旧暦の六月二十四日の晩でした。
北上川の水は黒の寒天よりももっとなめらかにすべり獅子鼻は微
かな星のあかりの底にまっくろに突き出ていました。
獅子鼻の上の松林は、もちろんもちろん、まっ黒でしたがそれで
も林の中に入って行きますと、その脚の長い松の木の高い梢が、一
本一本空の天の川や、星座にすかし出されて見えていました。
松かさだか鳥だかわからない黒いものがたくさんその梢にとまっ
ているようでした。
そして林の底の萱の葉は夏の夜の雫をもうポトポト落して居りま
した。
その松林のずうっとずうっと高い処で誰かゴホゴホ唱えていま
す……。(「二十六夜」)
個人ブログ「宮沢賢治風の世界」2015、9,4、「「二十六夜」―かなしみ・読経・汽車の音・風」で風景を見てきました。ここでは賢治が人間の眼を通してみたフクロウについて考えて見たいと思います。
背景について復習すると
このお話は旧暦の〈六月二十四日〉、〈二十五日〉、〈二十六日〉の三章から成っています。
「獅子鼻」は、実在する場所で、花巻市桜の羅須地人協会跡から南方をながめて、北上川西岸から川に向かって張り出した高台です。
フクロウたちが、獅子鼻の森に集まって、二十六夜の月待ちの行を行っているのを背景に、フクロウ、フクロウの僧侶、フクロウの子供たち、人間の子供たち、が繰り広げる、お話です。
現存稿の執筆は大正12年(1923)と推定されます(注1)。
〈旧暦六月二十四日〉は新暦で7月下旬から8月中旬で、月の出は午前零時頃です。
フクロウの僧侶は、フクロウ界の経典「梟鵄守護章」で、食物連鎖のなかで繰返される残虐性を説き、そこから救われるため「離苦解脱」の教えを延々と説いています。
その中で、フクロウの子供が人間の子供に捕まって傷を負います。周囲には深い悲しみが溢れますが、それに対するフクロウの僧侶の説法はひたすら同じ説法を繰り返し、「捨身菩薩」にすがることで救われよ、と述べることしかできません。
金色の船のような二十六夜の細い月が登り、美しい紫色の煙のなかに「金色の立派な人が三人」現れ、フクロウの子供は迎えられるように、「かすかにわらったまゝ」死を迎え、ようやく救われます。
この描き方は、日蓮宗の宇宙観よりは、阿弥陀の西方浄土へまた迎えられることによって救われる、浄土教系統の発想に近く、「阿弥陀三尊来迎図」の図柄であると言われます。(注2)
一方、この作品が成立したと推定される大正11年、12年ころには、賢治は日蓮宗系宗教団体国柱会に入会し、会誌『天業民報』に詩を発表するなど、熱心に活動していた時期です。国柱会では、念仏により極楽浄土を目指すことにより無間地獄に墜ちるとして強く批判しています。大島丈志(注3)は、書かれた時期を考え、法華経の観点から読むのならば、浄土教系の阿弥陀三尊来迎形式を用いながらも、月と浄土という法華経と関わりの深い事柄を使用し、修羅を超え現世に浄土を築くための方法を示す、法華経文学としての要素を押し出した作品であるとしています(注3)。
延々と続く説教、人間の慰みのために命を落としてしまう子供のフクロウ、取り巻く親たちの深い悲しみと、西方からのお迎えの有様、死して初めて救われる子供やその周囲には、仏教との深い関わりを無視することはできません。
ここで見方を変えて生物の実体から考えてみます。
フクロウは食物連鎖の頂点にいて、弱肉強食の事実は変えることはできません。物語のなかの、フクロウの僧侶の説法が、「梟鵄諸々の悪禽が日々悪行をなし、死ねばまた梟に生まれ変わり、百生二百世乃劫も亙るまで梟身を免れぬという尽きることのない輪廻をくりかえすのみ、全く救いがない」(注4)と説くのは、この事実を述べているのではないでしょうか。
賢治は科学者ですから、事実からは目をそらすことはできなかったのだと思います。そう捉えれば一つの仏教批判ともなっているかもしれません。
同じように食物連鎖について述べられる「よだかの星」では、虫を食べて生きている自分がまた大きなタカに狙われていることに悩んだヨタカが、星や太陽に願いをかけながら、ついには星となってしまいます。
フクロウはそのことには悩むことなく、星になることもできず、人間社会と隣り合って、人からの迫害に耐えながら、輪廻の世界を生きていかなくてはなりません。
もう一つフクロウには、ここで描かれるような群れを作る習性がありません。賢治は、何らかの意図を持って、深い森の中にフクロウが群れている風景を設定したと思われます。
ここにアイヌに文化における、「梟送り」を再現するための設定した、という説(注5)もあります。
アイヌにとってフクロウは集落の神の化身としてあがめられます。「梟送り」はその行為の先の儀式で、偶然に捕らえたフクロウの子供を育て、梟送りの儀式において生け贄として天に送るというものです。フクロウを尊重する儀式のためですから、一つの命が失われることに心の痛みもありません物語で
物語でフクロウの子供が死亡するのは、人の愚かな行動が原因です。フクロウたちは悲しみ、死の前から集まって人間に傷付けられた子供を見守っていました。そして死を迎えるのは月の船が現れて後のことで、子供の死を悼み、祈るフクロウたちには、「送り」という意識はなく、むしろ「弔い」と言えるのではないでしょうか。似ているとしたら形式のみで、賢治がそのことを書くために物語を設定した、とは言えないのではないでしょうか。
しばらくたって、西の遠くの方を、汽車のごうと走る音がしました。その音は、今度は東の方の丘に響いて、ごとんごとんとこだまをかえして来ました。
この物語の背景は、人間の社会の近くにある場所です。物語中、汽車の音は五回も書き込まれます。最初これに気づいたときは何か違和感がありました。管見ながら、賢治の描く動物社会は背景に人間が関わってくることはあまり無いと思います。たとえば「よだかの星」、「貝の火」等は、物語は動物の社会だけで完結しています。
賢治がフクロウの世界を現実の人間社会の中の話として描いて、人間に捕まる子供のフクロウの死、そこからの救いを求めるフクロウ、救おうとしているフクロウの僧侶や宗教を描いたのには、どういう意図があったのか、今後も考えて見たいと思います。
注1:安藤恭子「「二十六夜」〈イノセンス〉に死す」 『国文学解釈
と鑑賞 61−11』 至文堂 一九九六年十一月
2:栗原敦「賢治の「月」」『賢治研究』34 宮沢賢治研究会、
一九八三年
3:大島丈志「法華文学としての「二十六夜」考―梟の悪業に出口はあ
るのか―」 『文教大学国文』34(二〇〇五年)
4:天沢退二郎「「二十六夜」解説」 ちくま文庫『宮沢賢治全集5』
一九八六年
5:能村将之「「二十六夜」における梟の機能 ―アイヌ文化の「送
り」との類似―」 『日本語と日本文学』 68 15-26
二〇二二年八月、