| ……前略…… ああおらはあど死んでもい) (おらも死んでもい) (それはしよんぼりたつてゐる宮沢か さうでなければ小田島国友 向ふの柏木立のうしろの闇が きらきらつといま顫えたのは Egmont Overtureにちがひない たれがそんなことを云つたかは わたくしはむしろかんがへないでいい) (伝さん しやつつ何枚、三枚着たの) せいの高くひとのいい佐藤伝四郎は 月光の反照のにぶいたそがれのなかに しやつのぼたんをはめながら きつと口をまげてわらつてゐる 降つてくるものはよるの微塵や風のかけら よこに鉛の針になつてながれるものは月光のにぶ (ほお おら……) 言ひかけてなぜ堀田はやめるのか おしまひの声もさびしく反響してゐるし さういふことはいへばいい (言はないなら手帳へ書くのだ) とし子とし子 野原へ来れば また風の中に立てば きつとおまへをおもひだす おまへはその巨きな木星のうへに居るのか 鋼青壮麗のそらのむかふ (ああけれどもそのどこかも知れない空間で 光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか …………此処あ日あ永あがくて 一日のうちの何時だがもわがらないで…… ただひときれのおまへからの通信が いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ) とし子 わたくしは高く呼んでみやうか ……後略…… (「風林」) |
1922年11月17日、賢治は妹トシを失います。『春と修羅』では、「無声慟哭」の章に、臨終の有様と死の衝撃を描いた「永訣の朝」、「松の針」、「無声慟哭」と、6カ月後の詩、「風林」、「白い鳥」の5篇の詩が括られています。
死の日付を持つ三篇には風は描かれていません。伝わってくるのは、死によって、もぎ取られるように去って行くていく妹への追いすがるような思いと、自らの心の中の修羅をみつめる二つの悲しみで、読む者の心までしみとおるように痛みます。その後、1923年6月3日の「風林」まで詩作はとだえてしまいます。
「風林」では、タイトルに〈風〉が使われます。
「風林」は賢治の造語で、風の吹く林、ということだと思いますが、それだけでは終わらない、ものがあります。〈風〉の持つイメージ、透明なもの、風景を揺らし、何かを語るもの、と〈林〉の持つイメージ、緑、さわやかさが重なるためでしょうか。
賢治は生徒たちと夜の林の中にいます。林の中にきらめく光にはEgmont Overtureを思い、林をもれてくる月光には〈風のかけら〉を見つけます。
生徒の会話を聞きながら、言いかけてやめた生徒の〈(ああおらはあど死んでもい)/(おらも死んでもい)……(ほお……おら)〉を聞きます。生徒は重い意味もなく発した言葉には、余裕を持って〈言ひかけてなぜ堀田はやめるのか/おしまひの声もさびしく反響してゐるし/さういふことはいへばいい/(言はないなら手帳へ書くのだ)〉と思いやりの言葉をかけています。でも賢治はトシを思い起こしてしまいます。
後に「噴火湾」(ノクターン)一九二三、八、一一)にも記される、生前のトシの言葉、〈(おらあど死んでもいゝはんて/ あの林の中さ行ぐだい/うごいで熱は高ぐなつても/ あの林の中でだらほんとに死んでもいいはんて)と重なったのです。
〈巨きな木星のうへ〉、〈鋼青壮麗のそらのむかふ〉、〈光の紐やオーケストラ〉のあるところ、と死後の妹の心地よい居所を願います。現実に戻って、生徒たちの手の冷たさを思いやり、詩は終わっています。
〈風の中に立てば〉は自然の中にいること、トシが風の吹く林を愛していた、という意味のほかに重要な意味を持ちます。
賢治作品に頻出する、〈まことの言葉〉は、仏の真言を意味すると同時に、自然の中から伝わるものであった、という指摘は、すでに天沢退二郎氏によってなされています。(注1)
『注文の多い料理店』序の、〈これらのわたくしのおはなしはみんな林や野原や鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。〉や「鹿踊りのはじまり」の〈わたくしがつかれてそこに睡りますと、ざあざあ吹いていた風が、だんだん人のことばにきこえ、やがてそれは、いま北上の山の方や、野原に行われてゐた、鹿踊りの、ほんたうの精神をかたりました。〉、〈嘉十はにはかに耳がきいんと鳴りました。そしてがたがたふるへました。鹿どもの風にゆれる草穂のやうな気もちが、並になって伝はって来たのでした。〉、「風の又三郎」で、誰がうたうともしれず、また深い意味をも持つ〈雨はざっこざっこ雨三郎、風はどっこどっこ風三郎〉など、多くの例があります。
賢治は風の中に〈まことの言葉〉としてトシの言葉をもとめていたのでしょう。林を慕っていたトシのことを重ねて、〈風林〉としたのもそれゆえではないでしょうか。
この詩の後ではどうか、重ねて検証してみます。
……前略……
二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる
(それは一応はまちがひだけれども
まつたくまちがひとは言はれない)
(日本武尊の新らしい御陵の前に
おきさきたちがうちふして嘆き
そこからたまたま千鳥が飛べば
それを尊のみたまとおもひ
芦に足をも傷つけながら
海べをしたつて行かれたのだ)
……後略……(「白い鳥」)
翌日6月4日日付の「白い鳥」も同様に生徒たちとの野外活動を描いています。背景は朝の鞍掛山周辺の牧場です。ここでは風は描かれません。同時にトシへの呼びかけもありません。
かわりに描かれるのは〈白い鳥〉です。トシの身代わりのように賢治は鳥を追い、その鳴き声に胸を引き裂かれます。古事記の日本武尊の話も裏付けとなって、賢治の思いは一層強くなったようです。
この後二カ月、また賢治は詩を残していません。多作だった賢治の心の傷がいかに深かったかを示すものです。
八月に残された挽歌群については、後の稿にしたいと思います。
注 天沢退二郎『宮沢賢治の彼方へ』 1968 思潮社