このお話は、5月の農園に繰り広げられる、チューリップと太陽と風、農園主と洋傘直しのファンタジーです。
ここでは、風は、1、雲を動かす。2、ものを揺らす。3、光を左右する。という3つの動きがあります。それぞれが、風景をつくり、登場人物の心に作用して、怪しい雰囲気を作り出します。
この農園のすもものかきねはいっぱいに青じろい花をつけてゐます。 雲は光って立派な玉髄の置物です。四方の空を繞ります。
すもものかきねのはづれから一人の洋傘直しが荷物をしょって、この月光をちりばめた緑の障壁に沿ってやって来ます。
てくてくあるいてくるその黒い細い脚はたしかに鹿に肖てゐます。そして日が照ってゐるために荷物の上にかざされた赤白だんだらの小さな洋傘は有平糖でできてるやうに思われます。
(洋傘直し、洋傘直し、なぜそうちらちらかきねのすきから農園の中をのぞくのか。)
そしててくてくやって来ます。有平糖のその洋傘はいよいよひかり洋傘直しのその顔はいよいよ熱って笑ってゐます。
(洋傘直し、洋傘直し、なぜ農園の入口でおまへはきくっと曲るのか。農園の中などにおまへの仕事はあるまいよ。)
洋傘直しは農園の中へ入ります。しめった五月の黒つちにチュウリップは無雑作に並べて植えられ、一めんに咲き、かすかにかすかにゆらいでゐます。
(洋傘直し、洋傘直し。荷物をおろし、おまえは汗を拭いてゐる。そこらに立ってしばらく花を見やうというのか。そうでないならそこらに立っていけないよ。)……以下ルビは省略
洋傘直しを迎えるのは、まずスモモの白い花がたくさんついた農園の垣根です。それは〈月光をちりばめた緑の障壁〉と表現されます。日光の真下に輝く月光―それは何を表すのでしょう。白い花に秘められた冷たい輝きでしょうか。作者は植物の本質をとらえようとしています。
洋傘直しの赤白の縞模様は傘は、菓子の〈有平糖〉のよう、と作者は明るく甘いイメージを持たせます。
アルヘイはポルトガル語alf ēloaで砂糖、またはそれで作った砂糖菓子の意味です。1600年ころ、金平糖などとともにヨーロッパから日本に伝わり、『太閤記』(1625年)の記述にもあります。
砂糖を煮詰めて冷やしハリハリした食感にしたものですが、日本でさらに進化し、着色、繊細な細工を施すようになりました。『古今名物御前菓子秘伝抄』(享保3(1718)年)には詳しい製法が載っているほか、『守定漫稿』には、嘉永年間(1848−54)に京都から江戸に製法が伝わったとされています.
金平糖とともに、賢治にとっては美しく高価で子どもたちに与えたいと思うものの一つでしょうか。
洋傘直しは、各戸をまわって洋傘を直す職業ですが、このお話にもあるように、刃物研ぎもやっていたようです。
また歌稿A186(大正三年四月)〈シャガ咲きて霧雨ふりて旅人はかうもりがさの柄をかなしめり〉があって、これは売薬商人ですが、やはり洋傘を持っています。
いずれにしても行商人に対して、ある種のさすらう人のイメージを、賢治は強く持ち続けていたようです。そのわびしさよりも自由さへの憧憬をもこめて、洋傘は〈有平糖〉のようだったのでしょうか。 ……
よっぽど西にその太陽が傾いて、いま入ったばかりの雲の間から沢山の白い光の棒を投げそれは向ふの山脈のあちこちに落ちてさびしい群青の泣き笑ひをします。
有平糖の洋傘もいまは普通の赤と白とのキャラコです。
それから今度は風が吹きたちまち太陽は雲を外れチュウリップの畑にも不意に明るく陽が射しました。まっ赤な花がぷらぷらゆれて光ってゐます。……
〈雲の間から沢山の白い光の棒を投げ〉はチンダル現象―微小な粒子が分散している所に、光が通ると散乱して通路がその斜めや横からでも光って見える現象―で、賢治が後に〈光のパイプオルガン〉(「告別」、「春と修羅第二集」)と記した風景です。ここでは、夕暮れ近い山々に色を変化させる〈さびしい群青の泣き笑い〉となります。
風は雲を動かし、突然チュウリップの畑は輝きます。風は洋傘も揺らし寂しくしますが、チュウリップは、刃物を研ぐリズムに絡まるように、陽に光って揺れています。
風はどんどん吹いて、日差しの中に五月の風景を作りました。ヒバリも鳴きはじめています。
……
そのあとで陽が又ふっと消え、風が吹き、キャラコの洋傘はさびしくゆれます。
それから洋傘直しは缶の水をぱちゃぱちゃこぼしながら戻って来ます。
鋼砥の上で金剛砂がぢゃりぢゃり云ひチュウリップはぷらぷらゆれ、陽が又降って赤い花は光ります。
そこで砥石に水が張られすっすと払はれ、秋の香魚の腹にあるやうな青い紋がもう刃物の鋼にあらはれました。
ひばりはいつか空にのぼって行ってチーチクチーチクやり出します。高い処で風がどんどん吹きはじめ雲はだんだん融けて行っていつかすっかり明るくなり、太陽は少しの午睡のあとのやうにどこか青くぼんやりかすんではゐますがたしかにかがやく五月のひるすぎを拵へました。……
……
太陽はいまはすっかり午睡のあとの光のもやを払ひましたので山脈も青くかゞやき、さっきまで雲にまぎれてわからなかった雪の死火山もはっきり土耳古玉のそらに浮きあがりました。
洋傘直しは引き出しから合せ砥を出し一寸水をかけ黒い滑らかな石でしづかに練りはじめます。それからパチッと石をとります。
(おお、洋傘直し、洋傘直し、なぜその石をそんなに眼の近くまで持って行ってじっとながめてゐるのだ。石に景色が描いてあるのか。あの、黒い山がむくむく重なり、その向ふには定めない雲が翔け、渓の水は風より軽く幾本の木は険しい崖からからだを曲げて空に向ふ、あの景色が石の滑らかな面に描いてあるのか。)
洋傘直しは石を置き剃刀を取ります。剃刀は青ぞらをうつせば青くぎらっと光ります。
それは音なく砥石をすべり陽の光が強いので洋傘直しはポタポタ汗を落します。今は全く五月のまひるです。
畑の黒土はわずかに息をはき風が吹いて花は強くゆれ、唐檜も動きます。
洋傘直しは剃刀をていねいに調べそれから茶いろの粗布の上にできあがった仕事をみんな載せほっと息して立ちあがります。
そして一足チュウリップの方に近づきます。……
風は花を揺すり、これから始まる二人のドラマの序曲のようです。刃物の研代を一部お負けしてもらったお礼に、園丁は洋傘直しを自慢のチュウリップ畑に案内します。園丁のチュウリップ自慢が始まります。チュウリップの形容が巧みです。
「ね、此の黄と橙の大きな斑はアメリカから直かに取りました。こちらの黄いろは見てゐると額が痛くなるでせう。」
「ええ。」
「この赤と白の斑は私はいつでも昔の海賊のチョッキのやうな気がするんですよ。ね。
それからこれはまっ赤な羽二重のコップでせう。この花びらは半ぶんすきとほっているので大へん有名です。ですからこいつの球はずゐぶんみんなで欲しがります。」
そして〈小さな白い花〉を見た時、〈チュウリップの幻術〉がはじまります。
……
「さうです、あれは此処では一番大切なのです。まあしばらくじっと見詰めてごらんなさい。どうです、形のいゝことは一等でしょう。」
洋傘直しはしばらくその花に見入ります。そしてだまってしまひます。
「ずいぶん寂かな緑の柄でしょう。風にゆらいで微かに光っているやうです。いかにもその柄が風に靭ってゐるやうです。けれども実は少しも動いて居りません。それにあの白い小さな花は何か不思議な合図を空に送ってゐるやうにあなたには思はれませんか。」
洋傘直しはいきなり高く叫びます。
「ああ、さうです、さうです、見えました。
けれども何だか空のひばりの羽の動かしやうが、いや鳴きやうが、さっきと調子をちがへて来たではありませんか。」
「さうでせうとも、それですから、ごらんなさい。あの花の盃の中からぎらぎら光ってすきとほる蒸気が丁度水へ砂糖を溶したときのやうにユラユラユラユラ空へ昇って行くでせう。」
「ええ、ええ、さうです。」
「そして、そら、光が湧いていゐるでせう。おお、湧きあがる、湧きあがる、花の盃をあふれてひろがり湧きあがりひろがりひろがりもう青ぞらも光の波で一ぱいです。山脈の雪も光の中で機嫌よく空へ笑ってゐます。湧きます、湧きます。ふう、チュウリップの光の酒。どうです。チュウリップの光の酒。ほめて下さい。」……
風が光を揺らし、チュウリップを揺らし、花から光が湧いて、空に拡がって、風景はみな光の酒に満たされ、2人はチュウリップの酒に酔っていきます。
その酔いと幻想の描きかたは、光に心を吸いとられたように、光のなかを漂っているようです
……
「全くさうです。そうら。そら、火です、火です。火がつきました。チュウリップ酒に火がはひったのです。」
「いけない、いけない。はたけも空もみんなけむり、しろけむり、」
「パチパチパチパチやってゐる。」
「どうも素敵に強い酒だと思ひましたよ。」
「さうさう、だからこれはあの白いチュウリップでせう。」
「さうでしょうか。」
「さうです。さうですとも。ここで一番大事な花です。」
「ああ、もうよほど経ったでせう。チュウリップの幻術にかかってゐるうちに。もう私は行かなければなりません。さやうなら。」
「さうですか、ではさやうなら。」
洋傘直しは荷物へよろよろ歩いて行き、有平糖の広告つきのその荷物を肩にし、もう一度あのあやしい花をちらっと見てそれからすももの垣根の入口にまっすぐに歩いて行きます。
園丁は何だか顔が青ざめてしばらくそれを見送りやがて唐檜の中へはひります。
太陽はいつか又雲の間にはひり太い白い光の棒の幾条を山と野原とに落します
ついに光に火が入り、幻想は終わります。
一つの謎めいた言葉として、〈これはあの白いチュウリップでしょう。〉を残して。
洋傘直しはよろめきながら農園をあとにし、園丁は青ざめて仕事に戻って行きました。
〈白いチュウリップ〉、小さくて、秘かに咲きながら、風に空に合図を送っているもの、風に、ゆらいで微かに光っているようで、その柄が靭っているようで、実は少しも動いていないもの、この相反する二つの意味を含む白く小さな花、この不可思議さは、何を意味しているのでしょうか。
作品中に( )でくくられた声は誰のものでしょうか。いろいろと不思議なことがあります。
この作品の生成過程をみながら、次稿で考えたいと思います。
参考文献
小学館『日本国語大辞典』 第一巻
小林祥次郎『くいもの 食の起源と博物誌』(勉誠出版 2011)