雲もぎらぎらにちぢれ
木が還照のなかから生えたつとき
翻へったり砕けたり或は全い空明を示したり
吹雪はかがやく流沙のごとくに
地平はるかに移り行きます
それはあやしい火にさへなって
ひとびとの視官を眩惑いたします
或は燃えあがるボヘミヤの玻璃
すさまじき光と風との奏鳴者
そも氷片にまた趨光の性あるか
はた天球の極を索むる泳動か
そらのフラスコ、
四万アールの散乱質は
旋る日脚に従って
地平はるかに遷り行きます
その風の脚
まばゆくまぶしい光のなかを
スキップといふかたちをなして
一の黒影こなたへ来れば
いまや日は乱雲に落ち
そのヘりは烈しい鏡を示します
(「春と修羅第二集」)
冷たい吹雪の風景ですが、ここには光があふれています。
定稿では削られますが、下書稿(一)、「盛岡中学校校友会雑誌」第41号(1927年編集)発表形では、詩の冒頭は、
これは吹雪が映したる
硼砂の嵐Rap Nor(湖)の幻燈でございます
まばゆい流沙の蜃気楼でございます。 この地方では吹雪はこんなに甘くあたたかくて
恋人のやうにみんなの胸を切なくします
があり、吹雪のなかに、Rap Nor(湖)や流沙への賢治の憧れが反映され、吹雪への感情が肯定的になっているのが感じられます。
流沙は、中国、西北地区、タクラマカン砂漠の辺りです。崑崙山脈北麓を通ってパミールを越えて行くシルクロードの要衝の地でした。
〈Rap Nor(湖)〉と賢治が記したものは、中央アジア、タリム盆地のタクラマカン砂漠北東部に存在したロプノール湖で、タリム川の流入によってできた湖が、強い日差しによって、蒸発するか、地中に浸透するかして、塩分が蓄積して塩湖となりました。堆積や浸食によって、タリム川の流路が大きく変動し、湖の位置が南北に移動するので「さまよえる湖」と言われてきて、1921年に復活しました。
ここを含む「西域」は一般には中国本土から西方諸国をさし、現在では一般には中国新疆ウイグル自治区域を指しますが、政治的、思想的、または時代によっても変わります。賢治の解釈は、はっきりしませんが、仏教発祥の地、及び仏教伝来の道を広く西域と捉えていたと思われます。
この地方への関心が強かったことは、西域を感じさせる場所が、「雁の童子」、「インドラの網」、〔学者アラムハラドの見た着物〕」など多数の童話の背景となり、多くの童話や詩で西域に関する用語が見られることでもわかります。
賢治の西域に関する情報源で、唯一書名が明らかなものは、S.ヘディン『トランス・ヒマラヤ』(全3巻)で、「装景手記手帳」に、〈trans Himalayaの高原の住民たち〉、〈Hedinも空想して〉の語句が見えます。ヘディンの1906年〜1908年、第三回目のチベット探検の記録で、スウェーデン語版から、英訳とドイツ語訳が出版され、賢治がどちらかに触れていた可能性があります。
また、西本願寺大谷光瑞を中心とした西域調査隊により、1902年から1914年の間に3回西域の探検が行われました。この情報は新聞、雑誌にも紹介され、旅行記なども出て、賢治が触れていた可能性はあります。
1915年、この成果として690余種を収めた図録『西域考古図譜』が大日本国學社から発行されました。賢治の西域に関する表現が視覚的なのは、この図版にも触れていた可能性を示します。
また賢治が15才の時から何度か仏教講話を受けた島地大等が、その1902年の第一次探検隊に参加していて、その関わりのなかで情報を得ていたことも考えられます。
もうひとつ、1901年〜1906年、O.スタインも西域に入り、ロプノール地方の首都で、ミーランの廃墟の壁画を発見し、『カセイ砂漠の廃墟』(ロンドン 1912)を表しました。「雁の童子」を始め賢治の童話に多出する壁画や、登場者たちは、この書の図版からの発想とも見られます。ただ、いずれも具体的な繋がりは解明できていません。
この詩と同一日付の詩が3篇あります。短いので、以下に記します。
四一〇 車中 一九二五、二、一五
ばしゃばしゃした狸の毛を耳にはめ
黒いしゃっぽもきちんとかぶり
まなこにうつろの影をうかべ
……肥った妻と雪の鳥……
凛として
ここらの水底の窓ぎわに腰かけてゐる
ひとりの鉄道工夫である
……風が水より稠密で
水と氷は互に遷る
稲沼原の二月ころ……
なめらかででこぼこの窓硝子は
しろく澱んだ雪ぞらと
ひょろ長い松とをうつす
四一一 未来圏からの影 一九二五、二、一五、
吹雪はひどいし
けふもすさまじい落磐
……どうしてあんなにひっきりなし
凍った汽笛を鳴らすのか……
影や恐ろしいけむりのなかから
蒼ざめてひとがよろよろあらはれる
それは氷の未来圏からなげられた
戦慄すべきおれの影だ
四一五 〔暮れちかい 吹雪の底の店さきに〕一九二五、二、一五、
暮れちかい
吹雪の底の店さきに
萌黄いろしたきれいな頸を
すなほに伸ばして吊り下げられる
小さないちはの家鴨の子
……屠者はおもむろに呪し
鮫の黒肉はわびしく凍る……
風の擦過の向ふでは
にせ巡礼の鈴の音
「四一〇 車中」 では、車窓の淡々とした風景の中の日常を、「四一一 未来圏からの影 」では、落盤の続く路線の電車で自身の未来の不安の幻影を、四一五 〔暮れちかい 吹雪の底の店さきに〕では、吹雪に埋もれる食料品店のつるされる家鴨の子、凍った鮫肉、のわびしさや、〈にせ巡礼〉への腹だたしさ、憐みと、3篇とも、風のなかに沈み込むように暗く、どうしようもない風景と日常を描いています。
なぜ、この作品は、冷たくつらい吹雪をこのように明るく表現できたか、それは日差しが回復したせいでしょうか。気象条件の変化が賢治にとってどんなに重要だったかが感じられます。
吹雪はかがやく流沙のごとくに
流沙は水に流れる砂を意味しますが、その比喩には、西域、流沙へのあこがれも含まれています。そこに太陽光が注がれることによって、
それはあやしい火にさへなって
ひとびとの視官を眩惑いたします
或は燃えあがるボヘミヤの玻璃
と、また違った表情となります。
そも氷片にまた趨光の性あるか
はた天球の極を索むる泳動か
そらのフラスコ、
四万アールの散乱質は
旋る日脚に従って
地平はるかに遷り行きます
吹雪は風にのって、あらゆる方向に広く高く輝き動きます。〈ぎらぎらの雲〉、〈流沙〉、〈ボヘミヤの玻璃〉、〈フラスコ〉、〈四万アールの散乱質〉……。そこには何とたくさんの輝きや形を表す言葉が刻まれていることでしょう。
趨光性は、生物が光の刺激に反応して移動することですが、あたかもそう思えるほどに、氷片―吹雪―は、自在に光のなかを駆け巡っているのです。
〈地平はるかに遷り行〉くのは、〈風の脚〉です。〈風の脚〉は、1223年ころ成立の『海道記』(作者未詳)にすでに見える言葉で、風が地上の草木を靡かせて吹き過ぎることを、人の脚に喩えた視覚的表現です。さらに〈スキップ〉という人の動きを表す言葉を重ね、その軽やかさを捉えています。その動きは雲を動かし、太陽は隠れて淵のみが怪しく輝きます。これも賢治の好きな光景です。
ここに音は一切描かれません。〈奏鳴〉するものは光と輝きと風、生まれたのは躍動する風景でした。
光―それは、輝きを生み、ボヘミアガラスの色彩や、西域という地理的な遠さ、広さ、シルクロードの時代という時間的な遠さにまで想像を飛ばします。
風は、そこに流れを生み、大地の果て、そして宇宙まで続く世界を感じさせます。
それは私が述べるまでもなく、詩の言葉そのままに、〈すさまじき光と風との奏鳴者〉なのです。賢治のモチーフ―光と風―を、この詩ほど強く感じたことはありません。
加えて、風景に究極の理想だった仏教に繋がる西域を感じた賢治の感動が、この光と風の表現を可能にしたのではないでしょうか。
参考文献
金子民雄『宮沢賢治と西域思想』(中公文庫 1994 初出 白水社 1988)