要ですが、一つの過程としてこの段階でアップします。(2013年11月30日脱稿)
 
 
 「文語詩稿五十篇」(以下「五十篇」と略記)、「文語詩稿一百篇」(以下「一百篇」と略記)における、風に関する表現を追う。二つは、ほぼ同時期に同等の表現意識をもって定稿化されたテキストであり、「文語詩における風の表現」を捉えることができると思うからである。
 〈風〉を含む用例は「一百篇」三十五例、「五十篇」十六例、出現率は全詩作品中、「一百篇」で最も高い。それは、〈風〉が一語の中に、自然科学的な意味と同時に、心理的、宗教的、また景観としての意味を含み、文語詩の目的、韻律化、虚構化のなかで、それぞれの意味を使って、比喩や象徴に生かされているためではないだろうか。風の用例「五十篇」、「一百篇」合わせて五十一例中、単に風景を描いている例は八例のみで、他は、何らかの意味で、心象や背景を象徴するものである。試みに表現上の役割を以下のように分類して用例数を示し、それぞれ典型的な例を選び考察する。
 
T風による比喩表現―1、直喩(二例)、2、暗喩(二例)
U風を含むフレーズ―1、タイトルとして使われる造語(二例)、2、風によって創られる象徴的なフレーズ(五例)、3、歌曲の歌詞として(二例)
V主体の心象を象徴する風 (十三例)
W背景を象徴する風
1背景を増幅する風、風を形容する語で背景を比喩、象徴する場合(十五例)
2背景とは相反する風を描くことで内容を際立たせるもの(二例)
  
 下書稿は、表現上の問題に関わるもののみを記す。引用は考察に必要な部分のみを取り上げ、文中の空白などを削除した。
 
T風による比喩表現―直喩・暗喩
1直喩
 
頬青き僧ら清らなるテノールなし/老いし請僧時々に/バスなすことはさながらに、風葱嶺に鳴るがごとし。       (〔たそがれ思量惑くして〕(「五十篇」)    
 
 「文語 詩篇ノート」の一九一六年一月、「報恩寺」の項に、〈◎寒行に出でんとして/銀のふすま、◎暁の一燈。◎警策/◎接身居士/品行悪しといふとも/なほこの僧のまなざしを見よ〉がある。
報恩寺は盛岡市北山の曹洞宗寺院で、賢治は一九一六年、盛岡高等農林一年の冬参禅している。そのときの住職、尾崎文英は、行動が粗雑で品行も悪かったと言うが、賢治は評価していた。  
 第一連〈別時の供養にて〉から、曹洞宗寺院の日常にはない法華経の読経が流れ、賢治が予期せぬ喜びと高揚を感じていることがわかる。
 〈風葱嶺に鳴るがごとし〉は、第二連、僧の読経の形容に使われる。〈葱嶺〉はパミール高原で、第一連の〈流沙〉はタクラマカン砂漠を表す。読経する若い僧の高めの声―テノール―と老僧の低めの声―バス―、二重唱である。〈風葱嶺に鳴るがごとし〉は、主体の西域への関心の深さを感じさせ、二重唱への言及は、法華経への想いに裏打ちされた音への感動を感じることができる。
 
みちべの苔にまどろめば、 日輪そらにさむくして、/わづかによどむ風くまの、きみが頬ちかくあるごとし。 (〔みちべの苔にまどろめば〕一百篇)
 
 一、二行は、「冬のスケッチ第一八葉」と同じ状況を描く。「冬のスケッチ」では〈きみ〉への幻想が夕暮れの林の描写の中に描かれ、若さ特有の淡い恋の悩みが感じられる。
 文語詩では、〈きみが頬ちかくあるごとし〉と風景の比喩として用いて、一つの情景となる。形容される〈風のよどみ〉は、一瞬の暖かさに、屈折した想いを暗示する。
 第二連の〈風はみそらに遠くして〉で、遠く吹く風も描き、主体の向ける眼の先の遠い風景とともに 過去を見はるかす主体の視線を象徴する。
 
2、暗喩
 
さき立つ名誉村長は、寒煙毒をふくめるを、/豪気によりて受けつけず。
次なる沙弥は顱を円き、/ 猫毛の帽に護りつゝ、/その身は信にゆだねたり。
三なる技師は徳薄く、すでに過冷のシロッコに、/なかば気管をやぶりたれ。
最后に女訓導は、ショールを面に被ふれば、/アラーの守りあるごとし。
(〔さき立つ名誉村長は〕 「五十篇」)
 
 シロッコは、初夏にイタリアに吹く熱い南あるいは東南の風である。この語は同時期の作品〔馬が一疋〕に〈マイナスのシロッコというふやうな/乾いてつめたい風を/まっかうから吹きつければ〉として使われるのみで、熱い風としての用例はない。    
 この詩の背景は、「農事講演会」である。「農事講演会」は佐藤成(注1)によれば大正十一年から稗貫郡の小学校を会場にして毎年巡回弁論大会(弁論部農談会)が開催され、賢治の農学校退職後も続けられたといい、昭和三年の湯口村宝閑小学校での講演記録が残っている(注2)。そこには賢治に想いを寄せ葛藤を生んだ高瀬露が訓導として勤務していた。
 〈名誉村長〉は、村長の性向を比喩的に表したもので、湯口村村長阿部晁(任期大正十三年十月〜昭和九年一月)と推定される。阿部の昭和三年二月一六日賢治宛の講演依頼の書簡があり(注3)、阿部は人間性も容貌も豪気であった(注4)。
 第二連の〈沙弥〉は修行浅い僧侶のことで、本願寺派に属して、「氷質の冗談」(「第二集」)にも〈ろ頂部だけをてかてか剃っ〉た〈白淵先生〉として登場する、花巻農学校時代の同僚白藤慈秀と推定される。女訓導は高瀬露、気管を破られた徳薄い技師はすでに肺疾患を感じていた賢治自身であろう。
 気概で寒さを跳ね返す村長、僧侶なのに殺生戒を破って猫毛の帽子を被って暖を得ている未熟な僧侶、イスラム教徒のごとくショールで寒さを防ぐ女性教師に対し、技師は徳がないので、寒さで気管を破られてしまっている。
ここでは、全ての人物が皮肉を感じさせる暗喩で表される。この〈農事講演会〉の実態を知らなくても、本来は熱風のシロッコを冬季の湿潤な冷たい靄にした真逆の比喩は、〈シロッコ〉という軽い四拍のリズムにのせて、描かれる人物からも窺える、農事講演会の目的とは裏腹の実情全体への揶揄を象徴し、その場の内容を感じることができる。
 暗喩のもう一例、〈その歯に風を吸ひつゝも〉(〔林の中の柴小屋に〕 「五十篇」)は、密造酒をこっそり飲む情景の暗喩で、童話「税務署長の冒険」にも見られる。ものをごまかすものの心理と行為を〈風〉―息遣いに象徴させて、昔の神童の面影もなく博打に明け暮れる人物をも象徴する言葉としている。
 
U風を含むフレーズ
1、タイトル―「風桜」・「風底」
 
風にとぎるゝ雨脚や、みだらにかける雲のにぶ。/まくろき枝もうねりつゝ、さくらの花のすさまじき。
あたふた黄ばみ雨を縫ふ、/もずのかしらのまどけきを。/いよよにどよみなみだちて、/ひかり青らむ花の
((うれ)。   (「風桜」 「五十篇」)
 
  文語詩として書き始められ、下書き稿一から定稿に至るまでにタイトルが「風桜」→「花鳥〔図〕→削」→「風桜」と、一部の語句の推敲がなされたのみであり、背景となる事実もつかめない作である。歌稿B「大正六年四月」中の472〜474六首、また「大正十年四月」の805〜811も関連が窺えるが、証明されるまでに至っていない(注5)。前例は盛岡高等農林学校三年時、卒業後の進路に悩み始めていた時期の強風に揺れる桜並木の情景である。後例は上京中の賢治と保阪嘉内で盛岡高等農林時代の恩師関豊太郎を訪ね花見の宴を持った折の、酔いしれる師と自らの悩みを抱えてか酔えない友、自身の宗教への満たされぬ思い、見通せぬ将来とが、桜の風景の中に描かれ、共通した言葉も多い。
 うねる桜の枝、波立つ花の様子と、全体に風によって動く風景が描き出され、〈みだらにかける〉雲は、賢治がいつも雲に対して抱いていた心乱される思いを表す。桜は、「土神ときつね」における女性の樺(サクラの地方名)の木をめぐる三角関係や、〔向ふも春のお勤めなので〕、「或る農学生の日誌」での桜の花からのカエルの卵の連想など、性のシンボルとしてあり、三連に登場する鳥も性を象徴する黄色で、樹木の中を間を飛びかうという繁殖期の特徴的な行動を描く。
 ここに描かれる荒らぶる風は、賢治の愛する自然現象ではあるが、人や世界を揺り動かし、破壊する力を持つ自然のもう一つの面である。そこにあった、桜は乱れた雲や鳥のあやしい動きとともに、賢治の心をいたたまれないものにしたのではないか。タイトル〈風桜〉は、その二つを暗示するために作られた造語である。
 「風底」(「一百篇」)のタイトルも造語で、定稿のみ残されている。上空に何もない宇宙の底のような雪原に一人荷を負って行く者を描く。
漢字二字の造語という無機質なタイトルに秘められたものは、前者は、うごめく心、後者は自然の中の自然の中の人間の小ささと孤独である。
 
2風によって創られる象徴的なフレーズ―〈無色の風〉・〈銀の風〉・〈風輪〉・〈風のみち〉〈風の雲〉
 
こはやまつつじ丘丘の、栗また楢にまじはりて、熱き日ざしに咲きほこる。/なんたる冴えぬなが紅ぞ、朱もひなびては酸えはてし、紅土
((ラテライト))にもまぎるなり。
いざうちわたす銀の風、 無色の風とまぐはへよ、 世紀の末の児らのため。/さは云へまことやまつつじ、 日影くもりて丘ぬるみ、 ねむたきひるはかくてやすけき。(「山躑躅」 「一百篇」)
      

 「装景手記」の一二一行から、山躑躅に関する部分、五行のみ文語詩化したもので、下書稿一(メモ)、下書稿二とも一部語句の推敲があるのみで内容は変わらない。風の表現も下書稿一から出現する。
〈紅土〉に付されたルビ〈ラテライト〉は酸性土として知られる。風が、赤褐色の山躑躅を吹き、その色を冴え冴えとしたものにしてほしい、という願いは、酸性土を農業に適した豊かな土地に変えてほしい―という願いの暗喩でもある。
 〈無色の風〉、〈銀の風〉は、未来を変える力を秘めたもの、という意味を持って造られたフレーズである。
〈風輪〉・〈風のみち〉(「五輪峠」「五十篇」)では、前者は五大要素と一つとして世界を構成するもの、後者はそれと対比させるように描かれた現実社会の苦悩を意味するのではないか。
 〈風の雲〉(「上流」「五十篇」)に象徴されるものは、害をもたらす気象条件としての風と、風一つで崩れる農業への危うさである。
 
3歌曲の歌詞として―〈風とひかり〉・〈夜風にわすれて〉
 
春はまだきの朱雲を/アルペン農の汗に燃し/縄と
((((マダカ)にうちよそひ/風とひかりにちかひせり(「種山ヶ原」 「一百篇」)
 
 賢治のよく用いるフレーズである。〈ひかり〉は全ての人々に平等に恵みを与えるものとしてまた心地よいものとして、万物に注げという祈りを感じる。 この詩は、「歌曲」として、ドボルザーク「交響曲第九番 新世界より」の第二楽章の旋律を付けて生徒たちにも教えていて、このフレーズも必然的に歌詞、という一面を持つ。
 〈夜風にわすれて〉(「ポランの広場」「一百篇」)は、童話「ポラーノの広場」の挿入歌、歌曲「ポラーノの広場の歌」としても用いられ、第一連は「農民芸術概論綱要」の「農民芸術の綜合」にも同様の意図を持って用いられる。
 歌曲は賢治の理想―芸術と労働の融合を具現するためのものであった。〈風〉は、周辺を取り巻く空気、透明なもの、宇宙につながるもの、を象徴するものとして、フレーズとなって歌われることを目的の言葉となったのである。
 
V主体の心象を象徴する風
 
きみにならびて野にたてば、風きららかに吹ききたり、/柏ばやしをとゞろかし、枯葉を雪にまろばしぬ。
げにもひかりの群青や、山のけむりのこなたにも、/鳥はその巣やつくろはん、ちぎれの艸をついばみぬ。 (〔きみにならびて野にたてば〕 「五十篇」)
 
 下書稿一は「雨ニモマケズ手帳」に書かれ、その三連に〈「さびしや風のさなかにも/鳥はその巣を繕はんに/ひとはつれなく瞳(まみ)澄みて/山のみ見るときみは云ふ」であり、下書稿二のタイトルが恋愛を象徴する「ロマンツェロ」であることから、〈きみ〉は女性ともいわれる。
 一方、下書稿一の〈まこと恋するひとびとの/とはの園をば思へるを〉からすると、言及されているのは〈まこと〉―賢治の求めつづけた大きな真実―であり、〈きみ〉は大正十四年五月一〇日、一一日小岩井農場から姥屋敷をへて柳沢、焼走りをともに歩いた(注6)、森荘已池(佐一)とする説(注7)もある。巣作りを詠みこんだのは、誕生と命への思いであったとすれば女性とは限らない。   
 視覚にも訴えて〈きららか〉吹く風の硬質な音感と詩全体の爽やかさからは女性への想いというよりは、信頼を寄せる人物への高揚する心を象徴していると思われる。
 
「水楢松にまじらふは、 クロスワドのすがたかな。」/ 誰かやさしくもの云ひて、えらひはなくて風吹けり。 (中略)
 しばしむなしく風ふきて、声はさびしく吐息しぬ。/「こたび県の負債せる、われがとがにはあらざるを。」 (〔水楢松にまじらふは〕 「一百篇」)
 
 推敲途中には、父親の職業の〈銀行家〉、〈商主〉、僧職を暗示させる息子の記述があるが、定稿では省かれ、引き継がれるべき広大な所有地を示して語る二人の場面として虚構化する。
 森は、緑の濃淡のクロスワードパズルを思わせるミズナラとマツの混淆林、パンの神を思わせる楢の木、順列の法則に従うかのような小道の桜の並木、と肯定的に述べられる。アカマツと落葉広葉樹の混淆林は、林内までよく光が入るので、広葉樹も成長し野鳥の種数や生息個体数が最も多い生物学的にも望ましい林である。下書稿の〈銀行家〉は、花巻銀行の創立に携わった賢治の母方の祖父宮澤善治から想起され、定稿では地方都市花巻の商主を思わせるものとなった。花巻銀行は大正四年に一時休業、昭和四年に盛岡銀行吸収合併、という状態に追い込まれている(注8)。書簡9高橋秀松宛(大正4年8月4日)、書簡467森佐一宛(昭和8年3月30日)にはその事態の一片がうかがえる。
 〈こたび県の負債せる、われがとがにはあらざるを。〉は、その原因ともなった、昭和五年の世界恐慌の影響を受けた花巻の経済界に対する言葉であろう(注9)。
 下書き稿から変わらず出現する〈むなしく〉という形容は、通常は風には使わない。四連の詩の三連までを占める、引き継がれるべき風景の美しさに対して、それを無価値にする四連における現実のあり様、登場する二者の心情やその場の空気を、〈むなしい〉と風を形容することによって、象徴する。
 
野を野のかぎり旱割れ田の、白き空穂のなかにして、/術をもしらに家長たち、むなしく風をみまもりぬ。(「旱倹」「一百篇」)
 
 「三一一昏い秋」(一九二四、一〇、四、「春と修羅第二集」以下「第二集」と略記)を文語詩化したものである。
 「三一一昏い秋」は、心象も背景も「旱倹」同様であるが、〈ひとは幽霊写真のやうに/ぼんやりとして風を見送る〉と、風と共に多様な言葉を使う。文語詩では、空間を見守る以外に為す術もないという状況を〈むなしく風を見守りぬ〉で表し、この天候をもたらす原因ともなる風、風景全体、空虚・空間をあらわす風の持つ意味と重なって、人のむなしい心象を増幅する。
 一連〈鳥はさながら禍津日を はなるとばかり群れさりぬ〉は、文語詩化に際して加えられたものである。自由な鳥と逃げ出すことも出来ない人間との差を書き加えて、背景を明確にする。
 
こよひの闇はあたたかし、風のなかにてなかんなど、/ステッキひけりにせものの、黒のステッキまたひけり。
蝕む胸をまぎらひて、こぼと鳴り行く水のはた、/くらき炭素の燈に照りて、飢饉(けかつ)
供養の巨石並めり。(「病技師〔一〕」 「一百篇」)
 
 
 本来、杖は笏の一種で、君主や高官の権威を顕すための物であったが、十六世紀以降、文化として欧州の貴族や上流階級を中心に広まった。日本には明治維新後、第一級正装にはモーニングに手袋、シルクハットとステッキが定番のスタイルとして浸透した。賢治にはフロックコートの写真もあり、正装用としてステッキを意識していたであろう。弱った身を支える黒く光るステッキは贋物である。
 飢饉
)供養の碑は、花巻市の宮沢家付近の浄土宗松庵寺の、宝暦、天明、天保、の大飢饉での死者供養のための全二十四基の碑で、避けることのできない自然の猛威や社会の軋轢に散った弱者の姿を具現するものである。
 病む身と泣かずにはいられない衝動を抱えて闇の中に出て行く。しかし目に入る飢饉
)供養の碑で、自分の境遇よりももっと過酷な現実を見せつけられる。下書稿一、二の、水車小屋の職人のせき込む姿は、定稿では〈蝕む胸〉となり、タイトルも「病技師」という清書時の賢治の状況を暗示させながら、ステッキを持つような富裕な身でありながら病を抱える悲哀を客観的に描こうとしているのであろう。
 〈風のなかにてなかん〉という状況は、定稿まで変わらない。ここでは、風は背景を表すとともに、病む身と周囲の状況を包み込む大きなものとしてあり、全てを肯定して死を迎えようとする主体の心象を表すものではないだろうか。
 
桐群に臘の花洽ち、雲ははや夏を鋳そめぬ。/熱はてし身をあざらけく、軟風のきみにかぐへる。
しかもあれ師はいましめて、点竄の術得よといふ。/桐の花むらさきに燃え、夏の雲遠くながるゝ。(「公子」「一百篇」)
 
 大正三年四月、盛岡中学校卒業時に副鼻腔炎の手術で入院した折の短歌   〈歌稿B116風木木の梢によどみ桐の木に花咲くいまはなにをかいたまん〉〈歌稿B117雲はいまネオ夏型にひかりして桐の花桐の花やまひ癒えたり〉を原型として成立した。下書稿一は〈父母のゆるさぬもゆゑ/きみわれと 年も同じく/ともに尚 はたちにみたず/われはなほ なすこと多く/きみが辺は 八雲のかなた〉と、病院の看護婦への恋、ともに病んだ父への思いなど、当時の事実が述べられている。

 手入れ段階で、具体的な恋やの父母の記述は消え、定稿では、象徴的な〈師〉、〈点竄の術〉となり、「公子」のタイトルと風の記述が登場する。
公子とは、中国の戦国春秋時代の各国の公族の子弟を言うが、時を経て、貴い身分のあるものの子弟と広く解釈されている。ここでは、賢治自身ではなく、上流社会に生まれ、生きる術を知らぬもの、といった意味で、文語詩の目的、虚構化のために選ばれた言葉である。
 軟風は、ビューホート風力階級3の風で、そよ風である。既に遠く美しいものとなった恋を象徴するものとして、桐の花の美しさ、病気の癒えた清明に加えて、より抽象的な、〈きみ〉を吹く〈軟風〉が加えられたのであろう。
 
みなかみにふとひらめくは、月魄の尾根や過ぎけん。
橋の燈(ひ)
()も顫ひ落ちよと、まだき吹くみなみ風かな。
あゝ梵の聖衆を遠み、たよりなく春は
()らしを。
電線の喚びの底を、うちどもり水はながるゝ。(「二月」「一百篇」)

 
 関連稿とされる「冬のスケッチ第十六葉」で描かれるのは電線を鳴らす風で、風は南風ではあるが冷たく、〈どこかの空で/こおりのかけらをくぐって来たのにちがひない〉という清らかな感が漂い、むしろその音を楽しんでいる。この電線を鳴らす風は後に「ぬすびと」(一九二二、三、二)、「風景とオルゴール」(一九二三、九、一六 『春と修羅』)にも重要な意味を持って登場し、賢治の心象に大きい部分を占めていく。
 〈二月〉は、推敲の都度、形容するものの変更が繰り返されながら残り、タイトルとなる。賢治がこだわった〈二月〉に大角修(注10)は、釈迦入滅の二月十五日を重ね、賢治が自らの死を暗示するものと捉える。
 涅槃の日は旧暦二月十五日であり、太陽暦では三月初旬から中旬にかけてである。「梵の聖衆」は臨終を迎える人の前に来迎する阿弥陀仏と諸菩薩を意味する。死を意識した主体は、西行(注11)のように釈迦涅槃の日に死を迎えたいと願ったのではないか。涅槃は来ているのに、〈梵の聖衆〉の来迎は先のようで、三月は、春といいながら薄寒い。
 一方で、風は激しく吹いて、電線をならし、一つの希望ともいえる欄干にともる燈も消えそうである。その下で川は激しく逆流しながら流れ、一層神経を逆立てさせる。
 かつては、心に残る音であった電線の風音に、死への不安に満ちた心を表すために、〈二月〉の〈みなみ風〉を吹かせたのである。

W、背景を象徴する風
1、内容を増幅させる風

 
卓のさまして緑なる、小松と紅き萓の芽と、/雪げの水にさからひて、まこと睡たき南かぜ。 (〔秘事念仏の大師匠〕〔一〕「五十篇」)
 
 秘事念仏の導師と密造酒の売買人との偶然の遭遇を描く。秘事念仏は東北地方に広まっていた隠し念仏で、昭和初期まで弾圧される存在であったが、表向きの宗教とは別に、この念仏の導師(大師匠)によって生活のなかで様々の行事が行われていた。羅須地人協会のあった桜集落では、隠し念仏と法華経との対立が深かったという(注12)。また、父が檀家総代だった浄土真宗の安養寺は隠し念仏を糾弾したといい、賢治にとっても、隠し念仏は忌むべきものであったであろう。
 公然の秘密といえる隠し念仏の権力者導師と、同じく公然と行われる密造酒を買う者という現実と、同類の二者間の故なき反感を、公然の秘密というものを許すあいまいな社会とともに、生ぬるい風が象徴する。
 
柏原風とゞろきて/さはしぎら遠く喚(よば)ひき。/馬はみな泉を去りて、山ちかくつどひてありき。(〔そのときに酒代つくると〕 「五十篇」)

 下書き稿一のタイトルは「柳沢」である。榊昌子は、「柳沢」([初期短篇綴等])が原点であるという(注13)。
柳沢の原野を背景に、他人の馬を細工して酒代を脅し取ろうとする夫と、闇の中へ他の男を求めて〈奔〉りでて行く妻が描かれる。第二連の妻の眼を表す〈重瞳(ちょうどう)〉は、二重になっている瞳で、貴人の身体的特徴として、権威づけのための伝説にも使われるが、医学的には、虹彩離断、瞳孔膜遺残と思われ、または黒目が黄みを帯びた薄い茶色であるために中心にある眸子がくっきり見えることもいう。背景が柳沢の、「三三〇〔うとうとするとひやりとくる〕に登場する、〈ひとみ黄色のくわしめ〉は妖艶な女性の形容でもある。
 その性に関わるドロドロとした因縁話が、ひとつの闇の中の話として組み立てられ、背景の原野と対照的な人間界の話となる。
 冬でも枯葉を落とさないカシワの風音は騒がしく、サワシギは繁殖の声を上げる。〈とゞろきて〉と形容される風は、闇の中に動くあやしさを象徴するものである。
 
群(む)れてかゞやく辛夷
(花樹((マグノリア)、雪しろたゝくねこやなぎ、/風は明るしこの((さと)の、 士(ひと))はそゞろに吝(やぶさ))けき。/まんさんとして漂へば、水いろあはき日曜((どんたく))の、/馬を相する漢子((をのこ)らは、こなたにまみを凝すなり。(「社会主事 佐伯正氏」 「一百篇」)
 

 〈社会主事〉は社会事業主事で、佐伯正は岩手県社会事業主事等で昭和二年三月〜四年八月まで在任した。賢治の父、政次郎が方面委員―低所得者層の救済など地域の社会福祉事業を目的とする活動を行う名誉職委員―を務めた関係で面識があった。
 佐伯は歌人でもあり岩手の文芸についても関心を持ち、岩手毎日新聞に「退耕漫筆」を不定期に連載していて、昭和五年十月八日には、賢治の『春と修羅』に言及して 理解しがたくても、評価すべきものとその価値を見いだしている。そして羅須地人協会時代の無私の農業指導には絶対の賛辞を送り、このころ広まっていたプロレタリア文学への批判とともに描いている。
昭和六年の佐伯宛書簡315は、昭和二年、賢治が羅須地人協会時代に、収穫したものをリヤカーに乗せて販売に出た花巻で佐伯に遭遇したことを思い起こして書かれている。そこには佐伯が父ではなく賢治に会いに花巻を訪ねてくれたこと、この詩と同様の、〈山浄く風明るいその四月〉、〈日曜日〉の文言がある。
 佐伯の人柄を彷彿とさせるのは、書簡中に見られる、〈水いろの季節〉を表現するのに、Spring, Fruhring,Printemのいずれがふさわしいのか、と大声で叫んだという屈託のなさ、表現へのこだわりを持っていることである。賢治は好感を持って迎えたのであろう。生前かかわりのあった母木光の佐伯評は否定的で、〈士はそゞろに吝けき〉を佐伯正のことと取るが、全体の詩の雰囲気や、前行の〈この郷の〉からかんがえれば、個人ではなく周辺の花巻の人々に対する感想となるのではないだろうか。
 昭和二年の佐伯との遭遇、相手への共感、明るい春の日差し、希望に満ちた日々を想起して発想された詩で、〈風は明るし〉はその時代の幸いを象徴するための言葉である。
 
 2、現実とは反対の風景を描く風
 
みねの雪よりいくそたび、風はあをあを崩れ来て、/萌えし柏をとゞろかし、きみかげさうを軋らしむ。
おのれと影とたゞふたり、あれと云はれし業なれば、/ひねもす白き眼して、放牧
((のがひ))の柵をつくろひぬ。(「賦役」「一百篇」)
 
 定稿の修正前まで、〈風〉は〈崩れ〉来るものであり、〈あを〉いのは雪の形容であったが、最終形で風の形容となって、風景が色をかけられたように一層輝く。
 〈賦役〉は小作農の労働という意味と取れる。その苦しみを淡々と綴る後半に比べて、前半は、雪とスズランの白さ、柏の緑、そして〈青い〉風、と色彩に満ちている。美しい風景を増幅し、人間社会との差の大きさを感じさせるために加えられた風である。せめて労働するものが、その風に包まれることを願う作者の心も感じられる。
 
雪袴黒くうがちし うなゐの子瓜
()みくれば/風澄めるよもの山はに うづまくや秋のしらくも
その身こそ瓜も欲りせん 
((とし)弱(わか))き母にしあれば/手すさびに紅き萱穂を つみつどへ野をよぎるなれ(「母」「一百篇」)
 

 「文語詩篇ノート」の十八ページ、「22 1917」「八月」の項の、〈瓜喰みくる子  日居城野 鳥 母はすゝきの穂を集めたり〉を四角に囲んだメモがあり、この光景は既に高等農林時代の賢治の心に印象付けられていたものといえる。そこにその後の重なる凶作や、発表時の凶作のイメージが重ねられ、若いというよりも幼い母のけなげさを前面に描きながら、背後にある農村の貧しさを訴えるものとなる。
 〈齢若き〉母は、下書稿二で明示される。若い結婚・出産は、貧しさゆえの口減らしのためでもあり、それゆえの不幸も数多く生まれていた。三神敬子(注14)によれば、厚生省人口動態調査で、この詩の発表された二年前、全国結婚総数のうち十八歳未満は十一%を占め、岩手県はその中で五パーセントを占めた。
 現実の重さに重ねて描かれる、反対の爽やかな〈風澄めるよもの山はに〉は、社会の現状を際立たせるために使われるとともに、せめて爽やかな風を若い母親に送りたいという、作者の望みをも象徴するものである。
 現実とは反対の風景の風を描くのは、この二例のみであるが、賢治の対象への思いやりや優しさを感じさせるものとなっている。
 
終りに
「第二集」は、「一百篇」と僅差で風の用例の出現率が高く、用例数ではほぼ三倍近い一四六例に及ぶ。〈盗賊紳士風の風〉(「発電所」)と〈中世騎士風の道徳をはこ〉ぶ風(「四〇八 寅吉山の北のなだらで」)は、前者はモーリス・ルブランの作品に登場する盗賊アルセーヌ・ルパンを、〈青じろい二十日の月〉を吹くひそやかな風の直喩とし、同時に周辺の村の事実を意に介せず動き続ける怪物のような発電所とさらに広く現実社会をも象徴するものであり、後者は、〈枝打ちされた緑褐色の松並〉という風景から導かれて生まれた語で周囲の静謐な風景全体の象徴にもなっている。
 風の形容を借りて、そこに描かれる風景を象徴する方法は文語詩にも引き継がれているが、定形をみたす拍数の平明な言葉が選ばれる。
 「文語詩篇ノート」は、文語詩制作の意図が自らを振り返ることであったことを示す。さらに賢治は伝記的事実を虚構化することで、ひとつの客観的事象として成り立つものにしようとしていた。そのために、多様な意味を含む〈風〉は一語で、様々な事象を表すことができ、有効な修辞の言葉となった、といえる。


 
1『証言宮澤賢治先生』(農文協 一九九二)
2「大正一五年から昭和三年、羅須地人協会時代肥料設計事務所や農事講演   を行った場所」(『宮澤賢治生誕百年記念特別企画展図録』宮澤賢治イーハトーブ館 一九九七)
3栗原敦・杉浦静「「家政日誌」による宮澤賢治周辺資料」(『宮澤賢治研究 Annual vol.15』 二〇〇五)
4佐藤隆房『新版宮澤賢治素顔のわが友』(冨山房 一九九四)
5信時哲郎「風桜」(『宮沢賢治「文語詩稿五十篇」評釈』 朝文社 二〇一〇)
6森佐一宛書簡474(一九三三))
7島田隆輔『宮沢賢治研究 文語詩五十篇・訳注3』(二〇一一) 
8『岩手殖産銀行二十五年史』(岩手銀行 一九六一)
9(岩手県『岩手県史 第十巻』 杜陵印刷 一九六四)
10大角修「二月」(『宮沢賢治 文語詩の森』 柏プラーノ 一九九九))
11西行(一一一八〜一一九〇)に 願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃(「山家集、上、春」) がある。
12飛田三郎(「肥料設計と羅須地人協会」『宮澤賢治研究』(筑摩書房 一九六六)。
13榊昌子『宮澤賢治初期短篇綴の世界』(無明舎出版 二〇〇〇)
14三神敬子「母」(『宮沢賢治 文語詩の森 第二集』 宮沢賢治研究会編 柏プラーノ 二〇〇〇)
 
参考文献
信時哲郎『宮沢賢治「文語詩稿五十篇」評釈』(朝文社 二〇一〇)
島田隆輔『宮沢賢治研究 文語詩五十篇・訳注1〜5』(私家版 二〇一一〜二〇一二)
『岩手県史 第九巻』(杜陵印刷 一九六四)
三谷弘美「病技師〔一〕」(「宮沢賢治文語詩の森」 柏プラーノ 一九九九)
信時哲郎「社会主事佐伯正氏」(「宮沢賢治学会イーハトーブセンター会報第44号琥珀」 二〇一二) 
浜垣誠司氏ブログ「宮澤賢治 詩の世界」
小林俊子「風の修辞―「春と修羅第二集」・「春と修羅第二集「補遺」」において」
(『宮沢賢治絶唱 かなしみとさびしさ』(勉誠出版 二〇一一)
「宮沢賢治の文語詩における風の意味」 第一章、第二章の1、第二章の2(小林俊子ブログ「宮沢賢治風の世界」)
 
 テキストは『新校本宮澤賢治全集』による。

 







3月の永野川(2014)
8日
  3、4日前から寒波が続き、朝から少し風もありました。
  上人橋上流で、アオサギ2、ダイサギ1、コサギ1、と揃いました。コサギがこのところ毎回確認できます。
  赤津川合流点付近でカワラヒワ5羽、スズメかと思っていたら、鮮やかな黄色の羽をはばたかせて飛びました。
  合流点上流のズミ(?白い花と赤いサクランボ風の実が付きます)の木にカワセミ1羽、川側にひっそりと留っているのが枝越に見えました。
  畔に、ホオジロ2羽とカシラダカ2羽、いっしょにいて違いを確かめることができました。先月から、誤って確認しているのか、と心配でしたが、ホオジロは私でも見慣れているし、カシラダカをホオジロに間違えることはなさそうです。
  バンが瓦工場の前の低木に登り、カイツブリのツガイは、スピードを上げて泳いだり、と元気でした。カイツブリのこの行動は繁殖行動でしょうか。
風があって草むらの鳥たちは姿を見せませんでしたが、大岩橋下河川敷にムクドリ19羽、ここでは珍しいのです。
  公園の池にはヒドリガモが17羽戻りました。
  二杉橋の近くで今年初めてウグイスの囀りを聞きました。たった一声、それもまだ言葉が半分くらいでしたが、今年もウグイスがここにいて春が近づくことはとても嬉しいことでした。
 
17日
  4月の気温、ということですが、結構風が強く、鳥は姿を見せません。緑地公園から回りましたが、カワセミも、シメも出ず、対岸の草むらでホオジロが3羽上に出て来たのみでした。
芝生にツグミがあちこちで走りまわり、合計で10羽になりました。
  池のヒドリガモは変わらず17羽ですが、カルガモ38、コガモ12、今年は少ないままで終わるのでしょうか。
  あちこちの草むらでホオジロは合計17羽、と、多かったのですが、カシラダカ、オオジュリンには会えませんでした。気がつけば、草むらにあったセイタカアワダチソウ等の実はすっかり無くなっていて、もう餌場ではないようです。
  トビが3羽、川に影を落とすほど低く悠然と舞っていました。
 
24日
  暖かさがようやく定着したようです。風もありませんでした。
  二杉橋から廻ると、草むらで一瞬オオジュリンの声か、と思われる、チィーチィーという声を聞きました。自信はないのですが、今年は姿もあまり見なかったので、嬉しく、オオジュリンと思うことにします。
カルガモ、セグロセキレイ、ハクセキレイも多く、ウグイスも上手に囀るようになっていました。
  赤津川にはいって、飛び立ったものが一瞬、腰が白く、眼で追っていくとイソシギよりも少し大きく、首の下の白い食いこみが不明瞭で、もう一度飛び立つと、尾が白く見え、確かにクサシギでした。ここでは珍しく、少し下流の大平区域、両毛線鉄橋付近で一度見たことがあるのみです。
  バンがあちこちで元気に泳ぎ、9羽確認できました。カルガモ47、コガモ22、と今季では多いほうでした。
  上空で、ハシブトカラス5羽に追われているオオタカを発見。かなり近くまで降りて来たので、白い腹面に茶色の斑点、尾の状態などはっきり確認できました。トビを始め、猛禽がいつもカラスに追われるのなぜでしょうか。不思議です。
  ウグイスと共にカワラヒワも囀り始めました。
  公園内の池ではヒドリガモ20羽に増えました。もう渡るのでしょうか。
  公園の土手を走っていた時、一瞬チルチルジュルジュルという声―もしかしたらツバメだったのかもしれません―を聞きましたが、姿は確認できませんでした。もうそんな季節なのですね。これからは注意してツバメを探そうと思います。
 
鳥リスト
キジ、カルガモ、コガモ、ヒドリガモ、カイツブリ、キジバト、カワウ、ダイサギ、アオサギ、コサギ、バン、イソシギ、クサシギ、イカルチドリ、オオタカ、コゲラカワセミ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、ヒバリ、シジュウカラ、ヒヨドリ、ウグイス、エナガ、ムクドリ、ツグミ、ジョウビタキ、スズメ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、カワラヒワ、シメ、ホオジロ、カシラダカ、オオジュリン、アオジ