賢治は、風を、五感―視覚・聴覚・嗅覚・触覚(体感)・味覚すべてを使って感じ取っています。それが風の数多くの場面をつくりだしていますが、もう一つ別な観点から考えた場合、心を吹く風、心から吹く風があるのではないでしょうか。
なぜ心を表すのにこの風を描いたか、を重点に、『春と修羅』から順を追って、考えていき、新しい事実が生まれればその都度書き加えたいと思います。
『春と修羅』にはトシの死を詠った挽歌群があり、それは一つの特別な時、と捉えることができます。まず、トシの死を経験していない時の詩から読んで行きたいと思います。
マサニエロ (一九二二、一〇、一〇)
城のすすきの波の上には
伊太利亜製の空間がある
そこで烏の群が踊る
白雲母のくもの幾きれ
(濠と橄欖天蚕絨、杉)
ぐみの木かそんなにひかつてゆするもの
七つの銀のすすきの穂
(お城の下の桐畑でも、ゆれてゐるゆれてゐる、桐が)
赤い蓼の花もうごく
すゞめ すゞめ
ゆつくり杉に飛んで稲にはいる
そこはどての陰で気流もないので
そんなにゆつくり飛べるのだ
(なんだか風と悲しさのために胸がつまる)
ひとの名前をなんべんも
風のなかで繰り返してさしつかえないか
(もうみんな鍬や縄をもち
崖をおりてきていゝころだ)
いまは鳥のないしづかなそらに
またからすが横からはいる
屋根は矩形で傾斜白くひかり
こどもがふたりかけて行く
羽織をかざしてかける日本の子供ら
こんどは茶いろの雀どもの抛物線
金属製の桑のこつちを
もひとりこどもがゆつくり行く
蘆の穂は赤い赤い
(ロシヤだよ、チエホフだよ)
はこやなぎ しつかりゆれろゆれろ
(ロシヤだよ ロシヤだよ)
烏がもいちど飛びあがる
稀硫酸の中の亜鉛屑は烏のむれ
お城の上のそらはこんどは支那のそら
烏三疋杉をすべり
四疋になつて旋転する
タイトルの〈マサニエロ〉については、先行文献が多くあります(注1)。ナポリの漁師で、ナポリを支配していたスペインに対して反乱をおこし、暗殺されたマサニエロとする説が有力です。D.オーベール(1782〜1871) 作曲のオペラ「ポルティチの唖娘」(パリ、オペラ座1828初演)でよく知られるようになりました。オペラの日本初演が何時だったか、辿れませんでした。
賢治との接点は 盛岡高等農林学校所蔵の『舞踊と歌劇』(大正2年)の記載を読んだ可能性が高いこと、「イギリス海岸」に登場する「スイミングワルツ」と同じニッポノホンレコードのA面が「マサニエロ」であることなどが推測されます。
〈マサニエロ〉は、〈マサニエッロ〉として、森鴎外『即興詩人』(1920)にも登場します。
また1916年、アメリカ、ユニバーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニ制作・公開、アンナ・パブロワ主演、のサイレント映画、『ポルチシの啞娘』(ポルチシのおしむすめ、The Dumb Girl of Portici)があります。
日本では、1916年10月21日、浅草六区の帝国館を皮切りに全国で公開され、1922年には、パヴロワが来日したのを機に再上映されました。
賢治と接点は、こちらだったかもしれません。
詩中のもう一つの外国名は、2回繰り返される〈チエホフ〉です。A.P.チェーホフ(1860〜1904)は、ロシアの文豪で多くの戯曲、短篇を残しました。
明治36年には、瀬沼夏葉・尾崎紅葉訳で「アルバム」 (『新小説 』)が出ており、以後明治40年代から多くの翻訳本が出版されています。
「桜の園」の日本初翻訳は1913年(大正2年)3月から6月、瀬沼夏葉で、平塚らいてうの雑誌『青鞜』に一幕ずつ掲載されました。
「桜の園」の初演は1915年に帝国劇場で演出は小山内薫でした。
賢治がチェーホフに触れていた可能性はあり、ロシア―チェホフという連鎖で使われているのですが、なぜロシアでなぜチェホフだったのか、はまだ解明できません。
一方、チェホフは、1890年4月から12月にかけて、当時流刑地でもあったサハリン島へ調査旅行に行き、大きな衝撃を受けました。このとき現地の日本人島民とも交流していて、日本本土への渡航考えますが、本土のコレラ騒動で断念しました。
『サハリン島』はこの時書かれた作品ですが、おそらく、日本初訳は、1953年、中村融訳(岩波文庫)が最初だと思われます。
「サハリン」が賢治の心に重要となるのは、妹の死後、サハリンに向けて旅立った以後のことですので、ここで、〈サハリン〉から〈チェホフ〉を思うほどの関係はないと思います。
〈城跡〉は花巻城址が想定されます。描かれるのは、〈伊太利亜製〉という、おそらく青く晴れた空、鳥が飛びかい、子供がかけて遊ぶ、ごく普通の、秋の定まった十月の風景です。でも賢治の心には悲しみがあるようです。
(なんだか風と悲しさのために胸がつまる)
ひとの名前をなんべんも
風のなかで繰り返してさしつかえないか
という言葉が出てしまいます。
〈悲しさ〉の原因は、一ヶ月後に死を迎える、妹トシの病状の悪化、〈ひとの名前〉はトシである、というのが、一番納得できる回答です。(注1)
タイトル「マサニエロ」も、妹を捨てた領主やスペインの圧政と戦った漁師マサニエロにトシへの思いを重ねている、という解釈は自然だと思います。〈伊太利亜製の空間〉から導かれた言葉、と見ることもできます。
風景は澄んで、たくさんの植物が描かれます。銀のススキ、天蚕絨(ビロード)のようなオリーブ、杉、グミの木、桐畑、赤い蓼の花、〈金属製〉のクワ、赤い蘆の穂、皆、色彩を持って風に揺れています。
その風景の中、スズメの群れや、カラスの群れ、子供らが行きかいます。こちらは別の色彩―黒や茶色を持って風景を引き裂いているようです。
終章になると、空は〈稀硫酸〉、カラスは〈亜鉛屑〉と無機質な色で表されます。
希硫酸は無色で粘性がありますが、亜鉛を希硫酸に溶かして濃縮冷却すると生まれる硫酸亜鉛は白色結晶です。あるいは空は白く変化して行ったのでしょうか。賢治は〈支那のそら〉と呼びます。
それらの変化のすべてを包んで、息詰まるような風が吹いているのです。そのために、 叫んでしまいたいような悲しみを抱えて風の中で佇む作者の姿を、一層孤独で悲壮に感じさせています。風のなかで、豊かな色彩に対比されて、この悲しみは一層重くなるのではないでしょうか。
東岩手火山
月は水銀、後夜の喪主
火山礫は夜の沈澱
火口の巨きなえぐりを見ては
たれもみんな愕くはづだ
(風としづけさ)
いま漂着する薬師外輪山
頂上の石標もある
(月光は水銀、月光は水銀)
……
「マサニエロ」の書かれた20日ほど前、1922年9月18日の日付を持つ「東岩手火山」は、夜の岩手山登山の様子を描いた長詩です。
ともに行動しているのは、花巻農学校の生徒で、17日夕方6時ころ滝沢から登り9合目の山小屋で泊まって、翌朝3時ころ頂上に着いたと記録されています(注2)。17日は旧暦8月15日の満月、十五夜でした。
ここでは風は静かに吹きました。落ちかけて行く月光の中で、〈巨きな〉火口への畏怖を、秘かな風は、一層強く感じさせます。
以降、生徒たちとの星や山や歴史など屈託のない会話が詩となっています。
〈こんなことはじつにまれです〉という賢治の童話にも良く出てくるフレーズが2回も登場するような、穏やかな夜明けの火口の風景でした。そこに立つ自分の姿を〈気圏オペラの役者〉と思うほど気分は高揚し、風景の中に溶け込んでいます。一瞬〈かなしさ〉が心をよぎります。でも〈月明を行く〉ことに心をゆだね歩き続けようとしています。
しかし、一転、風は生ぬるく変わると、火山弾の黒い影や、鋭い鳥の声、オリオンさえも、〈幻怪〉と言うほど、怪しい雰囲気を出し、自分の黒い影にも、修羅の姿を感じてしまいます。それは間違い、と思っても、朝へと変化して行く空には、もはや昨夜の輝きはありませんでした。
…向ふの黒い巨きな壁は
熔岩か集塊岩、力強い肩だ
とにかく夜があけてお鉢廻りのときは
あすこからこつちへ出て来るのだ
なまぬるい風だ
これが気温の逆転だ
(つかれてゐるな、
わたしはやつぱり睡いのだ)
火山弾には黒い影
その妙好の火口丘には
幾条かの軌道のあと
鳥の声!
鳥の声!
海抜六千八百尺の
月明をかける鳥の声、
鳥はいよいよしつかりとなき
私はゆつくりと踏み
月はいま二つに見える
やつぱり疲れからの乱視なのだ
かすかに光る火山塊の一つの面
オリオンは幻怪
月のまはりは熟した瑪瑙と葡萄
あくびと月光の動転
(あんまりはねあるぐなぢやい
汝ひとりだらいがべあ
子供等も連れでて目にあへば
汝ひとりであすまないんだぢやい)
火口丘の上には天の川の小さな爆発
みんなのデカンシヨの声も聞える
月のその銀の角のはじが
潰れてすこし円くなる
天の海とオーパルの雲
あたたかい空気は
ふつと撚になつて飛ばされて来る
きつと屈折率も低く
濃い蔗糖溶液に
また水を加へたやうなのだらう
東は淀み
提灯はもとの火口の上に立つ
また口笛を吹いてゐる
わたくしも戻る
わたくしの影を見たのか提灯も戻る
(その影は鉄いろの背景の
ひとりの修羅に見える筈だ)
さう考へたのは間違ひらしい
とにかくあくびと影ばうし
空のあの辺の星は微かな散点
すなはち空の模様がちがつてゐる
そして今度は月が蹇まる。
賢治の描く風は、賢治の心をそのまま映して吹きます。逆に、賢治は自分の心を描くために風を描いていた、ということかもしれません。
注1、佐藤泰平「宮沢賢治と心象スケッチ」マサニエロと「ポルティチの啞娘」(別名「マサニエロ」)をめぐって」(『賢治研究 121』2013-08 宮沢賢治研究会 )
佐藤泰平『宮沢賢治の音楽』(筑摩書房 1995)
2、堀尾青史『宮沢賢治年譜』(筑摩書房 1991)