4、「ポラーノの広場」―《広場》の現実―
その五日後、ファゼーロたちは、広場の場所の見当がつき、キューストを誘います。キューストもすっかり引き込まれ、胸を躍らせてしまいまいます。
夕暮れの野原を、今度はつめくさの明かりを頼らず、昼間作って置いた目印を目当てに進みます。暗く遠い目当ての木と反対に、つめくさの花は〈石英でできてゐるランプのやうに〉輝きましたが、道順を教えるものではありませんでした。
次に目当てとなったのは、現実の現象―明かりに集まる甲虫の羽音、そして、楽器を奏でる音と人の話し声でした。そこは日の落ちた野原で〈何の木か七八本の木がじぶんのからだからひとりで光でも出すやうに青くかゞやいてそこらの空もぼんやり明るくなってゐ〉る程明るかったのです。
ついに見つけた、と思ったとたん、そこには〈山猫博士〉―県会議員のデストゥパーゴがいました。この地方の顔役、ファゼーロの雇い主も従え、姉のロザーロにも興味を示す、《悪役》です。
突然迷い込んだようなキュースト達は、招かれざる客でした。
キュースト達の落胆に拍車をかけるようにデストゥパーゴの攻撃が始まり、ついに決闘になります。酔って子供にまで決闘を申し込む、山猫博士の人間的価値を浮き彫りにする描写です。
デステパーゴが退場した後、それまで取り巻いていた人たちが、ここが選挙のための供応の場所で、酒も密造酒であることを暴露します。それも浅ましい人の姿です。
デストゥパーゴのみっともない姿、周囲の節操のなさ、社会の現実が全開の描写で、ポラーノの広場の野原は終ってしまいます。
さらにキューストは、意図せず雇い主の怒りを買ってしまったファゼーロを気にかけながら、役人の事なかれ主義でそのまま別れてしまいまったという現実も書き込み、そこから次章へと発展していきます。
誰もが行って歌うことができ、歌が上手になる、美しい昔ばなしの現実を、作者はなぜ描かなければならなかったのでしょう。
追憶という流れの中の一場面で、敢えて描かれた現実は、現実から発展していく物語であることを表し、単なるファンタジーの域を脱することができています。
5、インターバルとしての3ヶ月―風の吹かない日々
@「警察署」―現実の続き―
キューストの案じたファゼーロの窮状が現実となり、ファゼーロは失踪してしまいました。そのことは警察に呼び出されるまで知りませんでした。
キューストは山猫博士の仕業と疑いますが、山猫博士も行方不明でした。
警察官とキューストの対話は、現実の社会と、キューストの「信じる」尺度の違いが、漫画チックに表現されて見事です。
……
「君はファゼーロをどこかへかくしてゐるだらう。」
「いゝえ、わたくしは一昨夜競馬場の西で別れたきりです。」
「偽を云ふとそれも罪に問ふぞ。」
「いいえ。そのときは廿日の月も出てゐましたし野原はつめくさのあかりでいっぱいでした。」
「そんなことが証拠になるか。そんなことまでおれたちは書いてゐられんのだ。」……
……
「きみはファゼーロの居ないことをさっきまで知らなかったのか。」
「はい。」
「何か証拠を挙げられるのか。」
「はい、ええ、昨日と今日役所での仕事をごらん下さればわかります。わたくしはあれですっかりかたが着いたと思ってせいせいして働いていたのであります。」
「それも証拠にはならん。おい、君、白っぱくれるのもいい加減にしたまえ。テーモ氏からそう索願が出てゐるのだ。いま君がありかを云へば内分で済むのだ。でなけあ、きみの為にならんぜ。」……
事実は違う方向に進みますが、この時点ではキューストは不安に駆られます。ファゼーロの姉ロザーロのかなしみの様子はまたキューストとは違った深いあきらめに包まれているようです。
……
すると出口の桜の幹に、その青い夕方のもやのなかに、ロザーロがしょんぼりよりかかってかなしさうに遠いそらを見てゐました。わたくしは思はずかけよりました。
「あなたはロザーロさんですね。わたくしはどこへさがしに行ったらいいでせう。」
ロザーロが下を見ながら云ひました。
「きっと遠くでございますわ。もし生きてゐれば。」
「わたくしがいけなかったんです。けれどもきっとさがしますから。」
「えゝ、」
「デストゥパーゴはゐないんですか。」
「ゐないんです。」
「馬車別当は?」
「見ませんでした。」
「あなたのご主人は知ってゐないんですか。」
「えゝ。」
「捜索願をわざと出したのでせう。」
「いゝえ。警察からも人が来てしらべたのです。」
「あなたはこれから主人のとこへお帰りになるんですか。」
「えゝ、」
「そこまでご一所いたしませう。」
わたくしどもはあるきだしました。わたくしはいろいろ話しかけて見ましたが、ロザーロはどうしてもかなしさうで一言か二言しか返事しませんのでわたくしはどうしてももっと立ち入ってファゼーロと二人のことに立ち入ることができませんでした。そしてこの前山羊をつかまえた所まで来ますとロザーロは「もうじきですから」と云ってじぶんからおじぎをして行ってしまひました。……
この、ロザーロの生も死もすべてあきらめているような状態、これはじっと不幸に耐えて来た人の姿と言えるでしょう。それに対し
……
わたくしはさびしさや心配で胸がいっぱいでした。そしてその晩から毎晩毎晩野原にファゼーロをさがしに出ました。日曜にはひるも出ました。ことにこの前ファゼーロと分れた辺からテーモの家までの間に何か落ちてないかと思ってさがしたりつめくさの花にデストゥパーゴやファゼーロのあしあとがついてゐないかと思って見てまわったりデストゥパーゴの家から何か物音がきこえないかと思って幾晩も幾晩もそのまはりをあるいたりしました。
前の二本の樺の木のあたりからポラーノの広場へも何べんも行きました。もうそのうちにつめくさの花はだんだん枯れて茶いろになり、ポラーノの広場のはんのきにはちぎれて色のさめたモールが幾本かかかっているだけ、ミーロへも会いませんでした。警察からはあと呼び出しがありませんでしたのでこっちから出て行ってどうなったかきいたりしましたが警察ではファゼーロもデストゥパーゴも、まだ手がゝりはないが心配もなからうといふやうなことばかり云ふのでした。そしてわたくしも、どういうわけか、なれたのですかつかれたのですか、ファゼーロはファゼーロでちゃんとどこかにゐるといふやうな気がしてきたのです。……
キューストのあきらめは、たくさん心配し、探し、警察を訪ね、結果として安全なのであろうという予感を得ます。それもあきらめと言えば言えなくもありませんが、ロザーロの悲痛を押し隠したあきらめとは別で、これは幸いな人のなせる技なのです。ここにも二つの世界の対比が描かれます。
この章で、作者は、たとえ偽りのものではあっても「ポラーノの広場」を訪ねた後の現実を描きますが、そこにも二つの世界の違いを明確に描いて、主題にせまろうとしています。
A「センダード市の毒蛾」―現実の証明―
キューストは、ファゼーロの行方も分からないまま、自分の現実の生活に追われていましたが、8月になって、「海産鳥類の卵採集の為に八月三日より二十八日間イーハトーヴォ海岸地方に出張を命ず。」というご褒美とも言える出張命令を受けて、〈イーハトーヴォ海岸〉―三陸海岸であろう―に出かけます。 それは〈イーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町〉―鮫―から、〈その六十里の海岸を町から町へ、岬から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったりそしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら二十幾日の間にだんだん南へ移って〉行きます。
これは、かつて三陸詩群―三三八「異途への出発」(一九二五、一、五 「春と修羅第二集」)から「峠」(一九二五、一、九、)―に詠み込まれた行程を下地にしています。
詩群に描かれる、失意のうちに旅に出て、次第に豊かな海に癒されていく様子と同様に、キューストは、海辺の人達の暖かいもてなしに感激します。でもその幸せの中で、辛い仕事に耐えているロザーロや、疲れた体でもてなしてくれる人々を思い、〈わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ、みんなの〔数文字分空白〕とひとりでこゝろに誓い〉ます。
キューストは何を出来るかという事より、まず何かをやらねば、という思いだけで燃えています。
この思いは、いつもキューストを力づけるもののようです。この結果、キューストのなし得たものは何か、これは今後考えて行くなかで重要なことになりそうです。
旅の終りに、キューストはセンダ―ド―仙台か―の大学に行くために、センダ―ドのホテルに宿泊します。町には毒蛾が発生していました。
ここでの状況は短篇「毒蛾」を下地にしていて、そのまま挿入した部分もあります。
「毒蛾」は、大正11年7月下旬の、盛岡市の毒蛾発生を題材にしています。
岩手日報大正11年7月17日付に掲載された岩手県師範学校、鳥羽源蔵寄稿「毒蛾の発生」、7月19日付記事、20日付記事にその惨状が大きな紙面を割いています。
「毒蛾」では毒蛾の発生に慌てる人々と冷静に立ち向かう人々が対照的に描かれます。そして花巻を思わせるハームキャの街では、きちんと防御されているにもかかわらず、発生はしていなかった、という事態と、蛾の毒性を確かめる実験のために苦労して1頭見つけたという皮肉めいた結末を描きます。
毒蛾にやられて大騒ぎする人物が、ここでは〈マリオ競馬会の会長か、幹事か技師長のような〉偉い人でした。競馬について作者は肯定的な捉え方をしていますが、それを牛耳る一部の人に対してはよい感情を持っていなかったのでしょうか。
「ポラーノの広場」では、それを行方不明だったデストゥパーゴと置き換えて、物語の方向付けをしていきます。それは毒蛾の発生という事件と絡めて見事な展開となっています。 ……
そこへ立って、私は、全く変な気がして、胸の躍るのをやめることができませんでした。それはあのセンダードの市の大きな西洋造りの並んだ通りに、電気が一つもなくて、並木のやなぎには、黄いろの大きなランプがつるされ、みちにはまっ赤な火がならび、そのけむりはやさしい深い夜の空にのぼって、カシオピイアもぐらぐらゆすれ、琴座も朧にまたゝいたのです。どうしてもこれは遙かの南国の夏の夜の景色のやうに思はれたのです。私は、店のなにかのぞきながら待ってゐました。いろいろな羽虫が本統にその火の中に飛んで行くのも私は見ました。向ふでもこっちでも、繃帯をしたり、きれを顔にあてたりしながら、まちの人たちが火をたいていました。……
デストゥパーゴの後をつけた、電燈の消された町の情景は、不思議な美しさをたたえて、デストゥパーゴへの糾弾の場面と対比をなしています。
そこでデストゥパーゴの話すことは、キューストの想像と違っていました。
ファゼーロの失踪とは関係ないこと、林の中で木材の乾留工場をやっていたが、薬品の相場の変動でうまくいかなくなり、密造酒に手を染めたこと、〈ポラーノの広場〉
では、それを逆に脅されて自棄になって酔っていたことなどでした。
後にはこれが偽りだとわかるのですが、ここでは、キューストは信じて同情さえします。そこにもキューストの実社会とのずれが―幸せな人としての―が描かれます。 ……
「ロザーロは変りありませんか。」デストゥパーゴは大へん早口に云ひました。
「ええ、働いてゐるようです。」わたくしもなぜかふだんとちがった声で云ひました。……
最後にキューストとデストゥパーゴのロザーロに対する、微妙な思いが2行の中に描かれ、この表現も見事だと思います。
この稿で取り上げた部分には、風は役所の上司の部屋にのみある扇風機が、いくらかの風を送っている場面と、ホテルで扇風機を独占する老人の身勝手さの場面でしか吹きません。「風の吹かない」世界も一つの象徴であると思います。(次稿に続く)