風が偏倚して過ぎたあとでは
クレオソートを塗つたばかりの電柱や
逞しくも起伏する暗黒山稜や
(虚空は古めかしい月汞にみち)
研ぎ澄まされた天河石天盤の半月
すべてこんなに錯綜した雲やそらの景観が
すきとほつて巨大な過去になる……中略……
一九二三、九、一六の日付を持つこの詩は、タイトルが〈風の偏倚〉です。この〈偏倚〉という言葉は、私にとっては聞き慣れない言葉でした。
『日本国語大辞典 第二版』によれば、二字とも偏りを意味し、熟語〈偏倚〉でも@偏り、中正を失うA数値的な偏り、一定基準や平均からのずれを表すとあり、@の用例としては1346年「宝覚真空禅師録」、1413年「懶空漫考」、1530年清原国賢写「荘子抄」、1775年「十善法語」、1891年「真善美日本人」など、ほとんどが宗教的、道徳的な意味合いを持つものでした。
「十善法語」は 江戸時代後期の僧、慈雲飲光(1728-1805)によって著されました。仏教の十善戒―不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不綺語戒、不悪口戒、不両舌戒、不慳貪戒、不貪慾戒、不邪見戒という、十の戒めについて解き、一つ一つの戒を通じて、人間の存在そのものを問うことと、人として生きることの根本を考えることがテーマになっています。用例によれば、その(一)に〈本性平等にして偏倚なけれども〉と使われています。(まだ「十善法語」のその部分の原文を読むことができません。)
慈雲はその学識と徳の高さから、「尊者」と敬称を付けられます。〈慈雲尊者〉はこの詩の19日前の日付を持つ「不貪慾戒」に、稲の緑色に育った姿について、〈慈雲尊者にしたがへば/不貪慾戒のすがたです〉と使われます。他の詩でも深くかかわる記述があり、賢治はこの日付から近い過去に 「十善法語」を読んでいたと思われます。〈偏倚〉は、この著作の記憶から使われたのではないでしょうか。とすれば、単なる風の風景の記述ではなく、特別な意味を持たせているのかもしれません。
トシへの挽歌詩群のあとの「風景とオルゴール」の章の、最初の6篇には、共通する言葉、潜在意識が散見できます。
8月28日 「不貪欲戒」 〈慈雲尊者〉
8月31日 「雲とはんのき」 〈男らしい償い〉 〈葬送行進曲〉
9月16日 「宗教風の恋」〈偏って尖った心の動きかた〉 関東大震災
「風景とオルゴール」〈クレオソート〉 伐採
「風の偏倚」 〈偏倚〉 〈クレオソート〉
「昴」 関東大震災 〈善逝〉 伐採
まず、あまり社会的な事件を詩に読みこまない賢治が、〈風はどうどう空で鳴ってゐるし/東京の避難者たちは半分脳膜炎になって/いまでもまいにち遁げて来るのに〉(「宗教風の恋」)、〈東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ〉(「昴」)と、2作で「関東大震災」に触れ、それも被害に深く心を痛めていることがうかがわれます。
これはまさに挽歌詩群で表明された、〈一人をかなしんではいけない〉ということの、現実の課題となっているのではないでしょうか。
「風景とオルゴール」の〈(しづまれしづまれ五間森/木をきられてもしづまるのだ)、「昴」の〈山へ行って木をきったものは/どうしても帰るときは肩身がせまい〉という記述、これも、「種山が原の夜」や、「かしはばやしの夜」などに明確に示される、木を切ってはいけない、という賢治の信念ですが、心ならずもそれを通せない現実が少なからず存在したのでしょう。
16日の日付の4作は、薄明どきの、松倉山周辺の風景が描かれます。
松倉山は、全国に13山あり、岩手県に4山、うち2山が花巻市にあります。登場する〈松倉山〉は志戸平温泉と大沢温泉の間にあり、384mの低山です。地図を見ると、江釣子森山の林道が、山頂から東1kmほど、標高300メートルのところを通過しています(注1)。
描かれる電車は、花巻と西鉛温泉を結んでいた花巻電気軌道鉛(なまり)線で、大正12年5月には大沢温泉まで開通していました。
この日賢治は、豊沢川沿いを歩いて、五間森(ごけんもり)に木を切りに行き、花巻電気軌道の松原駅まで歩きそこから電車で帰花しています (注2)。
「風の偏倚」は、松倉山付近を過ぎ、道が南に大きくカーブし、志戸平温泉付近を通過するころの様子が描かれています(注2)。
〈五日の月はさらに小さく副生し〉と記述されるように、その日、月齢は5.5日で、日の入りは17時36分、薄明終了19時16分、月の入り21時36分です(注3)。
日の入りから薄明までの間の風景が詠まれたと思われます。「風景とオルゴール」では〈六日の月〉とされますが、賢治の意識が、確実な月齢よりは風景や色彩を重視した表現となっているせいかもしれません(注3)。
おゝ私のうしろの松倉山には
用意された一万の硜花流紋擬灰岩の弾塊があり
川尻断層のときから息を殺してしまってゐて
私が腕時計を光らし過ぎれば落ちてくる……中略……
この記述は、やはり地震から連想される脅威が心にあったことを表すと思います。〈川尻断層〉は、1896年(明治29年、賢治誕生4日後)秋田、岩手県境で発生した陸羽地震によって生じた和賀郡沢内村(現西和賀町)の川舟断層の誤記のようです(注3)。
これらの不安、後ろめたさ、恐れが、「十善法語」の教えを思い起こし、または頼り、〈偏倚〉という言葉を選んだのではないかというのは深読みでしょうか。
この詩では、月の表情、雲の描写が細かく、それに付随して、風の描写も精緻です。
すべてこんなに錯綜した雲やそらの景観が
すきとほつて巨大な過去になる……中略……
風と嘆息との中にあらゆる世界の因子がある……中略……
(月あかりがこんなにみちにふると
まへにはよく硫黄のにほひがのぼつたのだが
いまはその小さな硫黄の粒も
風や酸素に溶かされてしまつた)……中略……
〈風と嘆息〉は、風が呼吸するように、吹いたり止んだりすることと思います。風は空の風景だけでなく、歴史をも動かしているのではないか、という思いに駆られ、あるいは、そのような歴史の転換がこの現在の状態をも変えてくれるのかもしれないという想いがあったのでしょうか。
どうしてどうして松倉山の木は
ひどくひどく風にあらびてゐるのだ
あのごとごといふのがみんなそれだ)
呼吸のやうに月光はまた明るくなり
雲の遷色とダムを超える水の音
わたしの帽子の静寂と風の塊……中略……
松倉山は風に吹きさらされています。今日の伐採のことが心の底にあります。でも帽子は飛ばされることなく、風はかたまりとなって先へ行ったのでしょうか。
―風が偏倚して過ぎたあとでは―風は一瞬、賢治の前を過ぎ、一面の雲や煩わしい風景を過去のものとしています。ここでは〈偏倚〉は偏るというよりも、一瞬、強く吹いたことを表すのではないでしょうか。文献にあるような否定的な意味をそこには感じられません。賢治は、やはり風を一つの現象として眼の前にある姿をとらえながら、その先に救いや宗教的な意味をもとめていたのかもしれません。
注1 HPあかりんの岩手低山奇行
2 栗原敦『宮沢賢治透明な軌道の上から』新宿書房1992
3 HP加倉井厚夫氏「賢治の事務所」 「風の偏倚」全文
風が偏倚して過ぎたあとでは
クレオソートを塗つたばかりの電柱や
逞しくも起伏する暗黒山稜や
(虚空は古めかしい月汞にみち)
研ぎ澄まされた天河石天盤の半月
すべてこんなに錯綜した雲やそらの景観が
すきとほつて巨大な過去になる
五日の月はさらに小さく副生し
意識のやうに移つて行くちぎれた蛋白彩の雲
月の尖端をかすめて過ぎれば
そのまん中の厚いところは黒いのです
(風と嘆息との中にあらゆる世界の因子がある)
きららかにきらびやかにみだれて飛ぶ断雲と
星雲のやうにうごかない天盤附属の氷片の雲
(それはつめたい虹をあげ)
いま硅酸の雲の大部が行き過ぎやうとするために
みちはなんべんもくらくなり
(月あかりがこんなにみちにふると
まへにはよく硫黄のにほひがのぼつたのだ が
いまはその小さな硫黄の粒も
風や酸素に溶かされてしまつた)
じつに空は底のしれない洗ひがけの虚空で
月は水銀を塗られたでこぼこの噴火口からできてゐる
(山もはやしもけふはひじやうに峻儼だ)
どんどん雲は月のおもてを研いで飛んでゆく
ひるまのはげしくすさまじい雨が
微塵からなにからすつかりとつてしまつたのだ
月の彎曲の内側から
白いあやしい気体が噴かれ
そのために却つて一きれの雲がとかされて
(杉の列はみんな黒真珠の保護色)
そらそら、B氏のやつたあの虹の交錯や顫ひと
苹果の未熟なハロウとが
あやしく天を覆ひだす
杉の列には山鳥がいつぱいに潜み
ペガススのあたりに立つてゐた
いま雲は一せいに散兵をしき
極めて堅実にすすんで行く
おゝ私のうしろの松倉山には
用意された一万の硅化流紋凝灰岩の弾塊があり
川尻断層のときから息を殺してまつてゐて
私が腕時計を光らし過ぎれば落ちてくる
空気の透明度は水よりも強く
松倉山から生えた木は
敬虔に天に祈つてゐる
辛うじて赤いすすきの穂がゆらぎ
(どうしてどうして松倉山の木は
ひどくひどく風にあらびてゐるのだ
あのごとごといふのがみんなそれだ)
呼吸のやうに月光はまた明るくなり
雲の遷色とダムを超える水の音
わたしの帽子の静寂と風の塊
いまくらくなり電車の単線ばかりまつすぐにのび
レールとみちの粘土の可塑性
月はこの変厄のあひだ不思議な黄いろになつてゐる