「十力の金剛石」は、霧、小雨、雫、霰、そしてそこに宿る本当の露―〈十力の金剛石〉―のお話です。描かれるのは水の様態変化ですが、その過程で、秘かに風が吹きます。あるいは、光や音を生んでいるのは風かもしれません。
ある国の王子と大臣の息子は、霧の深い朝、虹の脚もとにあるというルビーの絵皿、そして今持っているよりももっといい金剛石を探しに二人だけで出かけます。そして〈二人は霧の中を風よりも早く森の方へ走って行き〉ます。
(以下、引用文のルビは省略し、前略、中略を………で記します。)
………
いつか霧がすうっとうすくなって、お日さまの光が黄金色に透って来ました。やがて風が霧をふっと払ひましたので、露はきらきら光り、きつねのしっぽのやうな茶色の草穂は一面波を立てました。
ふと気が付きますと遠くの白樺の木のこちらから、目もさめるやうな虹が空高く光ってたってゐました。白樺のみきは燃えるばかりにまっかです。
「そら虹だ。早く行ってルビーの皿を取らう。早くお出でよ。」
二人は又走り出しました。けれどもその樺の木に近づけば近づくほど美しい虹はだんだん向ふへ逃げるのでした。そして二人が白樺の木の前まで来たときは、虹はもうどこへ行ったか見えませんでした。
「ここから虹は立ったんだね。ルビーのお皿が落ちてないか知らん。」
二人は足でけむりのやうな茶色の草穂をかきわけて見ましたが、ルビーの絵の具皿はそこに落ちてゐませんでした。
「ね、虹は向ふへ逃げるときルビーの皿もひきずって行ったんだね。」
「さうだらうと思ひます。」
「虹は一体どこへ行ったらうね。」
「さあ。」
「あ、あすこに居る。あすこに居る。あんな遠くに居るんだよ。」
………
霧が薄くなり太陽光が透り、風は霧を払い露は輝き、虹を作りました。でも2人が走っても走っても虹には追い付きませんし、虹はルビーの絵皿も持って行ってしまったようで見つかりません。
………
また霧が出たのです。林の中は間もなくぼんやり白くなってしまひました。もう来た方がどっちかもわからなくなってしまったのです。
王子はためいきをつきました。
大臣の子もしきりにあたりを見ましたが、霧がそこら一杯に流れ、すぐ眼の前の木だけがぼんやりかすんで見える丈です。二人は困ってしまって腕を組んで立ちました。
すると小さなきれいな声で、誰か歌ひ出したものがあります。
「ポッシャリ、ポッシャリ、ツイツイ、トン。
はやしのなかにふる霧は、
蟻のお手玉、三角帽子の、一寸法師の
ちいさなけまり。」
霧がトントンはね躍りました。
「ポッシャリポッシャリ、ツイツイトン。
はやしのなかにふる霧は、
くぬぎのくろい実、柏の、かたい実の
つめたいおちち。」
霧がポシャポシャ降って来ました。そしてしばらくしんとしました。
「誰だらう。ね。誰だらう。あんなことをうたってるのは。二三人のやうだよ。」
二人はまわりをきょろきょろ見ましたが、どこにも誰も居ませんでした。
声はだんだん高くなりました。それは上手な芝笛のやうに聞えるのでした。
「ポッシャリ、ポッシャリ、ツイツイツイ。
はやしのなかにふるきりの、
つぶはだんだん大きくなり、
いまはしづくがポタリ。」
霧がツイツイツイツイ降って来て、あちこちの木からポタリッポタリッと雫の音がきこえて来ました。
「ポッシャン、ポッシャン、ツイ、ツイ、ツイ。
はやしのなかにふるきりは、
いまはこあめにかぁわるぞ、
木はぁみんな、青外套。
ポッシャン、ポッシャン、ポッシャン、シャン。」
………
霧は深くなり、耳を澄ますと小さな歌が聞こえてきます。霧が雨に変わり雫となって落ちているのでした。
霧の木を伝って落ちる音は、〈ツイツイツイツイ〉、雫となると〈ポタリッポタリッ〉、しずくが大きくなると〈ポッシャン、ポッシャン〉と書きわけて、さらに挿入歌の中では囃子言葉となっています。
………
するとおどろいたことは、王子たちの青い大きな帽子に飾ってあった二羽の青びかりの蜂雀が、ブルルルブルッと飛んで、二人の前に降りました。そして声をそろヘて云ひました。
「はい。何かご用でございますか。」
「今の歌はお前たちか。なぜこんなに雨をふらせたのだ。」
蜂雀は上手な芝笛のやうに叫びました。
「それは王子さま。私共の大事のご主人さま。私どもは空をながめて歌ったゞけでございます。そらをながめて居りますと、きりがあめにかはるかどうかよくわかったのでございます。」
「そしてお前らはどうして歌ったり飛んだりしだしたのだ。」
「はい。ここからは私共の歌ったり飛んだりできる所になってゐるのでございます。ご案内致しませう。」
雨はポッシャンポッシャン降っています。蜂雀はさう云ひながら、向ふの方へ飛び出しました。せなかや胸に鋼鉄のはり金がはいってゐるせいか飛びやうがなんだか少し変でした。
王子たちはそのあとをついて行きました。
※
にわかにあたりがあかるくなりました。
今までポシャポシャやっていた雨が急に大粒になってざあざあと降って来たのです。
はちすゞめが水の中の青い魚のやうに、なめらかにぬれて光りながら、二人の頭の上をせわしく飛びめぐって、
ザッ、ザ、ザ、ザザァザ、ザザァザ、ザザア、
ふらばふれふれ、ひでりあめ、
トパァス、サファイア、ダイヤモンド。
と歌ひました。するとあたりの調子が何だか急に変な工合になりました。雨があられに変ってパラパラパラパラやって来たのです。
………
歌っていたのは、王子たち帽子の飾りの青い蜂雀でした。蜂雀は、空を眺めていると霧から雨に変わっていくのを知る力を持ち、ここは歌うことが許される場所なのだといいます。
水の変化を、蜂雀の飾り物という特別な者にだけ知ることができるものとし、また見える場所も森の中の特別な場所と指定して、賢治は自分の感じていたその不思議さを表したのだと思います。
………
そして二人はまはりを森にかこまれたきれいな草の丘の頂上に立ってゐました。
ところが二人は全くおどろいてしまひました。あられと思ったのはみんなダイアモンドやトパァスやサファイヤだったのです。おお、その雨がどんなにきらびやかなまぶしいものだったでせう。
雨の向ふにはお日さまが、うすい緑色のくまを取って、まっ白に光ってゐましたが、そのこちらで宝石の雨はあらゆる小さな虹をあげました。金剛石がはげしくぶっつかり合っては青い燐光を起しました。
その宝石の雨は、草に落ちてカチンカチンと鳴りました。それは鳴る筈だったのです。りんだうの花は刻まれた天河石と、打ち劈かれた天河石で組み上がり、その葉はなめらかな硅孔雀石で出来てゐました。黄色な草穂はかゞやく猫睛石、いちめんのうめばちさうの花びらはかすかな虹を含む乳色の蛋白石、たうやくの葉は碧玉、そのつぼみは紫水晶の美しいさきを持ってゐました。そしてそれらの中で一番立派なのは小さな野ばらの木でした。野ばらの枝は茶色の琥珀や紫がかかった霰石でみがきあげられ、その実はまっかなルビーでした。
………
雨は、さらに霰になりました。
そして、それはすべてダイヤモンドやトパアスやサファイヤになって、音を立てたのです。そればかりでなくリンドウは天河石、葉は硅孔雀石、草穂は猫睛石、すべてが宝石でした。
その描きかたは植物の色をそれぞれ輝く宝石に喩えて、宝石をちりばめたような文章です。
宗教的な意味の至上の世界を描くために宝石を用いることは、ヨハネ黙示録21:16−21で新しい都として天から下ったエルサレムを描くために、城壁は碧玉、都は透きとおったガラスのような純金、都の土台石は第一から第十二まで、碧玉、サファイア、エメラルド、赤縞めのう、めのう、赤めのう、橄欖岩、緑柱石、黄玉、翡翠、青玉、紫水晶で、門は真珠だったという記述があります。
また、『阿弥陀経』に描かれる世界でも、鈴をつけた網に飾られ、金、銀、青玉、水晶をめぐらした石垣、金、銀、青玉、水晶、赤真珠、碼碯、琥珀からできている木が描かれます。
しかしそれらは、各々の場所に、その宝石が使われる必然性はありませんが、この物語では、太陽光に輝く霰は、ダイヤモンド、トパーズ、サファイア、リンドウの花は天河石、その葉は硅孔雀石、黄色な草穂はかゞやく猫睛石、ウメバチソウの花びらは乳色の蛋白石、トウヤクの葉は碧玉、そのつぼみは紫水晶の、野ばらの枝は茶色の琥珀や紫がかかった霰石、でその実はまっかなルビーなどなど、賢治は実際に物体を見、宝石や鉱物の知識を基にして、その形容として使っているのが分かります。
………
もしその丘をつくる黒土をたづねるならば、それは緑青か瑠璃であったにちがひありません。二人はあきれてぼんやりと光の雨に打たれて立ちました。
はちすゞめが度々宝石に打たれて落ちさうになりながら、やはりせわしくせわしく飛びめぐって、
ザッザザ、ザザァザ、ザザアザザザア、
降らばふれふれひでりあめ、
ひかりの雲のたえぬまま。
と歌ひましたので雨の音は一しほ高くなりそこらは又一しきりかゞやきわたりました。
それから、はちすゞめは、だんだんゆるやかに飛んで、
ザッザザ、ザザァザ、ザザアザザザア、
やまばやめやめ、ひでりあめ、
そらは みがいた 土耳古玉
と歌ひますと、雨がぴたりとやみました。おしまいの二つぶばかりのダイアモンドがそのみがかれた土耳古玉のそらからきらきらっと光って落ちました。
「ね、このりんだうの花はお父さんの所の一等のコップよりも美しいんだね。トパァスが一杯に盛ってあるよ。」
「ええ立派です。」
「うん。僕、このトパァスを半けちへ一ぱい持ってかうか。けれど、トパァスよりはダイアモンドの方がいゝかなあ。」
王子ははんけちを出してひろげましたが、あまりいちめんきらきらしてゐるので、もう何だか拾ふのがばかげてゐるやうな気がしました。
………
二人は一生懸命、宝石を拾おうと思いますが、あまりたくさんあり、そして美しく輝きわたるので、自分のものにするのが馬鹿げているように思えてきました。
ここで、雨の音の囃子言葉は〈ザッザザ、ザザァザ、ザザアザ、ザザア〉です。このリズムは、よく知られている「風の又三郎」の冒頭の挿入歌の囃子言葉、〈どっどど どどどう どどうど どどう〉と同じです。
「風の又三郎」の初期形「風野又三郎」でも既に使われており、その成立は、大正13年2月に農学校の生徒に筆写させた原稿があり、それ以前と考えられます。「十力の金剛石」の現存稿の成立は大正10年から11年と推定されます(注1)。このリズムは、そのほかいくつかの初期作品で使われ、昭和6年から8年成立と推定される「風の又三郎」まで、使われ続けたことになります。
このリズムには、花巻地方特有の風が関わっていると言われます(注2)が、それがさらに囃子言葉としてさまざまなものに使われたのはなぜでしょうか。それは賢治の心に刻まれた風への想いの強さかもしれませんが、さらなる課題です。
……… その時、風が来て、りんだうの花はツァリンとからだを曲げて、その天河石の花の盃を下の方に向けましたので、トパァスはツァラツァランとこぼれて下のすずらんの葉に落ちそれからきらきらころがって草の底の方へもぐって行きました。
りんだうの花はそれからギギンと鳴って起きあがり、ほっとため息をして歌ひました。
トッパァスのつゆはツァランツァリルリン、
こぼれてきらめく サング、サンガリン、
ひかりの丘に すみながら
なぁにがこんなにかなしかろ。
まっ碧な空でははちすゞめがツァリル、ツァリル、ツァリルリン、ツァリル、ツァリル、ツァリルリンと鳴いて二人とりんだうの花との上をとびめぐって居りました。
「ほんたうにりんだうの花は何がかなしいんだらうね。」王子はトッパァスを包もうとして一ぺんひろげたはんけちで顔の汗を拭きながら云ひました。
「さあ私にはわかりません。」
「わからないねい。こんなにきれいなんだもの。ね、ごらん、こっちのうめばちさうなどはまるで虹のやうだよ。むくむく虹が湧いてるやうだよ。あゝさうだ、ダイヤモンドの露が一つぶはいってるんだ。」
ほんたうにそのうめばちさうは、ぷりりぷりりふるえてゐましたので、その花の中の一つぶのダイヤモンドは、まるで叫び出す位に橙や緑や美しくかゞやき、うめばちさうの花びらにチカチカ映って云うやうもなく立派でした。
その時丁度風が来ましたのでうめばちさうはからだを少し曲げてパラリとダイアモンドの露をこぼしました。露はちくちくっとおしまいの青光をあげ碧玉の葉の底に沈んで行きました。
うめばちさうはブリリンと起きあがってもう一ぺんサッサッと光りました。金剛石の強い光の粉がまだはなびらに残ってでも居たのでせうか。そして空のはちすゞめのめぐりも叫びもにわかにはげしくはげしくなりました。うめばちさうはまるで花びらも萼もはねとばすばかり高く鋭く叫びました。
「きらめきのゆきき
ひかりのめぐり
にじはゆらぎ
陽は織れど
かなし。
青ぞらはふるい
ひかりはくだけ
風のきしり
陽は織れど
かなし。」
野ばらの木が赤い実から水晶の雫をポトポトこぼしながらしづかに歌ひました。
「にじはなみだち
きらめきは織る
ひかりのおかの
このさびしさ。
こほりのそこの
めくらのさかな
ひかりのおかの
このさびしさ。
たそがれぐもの
さすらいの鳥
ひかりのおかの
このさびしさ。」
………
ここで風が植物を揺らします。それは、輝きと一緒に、硬質な音を響かせます。りんだうの花は硬質な茎はツァリンとゆれ、ギギンザン、ギギン、ギギンと起き上がり、トパァスの露は、ツァラツァランとこぼれ、歌の中ではツァランツァリルリンと詠われます。
さらにその光はサング、サンガリンとはやされます。蜂雀の飾り物さえもツァリル、ツァリル、ツァリルリン、ツァリル、ツァリル、ツァリルリンと鳴いて、飛びまわるのでした。
ここでのオノマトペは、硬質な(ts) 音によって,リンドウの茎の強い弾力性や、硬質な宝石の様態と転がる音、飾り物の蜂雀の堅さを表して見事です。
その一方、露がこぼれてきらめく様子〈サング、サンガリン〉、〈ギギンザン、ギギン、ギギン〉と起き上がるリンドウの花は、斬新な試みですが、オノマトペと対象との間の関係が感じにくくなっています。
輝かしい光の中で、花たちは、なぜか悲しさうです。花たちは〈十力の金剛石〉を待っているのです。
………
「十力の金剛石ってどんなものだ。」とたづねました。
野ばらがよろこんでからだをゆすりました。
「十力の金剛石はたゝの金剛石のやうにチカチカうるさく光りはしません。」
碧玉のすずらんが百の月が集った晩のやうに光りながら向ふから云ひました。
「十力の金剛石はきらめくときもあります。かすかににごることもあります。ほのかにうすびかりする日もあります。ある時は洞穴のやうにまっくらです。」
ひかりしづかな天河石のりんだうも、もうとても躍り出さずに居られないというやうにサァン、ツァン、サァン、ツァン、からだをうごかして調子をとりながら云ひました。
「その十力の金剛石は春の風よりやわらかくある時は円くある時は卵がたです。霧より小さなつぶにもなればそらとつちとをうづめもします。」
まひるの笑いの虹をあげてうめばちさうが云ひました。
「それはたちまち百千のつぶにもわかれ、また集って一つにもなります。」
はちすゞめのめぐりはあまり速くてただルルルルルルと鳴るぼんやりした青い光の輪にしか見えませんでした。
野ばらがあまり気が立ち過ぎてカチカチしながら叫びました。
「十力の大宝珠はある時黒い厩肥のしめりの中に埋もれます。それから木や草のからだの中で月光いろにふるい、青白いかすかな脉をうちます。それから人の子供の苹果の頬をかゞやかします。」
そしてみんなが一諸に叫びました。
「十力の金剛石は今日も来ない。
その十力の金剛石はまだ降らない。
おゝ、あめつちを充てる十力のめぐみ
われらに下れ。」
にわかにはちすゞめがキイーンとせなかの鋼鉄の骨も弾けたかと思うばかりするどいさけびをあげました。びっくりしてそちらを見ますと空が生き返ったやうに新らしくかゞやきはちすゞめはまっすぐに二人の帽子に下りて来ました。はちすゞめのあとを追って二つぶの宝石がスッと光って二人の青い帽子に下ちそれから花の間に落ちました。
………
仏教の教えで、露は水の最も凝縮したもの、と讃えられています。そして〈十力〉は、仏の持つ偉大な十の力で、光も色も、形も大きさも決めず、万物の中にひそみ、命を与えるもの、と言えます。
加えて、風景のすべてに宿る露に、「一切衆生悉有仏性」―万物にはことごとく仏の魂が宿る―という仏教の主張を感じ取った賢治の高揚感が伝わります。
ここでも風は〈春の風のやうにやわらかく〉、と最高の喩えに用います。
………
「来た来た。あゝ、たうたう来た。十力の金剛石がたうたう下った。」と花はまるでとびたつばかりかゞやいて叫びました。
木も草も花も青ぞらも一度に高く歌ひました。
「ほろびのほのお湧きいでて
つちとひととを つつめども
こはやすらけきくににして
ひかりのひとらみちみてり
ひかりにみてるあめつちは
…………… 。」
急に声がどこか別の世界に行ったらしく聞えなくなってしまひました。そしていつか十力の金剛石は丘いっぱいに下って居りました。
………
ついに〈十力の金剛石〉は下り、丘の上のすべてのものの細胞の中に宿り、本当の美しさで輝かせました。
………
そのすべての花も葉も茎も今はみなめざめるばかり立派に変ってゐました。青いそらからかすかなかすかな楽のひゞき、光の波、かんばしく清いかおり、すきとほった風のほめことば丘いちめんにふりそそぎました。
なぜならすずらんの葉は今はほんたうの柔かなうすびかりする緑色の草だったのです。
うめばちさうはすなおなほんたうのはなびらをもってゐたのです。そして十力の金剛石は野ばらの赤い実の中のいみじい細胞の一つ一つにみちわたりました。
その十力の金剛石こそは露でした。
ああ、そしてそして十力の金剛石は露ばかりではありませんでした。碧いそら、かゞやく太陽丘をかけて行く風、花のそのかんばしいはなびらやしべ、草のしなやかなからだ、すべてこれをのせになう丘や野原、王子たちのびらうどの上着や涙にかゞやく瞳、すべてすべて十力の金剛石でした。あの十力の大宝珠でした。あの十力の尊い舎利でした。あの十力とは誰でせうか。私はやっとその名を聞いただけです。二人もまたその名をやっと聞いただけでした。
………
ここでも風は、その本当の美しさを表現するために使われています。
現実に賢治が接したものは、まず深い霧でした。風が一瞬に吹いて虹があらわれ、また霧につつまれます。そして雫となり、大粒の雨になり、霰となりました。風はまた太陽光を呼び戻し、日照り雨となり、水滴に包まれたすべてのものを宝石のやうに輝かせます。
そして、雨がやんだ時、雨にぬれた風景は、本当の露―この世で最も堅く尊いもの、仏の尊い力を持つもの―を内包した世界でした。科学者であり、仏教者だった賢治にとって、自然の成り立ちの中に仏の教えを見出した瞬間でもあったのです。
………
けれどもこの蒼鷹のやうに若い二人がつつましく草の上にひざまずき指を膝に組んでいたことはなぜでせうか。………
………
王子も叫んで走らうとしましたが一本のさるとりいばらがにわかにすこしの青い鈎を出して王子の足に引っかけました。王子はかがんでしづかにそれをはづしました。
仏の世界に触れた子どもたちを表すために、賢治は、つつましく草の上にひざまずき指を膝に組んでいるふたりと、物語の始めに、邪魔になると言って切り払ったサルトリイバラを静かに取り外す姿を描きます。
この作品の草稿表紙に、〈構想全く不可〉などのメモがあり、創作メモ49にも改作の意思が感じられることなどから、賢治はこの作品に満足していなかったことがうかがわれます。
それは、先に述べた斬新でも言語として成熟していないオノマトペなどのほかに、宝石のように輝く水滴を描く場面よりも、もっと〈十力の金剛石〉の本当の美しさを重点的に描きたかったからかもしれません。
先日、ブログで、水滴の写真を見つけました。太陽光の影響を受けず、ただ美しく透明に輝いていました。それは、自身が宝石のように輝くものではなく、周囲の緑の枝や蜘蛛の巣の本当の美しさを輝かせているものでした。
賢治が露を「十力の金剛石」に喩えたのは、この美しさを見たせいかもしれません。
風はその風景を展開させる、大きな力だったことを、賢治は感じていたと思います。普通に接していても風は心地よいものですが、その本質的な働きを見出した時でもあったと思います。
注1 小沢俊郎「十力の金剛石」(『別冊国文学 bU 宮沢賢治必携』
學燈社 1980)
注2 麦田穣「風の証言」(『火山弾』第42号 火山弾の会 1997)によれば、 このリズムは、風の息―瞬間風速の最大値と、吹き始めの値との差―が大きいことを表すもので、花巻地方に吹く風は、他の地方に比べて、その風の割合が多いという。
参考文献
斉藤文一「「十力の金剛石」―「黙示録」風の光のビジョン」
『国文学解釈と鑑賞61−11』 至文堂1996