1923年7月31日、賢治は青森、北海道を経て樺太への旅に出ます。教え子の就職を、盛岡中学校、盛岡高等農林の同窓生で、樺太、豊原市の王子製紙の細越健に依頼するためでした。
この旅で残された「オホーツク挽歌」の章には5篇の詩が収められています。「白い鳥」が書かれてから、2か月近くの空白のあとでした。
1、「青森挽歌」
その第一篇が、252行の長詩、「青森挽歌」です。以下部分的に引用します。
こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
乾いたでんしんばしらの列が
せはしく遷つてゐるらしい
きしやは銀河系の玲瓏レンズ
巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
りんごのなかをはしつてゐる
(中略)
あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通つていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはいるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
(草や沼やです
一本の木もです)
(ギルちやんまつさをになつてすわつてゐたよ)
(こおんなにして眼は大きくあいてたけど
ぼくたちのことはまるでみえないやうだつたよ)
(ナーガラがね 眼をぢつとこんなに赤くして
だんだん環をちいさくしたよ こんなに)
(し、環をお切り そら 手を出して)
(ギルちやん青くてすきとほるやうだつたよ)
(鳥がね、たくさんたねまきのときのやうに
ばあつと空を通つたの
でもギルちやんだまつてゐたよ)
(お日さまあんまり変に飴いろだつたわねえ)
(ギルちやんちつともぼくたちのことみないんだもの
ぼくほんたうにつらかつた)
(さつきおもだかのとこであんまりはしやいでたねえ)
(どうしてギルちやんぼくたちのことみなかつたらう
忘れたらうかあんなにいつしよにあそんだのに)
かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
感ぜられない方向を感じやうとするときは
たれだつてみんなぐるぐるする
(耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい)
さう甘へるやうに言つてから
たしかにあいつはじぶんのまはりの
眼にははつきりみえてゐる
なつかしいひとたちの声をきかなかつた
にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた
それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかつた
それからあとであいつはなにを感じたらう
それはまだおれたちの世界の幻視をみ
おれたちのせかいの幻聴をきいたらう
わたくしがその耳もとで
遠いところから声をとつてきて
そらや愛やりんごや風、すべての勢力のたのしい根源
万象同帰のそのいみじい生物の名を
ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき
あいつは二へんうなづくやうに息をした
白い尖つたあごや頬がゆすれて
ちいさいときよくおどけたときにしたやうな
あんな偶然な顔つきにみえた
| けれどもたしかにうなづいた この詩で初めて賢治はトシの死を現実として受け止め、夜汽車の暗い風景のなかに自分の心をみつめ、トシの行方を必死に考えます。そして、なおも死に瀕した場面や、くらい幻想に悩まされます。 そのなかで、風は、〈たのしい根源〉の一つとしてとして捉えられています。それは臨終のトシの顔を美しいものとして、眼前に運んでくれます。そして、 いつぴきの鳥になつただらうか l´estudiantinaを風にききながら 水のながれる暗いはやしのなかを かなしくうたつて飛んで行つたらうか 中略 |
| |
| それらひとのせかいのゆめはうすれ あかつきの薔薇いろをそらにかんじ あたらしくさはやかな感官をかんじ 日光のなかのけむりのやうな羅をかんじ かがやいてほのかにわらひながら はなやかな雲やつめたいにほひのあひだを 交錯するひかりの棒を過ぎり われらが上方とよぶその不可思議な方角へ それがそのやうであることにおどろきながら 大循環の風よりもさはやかにのぼつて行つた わたくしはその跡をさへたづねることができる と離れていく妹を確実に感じながらも、〈大循環の風よりもさはやかにのぼつて行つた〉トシをようやく実感できることになります。風はやはり〈さはやか〉なもの、賢治があとを辿ることができるものでした。 (もひとつきかせてあげやう ね じつさいね あのときの眼は白かつたよ すぐ瞑りかねてゐたよ) まことはたのしくあかるいのだ (みんなむかしからのきやうだいなのだから けつしてひとりをいのつてはいけない) ああ わたくしはけつしてさうしませんでした あいつがなくなつてからあとのよるひる わたくしはただの一たりと あいつだけがいいとこに行けばいいと さういのりはしなかつたとおもひます その後も執拗に聞こえる悪魔のささやきのような声、トシの死の現実に耐えながら、〈まこと〉の世界に救いを求めます。 それは、自分一人のかなしみにとらわれることなく、人すべてのことを祈らなければならない、ということでした。そうすることで、耐えがたい想いから救われることができたのだと思います。 |
| |
2、「青森挽歌 三」
詩集『春と修羅』には収録されなかった作品に、同じ一九二三、八、一、の日付を持つ「青森挽歌 三」があります。
その右側の中ごろの席
青ざめたあけ方の孔雀のはね
やはらかな草いろの夢をくわらすのは
とし子、おまへのやうに見える。
「まるっきり肖たものもあるもんだ、
法隆寺の停車場で
すれちがふ汽車の中に
まるっきり同じわらすさ。」
父がいつかの朝さう云ってゐた。
そして私だってさうだ
あいつが死んだ次の十二月に
酵母のやうなこまかな雪
はげしいはげしい吹雪の中を
私は学校から坂を走って降りて来た。
まっ白になった柳沢洋服店のガラスの前
その藍いろの夕方の雪のけむりの中で
黒いマントの女の人に遭った。
帽巾に目はかくれ
白い顎ときれいな歯
私の方にちょっとわらったやうにさへ見えた。
( それはもちろん風と雪との屈折率の関係だ。)
私は危なく叫んだのだ。
(何だ、うな、死んだなんて
いゝ位のごと云って
今ごろ此処ら歩てるな。)
又たしかに私はさう叫んだにちがひない。
たゞあんな烈しい吹雪の中だから
その声は風にとられ
私は風の中に分散してかけた。
詩は列車の中から見た夜明けの風景に始まります。明け方の月の明かりは〈苹果の匂〉を運び、列車のなかに差し込むなかに、賢治はトシの幻影を見ます。
それは父が旅先で追ったトシに似た姿の女性や賢治が花巻の吹雪の中で見たトシを思い出させます。賢治たちの、「トシが生きている」ことを信じたい気持の現れですが、花巻でそれを見せたのも、〈( それはもちろん風と雪との屈折率の関係だ。)〉というように、風が運ぶものでした。また、トシにかけた言葉をもぎ取るのもやはり風でした。賢治は〈風の中に分散して〉切れ切れになる心とともに駆け出すのです。
「太洋を見はらす巨きな家の中で
仰向けになって寝てゐたら
もしもしもしもしって云って
しきりに巡査が起してゐるんだ。」
その皺くちゃな寛い白服
ゆふべ一晩そんなあなたの電燈の下で
こしかけてやって来た高等学校の先生
青森へ着いたら
苹果をたべると云ふんですか。
海が藍靛に光ってゐる
いまごろまっ赤な苹果はありません。
爽やかな苹果青のその苹果なら
それはもうきっとできてるでせう。
そんな思いをかき消すように、唐突に、車中の幻想が書かれ、青い海のひかり―トシの色―、〈爽やかな苹果青のその苹果〉―トシの思い出―などを綴って詩はおわっています。
3、「オホーツク挽歌」
一九二三、八、四〉の日付を持つ「オホーツク挽歌」は樺太、栄が浜の朝の風景が描かれます。
海面は朝の炭酸のためにすつかり銹びた
緑青のとこもあれば藍銅鉱のとこもある
むかふの波のちゞれたあたりはずゐぶんひどい瑠璃液だ
チモシイの穂がこんなにみぢかくなつて
かはるがはるかぜにふかれてゐる
(それは青いいろのピアノの鍵で
かはるがはる風に押されてゐる)
あるひはみぢかい変種だらう
しづくのなかに朝顔が咲いてゐる
モーニンググローリのそのグローリ
白い片岩類の小砂利に倒れ
波できれいにみがかれた
ひときれの貝殻を口に含み
わたくしはしばらくねむらうとおもふ
なぜならさつきあの熟した黒い実のついた
まつ青なこけももの上等の敷物と
おほきな赤いはまばらの花と
不思議な釣鐘草とのなかで
サガレンの朝の妖精にやつた
透明なわたくしのエネルギーを
いまこれらの濤のおとや
しめつたにほひのいい風や
雲のひかりから恢復しなければならないから
緑青や瑠璃液と喩える海や、風に吹かれるチモシイ、ハマナスの匂いに少し明るくなった賢治を感じます。香りのよい風のなかで妖精と交歓しています。
わびしい草穂やひかりのもや
緑青は水平線までうららかに延び
雲の累帯構造のつぎ目から
一きれのぞく天の青
強くもわたくしの胸は刺されてゐる
それらの二つの青いいろは
どちらもとし子のもつてゐた特性だ
中略
海がこんなに青いのに
わたくしがまだとし子のことを考へてゐると
なぜおまへはそんなにひとりばかりの妹を
悼んでゐるかと遠いひとびとの表情が言ひ
またわたくしのなかでいふ
中略
いまするどい羽をした三羽の鳥が飛んでくる
あんなにかなしく啼きだした
なにかしらせをもつてきたのか
わたくしの片つ方のあたまは痛く
中略
(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)
五匹のちいさないそしぎが
海の巻いてくるときは
よちよちとはせて遁げ
(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)
浪がたひらにひくときは
砂の鏡のうへを
よちよちとはせてでる
雲間から覗く小さな青空に〈とし子の特性〉を見て、またトシのことばかりを思っている自分を責めながらもなお、飛ぶ鳥に妹の影を追います。しかし、(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)〉(南無妙法蓮華経)が、記され、次第に救われていく心を予感させます。ここでなぜ唐突な感じでこの言葉が記されたのか、不明ですが、深い逡巡のあとで生まれたものであることは実感できます。
この詩の関連作品として童話「サガレンと八月」があります。そこでは、風はいい匂いを伝え、ひっきりなしに作者に語りかけ、風の物語を聞かせて行き、それが真実のお話として、読者に伝わるように、と祈るような気持ちが書かれています。(当ブログ「風に包まれてPt 3―「サガレンと八月」」 2013、8)
風はまず、賢治を体から安らかにし、浮かぶトシへの思いを和らげ、究極には、仏の世界への救いを見せてくれたのではないかと思います。
4、「鈴谷平原」
一九二三、八、一一の日付を持つ「鈴谷平原」では賢治は帰途についています。
蜂が一ぴき飛んで行く
琥珀細工の春の器械
蒼い眼をしたすがるです
(私のとこへあらはれたその蜂は
ちやんと抛物線の図式にしたがひ
さびしい未知へとんでいつた)
チモシイの穂が青くたのしくゆれてゐる
それはたのしくゆれてゐるといつたところで
荘厳ミサや雲環とおなじやうに
うれひや悲しみに対立するものではない
だから新らしい蜂がまた一疋飛んできて
ぼくのまはりをとびめぐり
また茨や灌木にひつかかれた
わたしのすあしを刺すのです
こんなうるんで秋の雲のとぶ日
鈴谷平野の荒さんだ山際の焼け跡に
わたくしはこんなにたのしくすわつてゐる
ほんたうにそれらの焼けたとゞまつが
まつすぐに天に立つて加奈太式に風にゆれ
また夢よりもたかくのびた白樺が
青ぞらにわづかの新葉をつけ
三稜玻璃にもまれ
(うしろの方はまつ青ですよ
クリスマスツリーに使ひたいやうな
あをいまつ青いとどまつが
いつぱいに生えてゐるのです)
いちめんのやなぎらんの群落が
光ともやの紫いろの花をつけ
遠くから近くからけむつてゐる
(さはしぎも啼いてゐる
たしかさはしぎの発動機だ)
こんやはもう標本をいつぱいもつて
わたくしは宗谷海峡をわたる
だから風の音が汽車のやうだ
流れるものは二条の茶
蛇ではなくて一ぴきの栗鼠
いぶかしさうにこつちをみる
(こんどは風が
みんなのがやがやしたはなし声にきこえ
うしろの遠い山の下からは
好摩の冬の青ぞらから落ちてきたやうな
すきとほつた大きなせきばらひがする
これはサガレンの古くからの誰かだ)
この詩の舞台は、日本占領時代の樺太(現ロシア領サハリン州)の中心都市豊原(現ユージノサハリンスク)市街東端の神社山(樺太神社)や玉川苗圃(豊原林務署)辺と推察できます。現在では、サハリン中央低地帯を南流するススヤ川扇状地「ススーヤ平原」です。
周辺は樺太、豊原市・豊栄郡豊北村、大泊郡富内村またがる山地で、鈴谷山脈、1048mの鈴谷岳をふくみ、ブナ林、ハイマツ帯、高山植物帯等があります。
賢治の作品に登場する蜂は、いつも肯定的な描かれ方をします。「寓話 洞熊学校を卒業した三人」では、三人が競争原理を学習した時と、その結果三人が破滅したそれぞれの時に、蜂の幸せな姿が描かれます。蜜を集めて働き、結果として受粉を助け、木の芽から要らなくなった蜜を集めてせっせと巣を構築することに象徴される共生の原理に基づいた生活で、競争原理とは相反するものです。またその眼は青く「若い木霊」、「タネリはたしかにいちにち噛んでいたやうだった」でも太陽光の中、澄んだ風に乗って働いています。
ここでも〈琥珀細工の春の器械〉という賛辞が送られます。賢治の心も明るい日差しの中に向けられるようになりました。
でも飛んで行くのは、トシの死を受け入れ、現実に戻ろうと南へ向かっていく〈さびしい未知〉これは賢治の方向でもあったようで、チモシイの穂が青くたのしくゆれていても、〈たのしく〉鈴谷平野に座っていても、白樺やヤナギランが美しくても、心の底の〈うれひやかなしみ〉は続いています。
でも続く未来は、〈標本〉―旅の成果―を確信して、宗谷海峡を渡って帰ることでもありました。
風の音は〈汽車の音〉となり、人の話し声に聞こえます。賢治はどこかで人間の世界への回帰を感じていたのではないでしょうか。それは、故郷、好摩の冬の青空とサガレンの誰かとを並べて、これから帰る岩手に少しの希望を見出したことを表しているのかもしれません。
「無声慟哭」、「オホーツク挽歌」の章については既出論考も多く、またトシの死という重大な事実と賢治の深い悲しみを描き、短文では語りつくせないと思います。
しかし、〈風〉を追う限りでは、風はいつも賢治に寄り添って、〈まことの言葉〉を伝え、澄んだ空気を運び、救いへと導いて行ったと思います。
参考
黄英「デストピアの様相」、第五節「蜘蛛となめくじと狸」から「寓話 洞熊学校を卒業した三人」へ(『比較社会文化叢書XIV 宮沢賢治のユートピア志向』第2章)(花書院 2009)