宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
「ポラーノの広場」―風と追憶が生み出すもの  (二)
 
4、「ポラーノの広場」―《広場》の現実―
 
 その五日後、ファゼーロたちは、広場の場所の見当がつき、キューストを誘います。キューストもすっかり引き込まれ、胸を躍らせてしまいまいます。
 夕暮れの野原を、今度はつめくさの明かりを頼らず、昼間作って置いた目印を目当てに進みます。暗く遠い目当ての木と反対に、つめくさの花は〈石英でできてゐるランプのやうに〉輝きましたが、道順を教えるものではありませんでした。
 次に目当てとなったのは、現実の現象―明かりに集まる甲虫の羽音、そして、楽器を奏でる音と人の話し声でした。そこは日の落ちた野原で〈何の木か七八本の木がじぶんのからだからひとりで光でも出すやうに青くかゞやいてそこらの空もぼんやり明るくなってゐ〉る程明るかったのです。
 ついに見つけた、と思ったとたん、そこには〈山猫博士〉―県会議員のデストゥパーゴがいました。この地方の顔役、ファゼーロの雇い主も従え、姉のロザーロにも興味を示す、《悪役》です。
 突然迷い込んだようなキュースト達は、招かれざる客でした。 
キュースト達の落胆に拍車をかけるようにデストゥパーゴの攻撃が始まり、ついに決闘になります。酔って子供にまで決闘を申し込む、山猫博士の人間的価値を浮き彫りにする描写です。
 デステパーゴが退場した後、それまで取り巻いていた人たちが、ここが選挙のための供応の場所で、酒も密造酒であることを暴露します。それも浅ましい人の姿です。
 デストゥパーゴのみっともない姿、周囲の節操のなさ、社会の現実が全開の描写で、ポラーノの広場の野原は終ってしまいます。
 さらにキューストは、意図せず雇い主の怒りを買ってしまったファゼーロを気にかけながら、役人の事なかれ主義でそのまま別れてしまいまったという現実も書き込み、そこから次章へと発展していきます。
 誰もが行って歌うことができ、歌が上手になる、美しい昔ばなしの現実を、作者はなぜ描かなければならなかったのでしょう。
 追憶という流れの中の一場面で、敢えて描かれた現実は、現実から発展していく物語であることを表し、単なるファンタジーの域を脱することができています。
 
5、インターバルとしての3ヶ月―風の吹かない日々
 
@「警察署」―現実の続き―
 キューストの案じたファゼーロの窮状が現実となり、ファゼーロは失踪してしまいました。そのことは警察に呼び出されるまで知りませんでした。
 キューストは山猫博士の仕業と疑いますが、山猫博士も行方不明でした。
警察官とキューストの対話は、現実の社会と、キューストの「信じる」尺度の違いが、漫画チックに表現されて見事です。
 
……
「君はファゼーロをどこかへかくしてゐるだらう。」
「いゝえ、わたくしは一昨夜競馬場の西で別れたきりです。」
「偽を云ふとそれも罪に問ふぞ。」
「いいえ。そのときは廿日の月も出てゐましたし野原はつめくさのあかりでいっぱいでした。」
「そんなことが証拠になるか。そんなことまでおれたちは書いてゐられんのだ。」……
 
……
「きみはファゼーロの居ないことをさっきまで知らなかったのか。」
「はい。」
「何か証拠を挙げられるのか。」
「はい、ええ、昨日と今日役所での仕事をごらん下さればわかります。わたくしはあれですっかりかたが着いたと思ってせいせいして働いていたのであります。」
「それも証拠にはならん。おい、君、白っぱくれるのもいい加減にしたまえ。テーモ氏からそう索願が出てゐるのだ。いま君がありかを云へば内分で済むのだ。でなけあ、きみの為にならんぜ。」……
 
 事実は違う方向に進みますが、この時点ではキューストは不安に駆られます。ファゼーロの姉ロザーロのかなしみの様子はまたキューストとは違った深いあきらめに包まれているようです。
 
……
すると出口の桜の幹に、その青い夕方のもやのなかに、ロザーロがしょんぼりよりかかってかなしさうに遠いそらを見てゐました。わたくしは思はずかけよりました。
「あなたはロザーロさんですね。わたくしはどこへさがしに行ったらいいでせう。」
 ロザーロが下を見ながら云ひました。
「きっと遠くでございますわ。もし生きてゐれば。」
「わたくしがいけなかったんです。けれどもきっとさがしますから。」
「えゝ、」
「デストゥパーゴはゐないんですか。」
「ゐないんです。」
「馬車別当は?」
「見ませんでした。」
「あなたのご主人は知ってゐないんですか。」
「えゝ。」
「捜索願をわざと出したのでせう。」
「いゝえ。警察からも人が来てしらべたのです。」
「あなたはこれから主人のとこへお帰りになるんですか。」
「えゝ、」
「そこまでご一所いたしませう。」
わたくしどもはあるきだしました。わたくしはいろいろ話しかけて見ましたが、ロザーロはどうしてもかなしさうで一言か二言しか返事しませんのでわたくしはどうしてももっと立ち入ってファゼーロと二人のことに立ち入ることができませんでした。そしてこの前山羊をつかまえた所まで来ますとロザーロは「もうじきですから」と云ってじぶんからおじぎをして行ってしまひました。……
 
 この、ロザーロの生も死もすべてあきらめているような状態、これはじっと不幸に耐えて来た人の姿と言えるでしょう。それに対し
 
……
わたくしはさびしさや心配で胸がいっぱいでした。そしてその晩から毎晩毎晩野原にファゼーロをさがしに出ました。日曜にはひるも出ました。ことにこの前ファゼーロと分れた辺からテーモの家までの間に何か落ちてないかと思ってさがしたりつめくさの花にデストゥパーゴやファゼーロのあしあとがついてゐないかと思って見てまわったりデストゥパーゴの家から何か物音がきこえないかと思って幾晩も幾晩もそのまはりをあるいたりしました。
 前の二本の樺の木のあたりからポラーノの広場へも何べんも行きました。もうそのうちにつめくさの花はだんだん枯れて茶いろになり、ポラーノの広場のはんのきにはちぎれて色のさめたモールが幾本かかかっているだけ、ミーロへも会いませんでした。警察からはあと呼び出しがありませんでしたのでこっちから出て行ってどうなったかきいたりしましたが警察ではファゼーロもデストゥパーゴも、まだ手がゝりはないが心配もなからうといふやうなことばかり云ふのでした。そしてわたくしも、どういうわけか、なれたのですかつかれたのですか、ファゼーロはファゼーロでちゃんとどこかにゐるといふやうな気がしてきたのです。……
 
 キューストのあきらめは、たくさん心配し、探し、警察を訪ね、結果として安全なのであろうという予感を得ます。それもあきらめと言えば言えなくもありませんが、ロザーロの悲痛を押し隠したあきらめとは別で、これは幸いな人のなせる技なのです。ここにも二つの世界の対比が描かれます。
 この章で、作者は、たとえ偽りのものではあっても「ポラーノの広場」を訪ねた後の現実を描きますが、そこにも二つの世界の違いを明確に描いて、主題にせまろうとしています。
 
A「センダード市の毒蛾」―現実の証明―
 
 キューストは、ファゼーロの行方も分からないまま、自分の現実の生活に追われていましたが、8月になって、「海産鳥類の卵採集の為に八月三日より二十八日間イーハトーヴォ海岸地方に出張を命ず。」というご褒美とも言える出張命令を受けて、〈イーハトーヴォ海岸〉―三陸海岸であろう―に出かけます。 それは〈イーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町〉―鮫―から、〈その六十里の海岸を町から町へ、岬から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったりそしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら二十幾日の間にだんだん南へ移って〉行きます。
 これは、かつて三陸詩群―三三八「異途への出発」(一九二五、一、五 「春と修羅第二集」)から「峠」(一九二五、一、九、)―に詠み込まれた行程を下地にしています。
 詩群に描かれる、失意のうちに旅に出て、次第に豊かな海に癒されていく様子と同様に、キューストは、海辺の人達の暖かいもてなしに感激します。でもその幸せの中で、辛い仕事に耐えているロザーロや、疲れた体でもてなしてくれる人々を思い、〈わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ、みんなの〔数文字分空白〕とひとりでこゝろに誓い〉ます。
 キューストは何を出来るかという事より、まず何かをやらねば、という思いだけで燃えています。
 この思いは、いつもキューストを力づけるもののようです。この結果、キューストのなし得たものは何か、これは今後考えて行くなかで重要なことになりそうです。
 旅の終りに、キューストはセンダ―ド―仙台か―の大学に行くために、センダ―ドのホテルに宿泊します。町には毒蛾が発生していました。
 ここでの状況は短篇「毒蛾」を下地にしていて、そのまま挿入した部分もあります。
 「毒蛾」は、大正11年7月下旬の、盛岡市の毒蛾発生を題材にしています。
岩手日報大正11年7月17日付に掲載された岩手県師範学校、鳥羽源蔵寄稿「毒蛾の発生」、7月19日付記事、20日付記事にその惨状が大きな紙面を割いています。
 「毒蛾」では毒蛾の発生に慌てる人々と冷静に立ち向かう人々が対照的に描かれます。そして花巻を思わせるハームキャの街では、きちんと防御されているにもかかわらず、発生はしていなかった、という事態と、蛾の毒性を確かめる実験のために苦労して1頭見つけたという皮肉めいた結末を描きます。
 毒蛾にやられて大騒ぎする人物が、ここでは〈マリオ競馬会の会長か、幹事か技師長のような〉偉い人でした。競馬について作者は肯定的な捉え方をしていますが、それを牛耳る一部の人に対してはよい感情を持っていなかったのでしょうか。
 「ポラーノの広場」では、それを行方不明だったデストゥパーゴと置き換えて、物語の方向付けをしていきます。それは毒蛾の発生という事件と絡めて見事な展開となっています。
……
そこへ立って、私は、全く変な気がして、胸の躍るのをやめることができませんでした。それはあのセンダードの市の大きな西洋造りの並んだ通りに、電気が一つもなくて、並木のやなぎには、黄いろの大きなランプがつるされ、みちにはまっ赤な火がならび、そのけむりはやさしい深い夜の空にのぼって、カシオピイアもぐらぐらゆすれ、琴座も朧にまたゝいたのです。どうしてもこれは遙かの南国の夏の夜の景色のやうに思はれたのです。私は、店のなにかのぞきながら待ってゐました。いろいろな羽虫が本統にその火の中に飛んで行くのも私は見ました。向ふでもこっちでも、繃帯をしたり、きれを顔にあてたりしながら、まちの人たちが火をたいていました。……
 
 デストゥパーゴの後をつけた、電燈の消された町の情景は、不思議な美しさをたたえて、デストゥパーゴへの糾弾の場面と対比をなしています。
 そこでデストゥパーゴの話すことは、キューストの想像と違っていました。
 ファゼーロの失踪とは関係ないこと、林の中で木材の乾留工場をやっていたが、薬品の相場の変動でうまくいかなくなり、密造酒に手を染めたこと、〈ポラーノの広場
では、それを逆に脅されて自棄になって酔っていたことなどでした。
 後にはこれが偽りだとわかるのですが、ここでは、キューストは信じて同情さえします。そこにもキューストの実社会とのずれが―幸せな人としての―が描かれます。
……
「ロザーロは変りありませんか。」デストゥパーゴは大へん早口に云ひました。
「ええ、働いてゐるようです。」わたくしもなぜかふだんとちがった声で云ひました。……
 
 最後にキューストとデストゥパーゴのロザーロに対する、微妙な思いが2行の中に描かれ、この表現も見事だと思います。
 
 この稿で取り上げた部分には、風は役所の上司の部屋にのみある扇風機が、いくらかの風を送っている場面と、ホテルで扇風機を独占する老人の身勝手さの場面でしか吹きません。「風の吹かない」世界も一つの象徴であると思います。(次稿に続く)

 
 
 
 
 







永野川2016年10月中旬
 よく晴れて、まさに探鳥日和でした。少し遅くなったのですが、11:00ころ出かけました。
 調整池の東の池はまた清掃されたようできれいになっていて、カイツブリの姿が見えず、あわてました。でも西の池に行くと親子の姿がありました。こちらの方が順光でよく見えます。ヒナの顔の模様は残っていましたが、もう親鳥とあまり変わらない大きさになっていました。ピッピッピと鳴きながら―後で調べると、これはヒナの声とのこと―親鳥と一緒に上手に泳ぎ、潜水もしていました。もう一羽の成鳥は以前からずっとここにいたので、あるいはこれは片方の親鳥かもしれません。アオサギ1羽、今季初、ヒドリガモ4羽の姿もありました。
 二杉橋から入ります。
水の量も減ってきれいに澄んで来ましたが鳥影は無く、ハクセキレイが1羽、セグロセキレイが2羽で連なって飛び、モズが高鳴きしていました。
 睦橋付近で、カルガモ14羽、今季初のコガモが2羽、まだ冬羽になっていません。
 ホオジロが2羽岸の草むらに飛び込みました。
 上人橋では岸の道路の電線にモズが留って高鳴きしていたかと思うと、今度は小鳥の声の鳴きまねになりました。人間から見ると何か遊んでいるようです。
 公園に入ると芝生でハシブトガラス11羽、ハシボソカラス4羽が芝を盛んにつついていました。芝刈り中で、虫が出て来たのでしょうか。
 公園の川ではセグロセキレイ3羽、それと久しぶりにツバメ3羽、ここで越冬するのでしょうか。
 水面すれすれに飛んでは水に触れていたのですが、これは水飲みでしょうか、採餌でしょうか。
 大岩橋の河川敷林で今季初ウグイスの地鳴きを聞きました。ヒヨドリが3羽、4羽と過ぎて行き、1羽のワシタカと思われるものが山林に消えましたが確認できませんでした。
 大岩橋から川を眺めてみるとダイサギ、アオサギ、チュウサギが河川敷を歩いています。今まで気付かなかったのですが、この位置は面白いと思います。
 大岩橋の北岸にいる時、川の方角からカケスが3羽飛んで、北の少し離れたに民家の屋敷林に消えました。これも今季初、腰の白さで確認しました。
 滝沢ハムの調整池、ここしばらく鳥がいなかったのですが、コサギが1羽来ていました。
 泉橋近くでは、川岸にミドリガメのあまり大きくないもの2匹、小さめのもの1匹見えました。やはりここで繁殖しているのでしょうか。少し不安です。
 新井町の赤津川ではカイツブリ2羽、バン1羽、カルガモ5羽は親子らしい大きさの違いがありました。休耕田に、ダイサギとチュウサギのコンビがここでも、つかず離れずの距離を置いていました。
 キジ♀の若鳥が1羽、民家の中から塀に飛び乗っていました。
スズメも、実った稲よりも刈り取った後の虫を探すのか、電線や刈田の上に多数見られます。
 私の観察範囲での赤津川の最上流点でワシタカが一羽舞い、田んぼの中の電線に留りました。黄色い脚、大きさ、嘴の様子などから、チョウゲンボウと確認できました。近くの休耕田に舞い降りた時、尾羽が扇状に拡がって、茶色い横斑も見えました。この付近は、時折ワシタカを見ることができます。以前コチョウゲンボウも確認できました。普通の田園ですが、私にとっては貴重な場所です。
 陶器瓦工場まで来ると川岸の低木でカワセミ発見。ゆっくり留っていて、嘴の赤が確認できました。私にとっては珍しい♀との出会いです。
 二杉橋近くの戻ると、イカルチドリの声が響いていました。
 時間的に問題か、と思いましたが、コガモ、ヒドリガモ、ウグイス、カケスなど今季初の出会いや、チョウゲンボウやカワセミにも会え、カイツブリの成長も見られ、天気もよく、よい探鳥となりました。
 
 13日、片柳町自宅にジョウビタキが飛来しました。
 
鳥リスト
キジ、カルガモ、コガモ、ヒドリガモ、カイツブリ、ダイサギ、チュウサギ、コサギ、アオサギ、バン、イカルチドリ、チョウゲンボウ、カワセミ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、カケス、ヒヨドリ、ツバメ、スズメ、セグロセキイ、ハクセキレイ、ホオジロ

 
 







永野川2016年10月上旬
7日
 一昨日、ようやく台風が過ぎて穏やかな天気となり、9時ころ家を出ました。
川の水量はひとまず少なくなり澄んできました。
 調整池のカイツブリのヒナは親の3分の2ほどに成長し、顔の模様は少なくなっていました。前回から12日目ですが、早く成長するものですね。
 周囲の浮草はすべて片づけられたようで、巣も見えなくなっていました。少しの間親鳥といっしょに泳いでいたのですが、その後、ヒナが一カ所にとどまっていましたから、そこが巣の名残なのかもしれません。親は潜水しながら、かなり遠くまで行っていました。西側の池にも、成鳥が1羽います。
 
 上人橋から入ると、上空をヒヨドリが10羽の群れで通り過ぎ、その後、赤津川新井町6羽、滝沢ハム近くでも6羽と、群れで移動していきました。
 上人橋上の川岸にアオサギ1羽、コサギが2羽、このところコサギは毎回現れます。帰りにはチュウサギが1羽、ここはサギの好きな場所のようです。
 赤津川新井町最上流部で川にバン1羽、少し下ったところにも1羽、額板が少し目立つ緑色になって来ていました。
 少し下ったところの川岸の草むらに、スズメではない、少し小さめの鳥が動き、次の瞬間対岸に移りました。大きさは同じくらいでしたが、少し違うようにも見え、2羽いたのかもしれませんが、最初のものは、特徴をとらえられませんでした。
 二番目にみたものは、腹面が下はごくうすい茶色で、咽喉付近が少し濃い茶色になっていて、背中は濃い茶色で模様がありました。眼はヒタキ類のように見えました。帰って図鑑で調べると、ノビタキ成鳥♀のようでした。
今いろいろの鳥が渡っているというお知らせをいただくので、気をつけてはいたのですが、これが初めてです。咋年は見損なっていたので、ひとまずは嬉しいことでした。
 上空にトビ一羽舞いました。モズが川を横切って電線に留りました。この辺では高鳴きは治まったようでした。その後行った大岩橋から大砂橋までの間では、3羽があちこちで高鳴き中、睦橋付近に来た時も、典型的に木の頂きに留って高鳴きする姿が見えました。高鳴きは場所によって時期が違うのでしょうか。
 カルガモがずっと見えなかったのですが、帰り際に、栃木陶器瓦付近で2羽、上空を飛んで4羽、大岩橋付近で7羽、上人橋で7羽、と出てきて、ひとまず安心しました。公園内では川岸のオオイヌタデあるいはサクラタデ(オオベニタデではない)を咥えて引き寄せては採餌しているカルガモを見かけました。この感じで稲を食べられてしまうと、害鳥になってしまうようですね。
 今年はこのタデが公園内のワンドなどに繁殖して様相を変えてしまっています。これも洪水が原因のようです。
 上人橋の上の河川敷でホオジロの声を2回聴きました。
 大岩橋上北岸のハリエンジュに、シジュウカラ2羽とエナガ7羽の群れが見えました。シジュウカラの声でエナガを見つけることがよくあります。5分後に南岸に来た時も、エナガの8羽群れを見たのですが、これは北岸と同じ群れでしょうか。いつも迷うところです。
 二杉橋まで下りて来ると第五小側の護岸が一瞬青く光って動き、カワセミでした。双眼鏡に入れてみると、まだ小さく色もはっきりしない幼鳥のようです。先日 
大砂橋近くで見た個体でしょうか。
 ここでやっと、ハクセキレイとセグロセキレイが一瞬飛ぶのが見えました。
草地でセイタカアワダチソウが鮮やかに花を咲かせています。この嫌われものも、もうじき鳥たちの貴重な食べ物になるのでしょう。それを思うと外来種というだけで否定することはできません。正確な知識がない分、漠然と難しいことに思えます。
 
鳥リスト
カルガモ、カイツブリ、ダイサギ、チュウサギ、コサギ、アオサギ、バン、トビ、カワセミ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、シジュウカラ、ヒヨドリ、エナガ、ノビタキ、スズメ、セグロセキイ、ハクセキレイ、ホオジロ

 
 







永野川2016年9月下旬
25日
 ようやくよいお天気になり、9:30ころ二杉橋から入りました。
 少し上った西岸の民家のテレビアンテナで、モズがはっきりと高鳴きとわかる声で鳴いていました。今日はモズが一斉に高鳴きをしていました。上人橋の手前の東岸、民家の大木、大岩橋の近く永野川の南岸の電線、赤津川、泉橋の少し上の電線、新井町栃木陶器瓦の対岸の民家の大木など。
ちなみに片柳町の自宅前の民家のテレビアンテナでも、今季初の高鳴きを聞きました。
 調整池のカイツブリの雛、1羽は順調に育っているようです。巣の上にじっとしていて、親鳥1羽のみが周囲で潜水を繰り返していました。
 ヒヨドリが動きはじめたようです。二杉橋上で2羽、高橋で10羽、上人橋で3羽、公園で3羽、上空を鳴いて横切っていきました。
 睦橋下の河川敷でカルガモ13羽、上人橋下の河川敷で13羽、西の調整池で8羽、少しずつ数を増してきました。
 睦橋付近には少し中州が残っていてダイサギ1羽、セグロセキレイ1羽、カワウが1羽見えました。中州はこのあたりしかなくなっています。
 上空をキジバトが2羽飛びました。
 上人橋付近のサクラ並木でシジュウカラ2羽、川岸にコサギが1羽、これは脚の黄色で確認しました。
 大岩橋の上の川岸にチュウサギ1羽、赤津川西岸の新井町の田にコサギ3羽、チュウサギ1羽の群れ、少し上流の東岸の田にもチュウサギ2羽、大きな群れには会えませんが、そこここに白い形が見えます。
 赤津川を下ってくると、久しぶりでバン2羽、ムクドリ2羽、そしてツバメが1羽、迷った感じで上り下りを繰り返しています。もう仲間は渡ってしまったのでは?と思います。
 公園で、カラス大ですが色が薄い感じ、と思って双眼鏡に入れるとオオタカでした。公園を少し旋回して川を上っていきました。
 合流点でアオサギ1羽、じっと流れをみつめている感じで、留まっていました。
 相変わらず水量が多く、中州に来る鳥が来られず、鳥種が増えません。でもモズの高鳴きが始まって、少し季節が動き出したようです。ヒガンバナは今が盛りです。
 
鳥リスト
カルガモ、カイツブリ、キジバト、カワウ、ダイサギ、チュウサギ、コサギ、アオサギ、バン、オオタカ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、シジュウカラ、ツバメ、ヒヨドリ、ムクドリ、スズメ、セグロセキイ

 
 







「植物園」になった競馬場 
        (9月29日に投稿した同タイトルの文に、新しい資料を加えて修正しました。)
 童話「ポラーノの広場」のプロローグで、主人公キューストは、〈植物園に拵へ直すといふので……役所の方にまはってきた〉競馬場の跡地の建物に住んで毎日楽しく役所に通っています。
 この〈植物園に拵へ直す〉ということついては天沢退二郎先生(注1)が、〈用途変更というそれ自体夢魔の住みつくところで少年たちをユートピアに導くのが可能な場所〉とされています。 
 また、岡村民夫先生(注2)は、モダンで文化的な施設が田園的なものと共存しながら発展していく「郊外」に開設される「競馬場」が、キューストの文化的な生活を可能にしているとされました。
 古くは神事に始まり、ついで馬産農家の飼育した馬のコンテストの場となった競馬場は、馬産県岩手にとっても、当時の農民にとっても、ある種栄光の場所でした(注3)。
 そして賢治の生存中も菜園競馬場から黄金競馬場へ、賢治の没年には新黄金競馬場へと、いつも発展的意味を持って移転が繰り返され、広い跡地は、当時農地や学校として利用されてきました。現実には〈植物園に拵へ直す〉ことはありませんでしたが、賢治の意識の中の〈植物園〉は、卒業後も足を向けていた、農業の向上を目的とした高等農林の植物園や、上京時に訪れていた、常に最新の学術的成果が見られる東大の付属植物園で、理想の場所への変更の象徴として設定されたものだと思います(注3)。
 
 平成8年に新競馬場が現在の新庄字八木田地区に開場し、賢治の時代の名残を感じる上田の新黄金競馬場跡地はどうなるのか気になっていましたが、偶然、既に2年前に、環境教育のための「エコアス広場」や、公園となっていることを知り、賢治祭の帰りに回ってみました。
 高松公園とエコアス広場のの境界は無くて、向こう端が見えない程の広大な芝生で、芝生の中にガマやヨシで囲まれた小さな池、鳥の観察台、水遊びのできる池、まだ成長していない木々、説明パネルなどが点在していました。
 盛岡市のHPによると、跡地はほとんどが岩手県競馬組合の所有でしたが、平成13年から開発公社を経て市が取得し、跡地21ヘクタールのうち17ヘクタールが以下の割合で整備されました。
 
公園ゾーン2.07ha(面積割合12.1% 多目的芝生広場,自然いっぱいの森,桜のプロムナード,駐車場)
環境ゾーン(エコアス広場 6.09ha 35.7% 資源のリサイクルや自然エネルギーの不思議,農を通じた土,生命の不思議など様々な環境学習を通じて環境問題を考える場、ビオトープの広場,市民菜園)
自由広場ゾーン5.14ha 30.1%)
保健福祉ゾーン1.76ha(0.3%)
ミニバスターミナルゾーン0.35ha(2.0%)
道路1.67ha(9.8%)
 
 エコアス広場の内容は
いこいの花畑(バイオマス資源の活用と資源循環の仕組みを学べるゾーン)、
光のガーデン(照明灯は全て太陽光発電や風力発電により、再生可能エネルギーを身近に感じるゾーン)
観察の木陰(自然観察のために生物に出会える池・樹木など)
    環境について簡単に学べるパネル、合計10カ所 

 この変更は、植物園ではありませんが、もしかしたら賢治の意図にも限りなく近いのではないか、と勝手に思い込んで喜んでいます。普通だったら商業施設になってしまうかもしれない場所がこのような形となり、その80パーセント近くを、自然に溶け込んだ環境学習のための広場や公園にすることが出来たのは、やはりここはイーハトーブだからだ、と思います。
 ただ、近くを歩いている人さえ場所を知らず、整備されているのに利用する実態が見えてこない気もします。また自然環境の学習という点では、少し競馬場の部分を残して整備したほうがよかったのではないか、と思います。ただ実際は公園や民家の近くに「自然」を置こうとすると、様々な利害関係や衝突を生み困難なことは、以前環境関係の仕事を手伝っていた時、苦い思いとともに知りました。
 これが「用途変更」という改革なのだ、と思います。仮に賢治がこの場所を任されたとしても、この広さに胸を躍らせて、全く新しい広場をつくったのではないでしょうか。
 この新しく作られた広い人工的な自然が、本来の自然に近づき、本当の環境教育の場として育つには、さらに時間と人智が必要でしょう。                   
 
注1 「ポラーノの広場」あるいは不在のユートピア―プロローグをめぐって
(『国文学解釈と鑑賞』1984 『〈宮沢賢治〉鑑』 筑摩書房1986)
注2 「ポラーノの広場」の競馬場 賢治郊外学のために(『賢治学第二輯』2015)
注3 拙稿 「ポラーノの広場」の競馬場
(『宮沢賢治 絶唱 かなしみとさびしさ』勉誠出版 2011)