宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
「めくらぶだうと虹」と「マリヴロンと少女」―風の中に輝く―
 
 城あとのおほばこの実は結び、赤つめ草の花は枯れて焦茶色になり、畑の粟は刈られました。
「刈られたぞ。」と云ひながら一ぺん一寸顔を出した野鼠がまた急いで穴へひっこみました。
 崖やほりには、まばゆい銀のすすきの穂が、いちめん風に波立ってゐます。
 その城あとのまん中に、小さな四っ角山があって、上のやぶには、めくらぶだうの実が、虹のように熟れてゐました。
 さて、かすかなかすかな日照り雨が降りましたので、草はきらきら光り、向ふの山は暗くなりました。
 そのかすかなかすかな日照り雨が霽れましたので、草はきらきら光り、向ふの山は明るくなって、大へんまぶしさうに笑ってゐます。
 そっちの方から、もずが、まるで音譜をばらばらにしてふりまいたやうに飛んで来て、みんな一度に、銀のすゝきの穂にとまりました。
 めくらぶだうは感激して、すきとほった深い息をつき葉から雫をぽたぽたこぼしました。
 東の灰色の山脈の上を、つめたい風がふっと通って、大きな虹が、明るい夢の橋のやうにやさしく空にあらはれました。
 そこでめくらぶだうの青じろい樹液は、はげしくはげしく波うちました。
 さうです。今日こそ、ただの一言でも、虹とことばをかはしたい、丘の上の小さなめくらぶだうの木が、よるのそらに燃える青いほのほよりも、もっと強い、もっとかなしいおもひを、はるかの美しい虹に捧げると、ただこれだけを伝へたい、ああ、それからならば、それからならば、実や葉が風にちぎられて、あの明るいつめたいまっ白の冬の眠りにはひっても、あるいはそのまま枯れてしまってもいゝのでした。……(「めくらぶだうと虹」) 
(以下引用文のルビは省略します。)
 
 「めくらぶだうと虹」は生前未発表で、大正10年秋頃執筆と推定されます。賢治の童話集構想、「花鳥童話集」にも入っています。
 〈めくらぶだう〉は、標準和名ノブドウ、ブドウ科ノブドウ属の蔓性植物で、畑や河岸、林縁などに自生し、9月下旬から10月初旬に、直径5mmほどの、青、水色、白、紫、の実をたくさんつけます。近くで見ると実は少しいびつなものもあり、細かい斑点もありますが、樹木があれば、蔓は絡んで高く伸び、その青系のグラデーションは美しいものです。賢治が〈虹のやう〉と形容するのが分かります。
 〈めくらぶだう〉は、自分の美しさには気づかず、虹への崇敬を、風に声を遮られながら必死の思いで訴えます。その会話は、お互いの美しさを周囲の空や星に喩えながら讃え、ひとつの絵模様のようです。
 
……「虹さん。どうか、一寸こっちを見て下さい。」めくらぶだうは、ふだんの透きとほる声もどこかへ行って、しはがれた声を風に半分とられながら叫びました。
 やさしい虹は、うっとり西の碧いそらをながめてゐた大きな碧い瞳を、めくらぶだうに向けました。
「何かご用でいらっしゃいますか。あなたはめくらぶだうさんでせう。」
 めくらぶだうは、まるでぶなの木の葉のやうにプリプリふるへて、輝いて、いきがせはしくて思うやうに物が云へませんでした。
「どうか私のうやまいを受けとって下さい。」
 虹は大きくといきをつきましたので、黄や菫は一つづつ声をあげるやうに輝きました。そして云ひました。
「うやまひを受けることは、あなたもおなじです。なぜそんなに陰気な顔をなさるのですか。」
「私はもう死んでもいゝのです。」
「どうしてそんなことを、仰っしゃるのです。あなたはまだお若いではありませんか。それに雪が降るまでには、まだ二ケ月あるではありませんか。」
「いゝえ。私の命なんか、なんでもないんです。あなたが、もし、もっと立派におなりになる為なら、私なんか、百ぺんでも死にます。」
「あら、あなたこそそんなにお立派ではありませんか。あなたは、たとえば、消えることのない虹です。変らない私です。私などはそれはまことにたよりないのです。ほんの十分か十五分のいのちです。ただ三秒のときさへあります。ところがあなたにかゞやく七色はいつまでも変りません。」
「いゝえ、変ります。変ります。私の実の光なんか、もうすぐ風に持って行かれます。雪にうずまって白くなってしまひます。枯れ草の中で腐ってしまひます。」
 虹は思わず微笑ひました。
「ええ、さうです。本たうはどんなものでも変らないものはないのです。ごらんなさい。向うのそらはまっさおでせう。まるでいい孔雀石のやうです。けれども間もなくお日さまがあすこをお通りになって、山へお入りになりますと、あすこは月見草の花びらのやうになります。それも間もなくしぼんで、やがてたそがれ前の銀色と、それから星をちりばめた夜とが来ます。    
その頃、私は、どこへ行き、どこに生れてゐるでしょう。又、この眼の前の、美しい丘や野原も、みな一秒づつけづられたりくづれたりしてゐます。けれども、もしも、まことのちからが、これらの中にあらわれるときは、すべてのおとろえるもの、しわむもの、さだめないもの、はかないもの、みなかぎりないいのちです。わたくしでさえ、ただ三秒ひらめくときも、半時空にかかるときもいつもおんなじよろこびです。」
「けれども、あなたは、高く光のそらにかかります。すべて草や花や鳥は、みなあなたをほめて歌ひます。」 
「それはあなたも同じです。すべて私に来て、私をかゞやかすものは、あなたをもきらめかします。私に与へられたすべてのほめことばは、そのままあなたに贈られます。ごらんなさい。まことの瞳でものを見る人は、人の王のさかえの極みをも、野の百合の一つにくらべやうとはしませんでした。それは、人のさかえをば、人のたくらむやうに、しばらくまことのちから、かぎりないいのちからはなして見たのです。もしそのひかりの中でならば、人のおごりからあやしい雲と湧きのぼる、塵の中のただ一抹も、神の子のほめ給うた、聖なる百合に劣るものではありません。」……
 

 
 虹は天上にあって大きく優しく気高い存在ですが、短時間で消えていくものです。 〈めくらぶだう〉は地上に根を張って生き、枯れて醜さを残しますが、一つの季節を彩ります。
 二つとも周囲の状況―虹は空気や、風や湿度、そして太陽光など、〈めくらぶだう〉は気候や土や太陽光など―にゆだねられて輝くものであることに変わりはないのです。
 〈めくらぶだう〉と虹、二つの心の中では、その美は永遠なのです。賢治はそこに〈まことの瞳〉、〈まことのちから〉を見出し、それを虹に語らせます。 
 一方、風は、〈めくらぶだう〉の輝きと死、そして虹の出現と消滅にも関わって、その存在の根底となっています。やはり、自然の具現としての風です。賢治は物語の根底に自然の法則をきちんと書きこんでいます。
 
……「私を教へて下さい。私を連れて行って下さい。私はどんなことでもいたします。」
「いいえ私はどこへも行きません。いつでもあなたのことを考えてゐます。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。いつまでもほろびるということはありません。けれども、あなたは、もう私を見ないでしょう。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。私はあなたにお別れしなければなりません。」
停車場の方で、鋭い笛がピーと鳴りました。
 もずはみな、一ぺんに飛び立って、気違ひになったばらばらの楽譜のやうに、やかましく鳴きながら、東の方へ飛んで行きました。
 めくらぶだうは高く叫びました。
「虹さん。私をつれて行って下さい。どこへも行かないで下さい。」
 虹はかすかにわらったやうでしたが、もうよほどうすくなって、はっきりわかりませんでした。
 そして、今はもう、すっかり消えました。
 空は銀色の光を増し、あまり、もずがやかましいので、ひばりも仕方なく、その空へのぼって、少しばかり調子はずれの歌をうたひました。
 
 太陽は移り虹は消えていきました。
  虹の言葉は〈めくらぶだう〉には理解されることありませんでした。鳥たちの営みだけが変わりなく続いています。それもまた永遠ではないのですが、そこに描かれるものは変わりなく繰り返される日常のような気がします。
  
 この物語を、改作したものが、「マリヴロンと少女」です。
 文体はデスマス体からデアル体に変わっていますが、少し混在しています。
 また〈「けれども、あなたは、高く光のそらにかかります。すべて草や花や鳥は、みなあなたをほめて歌ひます。わたくしはたれにも知られず巨きな森のなかで朽ちてしまふのです。」〉の部分は、虹と〈めくらぶだう〉の描写そのままで、人間の比喩としては成熟していないと思います。
 原稿にも、「要三考」と記されていて、賢治の中でも未完の作品だったことが窺えます。改稿の意図も明確には感じられません。
 〈めくらぶだう〉はアフリカに行く宣教師の娘〈ギルダ〉に、〈虹〉は市庁で歌うことになっている声楽家〈マリヴロン〉になり、人間の物語となりますが、めくらぶだう、虹は背景として存在し、その他の風景もほとんど変わりません。風は背景の一つとして描かれます。
 
 レコードなどによる賢治との明確な接点は不明ですが、〈マリヴロン〉のモデルは、フランスの著名なオペラ歌手、マリア・マリブラン(1808〜1836)と推定されます。
 賢治が中学2年時に学習したと思われる英語教科書『ニュー・ナショナル・リーダー』に、「マリブランと若き音楽家」 が載っていました。マリブランは、貧しく才能のある少年を見出し、演奏会でその作品を取り上げて歌い、さらに楽譜の出版の手筈もとり、少年の作曲家への道を開きました。そして若くして臨終の床に就いたマリブランを看取ったのも彼だった、というストーリーです。少年のマリブランへの崇拝と憧れ、マリブランの少年への言葉など、「マリヴロンと少女」の出会いを彷彿とさせます(注1)。
 さらにその後の第12課に、「ベートーベンのムーンライト・ソナタ」があり、ベートーベンと盲目の少女の逸話の中で、ムーンライト・ソナタを弾いていた少女がベートーベンとこの曲の美しさへの憧れを込めて「私を教えて下さい。私を連れて行って使って下さい。私はどんなことでもいたします。」という会話があって、この二つの記憶が、ギルダの美や尊敬するものへの憧れの描写となっていったのではないかと推定されます(注2)。
 また関登久也『宮澤賢治素描』には、昭和二年頃、当時その生き方などから社会的にも賛美されていた声楽家の立松房子のコンサートが花巻で開かれ、感動した賢治が、自分の手作りの花束を少女に頼んで秘かに贈呈してもらった、という記述があって、賢治の声楽へ興味の深さと憧れを実証しているとも言われます(注3)。ただ改稿の時期との関わりなどの詳しいことは不明です。
 
 一方、少女がマリヴロンに「つれて行って下さい」、「どうか私を教へてください」ということは、アフリカに行くことを断念し、また、「たった一人の師」として、キリストではなくマリヴロンを選ぶことになります。
マリヴロンが少女の願いを聞き入れなかったのは、「マタイ福音書」30にみられる、自分に従うことの意味を確認する言葉、39の「敬いを受けるものは自分ではなく自分を遣わした神である」という思想の反映も見られると言われます(注4)。
 
 もうひとつの主題は芸術と仕事です。
 
…前略…
「先生どうか私のこころからうやまひを受けとって下さい。」
マリヴロンはかすかにといきしたので、その胸の黄や菫の宝石は一つずつ声をあげるやうに輝きました。そして云ふ。
「うやまひを受けることは、あなたもおなじです。なぜそんなに陰気な顔をなさるのですか。」「私はもう死んでもいゝのでございます。」
「どうしてそんなことを、仰っしゃるのです。あなたはまだまだお若いではありませんか。」
「いゝえ。私の命なんか、なんでもないのでございます。あなたが、もし、もっと立派におなりになる為なら、私なんか、百ぺんでも死にます。」
「あなたこそそんなにお立派ではありませんか。あなたは、立派なおしごとをあちらへ行ってなさるでせう。それはわたくしなどよりははるかに高いしごとです。私などはそれはまことにたよりないのです。ほんの十分か十五分か声のひびきのあるうちのいのちです。」
「いいえ、ちがいます。ちがいます。先生はここの世界やみんなをもっときれいに立派になさるお方でございます。」
マリヴロンは思わず微笑ひました。
「ええ、それをわたくしはのぞみます。けれどもそれはあなたはいよいよさうでしょう。正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。ごらんなさい。向ふの青いそらのなかを一羽の鵠がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでせうが、わたくしはそれを見るのです。おんなじやうにわたくしどもはみなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です。」 …中略… (「マリヴロンと少女」)
 
 〈正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。〉は、〈働くことの中に芸術を見出そうとした、「農民芸術概論綱要」などにみられる思想を描きこもうとしていたとも思われます。
 
 ……
停車場の方で、鋭い笛がピーと鳴り、もずはみな、一ぺんに飛び立って、気違ひになったばらばらの楽譜のやうに、やかましく鳴きながら、東の方へ飛んで行く。
「先生。私をつれて行って下さい。どうか私を教へてください。」
うつくしくけだかいマリヴロンはかすかにわらったやうにも見えた。また当惑してかしらをふったやうにも見えた。
そしてあたりはくらくなり空だけ銀の光を増せば、あんまり、もずがやかましいので、しまひのひばりも仕方なく、もいちど空へのぼって行って、少うしばかり調子はづれの歌をうたった。
 

 
 ノブドウの輝きに魅せられた賢治が、その気持ちを、手の届かない遠い虹への憧れに昇華し、さらに、現実の美としての音楽や音楽家への叶わぬ思いの具現として描いたのが、この二つの物語ではないでしょうか。
 
 「めくらぶだうと虹」の場合と同様、少女はマリヴロンの心を受け入れることは描かれません。
 先に書いた「ひのきとひなげし」のひなげしも、「二十六夜」のフクロウも、賢治の思うところを受け入れるようには書かれていませんでした。ここに賢治が込めた思いは何だったのでしょう。
 課題として、ゆっくり考えて行きたいと思います。
 
注1、高木栄一「マリブロン」(『賢治研究11』 宮沢賢治研究会 1972、8)
注2、高木栄一「マリヴロンとムーンライト・ソナタ」(『賢治研究18』 宮沢賢治研究会 
1975、12)
注3、関登久也『宮澤賢治素描』(真日本社 1947)
   浜垣誠司「立松房子女史とマリブラン」(同氏HP「宮沢賢治の詩の世界」2009、4)
注4、会田捷夫『私の読んだ「マリヴロンと少女」』 『賢治研究90』
宮澤賢治研究会2003、5
 

 付記
 写真は庭のノブドウです。
 以前、石垣の上の高い塀いっぱいにノブドウを這わせたお家を訪ねたことがありました。そこで戴いた実を蒔いて10年ほど経ちます。道路事情もあって塀に這わせることは困難になり、幸い枯れた樹木や花のつかない庭木があったので、思い切ってそこに伸ばしてみました。
 気温や土の関係か色づきは今一ですが、太陽の中ではとてもきれいです。残念ながらどんなに美しいと思っても、部屋に飾ると輝きを失ってしまいます。やはり、風や太陽光や露の中でこそ、地上の虹となることができるのかもしれません。
 いままで、ごく普通に畑や河原に生えてきたノブドウが減っているそうです。自然の状態を保ちながら、保護していかねばならない生物がたくさんあるのかもしれません。


 







永野川2015年10月中旬
 不安定だった空模様がようやく安定して、気持ちの良い日となりました。
9:30ころ二杉橋から入りました。
 川はいつもの様子を取り戻し、澄んで水量も少なくなりましたが、鳥の姿はありません。
 ただ、岸の草むらから、ホオジロではないチッチという声が2、3か所で聞こえました。姿は確認できませんでしたが、カシラダカなどが来ているのかもしれません。
 セグロセキレイが飛び、イソシギが1羽、飛んで少し上流の岸辺で採餌していました。
 睦橋の手前で、カルガモ13羽に混じってコガモ1羽、この時期にいつも、迷い込んだように少数のコガモが見られます。
 イカルチドリの幼鳥が水浴びしていました。今日は鳥にとっては暖かだったのでしょう。
 上空をヒヨドリが32羽、東から西へ飛んでいきました。渡って来たのでしょうか。その後も25羽、30羽、の大群がやはり東から西へ大空を飛び、その他も13、10、14、7、5羽とほとんどが群れでした。同じ方角なので、これは違う群れと見て良いでしょうか。
 合流点近くの田で、ひっそりとキジが1羽、採餌中でした。
 川岸からカワセミが2羽一瞬飛んで、川とは反対の公園の草むらの方に消えました。
 栃木陶器瓦の近くでバン1羽、合流点の上流でカイツブリ1羽、両方幼鳥でした。
 公園内の整備が始まったようで、ブルドーザーが2台芝生の広場に止っていました。ワンド跡の近くに土が大量に積まれていて、もしかすると、ワンドを復活させるのかもしれません。今日は日曜なので、工事はお休みですが、もし工事を始めていたら安らかではいられそうにありません。ただ、この状態をそのままにはできないし、どういう方向に行くのか、個人には分からないし決められません。低木と草むらをある程度残し、ヨシを育てることができれば、公園の中の野鳥の観察地、となるのですが。
 滝沢ハムのクヌギ林で、シメに似た硬質な感じの声がして、しばらく追ってみたのですが、姿をとらえることはできませんでした。もう近くまで来ているのかもしれません。
 公園の中で、ハクセキレイが3羽飛びかっていました。
 ホテイアオイが調整池一面を覆って、土手にも登っていました。台風の時流れて来た枯れ草が絡まり、ホテイアオイで下の方は閉ざされている取水口に、アオサギが1羽じっと留っていたのは、なにか痛々しい気がしました。
午後、自宅にジョウビタキが初飛来しました。季節の兆しにたくさん触れた日でした。
 
鳥リスト
キジ、カルガモ、コガモ、カイツブリ、ダイサギ、アオサギ、バン、イカルチドリ、イソシギ、カワセミ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、ヒヨドリ、スズメ、セグロセキレイ、ハクセキレイ
声 カシラダカ シメ

 
 







永野川2015年10上旬
8日
 よいお天気でしたが、台風の影響で西風が時々強く吹き、鳥の姿はあまり見えません。
 二杉橋から入りました。河川工事は土嚢を積んでひとまず終了したようです。
 睦橋の少し下、イソシギが、腹部が水に触れるくらいの浅瀬を歩いて餌を取っていました。私にはちょっと珍しい光景です。
 イカルチドリが2羽、鳴きながら飛び、セグロセキレイ2羽、ハクセキレイ1羽が飛びました。
 少し登ったところでカルガモ2羽、4羽と続きます。
 高橋際の民家でヒヨドリの声、久しぶりでした。
 上人橋付近でコサギが2羽、コサギもこのところ戻って来ている感じです。
 保育園のサクラにスズメ4羽、その後も、民家などで4羽の群れ2回、単独で1羽。稲に群がるスズメはいませんでした。
 新井町で、カイツブリの幼鳥、まだいくらか顔に白い模様が残っていました。
 額板が赤くなったバン1羽、もうじき季節が変わります。
 合流点付近でツバメが6羽、越冬するのか?一瞬思いました。
 公園に入って、またツバメ3羽に会い、そのうち10羽くらいの群れが来て、よく見るとイワツバメでした。それが、みるみる増えて40羽ほど、公園の空いっぱいになり、10数分後に戻った時もまだ飛び続けていました。公園は、群れる鳥の観察には好適なことを実感しました。広い空いっぱいに拡がる鳥をゆっくり見ることが出来るからです。これだけ多いと、渡りの機会を逃したとは考えにくくなります。バードリサーチのお話では今年最後の渡りではないか、ということでした。
 大岩橋上の河川敷林で、シジュウカラとエナガの声らしいものが聞こえ、待つこと数分、林の奥から、まずシジュウカラが5羽、続いてエナガが4羽見えるところに出てきてくれました。今季初です。破壊された自然の回復は遅いのですが、鳥たちは順調に戻っていてくれているようで、嬉しいひとときでした。
 
鳥リスト
カルガモ、カイツブリ、ダイサギ、コサギ、バン、イカルチドリ、イソシギ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、シジュウカラ、ツバメ、イワツバメ、ヒヨドリ、エナガ、スズメ、セグロセキレイ、ハクセキレイ

 
 







永野川2015年9月下旬
28日
 彼岸も過ぎ、秋らしい澄んだ風が吹きます。
二杉橋から入ると、水は澄んで来ていて、ヨシやススキはいくらか緑が見え始めました。
 川は工事が始まっている個所が多く、鳥の姿は見えません。第五小のサクラにスズメが1羽、スズメは1羽でも貴重という感じします。
 泉橋下の河川敷にカルガモが7羽。これも貴重な感じです。
 モズは電線で高鳴き3例、こちらは元気です。
 合流点の河川敷でカルガモ14羽、今日はサギの姿はありませんでした。
 泉橋上で、カイツブリ1羽。イソシギが2羽争うように飛んで行きました。
 車を避けるために入った次の橋で、一瞬飛んだものが見えて、双眼鏡に入れるとカワセミでした。。青い部分は見えませんでしたが、30秒ほど岸の木の枝に留って飛び去りました。
 少し登った新井町の田で、アオサギ2羽、ダイサギ2羽、稲刈りの済んだ田を歩いて食餌しているようでした。
 反対側の岸を下ると、カルガモ8羽、と今季初バンが1羽。一瞬ツバメが1羽飛びすぎました。渡りを逃したのでしょうか、公園の中でも2羽風に乗 っていました。
 大岩橋近くの森で、今季初、カケスの声がしました。いつか姿の見える日が来ることを祈ります。
 公園の中ではセグロセキレイ3羽とハクセキレイ2羽、少ないのですが、秋の始まりでしょうか。
 調整池のホテイアオイは予想通り池の全面を覆ってしまいました。ここに鳥が来るでしょうか。
 戻ってきた二杉橋では橋脚の下にカルガモが32羽、こんな集団は今季初めてです。渡り鳥ではないのですが、やはりシーズンのはじまり、という気がします。
 スズメはやはり少なくて目に見えたのは5羽のみでした。
 
鳥リスト
キジ、カルガモ、カイツブリ、アオサギ、ダイサギ、バン、モズ、カケス、ハシボソカラス、ハシブトカラス、ツバメ、スズメ、セグロセキレイ、ハクセキレイ
 
後記
 30日午後、友人と赤津川岸を散歩しました。
スズメが戻ってきました。20羽ほどの群れで、残っている草むらと、収穫前の稲田に集まっていました。
その後数羽の群れを何回か見かけました。
今後、どうなるか気になるところです。

 
 
 







今年のイーハトーブ 2015年9月22日、23日
 この写真は、9月23日、花巻駅前のホテルの六階から見た日の出です。この2日間、本当によく晴れ、花巻周辺の稲も順調に育って、稲穂色の鮮やかな風景が広がっていました。賢治の夢見た豊かな収穫の風景です。今年の旅は、リサーチの出来ないまま、行きたいという思いで駆けまわったイーハトーブでした。
 
 22日、最寄駅から一番早く盛岡につく列車を選びましたが、9時52分になっていました。
 岡村民夫先生のご論考『「ポラーノの広場」の競馬場 賢治郊外学のために』、浜垣誠司先生のブログ「レオーノキューストが住んでいたあたり」で、旧黄金競馬場の詳しい情報を得ました。「ポラーノの広場」は私の一番好きな童話ですので、この機会に是非とも訪ねたいと思いました
 もう一つ、地図上では比較的近くみえる、賢治が参禅したという報恩寺、下宿した教浄寺、願教寺など、北山周辺もいきたいところでした。かつては雑木林の中に点在していたという寺院群です。
 「東京ノート」(五年生)に〈丘、ツルゲーネフ〉、「文語詩篇ノート」に〈北山、丘、米内〉のメモがあります。それを知ったとき、若いころツルゲーネフに夢中だった私としては、自分と賢治と共通のものがあった!!と思いこみ、いつかは訪ねて見たいと思っていました。
 
 事前の調査では、二つの場所を結ぶバス路線は無いようでした。観光案内所ならば複数のバス会社の路線が分かるかと思ったのですが、結局、2か所を結ぶ路線はなく、10分後に高松神社方面に行くバスに乗りました。
 バスは、岩手大学や体育館など文化施設をいくつも通り過ぎていきました。
 旧黄金競馬場跡地は、高松神社付近の八幡神社とその裾野に拡がる住宅地です。高松神社は道際ですぐわかりましたが、付近の人に尋ねても八幡神社は分かりませんでした。事前に見た地図を思い浮かべて、反対側の少し小高い丘と木立の見える場所へ行ってみました。
 麓に、「御大典記念」と刻まれた石鳥居がありましたが、「八幡神社」の名前はありませんでした。
 少し登ってみると、どうも人家の中に入って行くような気がして、上まではいけませんでした。
 丘の周囲を巡っている道には、岡村先生のご論考の中にあった、アカシアの大木や、桜の木があり、南側、下方には、広い住宅地が広がっていました。
 確かに「ポラーノの広場」の〈北に山をしょって〉いる場所、〈植物園にこしらえ直す〉という未来に向かって変革が可能な場所を確信できました。
 夜、岡村先生のお話を聞くことができました。この鳥居は通りぬけ可能で、登れば「馬魂碑」(1907年建立)や「黄金競馬場の碑」(1904年建立)があったということでした。神社に近い立地は、神事として始まった競馬を証明することもできます。
 賢治の高農時代には、まだ移転の計画はありませんでしたが、競馬は全盛で、当時の富裕層のレジャーとして明るいものだったのでしょう。変更の計画を知ったのは晩年だったのですが、その広い面積は、有意義な変更を感じさせる希望の場所となり、レオーノ・キューストのまだ明るい自由な暮らしの場所として、選ばれたのだと思います。
 
 高松の池は、野鳥の生息地、飛来地でもあるので、以前から憧れていました。神社から二つバス停を戻ったところで、ここはすぐにわかりました。実はここにタクシーの乗り場があれば、次の目的地に行けるかもしれない、という目算もありましたが、駐車場には数台の車があるのみでした。
折角来たので、もうここでのんびりしようと覚悟を決め昼食を取りました。
 ハクチョウは飛来しておらず、カルガモがあちこちに数羽ずつ浮いていました。突然池の中央に大きめの鳥が飛びました。双眼鏡に入れるとカイツブリの仲間でした。大きさから多分カンムリカイツブリではないかと思います。私の周辺では日常的には見られないものです。ふつうにこれがいる、というここの環境は素晴らしいと思いました。カンムリカイツブリはずっと池の中央を潜水したり泳いだりしていました。
 後日、野鳥の会の方にお話したら、この時期のカンムリカイツブリは、珍しいとのことでした。不安になってネットで検索してみると、盛岡の複数のブログで、カンムリカイツブリの記事がありました。偶然、それも短い時間に見ることが出来たのは幸運でした。
 
 花巻に戻ると、まだ講演までには1時間半以上あったので、とにかく真照寺まで車で行ってお参りしました。
 静寂の中に供花の鮮やかさと線香の香りは、賢治の想いと、その後に過ぎて来た時間とが一つになった空間を感じさせました。
 帰りは、花巻農学校跡の碑や、風の又三郎群像を訪ねて、ぎんどろ公園を歩きました。ギンドロの木は、また背たけを伸ばし高い高いところで、風に鳴っていました。幹と葉裏の銀色が豊かな日差しのなかで静かに輝きました。
 
23日
 今回の旅のもう一つの目的は、「二十六夜」の舞台、獅子鼻に行くことでした。これも事前リサーチが出来ず、花巻駅の観光案内所でもはっきりせず、桜地人館で尋ねるようにとのことでした。この時点で時間の配分が分からなかったので、先日の懇親会の時にお話しした方に誘われて、ひとまずイーハトーブ館の研究発表会へ向かいました。
 イーハトーブ館から花巻へ戻ってくるバスは13時過ぎで、それからでは獅子鼻を探すのは無理のようでした。申し訳ないのですが思い切って途中で失礼して、南斜花壇を抜けてリニューアルした賢治記念館へ行きました。星空やその他、体験できる設備などが充実していました。ここもゆっくりすれば発見がありそうですが、取り急ぎ、タクシーで賢治碑に向かいました。
 まず桜地人館でお聞きすると、北上川を下って、銀河南大橋と花巻南大橋を越えた場所で、徒歩では難しいとのこと、タクシーを呼んで下さるとのこと、また「雨ニモマケズ」詩碑の丘からの展望の方が実感できる、ということでした。
 「雨ニモマケズ」詩碑の丘は、賢治祭以外の日に行くと、ほとんど人はいなくて、風が流れ、賢治の孤独が伝わってくる感じが好きです。
 展望の解説図に従ってみると、確かにかなり離れた場所に、川に突き出た黒い林が見えます。
 以前、賢治自耕の地から少し川岸を下ったことがあるので行ってみましたが、今回、川岸は草が生い茂り入ることが出来ず、獅子鼻を近くから見ることはできませんでした。かなり暑くなってきたので、タクシーを呼んでいた だくことにしました。
 運転手さんもよくわからなかったのですが、地人館で教えていただいた、橋を二つ越えた所、と伝えると、ためらいながら行ってくださいました。そして、船着き場がある写真を見たことがあることを伝えると、今度はすぐ着けました。
 林は、耕作地から細長く続いてさらに岸辺に突き出ていました。でも岸から中に入ることはできないようでした。車から出ることも忘れて、ただ辿りつけた喜びばかりでいっぱいでした。写真を取るのも忘れていました。
船着き場がひっそりとあって、対岸の林も静かに広がっていて、本当なら少しでも降りて歩くべきでしたが、こういう時になると恐くなります。やはり誰かと来るべきだったかも……。少し様子が分かったので、誰かを誘う自信もできました。
 でも「獅子鼻」が確実になったのは、そこに来た運転手さんと顔見知りの地元の舟の愛好家に確認して後でした。地元の狭い範囲の人しか知らない名前のようです。
 ここから、イギリス海岸まで手漕ぎの舟をだすことができるとのこと、隠れた名所のようでした。戻る時気づきましたが、「フクロウの森」という小さな手製の看板もあり、いずれ観光化されるのかもしれないと思います。うまくいけば、アクセスも楽になり、賢治の世界を歩けるかもしれません。間違った方向に行かないことを祈ります。
 
 お昼も食べていなかったので、運転手さんにマルカンデパートに行ってもらいました。一度〈箸で食べるソフトクリーム〉を食べて見たかったのです。
マルカンデパートは6階建ての繁盛しているお店でした。六階は、懐かしい〈デパートの食堂〉で、もう13時は回っていたのに混雑していて、おまけにソフトクリームは30分待ちとのことでした。なぜか気が急いていて諦めて街へ出ました。地図を頼りに、鳥谷崎神社を廻って、気になっていた『春と修羅』印刷所跡の照井菓子店で経木まんじゅうを買い、駅にたどり着くことができました。
 
 ひどく不安の中で駆け回り、あちこちで時間のロスがありましたが、行きたい所へは行けました。いつの日か又来る時は、自信を持って友人を案内することが出来るでしょう。
 賢治祭周辺の旅は、賢治への想いの旅であると同時に、いつも新しい世界への挑戦です。
 
参考文献
岡村民夫『「ポラーノの広場」の競馬場 賢治郊外学のために』
(『賢治学 第二輯』岩手大学宮沢賢治センター 2015年6月)
浜垣誠司「レオーノキューストが住んでいたあたり」 
(同氏HP「宮沢賢治の詩の世界」2015年3月)
小林俊子「ポラーノの広場の競馬場」
(『宮澤賢治 絶唱 かなしみとさびしさ』 勉誠出版 2011)