宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
永野川2015年8月下旬
 
27日
一昨日あたりから、急激に気温が下がり、早朝の探鳥は私にとっては寒いのと、空模がはっきりしないのとで、9:30ころ出かけました。
二杉橋東岸から入ると、水量も増え澄んでいますが鳥の姿は見えません。高橋近くでやっとカルガモ4羽が岸辺に、進むにつれて、アオサギが1羽佇み、ハクセキレイとセグロセキレイが牽制し合って飛びました。
睦橋近くで、今日もコサギ1羽を見かけました。
合流点付近で、イソシギよりも少し大きく、胸の白い食いこみがはっきりしないシギが1羽見えました。尾の近くに白斑があるように見えましたが、図鑑にもその特徴のものはなかったので、あるいはクサシギの尾羽の部分が少し見えたのかもしれません。
合流点の上流で、カイツブリが1羽、銀色の小魚を咥えていました。潜ったので、どこかヒナの居る所に出るかと思って待ちましたが、少し離れた水面で、やはり魚をくわえたまま出てきました。    
公園の中で、ダイサギがじっと顔を横に向けていました。嘴が目の奥まで裂けていることを何とか確認出来ました。空を飛んでいたのはチュウサギ2羽で嘴の先が黒いのが確認できました。
公園は、2,3日前から大々的に草刈りが始まっていたようで、今日は残った草の収集をしていました。花火大会の観覧席の準備が出来ていました。
キツネノカミソリの咲いていた場所もきれいに刈りとられ、跡かたもなくなりました。つくづく先週花を見られたことは幸運でした。除草剤よりはまだましかと思いながら、昔、たくさん花や木の実があった土手を懐かしく思います。
鳥の隠れる場所が一度に無くなり、涼しくなったので、ゲートボールやパターゴルフなどをやる人もいっぱいで、鳥たちの出る場所も無かったようでした。今度は、もう少し時間を見て出かけるようにしたいと思います。
 
鳥リスト
カルガモ、カイツブリ、キジバト、ダイサギ、チュウサギ、コサギ、クサシギ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、ツバメ、ヒヨドリ、スズメ、セグロセキレイ、ハクセキレイ

 
 
 
 







永野川2015年8月中旬
16日
5:40〜
 曇っているので、公園を下っても逆光になることはないと思い、上人橋からまず赤津川へ入りました。どんよりとして、ほんの少し雨が落ちてきて心配しましたが、公園に戻るころには次第に晴れて来ました。
 上人橋付近から合流点までの水田では、今年もスズメ除けの猛禽の声の放送が始まりました。稲が実り始めましたが、まだスズメの数は増えていませんでした。
 曇っているせいで見えないのか、ほとんど鳥がいません。栃木陶器瓦の上流で、やっとカルガモ2羽、カイツブリ1羽。カワウが1羽上空を飛び、ツバメが7羽水田の上を飛んでいました。
 合流点まで戻ってくると、コサギが3羽いる所へ2羽加わりました。このところよく目にします。絶滅危惧種か、と言われた時期もあったので、少しほっとします。
 しばらく鳴かなかったウグイスが滝沢ハム近くの公園と、高橋近くで鳴きました。
 公園の中の川で、鳴いて川を遡る鳥がいました。川上で着地した姿でイソシギと確認できました。飛んでいる姿と鳴き声を一緒に確認できたのは初めてです。
 今日の一番の発見は、キツネノカミソリの花でした。何回かの除草剤や刈り取りにも負けず、やはりありました。雑草の中に2株だけでしたが、はっきりとしたヒガンバナ科の特徴―葉はなく、端正な花の形―を備えていました。背丈は20cm程と小さめです。これをみればヤブカンゾウと間違えることはありません。できればもっと増えてほしいと思います。また、どうか盗掘されることのないように祈ります。行く日が少しずれていたら、おそらく発見できなかったでしょう。幸運というのはこんなことかもしれません。
 調整池のホテイアオイは池面の半分ほどまで増えて花が咲きはじめ、カイツブリが1羽潜水していました。西側の池にも、2株ばかり浮いていましたが、これは意図的にやられたことでしょう。公園の人工的な池なので反対することもできませんが、せめて誰の意思でやっているのか知りたいと思います。
 永野川高橋付近、二杉橋付近で、チュウサギ、嘴の先が黒くなっています。群れていないのは、まだ帰る時期ではないからでしょうか。
本当に鳥種は少なかったのですが、イソシギの飛んでいる姿を確認出来、またキツネノカミソリも見ることができ、よかったと思います。
 
鳥リスト
カルガモ、カイツブリ、キジバト、カワウ、ダイサギ、チュウサギ、コサギ、イソシギ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、シジュウカラ、ツバメ、ヒヨドリ、ウグイス、スズメ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、ホオジロ

 
 







永野川2015年8月上旬
6日
  5:30ころ出かけました。
 公園の中で逆光を避けたいので、次のようにコースを変えました。
上人橋―調整池―公園川下―遡って大岩橋―大砂橋―下って大岩橋―滝沢ハム―赤津川往復―永野川東岸下って二杉橋―永野川西岸遡って上人橋
 調整池のホテイアオイは、池面の4分の一を占めるくらいに増えていました。望ましい方向を考え、どう管理していくべきか最初から考えた方がよいと思います。鳥の姿はありませんでした。
 公園内の川で、カルガモの親1ヒナ7の群れに会いました。ヒナは親鳥の3分の一ほどに育ち、羽色もほぼ同じです。親は先導するというより、後ろから見守る感じで、遅れているヒナを気遣ったりしていました。ヒナたちは、岸辺のツルヨシに飛び付いたりしながら、早い速度で遡って行きました。今季初めてだし、何年か見ていなかった気がします。
 大岩橋と大砂橋の中間ぐらいの所でも親1ヒナ1、また帰り際に、上人橋の近くでも親1ヒナ3の群れに会いました。何か、今日一斉にお目見えのような感じでした。7羽のヒナが育っていたのがなんとも嬉しく、希望の持てる光景でした。でも、この後、何羽が成鳥になれるでしょうか。
 大砂橋と大岩橋の中間の水田で、ここでは初めてセッカが鳴きながら飛んでいました。また、新井町、赤津川畔の水田でも、飛翔と、降下の両方の声を一緒に聞きましたので、ここには2羽以上はいたと思います。4月中旬に新井町で確認しただけで、今季はずっと確認できなかったのですが、何か理由があるのでしょうか。ヒバリは7月中旬までは確認できました。。
 新井町の田で、今季初めてチュウサギ1羽、既に嘴の先が黒くなっていました。
 帰り際に合流点近くで、キジと思われる、いつも聞く声と違って、断片的な声をききました。この前のカイツブリのように、鳥の多様な声を確認するのは難しいことです。記憶をたどって「鳴き声図鑑」を聞いて見ると、多分キジと思えるのですが、もう一度の確認が必要です。
 久しぶりのセッカや、カルガモのヒナたちに会い、キジの不思議な声も聞けて、満ち足りたひとときとなりました。
 
鳥リスト
キジ、カルガモ、カイツブリ、キジバト、アオサギ、ダイサギ、チュウサギ、コサギ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、セッカ、ムクドリ、ツバメ、スズメ、セグロセキレイ、ホオジロ

 







「ひのきとひなげし」―風はなぜ吹いたか―
 ひなげしはみんなまっ赤に燃えあがり、めいめいにぐらぐらゆれて、息もつけないやうでした。そのひなげしのうしろの方で、やっぱりに髪もからだも、いちめんもまれて立ちながら若いひのきが云ひました。(中略)

 が一そうはげしくなってひのきもまるで青黒馬(あおうま)のしっぽのやう、ひなげしどもはみな熱病にかゝったやう、てんでに何かうわごとを、南のに云ったのですがはてんから相手にせずどしどし向ふへかけぬけます。(中略)

 ひなげしはやっぱりしいんとしてゐます。お医者もじっとやっぱりおひげをにぎったきり、花壇の遠くの方などはもうぼんやりと藍(あゐ)いろです。そのときが来ましたのでひなげしどもはちょっとざわっとなりました。(中略)

 するとほんたうにそこらのもう浅黄いろになった空気のなかに見えるか見えないやうな赤い光がかすかな波になってゆれました。ひなげしどもはじぶんこそいちばん美しくならうと一生けん命そのを吸ひました。(中略)

  その時がザァッとやって来ました。ひのきが高く叫びました。
「こうらにせ医者。まてっ。」(後略)  

 
 
1、風の中の物語

 「ひのきとひなげし」から、風の吹いている場面を抜き出してみました。
ひとむらの赤い〈ひなげし〉と背の高い〈ひのき〉とが、風に吹かれています。〈ひなげし〉は、皆、赤く美しいのですが、自分の姿や生きざまが不満で、〈スター〉に憧れていて、〈ひのき〉が話しかけても反発するだけです。そこに悪魔が、まずは蛙に化けて、美容術で美しくなったと称する〈バラ娘〉に化けた弟子を連れて、「美容術の先生」にお礼を言いたいと訪ねてきます。〈ひなげし〉は、その話を信じて、自分たちにも「美容術の先生」に会わせてくれるよう頼みます。
 次に悪魔は「美容術の先生」に化けて、〈ひなげし〉を訪ね、美しくなるために法外な金額を要求します。〈ひなげし〉は、自分の未熟な実―アヘン―を提供することで、その施術を受けることになりました。でも術の最後で、悪魔に気づいた〈ひのき〉の攻撃で、悪魔は退散し〈ひなげし〉は助かります。〈ひのき〉は言います。
 
「そうぢゃあないて。おまえたちが青いけし坊主のまんまでがりがり食はれてしまったらもう来年はこゝへは草が生えるだけ、それに第一スターになりたいなんておまへたち、スターて何だか知りもしない癖に。スターといふのはな、本統は天井のお星さまのことなんだ。そらあすこへもうお出になっている。もすこしたてばそらいちめんにおでましだ。そうそうオールスターキャストといふだろう。オールスターキャストといふのがつまりそれだ。つまり双子星座様は双子星座様のところにレオーノ様はレオーノ様のところに、ちゃんと定まった場所でめいめいのきまった光りやうをなさるのがオールスターキャスト、な、ところがありがたいもんでスターになりたいなりたいと云ってゐるおまえたちがそのままそっくりスターでな、おまけにオールスターキャストだといふことになってある。それはかうだ。聴けよ。
 あめなる花をほしと云ひ
   この世の星を花といふ。」

 
 でも、〈ひなげし〉は、〈ひのき〉の言葉も信じようとはせず、反論を浴びせますが、風は静かに吹き、陽の光も無くなり、すべては黒く沈んで行き、星が一つ出てきます。
 
 未熟なまま実が奪われれば、もうそこで、命につながりがなくなってしまうこと、この地上に咲く花と天上に咲く花(星)はひとしく尊ばれるものであること、ここには作品の主題があります。〈ひのき〉の最後の言葉〈あめなる花をほしと云ひ/ この世の星を花といふ。」〉は、土井晩翠「星と花」(『天地有情』 明治32年 博文館 日本現代詩大系第二巻 河出書房 1954)、

 
同じ「自然」のおん母の/御手に育ちし姉と妹(いも)/ み空の花を星といひ/わが世の星を花といふ

かれとこれとに隔たれど/にほいは同じ星と花/笑みと光を宵々に/かはすもやさし花と星

されば曙(あけぼの)雲白く/御空のはなのしぼむとき/見よ白露のひとしづく/わが世の星に涙あり

 
から引いています。最終手入れで削除された〈ひのき〉の会話には、〈土井晩翠先生といふ方がな〉という文もあります。
 『天地有情』の表紙には、ヒナゲシが描かれていて、この印象から、「地上の価値=天上の価値」のメッセージを物語化するにあたって、星に似た形の水仙などでなくヒナゲシにした、とも言われます。(注1)
 現存稿は推敲の時期によって、第一形態から第四形態まであります。
今取り上げた定稿は、最晩年の大幅手入れ、第一葉、第九葉、第十二葉の挿入、〈青蓮華〉の話を全面削除して説教臭、仏教臭を除いた第四形態の手入れ形です。第十二葉の用紙が1933年7月6日付の書簡の下書き裏で、死―1933年9月21日―の直前に見直されたものであることがわかります。
 「天地有情」の影響を感じられるひのきの会話が加えられるのは、この最終形態からです。むしろ、既存していた「ひのきとひなげし」の物語に、ヒナゲシの絵からの連想で「星と花」の一節を〈ひのき〉の会話を加えたのではないでしょうか。
 
2、「ひのきとひなげし」初期形
 
 大正一〇年夏ごろ成立(注2)と推定される第一形態の手入れ稿が初期形として全集に収録されています。定稿にあった〈ひのき〉への反発的な会話が無いほか、定稿では削除される、最後の〈ひのき〉の言葉(青蓮華の挿話)の部分は、以下のようなものでした。
 
「みなさんはあぶないところでした。みなさんはもうすこしで、永久につちぐりのやうな花にされる所でした。みなさんはそれでもいゝと思ってゐます。けれども現にみなさんは、むかしある時は太陽のやうにかがゝやいた時もあったのです。どなたかそれをおぼえてゐますか。そして今幸福ですか。こゝろをしづめてほんのしばらく私のことばをお聞きなさい。
わたくしは沢山の美しかった人たちを知ってゐます。あの去年『暁』と名づけられ、もろもろの花の中の王とたゝへられ、欧字の新聞や雑誌にまでその肖像をかゝげられた黄薔薇のことをみなさんはお聞きでせう。私はあの花がどうしてあんなに立派になったかをこゝでちゃんと見てゐました。あの花の魂が、まだ、ばらにならなかった前は、それはそれはあはれな小さなげんのしょうこだったのです。けれどもその小さな花は、決してほかの花をそねんだことはありませんでした。十五日ほどのみじかな一生を、ほかの大きな葉や花のかげでしづかにつゝましく送ったのです。そのしづけさつゝましさ、安らかさけだかさこそはあの美しい黄ばらに咲いたのです。どんなあらしもあの花を傷つけることはできなかったでせう。たとへ主人があんなにたいせつにしなくても、あの花には火の中でしをれないほどの徳があったのです。又私は名高い印度のカニシカ王が四つの海の水を金の浄瓶から頭に灌がれる日、王によって手づから善逝(スガタ)に奉られた二茎の青蓮華のことを聞いてゐます。このけだかい二人は、前は海の向かふの青い野原のまん中にたくさんのたくさんの仲間と一所に咲いた二つのつめくさの花でした。ある夜、そらが黒く、地面も黒く、剽悍な旅人が道を失い、野牛が淋しさに荒れ狂ふとき、小さな二人はあらんかぎりの力を出して、微かな青白い花の灯をともしたのでした。あゝそれこそは、瓔珞をかざり霜のうすものをつけたあの国の貴人たちに、うやまはれ尊ばれたふた茎の青蓮華になったのでした。
これらの花はみな幸福でした。そんなに尊ばれても、その美しさをほこることをしませんでしたから、今は恐らくみなかゞやく天上の花でせう。
けれども私は又美しい花のあはれな物語も知ってゐます。
ある花は美しいといふことが、何か自分にくっついて、いつまでも離れないもの のやうにかんがへました。ある花は美しいといふことがすなはち自分なのだと思ったりしました。
これらの花は、もうその時から、美しさの小さな泉をからしてゐたのです。
おろかなものは、それを美しいとたゝへましたが、賢人たちはその美しさのすぐ裏側に、縦横に刻まれた悪い皺や、あやしいねたみのしろびかりを見るにたへずまなこをそむけてゐたのです。
あゝ、すべてうつくしいということは善逝(すがた)に至り善逝(スガタ)からだけ来ます。善逝に叶ひ善逝に至るについて美しさは起こるのです。(特に必要のないルビは省略しました。)
 
 1900年に、フランスのJoseph Permet−Ducherが、世界で初めて、黄色い薔薇「ソレイユドール」を作り出し日本でも話題となりました。〈黄薔薇〉は賢治のその記憶に基づいていると思います。加えて〈黄〉は如来の身体記号でもあり、光や永遠の象徴でもある〈黄金〉につながります。
 ゲンノショウコはフウロソウ科フウロソウ目の多年草で、直径1cm以下の目立たない花をつけ、胃腸薬として広く知られています。薔薇になる以前が〈げんのしょうこ〉だったことは、当然ながら植物学上のことではなく、その控えめな花の形状を、つつましさへの賛美と奢りへの戒めの暗喩としたのでしょう。次の〈ツメクサ〉の挿話も、「ポラーノの広場」にも、人を導く花として登場するものです。 
 初期形では、〈ひのき〉は風にささやかれると〈はらぎゃてい〉と答え、また悪魔と見破ったときも風が来て、〈ひのき〉は〈はらぎゃてい〉と叫び、悪魔を追い払います。〈はらぎゃてい〉は、般若心経の最後の部分の 呪(マントラ)、「羯諦羯諦波羅羯諦(ぎゃていぎゃていはらぎゃてい)  波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい) 菩提薩婆訶(ぼじそわか)」(往き往きて彼岸に往き 完全に彼岸に到達した者こそ 悟りそのものである、めでたし)の一部です。賢治が盛岡高等農林1年の時の短歌(歌稿B323、大正5(1916)年3月より )に
 
風は樹を/ゆすりて云ひぬ 「波羅羯諦」/あかきはみだれしけしのひとむら
 
があり、その時点で、この物語に読み込まれる、風・ひのき・ひなげしの図式と、宗教的な思想が生まれていたと思われます。さらに最終行の

 
西のそらは今はかゞやきを納め、東の雲の峯はだんだん崩れて、そこから波羅蜜と云ふ銀の一つ星がまたゝき出しました。
 
の風景は、同じく盛岡高等農林1年のときの短歌(歌稿B255 大正4(1915)年4月、)

 
大ぞらは/あはあはふかく波羅蜜の/夕つつたちもやがて出でなむ
 
にも登場します。〈波羅蜜〉は、パーリー語、サンスクリット語で、〈完全なること〉〈仏教の修行で到達されるべきもの〉です。
 初期形の段階で既に、主題は、ねたみ・おごりへの警鐘と、つつましさ・現状の肯定への賛美で、仏教の教えに深く結び付いて説かれていますし、高等農林時代の想いが明確に表れています。定稿では、仏教臭や教訓が感じられるエピソードを、より身近な、星と花の話しに変え、〈ひなげし〉の反論を加えることで、より現実的な、ある意味救い難い構図となっています。
 
3、いくつかの疑問
 
 一つの疑問は、物語の原点と思われる、短歌〈風は樹を/ゆすりて云ひぬ 「波羅羯諦」/あかきはみだれしけしのひとむら〉では、〈けし〉と明記され、また、物語でも若い実にアヘンを持ち、主に薬用に栽培されるケシ科ケシであることが言及されているのに、〈ひなげし〉という語を使っていることです。
 ヒナゲシは鑑賞用ケシの一種で草丈30〜40cm、若い実でもアヘンは含みません。昭和5(1930)年の銀行日誌手帳栽培日誌の記述には、ポピーを播く〉があり、ヒナゲシを認識していたことは確かで混同することは考えられません。
 外観から考えれば、風の中、背の高いヒノキと対話できるのは、ヒナゲシではなく2mにもなるケシの方がよりふさわしいと思います。また心情的にもおごりやねたみや、外観の美しさばかり追うものには、毒を含むケシがふさわしい気がします。
 もうひとつ、ヒノキは〈火の木〉に由来し外形は炎に喩えられ、不動明王の怒りを表す火炎光にもつながるものです。賢治は歌稿A434〜443の「ひのきの歌」連作で
 
雪降れば昨日のひるのわるひのき菩薩すがたにすくと立つかな(434)
 
のように、静止している姿を菩薩、風に吹かれる様を悪魔に捉えています。また黒いヒノキについても大正6年7月『アザリア』第一号発表の短歌では
 
なにげなく、風にたわめる 黒ひのき まことはまひるの 波旬のいかり(45「みふゆのひのき」)
 
と、ヒノキを密教の魔王波旬(密教胎蔵界曼荼羅で快楽を射こむもの)として捉えています。また保阪嘉内宛書簡63(大正7、5、19)では、維摩経の挿話―魔王波旬が帝釈天に化け、持世菩薩のもとに天女を捧げようとするが、市井の賢者維摩詰が化けの皮をはがして菩薩を救う―を引いて、魔性と聖性の区別の難しさも記しています。
 ここでは徳のある医者に化けているのが悪魔、〈ひのき〉には魔性はなくひなげしを悪魔から救う存在です。

4、風が吹くこと―風はなぜ吹いたか
 風が吹くことによって生まれる、〈ひなげし〉の赤く豪華でおごり高ぶっている様子、〈ひのき〉の荒ぶるけれども雄々しい動き、不穏な悪魔の雰囲気、救ってくれた〈ひのき〉を有難くも思わずひなげしの浴びせる罵詈雑言……。物語を生んだのは、風の音、醸し出す空気、風景だったと思います。
 加えて、日没とともに静まって行く風、〈ひなげし〉の美しさも、〈ひのき〉の高い志も、光のない世界に沈んでいきます。
 でも、また日が改まれば、同じ情景が展開されるのでしょうか。なぜか、ここには、すべてを包んで繰り返されていく世の摂理のようなものを感じてしまいます。
 「ひのきとひなげし」は、賢治が盛岡高等農林1年の時の短歌(歌稿B323、大正5(1916)年3月より )に〈風は樹を/ゆすりて云ひぬ 「波羅羯諦」/あかきはみだれしけしのひとむら〉を原風景に、長く心に温めた様々な思想―ねたみ、そねみ、おごりへの警鐘、日常の大切さ、魔性と聖性の区別の難しさ、などを盛り込もうとして作られた物語ですが、言葉やエピソードでは表せなかった、この世の流れや虚しさのようなものを、風を多用することで、表しているのだと思います。
 
 
注1 大塚常樹『心象の記号論』(朝文社 1999) 
注2 野乃宮紀子「ひのきとひなげし」(『宮沢賢治大事典』勉誠出版   2007)
 
参考文献
天沢退二郎『宮沢賢治全集 5・7』(ちくま文庫)解説
天沢退二郎「宮澤賢治と「星(スター)」(『《宮澤賢治》鑑』筑摩書房 1986・初出『勉強堂流行通信』1985)
浜垣誠司氏HP「宮澤賢治の詩の世界」
小林俊子「童話に吹く風」(『宮沢賢治 風を織る言葉』 勉誠出版  2003)

 







永野川2015年7月下旬
 
5:30ころ出かけました。幾分薄曇りで、暑さが柔らかです。
二杉橋東岸から入るとすぐ、カワセミが川岸の低い草に留っていましたが双眼鏡を取りだす間もなく、下流に飛びました。幸先の良い出発です。その後公園の中の川でも川面を飛び去るのを目撃しましたが、同一個体かもしれません。
カワラヒワの囀りと地鳴き両方が聞こえ、セグロセキレイが2羽戯れるように飛び、睦橋から合流点に掛けて、ホオジロの囀りが3回、地鳴きも聞こえました。
上空をゴイサギが飛び過ぎました。ゴイサギは、この季節だけ、それも稀にしか現れません。
合流点下の中州に、コサギが2羽、久しぶりです。同じ個体かもしれませんが、その後大岩橋上で1羽、公園の調整池で1羽見かけました。
合流点近くの田と新井町、赤津川岸の田で、かなり多数のアマガエルではない蛙の声を聞きました。先週はまったく聞こえませんでしたから、蛙の季節もかなり厳密なのでしょうか。探鳥会の時に教えていただいた声なのですが、トウキョウダルマガエルかもしれません。
ツバメは二杉橋付近で、たまに1羽、2羽飛ぶ程でしたが、新井町では7羽が田んぼの上を旋回していました。
栃木陶器瓦前の岸辺のブッシュの近くにカイツブリ1羽、夏羽でした。
公園の調整池にも1羽見かけ、その個体は鳴いていなかったのですが、初めて聞く、何か人工的なキョッ、キョッという声がしました。カイツブリの繁殖声に音質が似ていたので、帰ってから「バードリサーチ」の「鳴き声図鑑」で確かめると、やはりカイツブリの声でした。もう1羽どこかに潜んでいたようです。鳴いている姿を見られればよかったのですが。
公園で、蝉の声に紛れるようでしたが、確かにオオヨシキリの声が聞こえました。モズもあちこちで鳴き、セキレイ類もたくさん飛んでいました。
早起きは少し苦手ですが、早朝の川辺は気持ちよく、初め聞くカイツブリの声や、久しぶりのゴイサギ、コサギにも会えて、有意義な時間となりました。
 
鳥リスト
キジ、カルガモ、カイツブリ、キジバト、アオサギ、ダイサギ、ゴイサギ、コサギ、カワセミ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、ツバメ、ヒヨドリ、オオヨシキリ、スズメ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、ホオジロ