U「ポラーノの広場」の背景
1、「ポラーノの広場」の成立
「ポラーノの広場」の成立は1927(昭和2)年以降と推定されますが、先駆形として
@ 「ポランの広場」(1924(大正13)年以前成立)
A その第三章を戯曲化して1924(大正13)年に農学校の生徒に演じさせた戯曲「ポランの広場」、
B 「ポラーノの広場」の手入れ前稿
があります。
「ポランの広場」では主人公の名前はキュステで、一緒に〈ポランの広場〉を探すファゼロは小学生です。山羊の行方不明という事件はなく、野原で出会ったことのみが記されます。ただ定稿として採用されなかった文には、野原でファゼーロが山羊と追いかけっこをして最終的には山羊を捕まえてくれる過程が描かれ、それによって、ポランの広場を探しにいくきっかけが生まれます。
最もページを割くのが「三 ポランの広場」の章です。それは仮装舞踏会という設定で、仮装の衣装、会場の装飾、夜空を飛び交う蝶や甲虫などが色彩豊かに描かれ、また会場でのやりとりも魔法めいていてファンタスティックです。
山猫博士は〈山猫を釣って来てならして町へ売る商売〉とのみ記されます。山猫博士の会場での乱脈ぶりも、ファゼーロとの決闘のきっかけも場面も「ポラーノの広場」とほぼ同じですが、山猫博士が逃げた後、そこでは楽しく舞踏会が続きます。
その後もう一度ポランの広場へ行きたいというキュステに対してのファゼロの言葉では、ツメクサの花が終わったら、もう広場へは行けないという設定です。
そのあとの章は原稿が失われたためでもありますが、キュステが海岸へ出張する予定と、毒蛾の発生が暗示されるのみです。
「ポラーノの広場」との決定的な違いは、まずファゼロが小学生であり、働く環境や雇い主の非情さなどが描かれず、姉ロザーロも存在しません。
悪役山猫博士も、市会議員、密造酒の会社の社長という社会的な身分や、選挙の事前運動のための集まりという設定もありません。原稿の喪失に加えて、物語の社会的背景がないので物語の展開の必然性を欠き、完成度は低いと思います。
ただファンタジイの要素はここで生まれていると言えるでしょうか。
その「三 ポランの広場」を劇に改作して、作者は農学校の生徒と上演しています。確かにこの部分の音楽性やファンタスティックな部分は、劇化したらとても魅力的だったろうと思います。
「ポラーノの広場」の手入れ前稿では、「六、風と草穂」に大きな相違があります。新しい広場の計画が話される中で、キューストは未来に向けての理想を述べますが最終稿では削除されます。主な削除された部分を記してみます。
「なにをしやうといってもぼくらはもっと勉強をしなくてはならないと思ふ。かうすればぼくらが幸になるといふことはわかってゐてもそんならどうしてそれをはじめたらいゝかぼくらにはまだわからないのだ。町にはたくさんの学校があってそこにはたくさんの学生がゐる。その人たちはみんな一日一ぱい勉強に時間をつかへるし、いゝ先生は覚えたいくらゐ教へてくれる。僕らには一日に三時間の勉強の時間もない。それも大ていはつかれてねむいのだ。先生といったら講義録しかない。わからにないところができて質問してやってもなかなか返事が来ない。けれども僕たちは一生けん命に勉強していかなければならない。ぼくはどうかしてもっとべんきょうできるやうなしかたをみんなでやりたいと思ふ。」
という子供の意見に対して、キューストは〈思はずはねあがって〉思いを語ります。
「諸君の勉強はきっとできる。きっとできる。町の学生は勉強はしてゐる。けれども何のために勉強してゐるかもう忘れてゐる。先生の方でもなるべくたくさん教えやうとしてまるで生徒の頭をつからしてぐったりさしてゐる。そしてテニスだのランニングも必要だと云って盛んにやってゐる。諸君はテニスだの野球の競争だなんてことはやらない。けれども体のことならやり過ぎるくらゐやってゐる。けれどもどっちがさきにすすむだらう。それは何といっても向ふの方が進むだらう。そのときぼくらはひどい仕事をしたほかにどうしてそれに追い付くか。さっきの諸君の云ふ通りだ。向ふは何年か専門で勉強すればあとはゆっくりそれでくらして、酒を呑んだり、うちをもったりだんだん勉強しなくなる。こっちはいつまでもいまの勢で一生勉強していくのだ。
諸君酒を呑まないことで酒を呑むものより一割余計の力を得る。たばこをのまないことから二割よけいな力を得る。まっすぐに進む方向を決めて頭のなかのあらゆる力を整理することから、乱雑なものに比べて二割以上の力を得る。さうだあの人たちが女のことを考へえたりお互の間の喧嘩のことでつかふ力をみんなぼくらのほんたうの幸をもってくることにつかふ。見たまへ諸君はあれらの人たちにくらべて倍の力をえるだらう。けれどもかういふやりかたをいままでのほかの人たちに強ひることはいけない。あの人たちはあゝいふ風に酒を呑まなければ淋しくて寒くて生きてゐられないやうときにうまれたのだ。
僕らはだまってやって行かう。風からも光る雲からも諸君にはあたらしい
力が来る。そして諸君はまもなくここへ、ここのこの野原へむかしのお伽噺よりももっと立派なポラーノの広場をつくるだらう。」
「さうだ、諸君、あたらしい時代はもう来たのだ。この野原のなかにまもなく千人の天才が一緒にお互に尊敬し合ひながらめいめいの仕事をやって行くだらう。ぼくももうきみらの仲間にはいらうかなあ。」
「あゝはいっておくれ。おい、みんな、キューストさんがぼくらのなかまにはいると。」「ロザーロ姉さんをもらったらいゝや」だれかゞ叫びました。わたくしは思はずぎくっとしてしまひました。いいや、わたくしはまだまだ勉強しなければならない。この野原に来てしまってはわたくしにはそれはいゝことではない。
「いや、わたくしはいらないよ。はいれないよ。なぜなら、もうわたくしは何もかもできるといふ風にはなっていないんだ。私はびんばうな教師の子どもに生まれてずうっと本ばかりを読んで育ってきたのだ。諸君のやうに雨にうたれ風に吹かれて育ってきてゐない。ぼくは考はまったくきみらの考だけれども、からだはさうはいかないんだ。けれどもぼくはぼくできっとしごとをするよ。ずうっと前からぼくは野原の富をいまの三倍もできるやうにすることを考へてゐたんだ。ぼくはそれをやっていく。」
演説は、「農民芸術概論綱要」の思想を反映し、熱く心を打つものです。その自分の思いに押されるようにキューストはファゼーロたちとともに野原の建設に加わろうと一度は思います。しかし、ファゼーロの姉ロザーロへの想いを指摘されると、たじろぎ、その思いをのみ込んでしまいます。思いが熱い分だけ、それをあきらめるキューストの悲しみの深さが強く伝わってきます。
ロザーロへの思いを、キューストは自分に許されないものとしていたのでしょうか。その思いを未来の希望のなかに組み込むことも、許さなかったのです。
作者には、キューストのロザーロへの思いや、未来図の中に自分を書き加えるか否かという一瞬の迷いは、未来に向けた物語の展開上、ふさわしくない、という思いがあったのではないでしょうか。また熱い理想も、一つの物語の中でとらえると、生硬であるようにも思えます。
この部分については、作者の実人生と重ねて論じられ、そこに羅須地人協会の挫折と作者の理想の甘さを見る論(注1)ほか、否定的にに捉えられることが多いようです。
また、この削除について、書簡488(昭和8年9月、柳原昌悦当て)、日付の確定できる生前最後の書簡に見られる、病状悪化の中で記した、それまでの農村活動の高い理想を自分の「漫」として否定したのと同じ心だという見方もあります。(注2)
しかし成立時が確定されない「ポラーノの広場」について、羅須地人協会の挫折の事実や、書簡488と作者の関わりを云うのは避けたいと思います。
削除された部分は、高い理想を持って飛び込んだ農村活動への苦い思いを暗示したかもしれません。しかし定稿では、その後の作者の活動の可能性を暗示しているのではないかと思います。「7、みんなのユートピアとキューストの今―エピローグ」で記したように、最終章にはファゼーロたちの組合の活動とキューストの援助が細かく書き加えられます。
2、〈広場〉の社会的背景としての産業組合
●この作品の制作時期に実際に存在した産業組合は次のようなものです。
1帝国農会から繋がる行政組織の下請け的存在である県農会
2明治33年に公布された「産業組合法」に基づく産業組合。
基本的に生産者の組合で、組合員を個として捉えて主体とするもの。ただし行政の監督、命令下に置かれ、成立、解散も許可制で、ファゼーロの組合のような自立性はありません。
●産業組合の種類
1、信用組合(貯金・貸付)、
2,購買組合(原料等の共同購入・生活用品の掛け売り)、
3,販売組合(組合員の生産物を消費者に販売)、
4,利用組合(耕作機械などの共同購入、共同利用)
ファゼーロの組合は購買組合から販売組合に発展しています。
3、「ポラーノの広場」とユートピア思想
「ポラーノの広場」はユートピア思想を具現化しようとした作品とも言われます。
〈ユートピア〉は、ギリシャ語で〈どこにもない場所〉を意味しますが、現実の都市について、形態や運営の理想像と捉えられることもあります。
作者の接したユートピア思想で、明治3年〜大正中期に広められたL.N.トルストイ(1828〜1910)のユートピア思想は、羅須地人協会で唱えられた芸術と労働の融合の主張があり、物々交換の推奨、貨幣経済への嫌悪などが見られますが、「ポラーノの広場」では物々交換から始まって最終的には販売事業も行って、貨幣経済は認めています。
W・モリス(1834〜1896)の思想は、1921(大正10)年〜1926(大正15)年ころ、生活の芸術化、田園都市構想、教育と啓蒙の重要性などを謳い、当時の思想家、本間久雄・室臥高信・木村毅・柳宗悦などが、それぞれの分野で取り入れて広め、農民芸術概論綱要や、羅須地人協会の活動の理念にも重なる部分があります。
「ポラーノの広場」は、いくつかのユートピア思想からの影響を受けながら、実現可能な場所として描かれていると言えるでしょうか。詳考はまた後の機会にします。
〈ポラーノの広場〉作りのきっかけは、山羊の逃走という偶然から始まり、ファゼーロの出奔、皮革業者との出会い、と幸運が重なっています。ファゼーロの技術の習得も3カ月という短期間ですみ、それまでの雇用関係からも解放されるなど、理想図の一面もありますが、最終的には、それを越える現実的な結果が描かれています。それは、販売経路や原材料の購入など組織的な経営の成功には時間がかかり、そこにキューストやその知人たちの援助や協力がありました。
柳田国男は農村の貧困の対策として産業組合の普及を強くすすめ、組合員(農民)のために、知識人(公吏、資産家、教師、医師、僧侶等)の啓蒙や援助が必要であることを主張ました。(注3)。
キューストは、実際の〈広場〉には加わりませんでしたが、知識人としての援助という形でその任務を果たしています。そしてキューストは産業組合の成功を高く評価していて喜んでいて、自らの関わり方―協力や助言―にも満足しているといえると思います。その意味ではキューストは挫折してはいません。それも作者の考える一つの理想だったと思います。
作者の実人生と照らし合わせれば、知識人としての農村への対し方の限界を認め、肥料設計や石灰の販売などに転換しました。そこに死を迎えなければきっと別な未来が開けていたと思います。
4、「少年小説」という設定について
序説でも書いたように、この物語を作者は、「風野又三郎」、「銀河鉄道の夜」、「グスコーブドリの伝記」とともに「少年小説」として捉えていた時期がありました。
明治20年代から昭和初期にかけて、タイトルに〈少年小説〉と冠したジャンルが生まれました。原抱一庵『少年小説 新年』(青木嵩山堂 明治25年) を始めとして、貧困、いじめ、肉親の病や死や不遇、など逆境にある主人公の少年の立志伝的なものが主流です。
川路柳虹「少年小説 雪空」 (『日本少年』 大正8年一月) ではそのなかに 不幸克服の心を描き、幸田露伴「鉄三鍛」(『少年文学』明治33年10月 内外出版協会)では主人公を救う人物が現れ、 佐藤紅緑「あゝ玉杯に花うけて」(『少年倶楽部』 講談社 昭和2年五5月〜3月は少年の正義感を描くなどそれぞれ特色があります。
有本芳水「少年小説 松前追分」(『日本少年』大正11年六月〜12月 実業之日本社)は父親の職業がラッコやオットセイの狩猟だったことなどは「銀河鉄道の夜」への投影も感じられます。
この『日本少年』は明治39年1月創刊、昭和13年10月終刊で、当時の中学生に広く読まれ、作者も触れていた可能性もあります。有本芳水はここで少年のための小説として「少年小説 松前追分」のような「悲哀小説」のほか、「滑稽小説」、「冒険小説」など、ジャンル別の幅広い作品を書き、その物語の方法など作者も影響を受けたかもしれません。
作者の「少年小説」4作品では、主人公は逆境にある少年とも言えますが、その現状や立志を描くものではなく、どちらかと言えば『注文の多い料理店』広告文で述べられた〈少年少女期の終りころからアドレッセンス中葉に対する一つの文学形式〉に近く、少年の心の成長を主に描いていると思います。なぜ作者が「少年小説」と云う括りを設けたのかということに対する先行論文は管見した限りでは見つかりませんでした。あるいは作者が、物語が読まれるための効果を考えて、世に広まっていたその冠称を考えた、ということもいえるかもしれません。
V終わりに―哀愁について―
この作者が括った「少年小説」で、「銀河鉄道の夜」では、大切な友の死によって知らされる自分の進むべき道、「グスコーブドリの伝記」では命と引き換えにしか手に入れられないユートピア、「風の又三郎」では、突然やって来て突然去っていく友だち、と、いずれも絶対の喪失を描いているのに対し、「ポラーノの広場」では、到達可能なユートピアを描き、失ったものは主人公キューストのユートピアのなかの居場所だけです。
ユートピアや成し遂げた者たちへの追憶は、悲痛ではなく、読むものにも「哀愁」となって響いて来るのではないでしょうか。
加えて、追憶という形で書きはじめられ、更に新しい追憶が積み重ねられていき、その一つ一つが象徴的にその時を描きながら組み立てられながら増幅し、結末の主人公の現在の追憶と絡み合いながら描き出されるためかもしれません。
そして、ちりばめられた背景の、透明な風、青い光、風に光る緑、星雲に喩えられたツメクサの花などとともに描かれる、理想でしかないもの、現実とかけ離れた思い、は、物語に豊かな色彩を与えると同時に、それがユートピアの実現に必要であったことを表すと思います。
注1中村稔『定本 宮沢賢治』(七曜社 1962)
注2 磯貝英夫「ポラーノの広場」(『作品論 宮沢賢治』 双文社1984)
注3『最新産業組合通解』自序 第日本実業会 明治35年11月
(『定本 柳田国男集 第二八巻』 筑摩書房 1964
参考文献
中地文「ジョバンニの悲哀」(『宮沢賢治 17』洋々社 2006)
人見千佐子「イーハトーヴとユートピア」
(『リアルなイーハトーヴ 宮沢賢治が求めた空間』 新典社 2015)
大島丈志「「ポラーノの広場」論 産業組合から見えるもの」
(『宮沢賢治の農業と文学 過酷な大地イーハトーブの中で』蒼丘書林2013)