ひなげしはみんなまっ赤に燃えあがり、めいめい風にぐらぐらゆれて、息もつけないやうでした。そのひなげしのうしろの方で、やっぱり風に髪もからだも、いちめんもまれて立ちながら若いひのきが云ひました。(中略)
風が一そうはげしくなってひのきもまるで青黒馬(あおうま)のしっぽのやう、ひなげしどもはみな熱病にかゝったやう、てんでに何かうわごとを、南の風に云ったのですが風はてんから相手にせずどしどし向ふへかけぬけます。(中略)
ひなげしはやっぱりしいんとしてゐます。お医者もじっとやっぱりおひげをにぎったきり、花壇の遠くの方などはもうぼんやりと藍(あゐ)いろです。そのとき風が来ましたのでひなげしどもはちょっとざわっとなりました。(中略)
するとほんたうにそこらのもう浅黄いろになった空気のなかに見えるか見えないやうな赤い光がかすかな波になってゆれました。ひなげしどもはじぶんこそいちばん美しくならうと一生けん命その風を吸ひました。(中略)
その時風がザァッとやって来ました。ひのきが高く叫びました。
「こうらにせ医者。まてっ。」(後略)
1、風の中の物語
「ひのきとひなげし」から、風の吹いている場面を抜き出してみました。
ひとむらの赤い〈ひなげし〉と背の高い〈ひのき〉とが、風に吹かれています。〈ひなげし〉は、皆、赤く美しいのですが、自分の姿や生きざまが不満で、〈スター〉に憧れていて、〈ひのき〉が話しかけても反発するだけです。そこに悪魔が、まずは蛙に化けて、美容術で美しくなったと称する〈バラ娘〉に化けた弟子を連れて、「美容術の先生」にお礼を言いたいと訪ねてきます。〈ひなげし〉は、その話を信じて、自分たちにも「美容術の先生」に会わせてくれるよう頼みます。
次に悪魔は「美容術の先生」に化けて、〈ひなげし〉を訪ね、美しくなるために法外な金額を要求します。〈ひなげし〉は、自分の未熟な実―アヘン―を提供することで、その施術を受けることになりました。でも術の最後で、悪魔に気づいた〈ひのき〉の攻撃で、悪魔は退散し〈ひなげし〉は助かります。〈ひのき〉は言います。
「そうぢゃあないて。おまえたちが青いけし坊主のまんまでがりがり食はれてしまったらもう来年はこゝへは草が生えるだけ、それに第一スターになりたいなんておまへたち、スターて何だか知りもしない癖に。スターといふのはな、本統は天井のお星さまのことなんだ。そらあすこへもうお出になっている。もすこしたてばそらいちめんにおでましだ。そうそうオールスターキャストといふだろう。オールスターキャストといふのがつまりそれだ。つまり双子星座様は双子星座様のところにレオーノ様はレオーノ様のところに、ちゃんと定まった場所でめいめいのきまった光りやうをなさるのがオールスターキャスト、な、ところがありがたいもんでスターになりたいなりたいと云ってゐるおまえたちがそのままそっくりスターでな、おまけにオールスターキャストだといふことになってある。それはかうだ。聴けよ。
あめなる花をほしと云ひ
この世の星を花といふ。」
でも、〈ひなげし〉は、〈ひのき〉の言葉も信じようとはせず、反論を浴びせますが、風は静かに吹き、陽の光も無くなり、すべては黒く沈んで行き、星が一つ出てきます。
未熟なまま実が奪われれば、もうそこで、命につながりがなくなってしまうこと、この地上に咲く花と天上に咲く花(星)はひとしく尊ばれるものであること、ここには作品の主題があります。〈ひのき〉の最後の言葉〈あめなる花をほしと云ひ/ この世の星を花といふ。」〉は、土井晩翠「星と花」(『天地有情』 明治32年 博文館 日本現代詩大系第二巻 河出書房 1954)、 同じ「自然」のおん母の/御手に育ちし姉と妹(いも)/ み空の花を星といひ/わが世の星を花といふ
かれとこれとに隔たれど/にほいは同じ星と花/笑みと光を宵々に/かはすもやさし花と星
されば曙(あけぼの)雲白く/御空のはなのしぼむとき/見よ白露のひとしづく/わが世の星に涙あり
から引いています。最終手入れで削除された〈ひのき〉の会話には、〈土井晩翠先生といふ方がな〉という文もあります。
『天地有情』の表紙には、ヒナゲシが描かれていて、この印象から、「地上の価値=天上の価値」のメッセージを物語化するにあたって、星に似た形の水仙などでなくヒナゲシにした、とも言われます。(注1)
現存稿は推敲の時期によって、第一形態から第四形態まであります。
今取り上げた定稿は、最晩年の大幅手入れ、第一葉、第九葉、第十二葉の挿入、〈青蓮華〉の話を全面削除して説教臭、仏教臭を除いた第四形態の手入れ形です。第十二葉の用紙が1933年7月6日付の書簡の下書き裏で、死―1933年9月21日―の直前に見直されたものであることがわかります。
「天地有情」の影響を感じられるひのきの会話が加えられるのは、この最終形態からです。むしろ、既存していた「ひのきとひなげし」の物語に、ヒナゲシの絵からの連想で「星と花」の一節を〈ひのき〉の会話を加えたのではないでしょうか。
2、「ひのきとひなげし」初期形
大正一〇年夏ごろ成立(注2)と推定される第一形態の手入れ稿が初期形として全集に収録されています。定稿にあった〈ひのき〉への反発的な会話が無いほか、定稿では削除される、最後の〈ひのき〉の言葉(青蓮華の挿話)の部分は、以下のようなものでした。
「みなさんはあぶないところでした。みなさんはもうすこしで、永久につちぐりのやうな花にされる所でした。みなさんはそれでもいゝと思ってゐます。けれども現にみなさんは、むかしある時は太陽のやうにかがゝやいた時もあったのです。どなたかそれをおぼえてゐますか。そして今幸福ですか。こゝろをしづめてほんのしばらく私のことばをお聞きなさい。
わたくしは沢山の美しかった人たちを知ってゐます。あの去年『暁』と名づけられ、もろもろの花の中の王とたゝへられ、欧字の新聞や雑誌にまでその肖像をかゝげられた黄薔薇のことをみなさんはお聞きでせう。私はあの花がどうしてあんなに立派になったかをこゝでちゃんと見てゐました。あの花の魂が、まだ、ばらにならなかった前は、それはそれはあはれな小さなげんのしょうこだったのです。けれどもその小さな花は、決してほかの花をそねんだことはありませんでした。十五日ほどのみじかな一生を、ほかの大きな葉や花のかげでしづかにつゝましく送ったのです。そのしづけさつゝましさ、安らかさけだかさこそはあの美しい黄ばらに咲いたのです。どんなあらしもあの花を傷つけることはできなかったでせう。たとへ主人があんなにたいせつにしなくても、あの花には火の中でしをれないほどの徳があったのです。又私は名高い印度のカニシカ王が四つの海の水を金の浄瓶から頭に灌がれる日、王によって手づから善逝(スガタ)に奉られた二茎の青蓮華のことを聞いてゐます。このけだかい二人は、前は海の向かふの青い野原のまん中にたくさんのたくさんの仲間と一所に咲いた二つのつめくさの花でした。ある夜、そらが黒く、地面も黒く、剽悍な旅人が道を失い、野牛が淋しさに荒れ狂ふとき、小さな二人はあらんかぎりの力を出して、微かな青白い花の灯をともしたのでした。あゝそれこそは、瓔珞をかざり霜のうすものをつけたあの国の貴人たちに、うやまはれ尊ばれたふた茎の青蓮華になったのでした。
これらの花はみな幸福でした。そんなに尊ばれても、その美しさをほこることをしませんでしたから、今は恐らくみなかゞやく天上の花でせう。
けれども私は又美しい花のあはれな物語も知ってゐます。
ある花は美しいといふことが、何か自分にくっついて、いつまでも離れないもの のやうにかんがへました。ある花は美しいといふことがすなはち自分なのだと思ったりしました。
これらの花は、もうその時から、美しさの小さな泉をからしてゐたのです。
おろかなものは、それを美しいとたゝへましたが、賢人たちはその美しさのすぐ裏側に、縦横に刻まれた悪い皺や、あやしいねたみのしろびかりを見るにたへずまなこをそむけてゐたのです。
あゝ、すべてうつくしいということは善逝(すがた)に至り善逝(スガタ)からだけ来ます。善逝に叶ひ善逝に至るについて美しさは起こるのです。(特に必要のないルビは省略しました。)
1900年に、フランスのJoseph Permet−Ducherが、世界で初めて、黄色い薔薇「ソレイユドール」を作り出し日本でも話題となりました。〈黄薔薇〉は賢治のその記憶に基づいていると思います。加えて〈黄〉は如来の身体記号でもあり、光や永遠の象徴でもある〈黄金〉につながります。
ゲンノショウコはフウロソウ科フウロソウ目の多年草で、直径1cm以下の目立たない花をつけ、胃腸薬として広く知られています。薔薇になる以前が〈げんのしょうこ〉だったことは、当然ながら植物学上のことではなく、その控えめな花の形状を、つつましさへの賛美と奢りへの戒めの暗喩としたのでしょう。次の〈ツメクサ〉の挿話も、「ポラーノの広場」にも、人を導く花として登場するものです。
初期形では、〈ひのき〉は風にささやかれると〈はらぎゃてい〉と答え、また悪魔と見破ったときも風が来て、〈ひのき〉は〈はらぎゃてい〉と叫び、悪魔を追い払います。〈はらぎゃてい〉は、般若心経の最後の部分の 呪(マントラ)、「羯諦羯諦波羅羯諦(ぎゃていぎゃていはらぎゃてい) 波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい) 菩提薩婆訶(ぼじそわか)」(往き往きて彼岸に往き 完全に彼岸に到達した者こそ 悟りそのものである、めでたし)の一部です。賢治が盛岡高等農林1年の時の短歌(歌稿B323、大正5(1916)年3月より )に
風は樹を/ゆすりて云ひぬ 「波羅羯諦」/あかきはみだれしけしのひとむら
があり、その時点で、この物語に読み込まれる、風・ひのき・ひなげしの図式と、宗教的な思想が生まれていたと思われます。さらに最終行の 西のそらは今はかゞやきを納め、東の雲の峯はだんだん崩れて、そこから波羅蜜と云ふ銀の一つ星がまたゝき出しました。
の風景は、同じく盛岡高等農林1年のときの短歌(歌稿B255 大正4(1915)年4月、) 大ぞらは/あはあはふかく波羅蜜の/夕つつたちもやがて出でなむ
にも登場します。〈波羅蜜〉は、パーリー語、サンスクリット語で、〈完全なること〉〈仏教の修行で到達されるべきもの〉です。
初期形の段階で既に、主題は、ねたみ・おごりへの警鐘と、つつましさ・現状の肯定への賛美で、仏教の教えに深く結び付いて説かれていますし、高等農林時代の想いが明確に表れています。定稿では、仏教臭や教訓が感じられるエピソードを、より身近な、星と花の話しに変え、〈ひなげし〉の反論を加えることで、より現実的な、ある意味救い難い構図となっています。
3、いくつかの疑問
一つの疑問は、物語の原点と思われる、短歌〈風は樹を/ゆすりて云ひぬ 「波羅羯諦」/あかきはみだれしけしのひとむら〉では、〈けし〉と明記され、また、物語でも若い実にアヘンを持ち、主に薬用に栽培されるケシ科ケシであることが言及されているのに、〈ひなげし〉という語を使っていることです。
ヒナゲシは鑑賞用ケシの一種で草丈30〜40cm、若い実でもアヘンは含みません。昭和5(1930)年の銀行日誌手帳栽培日誌の記述には、ポピーを播く〉があり、ヒナゲシを認識していたことは確かで混同することは考えられません。
外観から考えれば、風の中、背の高いヒノキと対話できるのは、ヒナゲシではなく2mにもなるケシの方がよりふさわしいと思います。また心情的にもおごりやねたみや、外観の美しさばかり追うものには、毒を含むケシがふさわしい気がします。
もうひとつ、ヒノキは〈火の木〉に由来し外形は炎に喩えられ、不動明王の怒りを表す火炎光にもつながるものです。賢治は歌稿A434〜443の「ひのきの歌」連作で
雪降れば昨日のひるのわるひのき菩薩すがたにすくと立つかな(434)
のように、静止している姿を菩薩、風に吹かれる様を悪魔に捉えています。また黒いヒノキについても大正6年7月『アザリア』第一号発表の短歌では
なにげなく、風にたわめる 黒ひのき まことはまひるの 波旬のいかり(45「みふゆのひのき」)
と、ヒノキを密教の魔王波旬(密教胎蔵界曼荼羅で快楽を射こむもの)として捉えています。また保阪嘉内宛書簡63(大正7、5、19)では、維摩経の挿話―魔王波旬が帝釈天に化け、持世菩薩のもとに天女を捧げようとするが、市井の賢者維摩詰が化けの皮をはがして菩薩を救う―を引いて、魔性と聖性の区別の難しさも記しています。
ここでは徳のある医者に化けているのが悪魔、〈ひのき〉には魔性はなくひなげしを悪魔から救う存在です。
4、風が吹くこと―風はなぜ吹いたか
風が吹くことによって生まれる、〈ひなげし〉の赤く豪華でおごり高ぶっている様子、〈ひのき〉の荒ぶるけれども雄々しい動き、不穏な悪魔の雰囲気、救ってくれた〈ひのき〉を有難くも思わずひなげしの浴びせる罵詈雑言……。物語を生んだのは、風の音、醸し出す空気、風景だったと思います。
加えて、日没とともに静まって行く風、〈ひなげし〉の美しさも、〈ひのき〉の高い志も、光のない世界に沈んでいきます。
でも、また日が改まれば、同じ情景が展開されるのでしょうか。なぜか、ここには、すべてを包んで繰り返されていく世の摂理のようなものを感じてしまいます。
「ひのきとひなげし」は、賢治が盛岡高等農林1年の時の短歌(歌稿B323、大正5(1916)年3月より )に〈風は樹を/ゆすりて云ひぬ 「波羅羯諦」/あかきはみだれしけしのひとむら〉を原風景に、長く心に温めた様々な思想―ねたみ、そねみ、おごりへの警鐘、日常の大切さ、魔性と聖性の区別の難しさ、などを盛り込もうとして作られた物語ですが、言葉やエピソードでは表せなかった、この世の流れや虚しさのようなものを、風を多用することで、表しているのだと思います。
注1 大塚常樹『心象の記号論』(朝文社 1999)
注2 野乃宮紀子「ひのきとひなげし」(『宮沢賢治大事典』勉誠出版 2007)
参考文献
天沢退二郎『宮沢賢治全集 5・7』(ちくま文庫)解説
天沢退二郎「宮澤賢治と「星(スター)」(『《宮澤賢治》鑑』筑摩書房 1986・初出『勉強堂流行通信』1985)
浜垣誠司氏HP「宮澤賢治の詩の世界」
小林俊子「童話に吹く風」(『宮沢賢治 風を織る言葉』 勉誠出版 2003)