宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
今年のイーハトーブ 2014年9月
 お昼ころ花巻駅に着きました。
午後のイベントまで、1時間半から2時間くらいしかありません。賢治詩碑と自耕の畑か、身照寺か、イギリス海岸か、と籤を引くように迷った末、もしかしてこの時期、賢治祭に合わせて水量を調整している北上川の川底が見られるかもしれない、と思い、イギリス海岸へタクシーを飛ばしました。
 
 花巻駅から東へ2キロ程の所、北上川西岸を賢治は〈イギリス海岸〉と名付けました。その由来について、賢治自身が「イギリス海岸」で次のように記しています。
 
……イギリス海岸には、青白い疑灰岩の泥岸が、川に沿ってずゐぶん広く露出し……、殊にその泥岩層は、川の水のますたんび、綺麗に洗はれるものですから、何とも云へず青白くさっぱりしてゐました。……日が強く照る時は岩は乾いて真っ白に見え、たて横に走ったひゞわれもあり、大きな帽子を冠ってその上をうつむいて歩くなら、影法師は黒く落ちましたし、全くもうイギリスあたりの白亜の海岸を歩いてゐるやうな気がするのでした。……
 
 賢治はその泥岩層にイギリスを思い、教え子たちとたびたび訪れました。白い川底と川の流れに修羅を見、〈修羅の渚〉とも言いました。二つの名前は、風景もさることながら賢治の心の深さ、大きな想像力の結果でしょうか。
 イギリス海岸の写真は、令弟の宮沢清六氏が撮影した、永年の観察の結果のベストシーンがあり、賢治のイギリス海岸を偲ぶことができます。
 
 ありました。水没しかけてはいましたが、賢治の名付けたイギリス海岸の川底でした。何回も訪れながら、見たのは初めてでした。
 大きなワシタカ類が舞い、サギが遊び、川岸にはヤナギやサイカチの大木が悠然と並び、すべて大きな自然でした。
 現在、通常は豊かな水を湛えています。それは賢治の望んだ豊かな農業のためのひとつの方法なのかもしれません。
 今度はゆっくり、自耕の地を中心にして、北上川の岸を歩いてみたいと思いました。
 
 23日午後の見学ツアーは、『「七つ森」遠望と詩碑小岩井農場』でした。これは、宮沢賢治学会と「雫石と賢治を語る会」、「花巻・賢治の会」のみなさんの綿密なご計画によるもので、とても充実しています。
 賢治と地元の地理とを知りつくされた方だけが知る、七つ森がすべて見える遠望ポイントで、賢治の作品との関わりや、七つ森の成り立ちの伝説や、その時その時の政策で、破壊されそうだった森を守った方々のお話を聴きました。
 雲ひとつない、という言葉がぴったりの空の下、緑の可愛い「小さな山」は見事に七つ並び、周囲には賢治も夢見た豊かな実りを迎えた稲田がひろがっていました。
 賢治は小岩井農場への途中や、地質調査の折などにたびたび見た、この風景を愛し、「屈折率」では
 
七つ森のこつちのひとつが
水の中よりもつと明るく
そしてたいへん巨きいのに
わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
このでこぼこの雪をふみ
向ふの縮れた亜鉛の雲へ
陰気な郵便脚夫のやうに
(またアラツデイン 洋燈とり)
急がなければならないのか
 
という象徴的な使い方をしているほか、「山男の四月」や「紫紺染について」などでは、山男の世界と人間界との境界の意味を持たせています。
 私の初めて書いた小文が「鶯宿はこの月の夜を雪ふるらし」に関するもので、七つ森の風景は重要だったのですが、その時は実際の風景も知らず5万分の1の地図だけが頼りだったことを思い出しました。
 小岩井農場への道では、車窓から本部、「聖なる丘」、四階建倉庫などをご案内いただき、賢治詩碑に着きました。
 碑文は、「小岩井農場」パート一から
 
  速やかな速やかな万法流転のなかに
  小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
  いかにも確かに継起することが
  どんなに新鮮なきせきだらう
 
が選ばれ、署名は親友森佐一宛の封書の賢治の自筆です。
 2001年、詩碑の建立のとき開かれたセミナーにも参加させていただき、星を眺めたり、牛乳で乾杯したり、「ここに詩碑を建てていいかあー」、「いいぞー」と声を掛け合う演出があったり、楽しい思い出ばかりが残っています。
 もう13年がたち、詩碑はうっすらと苔蒸し、風景の中に溶け込んでいました。
 このツアーは、今年の私への最高のご褒美となりました。

 







心を吹く風 『春と修羅』から (一)
 賢治は、風を、五感―視覚・聴覚・嗅覚・触覚(体感)・味覚すべてを使って感じ取っています。それが風の数多くの場面をつくりだしていますが、もう一つ別な観点から考えた場合、心を吹く風、心から吹く風があるのではないでしょうか。
 なぜ心を表すのにこの風を描いたか、を重点に、『春と修羅』から順を追って、考えていき、新しい事実が生まれればその都度書き加えたいと思います。
 
 『春と修羅』にはトシの死を詠った挽歌群があり、それは一つの特別な時、と捉えることができます。まず、トシの死を経験していない時の詩から読んで行きたいと思います。
 
     マサニエロ (一九二二、一〇、一〇)
 
城のすすきの波の上には
伊太利亜製の空間がある
そこで烏の群が踊る
白雲母のくもの幾きれ
   (濠と橄欖天蚕絨、杉)
ぐみの木かそんなにひかつてゆするもの
七つの銀のすすきの穂
 (お城の下の桐畑でも、ゆれてゐるゆれてゐる、桐が)
赤い蓼の花もうごく
すゞめ すゞめ
ゆつくり杉に飛んで稲にはいる
そこはどての陰で気流もないので
そんなにゆつくり飛べるのだ
  (なんだか風と悲しさのために胸がつまる)
ひとの名前をなんべんも
風のなかで繰り返してさしつかえないか
  (もうみんな鍬や縄をもち
   崖をおりてきていゝころだ)
いまは鳥のないしづかなそらに
またからすが横からはいる
屋根は矩形で傾斜白くひかり
こどもがふたりかけて行く
羽織をかざしてかける日本の子供ら
こんどは茶いろの雀どもの抛物線
金属製の桑のこつちを
もひとりこどもがゆつくり行く
蘆の穂は赤い赤い
  (ロシヤだよ、チエホフだよ)
はこやなぎ しつかりゆれろゆれろ
  (ロシヤだよ ロシヤだよ)
烏がもいちど飛びあがる
稀硫酸の中の亜鉛屑は烏のむれ
お城の上のそらはこんどは支那のそら
烏三疋杉をすべり
四疋になつて旋転する
 
 タイトルの〈マサニエロ〉については、先行文献が多くあります(注1)。ナポリの漁師で、ナポリを支配していたスペインに対して反乱をおこし、暗殺されたマサニエロとする説が有力です。D.オーベール(1782〜1871) 作曲のオペラ「ポルティチの唖娘」(パリ、オペラ座1828初演)でよく知られるようになりました。オペラの日本初演が何時だったか、辿れませんでした。
 賢治との接点は 盛岡高等農林学校所蔵の『舞踊と歌劇』(大正2年)の記載を読んだ可能性が高いこと、「イギリス海岸」に登場する「スイミングワルツ」と同じニッポノホンレコードのA面が「マサニエロ」であることなどが推測されます。
 〈マサニエロ〉は、〈マサニエッロ〉として、森鴎外『即興詩人』(1920)にも登場します。
 また1916年、アメリカ、ユニバーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニ制作・公開、アンナ・パブロワ主演、のサイレント映画、『ポルチシの啞娘』(ポルチシのおしむすめ、The Dumb Girl of Portici)があります。
 日本では、1916年10月21日、浅草六区の帝国館を皮切りに全国で公開され、1922年には、パヴロワが来日したのを機に再上映されました。
賢治と接点は、こちらだったかもしれません。
 
 詩中のもう一つの外国名は、2回繰り返される〈チエホフ〉です。A.P.チェーホフ(1860〜1904)は、ロシアの文豪で多くの戯曲、短篇を残しました。
 明治36年には、瀬沼夏葉・尾崎紅葉訳で「アルバム」 (『新小説 』)が出ており、以後明治40年代から多くの翻訳本が出版されています。
 「桜の園」の日本初翻訳は1913年(大正2年)3月から6月、瀬沼夏葉で、平塚らいてうの雑誌『青鞜』に一幕ずつ掲載されました。
 「桜の園」の初演は1915年に帝国劇場で演出は小山内薫でした。
 賢治がチェーホフに触れていた可能性はあり、ロシア―チェホフという連鎖で使われているのですが、なぜロシアでなぜチェホフだったのか、はまだ解明できません。
 一方、チェホフは、1890年4月から12月にかけて、当時流刑地でもあったサハリン島へ調査旅行に行き、大きな衝撃を受けました。このとき現地の日本人島民とも交流していて、日本本土への渡航考えますが、本土のコレラ騒動で断念しました。
 『サハリン島』はこの時書かれた作品ですが、おそらく、日本初訳は、1953年、中村融訳(岩波文庫)が最初だと思われます。
「サハリン」が賢治の心に重要となるのは、妹の死後、サハリンに向けて旅立った以後のことですので、ここで、〈サハリン〉から〈チェホフ〉を思うほどの関係はないと思います。
 
 〈城跡〉は花巻城址が想定されます。描かれるのは、〈伊太利亜製〉という、おそらく青く晴れた空、鳥が飛びかい、子供がかけて遊ぶ、ごく普通の、秋の定まった十月の風景です。でも賢治の心には悲しみがあるようです。
 
(なんだか風と悲しさのために胸がつまる)
ひとの名前をなんべんも
風のなかで繰り返してさしつかえないか
 
という言葉が出てしまいます。
 
 〈悲しさ〉の原因は、一ヶ月後に死を迎える、妹トシの病状の悪化、〈ひとの名前〉はトシである、というのが、一番納得できる回答です。(注1)
タイトル「マサニエロ」も、妹を捨てた領主やスペインの圧政と戦った漁師マサニエロにトシへの思いを重ねている、という解釈は自然だと思います。〈伊太利亜製の空間〉から導かれた言葉、と見ることもできます。
 風景は澄んで、たくさんの植物が描かれます。銀のススキ、天蚕絨(ビロード)のようなオリーブ、杉、グミの木、桐畑、赤い蓼の花、〈金属製〉のクワ、赤い蘆の穂、皆、色彩を持って風に揺れています。
その風景の中、スズメの群れや、カラスの群れ、子供らが行きかいます。こちらは別の色彩―黒や茶色を持って風景を引き裂いているようです。
 終章になると、空は〈稀硫酸〉、カラスは〈亜鉛屑〉と無機質な色で表されます。
 希硫酸は無色で粘性がありますが、亜鉛を希硫酸に溶かして濃縮冷却すると生まれる硫酸亜鉛は白色結晶です。あるいは空は白く変化して行ったのでしょうか。賢治は〈支那のそら〉と呼びます。
 
 それらの変化のすべてを包んで、息詰まるような風が吹いているのです。そのために、 叫んでしまいたいような悲しみを抱えて風の中で佇む作者の姿を、一層孤独で悲壮に感じさせています。風のなかで、豊かな色彩に対比されて、この悲しみは一層重くなるのではないでしょうか。
 
 
東岩手火山
 
 月は水銀、後夜の喪主
 火山礫は夜の沈澱
 火口の巨きなえぐりを見ては
 たれもみんな愕くはづだ
  (風としづけさ)
 いま漂着する薬師外輪山
 頂上の石標もある
  (月光は水銀、月光は水銀)
……
 
 「マサニエロ」の書かれた20日ほど前、1922年9月18日の日付を持つ「東岩手火山」は、夜の岩手山登山の様子を描いた長詩です。
 ともに行動しているのは、花巻農学校の生徒で、17日夕方6時ころ滝沢から登り9合目の山小屋で泊まって、翌朝3時ころ頂上に着いたと記録されています(注2)。17日は旧暦8月15日の満月、十五夜でした。
 ここでは風は静かに吹きました。落ちかけて行く月光の中で、〈巨きな〉火口への畏怖を、秘かな風は、一層強く感じさせます。
以降、生徒たちとの星や山や歴史など屈託のない会話が詩となっています。
〈こんなことはじつにまれです〉という賢治の童話にも良く出てくるフレーズが2回も登場するような、穏やかな夜明けの火口の風景でした。そこに立つ自分の姿を〈気圏オペラの役者〉と思うほど気分は高揚し、風景の中に溶け込んでいます。一瞬〈かなしさ〉が心をよぎります。でも〈月明を行く〉ことに心をゆだね歩き続けようとしています。
 しかし、一転、風は生ぬるく変わると、火山弾の黒い影や、鋭い鳥の声、オリオンさえも、〈幻怪〉と言うほど、怪しい雰囲気を出し、自分の黒い影にも、修羅の姿を感じてしまいます。それは間違い、と思っても、朝へと変化して行く空には、もはや昨夜の輝きはありませんでした。
 
…向ふの黒い巨きな壁は
熔岩か集塊岩、力強い肩だ
とにかく夜があけてお鉢廻りのときは
あすこからこつちへ出て来るのだ
なまぬるい風だ
これが気温の逆転だ
  (つかれてゐるな、
   わたしはやつぱり睡いのだ)
火山弾には黒い影
その妙好の火口丘には
幾条かの軌道のあと
鳥の声!
鳥の声!
海抜六千八百尺の
月明をかける鳥の声、
鳥はいよいよしつかりとなき
私はゆつくりと踏み
月はいま二つに見える
やつぱり疲れからの乱視なのだ
 
かすかに光る火山塊の一つの面
オリオンは幻怪
月のまはりは熟した瑪瑙と葡萄
あくびと月光の動転
    (あんまりはねあるぐなぢやい
     汝ひとりだらいがべあ
     子供等も連れでて目にあへば
     汝ひとりであすまないんだぢやい)
火口丘の上には天の川の小さな爆発
みんなのデカンシヨの声も聞える
月のその銀の角のはじが
潰れてすこし円くなる
天の海とオーパルの雲
あたたかい空気は
ふつと撚になつて飛ばされて来る
きつと屈折率も低く
濃い蔗糖溶液に
また水を加へたやうなのだらう
東は淀み
提灯はもとの火口の上に立つ
また口笛を吹いてゐる
わたくしも戻る
わたくしの影を見たのか提灯も戻る
  (その影は鉄いろの背景の
   ひとりの修羅に見える筈だ)
   さう考へたのは間違ひらしい
   とにかくあくびと影ばうし
   空のあの辺の星は微かな散点
   すなはち空の模様がちがつてゐる
   そして今度は月が蹇まる。
 
 賢治の描く風は、賢治の心をそのまま映して吹きます。逆に、賢治は自分の心を描くために風を描いていた、ということかもしれません。
 
注1、佐藤泰平「宮沢賢治と心象スケッチ」マサニエロと「ポルティチの啞娘」(別名「マサニエロ」)をめぐって」(『賢治研究 121』2013-08 宮沢賢治研究会 )
佐藤泰平『宮沢賢治の音楽』(筑摩書房 1995)
2、堀尾青史『宮沢賢治年譜』(筑摩書房 1991)
 
           
 

 







9月の永野川
7日
  昼ころ、やっと雨が上がり日差しの割には涼しそうだったので出かけみました。
ススキが穂を出し始めていました。結構日差しが強く、川の水も増えていて、鳥もほとんど見えません。かわりに朝にはあまり聞こえない 町で、ダイサギ一羽、少し離れてチュウサギの4羽の群れと単体を見つけて、少しほっとします。続けてセグロセキレイが4羽見つかりました。
公園の中で、カワセミが一羽、川をさかのぼって来て岸の木立の中に消えました。やはり暑いのでしょうか。
  第五小の校庭のサクラにオナガ20羽ほどの群れがいて、幼鳥らしい小ぶりで色の薄いものが下に下りていました。樹上にはたくさんいるのですが、はっきり見えません。
 高橋付近の屋敷林のムクノキにたくさんの実がついていて、ムクドリ恐らく100羽以上の声がしました。ここにムクノキがあるのを初めて気づきました。幼いころ、隣家にムクノキの大木があって、一面に実を撒き散らして鳥たちが採餌していたのを思い出しました。
  鳥種は大変少なかったのですが、それなりに面白い探鳥となりました。
 
9日
  このごろ早朝はまだ暗いので、午前中出かけるようになりました。
久しぶりに晴れ、暑くもなく気持ちの良い日です。
  モズが電線で高い声で鳴いていました。その後も3か所で、高鳴きか、と思われる声を聞きました。
  また公園の北側の桜並木で、聞いたこと無い可愛い鳥の声がし思わず身がまえて、しばらく探しましたが見えません。モズの姿も見えませんが、これは鳴き真似かもしれません。
  チュウサギが7羽、8羽の群れ、これは感覚的に体型と嘴の先の黒さで判別してみました。
  ダイサギも5羽、こちらは単体が多く、嘴の位置などで何とか見分けました。
  アオサギが大きな体で電柱のてっぺんに留っているのが、何かアンバランスで、面白いと思いました。
  公園内の河原にコチドリ幼鳥か、と思うものが一羽、はっきりした区別はできないのですが、アイリングがよく見えたのと、ちょっとした自転車の音でも飛び去って、イカルチドリよりも警戒心が強いと思えたからです。後に、こちらははっきり成鳥のイカルチドリも見ました。
  スズメが今日は30羽くらいの群れで、いくつか移動しています。稲は実りの盛りです。
  クズ、ママコノシリヌグイ、彼岸花、ツユクサ、黄色いマメ科の花(くらら?)など花の盛りです。同時にアレチウリが、河川敷の植物の上に一面に広がり、白い花をつけていました。これは、本当に何とかしなければ、植生がすべてダメになるのではないかと思います。
赤津川との合流点近くで、ミドリガメの中くらいに成長したもの発見。以前もっと大きなものが捨てられていましたが、対処はしていてくれるらしく、繁殖はしていません。これも対策が待たれます。
 
27日
  ようやくお天気が定まってきて、気持ちの良い探鳥日和でした。サクラの並木からシジュウカラの声が聞こえ、もう秋だな、と思います。
  新井町付近のチュウサギ11羽の群れを始め、合わせて19羽を確認しました。もう最後の渡りの準備でしょうか。
  カルガモも増えてきて34羽。コガモが来るのも近いかもしれません。
  公園の南の山林から、カケスの声が聞こえ、そこから錦着山に向かって4羽が飛び立ちました。以前もこのコースで飛ぶのを見ています。
  公園のヤナギの大木に、ヒヨドリ大の見慣れない鳥発見。急いで双眼鏡に入れると、カッコウ類であることは確かでした。眼は黒くて黄色いアイリングがあり、胸には横斑、尾がとても長く、横斑がとてもはっきり見えました。図鑑で確認すると、大きさ、尾の横斑などから、ホトトギスに一番近い気がしました。このあたりでも鳴き声は聞こえるし、以前2008年の10月2日にも同様な経験をしています。バードリサーチで教えていただくと、カッコウ類を見た目で判断するのは大変難しいというお話でした。カッコウ類はまだ2、3回しか見たことが無く、ヒヨドリ大、ということも比較してみなければわからないのかもしれません。
  もうひとつ、水道庁舎まえの杉の木で聞きなれない声がしていたので、よく見ると、ハシボソカラスの少し小さめのもの2羽で、少し甲高い、短い震える感じのキュルキュルキュルという声でした。
違う声のカラス、とするとコクマルガラスに近いような気もしたのですが、これもバードリサーチにお聞きすると、コクマルガラスはドバト大で、季節的にはまだ早いということでした。ドバト大か、と思うと少し大きかったような気もします。
  二例とも、滅多に見ないものですから、確認できるには時間が要りそうですが、また気をつけて行きたいと思います。
  珍しい鳥に会い、夏の名残りの鳥にも会えて、貴重な時間になりました。
 
鳥リスト
カルガモ、カイツブリ、キジバト、カワウ、ゴイサギ、アオサギ、ダイサギ、チュウサギ、カッコウ類、カワセミ、イカルチドリ、イソシギ、キジバト、ハクセキレイ、セグロセキレイ、モズ、ヒヨドリ、ホオジロ、スズメ、カケス、ハシボソカラス、ハシブトカラス、カラス類、シジュウカラ

 







映画「風の又三郎」について
 この映画が制作されたのは昭和15年、監督、島耕二、主な出演者は、片山明彦(高田三郎)、大泉滉(一郎)、中田弘(嘉助)、風見章子(嘉助の姉)です。
  宮沢賢治作品を初めて映像化したことで知られ、また優れた児童向き映画として、当時子どもだった人たちから、親に連れて行ってもらった話をよく聞きます。
  最近、市の主催する映画祭で、思いがけずこの映画を見ることができました。家庭用ビデオや放送などテレビ画面で見たことはありましたが、大きい画面で見るのは初めてでした。
 画面が大きいということは、制作者が伝えたいことが、はっきりするようです。今まで気付かなかった、画面いっぱいに映し出される空の広さ、林や野原を渡る風の動きは、美しく迫力がありました。
  映画化された賢治作品、絵本、朗読などには、あまり興味が持てません。なぜなら、それは、「制作者の作品」であり、賢治とは常に離れていると思うからです。感じ方その人の自由と思っても、自分の感覚からかけ離れている作品には耐えられないので、避けてしまいます。 
  そんな中でこの映画は、最初に見た時から、唯一賢治の作品を忠実に映像化していると感じられ、機会があれば見るようになりました。
  それは、まず制作された時代が賢治の時代に最も近く、子どもたちの遊ぶ川や森や山の映像も、恐らく賢治の時代のものなのでしょう。原作には無い、嘉助の姉が登場したり、高田三郎が村へ豆腐を買いに来る場面があったりしても、あまり違和感なく受け入れられました。
 
  昭和58年、賢治生誕50年を記念し、当時の映画出演者へのインタビューをまとめた資料をいただきました。まとめられた方が不明なので公表するのも迷ったのですが、とても貴重なものだったので、少しご紹介します。
  なぜこの作品が映画化されたか、監督のご子息でもある、三郎役の片山明彦さんはこうおっしゃっています。
  監督は、子どものころから賢治に憧れていたメルヘン好きで、当時の日活では理解されなかったこの作品の映画化を、大変苦労して実現しました。それはこの一本を撮るために監督になったのだとも思えるほどだったそうです。
  その想いを汲みとって、賢治の弟清六さんも、この後永く「風の又三郎」の再映画化を許可されなかったということでした。
   昭和15年、戦争の影が近づいてくる中で、撮影地では東京にはないサイダーや鉛筆をもらい嬉しかったこと、そして、そろそろ子どもの好きなものが無くなって行く前兆のような時代だったからこそ、一層この映画は貴重だったのではないか、とおっしゃっています。
 
  監督のお話では、シナリオ担当の永見隆二さんと毎晩「風の又三郎」の話になって、ついにシナリオ化の運びとなったこと、賢治作品の現実を越えた面白さや、子どもたちの友情や別離の悲しみは現在にも通じるものであることが、制作の大きな動機だったようです。
  賢治については、空想の世界を描けるセンスと、都会育ちの自分とは反対の田園育ちで、そこから感じられる土や緑や森や作物の匂い、などに心魅かれたそうです。その想いも込めて、映画には、同じ地球に生きているものとして40以上もの動物を描き込んだそうです。
  そしてもう一度大きな画面で、カラーで「風の又三郎」を作りたい、そうすればもっと素晴らしいものができそうだ……と。
  一郎役の大泉滉さんは、当時の自然の中での遊び場、遊びの豊富さ、夢見ることの楽しさ、などをいまの子どもたちにも感じてほしいとおっしゃっています。
  風見章子さんも花巻ロケでの自由な楽しさや、作品の夢のような楽しさを語ってくれています。
  このような制作者全体の志向があってこそ、今も感動を呼ぶ作品として残っているのだと思います。
  
  この作品の主題歌として歌われたのが作品中の挿入歌です。
 
        どっどどどどうど どどうど どどう、
   青いくるみも吹きとばせ
   すっぱいかりんもふきとばせ
   どっどどどどうど どどうど どどう
 
  「風の又三郎」というと、このメロディーだけ覚えている人が多く、リアルタイムでこの映画を見た人たちも、このメロディーの印象は強烈だったようでよく話してくれます。
  私は挿入歌からは、風の激しさの中に、何か底抜けの明るさを感じていたのですが、今回あらためて聴いて見て、なにか暗く不気味なものを感じ、調べて見ました。
  作曲者は杉原泰蔵さんという、ピアニスト、編曲家、作曲家です。上海帰りのジャズピアニストでもあり、1930年代から、当時の最先端の歌手古賀政男などの歌の編曲も手掛けていて、この歌もその多忙な中での仕事の一つでした。挿入歌から感じられる、リズムの烈しさとは正反対で、半音進行の静かなものになっています。
  傍観者である私達が感じることの無い、本当の風の怖さを、賢治は感じていたのかもしれない―それを作曲者は感じてとっていたのか、あるいは近づいてくる暗い時代を曲に乗せたのか……。まだ疑問です。
 
 もうひとつ、この映画の中で、最も美しかったのは、子どもたちの眼の輝きだったと思います。
 じっと空をみつめる三郎の眼、去って行った三郎を思って、並んで遠くを見つめる子どもたちの眼―賢治も描きたかった子どもへの思いを、この映画は最も効果的な方法で表しているのかもしれません。
 
参考 『歌曲の部屋 杉原泰蔵「風の又三郎」』
(浜垣誠司氏HP 「宮沢賢治の詩の世界」) 

 







8月の永野川
7日
  室内に比べると朝の外気は涼しく爽やかです。
  川は水かさが減って、少し中州が見えるようになりました。今日は先に公園へ行きました。
  先回は目立たなかったアレチウリが繁茂始め、ヤナギやヨシは覆われてしまうかもしれません。これも何か対策はないのでしょうか。
 公園内の川に、ヒヨドリくらいに成長した幼鳥7羽を連れたカルガモに会いました。幼鳥はもう自分で懸命に餌をとりながら、親鳥についていき、親は何かと目を配りながら進んでいるようで何とも心温まる風景でした。
  大岩橋の上のゴルフ場の境目の草むらを出たり入ったりする、ハト大のキジの幼鳥3羽、もうこちらは自立したのか親の姿は見えませんが、全部♀の色でした。幼鳥はどの鳥でも文句なしに可愛くおもちゃのように見えます。
  赤津川新井町付近で、川の中にじっと動かないゴイサギの若鳥、ここではゴイサギは滅多に見ません。目も黄色くて親鳥のような不気味さが無く、ササゴイかと一瞬思いましたが、背の模様などを図鑑で確認,ゴイサギでした。
  久しぶりで電柱に並んでとまるツバメ13羽、もう集まって、南へ帰るのでしょうか。オハグロトンボが飛び、モズがあちこちでギチギチと鳴いて、  新しい季節が始まりかけているようです。
 
16日
  二杉橋から川岸に入りました。水量はかなりありましたが水は澄んできました。
  二杉橋近くで、カイツブリの繁殖声を久しぶりで聞きましたが姿は見えません。まだ目覚めたばかりのようなウグイスも鳴きました。
高橋付近の水門で、イカルチドリ3羽、多分幼鳥で、幾分小ぶりで動きが早く、2羽が戯れるように争っていました。
  河原や中洲が少し現れたので、セグロセキレイが元気で、ここにも幼鳥がいます。
  泉橋付近で幼鳥5羽連れたカルガモに会いました。もしかして先日の7羽から減ってしまったのでしょうか。
  赤津川新井町で、短い声で、確かにオオヨシキリの声がしました。
  二杉橋上流では、平井町の方角からコジュケイの声が聞こえました。少し西の林の方に行けば、かなりの種類の鳥がいるのかもしれません。
  ハシボソカラスが目立ちます。稲が実り始め、スズメ除けの鳥の声の放送が流れ始めたのですが、そのせいではなくスズメがめっきり少なく、大きい群れでも7羽程度、後は2羽、1羽で飛んでいた。数えるほどしかいません。
  第五小の対岸の民家でエナガ5、6羽とシジュウカラの混群が一瞬飛んだのですが、民家を早朝覗くわけにいかず残念でした。久しぶりです。もうすぐたくさんのカラ類に会えると思うと嬉しくなります。
 
28日
  毎日続いた雨がやっと止み、それでも今にも降りそうな中、出かけました。暗い上、気温が低く、鳥がいません。
公園内のダイサギ一羽を合流点あたりから見ました。赤津川を遡って行くと、新井町付近の田でチュウサギ5羽に会い、季節なのだな、と思います。
  公園の上空で、イワツバメの15羽ほどの群れが突然現れて消えて行きました。今年はほとんど見られなかったのですが、渡りに備えて、集まったのでしょうか。
  おそらく幼鳥のカルガモ、3羽、4羽と見られました。二杉橋の上の水門にカルガモ8羽、親1、幼7でしょう。以前の家族が無事成長しているようです。
  赤津川との合流点付近の水門近くで、珍しくカワセミ一羽一瞬美しい背を見せて飛び、公園のヤナギの付近でも声のみ聞こえました。
  今日もハシボソカラスが目立ちました。キリギリスよりもコオロギが鳴くようになった気がします。雨と時間に追われましたが、久しぶりの鳥たちに会えて幸いでした。
 
  今年は草刈りを控えている感じですが、私の好きだった公園内の土手の法面と大岩橋の下の河川敷は、いったん刈ってしまったあと、予想通りエノコログサやイラクサ等が繁り、以前はあったオオマツヨイグサやコマツナギなどは無くなってしまいました。
  加えて、除草剤がまた撒かれていますが、背の高い草はほとんど枯れておらず、まだら模様のように枯れて、とても見苦しく、刺激臭もあるような気がします。
  行政はいくら話しても業者任せのまま、もともとはっきりした理念がないので、方針も決めていないのです。もう一度行政に申し出たいのですが、来年度の方針を決める前に、と思いながら、いつも時期を逃しています。上旬にはキツネノカミソリがひと株残っていて、花をつけていたのが救いでした。さらに保護の方針が進むことを祈っています。
 
鳥リスト
コジュケイ、キジ、カイツブリ、アオサギ、ゴイサギ、チュウサギ、コサギ、バン、カルガモ、イカルチドリ、キジバト、カワウ、シジュウカラ、ツバメ、イワツバメ、ウグイス、エナガ、セグロセキレイ、オオヨシキリ、モズ、ホオジロ、スズメ、ヒヨドリ、ハシボソカラス、ハシブトカラス