風はそらを吹き
そのなごりは草をふく
おきなぐさ冠毛の質直(しつぢき)
松とくるみは宙に立ち
(どこのくるみの木にも
いまみな金のあかごがぶらさがる)
ああ黒のしやつぽのかなしさ
おきなぐさのはなをのせれば
幾きれうかぶ光酸の雲
5月17日の日付の「おきなぐさ」です。
冒頭から〈風はそらを吹き/そのなごりは草をふく〉と、風は読む者の眼を上下に、広い空間に向けさせています。賢治も風を追って見ているのだと思います。
〈質直(しつぢき)〉は地味で生真面目、という意味合いですが、オキナグサの冠毛が〈質直〉だったということは、飛散する前の繊細な糸の様がその時の賢治の眼にはそう映ったのでしょうか。
また賢治の眼は上方に転じて、クルミやマツを見ています。クルミは〈金のあかご〉をつけ次世代への準備をしています。クルミやマツなどあまり大きくないものが〈宙に立ち〉ということは、賢治は野原に寝転び、下から見上げているのでしょう。
ここで大きな疑問は〈黒のしやつぽ〉がなぜ〈かなし〉いのか、〈黒のしやつぽ〉とは何かです。5月14日の日付の詩「休息」に〈帽子をとつてなげつければ黒のきのこしやつぽ〉があり、時間的、位置的にも近いので、同じ帽子と見て良いと思います。これは、風景にそぐわない帽子―すなわち自分という繋がりでしょうか。
賢治は終生帽子を愛用していたようです。よく知られているのは、ベートーヴェンを真似たという写真で着用している、ボーラーハット―山高帽―で盛装用です。これは黒色ですが〈きのこしやつぽ〉とは言えない気がします。2000年7月24日岩手日報記事によると、父政次郎氏が賢治に買い与えたものらしいという茶色のフェルト帽が見つかりましたが、これも山高帽型です。
佐藤隆房『宮沢賢治素顔のわが友』(冨山房)に出て来る帽子は、麦わら帽子、鉋屑帽子、黒い帽子、パナマの帽子などでした。(ちなみに鉋屑帽子(かんながらぼうし)は鉋屑で編みあげた帽子で、1924年農学校の生徒たちと土質調査に行った時に着用していたとされます。現在も存在するもので、ヒノキなどで編めば心地よい香りに包まれそうです。)
1922年当時、あるいは賢治は身だしなみを意識して黒いお洒落な帽子を着用して野原を歩き、この帽子の違和感を持ち始めたのかもしれません。〈かなしさ〉という言葉は、賢治のそんな心の動きを表現しようとしたものでしょうか。
空の底に横たわった賢治は、その帽子とオキナグサを一つの絵として捉えて後、そのまま眼を空に向けます。ここでも手元の〈黒のしやつぽ〉から上方の〈雲〉への視線の変化があります。
〈光酸〉という語は、管見した限りではみつかりませんでしたが、『標準化学用語辞典』(丸善 1991)によると〈光酸化〉は「光の吸収によって起こる酸化反応の総称。光を吸収した物質の酸化から光励起種が酸性物質を活性化して起こす酸化までを含む」とあり、他の辞典で光による退色等も含むとあります。賢治が何を意図して〈光酸〉という語を使ったかは不明ですが、雲が太陽光によって、化学変化を起こしたような色彩に変化していることだと思います。
同じような感覚の言葉として翌日18日の日付の「真空溶媒」(『春と修羅』)、に〈こここそわびしい雲の焼け野原/風のヂグザグや黄いろの渦/そらがせわしくひるがへる/なんといふとげとげしたさびしさだ〉、では風の形容にからませながら雲の様子を記述しています。
童話「おきなぐさ」で、オキナグサのみつめる雲の姿を思い出します。そこでは、雲は切れ切れに飛ぶのですが、〈山脈の雪はまっ白に燃え、眼の前の野原は黄いろや茶の縞になってあちこち堀り起された畑は鳶いろの四角なきれをあてたやうに見えたりしました。/ おきなぐさはその変幻の光の奇術の中で夢よりもしづかに話しました。〉と、雲によって変化するのは地上の風景です。〈風〉を視覚から描くとき、多くの場合、雲の描写でした。
かはばたで鳥もゐないし
(われわれのしよふ燕麦(オート)の種子(たね)は)
風の中からせきばらひ
おきなぐさは伴奏をつゞけ
光のなかの二人の子
同じ日付の「かはばた」です。
カッコでくくられた(われわれのしよふ燕麦(オート)の種子(たね)は)は、過去の事実か心象風景です。童話「おきなぐさ」には〈小岩井の野原には牧草や燕麦がきんきん光って居りました。〉とあり、燕麦はこの時期には成長しています。
〈せきばらひ〉は誰でしょうか。風の音とも考えられますが、あるいは人恋しく、風の音が咳払いに聞こえたのでしょうか。
「鈴谷平原」(一九二三、八、七)にも同じような表現がありました。この時は〈サガレンの古くからの誰かだ〉とそこの歴史のことを考えています。
風の音のなかに潜むものまでを聴きとれる、静寂の中で、〈伴奏をつゞけ〉るオキナグサとは、そろって風に揺れている姿の形容です。あるいは賢治はそこから何か音を聞き取っているのかもしれません。
賢治は本質的に子どもが好きだったのだと思います。詩の中の多くの場合、肯定的な暖かな眼が注がれています。ここで子どもは光に包まれていました。
風と光と雲と、切り取られた風景の中で、輝いています。
童話「おきなぐさ」の一節に、〈それから二ヶ月めでした。私は御明神へ行く途中もう一ぺんそこへ寄ったのでした。〉がありました。〈御明神〉は、現在、岩手県岩手郡雫石町の御明神、上野、橋場一体で、昭和30年まで、御明神村でした。
そして、そこには盛岡高等農林学校付属の演習林と経済農場があり、果樹や畜産、林業の実習教育が行われ、賢治も実習のためたびたび通っていました。当時の交通手段は全て徒歩で、賢治が周辺の風景や植物や鉱物を、心の糧として蓄積して行ったことは想像できます。
短歌でも、オキナグサは大正4年〜6年、歌稿AB234、321、453、504、と4回読まれています。主に群れ咲く花の風景ですが、453は、〈ベムベロ〉という呼び方への賛歌で、504は冠毛の飛散の美しさが詠まれていて、オキナグサへの想いが次第に醸成して行ったことが感じられます。
「おきなぐさ」、「かはばた」の2作には、トシの死という不幸に見舞われる以前、賢治がひたすら、風や雲や光の中に心象を溶け込ませた時代を感じることができます。
次回は、小岩井農場を舞台にした風について考えます。
参考 雫石観光協会HP