宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
永野川2015年9月下旬
28日
 彼岸も過ぎ、秋らしい澄んだ風が吹きます。
二杉橋から入ると、水は澄んで来ていて、ヨシやススキはいくらか緑が見え始めました。
 川は工事が始まっている個所が多く、鳥の姿は見えません。第五小のサクラにスズメが1羽、スズメは1羽でも貴重という感じします。
 泉橋下の河川敷にカルガモが7羽。これも貴重な感じです。
 モズは電線で高鳴き3例、こちらは元気です。
 合流点の河川敷でカルガモ14羽、今日はサギの姿はありませんでした。
 泉橋上で、カイツブリ1羽。イソシギが2羽争うように飛んで行きました。
 車を避けるために入った次の橋で、一瞬飛んだものが見えて、双眼鏡に入れるとカワセミでした。。青い部分は見えませんでしたが、30秒ほど岸の木の枝に留って飛び去りました。
 少し登った新井町の田で、アオサギ2羽、ダイサギ2羽、稲刈りの済んだ田を歩いて食餌しているようでした。
 反対側の岸を下ると、カルガモ8羽、と今季初バンが1羽。一瞬ツバメが1羽飛びすぎました。渡りを逃したのでしょうか、公園の中でも2羽風に乗 っていました。
 大岩橋近くの森で、今季初、カケスの声がしました。いつか姿の見える日が来ることを祈ります。
 公園の中ではセグロセキレイ3羽とハクセキレイ2羽、少ないのですが、秋の始まりでしょうか。
 調整池のホテイアオイは予想通り池の全面を覆ってしまいました。ここに鳥が来るでしょうか。
 戻ってきた二杉橋では橋脚の下にカルガモが32羽、こんな集団は今季初めてです。渡り鳥ではないのですが、やはりシーズンのはじまり、という気がします。
 スズメはやはり少なくて目に見えたのは5羽のみでした。
 
鳥リスト
キジ、カルガモ、カイツブリ、アオサギ、ダイサギ、バン、モズ、カケス、ハシボソカラス、ハシブトカラス、ツバメ、スズメ、セグロセキレイ、ハクセキレイ
 
後記
 30日午後、友人と赤津川岸を散歩しました。
スズメが戻ってきました。20羽ほどの群れで、残っている草むらと、収穫前の稲田に集まっていました。
その後数羽の群れを何回か見かけました。
今後、どうなるか気になるところです。

 
 
 







今年のイーハトーブ 2015年9月22日、23日
 この写真は、9月23日、花巻駅前のホテルの六階から見た日の出です。この2日間、本当によく晴れ、花巻周辺の稲も順調に育って、稲穂色の鮮やかな風景が広がっていました。賢治の夢見た豊かな収穫の風景です。今年の旅は、リサーチの出来ないまま、行きたいという思いで駆けまわったイーハトーブでした。
 
 22日、最寄駅から一番早く盛岡につく列車を選びましたが、9時52分になっていました。
 岡村民夫先生のご論考『「ポラーノの広場」の競馬場 賢治郊外学のために』、浜垣誠司先生のブログ「レオーノキューストが住んでいたあたり」で、旧黄金競馬場の詳しい情報を得ました。「ポラーノの広場」は私の一番好きな童話ですので、この機会に是非とも訪ねたいと思いました
 もう一つ、地図上では比較的近くみえる、賢治が参禅したという報恩寺、下宿した教浄寺、願教寺など、北山周辺もいきたいところでした。かつては雑木林の中に点在していたという寺院群です。
 「東京ノート」(五年生)に〈丘、ツルゲーネフ〉、「文語詩篇ノート」に〈北山、丘、米内〉のメモがあります。それを知ったとき、若いころツルゲーネフに夢中だった私としては、自分と賢治と共通のものがあった!!と思いこみ、いつかは訪ねて見たいと思っていました。
 
 事前の調査では、二つの場所を結ぶバス路線は無いようでした。観光案内所ならば複数のバス会社の路線が分かるかと思ったのですが、結局、2か所を結ぶ路線はなく、10分後に高松神社方面に行くバスに乗りました。
 バスは、岩手大学や体育館など文化施設をいくつも通り過ぎていきました。
 旧黄金競馬場跡地は、高松神社付近の八幡神社とその裾野に拡がる住宅地です。高松神社は道際ですぐわかりましたが、付近の人に尋ねても八幡神社は分かりませんでした。事前に見た地図を思い浮かべて、反対側の少し小高い丘と木立の見える場所へ行ってみました。
 麓に、「御大典記念」と刻まれた石鳥居がありましたが、「八幡神社」の名前はありませんでした。
 少し登ってみると、どうも人家の中に入って行くような気がして、上まではいけませんでした。
 丘の周囲を巡っている道には、岡村先生のご論考の中にあった、アカシアの大木や、桜の木があり、南側、下方には、広い住宅地が広がっていました。
 確かに「ポラーノの広場」の〈北に山をしょって〉いる場所、〈植物園にこしらえ直す〉という未来に向かって変革が可能な場所を確信できました。
 夜、岡村先生のお話を聞くことができました。この鳥居は通りぬけ可能で、登れば「馬魂碑」(1907年建立)や「黄金競馬場の碑」(1904年建立)があったということでした。神社に近い立地は、神事として始まった競馬を証明することもできます。
 賢治の高農時代には、まだ移転の計画はありませんでしたが、競馬は全盛で、当時の富裕層のレジャーとして明るいものだったのでしょう。変更の計画を知ったのは晩年だったのですが、その広い面積は、有意義な変更を感じさせる希望の場所となり、レオーノ・キューストのまだ明るい自由な暮らしの場所として、選ばれたのだと思います。
 
 高松の池は、野鳥の生息地、飛来地でもあるので、以前から憧れていました。神社から二つバス停を戻ったところで、ここはすぐにわかりました。実はここにタクシーの乗り場があれば、次の目的地に行けるかもしれない、という目算もありましたが、駐車場には数台の車があるのみでした。
折角来たので、もうここでのんびりしようと覚悟を決め昼食を取りました。
 ハクチョウは飛来しておらず、カルガモがあちこちに数羽ずつ浮いていました。突然池の中央に大きめの鳥が飛びました。双眼鏡に入れるとカイツブリの仲間でした。大きさから多分カンムリカイツブリではないかと思います。私の周辺では日常的には見られないものです。ふつうにこれがいる、というここの環境は素晴らしいと思いました。カンムリカイツブリはずっと池の中央を潜水したり泳いだりしていました。
 後日、野鳥の会の方にお話したら、この時期のカンムリカイツブリは、珍しいとのことでした。不安になってネットで検索してみると、盛岡の複数のブログで、カンムリカイツブリの記事がありました。偶然、それも短い時間に見ることが出来たのは幸運でした。
 
 花巻に戻ると、まだ講演までには1時間半以上あったので、とにかく真照寺まで車で行ってお参りしました。
 静寂の中に供花の鮮やかさと線香の香りは、賢治の想いと、その後に過ぎて来た時間とが一つになった空間を感じさせました。
 帰りは、花巻農学校跡の碑や、風の又三郎群像を訪ねて、ぎんどろ公園を歩きました。ギンドロの木は、また背たけを伸ばし高い高いところで、風に鳴っていました。幹と葉裏の銀色が豊かな日差しのなかで静かに輝きました。
 
23日
 今回の旅のもう一つの目的は、「二十六夜」の舞台、獅子鼻に行くことでした。これも事前リサーチが出来ず、花巻駅の観光案内所でもはっきりせず、桜地人館で尋ねるようにとのことでした。この時点で時間の配分が分からなかったので、先日の懇親会の時にお話しした方に誘われて、ひとまずイーハトーブ館の研究発表会へ向かいました。
 イーハトーブ館から花巻へ戻ってくるバスは13時過ぎで、それからでは獅子鼻を探すのは無理のようでした。申し訳ないのですが思い切って途中で失礼して、南斜花壇を抜けてリニューアルした賢治記念館へ行きました。星空やその他、体験できる設備などが充実していました。ここもゆっくりすれば発見がありそうですが、取り急ぎ、タクシーで賢治碑に向かいました。
 まず桜地人館でお聞きすると、北上川を下って、銀河南大橋と花巻南大橋を越えた場所で、徒歩では難しいとのこと、タクシーを呼んで下さるとのこと、また「雨ニモマケズ」詩碑の丘からの展望の方が実感できる、ということでした。
 「雨ニモマケズ」詩碑の丘は、賢治祭以外の日に行くと、ほとんど人はいなくて、風が流れ、賢治の孤独が伝わってくる感じが好きです。
 展望の解説図に従ってみると、確かにかなり離れた場所に、川に突き出た黒い林が見えます。
 以前、賢治自耕の地から少し川岸を下ったことがあるので行ってみましたが、今回、川岸は草が生い茂り入ることが出来ず、獅子鼻を近くから見ることはできませんでした。かなり暑くなってきたので、タクシーを呼んでいた だくことにしました。
 運転手さんもよくわからなかったのですが、地人館で教えていただいた、橋を二つ越えた所、と伝えると、ためらいながら行ってくださいました。そして、船着き場がある写真を見たことがあることを伝えると、今度はすぐ着けました。
 林は、耕作地から細長く続いてさらに岸辺に突き出ていました。でも岸から中に入ることはできないようでした。車から出ることも忘れて、ただ辿りつけた喜びばかりでいっぱいでした。写真を取るのも忘れていました。
船着き場がひっそりとあって、対岸の林も静かに広がっていて、本当なら少しでも降りて歩くべきでしたが、こういう時になると恐くなります。やはり誰かと来るべきだったかも……。少し様子が分かったので、誰かを誘う自信もできました。
 でも「獅子鼻」が確実になったのは、そこに来た運転手さんと顔見知りの地元の舟の愛好家に確認して後でした。地元の狭い範囲の人しか知らない名前のようです。
 ここから、イギリス海岸まで手漕ぎの舟をだすことができるとのこと、隠れた名所のようでした。戻る時気づきましたが、「フクロウの森」という小さな手製の看板もあり、いずれ観光化されるのかもしれないと思います。うまくいけば、アクセスも楽になり、賢治の世界を歩けるかもしれません。間違った方向に行かないことを祈ります。
 
 お昼も食べていなかったので、運転手さんにマルカンデパートに行ってもらいました。一度〈箸で食べるソフトクリーム〉を食べて見たかったのです。
マルカンデパートは6階建ての繁盛しているお店でした。六階は、懐かしい〈デパートの食堂〉で、もう13時は回っていたのに混雑していて、おまけにソフトクリームは30分待ちとのことでした。なぜか気が急いていて諦めて街へ出ました。地図を頼りに、鳥谷崎神社を廻って、気になっていた『春と修羅』印刷所跡の照井菓子店で経木まんじゅうを買い、駅にたどり着くことができました。
 
 ひどく不安の中で駆け回り、あちこちで時間のロスがありましたが、行きたい所へは行けました。いつの日か又来る時は、自信を持って友人を案内することが出来るでしょう。
 賢治祭周辺の旅は、賢治への想いの旅であると同時に、いつも新しい世界への挑戦です。
 
参考文献
岡村民夫『「ポラーノの広場」の競馬場 賢治郊外学のために』
(『賢治学 第二輯』岩手大学宮沢賢治センター 2015年6月)
浜垣誠司「レオーノキューストが住んでいたあたり」 
(同氏HP「宮沢賢治の詩の世界」2015年3月)
小林俊子「ポラーノの広場の競馬場」
(『宮澤賢治 絶唱 かなしみとさびしさ』 勉誠出版 2011)

 







永野川2015年9月中旬
15日
  好天なので、まだ前回から4日しかたっていないのですが出かけました。
 上人橋上の中州にコサギ3羽、チュウサギ11羽、合流点の中州にコサギ7羽が見えました。ここは流れの変化などによって、サギ類に適した場所になったのかもしれません。
 保育園のサクラに、スズメくらいの大きさで鳴き声がチッチと鳴く鳥2羽、双眼鏡に入れる
とホオジロの幼鳥でした。赤津川岸にも幼鳥が2羽、危うい感じの飛び方をしていました。
 モズが電信柱で高鳴き風に鳴いています。今日は5例のモズがすべて高鳴き状態でした。
 合流点付近でオオタカ1羽上空に舞い、空の色とともに秋を感じました。
 新井町の休耕田にチュウサギ8羽、これもこの季節の風景です。
 キジの若鳥がなにか迷ったように道路を歩いて、民家のかなり高い塀を飛び越えて庭に入って行きました。岸辺の草が無くなり、行き場を失ったのかもしれません。
 先回は気付かなかったのですが、合流点の上、泉橋の下にあった、ズミに似た花の咲く大木が、倒れていました。どうも岸が崩れたためらしく、土嚢で応急処置がされて、木は伐採されていました。この木は、ここの岸辺に、かつては数本の大木がありましたが、皆伐採されて、この木だけが残っていたのですが、これですべてなくなりました。
 赤津川の土手のヨシもなぎ倒され、枯れた状態に見えました。この冬は枯れ草の茂みはなくなってしまうのでしょうか。来季の復活はあるのでしょうか。
 崩落している大砂橋の近くは避け、反対側を少しのぼったところで引き返し、また公園のなかは通行止めの処置がとられたので入れず、土手の上だけを通りました。ヤナギの大木はいくらか起き上がったようです。ワンドのヤナギも少しずつ立ちあがってたが、どう処置されるでしょうか。
 公園の調整池にピッピッピという声が聞こえ、一瞬カイツブリ3羽の潜った跡の水輪が見えました。少したって、親鳥と、まだ顔の白い模様があり黄色い大きなくちばしのヒナが1羽出て来ましたが、ずっと声は出し続けていたので見ていると、10mくらい離れた所で、もう1羽のヒナが出て来ました。2羽は鳴きながら、1羽のヒナに近づいて行きましたが合流はせず、1羽は少し離れたままで、もとの場所に戻って行きました。ピッピッピという声は、ヒナを呼んでいる声でしょうか、警戒の声でしょうか、カイツブリのコミュニケーションが垣間見えて、面白い場面でした。
 上人橋から二杉橋までの間では、ダイサギが2か所に佇み、毛づくろいをしていました。
スズメの姿が極端に少なくなっています。草むらが無くなったせいでしょうか。
 少し日常が戻ってきた感のある永野川、また見守って行きたいと思います。
 
鳥リスト
キジ、カルガモ、カイツブリ、キジバト、カワウ、オオタカ、トビ、アオサギ、ダイサギ、チュウサギ、コサギ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、ツバメ、スズメ、セグロセキレイ、ホオジロ
 
付記
19日に赤津川の栃木インターに通じる平和橋を通って初めて気づいたのですが、一つ下の橋が、中央から折れて落ちていました。私の観察範囲の一つ上の橋です。
小さな河川も場所や条件によって被害が大きくなることを実感させられました。

 
 
 







永野川2015年9月上旬
11日
  6日の午後からぐずついていて、遂に9日、10日の台風となり、上旬中観察に行けませんでした。台風の爪痕を想像して、恐る恐る出かけました。
  二杉橋から入ると、まだ濁流が川幅いっぱいに流れ、両岸も土手の少し下まで水が流れた跡があり、殆どの草木、篠などはなぎ倒され、家庭菜園も見事に流されていました。
 かろうじて残った岸のスペースに、カルガモが7羽、4羽、2羽、8羽と張りつくようにしていました。
 合流点は少し河川敷が残り、ダイサギ6、チュウサギ4、コサギ2が群れていて、少し安心しました。
 赤津川沿いの田は、冠水することなく、セッカの鳴き声が聞こえました。
 新井町で、電線とテレビのアンテナでモズが、高鳴きと思える声で鳴いていました。そろそろそんなシーズンでしょうか。
 近頃みかけなかったトビが1羽、空を舞っていました。
 大砂橋から下って来る途中、道幅50cmほど残して陥没した箇所があり、やっとの思いで通り抜けました。
 その下流の河川敷のパークゴルフ場は一変していました。確か、もっと芝生が広かったはずなのに砂利が大幅に乗り上げ、コンクリートの護岸とも歩道ともつかない物が打ち寄せられていました。
 公園に入ると、想像以上の変わり様でした。
 土手下の歩道の部分だけが、なぜか部分的に陥没して、やはり、どこかの護岸が流れついていました。
 そして公園のシンボル(と私が思っていた)大好きなヤナギの大木が倒れ、川半分を覆ってしまっていました。枝には季節ごとに鳥が来て、木陰は水浴びの場でもありました。カワセミのスポットとして時々カメラマンが訪れていました。
 その上、鳥の棲息場として何とか守ってほしいと思っていたワンド跡の低木が、殆どなぎ倒され、ヨシも倒れていました。アレチウリなど雑草は流されてしまったらしく、何ともすっきりして、ここがあの場所か、と疑いたくなるほどでした。
 これを機に、都市公園化が一気に進みそうです。むしろ、このまま放置してもらって、ヨシなどが、自然に残っていけばよいのではないでしょうか。 
 公園の芝生の半ばくらいまで濁流が迫ったらしく流木が流れ着いています。ここを公園とするのには危険を感じます。
 濁流と瓦礫の中にアオサギ1羽頑張っているように見えました。
 なぜか、いつも少ない、ハシボソカラス、ハシブトカラス合わせて40羽以上も群れていました。もしかして動物の死骸を求めているのでしょうか。先ほどのトビも同様かもしれません。
 公園に先行してまず人の生活圏が整備されていくでしょう。公園がどうなるか、全く先が見えませんが、鳥たちが、うまく棲み家を得てくれることを祈るばかりです。
 
鳥リスト
カルガモ、アオサギ、ダイサギ、チュウサギ、コサギ、トビ、モズ、セッカ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、ツバメ、スズメ、セグロセキレイ
 

 
 







「二十六夜」―かなしみ、読経、汽車の音、そして風―
 
旧暦の六月二十四日の晩でした。
 北上川の水は黒の寒天よりももっとなめらかにすべり獅子鼻は微かな星のあかりの底にまっくろに突き出てゐました。
 獅子鼻の上の松林は、もちろんもちろん、まっ黒でしたがそれでも林の中に入って行きますと、その脚の長い松の木の高い梢が、一本一本空の天の川や、星座にすかし出されて見えてゐました。
 松かさだか鳥だかわからない黒いものがたくさんその梢にとまってゐるやうでした。
 そして林の底の萱の葉は夏の夜の雫をもうポトポト落して居りました。
 その松林のずうっとずうっと高い処で誰かゴホゴホ唱えてゐます。(中略)
 
 「二十六夜」は旧暦の〈六月二十四日〉、〈二十五日〉、〈二十六日〉の三章から成っています。「獅子鼻」は、実在する場所で、羅須地人協会跡から南方をながめて、北上川西岸から川に向かって張り出した高台です。
現存稿の執筆は大正12年(1923)と推定されます(注1)。
〈旧暦六月二十四日〉は新暦で7月下旬から8月中旬で、月の出は夜明け近くです。
1923年までの日付は、
1920年、8月8日、
1921年、8月18日、
1922年、8月16日
1923年、8月6日
ですから、大体8月上旬、中旬を描いたものと思われます。
 
 月の出の前の暗いマツ林では、フクロウが集まって、フクロウの偉そうなお坊さんのお説教を聞いています。大人のフクロウたちの感極まったすすり泣きが聞こえます。でも子どもたちは、飽きて宙づりの競争をして枝から落ちたりして親に叱られていましたが、逃げ出してどこかに遊びにいってしまいます。兄弟で一番小さい穂吉だけは、しっかりとお説教を聞いていました。
 
しばらくたって、西の遠くの方を、汽車のごうと走る音がしました。その音は、今度は東の方の丘に響いて、ごとんごとんとこだまをかえして来ました。
 
 鉄道が走っています。人間の社会の近くにある場所です。このことは次章の二十五日の事件にも深く関わってきます。汽車の音は5回も記されます。
 
 〈二十五日〉の夜、お説教場所に穂吉の姿がありませんでした。兄弟3匹で遊びに出た昼間、穂吉だけが農家の子供につかまって、農家に繋がれてしまったのです。
林中の梟の哀しみのすすり泣きの声、父親たちは何とか助けようとの思案が続く中で、母親の言葉、〈「あの家に猫は居ないやうでございましたか。」〉、〈「ああ、もしどうぞ、いのちのある間は朝夕二度、私に聞えるやう高く啼いて呉れとおっしゃって下さいませ。」〉からは、切実な想いが伝わってきます。
 
 〈二十六日〉、穂吉は、子どもたちに脚を折られ捨てられているところを助けられました。足の痛みに耐えながら横たわり、じっと説教を待つ穂吉に、大人たちは怒りに燃え、復讐を考えますが、復讐は新たなる戦いを呼ぶことだと、お坊さんにとめられます。また説教が始まり、遠くでは汽車の音が聞こえます。
 
……
二十六夜の金いろの鎌の形のお月さまが、しづかにお登りになりました。そこらはぼおっと明るくなり、下では虫が俄かにしいんしいんと鳴き出しました。
 遠くの瀬の音もはっきり聞えて参りました。
 お月さまは今はすうっと桔梗いろの空におのぼりになりました。それは不思議な黄金の船のやうに見えました。
 俄かにみんなは息がつまるやうに思いました。それはそのお月さまの船の尖った右のへさきから、まるで花火のやうに美しい紫いろのけむりのやうなものが、ばりばりばりと噴き出たからです。けむりは見る間にたなびいて、お月さまの下すっかり山の上に目もさめるやうな紫の雲をつくりました。その雲の上に、金いろの立派な人が三人まっすぐに立っています。まん中の人はせいも高く、大きな眼でじっとこっちを見てゐます。衣のひだまで一一はっきりわかります。お星さまをちりばめたやうな立派な瓔珞をかけてゐました。お月さまが丁度その方の頭のまわりに輪になりました。
 右と左に少し丈の低い立派な人が合掌して立ってゐました。その円光はぼんやり黄金いろにかすみうしろにある青い星も見えました。雲がだんだんこっちへ近づくやうです。
「南無疾翔大力、南無疾翔大力。」
 みんなは高く叫びました。その声は林をとゞろかしました。雲がいよいよ近くなり、捨身菩薩のおからだは、十丈ばかりに見えそのかゞやく左手がこっちへ招くやうに伸びたと思ふと、俄に何とも云へないいゝかほりがそこらいちめんにして、もうその紫の雲も疾翔大力の姿も見えませんでした。ただその澄み切った桔梗いろの空にさっきの黄金いろの二十六夜のお月さまが、しづかにかかってゐるばかりでした。
「おや、穂吉さん、息つかなくなったよ。」俄に穂吉の兄弟が高く叫びました。
 ほんとうに穂吉はもう冷たくなって少し口をあき、かすかにわらったまま、息がなくなってゐました。そして汽車の音がまた聞えて来ました。
 
 穂吉は、二十六夜の月の出の光の中に現れた〈疾翔大力〉に迎えられて、月の舟にのって昇天したのです。
 
 夜中に月の出を待つ習俗、月のなかから仏の姿が出現することについては、月の出がおおよそ午前零時の二十三夜に行われる月待ちの「二十三夜講」の信仰や、お説教中にもある、陰歴1月と7月の二十六夜には、阿弥陀、観音、勢至菩薩が月光の中に現れるという言い伝えが江戸時代からあり、太陽像が複数に見える「幻日現象」などとも重なっているようです。
また大正十年代に、盛岡では、「二十六夜講」(念仏講)があり、月が昇り中空に達すると三つに割れて中央部分が上方に昇り、揺らぎながら仏体となり、さらに左右の部分が相次いで昇って小さな仏体となったのを体験した人があり、それは「二十六夜」には十年に一度くらい見られる光景だったそうです(注2)。
 
 『新校本全集』の「二十六夜」は全423行ですが、そのなかで140行が、経典とお説教で、およそ3分の一を占めています。この物語を読もうとして一瞬ひるむのはこのためでしょうか。
 
爾の時に疾翔大力(シッシャウタイリキ)、爾迦夷(ルカイ)に告げて曰く、諦に聴け、諦に聴け、善く之を思念せよ、我今汝に、梟鵄諸の悪禽、離苦解脱の道を述べん、と。
「 爾迦夷、則ち、両翼を開張し、虔しく頸を垂れて、座を離れ、低く飛揚して、疾翔大力を讃嘆すること三匝にして、徐に座に復し、拝跪して唯願うらく、疾翔大力、疾翔大力、ただ我等が為に、これを説きたまへ。たゞ我等が為に、之を説きたまへと。
疾翔大力、微笑して、金色の円光を以て頭に被れるに、その光、〔遍く〕一座を照し、諸鳥歓喜充満せり。則ち説いて曰く、
 汝等審に諸の悪業を作る。或は夜陰を以て、小禽の家に至る。時に小禽、既に終日日光に浴し、歌唄跳躍して疲労をなし、唯唯甘美の睡眠中にあり。汝等飛躍して之を握む。利爪深くその身に入り、諸の小禽、痛苦又声を発するなし。則ち之を裂きて擅に貪食す。或は沼田に至り、螺蛤を啄む。螺蛤軟泥中にあり、心柔輭にして、唯温水を憶ふ。時に俄に身、空中にあり、或は直ちに身を破る、悶乱声を絶す。汝等之を貪食するに、又懴悔の念あることなし。
 斯の如きの諸の悪業、挙げて数うるなし。悪業を以ての故に、更に又諸の悪業を作る。継起して遂に竟ることなし。昼は則ち日光を懼れ又人及諸の強鳥を恐る。心暫くも安らかなるなし、一度梟身を尽して、又新に梟身を得、審に諸の苦患を被りて、又尽ることなし。」
 
 鳥の世界の経典「梟鵄守護章」は、鳥の世界の捨身菩薩「疾翔大力」が爾迦夷上人、波羅夷上人に説くという設定で展開します。仏典を鳥の世界に置き換えて見事に作られています。この部分は、その一部で、二十四日には2回、二十五日、二十六日にそれぞれ1回ずつ、繰り返して唱えられ、お坊さんが丁寧にお説教しています。
 お坊さんは、梟が深夜に寝入っている自分より小さな生き物の生命を取り、その結果日中は報復を恐れて活動できないと、因果応報を繰り返し説いています。続いて、それを生きるための必要以外には、おろそかに命を取ることなく、またそうやって得た生を無駄に過ごすのは罪であると説きます。
さらに「疾翔大力」が、もとは小さなスズメであったのに、飢饉のときわが身を差し出して、他の命を救い、その功徳によって仏に会い法力を授けられたと捨身の尊さを説きます。これらの多くは法華経や、日蓮の教書・書簡から取り入れられています。(注3)
 賢治は、それぞれ―穂吉さえも―が持つ業(他の生物を殺して生きること)とその結果、また捨身の尊さをお坊さんに説かせることで、穂吉の解放を願ったのではないでしょうか。
 一方、最もおとなしく従順で和尚の言葉を聞き入れようとしている穂吉がなぜ不幸に会うのでしょうか。現世の悪行の報いを現世で受けるのでなく、先の世の罪(根源的受動性―自分では避けることのできない事実―人の出生など)、ここでは梟であるということ―によって報いを受けていること、報復できない正しい意味での受難(注1)を説くことで、避けることのできない悲しさを描こうとしたのではないでしょうか。
 
 闇夜の中に、因果応報や食物連鎖、捨身という難問が論ぜられ、別離の哀しみと、つかの間の月の出に救われる心が描かれます。大きな問題を描きながら、なぜか淡々とした筆致です。
 このような中で、風は5例描かれます。
二十四日、お説教の中断の後の再開を前に一瞬静かになった森に、風は遠くの川の音を運んできます。ここでは平和な森の中の一瞬の静けさを表す風です。
 
急に林のざわざわがやんで、しづかにしづかになりました。風のためか、今まで聞えなかった遠くの瀬の音が、ひゞいて参りました。坊さんの梟はゴホンゴホンと二つ三つせきばらひをして又はじめました。
 
 二十五日は、穂吉の不幸な出来事のあと、悲しみに沈む森に風が吹きます。最初は静かに松の梢をゆする風でした。だんだん大きくなっていく梟の哀しみと泣き声を象徴するように、すべてを波に漂流する舟のように揺する風となりました。
 
もちろんふくろうのお母さんはしくしくしくしく泣いてゐました。乱暴ものの二疋の兄弟も不思議にその晩はきちんと座って、大きな眼をぢっと下に落してゐました。又ふくらふのお父さんは、しきりに西の方を見てゐました。けれども一体どうしたのかあの温和しい穂吉の形が見えませんでした。風が少し出て来ましたので松の梢はみなしづかにゆすれました。
 空には所々雲もうかんでゐるようでした。それは星があちこちめくらにでもなったやうに黒くて光ってゐなかったからです。
 
それから男の梟も泣きました。林の中はたゞむせび泣く声ばかり、風も出て来て、木はみなぐらぐらゆれましたが、仲々誰も泣きやみませんでした。星はだんだんめぐり、赤い火星ももう西ぞらに入りました。
 
 風がザアッとやって来ました。木はみな波のやうにゆすれ、坊さんの梟も、その中に漂ふ舟のやうにうごきました。
 
 二十六日は冒頭に、澄んだ空の高いところを、天の川の流れの音、と感じられるものとして吹いて、星を揺すっています。これから起こる穂吉の死を予測させるように、しずかに澄んだ空に吹く風です。死という最大のかなしみは、昇天という結果を得て、清澄なものとなるのです。
 
旧暦六月二十六日の晩でした。
 そらがあんまりよく霽れてもう天の川の水は、すっかりすきとほって冷たく、底のすなごも数えられるやう、またぢっと眼をつぶってゐると、その流れの音さえも聞えるやうな気がしました。けれどもそれは或は空の高い処を吹いてゐた風の音だったかも知れません。なぜなら、星がかげろふの向ふ側にでもあるやうに、少しゆれたり明るくなったり暗くなったりしてゐましたから。
 
 ここで、もうひとつ繰り返し登場するのは汽車の音です。まず二十四日には、長い読経とお説教の終わったあとの、ほんの少しの静寂の間に3回、聞こえてきます。
 
しばらくたって、西の遠くの方を、汽車のごうと走る音がしました。その音は、今度は東の方の丘に響いて、ごとんごとんとこだまをかへして来ました。
 
林の中は又しいんとなりました。さっきの汽車が、まだ遠くの遠くの方で鳴ってゐます。
 
前の汽車と停車場で交換したのでせうか、こんどは南の方へごとごと走る音がしました。何だか車のひゞきが大へん遅く貨物列車らしかったのです。
 
 二十六日は、脚を折られてた穂吉の不幸を、励ますような、お説教のちょっとした中断の時に聞こえます。フクロウたちは悲しみから一瞬逃れるように、汽車の音を聴いているようです。ここで作者だけでなく、フクロウも汽車を意識している設定であることが分かります。
 
梟の坊さんは一寸声を切りました。今夜ももう一時の上りの汽車の音が聞えて来ました。その音を聞くと梟どもは泣きながらも、汽車の赤い明るいならんだ窓のことを考へるのでした。講釈がまた始まりました。
 
最後に穂吉の昇天を記した最終部分の、最終行に、締めくくるように使われます。
 
「おや、穂吉さん、息つかなくなったよ。」俄に穂吉の兄弟が高く叫びました。
 ほんとうに穂吉はもう冷たくなって少し口をあき、かすかにわらったまゝ、息がなくなってゐました。そして汽車の音がまた聞えて来ました。
 
 〈汽車の音〉は現実そのものではないでしょうか。
 二十四日の音は、お説教という、いわば異次元の世界に疲れたフクロウたちにとって一瞬の息抜きのような気がします。
 二十六日の最初の音は、近づく死という悲しみの予感に耐えきれず、救いを求めている心を感じます。
 最終行は、哀しみの極致―死―を静かに受け止めて流れていく現実の象徴のようにも感じます。これから始まる時間は、フクロウ達にとってまた新しい始まりなのでしょう。
 
 死も、仏も、因果も、業も、すべてを包むのは、風と云う自然の流れ、汽車の音と云う現実の流れのようです。
 長い時間をかけて説かれる経典も、お坊さんの熱意に比べて、フクロウ達にとっては一時の法悦です。ここからは仏の加護によって守られて生きていく、という姿勢は読みとれません。これは、フクロウ達が人間にすればごく普通の人であることを示しているのではないでしょうか。
 「二十六夜」草稿に付された表紙に「どうもくすぐったし」と賢治がメモしたのも、賢治の想いの強さを前面に押し出した経典やフクロウのお坊さんの説教が、何か上滑りしていることを感じたのかもしれません。
 もっと広い意味での業、人間の切なさ、どうにもならない悲しさを感じさせてくれる作品だと思います。
 
注1
安藤恭子「「二十六夜」〈イノセンス〉に死す」(『国文学解釈と鑑賞 61−11』 至文堂 1996 11)
注2
橋本勇「二十六夜尊の思い出」(『十代』3−7(昭和58、7)
栗原敦「二十六夜」のことなど・追補(『賢治研究 35』(宮沢賢治研究会1984.5)に引用されている。 
注3
呉善華「「二十六夜」におけるカルマ」(国文学解釈と鑑賞68−9 至文堂 2003,9)によれば、
〈疾翔大力〉は捨身菩薩、〈爾迦夷(ルカイ)上人〉は日蓮 〈波羅夷上人〉は多宝如来の置き換え。
〈梟鵄守護章〉の〈梟鵄〉は法華経譬喩品第三にある悪虫を表す「梟鵄」から。
〈守護〉も法華経経典の中に随所にみられる用語。
仇打ちの禁止は日蓮教書「破信堕悪御書」から。
〈かすかにわらったまゝ〉死ぬ穂吉は、同じく日蓮の書簡教書「妙法尼御前ご返事」に説かれた臨終正念の姿を表したもの。