宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
「ひかりの素足」―死と向き合う風― 追記 「中有」という時間と「往きて還えること」
 
 私が仏教と関わるのは、葬儀などの儀式や、盆、彼岸などの行事の時、あとはたまに文献として仏典を読むことくらいのこともあって、先月アップした「「ひかりの素足」―死と向き合う風」を書きながら、「三、うすあかりの国」、を、「地獄」と規定したのですが、割り切れないものがありました。
 物語では、楢夫を含む子どもたちは、そこから違う世界―博物館や図書館があり、お菓子やいい匂いのものがあふれている―へ行くことが想定されているからです。そこは、地獄と極楽へ行く前段階のように思えたのですが、適当な言葉を知りませんでした。またなぜ一郎が生還できたのか、ということも疑問でした。
 手掛かりを求めて、工藤哲夫『賢治考証』(和泉書院 2010)を開いてみて、第一章「中有と追善―ひかりの素足論」という論考をみつけました。
 もうひとつ、一郎の生還については、浜垣誠司氏のHP『宮澤賢治の詩の世界』、
「なぜ往き、なぜ還へってきたのか」(1)2011年6月19日
「なぜ往き、なぜ還へってきたのか」(2)2014年3月30日
「なぜ往き、なぜ還へってきたのか」(3)2015年4月26日
のなかに、一つの答えをみつけました。
 以下は大半がお二方の御論考の要約ですが、私の理解のために、理解できる範囲でまとめました。
 
一、「うすあかりの国」―「中有」という時間、追善という行為―
 結論から書くと、そこは「中有」でした。中村元『佛教語大辞典』(東京書籍)では、「中有」について次のように記しています。
 
中陰、中蘊ともいう。意識を持つ生きたものが、死の瞬間(死有)から次の生を受けるまでの間の時期で、霊魂身とも言うべき身体を持つ。
この期間は49日という説から、死後49日を満中陰として、その間に冥福を祈る風習を生んだ。 出典「瑜伽論」、「往生要集」、「謡曲 舟橋」
 
 工藤氏の論考では、先行論文と、日蓮等の著作とを比較しながら、その根拠を述べていますので、列挙します。
 
○「うすあかりの国」を地獄とする説
 西山令子「ひかりの素足」考『日本児童文学研究』第12号(1981、7)では日蓮「顕謗法鈔」の地獄観と一致を見ている。
しかしそこでの獄卒(鬼)の仕打ちは、体を砕き、肉を割き、悪臭を放つというもので、「うすあかりの国」とは一致しない。
○飢餓界とする説
五十嵐茂夫「「ひかりの素足」の諸相」(『かながわ高校国語の研究』第二十八集(2002年11月)では、賢治が接したであろう「目連伝説」の「冥界」に描かれる一種の往還が可能な場所という点で、飢餓界であるとしている。
 だが「飢えに苦しむ」という描写はなく、往還が可能という点以外での一致はない。
○ 平尾隆弘『宮沢賢治』(78,11、国文社)、田口昭典『賢治童話の生と死』(1987、6 洋々社)では、境界領域としての中有をあげている。
 しかし、「うすあかりの国」を浄土真宗の〈地獄図〉とみている点もある。
 
 以上の論考を経て、工藤氏は「中有」説を支持すると同時に、賢治がその情報を得たと思われる日蓮の著作に比較して論証しています。
 賢治は所蔵の『日蓮聖人御遺文』に、前述の「顕謗法鈔」と同時に「十王讃歎抄」に○印をつけています。
 工藤氏論考では、「うすあかりの国」で中有の様子を書くために、「顕謗法鈔」に描かれる地獄の様子を読んだが、そこに自分の意図するものが見いだせず、「十王讃歎抄」を読んだと推定しています。そこで指摘されている「十王讃歎抄」の「縮遺」の章で説かれる、「うすあかりの国」の状況と似た場面を拾ってみると、おおよそ次のようなものです。
 
1、「縮遺」54ページ
……獨逝廣野無有伴侶……唯獨渺渺たる廣き野腹に迷ふ 此を中有の旅と名クル也……

楢夫といっしょに死んだはずの一郎がひとりで〈ぼんやりくらい藪のやうなところをあるいて居〉る場面、そのほかの多くの一人でさまよい迷う場面と共通しています。
以下原文を省略します。
2、55ページ
行く先を訪ねる一郎に鬼が答える、〈「どこへ行くあてもあるもんか」〉という言葉
楢夫や同じ境遇の子どもたちの多くの泣く場面。
3、56ページ
鬼の云う〈「罪はこんどばかりではないぞ」〉という言葉。
4、57〜58ページ
〈からだは何か重い巌に砕かれて青びかりの粉になってちらけるやうに〉
〈何べんも何べんも倒れて又楢夫を抱き起こし……〉という反復性のある記述。
一郎が剥ぎ取られる衣一枚の布切れのみまとっていたこと。
5、69ページ
〈それは自分で傷つけたのだぞ〉―自業自得の記述―
6、72ページ
触れれば体を切る岩の話
 
 工藤氏論考では、「十王讃歎抄」、うすあかりの国」の全体の雰囲気では異なりますが、情景描写の部分的なヒントを多く得ているとしています。
賢治が描いた「中有」―「うすあかりの国」―がなぜその形となったかは、また別の問題があると思います。後の課題です。
 
 もうひとつ、一郎が楢夫とともに中有にいながら一郎が生還した、という意味について、工藤氏の同論文の後半には〈追善〉として、その意味が書かれています。
 中有の世界から生還するには、通常は、死を確認した生きている者が、〈追善〉の行為をなさなければなりません。これは「十王讃歎鈔」にも多くの例が引かれています。
 しかし、「ひかりの素足」では、父親にも周辺の人にも一郎の死は確認されていませんし、追善の行為も記されていません。そこで、〈無意識の追善〉が重要な意味を持ってきます。
 一郎たちが中有から救われるきっかけとなるのは「にょらいじゅりゃうぼん第十六」と云う声でした。
 賢治書簡bV5保阪嘉内宛で、母の死に際して、その往生のために「如来寿量品」を書いて霊前に供えるように説得しています。これは日蓮書簡「上野尼御前御返事」で説かれている、法華経の題目の書写が地獄から仏界への往生に力があるということに関連しているとみられます。
 日蓮書簡「上野尼御前御返事」では烏龍・遺龍という書家親子の故事を例にあげています。さらに日蓮遺文「法蓮鈔」にも二人の故事が伝えられています。
 賢治の書簡の場合、嘉内の母の死の確定と、嘉内の意思に基づく「追善」の行為によって成り立つものですが、工藤氏は、烏龍・遺龍の故事では、それに加えて、息子遺龍は心から信じてそれを行ったのではなかったのに父烏龍を地獄から助ける結果となったことが書かれ、これは無意識の追善ととることができるであろう、としています。
 「ひかりの素足」のなかで〈「にょらいじゅりゃう品第十六」〉を唱えた人が不信のものではありえないのですが、「ひかりの素足」の、無意識の追善行為としての言葉が苦境にある人々を救うという発想のヒントとなったのではないか、とされています。
 なぜ「如来寿量品第十六品」だったか―「法蓮鈔」では、「自我偈の功徳」を説くためにも烏龍・遺龍の故事を取り入れています。「如来寿量品」は「偈」の部分を指すものであることで、説明できるとしています。
 「中有」から現世に戻されることについては、賢治の歌稿B442〈 はてしらぬ世界にけしのたねほども菩薩身をすてたまはざるはなし〉にも引用されている「提婆達多品」にも、
 
彼字に結縁せしもの尚閻魔の庁より帰され六十四字を書きしひとはその父を天上に送る
 
など関連を感じさせるものがあり、「善無畏鈔」などには、一郎と仏と思われる人との対話や、頭を撫でてくれたこと等の内容を、感じさせる記述が多くあるといわれます。
 なぜ一郎と楢夫が苦しい中有の体験をしなければならなかったか、など、その物語の構成などの問題は疑問として残ります。
 以上、工藤氏論文の引用です。
 
二、往きて還ること
 工藤氏論文では主に日蓮宗との関わりを探っていますが、浜垣誠司氏のHP『宮澤賢治の詩の世界』、
2011年6月19日「なぜ往き、なぜ還へってきたのか」(1)
2014年3月30日「なぜ往き、なぜ還へってきたのか」(2)
2015年4月26日「なぜ往き、なぜ還へってきたのか」(3)
では、浄土真宗の側面からの関わりが説かれています。
 
 「ひかりの素足」と「銀河鉄道の夜」は、密接な関係にある2人―兄弟・親友―が死の世界に向かいながら、一人が生還すること、など、よく似た構造です。
 相違点としては「ひかりの素足」は二人とも死を意識していることです。一郎は、死後の世界へも付き添い、弟の安らかな死後の世界を確認して帰還します。
 「ひかりの素足」の第一次稿の成立は1922(大正11)年前半とみられます(注)。1922年(大正11年)8月9日のことと推測される「イギリス海岸」の、〈もし生徒がおぼれたら、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」〉と云う記述と一致します。
 「銀河鉄道の夜」では、最終的には「夢」だったことが描かれ、死は意識されていません。ジョバンニは突然のカンパネルラの消滅に悲しみながら帰還し、現実の世界でカンパネルラの死を知るのです。
 「銀河鉄道の夜」の原点とも言える妹トシの死は同じ大正11年の11月でした。しかし、妹の死に直面したとき、〈死の向ふ側まで〉一緒について行くことはできませんでした。「オホーツク挽歌」など挽歌群のなかでは、一緒に行くことを願いながら叶わず、死後のトシの姿を追い求め、その死後の世界の幸せで美しいことを祈り悩みます。
 そして最後に、1924(大正12年)の「韮露青」〈・・・・・あゝ いとしくおもふものが/ そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/ なんといふいゝことだらう・・・・・・〉という思いに到達します。
 これは喪失に対する賢治の一つの解決であったと同時に、浄土真宗の根本的な教え、他力本願―亡くなった人のことは、ただ阿弥陀様にお任せするしかない、死者の魂を鎮めるということは、本来は人間の仕事ではない―に基づくものとも言えます。
「ひかりの素足」の一郎は、
 
今の「心持ちを決して離れるな。お前の国にはこゝから沢山の人たちが行ってゐる。よく探してほんたうの道を習へ」
 
と指示され、「銀河鉄道の夜」第三次稿でのジョバンニも、
 
「さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ」
 
と決心し、さらに博士に、
 
「お前は夢の中で決心したとほりまっすぐ進んで行くがいゝ」
 
と云う活動が課されます。
これについては、親鸞『教行信証』に
 
謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり。一には往相(おうそう)、二には還相(げんそう)なり
 
とあり、浄土に生まれるすがた(往相)と、再びこの世に帰ってくるすがた(還相)を述べています。 さらに『無量寿経』の「阿弥陀の四十八願」の中の「第二十二願」では「還相」について次のように述べられています。
 
願に応じて、人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包んで多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏がたの国に行って菩薩として修行し、それらすべての仏がたを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させることもできます。すなわち、通常の菩薩ではなく還相の菩薩として、諸地の徳をすべてそなえ、限りない慈悲行を実践することができるのです。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。(現代語訳 本願寺出版社『浄土三部経』)
 
と云うものです。ここには二人に与えられた課題の原点が認められます。 
 さらにもう一つ、二つの物語に共通しているのは、二人の帰還が、超越的な力によってなされていることです。「ひかりの素足」の一郎は「ひかりの素足の人」のおかげで帰還でき、「銀河鉄道の夜」初期形で、ジョバンニが異界からこの世に帰還するという体験をしたのも、ブルカニロ博士が行った心霊的な実験のためでした。
 それは、『無量寿経』の還相が〈「願に応じて…」〉行われるということは、人の主体的な判断に依るものということではなく、法蔵菩薩=阿弥陀如来の誓願のことであり、還相に入ること自体も、阿弥陀の力のおかげであるというのが、中国の曇鸞以降の浄土教の解釈です。親鸞がことさら、「還相の《回向》」ということを強調する所以もそこにあって、それは、阿弥陀の功徳が《回し向けられたもの》なのです。それが二つの物語に共通する「超越的な力」の記述になったのではないでしょうか。
 
 賢治の生家は、浄土真宗の熱心な信者で、賢治も18才で法華経に出会うまでは、その教えの中に育ちましたから、その影響は自然に身についているものと思われます。前稿でもふれましたが、葬儀の際に日蓮宗では法華経が読まれますが、ほとんどの宗派で読まれる「阿弥陀経」が、「ひかりの素足」に描かれる仏界と酷似していることも、そのためではないでしょうか。
 一郎と楢夫の辿りついた「地獄」とは違う場所、そして一郎のみの生還への疑問を解こうとして、図らずも、賢治の深い信仰と、その幅広さ、重層性を知りました。それは賢治の発想の柔軟性から来ているのではないか、それが作品とどうかかわっているか、さらに考えていければよいと思います。  

注1 杉浦静「ひかりの素足」解説(學燈社『宮沢賢治の全童話を読む』2003)
 

 







永野川2016年1月下旬
永野川2016年1月下旬

28日
 強い寒波の続いたあと、ここ2、3日、10度を超えて過ごしやすくなりました。風も無く期待して出かけました。
 二杉橋から入ると、第五小のサクラにムクドリが5羽、太陽光に白い模様が美しく見えました。
 中洲に、イカルチドリが2羽、地面をつつきながら歩き、少し登った睦橋付近では鳴く声も聞こえました。そのほか公園などあわせて6羽確認できました。
 セキレイ類も多く、ハクセキレイ5羽、セグロセキレイ5羽、1羽ずつですが、あちこちで飛び、睦橋付近では囀りも聞こえました。
 カワラヒワも1羽が電線で囀っていて驚きました。そのほか19羽、17羽、13羽、5羽、1羽……と60羽になりました。
 高橋付近の民家の屋敷林でシメ1羽、独特の鳴き声が聞こえ、頑張って見続けて確認できました。そのほか公園で2羽会いました。
 ツグミがあちこちで、単独で駆け回っている感じで、合わせて16羽、やっと本格的な時期になった気がします。
 公園の川でカイツブリ1羽、水底が浅くて潜水できないのではないか、と云う感じで心配しました。どうやっているのでしょう。
 赤津川、新井町の田で、今年初めてヒバリが囀っていました。長く繰り返される声で、これはモズの鳴きまねではないと思います。カワラヒワといい、セグロセキレイと言い、気温の上昇のためでしょうか。
 ケリもいつもの所に2羽いました。
 滝沢ハムのヨシ原に、今日は小鳥たちが集まっていました。アオジが2、  カシラダカ2、樹木にエナガが4羽、シジュウカラ2羽。滝沢ハムの調整池にコガモだ3羽飛びこみました。ここも良い探鳥地だと思います。
 大岩橋の河川敷ではホオジロが3羽のみ、どこかに皆移動したたようです。
 公園内の川でイソシギ1、イカルチドリ1、やはりここは鳥たちの好きなところのようです。
 永野川西岸、睦橋付近でジョウビタキ1羽、ウグイスの地鳴きが2か所で聞こえました。
 二杉橋付近でコガモの7羽の群れに会いました。カルガモはめっきり少なく全部で16羽のみでした。
 鳥たちは今の一瞬を生きて、囀りまで始めています。明日からはまた寒くなるようですが、どんな風にして乗り切っていくのでしょうか。
 
鳥リスト
カルガモ、コガモ、カイツブリ、アオサギ、ダイサギ、イソシギ、コゲラ、ケリ、イカルチドリ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、シジュウカラ、ヒバリ、ヒヨドリ、ウグイス、エナガ、ムクドリ、ツジョウビタキ、ツグミ、スズメ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、カワラヒワ、シメ、ホオジロ、アオジ、カシラダカ

 
 







永野川2016年1月中旬
 16日
 ここ1カ月以上、全く雨が降りません。鳥見には好都合ですが、生物への影響は出ないのか少し心配になります。
 風が出そうですが、あまり寒くなく、よい天気です。風が心配なので、上人橋から入り、風の強くなる危険のある赤津川へ先にまわりました。
上人橋近くで対岸にカワセミが一羽、しばらく留まっていました。思いがけない場所での出会いで幸先の良いスタートとなりました。キセキレイも1羽一瞬上流に向かっていき、カワラヒワ4羽が保育園のサクラから川に向かって、飛びました。
 合流点から、公園内の川を眺めると、アオサギとダイサギが2mくらいの距離で一緒にいました。敵対関係ではないのでしょうが、何か、“仲よし”と云う感じです。
 スズメが25羽ほどの岸の草むらに群れていました。
 合流点の上流で、カルガモが5羽、土手に登っていて至近距離でよく見えましたが、すぐ川に入ってしまいました。
 新井町に入り、いつもは西岸にいるケリが、今日は東岸に1羽、鳴き声から、なんとか確認しました。その後、少し登ったところでも1羽飛びました。
 栃木陶器瓦の反対側でムクドリが、この辺では珍しい10羽の群れ、にぎやかな声です。
 その上流の橋の近くで、カイツブリ1羽、なぜか霜が溶けたように羽に水滴がたまっていました。
 可愛らしい、囀り風の声が聞こえ、期待して見るとモズでした。今日はモズが多く、若鳥なのか2羽揃った小ぶりのものを始め7羽確認できました。
 合流点近くで、イソシギが1羽鳴いて飛び去りました。セグロセキレイと一緒でしたが、セグロセキレイよりも弱いのか、敵対するのか、どちらでしょうか。
 滝沢ハムの草むらでアオジ3羽、声はもっとたくさんいたように思います。そのほか大岩橋の草むらと永野川西岸合わせて6羽確認できました。その他ホオジロが3羽、一瞬でしたが声と大きさで確認しました。
 大岩橋の河川敷で、カシラダカが12羽いっせいに飛び立ちました。今季最大数です。シメも3羽、キジのカップルも飛び立ちました。繰り返すようですが、この一角だけでもこのままの状態を保ってほしいものです。
 公園の岸の低木で、ツグミが合わせて3羽、やっと増えてきたようです。
調整池には、カモに姿はなくハクセキレイが2羽見えました。今日はハクセキレイが多い日です。
 二杉橋近くまで来たら、イカルチドリが突然2羽飛び立ちました。東岸の中州に、オオタカが1羽、グレイの背、白地に黒の横斑の胸、黄色い脚、白くて太い過眼線、図鑑通りの姿でした。何を食べているか、下を向いては何か口を動かしていました。あるいは水を飲んでいたのかもしれません。イカルチドリは飛び去りましたが、ハクセキレイは近くで飛びまわっていました。襲われる危険は無いと知っているのでしょうか。
 川を遡って行くと、キセキレイ2羽、セグロセキレイ、ハクセキレイが次々と飛びました。思いがけずオオタカにも会い、よい鳥見でした。
 
鳥リスト
キジ、カルガモ、カイツブリ、キジバト、アオサギ、ダイサギ、イソシギ、ケリ、イカルチドリ、オオタカ、カワセミ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、ヒヨドリ、ムクドリ、ツグミ、スズメ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、キセキレイ、カワラヒワ、シメ、ホオジロ、アオジ、カシラダカ

 
 







永野川2016年1月上旬
 明けましておめでとうございます。今年も、よろしくお願いいたします。
毎回、あまり変わらない報告になってしまいますが、それもここの環境が劇的に変化していないことで、幸せなことではないかと思います。私の鳥への想いは、会うことができればそれで幸せ、というものです。
 
9日
 今年最初の鳥見です。
 冬らしい日になりましたが、よく晴れて風も無い鳥見日和です。寒さを気にかけつつ、9時少し過ぎに出かけました。
 二杉橋から入ると、すぐセキレイ類の声がして、キセキレイ1羽見つけ、幸先良いスタートです。セグロセキレイ、ハクセキレイが次々に現れ、キセキレイも新たに2羽加わりました。
 久しぶりで、中州にイカルチドリ1羽確認しました。
 草むらの声は、チチチと3回繰り返し、ホオジロのようでした。
 アオサギも一羽川岸に佇み、ウグイスの声がして、いつも通りの鳥たちですが、何と豊かな日でしょう。
 カルガモ7羽と、コガモ3羽、カイツブリが1羽、コガモやカルガモはその後も3羽4羽の少数の群れでした。
 上人橋を渡った公園の入り口では、ヤマガラ1羽、シジュウカラ2羽、コゲラ1羽で、サクラの木と山林との間を往復していました。
 西の調整池には今日もカモ類はいませんでしたが、カワセミが岸の小さな枝にとまって、一度ダイビングして失敗し、しばらく留っていました。♂だったことは確認できましたが、終始横向きで、背の美しい青は見えませんでした。
 公園の川岸の低木にシメ1羽、少し離れた所でも1羽、このところ、めっきり少なくなりましたが、確認できてよかったと思います。ジョウビタキも1羽、ここでは数が少ない鳥です。
 中央のヤナギの大木から、キジバトが1羽、水の中に下りしばらく留まっていました。ヤナギは台風で倒れたままですが、今のところ枯れてはおらず、また伐採もされていなくて、よかったと思います。
 大岩橋上の河川敷林で、カシラダカ、1羽、2羽、3羽、これも一つの群れとしてもよいでしょうか。これも会えてうれしい鳥です。林の下の方にアオジが2羽、ここはやはり私にとって好きな探鳥地です。
 滝沢ハム近くのサクラの木で、エナガ5羽とシジュウカラ2羽の混群に会いました。今年は、エナガに良く会います。
 赤津川、新井町の電線にカワラヒワが7羽、今日最大の群れです。少し淋しい気がします。
 休耕田の草むらにスズメの50羽単位の群れがいて、羽や胸の色がなぜか暖かく豊かな気分になりました。
 田んぼの畦にツグミ1羽、しばらくぶりで見るシルエットです。今年は本当に少ないようです。その後永野川畔の大木に1羽発見、今後増えて来るでしょうか。
 新井町のいつもの田にケリが3羽、遠かったのですが、確認できました。このところ、決まった場所に決まった鳥がいるのは、よい傾向ではないでしょうか。
 高橋付近の草むらにはアオジが1羽、ここも定位置です。
 二杉橋付近のカルガモは4羽のみ、このところ、ここに大群がいることはなくなりました。
 日差しに恵まれ、鳥たちも元気で、楽しいひとときとなりました。
 
鳥リスト
カルガモ、コガモ、カイツブリ、キジバト、アオサギ、ダイサギ、ケリ、イカルチドリ、トビ、カワセミ、コゲラ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、シジュウカラ、ヤマガラ、ヒヨドリ、ウグイス、エナガ、ツグミ、ジョウビタキ、スズメ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、キセキレイ、カワラヒワ、シメ、ホオジロ、アオジ、カシラダカ

 
 
 
 
 
 
 
 
 







「ひかりの素足」―死に向き合う風―
  この作品は、大正10年12月から11年夏ころ成立と考えられる初期作品で、生前未発表です。
 吹雪で遭難した小さな兄弟を描きます。
 平穏な山の生活を描く「一、山小屋」、吹雪の吹き荒れる山を描く「二、峠」、地獄のさまを描く「三、うすあかりの国」、仏の出現と救いを描く「四、ひかりの素足」、蘇りを描く「五、峠」で構成され、生と死という重い問題を提起していて、たくさんの論考が書かれています。
 この稿では、生と死の間で、風がどのように描かれているか、二人の兄弟にとって、そこで見たものは何か、死にゆく者の安寧と生きる者の義務とは何か、それが賢治にとって何だったのか、捉えることができればよいと思っています。
(問題の無い限り引用文のルビは省略します。)
 
 
 兄弟は、山で炭を焼く父親のもとに来て一晩泊まりました。2人が見た朝の景色は、とても美しいものでした。
 
……
 何といふきれいでせう。空がまるで青びかりでツルツルしてその光がツンツンと二人の眼にしみ込みまた太陽を見ますとそれは大きな空の宝石のやうに橙や緑やかゞやきの粉をちらしまぶしさに眼をつむりますと今度はその蒼黒いくらやみの中に青あをと光って見えるのです、あたらしく眼をひらいては前の青ぞらに桔梗いろや黄金やたくさんの太陽のかげぼうしがくらくらとゆれてかゝっています。
一郎はかけひの水を手にうけました。かけひからはつららが太い柱になって下までとゞき、水はすきとほって日にかゞやきまたゆげをたてていかにも暖かさうに見えるのでしたがまことはつめたく寒いのでした。一郎はすばやく口をそゞぎそれから顔もあらひました。
 それからあんまり手がつめたいのでお日さまの方へ延ばしました。それでも暖まりませんでしたからのどにあてました。
 その時楢夫も一郎のとおりまねをしてやってゐましたが、とうとうつめたくてやめてしまひました。まったく楢夫の手は霜やけで赤くふくれてゐました。一郎はいきなり走って行って
「冷だぁが」と云いながらそのぬれた小さな赤い手を両手で包んで暖めてやりました。
 そうして二人は又小屋の中にはひりました。
 お父さんは火を見ながらじっと何か考へ、鍋はことこと鳴っていました。
 二人も座りました。
 日はもうよほど高く三本の青い日光の棒もだいぶ急になりました。
 向ふの山の雪は青ぞらにくっきりと浮きあがり見てゐますと何だかこゝろが遠くの方へ行くやうでした。
 にはかにそのいたゞきにパッとけむりか霧のやうな白いぼんやりしたものがあらはれました。
 それからしばらくたってフィーとするどい笛のやうな声が聞えて来ました。
 すると楢夫がしばらく口をゆがめて変な顔をしてゐましたがとうとうどうしたわけかしくしく泣きはじめました。一郎も変な顔をして楢夫を見ました。
……
 
  その青空に小さな変化が生まれます。楢夫だけが怖がって泣き出します。 それは雪の前兆とも、その変化の兆しの風の音とも思われます。楢夫だけがそれを感じとって恐れます。ここで、風は天候の変化の兆しであり、〈風の又三郎〉は恐怖の対象となっています。
そして死を予感させるような不吉な言葉を口にします。〈「お父さんおりゃさ新らしきもの着せるって云ったか。」〉は死装束を、〈「それがらお母さん、おりゃのごと湯さ入れで洗ふて云ったか。」〉は湯灌を連想させますが、不吉な想いを大人たちは振り切って笑います。
 
それから二人は、村へ帰る人と一緒に、父親と別れて山を下ることになりますが、途中でその人とはぐれてしまいます。凄まじい吹雪の中、風は次から次へと吹き二人は雪の中に倒れてしまいます。
……
  にはかに空の方でヒィウと鳴って風が来ました。雪はまるで粉のやうにけむりのやうに舞いあがりくるしくて息もつかれずきもののすきまからはひやひやとからだにはひりました。兄弟は両手を顔にあてて立ちどまってゐましたがやっと風がすぎたので又あるき出さうとするときこんどは前より一そうひどく風がやって来ました。   
 その音はおそろしい笛のやう、二人のからだも曲げられ足もとをさらさら雪の横にながれるのさへわかりました。
たうげのいたゞきはまったくさっき考えたのとはちがってゐたのです。楢夫はあんまりこゝろぼそくなって一郎にすがらうとしました。またうしろをふりかへっても見ました。けれども一郎は風がやむとすぐ歩き出しましたし、うしろはまるで暗く見えましたから楢夫はほんたうに声を立てないで泣くばかりよちよち兄に追い付いて進んだのです。
雪がもう沓のかゝと一杯でした。ところどころには吹き溜りが出来てやっとあるけるぐらゐでした。それでも一郎はずんずん進みました。楢夫もそのあしあとを一生けん命ついて行きました。一郎はたびたび うしろをふりかへってはゐましたがそれでも楢夫はおくれがちでした。風がひゅうと鳴って雪がぱっとつめたいしろけむりをあげますと、一郎は少し立ちどまるやうにし楢夫は小刻みに走って兄に追ひすがりました。
けれどもまだその峯みちを半分も来ては居りませんでした。吹きだまりがひどく大きくなってたびたび二人はつまずきました。
一郎は一つの吹きだまりを越えるとき、思ったより雪が深くてたうとう足をさらわれて倒れました。一郎はからだや手やすっかり雪になって軋るやうに笑って起きあがりましたが楢夫はうしろに立ってそれを見てこはさに泣きました。
「大丈夫だ。楢夫、泣ぐな。」一郎は云ひながら又あるきました。けれどもこんどは楢夫がころびました。そして深く雪の中に手を入れてしまって急に起きあがりもできずおじぎのときのやうに頭をさげてそのまま泣いてゐたのです。一郎はすぐ走り戻ってだき起しました。そしてその手の雪をはらってやりそれから、
「さあも少しだ。歩げるが。」とたづねました。
「うん」と楢夫は云っていましたがその眼はなみだで一杯になりじっと向ふの方を見、口はゆがんで居りました。
 雪がどんどん落ちて来ます。それに風が一そうはげしくなりました。二人は又走り出しましたけれどももうつまづくばかり一郎がころび楢夫がころびそれにいまはもう二人ともみちをあるいてるのかどうか前無かった黒い大きな岩がいきなり横の方に見えたりしました。
風がまたやって来ました。雪は塵のやう砂のやうけむりのやう楢夫はひどくせき込んでしまひました。
そこはもうみちではなかったのです。二人は大きな黒い岩につきあたりました。
一郎はふりかへって見ました。二人の通って来たあとはまるで雪の中にほりのやうについてゐました。
「路まちがった。戻らなぃばわがなぃ。」
 一郎は云っていきなり楢夫の手をとって走り出さうとしましたがもうたゞの一足ですぐ雪の中に倒れてしまひました。
 楢夫はひどく泣きだしました。
「泣ぐな。雪はれるうぢ此処に居るべし泣ぐな。」一郎はしっかりと楢夫を抱いて岩の下に立って云ひました。
 風がもうまるできちがひのやうに吹いて来ました。いきもつけず二人はどんどん雪をかぶりました。
「わがなぃ。わがなぃ。」楢夫が泣いて云ひました。その声もまるでちぎるやうに風が持って行ってしまひました。一郎は毛布をひろげてマントのまま楢夫を抱きしめました。
一郎はこのときはもうほんたうに二人とも雪と風で死んでしまふのだと考えてしまひました。いろいろなことがまるでまわり燈籠のやうに見えて来ました。正月に二人は本家に呼ばれて行ってみんながみかんをたべたとき楢夫がすばやく一つたべてしまっても一つを取ったので一郎はいけないというやうにひどく目で叱ったのでした、そのときの楢夫の霜やけの小さな赤い手などがはっきり一郎に見えて来ました。いきが苦しくてまるでえらえらする毒をのんでいるやうでした。一郎はいつか雪の中に座ってしまってゐました。そして一そう強く楢夫を抱きしめました。
……
 
 ここでの風は過酷です。一刻一刻、兄弟を死の方向に推し進めるものとしてあります。そして、風がやんで静かになった時、ふたりは地獄にいました。
多くの仏教説話にあるように、棘でできた地面をはだしで歩かされる子どもたち、鞭で追いたてる鬼、一郎は必死に楢夫をかばって歩きます。
 
……
「楢夫は許して下さい、楢夫は許して下さい。」一郎は泣いて叫びました。
「歩け。」鞭が又鳴りましたので一郎は両腕であらん限り楢夫をかばいました。かばひながら一郎はどこからか
「にょらいじゅりょうぼん第十六。」というような語がかすかな風のやうに又匂のやうに一郎に感じました。すると何だかまわりがほっと楽になったやうに思って
「にょらいじゅりょうぼん。」と繰り返してつぶやいてみました。すると前の方を行く鬼が立ちどまって不思議さうに一郎をふりかへって見ました。列もとまりました。どう云うわけか鞭の音も叫び声もやみました。しぃんとなってしまったのです。気がついて見るとそのうすくらい赤い瑪瑙の野原のはずれがぼうっと黄金いろになってその中を立派な大きな人がまっすぐにこっちへ歩いて来るのでした。どう云ふわけかみんなはほっとしたやうに思ったのです。
                                 …… 
 
 「にょらいじゅりょうぼん第十六。」―「如来寿量品第十六」―は、『妙法蓮華経』(『法華経』)の第十六章で、教えを説く釈迦牟尼仏の寿命の量(永遠)、常在不滅、人の心を戒めるために稀に姿を現すこと、などを説き、『法華経』後半の最も重要な部分とされています。その重要な章の題が聞こえることで、地獄からの脱却を示しています。
ここで風は〈風のやうに匂のやうに〉と、仏の教えが苦痛を消し去ることの比喩となっています。それは〈黄金いろの輝く立派な大きな人〉の登場でした。
   
……
その人の足は白く光って見えました。実にはやく実にまっすぐにこっちへ歩いて来るのでした。まっ白な足さきが二度ばかり光りもうその人は一郎の近くへ来ていました。
 一郎はまぶしいやうな気がして顔をあげられませんでした。その人ははだしでした。まるで貝殻のやうに白くひかる大きなすあしでした。くびすのところの肉はかがやいて地面まで垂れてゐました。大きなまっ白なすあしだったのです。けれどもその柔らかなすあしは鋭い鋭い瑪瑙のかけらをふみ燃えあがる赤い火をふんで少しも傷つかず又灼けませんでした。地面の棘さえ又折れませんでした。
「こはいことはないぞ。」微かに微かにわらひながらその人はみんなに云ひました。その大きな瞳は青い蓮のはなびらのやうにりんとみんなを見ました。みんなはどう云ふわけともなく一度に手を合せました。
「こはいことはない。おまへたちの罪はこの世界を包む大きな徳の力にくらべれば太陽の光とあざみの棘のさきの小さな露のやうなもんだ。なんにもこはいことはない。」
 いつの間にかみんなはその人のまわりに環になって集って居りました。さっきまであんなに恐ろしく見えた鬼どもがいまはみなすなほにその大きな手を合せ首を低く垂れてみんなのうしろに立ってゐたのです。
 その人はしづかにみんなを見まはしました。
「みんなひどく傷を受けてゐる。それはおまへたちが自分で自分を傷つけたのだぞ。けれどもそれは何でもない、」その人は大きなまっ白な手で楢夫の頭をなでました。楢夫も一郎もその手のかすかにほほの花のにほひのするのを聞きました。そしてみんなのからだの傷はすっかり癒っていたのです。
 一人の鬼はいきなり泣いてその人の前にひざまづきました。それから頭をけはしい瑪瑙の地面に垂れその光る足を一寸手でいたゞきました。
 その人は又微かに笑ひました。すると大きな黄金いろの光が円い輪になってその人の頭のまはりにかゝりました。その人は云ひました。
「ここは地面が剣でできてゐる。お前たちはそれで足やからだをやぶる。さうお前たちは思ってゐる、けれどもこの地面はまるっきり平らなのだ、さあご覧。」
 その人は少しかゞんでそのまっ白な手で地面に一つ輪をかきました。みんなは眼を擦ったのです。又耳を疑がったのです。今までの赤い瑪瑙の棘ででき暗い火の舌を吐いてゐたかなしい地面が今は平らな平らな波一つ立たないまっ青な湖水の面に変りその湖水はどこまでつづくのかはては孔雀石の色に何条もの美しい縞になり、その上には蜃気楼のやうにそしてもっとはっきりと沢山の立派な木や建物がじっと浮んでゐたのです。それらの建物はずうっと遠くにあったのですけれども見上げるばかりに高く青や白びかりの屋根を持ったり虹のやうないろの幡が垂れたり、一つの建物から一つの建物へ空中に真珠のやうに光る欄干のついた橋廊がかかったり高い塔はたくさんの鈴や飾り網を掛けそのさきの棒はまっすぐに高くそらに立ちました。それらの建物はしんとして音なくそびえその影は実にはっきりと水面に落ちたのです。
 またたくさんの樹が立ってゐました。それは全く宝石細工としか思はれませんでした。はんの木のやうなかたちでまっ青な樹もありました。楊に似た木で白金のやうな小さな実になってゐるのもありました。みんなその葉がチラチラ光ってゆすれ互にぶっつかり合って微妙な音をたてるのでした。
 それから空の方からはいろいろな楽器の音がさまざまのいろの光のこなと一所に微かに降って来るのでした。もっともっと愕いたことはあんまり立派な人たちのそこにもここにも一杯なことでした。ある人人は鳥のやうに空中を翔けていましたがその銀いろの飾りのひもはまっすぐにうしろに引いて波一つたたないのでした。すべて夏の明方のやうないい匂で一杯でした。ところが一郎は俄かに自分たちも又そのまっ青な平らな平らな湖水の上に立ってゐることに気がつきました。けれどもそれは湖水だったでせうか。いいえ、水ぢゃなかったのです。硬かったのです。冷たかったのです、なめらかだったのです。それは実に青い宝石の板でした。板ぢゃない、やっぱり地面でした。あんまりそれがなめらかで光っていたので湖水のやうに見えたのです。
 一郎はさっきの人を見ました。その人はさっきとは又まるで見ちがへるようでした。立派な瓔珞をかけ黄金の円光を冠りかすかに笑ってみんなのうしろに立ってゐました。そこに見えるどの人よりも立派でした。金と紅宝石を組んだやうな美しい花皿を捧げて天人たちが一郎たちの頭の上をすぎ大きな碧や黄金のはなびらを落して行きました。
 そのはなびらはしづかにしづかにそらを沈んでまゐりました。
 さっきのうすくらい野原で一諸だった人たちはいまみな立派に変っていました。一郎は楢夫を見ました。楢夫がやはり黄金いろのきものを着、瓔珞も着けていゐのです。それから自分を見ました。一郎の足の傷や何かはすっかりなほっていまはまっ白に光りその手はまばゆくいい匂だったのです。
 みんなはしばらくただよろこびの声をあげるばかりでしたがそのうちに一人の子が云ひました。
「此処はまるでいゝんだなあ、向ふにあるのは博物館かしら。」
 その巨きな光る人が微笑って答へました。
「うむ。博物館もあるぞ。あらゆる世界のできごとがみんな集まってゐる。」
 そこで子供らは俄かにいろいろなことを尋ね出しました。一人が云ひました。
「ここには図書館もあるの。僕アンデルゼンのおはなしやなんかもっと読みたいなあ。」
 一人が云ひました。
「ここの運動場なら何でも出来るなあ、ボールだって投げたってきっとどこまでも行くんだ。」
 非常に小さな子は云ひました。
「僕はチョコレートがほしいなあ。」
 その巨きな人はしづかに答えました。
「本はここにはいくらでもある。一冊の本の中に小さな本がたくさんはひっているやうなのもある。小さな小さな形の本にあらゆる本のみな入っているやうな本もある、お前たちはよく読むがいい。運動場もある、そこでかけることを習ふものは火の中でも行くことができる。チョコレートもある。ここのチョコレートは大へんにいゝのだ。あげよう。」その大きな人は一寸空の方を見ました。一人の天人が黄いろな三角を組みたてた模様のついた立派な鉢を捧げてまっすぐに下りて参りました。そして青い地面に降りて虔しくその大きな人の前にひざまづき鉢を捧げました。
「さあたべてごらん。」その大きな人は一つを楢夫にやりながらみんなに云ひました。みんなはいつか一つずつその立派な菓子を持ってゐたのです。それは一寸嘗めたときからだ中すうっと涼しくなりました。舌のさきで青い蛍のやうな色や橙いろの火やらきれいな花の図案になってチラチラ見えるのでした。たべてしまったときからだがピンとなりました。しばらくたってからだ中から何とも云へないいゝ匂がぼうっと立つのでした。
「僕たちのお母さんはどっちに居るだろう。」楢夫が俄かに思いだしたやうに一郎にたずねました。 
……
 
 〈そのひと〉のしろく大きな足、高い背、そして蓮の花のようにに青い瞳は、龍樹著『摩訶般若波羅蜜経』(成立年不詳)の注釈書、『大智度論』の四に述べられる、仏の身に備わる三十二の吉相のなかで、一、足下安平立相〈土ふまずがないこと〉、四、足跟広平相(踵がおおきくてしっかりしている)、二〇. 大直身相(身体が広大端正で比類が無い)二九、真青眼相(瞳は青蓮華のように青い)を示すものです。この姿は「小岩井農場」を始め多くの作品に登場します。賢治にとって最も崇敬するものの姿を表現したものだったのでしょう。
 『大智度論』を漢訳したのは、『法華経』と同じく鳩摩羅什(344〜413あるいは350〜409)でした。
 〈そのひと〉の言葉は、すべてのものへのおおきな〈許し〉でした。
 ここで描かれる世界は、多くの仏典にもみられるものと思いますが、筆者が考えるのは『阿弥陀経』です。『阿弥陀経』は大多数の宗派で葬儀の際に読まれるものです。そのなかで、〈師〉が、教えを求める人たちのために語った、仏国土の様と共通するものがたくさんあります(注)。
 管見した限りですが、『阿弥陀経』に描かれる世界には、鈴をつけた網に飾られ、金、銀、青玉、水晶をめぐらした石垣、金、銀、青玉、水晶、赤真珠、碼碯、琥珀からできている木があり、天上では楽器がいつも演奏され、夜三度、昼三度、天上のマンダーラヴァ(曼陀羅華)の花の雨を降らせ、また白鳥、帝釈鴫、孔雀がいて合唱し、並木には鈴をつけた網が張り巡らされ風に快い音をたてていると記されます。筆者は初めて読んだとき、まるで遊園地のようだと思いました。
 ここに賢治は、子どもたちの大好きな博物館や図書館を登場させ、チョコレートを夢見させます。〈そのひと〉の食べさせてくれたチョコレートは、美味しさに加えて、美しい色や花を見せる素敵なものでした。
 賢治は、死にゆくものの世界を、現世ではありえない、美しく豪華で、安らかな場所として描き、仏の救済の意思を描いています。
 
……
 するとその大きな人がこっちを振り向いてやさしく楢夫の頭をなでながら云ひました。
「今にお前の前のお母さんを見せてあげやう。お前はもうここで学校に入らなければならない。それからお前はしばらく兄さんと別れなければならない。兄さんはもう一度お母さんの所へ帰るんだから。」
 その人は一郎に云ひました。
「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ。お前はすなおないゝ子供だ。よくあの棘の野原で弟を棄てなかった。あの時やぶれたお前の足はいまはもうはだしで悪い剣の林を行くことができるぞ。今の心持を決して離れるな。お前の国にはここから沢山の人たちが行ってゐる。よく探してほんたうの道を習へ。」その人は一郎の頭を撫でました。一郎はただ手を合せ眼を伏せて立ってゐたのです。それから一郎は空の方で力一杯に歌ってゐるいい声の歌を聞きました。その歌の声はだんだん変りすべての景色はぼうっと霧の中のやうに遠くなりました。ただその霧の向うに一本の木が白くかゞやいて立ち楢夫がまるで光って立派になって立ちながら何か云ひたさうにかすかにわらってこっちへ一寸手を延ばしたのでした。
……
 
 ここで、二人の別離が告げられます。死に向かう楢夫はここに留まって学び、一郎は、もとの世界に戻り、楢夫を助けた心を忘れず、〈ほんたうの道〉を学べ、と。
 
……
一郎が「楢夫」と叫んだとき、まっ白な雪とまばゆい青空の光のなかにいました。一郎は楢夫を抱いたまま助かったのです。楢夫は林檎のやうに赤い頬で、さっき別れた時のやうにかすかに笑って息絶えてゐたのでした。
 
 この作品は、命を奪う自然の恐ろしさと、地獄の世界、そしてそこからの転生と蘇りを描いて、大きなスケールと時間を感じさせます。また全編を通して、小さなものへの優しいまなざしが静かに描かれます。
 楢夫の死を描きますが、楢夫のその後の世界が美しく安らかだという設定に、読む人の心は救われます。かすかに笑っていた楢夫はその安寧を示すのでしょう。
 しかし生きた一郎のまえには、弟の死という現実が残されて、物語は終ります。賢治にとって、仏の救済とは、あくまで死にゆく者の安らかな世界であり、生きるものは〈ほんたうの道〉を求めて行く、ある意味苦難の道だったのだと思います。この思いはその後「銀河鉄道の夜」をはじめ多くの作品に受け継がれ、終生変わらない賢治の課題であったのだと思います。
 ここでの風は、まず不吉な前兆として現れ、次に絶え間なく人を襲い、命を危険にさらす吹雪として描かれます。自然の厳しさの厳然とした体現でもある風、それは物語の展開のなかで迫力ともなり、読む者にいたたまれないほどの切迫感でせまります。そして、救いの前兆として、仏の言葉を乗せた、いい匂いの風があります。
 風をみつめつづけた賢治が、その本質を物語の骨組みの中に見ごとに生かしていると思います。
 
 
注:中村元・早島鏡正・紀野一義訳注『浄土三部経 下』(観無量寿経・阿弥陀経)(岩波文庫 1964)

参考文献:坂本幸夫・岩本裕訳注『法華経』 上・中・下
(岩波文庫1962・1964・ 1967)