神話乃至は擬人的なる説述は
小官のはなはだ愧づるところではあるが
仮にしばらく上古歌人の立場に於て
黒く淫らな雨雲に云ふ
小官はこの峠の上のうすびかりする浩気から
またここを通る野ばらのかほりあるつめたい風から
また山谷の凄まじくも青い刻鏤から
心塵身劬ひとしくともに濯はうと
今日の出張日程に
辛くも得たる数頃を
しかく貴重に立つのであるが
そもそも黒い雨雲よ
おまへは却って小官に
異常な不安を持ち来し
謂はゞ殆んど古事記に言へる
そら踏む感をなさしめる
その故けだしいかんとならば
過ぎ来し五月二旬の間
淫らなおまへら雨雲族は
西の河谷を覆って去らず
日照ために常位を欠けば
稲苗すべて徒長を来し
あるひは赤い病斑を得た
おほよそかゝる事態に於て
県下今期の稲作は
憂慮なくして観るを得ず
そらを仰いで烏乎せしことや
日日にはなはだ数度であった
然るに昨夜
かの練達の測候長は
断じて晴れの予報を通じ
今朝そら青く気は澄んで
車窓シガーのけむりをながし
峡の二十里 平野の十里
旅程明るく午を越すいまを
何たる譎詐何たる不信
この山頂の眼路遥かなる展望は
怒り身を噛むごとくである
第一おまへがここより東
鶯いろに装ほひて
連亘遠き地塊を覆ひ
はては渺茫視界のきはみ
太洋をさへ犯すこと
第二にはかの層巻雲や
青い虚空に逆って
おまへの北に馳けること
第三 暗い気層の海鼠
五葉の山の上部に於て
あらゆる淫卑なひかりとかたち
その変幻と出没を
おまへがやゝもはゞからぬ
これらを綜合して見るに
あやしくやはらかな雨雲よ
たとへ数箇のなまめく日射しを許すとも
非礼の香気を風に伝へて送るとも
その灰黒の翼と触手
大バリトンの流体もって
全天抛げ来すおまへの意図は
はや瞭として被ひ得ぬ
しかればじつに小官は
公私あらゆる立場より
満腔不満の一瞥を
最后にしばしおまへに与へ
すみやかにすみやかに
この山頂を去らうとする
賢治は、〈測候長〉の〈断じて晴れの予報〉を信じて、心に鬱積したものを洗おうと出張の日程を調整して、〈峡の二十里 平野の十里〉、車窓に広がる青空のなか、峠にやってきました。
しかし、そこには期待していた〈浩気〉―天上の清らかな気、灝気と同義か―も、〈野ばらのかほりあるつめたい風〉も、山々の〈凄まじくも青い刻鏤〉―金属を彫りつけたような鋭い稜線―も無く、心乱される雨雲が満ちていました。思えば、その黒雲のために下の村々では日照不足となり、稲は徒長し、いもち病を起こしていたのです。それにこれ以降も、この雲は東に北にそして上空に移動しながら様々な悪影響を及ぼそうとしています。重なる怒りに賢治は、黒雲から贈られるバリトンのような心地よい心揺さぶられる想いと決別して山を降りようとします。
賢治は最初に、〈上古歌人の立場に於て〉、と宣言します。これは万葉歌人でしょうか。万葉集は全20巻、収録されている作品およそ4540首のなかで、雲の詠み込まれている歌は、およそ200首もあります。賢治は万葉集を読んで、そのことを知っていたので、自分も雲に対して一言言おうとしたのです。
雨雲は〈異常な不安を持ち来し/謂はゞ殆んど古事記に言へる/そら踏む感をなさしめ〉ます。 この〈古事記に言へる/そら踏む感〉とは、何でしょうか。
古事記は国作りのお話ですから、神々が雲を踏んで下界に降り立つ場面はたくさんあると思いますが、一例として、『日本古典文学大系 古事記 祝詞』の「邇邇芸命 1天孫降臨」の章に、邇邇芸命(ニニギノミコト)が天空に幾重にもたなびく雲を押し分け、筑紫の日向の高千穂の霊峰に天降ったというくだりがあります。
賢治は、風、雲など自然現象に恋愛感情に近い想いを抱いていることが知られ、この詩は賢治の雨雲に対する、性的な感情が感じられる詩としてよく取り上げられています。この感情は賢治の若い時代から詩中に表れているものと思っていましたが、実際あたってみると、明らかな性的感情の表現は、1927年3月〜8月の日付の詩と、「疾中」収録の詩に集中しています。
しかし、雲に対しては何らかの感情を揺さぶられる思いがありました。
短歌では、以前考察したことのある、〈かなしみ〉、〈さびしさ〉という言葉を含む短歌(注1)にかぎって歌稿Aから拾ってみると、かなりの確率で出現します。いくつか拾うと
大正三年四月
157 いかに雲の原のかなしさあれ草も微風もなべて猩紅の熱
大正五年三月より
300 黒雲をちぎりて土にたゝきつけこのかなしみのかもめ落とせよ
大正六年四月
460 うつろとも雲ともわかぬ青光り影色の丘の肩にのぞめる
大正六年七月
638 わがそらのうすらあかりにしら\/とわきたつ雲はかなしみの雲
大正七年五月以降
674 相つぎて銀雲は窓をよぎれどもねたみは青く室に澱みぬ
678 しろがねの月にむかへばわがまなこかなしき雲をうたがへるかな
賢治作品で〈かなしい〉、〈さびしい〉は、現代の本来の意味だけでなく、広く心の動きを表す場合が多いので、雲に対して心の動揺があったと言えると思います。
『春と修羅』では、
……ああ黒のしやつぽのかなしさ/おきなぐさのはなをのせれば/幾きれうかぶ光酸の雲……(「おきなぐさ」一九二二、五、一七)、
……こここそわびしい雲の焼け野原/風のヂグザグや黄いろの渦/そらがせわしくひるがへる……(「真空溶媒」一九二二、五、一八)
のように、感情と雲が描かれる場合でも、風景としての要素が高いと思います。
「春と修羅第二集」では、
五輪峠のいたゞきで/鉛の雲が湧きまた翔け/南につゞく種山ヶ原のなだらは/渦巻くひかりの霧でいっぱい……以下略(「人首町」一九二四、三、二五、)
などは、一つの情景です。それに対して「二九 休息」 一九二四、四、四、では〈Libido〉という明確な言葉を使います。
中空は晴れてうららかなのに
西嶺の雪の上ばかり
ぼんやり白く淀むのは
水晶球の滃(くもり)のやう
……さむくねむたいひるのやすみ……
そこには暗い乱積雲が
古い洞窟人類の
方向のないLibidoの像を
肖顔のやうにいくつか掲げ……以下略
Libido(リビドー)は精神分析学上では、すべての行為の隠れた動機となる根源的欲望ですが、一般には性的衝動、性欲の意味で用いられます。〈古い洞窟人類の方向のないLibidoの像〉は〈暗い乱積雲〉に、自分の中の明確にできない欲望を感じ取っているのではないかと思います。
雷鳴や稲妻を走らせる雨雲の放電現象を電気―エネルギーを放出するもの―として捉え、そこから黒雲=淫らなという概念が生まれた、という説(注2)もあるのですが、そのような論理的なものでなく、むしろ賢治の自然との一体感と、黒雲の生じる時の気圧や温度などによる体感的な感覚から生まれた概念だと思います。賢治がこの言葉を、ほとんど実際に屋外にいる場合の記述に使っていることからもそう言えると思います。
「一九八 雲」一九二四、九、九では
いっしゃうけんめいやってきたといっても/ねごとみたいな/にごりさけみたいなことだ/……ぬれた夜なかの焼きぼっ杭によっかかり……/おい きゃうだい/へんじしてくれ/そのまっくろな雲のなかから
むしろ雲は友人のような感覚です。
「一五五 〔温かく含んだ南の風が〕一九二四、七、五では、自然に対して賢治が心揺さぶられている様子が描かれますが、ほとんどが風の動きや熱の表現で占められています。
「春と修羅第三集」では、「一〇三三 悪意」一九二七、四、八、一〇三七 「宅地」一九二七、四、一三、では〈黒雲〉は風景の一つですが、「一〇一四 春」一九二七、三、二三、〔エレキや鳥がばしゃばしゃ翔べば〕一九二七、五、一四、では〈雲が淫らな尾を引いて〉、 一〇二五 燕麦の種子をこぼせば〕一九二七、四、四、では〈黒雲は温く妊んで〉といずれも、性的な意味を含む表現となります。「一〇三〇 春の雲に関するあいまいなる議論」一九二七、四、五、では、はっきりと黒雲=恋愛という主張をしています。
あの黒雲が、
きみをぎくっとさせたとすれば
それは群集心理だな
この川すじの五十里に
麦のはたけをさくったり
桑を截ったりやってゐる
われらにひとしい幾万人が
いままで冬と戦って来た情熱を
うらがなしくもなつかしいおもひに変へ
なにかほのかなのぞみに変へれば
やり場所のないその瞳を
みなあの雲に投げてゐる
それだけでない
あのどんよりと暗いもの
温んだ水の懸垂体
あれこそ恋愛そのものなのだ
炭酸瓦斯の交流や
いかさまな春の感応☆
あれこそ恋愛そのものなのだ
さらに一〇三九〔うすく濁った浅葱の水が〕一九二七、四、一八、には、当時心にわだかまっていた女性についてのアイロニックな言葉を雲に投げています。〈基督教徒〉で、〈サラー〉(給与生活者)の女性は、恐らくは当時賢治周辺にいた高瀬露かと思われます。高瀬露の評価は別として、賢治が快く思っていなかったのは確かだとおもいます。
うすく濁った浅葱の水が
けむりのなかをながれてゐる
早池峰は四月にはいってから
二度雪が消えて二度雪が降り
いまあはあはと土耳古玉のそらにうかんでゐる
そのいたゞきに
二すじ翔ける、
うるんだ雲のかたまりに
基督教徒だといふあの女の
サラーに属する女たちの
なにかふしぎなかんがへが
ぼんやりとしてうつってゐる
それは信仰と奸詐との
ふしぎな複合体とも見え
まことにそれは
山の啓示とも見え
畢竟かくれてゐたこっちの感じを
その雲をたよりに読むのである
一〇五三〔おい けとばすな〕一九二七、五、三、では、雲は〈山の上には雲のラムネ〉と清浄な気配です。
一〇八八〔もうはたらくな〕一九二七、八、二〇、になると、
……けれどもあゝまたあたらしく/西には黒い死の群像が湧きあがる/春にはそれは、/恋愛自身とさへも云ひ/考へられてゐたではないか……
日照不足と豪雨で倒れてしまった稲を前に奔走する賢治の姿を描き、雲への想いが変化していることが分かります。
「詩ノート」の「春と修羅第三集」に収められなかった、〔沼のしづかな日照り雨のなかで〕一九二七、七、一〇、でも、
……雨が、雲が、水が、林が/おまへたちでまたわたくしなのであるから/われわれはいったいどうすればいゝのであらう……
一体と思っていた自然が、刃向ってくるのを感じた詩になっています。
「一〇八八 祈り」一九二七、八、二〇、では、農民の対極にある雨雲が、〈稔りある秋を待つのに/無心に暗い雨ぐもよ〉と詠われます。
賢治の心の変化は、その年の、旱害と多雨を繰り返した気候が、次第に農民に被害をもたらしていったことによるのではないでしょうか。
この詩の発想の前年、1926年4月に教師を辞め、農民として自耕する生活をしながら、期待に満ちて農村のために空や風や雲と共に働きはじめました。この年は豊作でした。
この詩の発想の年、雲は日照を妨げ、凶作がせまってきました。1927年、7月中旬の方眼罫手帳の記録には日照不足を憂えるメモがあり、年譜(注3)によれば測候所に調査を依頼しています。
岩手県の稲の収穫高について概略すると、日照不足による凶作が頻繁に起こっています(注4)。
1902(明治35)年 冷夏・暴風雨による大凶作 収穫高21.9万石 減収率62%
1905(明治38)年 冷夏・暴風雨による大凶作 収穫高19.3万石 減収率67%
1913(大正2)年 凶作 収穫高82.0939万石
1924(大正13)年 旱害 収穫高106.5866万石
1926(大正15)年 豊作 収穫高114.7774万石
1927(昭和2)年 冷害による凶作106.1578万石
この作品は、「一〇七二 峠の上で雨雲に云ふ」一九二七、六、一、(「詩ノート」80・81ページ)から発展したもので、作品番号、発想日付とも同じです。
黒く淫らな雨雲よ
……もし翻訳者兼バリトン歌手
清水金太郎氏の口吻をかりて云はゞ……
わたくしはこの峠の上のうすびかりする灝気から
またこゝを通るかほりあるつめたい風から
また山谷の凄まじい青い刻鏤から
わたくしの暗い情炎を洗はうとして
今日の旅程のわづかな絶間を
分水嶺のこの頂点に登って来たのであるが
全体 黒いニムブスよ
……翻訳家兼バリトン歌手
清水金太郎氏の口吻をかりて云はゞだ……
おまへは却ってわたくしを
地球の青いもりあがりに対して
一層強い慾情を約束し
風の城に誘惑しやうとする
けだしそのまがりくねった白樺の枝に
つぐみが黒い木の実をくはえて飛んできて
わたくしを見てあわてゝ遁げて行ったこと
平たく黒い気層のなまこ
五葉山の鞍部に於て
おまへがいろいろのみだらなひかりとかたちとで
あらゆる変幻と出没とを示すこと
おまへの影が巨きな網をつくって
一様にひわいろなるべき山地を覆ひ
わたくしの眼路から
ほとんどそれらの彫刻を迷はせること
これらを綜合して見るに
あやしくやわらかなニムブスよ
……いゝかな
翻訳家兼バリトン歌手の
清水金太郎氏に従へばだぞ……
最后にそれらの凄まじい明暗で
もう全天を被ふべく
且つはそこからセロの音する液体をそゝぐべく
……白極海のラルゴに手をのばす……
みだらな触手をわたくしにのばし
のばらとつかず胸ときめかすあやしい香気を風に送って
湖とも雲ともわかぬしろびかりの平原を東に湛え
たうたうまっくろな尾をひるがへし
……一点なまめくその下の日かげ……
わたくしをとらうと迫るのであるか
背景は同じですが、ここでは、主として雨雲に心乱される賢治の心象が描かれます。〈もし翻訳者兼バリトン歌手/清水金太郎氏の口吻をかりて云はゞ〉に続いて自分の心中を述べる形が3回使われています。
清水 金太郎(しみず きんたろう、1889〜1932)は、バリトン歌手で、田谷力三とともに大正期の浅草オペラを代表するスターでした。賢治が浅草オペラの熱烈な愛好者だったことは伝記的事実です。
灝気(こうき)は天上の清らかな気で、中国由来の言葉です。賢治はこのとき、天にも通じる清らかな気と清らかな香りの冷たい風を期待して、寸暇を惜しんで峠に昇って来たのです。すっかりオペラの歌い手になったような高揚した気分だったのでしょう。
しかしそこにあった黒雲に、賢治の心は乱れます。風は、期待していた〈かほりあるつめたい風〉はなく、慾情に満ちた〈風の城〉であり、〈あやしい香気〉を運ぶ風で、すっかり黒雲の側のものでした。それでも賢治は黒雲の誘惑に身を任せ、浸っています。この詩には古代への思いも、農作物への憂いもありません。
賢治が、「春と修羅第三集」の編集のために、この詩を「詩ノート」から選び、推敲したのは、黒雲拡がる悪天候が続き、農作物への影響が出始めた後のことだったのではないでしょうか。
書簡231(7月19日付盛岡の測候所の福井規矩三宛)の稲作相談の礼状は(注5)、詩中の〈練達の測候長〉に天気の予報を尋ねたことを裏付けるものだと思います。
黒雲への情熱から一歩引いた時、その情熱だけを描いた詩を受け入れられず、冷静な詩作者として、古代詩歌や神話を書き込み、農村への憂いを書き込み、黒雲から離れようとする自分を描いたのだと思います。
賢治がここで古事記や万葉の世界を取り入れたのは、雲を征服するように降り立った神々や、雲を詩の対象として歌い込んだ万葉歌人に、雲に誘惑されていないものを感じとり、そこに自分を引き上げたいと思ったのではないでしょうか。
風は、いずれも抽象的な使い方で、一つは心を洗おうとする清らかな風、他方は〈非礼の香気〉―黒雲の誘惑―を送る風、〈一層強い慾情〉のあふれる〈風の城〉〉、真逆な二つです。
「春と修羅第三集」以降、「疾中」の〔風がおもてで呼んでゐる〕でも〈風がおもてで呼んでゐる……おまへも早く飛びだして来て……うつくしいソプラノをもった/おれたちのなかのひとりと/約束通り結婚しろ」と〉と誘惑する風が描かれます。 また〔その恐ろしい黒雲が〕では誘惑する黒雲とともに〈あゝ友たちよはるかな友よ/きみはかゞやく穹窿や/透明な風 野原や森の/この恐るべき他の面を知るか〉と、風、雲、そして自然は一体となっていて人間の計り知れない多くの貌を持つことを知ってしまった気持ちが書かれています。
一方、「県技師の雲に対するステートメント」、「峠の上で雨雲に云ふ」、〔風がおもてで呼んでゐる〕、〔その恐ろしい黒雲が〕ではいずれも、賢治は直接風の中にはいません。黒雲と風の関係を自覚してしまったとしても、もしそこに、一瞬の風が吹いていたら、詩は全く変わっていたのではないでしょうか。
風は吹かず、黒雲に寄せる情熱を肯定できなくなった時でも、賢治は絶望することを自分に許さず、万葉集や古事記を取り込むことで、立ち直ろうとしています。その後の心象については別の機会に検証したいと思います。
注1小林俊子『宮沢賢治 かなしみとさびしさ』 勉誠出版 2011
2鈴木貞美「モダニスト 宮沢賢治」2011 鈴木貞美HP
3堀尾青史『宮沢賢治年譜』 筑摩書房 1991
4堀尾青史前掲書
大島丈志『宮沢賢治の農業と文学 過酷なイーハトーブのなかで』
蒼丘書林 2013
5堀尾青史前掲書