宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
〔フランドン農学校の豚〕―体を吹き抜ける冬の風 ―
 この物語は、人間の言葉や表情を理解できる豚が人間の放つ言葉に傷つく姿を描きながら、命を取るものと取られるものとの関係を冷徹に見つめます。風は時折吹いて、その場の雰囲気や、登場者の心象を象徴します。
 
 〈フランドン農学校〉の豚は、参考書に、豚は〈…原稿無し…以外の物質は、みなすべて、よくこれを摂取して、脂肪若くは蛋白質となし、その体内に蓄積す。〉と書かれていたため、〈金石でないものならばどんなものでも片っ端から、持って来て〉食べさせられます。生徒の一人が言った、
 
「ずゐぶん豚といふものは、奇体なことになってゐる。水やスリッパや藁をたべて、それをいちばん上等な、脂肪や肉にこしらへる。豚のからだはまあたとへば生きた一つの触媒だ。白金と同じことなのだ。無機体では白金だし有機態では豚なのだ。考へれば考へる位、これは変になることだ。」
 
を聞いて豚は、自分が白金と並べられたのを知って喜んでいましたが、あるとき、餌の中に豚毛の〈ラクダ印の歯磨楊子〉(歯ブラシ)を見つけます。
 
豚は実にぎょっとした。一体、その楊子の毛を見ると、自分のからだ中の毛が、に吹かれた草のやう、ザラッザラッと鳴ったのだ。豚は実に永い間、変な顔して、眺めてゐたが、たうとう頭がくらくらして、いやないやな気分になった。いきなり向ふの敷藁に頭を埋めてくるっと寝てしまったのだ。
 
 風は、豚の心を表して、〈からだ中の毛が、風に吹かれた草のやう、ザラッザラッと鳴ったのだ。〉とその寒々しさの比喩に使われます。〈ザラッザラッと〉というオノマトペは、古くなった歯ブラシの反り返った毛の様子とともに豚の心が傷ついている様子も表しているようです。
 
晩方になり少し気分がよくなって、豚はしづかに起きあがる。気分がいゝと云ったって、結局豚の気分だから、苹果のやうにさくさくし、青ぞらのやうに光るわけではもちろんない。これ灰色の気分である。灰色にしてやゝつめたく、透明なるところの気分である。さればまことに豚の心もちをわかるには、豚になって見るより致し方ない。
 外来ヨークシャイヤでも又黒いバアクシャイヤでも豚は決して自分が魯鈍だとか、怠惰だとかは考へない。最も想像に困難なのは、豚が自分の平らなせなかを、棒でどしゃっとやられたとき何と感ずるかといふことだ。さあ、日本語だらうか伊太利亜語だらうか独乙語だらうか英語だらうか。さあどう表現したらいゝか。さりながら、結局は、叫び声以外わからない。カント博士と同様に全く不可知なのである。
 
 作者は豚の心情を書きながら大変冷静です。本来は絶対わかることのない動物の心情や、それに寄せる自分も含めた人間の身勝手さも含めて、皮肉を込めて書いています。
 豚はどんどん太っていきますが、毎日、豚の太り具合を見に来る畜産科の教師が気になります。自分を太らせることのみ考えている人間を見透かした豚は、いたたまれない気分です。
 ある時、その国の王は、家畜撲殺同意調印法―誰でも家畜を殺そうというものは、その家畜から死亡承諾書を受け取ること、また、その承諾書には家畜が調印すること―という布告を出しました。これほど人間の身勝手さを表すものはありません。殺されるものが自分で承諾したことで、殺すものは免罪符を得るのです。 豚のところにも、フランドン農学校の校長が承諾証書をもって来ました。ここでは風は冷たく吹き込んで、小屋の中に雪をためて、豚のつらさを暗示するようです。
 
そのあとの豚の煩悶さ、(承諾書といふのは、何の承諾書だらう何を一体しろと云ふのだ、やる前の日には、なんにも飼料をやっちゃいけない、やる前の日って何だらう。一体何をされるんだらう。どこか遠くへ売られるのか。あゝこれはつらいつらい。)豚の頭の割れさうな、ことはこの日も同じだ。その晩豚はあんまりに神経が興奮し過ぎてよく睡ることができなかった。
 
(見たい、見たくない、早いといゝ、葱が凍る、馬鈴薯二斗、食ひきれない。厚さ一寸の脂肪の外套、おお恐い、ひとのからだをまるで観透してるおお恐い。恐い。けれども一体おれと葱と、何の関係があるだらう。ああつらいなあ。)
 
 豚が何かを感じ取ったのを知って、いったん校長は去って行きますが、その後にやってくる、畜産学の教師や生徒たちの放つ撲殺をほのめかす言葉に、豚は傷つきます。
 
「そこで実は相談だがね、私たちの学校では、お前を今日まで養って来た、大したこともなかったが、学校としては出来るだけ、ずゐぶん大事にしたはずだ。お前たちの仲間もあちこちに、ずゐぶんあるし又私も、まあよく知っているのだが、でさう云っちゃ可笑しいが、まあ私の処ぐらゐ、待遇のよい処はない。」……「つまりお前はどうせ死ななけぁいかないからその死ぬときはもう潔く、いつでも死にますと斯う云ふことで、一向何でもないことさ。死ななくてもいいうちは、一向死ぬことも要らないよ。ここの処へただちょっとお前の前肢の爪印を、一つ押しておいて貰ひたい。それだけのことだ。」
 
「いやかい。それでは仕方ない。お前もあんまり恩知らずだ。犬猫にさへ劣ったやつだ。」校長はぷんぷん怒り、顔をまっ赤にしてしまい証書をポケットに手早くしまい、大股に小屋を出て行った。
「どうせ犬猫なんかには、はじめから劣ってゐますよう。わあ」豚はあんまり口惜しさや、悲しさが一時にこみあげて、もうあらんかぎり泣きだした。けれども半日ほど泣いたら、二晩も眠らなかった疲れが、一ぺんにどっと出て来たのでつい泣きながら寝込んでしまふ。その睡りの中でも豚は、何べんも何べんもおびえ、手足をぶるっと動かした。
 
  そんな豚の気持ちも知らず、また校長がやってきて、承諾書の押印を迫ります。校長の言葉はまさしく人間の身勝手な言い分です。承諾書の内容を知った豚の抵抗の言葉は激しく切ないものですが、校長は怒りしか感じず、その場を去ります。 
 まもなく来る死を悟った豚はやせてしまいます。太らせることのみ考えている人間、まず畜産科の教師は、まずは豚の気分を直そうと、おいしいキャベツを与えたり散歩させたり、という方法をとります。助手は、〈チッペラリー〉を口笛で吹きながらやってきます。〈チッペラリー〉は 原題「It’s a long long way to Tipperary」という曲で、第一次大戦の時、イギリス軍兵士の間で広く歌われ大戦後はヨーロッパやアメリカでも大流行したもので、日本では浅草オペラに取り入れられ、広まりました。作者は自作の劇「飢餓陣営」の開幕前に、この旋律で〈私は五聯隊の古参の軍曹〉を歌わせました。人の無情さ、気楽さを豚の心情と対比させる小道具です。
 散歩に連れ出す助手の言葉が〈「少しご散歩はいかがです。今日は大へんよく晴れて、風もしずかでございます。それではお供いたしましょう、」〉で、風はごくうわべの機嫌取りの言葉の中に使われます。
しかし豚は回復せず、校長は強制的に承諾書に押印させて、教師は強制肥育という手段を執ります。豚は口に管を押し込まれ食べ物を流し込まれます。この描写は読むのがつらいくらい過酷です。
 
 こんな工合でそれから七日といふものは、豚はまるきり外で日が照ってゐるやら、が吹いてるやら見当もつかず、ただ胃が無暗に重苦しくそれからいやに頬や肩が、ふくらんで来ておしまひは息をするのもつらいくらゐ、生徒も代る代る来て、何かいろいろ云ってゐた。
 
 豚はその状況でも確実に太って行きました。胃が重く、体が膨らんでいるのを感じるだけで、外の日の光も、風も全く感じられません。ここでは風は、外界を象徴する良きものとして使われます。生徒たちの話は、豚の体の比重を考えたり肉の量を推測したり、豚は傷つきます。
 7日が過ぎ、豚は周囲の人間の言葉から、撲殺の日を悟ってしまいます。豚の心情にかまわず進められる撲殺の準備からその瞬間までの描写が非情です。豚は人間のために清潔にした豚小屋で、きれいに体を洗われ、太陽のまぶしい雪の上で撲殺され切断されます。
 
一体この物語は、あんまり哀れ過ぎるのだ。もうこのあとはやめにしよう。とにかく豚はすぐあとで、からだを八つに分解されて、廏舎のうしろに積みあげられた。雪の中に一晩漬けられた。
 さて大学生諸君その晩空はよく晴れて金牛宮もきらめき出し二十四日の銀の角、つめたく光る弦月が、青じろい水銀のひかりを、そこらの雲にそゝぎかけ、そのつめたい白い雪の中、戦場の墓地のやうに積みあげられた雪の底に豚はきれいに洗はれて八きれになって埋まった。月はだまって過ぎて行く。夜はいよいよ冴えたのだ。
 
 雪の中に埋められた豚の上には、〈金牛宮もきらめき出し二十四日の銀の角、つめたく光る弦月が、青じろい水銀のひかりを、そこらの雲にそそぎかけ、〉という風景を豚への鎮魂のように作者は用意しています。それまでの文中にはなかった、美しい光の描写です。この作品では、風は現実を象徴し、最後に光が作者の祈りを表しています。
 
 この作品の初期形が書かれたのは1922〈(大正11)年後半から1923(大正12)年前半と推定されます。 
では、作者は、命を取るもの取られるものについて、どのように考えてきたでしょうか。
 書簡38、1917(大正六)年8月31日、保阪嘉内宛て書簡には、土性調査で行った岩手県江刺郡の風景のなかに、理想的な世界像、「マコトの世界」を感じ取っています。
 書簡46、1918(大正7)年2月23日の、父政次郎宛ての徴兵検査の延期の提案に対する反論のなかでは、自然現象と並べて戦争や病気という社会現象における生と死に言及し、〈その戦争に行きて人を殺すと云ふことも殺す者も殺さるゝ者も皆均しく法性に御座候。 起是法性起滅是法性滅という様の事の例へ〉、〈十界百界の依って起こる根源妙法連華経にお任せ下されたく候〉と、法華経の教理に基づく世界観を展開する中で、牛の撲殺について触れ、〈牛が頭を割られの咽喉を切られて苦しみ候へどもこの牛は元来少しも悩みなく喜びなくまた輝き又消え全く不可思議なるやうの事感じ候。それが別段に何の役にたつかは存じ申さず候へども只然くのみ思はれ候。〉があり、実感というよりも、法華経の教義に基づいた理解だったと思います。
 作者は1922(大正11年)冬に、稗貫農学校の畜産の実習で豚の撲殺を経験しています(注1)が、それ以前、盛岡高等農林学校の実習でも経験しています。
 書簡63、友人保阪嘉内宛て (1918年5月19日)は、高等農林学校の撲殺を見た後のものと推測されますが、そこには、食物連鎖への罪悪感と離脱の思いを語る中で、そのときの様子が書かれています。それは自分の身を削るような、祈りに似た言葉です。
 
私は春から生物のからだを食ふのをやめました。けれども先日「社会」と「連絡」を「とる」おまじなゑにまぐろの刺身を数切食べました。(…中略…)食
はれるさかながもし私のうしろに居て見てゐたら何と思ふでせうか。(…中略…)
 
又屠殺場の紅く染まった床の上を豚が引きずられて全身赤く血がつきました。転倒した豚の瞳にこの血がパッとあかくはなやかにうつるのでせう。忽然として死はいたり、豚は暗い、しびれのする様な軽さを感じやがてあらたなるかなしいけだものの生を得ました。これらを食べる人とてもなんとてもこうふくでありませうや。
 
 この書簡に作者が綴ったものは、生物の命を取る人間と、人間である自分を認められず、苦しんでいる姿です。
 食物連鎖を風刺的に捉えた作品に1921(大正10)年に書かれたと推定される「ビヂテリアン大祭」があります。仏教の殺生戒の思想を基にしていますが、ビヂテリアン(菜食主義者)には、動物への同情派(食べたら可哀想)と予防派(肉食は体に悪い)とがあり、その方法には大乗派(菜食動物を食べる動物を食べる事はよい)と絶対派(決して動物の肉は食べない)と折衷派(ミルク、バターなど動物の命を取らないものはよい)があるという人間中心の考えや、大会そのものが演出されたものだったこと、周辺の人々の無関心ぶりも描き、人間の身勝手さや、理論と現実、組織と個人の関係など、現実の重さが描かれます。
 
 〔フランドン農学校の豚〕では、作者は、宗教的な観念や、主義主張ではなく、豚の撲殺という事象のみを描きますが、「童話」という方法をとることで、命を取られる動物の心情を描き出し、非情さが伝わってきます。その非情な世界の中で、人間も生きていかねばならないことの悲しみを言外に伝えているものと思います。
 
注1
岡澤敏男「『フランドン農学校の豚』のリアリティ」
(『国文学 解釈と鑑賞 69−8』 至文堂 2003 3
 
参考文献
栗原敦「〔フランドン農学校の豚〕」考
(『作品論宮澤賢治』 双文社出版 1984

 







「ポラーノの広場」―風と追憶が生み出すもの  (四)

U「ポラーノの広場」の背景

1、「ポラーノの広場」の成立

「ポラーノの広場」の成立は1927(昭和2)年以降と推定されますが、先駆形として

 

@ 「ポランの広場」(1924(大正13)年以前成立)

A その第三章を戯曲化して1924(大正13)年に農学校の生徒に演じさせた戯曲「ポランの広場」、

B 「ポラーノの広場」の手入れ前稿

 

があります。

「ポランの広場」では主人公の名前はキュステで、一緒に〈ポランの広場〉を探すファゼロは小学生です。山羊の行方不明という事件はなく、野原で出会ったことのみが記されます。ただ定稿として採用されなかった文には、野原でファゼーロが山羊と追いかけっこをして最終的には山羊を捕まえてくれる過程が描かれ、それによって、ポランの広場を探しにいくきっかけが生まれます。

最もページを割くのが「三 ポランの広場」の章です。それは仮装舞踏会という設定で、仮装の衣装、会場の装飾、夜空を飛び交う蝶や甲虫などが色彩豊かに描かれ、また会場でのやりとりも魔法めいていてファンタスティックです。

山猫博士は〈山猫を釣って来てならして町へ売る商売〉とのみ記されます。山猫博士の会場での乱脈ぶりも、ファゼーロとの決闘のきっかけも場面も「ポラーノの広場」とほぼ同じですが、山猫博士が逃げた後、そこでは楽しく舞踏会が続きます。

その後もう一度ポランの広場へ行きたいというキュステに対してのファゼロの言葉では、ツメクサの花が終わったら、もう広場へは行けないという設定です。

そのあとの章は原稿が失われたためでもありますが、キュステが海岸へ出張する予定と、毒蛾の発生が暗示されるのみです。

「ポラーノの広場」との決定的な違いは、まずファゼロが小学生であり、働く環境や雇い主の非情さなどが描かれず、姉ロザーロも存在しません。

悪役山猫博士も、市会議員、密造酒の会社の社長という社会的な身分や、選挙の事前運動のための集まりという設定もありません。原稿の喪失に加えて、物語の社会的背景がないので物語の展開の必然性を欠き、完成度は低いと思います。

ただファンタジイの要素はここで生まれていると言えるでしょうか。

その「三 ポランの広場」を劇に改作して、作者は農学校の生徒と上演しています。確かにこの部分の音楽性やファンタスティックな部分は、劇化したらとても魅力的だったろうと思います。

「ポラーノの広場」の手入れ前稿では、「六、風と草穂」に大きな相違があります。新しい広場の計画が話される中で、キューストは未来に向けての理想を述べますが最終稿では削除されます。主な削除された部分を記してみます。

 

「なにをしやうといってもぼくらはもっと勉強をしなくてはならないと思ふ。かうすればぼくらが幸になるといふことはわかってゐてもそんならどうしてそれをはじめたらいゝかぼくらにはまだわからないのだ。町にはたくさんの学校があってそこにはたくさんの学生がゐる。その人たちはみんな一日一ぱい勉強に時間をつかへるし、いゝ先生は覚えたいくらゐ教へてくれる。僕らには一日に三時間の勉強の時間もない。それも大ていはつかれてねむいのだ。先生といったら講義録しかない。わからにないところができて質問してやってもなかなか返事が来ない。けれども僕たちは一生けん命に勉強していかなければならない。ぼくはどうかしてもっとべんきょうできるやうなしかたをみんなでやりたいと思ふ。」

 

という子供の意見に対して、キューストは〈思はずはねあがって〉思いを語ります。

 

「諸君の勉強はきっとできる。きっとできる。町の学生は勉強はしてゐる。けれども何のために勉強してゐるかもう忘れてゐる。先生の方でもなるべくたくさん教えやうとしてまるで生徒の頭をつからしてぐったりさしてゐる。そしてテニスだのランニングも必要だと云って盛んにやってゐる。諸君はテニスだの野球の競争だなんてことはやらない。けれども体のことならやり過ぎるくらゐやってゐる。けれどもどっちがさきにすすむだらう。それは何といっても向ふの方が進むだらう。そのときぼくらはひどい仕事をしたほかにどうしてそれに追い付くか。さっきの諸君の云ふ通りだ。向ふは何年か専門で勉強すればあとはゆっくりそれでくらして、酒を呑んだり、うちをもったりだんだん勉強しなくなる。こっちはいつまでもいまの勢で一生勉強していくのだ。

諸君酒を呑まないことで酒を呑むものより一割余計の力を得る。たばこをのまないことから二割よけいな力を得る。まっすぐに進む方向を決めて頭のなかのあらゆる力を整理することから、乱雑なものに比べて二割以上の力を得る。さうだあの人たちが女のことを考へえたりお互の間の喧嘩のことでつかふ力をみんなぼくらのほんたうの幸をもってくることにつかふ。見たまへ諸君はあれらの人たちにくらべて倍の力をえるだらう。けれどもかういふやりかたをいままでのほかの人たちに強ひることはいけない。あの人たちはあゝいふ風に酒を呑まなければ淋しくて寒くて生きてゐられないやうときにうまれたのだ。

僕らはだまってやって行かう。風からも光る雲からも諸君にはあたらしい

力が来る。そして諸君はまもなくここへ、ここのこの野原へむかしのお伽噺よりももっと立派なポラーノの広場をつくるだらう。」

「さうだ、諸君、あたらしい時代はもう来たのだ。この野原のなかにまもなく千人の天才が一緒にお互に尊敬し合ひながらめいめいの仕事をやって行くだらう。ぼくももうきみらの仲間にはいらうかなあ。」

「あゝはいっておくれ。おい、みんな、キューストさんがぼくらのなかまにはいると。」「ロザーロ姉さんをもらったらいゝや」だれかゞ叫びました。わたくしは思はずぎくっとしてしまひました。いいや、わたくしはまだまだ勉強しなければならない。この野原に来てしまってはわたくしにはそれはいゝことではない。

 

 「いや、わたくしはいらないよ。はいれないよ。なぜなら、もうわたくしは何もかもできるといふ風にはなっていないんだ。私はびんばうな教師の子どもに生まれてずうっと本ばかりを読んで育ってきたのだ。諸君のやうに雨にうたれ風に吹かれて育ってきてゐない。ぼくは考はまったくきみらの考だけれども、からだはさうはいかないんだ。けれどもぼくはぼくできっとしごとをするよ。ずうっと前からぼくは野原の富をいまの三倍もできるやうにすることを考へてゐたんだ。ぼくはそれをやっていく。」

 

演説は、「農民芸術概論綱要」の思想を反映し、熱く心を打つものです。その自分の思いに押されるようにキューストはファゼーロたちとともに野原の建設に加わろうと一度は思います。しかし、ファゼーロの姉ロザーロへの想いを指摘されると、たじろぎ、その思いをのみ込んでしまいます。思いが熱い分だけ、それをあきらめるキューストの悲しみの深さが強く伝わってきます。

ロザーロへの思いを、キューストは自分に許されないものとしていたのでしょうか。その思いを未来の希望のなかに組み込むことも、許さなかったのです。

作者には、キューストのロザーロへの思いや、未来図の中に自分を書き加えるか否かという一瞬の迷いは、未来に向けた物語の展開上、ふさわしくない、という思いがあったのではないでしょうか。また熱い理想も、一つの物語の中でとらえると、生硬であるようにも思えます。

 

この部分については、作者の実人生と重ねて論じられ、そこに羅須地人協会の挫折と作者の理想の甘さを見る論(注1)ほか、否定的にに捉えられることが多いようです。

また、この削除について、書簡488(昭和8年9月、柳原昌悦当て)、日付の確定できる生前最後の書簡に見られる、病状悪化の中で記した、それまでの農村活動の高い理想を自分の「漫」として否定したのと同じ心だという見方もあります。(注2)

しかし成立時が確定されない「ポラーノの広場」について、羅須地人協会の挫折の事実や、書簡488と作者の関わりを云うのは避けたいと思います。

削除された部分は、高い理想を持って飛び込んだ農村活動への苦い思いを暗示したかもしれません。しかし定稿では、その後の作者の活動の可能性を暗示しているのではないかと思います。「7、みんなのユートピアとキューストの今―エピローグ」で記したように、最終章にはファゼーロたちの組合の活動とキューストの援助が細かく書き加えられます。

 

2、〈広場〉の社会的背景としての産業組合 

●この作品の制作時期に実際に存在した産業組合は次のようなものです。

1帝国農会から繋がる行政組織の下請け的存在である県農会

2明治33年に公布された「産業組合法」に基づく産業組合。

基本的に生産者の組合で、組合員を個として捉えて主体とするもの。ただし行政の監督、命令下に置かれ、成立、解散も許可制で、ファゼーロの組合のような自立性はありません。

 

●産業組合の種類

1、信用組合(貯金・貸付)

2,購買組合(原料等の共同購入・生活用品の掛け売り)

3,販売組合(組合員の生産物を消費者に販売)

4,利用組合(耕作機械などの共同購入、共同利用)

 

ファゼーロの組合は購買組合から販売組合に発展しています。

 

3、「ポラーノの広場」とユートピア思想

「ポラーノの広場」はユートピア思想を具現化しようとした作品とも言われます。

〈ユートピア〉は、ギリシャ語で〈どこにもない場所〉を意味しますが、現実の都市について、形態や運営の理想像と捉えられることもあります。

作者の接したユートピア思想で、明治3年〜大正中期に広められたL.N.トルストイ(1828〜1910)のユートピア思想は、羅須地人協会で唱えられた芸術と労働の融合の主張があり、物々交換の推奨、貨幣経済への嫌悪などが見られますが、「ポラーノの広場」では物々交換から始まって最終的には販売事業も行って、貨幣経済は認めています。

W・モリス(1834〜1896)の思想は、1921(大正10)年〜1926(大正15)年ころ、生活の芸術化、田園都市構想、教育と啓蒙の重要性などを謳い、当時の思想家、本間久雄・室臥高信・木村毅・柳宗悦などが、それぞれの分野で取り入れて広め、農民芸術概論綱要や、羅須地人協会の活動の理念にも重なる部分があります。

「ポラーノの広場」は、いくつかのユートピア思想からの影響を受けながら、実現可能な場所として描かれていると言えるでしょうか。詳考はまた後の機会にします。

〈ポラーノの広場〉作りのきっかけは、山羊の逃走という偶然から始まり、ファゼーロの出奔、皮革業者との出会い、と幸運が重なっています。ファゼーロの技術の習得も3カ月という短期間ですみ、それまでの雇用関係からも解放されるなど、理想図の一面もありますが、最終的には、それを越える現実的な結果が描かれています。それは、販売経路や原材料の購入など組織的な経営の成功には時間がかかり、そこにキューストやその知人たちの援助や協力がありました。

柳田国男は農村の貧困の対策として産業組合の普及を強くすすめ、組合員(農民)のために、知識人(公吏、資産家、教師、医師、僧侶等)の啓蒙や援助が必要であることを主張ました。(注3)

キューストは、実際の〈広場〉には加わりませんでしたが、知識人としての援助という形でその任務を果たしています。そしてキューストは産業組合の成功を高く評価していて喜んでいて、自らの関わり方―協力や助言―にも満足しているといえると思います。その意味ではキューストは挫折してはいません。それも作者の考える一つの理想だったと思います。

作者の実人生と照らし合わせれば、知識人としての農村への対し方の限界を認め、肥料設計や石灰の販売などに転換しました。そこに死を迎えなければきっと別な未来が開けていたと思います。 

 

4、「少年小説」という設定について

序説でも書いたように、この物語を作者は、「風野又三郎」、「銀河鉄道の夜」、「グスコーブドリの伝記」とともに「少年小説」として捉えていた時期がありました。

明治20年代から昭和初期にかけて、タイトルに〈少年小説〉と冠したジャンルが生まれました。原抱一庵『少年小説 新年』(青木嵩山堂 明治25年) を始めとして、貧困、いじめ、肉親の病や死や不遇、など逆境にある主人公の少年の立志伝的なものが主流です。

川路柳虹「少年小説 雪空」 (『日本少年』 大正8年一月) ではそのなかに 不幸克服の心を描き、幸田露伴「鉄三鍛」(『少年文学』明治33年10月 内外出版協会)では主人公を救う人物が現れ、 佐藤紅緑「あゝ玉杯に花うけて」(『少年倶楽部』 講談社 昭和2年五5月〜3月は少年の正義感を描くなどそれぞれ特色があります。

有本芳水「少年小説 松前追分」(『日本少年』大正11年六月〜12月 実業之日本社)は父親の職業がラッコやオットセイの狩猟だったことなどは「銀河鉄道の夜」への投影も感じられます。

この『日本少年』は明治39年1月創刊、昭和13年10月終刊で、当時の中学生に広く読まれ、作者も触れていた可能性もあります。有本芳水はここで少年のための小説として「少年小説 松前追分」のような「悲哀小説」のほか、「滑稽小説」、「冒険小説」など、ジャンル別の幅広い作品を書き、その物語の方法など作者も影響を受けたかもしれません。

作者の「少年小説」4作品では、主人公は逆境にある少年とも言えますが、その現状や立志を描くものではなく、どちらかと言えば『注文の多い料理店』広告文で述べられた〈少年少女期の終りころからアドレッセンス中葉に対する一つの文学形式〉に近く、少年の心の成長を主に描いていると思います。なぜ作者が「少年小説」と云う括りを設けたのかということに対する先行論文は管見した限りでは見つかりませんでした。あるいは作者が、物語が読まれるための効果を考えて、世に広まっていたその冠称を考えた、ということもいえるかもしれません。

 

V終わりに―哀愁について―

この作者が括った「少年小説」で、「銀河鉄道の夜」では、大切な友の死によって知らされる自分の進むべき道、「グスコーブドリの伝記」では命と引き換えにしか手に入れられないユートピア、「風の又三郎」では、突然やって来て突然去っていく友だち、と、いずれも絶対の喪失を描いているのに対し、「ポラーノの広場」では、到達可能なユートピアを描き、失ったものは主人公キューストのユートピアのなかの居場所だけです。

ユートピアや成し遂げた者たちへの追憶は、悲痛ではなく、読むものにも「哀愁」となって響いて来るのではないでしょうか。

加えて、追憶という形で書きはじめられ、更に新しい追憶が積み重ねられていき、その一つ一つが象徴的にその時を描きながら組み立てられながら増幅し、結末の主人公の現在の追憶と絡み合いながら描き出されるためかもしれません。

そして、ちりばめられた背景の、透明な風、青い光、風に光る緑、星雲に喩えられたツメクサの花などとともに描かれる、理想でしかないもの、現実とかけ離れた思い、は、物語に豊かな色彩を与えると同時に、それがユートピアの実現に必要であったことを表すと思います。

 

注1中村稔『定本 宮沢賢治』(七曜社 1962)

注2 磯貝英夫「ポラーノの広場」(『作品論 宮沢賢治』 双文社1984)

注3『最新産業組合通解』自序 第日本実業会 明治35年11月
(『定本 柳田国男集 第二八巻』 筑摩書房 1964

 

参考文献

中地文「ジョバンニの悲哀」(『宮沢賢治 17』洋々社 2006)

人見千佐子「イーハトーヴとユートピア」

(『リアルなイーハトーヴ 宮沢賢治が求めた空間』 新典社 2015)

大島丈志「「ポラーノの広場」論 産業組合から見えるもの」

(『宮沢賢治の農業と文学 過酷な大地イーハトーブの中で』蒼丘書林2013)

 


 







永野川2016年12月下旬
25日
  2016年最後の探鳥です。
 気温は暮れ並に低くなりましたが、よい天気です。明日から天気が崩れる予報なので少し早いのですが決行しました。
 公園から入ると、駐車場でツグミが鳴いて走っていました。
 工業高校のポプラの大木にあるカラスの古巣に、ハシブトカラスが2羽いて、1羽が巣をつついていました。この時期、繁殖でもないのでしょうが、何をしているのでしょう。
 芝生の桑の大木はすっかり葉をおとし、見やすくなった、と思いましたが、敵もさる者、鳥ちは消えてしまい、シメが1羽、ツグミが1羽のみでした。日曜日なので近くで中高生が運動しているせいかもしれませんが。
 ワンド跡では多数のスズメの声のみ聞こえましたが、少し見ているとシジュウカラが3羽飛来し、鳴いて飛びかいました。
 ワンド近くの中州に、イカルチドリが3羽揃っていて、最近珍しい光景です。上流の中州でも2羽、永野川でも1羽、と多い日です。セグロセキレイも時々行きかいます。
 少し登ったところで、カワセミが下って来て枝に留り、ダイビングしましたが、獲物は取れませんでした。さらにもう一度トライしても失敗し、数秒ホバリングしていましたが、川下に飛び去ってしまいました。
 クワの大木からシメが4羽飛び立った後にモズが残っていました。恐らくモズを警戒して飛び立ったのでしょう。
 西の調整池で、カルガモ2羽のみ、と思っていたら、ヒドリガモ25羽が飛び立ち、旋回していましたが、戻らず西に飛んで行きました。気付いたら、小さい子が水際まで下りていました。多分ヒドリガモは私の見えない側にいたものが飛び立ったのでしょう。カルガモは逃げないのは人間に慣れているからでしょうか。
 大岩橋の河川敷林ではカワラヒワが8羽、3羽、と飛び立ちました。
 山林からカケスが2羽飛びだして、背後で、オオタカ?と思われるピーピーという声が聞こえました。そのためだったのでしょうか。山林はそんなに急な山でもないようですから、一度登ってみたいものです。
 大岩橋から川を眺めると、ダイサギが1羽川を遡っていきました。水際の枝にはエナガ7羽の群れが見えました。橋の上は絶好のポジションです。
 滝沢ハムのクヌギ林で、シジュウカラ5羽、シメ2羽、キジバト2羽、公園側の低木でホオジロ4羽。狭い場所で、複数の種類がみられるのは楽しいですね。
 滝沢ハムの調整池にはまだ水があるのでしょうか。岸辺にダイサギが13羽群れていました。ダイサギの群れを見るのは珍しく、いつも孤高の鳥のイメージが強かったのですが。
 赤津川に入ると、工事のない泉橋までに、カイツブリ2羽、カルガモ24羽。ここは鳥の逃げ場所のようです。上空にトビが1羽、ノスリは見えませんでした。
 少し上の工事のない部分で、カワセミが一羽下っていき、バン1羽、ハクセキレイが1羽。コガモ2羽見えました。
 東岸で、カワラヒワが舞いあがり電線に集結するように留りました。53羽で、今年二番目に大きな群れです。羽色の黄が美しくほっとする平和な風景です。
 ダイサギも1羽、4羽、アオサギも1羽ずつ3羽、点在しました。赤津川はやはり鳥の来る川です。
 合流点の川岸の草むらにガサっという音がしてキジ♂の青い首が見えました。キジも久しぶり、めっきり少なくなりました。ここでもイカルチドリが2羽見えました。
 上人橋から二杉橋までを往復しました。
 第五小付近のいつもの場所で、コガモ19羽、カイツブリ2羽、カルガモ15羽、ヒドリガモ2羽、アオサギ1羽、鳥の居る場所も決まってしまったようです。
 カシラダカ、アオジなどは草むらに隠れたのか全く見えませんでしたが、ダイサギや、カワラヒワの群れという、一つの冬の風景を見ることができました。
 
鳥リスト
キジ、カイツブリ、カルガモ、コガモ、ヒドリガモ、カイツブリ、キジバト、ダイサギ、アオサギイカルチドリ、トビ、カワセミ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、カケス、シジュウカラ、ヒヨドリ、エナガ、ツグミ、スズメ、セグロセキイ、ハクセキレイ、カワラヒワ、シメ、ホオジロ
 
付記
膝を痛めてしまい、しばらく永野川に行けなくなりました。今年は鳥も豊富なのに大変残念です。
回復するまで、永野川の報告は少しお休みします。

 
 
 







永野川2016年12月中旬
16日
 今日になって気温がめっきり下がって来ましたが、よく晴れて探鳥日和です。寒さを避けて、10:00に家を出ました。
 二杉橋近くでは、コガモ25羽、カルガモ4羽、それと今年初めてマガモ♂1羽見えました。対岸の木にモズ1羽、川辺にアオサギ1羽でした。
 北に向かって遡るので、正面に男体山を中心に日光連山が雪を被り、見るだけで寒い冬の風景です。
 東岸の草むらからスズメ30羽+が飛び立って、市街地の方に大きな羽音を立てて飛びました。鳥の羽音はなぜか暖かです。
 少し登って睦橋の少し手前の岸の草むらから、カシラダカ1羽、チッチと鳴き姿を見せました。今季初です。
 中州にセグロセキレイ2羽、ハクセキレイ2羽、1羽、キセキレイ2羽、イソシギが下流にむかって飛んでいきました。
 上人橋近くの畑にムクドリ2羽、スズメと混じっていました。
 公園に入ったところで、シメ5羽が川の方に飛びました。今年は一羽2羽ではなく集団で見かけます。さらに公園の中に入って1羽、2羽、3羽と飛びました。カワラヒワも5羽、5羽、3羽と、鳴きながら飛んでいます。
 ワンド跡からはスズメ200羽+が一斉に飛び立ちました。小さなスズメでも壮観です。
 上空を大きめの黒い鳥が8羽、西へ飛んでいきました。雁のようにV字型編隊になったり、ばらけたりしていました。数分して、また戻って来たのはカワウでした。カワウが編隊を作るのもこれだけ数が多いのも、ここではでは初めてです。
 公園内の川のハリエンジュにシジュウカラ2羽、ホオジロが1羽、ジョウビタキが1羽、ヒヨドリ6羽、やはり鳥たちはここが好きなようです。
 中州に、イカルチドリが久しぶりに一声鳴いて降り、その後また2羽やってきました。ツグミが水辺に2羽、イソシギも1羽加わりました。
 川を眺めていたら、後ろでキョッキョという声がしました。何か本で読んだことのあるアカゲラの声のようで、まさか、と思っていると後ろから、私と川を越えて対岸のハリエンジュに留ったのは、やはりアカゲラでした。一昨年も一度ここと、滝沢ハム近くのハリエンジュの木の穴で見かけたことがありました。やはり時々は来ているのですね。
 少し登ったところで、カワセミが1羽下って来て木の枝に留り、ダイビングして上がると、口にはちょうど食べごろの大きさの銀色に光る魚がありました。岸辺で苦労しないで呑み込める大きさで、呑み込むとまた川を下っていきました。
 調整池東のヒドリガモは6羽に減ってしまいました。でもここでもカワセミが東から西の池に飛んでしばらく留まっているのが見えました。
 大岩橋の河川敷林ではカワラヒワ15羽、アトリ1羽、アオジ2羽、対岸にアオサギとダイサギが並んでいました。
 なにか見慣れない大きめの一瞬赤く見える鳥がいて、橋を越えて下流に飛んでいきました。それで上流へは行かないで滝沢ハムの方に戻ってみました。すると川の北岸の低木に、先ほどの鳥を発見、最初は背中の黒い部分しか見えず、なんとか尻尾の先がほのかに白いのを確認、少し前が見えるところまで行ってみると、赤褐色のお腹が見え、目も黒くて丸く、アカハラでした。ここでは2度目です。今日は本当についています。
 滝沢ハムの草むらでウグイス1羽、ここでもカシラダカが1羽、2羽と飛びました。やっとたくさんやって来たようです。シジュウカラもサクラの並木に3羽みえました。
 赤津川に入り、カルガモ18羽、14羽,10羽、と川岸の草に隠れるように固まっていました。やはりまだ寒いのです。
 滝沢ハム後ろの田にダイサギ3羽とアオサギ1羽、空になった池を眺めるような感じでした。
 少し登ると西岸の田にケリ2羽、これも今季初です。一瞬飛んで、美しい羽の白さを見せてくれました。ツグミも2羽、田の畔を歩いていました。
 セイタカアワダチソウの草むらで、スズメ100羽+が潜んでいました。今日はスズメの大きな群れが多いようです。
 上空にトビ1羽、そして近くに少し小さめのものが同じように旋回していました。トビ2羽かと思ったが、1羽は腹面が白く羽の形もノスリでした。これもこのあたりではあまり見かけません。
カイツブリが、1羽ずつ2回、工事の無い区間を選んで鳥たちは暮らしているようです。ここでもカワセミが飛びました。
 帰りの永野川、上人橋近くでカワラヒワ17羽、第五小付近でカワセミが1羽、今日は本当に良い日でした。いくらか暖かくなった時間は、鳥たちも元気になるのでしょうか。寒さに弱い私の口実が出来てしまったようですが。
 こんなにいろいろな鳥たちに会えたのは、神さまの贈り物としか言いようがありません。またここで、冬のビギナー探鳥会が出来るよう祈っています。
 
鳥リスト
カルガモ、コガモ、マガモ、ヒドリガモ、カイツブリ、キジバト、カワウ、ダイサギ、アオサギ、イカルチドリ、ケリ、イソシギ、トビ、ノスリ、カワセミ、アカゲラ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、シジュウカラ、ヒヨドリ、ウグイス、ムクドリ、ツグミ、アカハラ、スズメ、ジョウビタキ、セグロセキイ、ハクセキレイ、キセキレイ、カワラヒワ、シメ、アトリ、アオジ、ホオジロ、カシラダカ

 
 







永野川2016年12月上旬
9日
 今日も、ほとんど雲がなく、あまり寒さも感じません。9:30出発しました。
 二杉橋から入ると岸辺の砂利地に、コガモ18羽とカルガモ2羽。今年はここがコガモの場所のようです。今日は少し登ったところでウグイスが鳴きました。   ヒヨドリが7羽、第五小学校の桜の木から飛び立ちました。
 高橋の手前で、セグロセキレイ2羽、カワウが1羽潜水を繰り返していました。ウグイスも聞こえます。中州にカルガモ50羽が見えました。
 栃木工業高校のポプラの大木は葉を全部落としました。カワラヒワが37羽、鳴き声とともに羽の黄色がちらちらと見えています。公園に入ってもカワラヒワは7羽、10羽と群れて飛びました。
 芝生の桑の大木は、やはり鳥の集合地のようで、シメが1羽見えた、と思ったら8羽が飛び立ち、その後も2羽が飛びました。まだ葉が落ち着ていないので、他種類いる鳥の半分も見えないかもしれません。少し高い木の中央部に、キジバトが潜んでいました。
 ワンド跡はスズメが占めていて、20羽+の群れが飛び立ちました。
公園の中の川にはセグロセキレイが5羽、てんでに飛び、ハクセキレイも2羽、1羽、1羽、キセキレイも1羽来ていました。アオサギ1羽、岸辺に貼りつくように立っていました。
 岸のハリエンジュに、胸が赤く背が黒く模様があり、目の付近が白 (過眼線にも見える)いものが見え隠れしていました。ヤマガラでも、ベニマシコでもなく、アトリに一番近いけれど1羽での行動もあるのか疑問でしたが、バードリサーチのお話では、川辺ではありうることだそうです。昨年は旅先で30羽くらいの群れで見ています。
 サクラ並木で、エナガが12羽、大岩橋付近の山沿いでも7羽、今年は本当に多いようです。
 公園の芝生でツグミが1羽だけ、ぽつんとしていました。
 調整池のヒドリガモは♀1羽のみでした。
 大岩橋の河川敷林ではウグイス1羽、シメ1羽、林から川に出て来たアオジが2羽、まだカシラダカは来ていません。
 滝沢ハムのクヌギ林ではシジュウカラ2羽、コゲラ1羽、シメ1羽。シメは本当に良く散らばっている感じです。
 公園内の川の方で、久しぶりにキジの大きな鳴き声を聞きました。
 赤津川に入ると滝沢ハム調整池の近くにダイサギが4羽、ここは最近水がなくなっているようです。自然を利用した汚水処理池だったはずなのですが。
 泉橋下でカイツブリ2羽、少し登るとカルガモ18羽、カイツブリ1羽、バン1羽、ハクセキレイ、セグロセキレイ、キセキレイなど工事のすき間を選んで過ごしている気がします。
 帰り、下ってくる途中で、チイーという声とともにカワセミが背の鮮やかな青を見せながら下っていきました。
 川岸の草むらからキジの♀が川を越えて行きました。
 二杉橋から北を見ると1羽の白いサギが舞い降りて来ました。足の先が黄色いのがなんとか確認できて、貴重なコサギを確認しました。
 今年の冬鳥は豊富です。ひとまず洪水の被害は修復したのでしょうか。 人間のやる工事はなかなか終わりそうもありません。今度は休工の日曜日に来れば、もっと鳥が多いのかもしれません。
 本格的冬鳥シーズンの始まり! 好天を祈ります。
 
鳥リスト
キジ、カルガモ、コガモ、ヒドリガモ、カイツブリ、キジバト、カワウ、ダイサギ、アオサギ、バン、カワセミ、コゲラ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、シジュウカラ、ヒヨドリ、ウグイス、エナガ、ツグミ、スズメ、ジョウビタキ、セグロセキイ、ハクセキレイ、キセキレイ、カワラヒワ、シメ、アトリ、アオジ