融銅はまだ眩めかず
白いハロウも燃えたたず
地平線ばかり明るくなつたり陰つたり
はんぶん溶けたり澱んだり
しきりにさつきからゆれてゐる
おれは新らしくてパリパリの
銀杏なみきをくぐつてゆく
その一本の水平なえだに
りつぱな硝子のわかものが
もうたいてい三角にかはつて
そらをすきとほしてぶらさがつてゐる
けれどもこれはもちろん
そんなにふしぎなことでもない
おれはやつぱり口笛をふいて
大またにあるいてゆくだけだ
いてふの葉ならみんな青い
冴えかへつてふるえてゐる
いまやそこらはalcohol瓶のなかのけしき
白い輝雲のあちこちが切れて
あの永久の海蒼がのぞきでてゐる
それから新鮮なそらの海鼠の匂
ところがおれはあんまりステツキをふりすぎた
こんなににはかに木がなくなつて
眩ゆい芝生がいつぱいいつぱいにひらけるのは
さうとも 銀杏並樹なら
もう二哩もうしろになり
野の緑青の縞のなかで
あさの練兵をやつてゐる
うらうら湧きあがる昧爽のよろこび
氷ひばりも啼いてゐる
そのすきとほつたきれいななみは
そらのぜんたいにさへ
かなりの影きやうをあたへるのだ
すなはち雲がだんだんあをい虚空に融けて
たうたういまは
ころころまるめられたパラフヰンの団子になつて
ぽつかりぽつかりしづかにうかぶ
……
5月18日の日付を持つ、「真空溶媒」は、248行の長詩で、副題(Eine Phantasie im Morgen)が表すように、幻想という設定の風景です。背景は農場ではないかと思います。詩の冒頭から、明けはじめた空を〈融銅はまだ眩めかず/白いハロウも燃えたたず〉と否定形で表現されるので、一瞬ネガティブな雰囲気になります。
でも〈おれ〉は、芽生えたばかりのイチョウ並木を心地よく歩いて行きます。〈いてふの葉ならみんな青い/冴えかへつてふるえてゐ〉て、青さは心を澄ませてくれるようです。
賢治は電信柱の列を好みました。それは、『注文の多い料理店』の広告チラシには〈深い椈の森や、風や影、肉之草や、不思議な都会、ベーリング市迄続々電柱の列、それはあやしくも楽しい国土である〉が示すように、広い世界や未来へのつながりを感じさせるものだったのでしょう。童話「月夜の電信柱」も創られました。同様に並木、雲の列、人の列、等含めて、『春と修羅』同補遺で14例、「春と修羅第二集」、同補遺で10例あり、ほとんどが好意的な描き方をしています。〈あさの練兵をやつてゐる〉イチョウ並木には、整然とした美しさ、その先に続く、果てなく拡がって行く空間に心が躍ったのかもしれません。
透明感を増す風景の中で、ヒバリも〈氷ヒバリ〉になります。風は〈すきとほつたきれいななみ〉となって、〈そらのぜんたいにさへ〉ています。
風が雲を〈ころころまるめられたパラフヰンの団子にして動かし、地平線がゆれると、幻想の風景に入って行きます。
……
むかふを鼻のあかい灰いろの紳士が
うまぐらゐあるまつ白な犬をつれて
あるいてゐることはじつに明らかだ
(やあ こんにちは)
(いや いゝおてんきですな)
(どちらへ ごさんぽですか
なるほど ふんふん ときにさくじつ
ゾンネンタールが没くなつたさうですが
おききでしたか)
(いゝえ ちつとも
ゾンネンタールと はてな)
(りんごが中つたのださうです)
(りんご、ああ、なるほど
それはあすこにみえるりんごでせう)
はるかに湛へる花紺青の地面から
その金いろの苹果の樹が
もくりもくりと延びだしてゐる
(金皮のまゝたべたのです)
(そいつはおきのどくでした
はやく王水をのませたらよかつたでせう)
(王水、口をわつてですか
ふんふん、なるほど)
(いや王水はいけません
やつぱりいけません
死ぬよりしかたなかつたでせう
うんめいですな
せつりですな
あなたとはご親類ででもいらつしやいますか)
(えゝえゝ もうごくごく遠いしんるいで)
いつたいなにをふざけてゐるのだ
みろ、その馬ぐらゐあつた白犬が
はるかのはるかのむかふへ遁げてしまつて
いまではやつと南京鼠のくらゐにしか見えない
(あ、わたくしの犬がにげました)
(追ひかけてもだめでせう)
(いや、あれは高価いのです
おさへなくてはなりません
さよなら)
苹果の樹がむやみにふえた
おまけにのびた
おれなどは石炭紀の鱗木のしたの
ただいつぴきの蟻でしかない
犬も紳士もよくはしつたもんだ
東のそらが苹果林のあしなみに
いつぱい琥珀をはつてゐる
そこからかすかな苦扁桃の匂がくる
すつかり荒さんだひるまになつた
どうだこの天頂の遠いこと
このものすごいそらのふち
愉快な雲雀もたうに吸ひこまれてしまつた
かあいさうにその無窮遠の
つめたい板の間にへたばつて
瘠せた肩をぷるぷるしてるにちがひない
もう冗談ではなくなつた
画かきどものすさまじい幽霊が
すばやくそこらをはせぬけるし
雲はみんなリチウムの紅い焔をあげる
それからけわしいひかりのゆきき
くさはみな褐藻類にかはられた……
最初の人物―〈鼻のあかい灰いろの紳士〉が〈うまぐらゐあるまつ白な犬をつれて〉登場です。
ここで〈おれ〉はそれを〈じつに明らかだ〉と、現実であると確認しようとしていますが広がるのは幻想の世界です。
〈ゾンネンタール(太陽の谷)氏〉の死を巡って、劇薬の王水を医薬品として飲ませるなど、不気味な不可解な世界が広がりますが、紳士は犬を追って去ります。
周辺が巨大になり〈おれ〉は一匹の蟻になったような錯覚に落ちて、天頂は遠くなり、ヒバリは吸い込まれて、〈画かきどものすさまじい幽霊〉が出現、〈雲はみんなリチウムの紅い焔をあげ〉ています。
……
こここそわびしい雲の焼け野原
風のヂグザグや黄いろの渦
そらがせわしくひるがへる
なんといふとげとげしたさびしさだ
(どうなさいました 牧師さん)
あんまりせいが高すぎるよ
(ご病気ですか
たいへんお顔いろがわるいやうです)
(いやありがたう
べつだんどうもありません
あなたはどなたですか)
(わたくしは保安掛りです)
いやに四かくな背嚢だ
そのなかに苦味丁幾や硼酸や
いろいろはいつてゐるんだな
(さうですか
今日なんかおつとめも大へんでせう)
(ありがたう
いま途中で行き倒れがありましてな)
(どんなひとですか)
(りつぱな紳士です)
(はなのあかいひとでせう)
(さうです)
(犬はつかまつてゐましたか)
(臨終にさういつてゐましたがね
犬はもう十五哩もむかふでせう
じつにいゝ犬でした)
(ではあのひとはもう死にましたか)
(いゝえ露がおりればなほります
まあちよつと黄いろな時間だけの仮死 ですな
……
幻想から立ちかえった現実の中で描かれる風は、「おきなぐさ」などの場合と同様、雲の形容ですが、夜明けの光に照らされる雲を描きながら、〈わびしく〉、〈ヂグザグ〉に、また〈渦〉まいて、すっきりとは吹きません。
次の瞬間、新しい幻想が始まって、〈おれ〉は〈保安掛り〉を名乗るものから〈牧師さん〉と呼ばれています。
……
ううひどい風だ まゐつちまふ)
まつたくひどいかぜだ
たほれてしまひさうだ
沙漠でくされた駝鳥の卵
たしかに硫化水素ははいつてゐるし
ほかに無水亜硫酸
つまりこれはそらからの瓦斯の気流に二つある
しやうとつして渦になつて硫黄華ができる
気流に二つあつて硫黄華ができる
気流に二つあつて硫黄華ができる
(しつかりなさい しつかり
もしもし しつかりなさい
たうたう参つしてしまつたな
たしかにまゐつた
そんならひとつお時計をちやうだいしますかな)
おれのかくしに手を入れるのは
なにがいつたい保安掛りだ
必要がない どなつてやらうか
どなつてやらうか
どなつてやらうか
どなつ……
水が落ちてゐる
ありがたい有難い神はほめられよ 雨だ
悪い瓦斯はみんな溶けろ
(しつかりなさい しつかり
もう大丈夫です)
何が大丈夫だ おれははね起きる
(だまれ きさま
黄いろな時間の追剥め
飄然たるテナルデイ軍曹だ
きさま
あんまりひとをばかにするな
保安掛りとはなんだ きさま)
いゝ気味だ ひどくしよげてしまつた
ちゞまつてしまつたちいさくなつてしまつた
ひからびてしまつた
四角な背嚢ばかりのこり
たゞ一かけの泥炭になつた
ざまを見ろじつに醜い泥炭なのだぞ
背嚢なんかなにを入れてあるのだ
保安掛り、じつにかあいさうです
カムチヤツカの蟹の缶詰と
陸稲の種子がひとふくろ
ぬれた大きな靴が片つ方
それと赤鼻紳士の金鎖
……
ここでまた、現実の〈ううひどい風だ まゐつちまふ〉という強風に〈おれ〉は〈保安掛〉の怪しさに気づきます。〈黄いろな時間の追剥め/ 飄然たるテナルデイ軍曹だ〉という追求に、〈保安掛〉は〈泥炭〉のかけらとなってしまいます。
〈テナルデイ軍曹〉は、ユーゴ「レ・ミゼラブル」に登場する、元軍曹で戦場の戦死者から盗んだものを元手に宿屋を開き、少女コゼットを酷使するテナルディエを表しています。作者ユーゴから〈最も救われぬ悪党〉と評される人物です。
「レ・ミゼラブル」は、黒岩涙香による翻案が『噫無情』(ジー・ミゼラブル ああむじゃう)の題で、1902年(明治35年)10月8日から1903年(明治36年)8月22日まで『萬朝報』に連載されたのち、すぐ刊行され広まりました。また、1918年〜1919年、豊島与志雄の訳で新潮社から『レ・ミゼラブル』」として刊行されました。
ただし、『噫無情』は翻案ですから、登場人物は日本名で漢字表記され、ジャン・バル・ジャンは〈戎瓦戎〉、少女コゼットは〈小雪〉、テナルディエは〈手鳴田〉です。賢治の表記は〈テナルデイ〉なので、おそらく豊島与志雄の訳のものに触れたのだろうと思います。
そのコソ泥のイメージは、行方不明の赤鼻紳士の持ちものを隠し持つ保安掛にぴったりです。ここでも風は場面の転換点となります。
……
どうでもいゝ 実にいゝ空気だ
ほんたうに液体のやうな空気だ
(ウーイ 神はほめられよ
みちからのたたふべきかな
ウーイ いゝ空気だ)
そらの澄明 すべてのごみはみな洗はれて
ひかりはすこしもとまらない
だからあんなにまつくらだ
太陽がくらくらまはつてゐるにもかゝはらず
おれは数しれぬほしのまたたきを見る
ことにもしろいマヂエラン星雲
草はみな葉緑素を恢復し
葡萄糖を含む月光液は
もうよろこびの脈さへうつ
泥炭がなにかぶつぶつ言つてゐる
(もしもし 牧師さん
あの馳せ出した雲をごらんなさい
まるで天の競馬のサラアブレツドです)
(うん きれいだな
雲だ 競馬だ
天のサラアブレツドだ 雲だ)
あらゆる変幻の色彩を示し
……もうおそい ほめるひまなどない
虹彩はあはく変化はゆるやか
いまは一むらの軽い湯気になり
零下二千度の真空溶媒のなかに
すつととられて消えてしまふ
それどこでない おれのステツキは
いつたいどこへ行つたのだ
上着もいつかなくなつてゐる
チヨツキはたつたいま消えて行つた
恐るべくかなしむべき真空溶媒は
こんどはおれに働きだした
まるで熊の胃袋のなかだ
それでもどうせ質量不変の定律だから
べつにどうにもなつてゐない
といつたところでおれといふ
この明らかな牧師の意識から
ぐんぐんものが消えて行くとは情ない
……
意識から強引に〈保安掛〉を消し去ると、空気は〈液体のやう〉―冷たく澄んで重い感じでしょうか―、太陽の真下で見える〈マジェラン星雲〉、〈天の競馬のサラブレット〉の雲、〈零下二千度の真空溶媒〉という幻想が始まり、〈おれ〉のステッキやチョッキも奪われています。〈質量不変の定律〉、という意識を持ちながら幻想に勝つことができません。
……
(いやあ 奇遇ですな)
(おお 赤鼻紳士
たうたう犬がおつかまりでしたな)
(ありがたう しかるに
あなたは一体どうなすつたのです)
(上着をなくして大へん寒いのです)
(なるほど はてな
あなたの上着はそれでせう)
(どれですか)
(あなたが着ておいでになるその上着)
(なるほど ははあ
真空のちよつとした奇術ですな)
(えゝ さうですとも
ところがどうもおかしい
それはわたしの金鎖ですがね)
(えゝどうせその泥炭の保安掛りの作用です)
(ははあ 泥炭のちよつとした奇術ですな)
(さうですとも
犬があんまりくしやみをしますが大丈夫ですか)
(なあにいつものことです)
(大きなもんですな)
(これは北極犬です)
(馬の代りには使へないんですか)
(使へますとも どうです
お召しなさいませんか)
(どうもありがたう
そんなら拝借しますかな)
(さあどうぞ)
おれはたしかに
その北極犬のせなかにまたがり
犬神のやうに東へ歩き出す
まばゆい緑のしばくさだ
おれたちの影は青い沙漠旅行
そしてそこはさつきの銀杏の並樹
こんな華奢な水平な枝に
硝子のりつぱなわかものが
すつかり三角になつてぶらさがる
そこに最初に出現した赤鼻の紳士が登場します。〈おれ〉は紳士から犬を借り受け、犬の背中にまたがって犬神のように東へ向かいます。
目覚めた場所は、〈さっきの〉、若いイチョウの並木でした。ここはどこでしょうか。〈おれ〉は、結局同じ場所にいて、幻想(ファンタジー)の歩行をしていたのです。
〈犬神〉は、「サガレンと八月」、「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」にも登場します。「サガレンと八月」では、カラフト北方アムール川下流域に住む少数民族ギリヤークの伝説に登場する神で、子どもをさらって海の底につれていきチョウザメの下男にします。「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」では森の奥に子どもを誘いこむ怖いものです。二作とも禁忌を犯した子供への罰として登場します。 西日本に広く伝わる「犬神」のように憑きものとしての性格はありません。この作品でも、ギリヤーク伝説に関心を持っていた賢治が、幻想の中で寓話の小道具のひとつとして使ったのではないかと思います。
この作品の舞台は「おきなぐさ」、「かはばた」とは違って、ある程度人手の加わった農場だと思います。
農場の先進的経営には傾倒した賢治ですが、そこには必然的に人間が存在し、ある種の葛藤も感じていたのかもしれません。農場で賢治を幻想に導くものは、〈人間〉だったのではないでしょうか。
〈赤鼻の紳士〉のモデルに会い、あるいは思い起こし、連想は進み、自らを卑小化して蟻となってしまいます。
一瞬の、現実としての風が生む雲の風景―ジグザグに吹き焼け野原の雲―は、また新たな保安掛の連想を呼びます。これも農場にいそうな人物設定です。さらに、そこから→追剥→泥炭という穏やかでない連想を生みます。
その後の幻想は、爽やかな周囲の風景のはずが、冷たく重い〈真空溶媒〉の中、チョッキやステッキを奪われる、という、マイナス方向です。
紳士や保安掛の意味するもの探すのは重要だと思います。でもその現実よりも、そこから生まれた幻想のなかを駆け抜けるように続いていく詩は、周辺の冷たく澄んだ空気の様子の描写とともに、その時代の賢治の心ではないでしょうか。
風は現実のものとして吹き、雲を描写し、また幻想の転換のために使われています。
「小岩井農場」にも、賢治の様々な人間への思いが綴られていました(注1)。次章で検討したいと思います。
注1
拙稿「宮沢賢治の直喩T 『春と修羅』、「小岩井農場」を中心に
―人間への思い―」(個人ブログ「宮沢賢治 風の世界」
2014、11、15)
参考
伊藤雅子「イーハトーブを荘厳する電柱の列」(『賢治研究48』
宮沢賢治研究会 1988、10)
黒岩周六(涙香)訳『噫無情』第二十版 (扶桑堂 大正七年)
豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』新潮社1918-19
現在は岩波文庫所収 全4巻
天沢退二郎「真空溶媒」論序説「国文学解釈と鑑賞68−9」03,9