宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
7月の永野川
6日
 相変わらず雨が多く、濁ってはいないものの、川の水量は増えています。
上人橋付近でカルガモ9羽、久しぶりで大きな群れのような気がします。
 栃木工業高校の近くの桜の並木で、複数のシジュウカラ、コゲラの鳴き声のみ聞くことができました。ここはよく見ると、高校のポプラ属の大木と公園の並木が連なって意外に大きな木立となっています。
 公園では、モズの若鳥や、小ぶりでいかにも幼い感じのするスズメなど目立ちます。また第五小の対岸のクルミの木で、ずっと同じ調子で鳴き続ける個体がいて、やっと双眼鏡に入ったのはヒヨドリの巣立ち間もないヒナでした。ほとんど灰色一色で、嘴は黄色く、いくらか咽喉に模様が見えました。〈嘴の黄色い奴〉という語にぴったりでした。巣立ちの季節ですね。
 アオサギが多く、そこここで10羽、他のサギ類はいませんでした。
 ヤブカンゾウの花が一斉に咲き始めました。今年は、ヨシを始め野草の生育がよいような気がします。
 キリギリスも鳴き始め、なにかよい声の虫?(蛙ではないようです)が聞こえました。虫の声も知っていると面白いのでしょうね。
 
15日
 朝も6時近くなると日差しもかなり強くなります。
 新井町でチュウサギ1羽、黄色くて先の黒い嘴で確認しました。またひとつ季節が進みました。
 赤津川の合流点付近のカルガモの9羽の群れは、遠かったのですが、幾らか小さめのものもいるので一つの家族かもしれません。新井町の水田では、 19羽で採餌中の群れにも会いました。
 永野川の睦橋下の河川敷でアオサギが羽を乾かしていました。羽を広げているのではなく、体の前方に合わせている感じで、ほとんど動かず、最初見た時は、一瞬、ゴミかと思い、次にはデコイかと思いましたが、いくらか首を動かしたので、やっと確認できました。10分後に見たときも全く同じ姿勢でした。
 アブラゼミが鳴き始め、キツネノカミソリが蕾をつけました。
今年はヨシの生育がよく緑が美しく嬉しいのですが、管理者には頭痛のタネとなってしまうのでしょうか。それとも、少し考えて管理してくれているのでしょうか。
 あまり鳥種が出ませんでしたが、面白いものを見た日でした。
 
26日
 5時半には川に着いて、さすがに涼しかったのですが、鳥の姿がありません。ツバメも1羽ずつ時々やってくる程度です。
 新井町の田で、サギ4羽、3羽は大きさから、チュウサギだと思うのですが、夏羽では黒いはずの嘴がすべて黄色です。1羽は小ぶりで嘴は黒く、コサギと思えますが、冠毛はありませんでした。季節による変化はどのように進むのか、まだまだ勉強不足です。
 ホオジロの囀りは2度ほど、キジもカワセミも見えず、スズメさえも少ないようでした。
 新井町の作業場らしいところで、野焼きの大きな煙が広がり、眼に沁みました。何を燃やしているのか、木や草だけならよいのですが。
 ヨシも茂りましたが、クズが勢いを持ち始めました。在来種であり、蔓も葉もきれいで、花の香りも良いのですが、困りものになりつつあるようです。何とかうまい共存法はないのでしょうか。
 季節が変わって、もっとたくさんの鳥に出会える時が来るのを待っています。
 
鳥リスト
キジ、コジュケイ、カワウ、ダイサギ、チュウサギ、コサギ、アオサギ、カルガモ、キジバト3、イカルチドリ、ヒバリ、ツバメ、ウグイス、セグロセキレイ、モズ、ホオジロ、カワラヒワ、シジュウカラ、コゲラ、スズメ、ムクドリ、ヒヨドリ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、
 

 
 
 







和風は河谷いっぱいに吹く
    
一〇八三  〔南からまた西南から〕一九二七、七、一四、
 
南からまた西南から
和風は河谷いっぱいに吹く
七日に亘る強い雨から
徒長に過ぎた稲を波立て
葉ごとの暗い露を落して
和風は河谷いっぱいに吹く
この七月のなかばのうちに
十二の赤い朝焼けと
湿度九〇の六日を数へ
異常な気温の高さと霧と
多くの稲は秋近いまで伸び過ぎた
その茎はみな弱く軟らかく
小暑のなかに枝垂れ葉を出し
明けぞらの赤い破片は雨に運ばれ
あちこちに稲熱の斑点もつくり
ずゐ虫は葉を黄いろに伸ばした
 
今朝黄金のばら東もひらけ
雲は騰って青ぞらもでき
澱んだ霧もはるかに翔ける
森で埋めた地平線から
たくさんの古い火山のはいきょから
風はいちめん稲田をゆすり
汗にまみれたシャツも乾けば
こどもの百姓の熱した額やまぶたを冷やす
 あゝさわやかな蒸散と
 透明な汁液の転移
 燐酸と硅酸の吸収に
 細胞膜の堅い結束
乾かされ堅められた葉と茎は
冷での強い風にならされ
oryza sativaよ稲とも見えぬまで
こゝをキルギス曠原と見せるまで
和風は河谷いっぱいに吹く (「詩ノート」)

 
 
  この詩は、前回取り上げた「青い槍の葉」(一九二二、六、一二)の五年後に書かれました。ここで描かれる稲は、学校の農園ではなく、賢治が農業者となり、指導や助言をした農家の稲です。
 直前の〈十二の赤い朝焼け〉、〈湿度九〇の六日〉〈異常な気温の高さと霧〉で、伸びすぎ倒れた稲ですが、この日、〈河谷いっぱいに吹く〉〈和風〉は、に乾かされ、見事に立ちあがって、田一面の揺れて大きな風景となりました。
  〈和風〉は風力を表す気象用語です。1806年、イギリス海軍のF.ボーホートが提唱したもので、風力を13の階級に分け、それに対応した海上の様子を表に作成しました。1964年、世界気象機関が、風力の標準的な表現法ビューホート風力階級表として採択しました。
  和風(moderate breeze) はその5番目、5.5〜7.9m/s 11〜16ノットで、砂埃が立ち小さなごみや落ち葉が舞う程の風です。和風という言葉から感じられるよりは少し強い気がしますが、埃や砂がなければ、この風に向かって立つのは快いのではないでしょうか。
  まだ露を含んで倒れている稲を見廻っていた作者に、快い程度に強い風が〈河谷いっぱい〉に吹き、稲の露を瞬く間に払って稲は起き上がります。稲の青々した香りや生き生きとした樹液の動きも満ちています。
  作者は自分の汗と同時に、働く子供にも優しい目を向けています。
  起き上がって風に吹かれる一面の稲は強く、作者は、かねてから関心のある中央アジア、キルギスの草原を連想します。
  天候や病害虫への心配など、それまでの労力や憂いを、風はすべて吹き流して行くのです。 
 「一〇二一 和風は河谷いっぱいに吹く」は、この詩の発展形で、「春と修羅第三集」に収められています。長いですが次に記します。
 
一〇二一  和風は河谷いっぱいに吹く  一九二七、八、二〇、
 
たうたう稲は起きた
まったくのいきもの
まったくの精巧な機械
稲がそろって起きてゐる
雨のあひだまってゐた穎は
いま小さな白い花をひらめかし
しづかな飴いろの日だまりの上を
赤いとんぼもすうすう飛ぶ
あゝ
南からまた西南から
和風は河谷いっぱいに吹いて
汗にまみれたシャツも乾けば
熱した額やまぶたも冷える
あらゆる辛苦の結果から
七月稲はよく分蘖し
豊かな秋を示してゐたが
この八月のなかばのうちに
十二の赤い朝焼けと
湿度九〇の六日を数へ
茎稈弱く徒長して
穂も出し花もつけながら、
ついに昨日のはげしい雨に
次から次と倒れてしまひ
うへには雨のしぶきのなかに
とむらふやうなつめたい霧が
倒れた稲を被ってゐた
あゝ自然はあんまり意外で
そしてあんまり正直だ
百に一つなからうと思った
あんな恐ろしい開花期の雨は
もうまっかうからやって来て
力を入れたほどのものを
みんなばたばた倒してしまった
その代りには
十に一つも起きれまいと思ってゐたものが
わづかの苗のつくり方のちがひや
燐酸のやり方のために
今日はそろってみな起きてゐる
森で埋めた地平線から
青くかゞやく死火山列から
風はいちめん稲田をわたり
また栗の葉をかゞやかし
いまさわやかな蒸散と
透明な汁液の移転
あゝわれわれは曠野のなかに
芦とも見えるまで逞ましくさやぐ稲田のなかに
素朴なむかしの神々のやうに
べんぶしてもべんぶしても足りない
 
   稲は無事花をつけました。稲の開花にその先の実りを予測して作者の心は高揚します。〈たうたう稲は起きた/〈まったくのいきもの/まったくの精巧な機械/稲がそろって起きてゐる〉は、長い憂いの時から一転した良い結果への驚きの言葉です。そこに〈風〉の吹き渡る心地よい風景が加わり、最終章〈素朴なむかしの神々のやうに/べんぶしてもべんぶしても足りない〉で、育てたものの喜びが最大の言葉で書かれます。
  作者は7月の時点の稲の起き上がった情景と8月の稲の開花の情景を、風を背景に組み立て直し、詩は人間の心の詩になりました。
   でも二つを比べた場合、私は前者の方が好きです。
  〈十二の赤い朝焼けと……〉、〈稲熱の斑点〉、〈ずゐ虫は葉を…〉、〈汗にまみれたシャツ…〉、〈こどもの百姓の熱した額…〉と、短い具体的な事実を並べ稲作の労苦を描き、そこに、〈和風は河谷いっぱいに吹く〉が3回配置され、風の心地よさと恩恵が描かれます。ここにあるのは作者の体感した純粋な感動そのものです。
  それを原点にして、稲作の成功を目前にした喜びを、みなと分かち合うような気持ちで描いたのが、後者だと思います。
 

 







ゆれるゆれる……
  
  青い槍の葉 (mental sketch modified)
 
  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
雲は来るくる南の地平
そらのエレキを寄せてくる
鳥はなく啼く青木のほづえ
くもにやなぎのかくこどり
  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
雲がちぎれて日ざしが降れば
黄金の幻燈 草の青
気圏日本のひるまの底の
泥にならべるくさの列
  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
雲はくるくる日は銀の盤
エレキづくりのかはやなぎ
風が通ればさえ冴え鳴らし
馬もはねれば黒びかり
  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
雲がきれたかまた日がそそぐ
土のスープと草の列
黒くおどりはひるまの燈籠
泥のコロイドその底に
  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
りんと立て立て青い槍の葉
たれを刺さうの槍ぢやなし
ひかりの底でいちにち日がな
泥にならべるくさの列
  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
雲がちぎれてまた夜があけて
そらは黄水晶(シトリン)ひでりあめ
風に霧ふくぶりきのやなぎ
くもにしらしらそのやなぎ
  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)
りんと立て立て青い槍の葉
そらはエレキのしろい網
かげとひかりの六月の底
気圏日本の青野原
  (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)   (『春と修羅』)
 
 『春と修羅』初版本目次のこの詩のタイトルの下には、(一九二二、六、一二)の日付があります。
  田一面に揃う早苗―〈青い槍の葉〉を描いています。
  『春と修羅』出版以前にも、大正12 (1923)年、賢治の信奉していた日蓮宗、国柱会の機関紙『天業民報』に「青い槍の葉」(挿秧歌)として発表されました。挿秧は田植えを意味します。
  花巻農学校でも、田植えは稲刈りと共に農業の二大行事で、全校総出で終日行われ、賢治は水田の担当で、「青い槍の葉」を田植え歌として全生徒に歌わせ、作業を進めたと言われています(注1)。
  作曲者は不詳です。佐藤泰平氏(注2)の採譜したメロディはハ短調、民謡風で、科学用語や気象用語も多く明るい詩からは少し離れた感じですが、田植え歌としてなら納得できます。
  一面にそよぐ早苗は、これから米となり人の糧となり、未来への希望だったと思います。また育ちゆく命の象徴です。賢治にとってかけがえのない大切なものだったのでしょう。
  雲、エレキ、黒光りの馬、光、黄金の幻燈、と輝く言葉で飾られ、カッコウの声に包まれ、広大な〈気圏の底〉の、〈泥のスープ〉という好ましい土壌で、〈りん〉と育つよう祈りが込められるのです。
  それらを取り巻くものはやはり風です。風という文字は〈風が通ればさえ冴え鳴らし〉、〈風に霧ふくぶりきのやなぎ〉の二か所しかありませんが、 この詩は風がたくさん吹き渡っている感があります。
  それは〈ゆれるゆれるやなぎはゆれる〉を8回詩の中に組み込んでいるからでしょうか。民謡の合いの手のような役目で、全体が五拍七拍のリズミカルな詩のなかに、六拍七拍で詩全体のアクセントともなっています。
  カワヤナギとよばれるものは、ヤナギ科ヤナギ属のナガバカワヤナギ、ネコヤナギがあります。ネコヤナギが低木なのに対してナガバカワヤナギは小高木になり、この詩に描かれるように風に揺れる大きな風景となるのはナガバカワヤナギだと思います。川沿いに自生し、葉裏は粉白色で、風に葉が裏がえる様は、ギンドロやタバコと同様、賢治の好きな風景でした。
  「鳥をとるやなぎ」でも、〈にはかにさっと灰色になり、その葉はみんなブリキでできてゐるやうに変わってしまいました。そしてちらちらちらちらゆれたのです。〉と描かれています。〈煙山にはエレッキの柳の木があるよ〉は、木に吸い込まれるように一斉に飛びこむ鳥の群れを不思議に思う子供の言葉で、賢治はそこに電気を感じ、さらに磁力を連想しています。
  〈エレキづくりのかはやなぎ〉から感じられるのは、ヤナギに電気を感じた賢治が、空中の窒素が雷など自然放電によって酸化され雨水に溶けて土壌に固定されることを連想し、豊かな肥料をもたらしてくれることも夢見たのではないでしょうか。
  風は、雲を運び、空中のエレキを集め、陰や日なたを作り、シトリンの様な日照り雨を降らせ、ヤナギを揺らし、風景を次々に変えていきます。ヤナギは風を受けてせっせと肥料を作ります。そのなかで大切な〈青い槍の葉〉は〈りん〉と並びます。
  賢治の風は、ただ吹き抜けるだけのものではありませんでした。
 
1佐藤成『教諭 宮沢賢治』(岩手県立花巻農業高等学校同窓会 1982)
2佐藤泰平『宮沢賢治と音楽』(筑摩書房 1995)

 







6月の永野川
 
3日
  ここ2、3日、真夏並みの暑さで、5時半ごろから歩きました。
上人橋あたりでホトトギスの声、今年初めてです。大きい声なので、見えない遠い所、近くの住宅団地の後ろの森、あるいは太平山に続く山で鳴いているのかもしれません。昨年と同様、帰りに二杉橋付近でも住宅を越えた遠いところで聞こえました。
  コジュケイも鳴き、森林や川や田あるこのあたりの鳥種の豊かさを感じます。
  ゴイサギが1羽、南の方へ飛びました。地上では滅多に見られませんが、この季節には飛ぶ姿を見ることができます。
  カワウが、1羽、2羽と続けて飛び、大岩橋付近で泳ぐ1羽も見えました。同一個体を見分けられないのですが、少なくとも4羽はいたようです。
  先日、カルガモの巣か、と思ったところは、芝生の刈り取りがあって何もありませんでした。ここは刈るべきところなので、巣を作ったカルガモが運が悪かったのでしょう。でもちょっと気を使ってくれても、とも思います。
  第五小体育館の対岸の低木の下で、カイツブリの浮巣をみつけました。まだ抱卵中ですが、無事ヒナの姿を見たいものです。
  カワセミの♀がホバリングして、ちょうど眼の高さくらいになり、面白い光景となりました。何度かホバリングして、姿を消しました。草むらに隠れて食べていたのか、諦めて飛びさったのか、見極められませんでした。
  ハシボソカラスが5羽、ゴルフ場の芝生で採餌中でした。この辺で群れることはあまり無いのですが、食べ物があれば集まるのでしょうか。アオサギも8羽、やはり朝早いご出勤です。
 
14日
  梅雨入り以来の雨が続き、ようやく探鳥となりました。
川の水量が想像以上に増えていて中州はほとんどありません。不安が的中して、カイツブリの浮巣は流されてしまっていました。
  上人橋付近で、またホトトギスの声を聞きました。
アオサギ4羽が、滝沢ハムの敷地内のヒマラヤスギのてっぺんに留りました。大きな個体が、群れて高い所に留ると、不思議な大きな図柄になりました。
  滝沢ハム近くの電線に、モズが4羽並んで留っていました。珍しい光景に思いましたが、あるいは巣立ちしたばかりの若鳥が混じっていたのかもしれません。もう少し観察するべきでした。
  セグロセキレイが囀るのを聞きました。
  公園で、写真目的の人に、カワセミはどこにいるのかと尋ねられました。ヤナギの大木あたりがポイントかも、と話しました。そこに必ず来る、というものでもなく、偶然の出会いを待つしかないことを、よく理解していないように見えました。一瞬でも出会えれば嬉しい探鳥と、良い映像を求める撮影は根本的に違っています。
  早朝でも、日差しはかなり強くなり逆光の位置ではほとんど見えないうえ、鳥も少なく、記録がないのも記録、といった感じでした。
 
26日
  梅雨の豪雨が久しぶりに早朝からあがり、雨にぬれたヨシの緑が輝いて見えました。雨が多くヨシを始め河原の植物の生育がよいようです。
  水量は多くても、水は澄んでいました。二杉橋からはいると、セグロセキレイ、カワラヒワ、ウグイス、ヒバリが囀ってにぎやかです。上空をゴイサギ1羽、舞いました。
  カワウが3か所で潜水したり飛んだり、アオサギ4羽、ダイサギ3羽等、群れも多く見られました。
  新井町の田んぼでワシタカ1羽、畔でゆっくり採食していました。カラスより少し小さく、頭から背、尾まで黒褐色で、白い眉班があり、脚は黄色でしたが、腹面も白くてほとんど模様は感じられませんでした。図鑑によれば、腹面の模様の薄いものもある、ということで、オオタカの♂としました。
  この時期、いつも子連れのハシボソカラスを見かけます。若鳥は2羽で、親に餌を貰っていました。もう1羽成鳥がいましたが、ペアで子育て?でしょうか。
  帰り際に公園内で、川面を掠めてカワセミ1羽飛びさりました。カメラを持たない私にはこれで十分です。
  イカルチドリも1羽、近かったのでアイリングを確かめることができました。
  意外な鳥にも会えて、充実した気分の探鳥でした。
 
鳥リスト
キジ、コジュケイ、カイツブリ、カワウ、ダイサギ、アオサギ、ゴイサギ、ホトトギス、カルガモ、キジバト、イカルチドリ、ヒバリ、ウグイス、セグロセキレイ、モズ、ホオジロ、カワラヒワ、シジュウカラ、スズメ、ムクドリ、カワセミ、ヒヨドリ、オオタカ、オナガ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、ツバメ、イワツバメ

 







風の色、風の香り、風の味―「外山詩群」から― (二)
 前回は、「外山詩群」から「いま来た角に」を取り上げ、五感を通して感じられた風について考えてみました。ここでは、「外山詩群」全体を通して感じられる、賢治の感覚や想いを辿ってみたいと思います。
 
    六九〔どろの木の下から〕 一九二四、四、一九、
 
どろの木の下から
いきなり水をけたてゝ
月光のなかへはねあがったので
狐かと思ったら
例の原始の水きねだった
横に小さな小屋もある
粟か何かを搗くのだらう
水はたうたうと落ち
ぼそぼそ青い火を噴いて
きねはだんだん下りてゐる
水を落してまたはねあがる
きねといふより一つの舟だ
舟といふより一つのさじだ
ぼろぼろ青くまたやってゐる
どこかで鈴が鳴ってゐる
丘も峠もひっそりとして
そこらの草は
ねむさもやはらかさもすっかり鳥のこゝろもち
ひるなら羊歯のやはらかな芽や
桜草も咲いてゐたらう
みちの左の栗の林で囲まれた
蒼鉛いろの影の中に
鍵なりをした巨きな家が一軒黒く建ってゐる
鈴は睡った馬の胸に吊され
呼吸につれてふるえるのだ
きっと馬は足を折って
蓐草の上にかんばしく睡ってゐる
わたくしもまたねむりたい
どこかで鈴とおんなじに啼く鳥がある
たとへばそれは青くおぼろな保護色
向ふの丘の影の方でも啼いてゐる
それからいくつもの月夜の峯を越えた遠くでは
風のやうに峡流も鳴る
 
 一作目の詩です。
高原を歩き始めた賢治は、水車の〈水きね〉に新鮮な驚きを感じながらなぜか〈青〉を感じています。
 夜の静けさの中を、やわらかな草や、昼もなら見える桜草のことを考えながら森の中を歩き、〈鍵なりをした巨きな家〉―曲がり屋(住居と馬小屋とが合体してL字形になっている家屋)―の傍を通りかかり、そこに眠る馬の事を考えて安らぎます。
 幻のように聴いた鈴の音は、鳥の声だったのでしょうか。そしてそれも〈青くおぼろな保護色〉で包まれ、遠くで〈風のやうに峡流も鳴〉り、賢治の安らかな時が過ぎました。
 
    七三 有明  一九二四、四、二〇、
 
あけがたになり
風のモナドがひしめき
東もけむりだしたので
月は崇厳なパンの木の実にかはり
その香気もまたよく凍らされて
はなやかに錫いろのそらにかゝれば
白い横雲の上には
ほろびた古い山彙の像が
ねづみいろしてねむたくうかび
ふたたび老いた北上川は
それみづからの青くかすんだ野原のなかで
支流を納めてわづかにひかり
そこにゆふべの盛岡が
アークライトの点綴や
また町なみの氷燈の列
ふく郁としてねむってゐる
滅びる最后の極楽鳥が
尾羽をひろげて息づくやうに
かうかうとしてねむってゐる
それこそここらの林や森や
野原の草をつぎつぎに食べ
代りに砂糖や木綿を出した
やさしい化性の鳥であるが
   しかも変らぬ一つの愛を
   わたしはそこに誓はうとする
やぶうぐひすがしきりになき
のこりの雪があえかにひかる  
 
 三番目の詩です。
夜明けに近く、空の色も変化に富んでいます。眼下には昨日いた盛岡の街がいまだに眠ったように横たわっています。
 森の中で安らいだ身には、それは〈滅びる最后の極楽鳥〉にも見え、〈それこそここらの林や森や/野原の草をつぎつぎに食べ/代りに砂糖や木綿を出した/やさしい化性の鳥である〉と自然とは対極にある都市を思いますが、そこからは抜けられない自分を感じています。
 モナド(単子)は、ドイツの哲学者G.W.ライプニッツ(1646〜1716)の提唱した「モナド論」で、現実に存在するもの構成を分析した結果、それ以上分割できない実体を意味します。ギリシャ哲学におけるアトムとは異なって物質的な内容を持たず、徹底して精神的なものとして捉えられます。
 「モナド論」は、清沢満之が「西洋哲学史講義」(明治23〜26年  真宗大学(現大谷大学)での講義ノート)で既に紹介していて、仏教の思想、「草木国土悉皆成仏」(草も木も地上のものすべてに仏の心が宿る)に照らし合わせて解釈しているといいます(注1)。
 「草木国土悉皆成仏」は賢治の多くの作品、たとえば「十力の金剛石」などに色濃く投影される思想です。賢治がその文献に触れたという証明は出来ませんが、賢治は二つの思想の融合点を感じて一層傾倒していったのではないでしょうか。
 また賢治は科学者として、物質の分子式を見るように、空気も月光も風も、粒子、原子、分子、モナド等の集合体として感じたのではないかと思います。
 〈風のモナド〉は澄んだ空気の感触をモナドの集合体として捉えた表現です。
他の作品でも、空を表す〈銀のモナドのちらばる虚空〉( 同名詩 一九二七、五、九  「詩ノート」)、月光を表す〈銀のアトム〉(「風景とオルゴール」一九二三、九、一六・「風林」一九二三、六、三 『春と修羅』)、季節の空気を表す〈秋の分子をふくんだ風〉(〔澱ったひかりの澱の底〕「装景手記」)、などがあり、空の色を感触として捉えている場合もあります。
 〈月は崇厳なパンの木の実にかはり/その香気もまたよく凍らされて〉では、月の光にも匂いを感じています。
 
    七四〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕 一九二四、四、二〇、
 
東の雲ははやくも蜜のいろに燃え
丘はかれ草もまだらの雪も
あえかにうかびはじめまして
おぼろにつめたいあなたのよるは
もうこの山地のどの谷からも去らうとします
ひとばんわたくしがふりかヘりふりかヘり来れば
巻雲のなかやあるひはけぶる青ぞらを
しづかにわたってゐらせられ
また四更ともおぼしいころは
やゝにみだれた中ぞらの
二つの雲の炭素棒のあひだに
古びた黄金の弧光のやうに
ふしぎな御座を示されました
まことにあなたを仰ぐひとりひとりに
全くことなったかんがへをあたへ
まことにあなたのまどかな御座は
つめたい火口の数を示し
あなたの御座の運行は
公式にしたがってたがはぬを知って
しかもあなたが一つのかんばしい意志であり
われらに答へまたはたらきかける、
巨きなあやしい生物であること
そのことはいましわたくしの胸を
あやしくあらたに湧きたゝせます
あゝあかつき近くの雲が凍れば凍るほど
そこらが明るくなればなるほど
あらたにあなたがお吐きになる
エステルの香は雲にみちます
おゝ天子
あなたはいまにはかにくらくなられます  
 
 四番目の作品です。ここでは、月光にエステルの香りを感じる表現で、月の光への深い敬慕の心を一層強く感じさせます。
ある刺激に対して通常の感覚と同時に他の感覚を持つことを共感覚といいます。音に色を感じるような通常の五感だけでなく、感情や文字に色を感じる場合もあります。
 先月取り上げた、〈紫蘇のかほりの青じろい風〉をはじめとして、鳥の鳴き声を〈青い紐〉と捉えたり(「春谷仰臥」(一九二五、五、一一 「春と修羅第二集」)、猫の顔を〈にゃあとした〉と表現したり(「どんぐりと山猫」)、賢治は共感覚者だったことが知られています。
 さらに賢治の共感覚は、精神医学上では、世界に対して率直で親密な関係を持ちやすい「循環気質」であるためと言われます。それは自然から与えられるメッセージを知性や理性の働きではなく、感覚の純粋さによって認識することができ、空海の五大(地・水・火・風・空)、十界(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏)、六塵(色・声・香・味・触)という意識にも共通するものでした。(注2)
 さらに自然科学的知識、古典などから得られた知識に裏付けされ、詩という表現の過程を経て、読む者には、表現の新鮮さ、多彩さ、広さ、奥深さとなって伝わります。
  
    七五 北上山地の春  一九二四、四、二〇、
 
     1
雪沓とジュートの脚絆
白樺は焔をあげて
熱く酸っぱい樹液を噴けば
こどもはとんびの歌をうたって
狸の毛皮を収穫する
打製石斧のかたちした
柱の列は煤でひかり
高くけはしい屋根裏には
いま朝餐の青いけむりがいっぱいで
大迦藍のドーム(穹窿)のやうに
一本の光の棒が射してゐる
そのなまめいた光象の底
つめたい春のうまやでは
かれ草や雪の反照
明るい丘の風を恋ひ
馬が蹄をごとごと鳴らす
 
   2
浅黄と紺の羅沙を着て
やなぎは蜜の花を噴き
鳥はながれる丘丘を
馬はあやしく急いでゐる
息熱いアングロアラヴ
光って華奢なサラーブレッド
風の透明な楔形文字
ごつごつ暗いくるみの枝に来て鳴らし
またいぬがやや笹をゆすれば
 ふさふさ白い尾をひらめかす重挽馬
 あるひは巨きなとかげのやうに
 日を航海するハックニー
馬はつぎつぎあらはれて
泥灰岩の稜を噛む
おぼろな雪融の流れをのぼり
孔雀の石のそらの下
にぎやかな光の市場
種馬検査所へつれられて行く
 
   3
かぐはしい南の風は
かげらふと青い雲滃を載せて
なだらのくさをすべって行けば
かたくりの花もその葉の斑も燃える
黒い廐肥の籠をになって
黄や橙のかつぎによそひ
いちれつみんなはのぼってくる
 
みんなはかぐはしい丘のいたゞき近く
黄金のゴールを梢につけた
大きな栗の陰影に来て
その消え残りの銀の雪から
燃える頬やうなじをひやす
 
しかもわたくしは
このかゞやかな石竹いろの時候を
第何ばん目の辛酸の春に数へたらいゝか
 
 最後の作品です。
 月の光に満ちた夜が明けました。ここは岩手県種畜場の近くです。岩手県種畜場は、盛岡市玉山区藪川にあり、現在は岩手県農業研究センター畜産研究所外山畜産研究室となりました。入り口には今も「岩手県種畜場」の古い木製の看板が残っています。
朝日を浴びて元気な子どもたち、朝餐の煙、馬達の動き、と活力に満ちた現実が描かれます。
 種馬検査の日、馬はカラフルな羅紗の布で飾られ、昨夜とは全く違う〈孔雀石〉の色をした空の下、ヤナギの芽吹きや鳥の動きにも飾られて、太陽の光を泳ぐように、出かけます。先回も書いたとおり、種馬検査合格は農民の願いです。
風は〈楔形文字〉のように吹いています。
 楔形文字は、メソポタミア文化のなかで3000年にわたって使用された、字画のそれぞれが楔の形をした文字です。文字が一面に書かれた状態で風の感触を表現したか、あるいは枝の鳴る音を、文字の鋭角的な様子で表したのか、いずれにしろ、ここでも、二つの感覚が関係しています。
 〈かぐはしい〉風はカタクリを吹き、村の人たちの汗も冷やします。でも賢治に残ったのは〈このかゞやかな石竹いろの時候を/第何ばん目の辛酸の春に数へたらいゝか〉という苦悩でした。
 〈石竹いろ〉は桃色や赤と同様、性的なものの象徴としても見ることができます。
関登久也『賢治随聞』(角川選書31 1970)、「賢治の横顔・禁欲」の章に、〈賢治三十歳前後のことだと思います。……(中略)……どちらにおいでになったのですか、ときくと岩手郡の外山牧場へ行って来ました。昨日の夕方出かけて行って、一晩中牧場を歩き、いま帰ったところです。性欲の苦しみはなみたいていではありませんね。といって別れました。……(後略…)…〉とあります。日時などの確証はなく、あくまで身近にいた人(賢治の姪の夫で親交があった)の思い出として書かれたものですが、裏付けとなるかもしれません。
 でも、私が詩から強く感じるのは、満月の光や、森の中の香りの新鮮な刺激、村人たちの生き生きとした動きに高揚する心です。
 身の内の衝動をそこまで昇華して表現しても、なお書かねばならなかった〈辛酸〉の文字には心が痛みます。


 1峰島旭雄「明治期における西洋哲学の受容と展開 2」(1968 早稲田大学)
  「西洋哲学史講義」は『清沢満之全集第五巻』(岩波書店)に収録
 2福島章「宮沢賢治の感覚」(『現代思想4−8』 青土社 1976、8) 
 
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