兄は大正15年1月生まれ、5人きょうだいの長子で、たった一人の男の子でした。妹たちは2歳、6歳、8歳違い、末子の私は18歳違いです。
兄は、私が生まれるとすぐ、旧制高校に入学して上京しましたので、いっしょに暮した思い出はありません。私を背負ってくれた兄の大きな肩をおぼろげに覚えているくらいです。あとは、帰省の度に買って来てくれたおみやげのことは鮮明に覚えています。
父は師範学校を出て農村の小学校の教師をしていました。学校近くの教員住宅に住み、かなり自由な雰囲気の家庭を作っていたようです。
カメラや蓄音機も購入し、バイオリンも弾いていたそうです。母の話では「ノコギリ弾き」で聴くに堪えなかったそうですが。
父が撮影、現像した昔の写真には、揃ってほほ笑む家族の姿がありました。
当時としては珍しいスキーや、海水浴の写真もありました。こちらはなぜか兄と父のみ、姉妹や母の姿はありません。
また、子供用の自転車も買って貰っていました。これは姉妹が次々に乗り、20年近く後、私もこの自転車で初めての自転車の練習をしました。
母から聞かされましたが、父の兄への愛は特別で、兄が熱を出していれば、遠い店から氷を買って来て冷やしたりしていたそうです。風邪ばかり引いていた兄は海水浴以来丈夫になったとも聞きました。
小さいころから好奇心旺盛で、分解された時計や機械は数知れなかったそうですが、それをすべて許したのも、両親の特別な愛だったと思います。
妹たち―三人の姉―はどんな思いだったのでしょう。姉たちの口から、不満らしいことは聞いたことはありませんので、やはり兄は特別の存在だったのでしょう。兄は18歳で旧制高校に入学して以来家を離れていましたから、兄の話は、半ば伝説のように妹たちによって話され、私もそれを聞いて育ちました。それは、妹たちの思い一杯、時にユーモアたっぷりで楽しいものでした。
妹たちが長寿に恵まれているのに対し、兄は65歳で、早々と逝ってしまいました。そろそろ30年近く経ちます。もう楽しい世界を紡ぎ出すことはできません。そして思い出も忘れられてしまうかも知れません。兄を囲んだ日々を残しておきたいと思い、姉たちに呼びかけ、綴って貰いました。少しずつ、思い出をたぐって、これからも続けて書き残していきたいと思います。
内容
一、兄の思い出 高橋キク子
1 短歌 四首
2 勉強
3 モールス信号
4 探検
5 キャンプ
二、兄の思い出 木暮和子
1 『ニルスの冒険』
2 数学
3 短歌 兄の思ひ出
4 宇宙線について
三、兄ちゃんの思い出 田島ミチ子
1 犬
2 自転車で初めてのお使い
3 俳句
四、兄の机 小林俊子
五、兄のおみやげ 小林俊子
六、東京で 小林俊子
七、別れの時
一、兄の思い出 高橋キク子
1、短歌四首
セルの着物着たるうからの写し絵に兄は笑まひてコスモス を持つ
探検とて童集い川越えて行きしこと有りいづこの藪なる
(リーダーは兄)
雪被く遠山は上州武尊(ほたか)ぞと幼日に兄は教えくれにき
それの名を兄に教わりしふるさとの畔の桜蓼(たで)今も
さけるや
2、勉強
兄というと思いだされるのは、いつも勉強机に向かっていた姿である。旧制中学に入ってからはいつも勉強ばかりしていたように思われる。登校するぎり/\まで机に向かっていたのが今も目に浮かぶ。
3、モールス信号
小学生のころは結構遊びのアイデアマンで、色々な遊びを考えては妹たちや近所の子にやらせていた。その一つがモールス通信ごっこだ。その頃流行していたモールス通信を兄は知っていて、私教え遊びにとりいれたいと思っていたようだところが、まだ幼い私達は難しくて仲々覚えることができない。兄は諦めて自分なりの文章を作って楽しんでいた。私もいまでもいくつかのモールス信号を覚えている。
4、キャンプ
兄はキャンプに憧れを持っていたらしく、それを遊びにとり入れた。家の柱から柱に紐を通しシーツなどの大きい布をかけてテントに見立て、妹たちを寝かせた。キャンプの食事として鮭の缶詰などを食べた記憶がある。今の時代であったら自由に本当のキャンプが出来たろうにと残念でならない。
5、探検
探検に行ったことも有った。今となってはあまり記憶が定かではないのだが、兄がリーダーとなりどこか藪のような所に行った。川を渡って登って行ったような記憶がある。筍とりとか言っていたようだが、今となっては場所も定かではない。
(2016年6月22日)
二、兄の思い出 木暮 和子
1、『ニルスの冒険』
本棚に古びて残る童話の本幼き日兄の買いくれしもの
童話『ニルスの冒険』は単行本として初めて買ってもらったものです。『幼年倶楽部』連載の童話で、もう一度まとまった物を読みたいと思って母にねだって、それこそ毎日のようにお願いしていました。それを聞いていた兄が、高崎の書店にあるのを見かけて、学校帰りに買って来てくれました。兄、旧制中学四年生、私は小学校四年生だったと思います。それこそ大事に大事に姉妹で代わる代わる読み、今でも本棚の隅に、すり切れたまま、でも色あせず、上表紙はきちんと残っています。嫁入りの時も一緒に来て、時折思い出したように眺めています。
2、数学
数学の成績上がらぬ吾れを見て兄は手ほどきなしくれたりき
女学校に入学した年の一学期の数学の成績は、今までにとった事のない最下位のものでした。母が心配して、夏休みに帰省中の兄に面倒見てくれと頼んでくれました。
兄はあまり語ることを好まぬ人でしたので、ちょっと固くなって兄の部屋に行きました。
代数が解らないというと、いきなり方程式を書き、解いて見ろといいました。簡単な数式だったのですぐ解けたら、「なんだ、できるじゃないか。」といい、次々と数式を書いて解かせました。一言も、やり方や解き方を教えることなく、ただただ式を並べるのみで、でも私は不思議にだんだんと解きつづけ、兄はもういいだろうと、おしまいにしてしまいました。その年の二学期は数学の担任も変わり、少しは勉強する気もおきたようで、まあまあの人並の成績が取れました。一体兄は、私に何を教えたのでしょうか。
3、短歌 兄の思ひ出
兄逝きて二十余年を経し今もなほ鮮明に残る思ひ出
東京に住まゐし兄のお土産は妹たちへの童話の本なりき
兄からの土産に賢治の童話ありて吾ら姉妹の貪り読みき
「セロ弾きのゴーシュ」を好みし兄と共に賢治の擬音語
(おのまとぺ)楽しみにけり
数学の成績上がらぬ吾を見て兄は手ほどきなしくれたりき
胸までもある雪かき分け乗鞍の山頂観測所へ通ひにし兄
薄紅の秋海棠の咲き初めて盆の祭りの近きを知りぬ
初咲きの朝顔みたり縁どりの白きが際だつ青き花なり
(大塚布見子主宰『サキクサ』2016年10月)
4、宇宙線について
兄は大学卒業後すぐに理化学研究所宇宙線研究室に入り、以来停年までずっと研究一筋に生きて来ました。宇宙線というものが何か分からない私たちには何も云うこともできませんでした。何年かのち、まだ元気だった母が兄に聞いたことがあります。「宇宙線というものはどんなものなの?」と。
私たちは皆おどろきました。私たち程度の学歴ではとても理解できるものではありません。母は昔の高等小学校卒ですから、物理の知識がある筈はないのです。でも兄はさっそく色々な資料を取り出して、母に説明を始めました。難しい物理の方程式やら、化学記号も並んでいたと思います。
母は黙ってうなずきつつ聞いていたようです。解ったか解らなかったかは、私たちは知りません。でも兄は丁寧に話していたようです。自分のやっていることを少しでも解ってもらえるようにと、一生懸命だったようです。しばらくして疲れてきたようで話は終った様でした。
この事をずっと後になって、下の娘が結婚したあと、結婚相手の人に聞いたことですが、解っても解らなくても、自分のやっている事を少しでも身近な人に話して解ってもらいたい気持ちは解るといっていました。彼もうちの娘に仕事の内容を話していたらしいですが、きっと解ってもらえなかったのだと思います。
兄も母に解ってもらえなくても話してやりたい気持ちは充分にあり、それを真面目に義務を果たすように話したのだと思います。母もまともに兄が話してくれたことを嬉しく思ったのだと思います。 (2016年5月23日)
三、兄ちゃんの思い出 田島ミチ子
1、犬
わたしが、まだ、北新波の家に住んでいた頃のことです。わたしは、兄ちゃんと北新波の家に向かって歩いていました。もう少しで家につくあたりで、急に、小さな犬が前方から走って来て、わたしにとびつきました。思わず、わたしは泣いてしまいました。すると兄ちゃんは、道端へ走って行き、ネコジャラシの穂を取って来て、犬をじゃらし始めました。すると、犬は、うれしそうに、じゃれつきました。その顔、そしてそのしぐさが、かわいかったです。兄ちゃんは道にしゃがんで、一方の手をわたしの肩にのせ、もう一方の手で犬をじゃらしていました。その犬のじゃれている顔が、とても、かわいかったです。兄ちゃんのおかげで、はじめて、犬のうれしそうな顔がみられたのでした。
その後の帰りのことは全然おぼえていませんが、きっと、二人とも笑顔で家にむかったことでしょう。
2、自転車で初めてのお使い
ある日の夕方、兄ちゃんの自転車にはじめて乗せてもらい、お使いに行きました。ハンドルと兄ちゃんの間のところに座布団をおいて、そこへ わたしがまたがり、出発です。
だんだんスピードが出てきて、わたしは、びっくりしながらも、うれしくて、足をバタバタさせていました。
しばらく行って到着した店は、山木屋という店だったそうです。兄が、金網で出来たようなザルを一つ買ったのを覚えています。そこまでははっきり記憶しています。帰りは自転車のスピードが急に上がったので、ハンドルにしっかりつかまっていた気がします。
当時、兄は、小学校の高学年ぐらいだったと思いますが、母の手伝いをしていたのだなと、感心してしまいます。
3、俳句
小さい時、母が「兄ちゃんが、こういう俳句を作ったよ」とわたしに言いました。それは、「歌好きの ミチ子はいつも ミミラシド」………。これは、「荒城の月」の中にあるメロディーの一つです。姉の和子が小学校へ入学してから、母は、私を子守しながら、お勝手仕事をしていました。その時、いつも歌っていたのが「荒城の月」、又は「ドナウ川のさざ波」等でした。わたしは自然と聞きおぼえていて、いっしょに歌っていました。
兄が学校で俳句を実際に学習し、家庭でも俳句らしいものを作ったことを、ほめてあげたいです。
母が、兄の作った俳句をわたしに教えてくれたのも、うれしいことでした。兄はその俳句のほかに、どんな俳句を作ったのでしょう。知りたかったです。 (2016年5月23日)
四、兄の机 小林 俊子
我が家には、一台の古い机があります。
昭和の初めに造られた三尺四方の片袖机で、真鍮製の金具もついています。板の厚さは3cm程もあるでしょうか。私が結婚する時、実家から持ってきたものです。というより強引にもらってきたというのが正しいのかもしれません。これは兄の机でした。
この机とともに、本箱もありました。ガラスの扉付きで扉には布が張られた、細かい細工のものでした。机と共に、兄が旧制中学に合格したときに買われたものです。
姉たちや私は、古い文机で、書棚はミカン箱の再生でした。それでも一人ずつ机を持たせてくれたのは当時としては恵まれていたのでしょう。
兄は、私が生まれるとすぐ、旧制高校に入学して上京しましたので、いっしょに暮した思いではありません。私を背負ってくれた兄の大きな肩をおぼろげに覚えているくらいです。あとは、帰省の度に買って来てくれたおみやげのことは鮮明に覚えています。このことについては別に書きたいと思います。
この机と本箱、本箱には入りきれないたくさんの書籍、アマチュア無線用の配線は、物心がついた時には二階の八畳間に残っていました。兄は上京以前も二階の八畳を与えられていたのでしょうか。
その間の家の事情を少し書きます。
末子だった父は、子どもの無かった伯父(父の兄)の養子となり、伯父の妻の姪の母と結婚しました。
昭和14年12月始めに伯父が亡くなって、その年のうちに一家は伯父の家で伯父の妻(以下祖母と記します。)と同居することになりました。私はこの家で生まれています。
三世代同居と戦争の影は、おそらく家庭生活も全く変えてしまったと思います。それでも、母や姉たちは、いつも歌を口ずさんでいたし、父は、お菓子のない子どもたちのために、型まで買ってドーナッツを作ってくれました。家のなかで歌を歌うことが普通でないことは結婚して初めて知りました。
私の記憶では、祖母の存命中は、一階の八畳に祖母、両親と姉妹四人は主に六畳と、八畳の茶の間で暮らしていました。あるいは上の姉二人は二階のもう一つの八畳を使っていたのかもしれません。
私が小学校三年の時、祖母が亡くなり、部屋の使い方も変わっていきましたが、兄の机と書籍、本箱は動かされることはありませんでした。
私が秘かに兄の机を欲しいと思い始めたのは、小学校高学年か中学に入ってからだったと思います。茶の間の片隅の自分の机と比べて、それがどんなに立派に見えたことか。自分の部屋などほとんどの人が持てなかった時代ですが、やはりほしかったのです。
母は私の願いは大抵聞いてくれたので、母に一言断って兄の机のまわりを片づけて、自分のものを運びました。置ききれない兄の書籍は、机の下まで積み、思えば酷い扱いをしてしまったな、と思います。
父からは、普段ほとんど干渉らしいことはされなかったので、何も問題はないと思っていました。
しかし、父が突然、二階に来て、「机を動かしたな」と言いました。私は何と言ったか覚えていませんが、父がもう一度「机を動かしたのか」と言って、そのまま降りて行ってしまいました。
その時の私は父の言葉から何も受け取れず、父もそれきり何も言わず、私は机を使うことになりました。
サラリーマンでも長男は家に残って親と住むという時代、兄はそれに収まらない力がありました。旧制高校から大学へ、そして大学の恩師のもとで研究を続けるために恩師の研究所に就職し、一生を科学者として過ごしました。
父は、寂しさを親としての誇りに置き換えて暮らしていたのでしょう。兄の部屋は、父にとって大切な兄の分身だったのです。
しかしそれを分かるには私は幼く自分本位で、父も使うなというのは理不尽だと思う心が何も言わせなかったのでしょう。
それが私に分かったのは、自ら親になった40代半ばだった気がします。突然、その時の怒りと悲しみを押し殺した父の顔が浮かび、絶対に元に戻せない時間と、身の置き所のない後悔に襲われました。
私は高校卒業までその机を使い、両親の反対を押し切って進学し、上京して兄の家に同居させて貰いました。それについては稿をあらためたいと思います。
姉たちはみな嫁ぎ、私は家にいるべき立場となりましたが、またまた両親の望みに背いて、他家に嫁ぐことになりました。
私はどんなときにも自分の机がある生活をしたいと思っていました。夫は理解してくれていたのですが、その実現のためにも机を持参しよう、と思っていたのです。
結婚のとき、既に父は亡くなり、まだその時は父の気持ちも分からなかったので、兄と母に、この机を持たせてくれるよう半ば強引に頼みました。
今の家になって、洋室は夫の書斎のみだったので、この机は夫のものとなり、私は夫の昔の文机を使い、また今はパソコンデスクがほとんど私の机となりました。
机は古い木材と塗料と真鋳の独特の匂いがします。これは私が初めて机に触れたときから同じです。何か触れてはいけないような、異世界のもののような、それでも欲しかった。今思うと、その貪欲さが切なく、公開するのもこれが初めてです。大きな親不幸の記録です。 (2016年5月23日)
五、兄のおみやげ 小林俊子
1、家族へのおみやげ
戦争末期か戦後、砂糖が極端に手に入りにくかった時期、直径4cmくらいの咳止めの空き缶に、ザラメを持って来てくれたことがありました。私がなぜ覚えているかというと、苦い薬を飲んだ後にだけ、ほんの少しなめさせてもらったからです。まだ学生だった兄はどうやって手に入れたのでしょうか。東京で自分も苦しい生活を送りながら、長兄として、家のことを心配していたのです。
戦後も少し余裕がでてきたころ、大きなスイカを持って帰省したことがありました。農村ですが、当時は、スイカなどは作る家は少なく、青果を売る店はありません。そんな事情もなぜ兄は察知していたのでしょうか。
あの時は、今思えば、兄が就職した時だったのでしょうか。姉妹にそれぞれのお土産があり、就職していた一番上の姉には、黒いハンドバックだったのを覚えています。姉が、どうやって思いついて、どうやって選んだのだろう、と不思議がっていました。姉は兄とは二つ違いで、勉強ばかりしていた人として映っていたのかもしれません。
二番目の姉は兄とは六歳離れているので、いろいろ買ってもらった思い出があるそうです。『ニルスの冒険』が欲しかった姉が毎日連呼していて、まだ中学生だった兄が買ってくれたという話はずっと残っています。
2、宮沢賢治
昭和二十一年版の『風の又三郎』、『グスコーブドリの伝記』は、おそらくその姉に買ってきてくれたものでしょう。姉はそれによって宮沢賢治に魅かれ続け、私も、その本を読んでもらい、初めて賢治に触れました。それは幼い者の記憶にも残る楽しいお話でした。
姉は賢治作品の文庫本を何冊か買っていましたが、就職して初めてのボーナスで、十字屋版の宮澤賢治全集を買いました。嫁ぐ時、十字屋版の宮澤賢治全集だけを持参し、文庫本は私がもらいました。私は高校生になっていたと思います。
そこで、私は初めて賢治の短歌に触れ、気持ちが直に伝わってくるような短歌は新鮮でした。また「土神ときつね」を読み、そこに描かれた生々しい嫉妬の炎に、聖人ではない新たな賢治を発見し、そのギャップの大きさの分だけ、引きこまれました。
決定的に賢治に取りつかれたのは「ポラーノの広場」でした。この本に出会わなければ、こんなに賢治に魅かれることは無かったと思います。
冒頭のまぶしく輝く自然の姿、そして、それは改稿以前のものだったので理想に燃える主人公の演説がありました。そして理想の高さの分、対極にある哀愁との対比に魅かれたのだと思います。
また、好きな本とレコードだけを持って、競馬場の跡地に一人で暮らす、主人公の自由さへの憧れもあったと思います。
そのほか「ツメクサの明かり」という発想、今でも読むと胸が高鳴ります。私が賢治と共に歩いたのは、一つには兄、もう一つにはこの姉のおかげだと思います。
なぜ兄は賢治の本をおみやげにしたか、それを知ったのはずいぶん経った頃でした。机の周りに積み重ねられていた兄への手紙の束の中に、細かい字で書き込まれた葉書がありました。読むとも無しに読んでいると、「宮沢賢治の本を、妹さんに持って行ってくれたまえ」という文を見つけました。兄に勧めてくれたのは、どなただったのでしょう。その時はあまり気にもとめず、兄にも尋ねてもみなかったことが悔やまれます。もう兄が鬼籍に入って久しく、おそらくこの方にもお会いできないと思います。でも、会って話してみたいと思います。
3、漫画、『サザエさん』
低学年の頃、「漫画を買ってきて」と頼みました。「漫画」という言葉は知っていても、周囲には見当たりませんでした。
兄が買って来てくれたのは漫画雑誌でした。記憶がはっきりしませんが『漫画少年』だった気がします。そこに描かれていた未来都市―高速道路や空を飛ぶ自動車―や、自動散髪機が心に残っています。
私はなぜか自動散髪機に魅かれました。後世の手塚治虫のことなど知る由もなく、その作品が何だったかもはっきりしません。
その後、『サザエさん』(姉妹社)の単行本が出る度に、買って来てくれるようになりました。これには家じゅうで夢中になり、いろいろな場面で話題にして喜んでいました。
その『サザエさん』は、その後、いろいろな事情でなくなってしまいましたが、姉たちも私も、それぞれの家庭で、買い揃えています。不思議な縁を感じます。兄はどうやって、『サザエさん』を選んだのでしょう。なぜ母や妹が好きなものを知っていたのでしょう。
4、私へのおみやげ
兄に初めておみやげを貰ったのはいつのころだったでしょう。それは記憶が無いのですが、兄が帰省のたびに、おみやげを持ってきてくれたことは確かです。
小学生くらいになると、「次に帰る時には○○買ってきてね。」という手紙を書いたのを覚えています。
砂鉄を取って遊びたくて、「磁石を買ってきて」といったところ、精巧な方位磁石を貰いました。きっと高価だったと思うのですが、子供心にはその間違いが分からず不満でした。兄もその反応を感じ取って、私以上に悲しかったと思います。
兄はアマチュアオーケストラでフルートやファゴットを吹く音楽好きでした。帰省してフルートを吹く兄を、私が羨ましそうにしていたの感じたのかもしれません。
小学校高学年のころ、入門用とも思えるクラリネットを買ってきてくれたことがありました。木製で小型ですが、精巧にできていてリードも装着するようになっていました。いくらやっても音が出なくて、そのうち諦め、家に来ていた幼児がいたずらしているうちに完全に壊れてしまいました。兄は失望したと思います。でも一切口にしない兄でした。私は鈍感で、それを感じるのは成長してからでした。
もう中学生になっていたでしょうか。兄はきれいな刺繍のハンカチセットを買ってきてくれました。恐らく成長した妹へのおみやげ選びに苦心した結果だったと思います。
でも私はあまりおしゃれ心がない子供でしたのでピンときませんでした。偶然、同時に他の姉から人形のブローチを貰って、喜んでいる姿を兄に見せてしまった気がします。
そのハンカチは、その後、成人するころまで、特別なお出かけの時などに、ずっと大切に使ったのですが、兄は知る由もありません。思春期にはいり、いちばん身近な異性としての兄に、幾分反発し始めていたのかもしれません。
以後、兄から私へのおみやげはなくなりました。
せめてもの償いにと、大人になってからは、時折地元の名物などを送っていました。でも失敗ばかりで、折角選んだ林檎は青くてあまりおいしくなく、米の不作の年に、こちらでは手に入った、国産米を送った時は、兄は既に他界していました。せめて二か月前に気づけば……。 そんな、気のきかない、間の抜けた妹と、最高に気遣いのある兄のお話です。 (2017年5月23日)
六、東京で
私の時代、女子は自宅から通学すべき、という考え方がまだ残っていました。姉たちが皆嫁いでいた我が家では、なおのこと絶対の「決まり」でした。
地元には国立大学教育学部しかありませんでした。私は高一で数学につまずき、理数系が全く駄目でした。つまずいたとき、ゆっくりやり直していればよかったのに、まず劣等感が先立ち、逃げてしまいました。 受験科目に数学がない東京の私大に行くことなど許されるとは思っていませんでした。
他科目との総合で、合格できると担任からは言われたのですが、教育学部を出れば教職の道しかないと思っていたのに加え、教職は就職難でした。 地元の町の教育長だった父がその事情はよく分っていて、音楽か家庭科でもなければ就職はできない、と言いました。音楽は好きですがどう考えても無理で、家庭科は自分でもやりたくない教科でした。国語専攻なら、と思ったのですが、父は許すとは言ってくれませんでした。合格の自信もなく大学は諦めました。
ひとつだけ国立で数学のない学校がありました。図書館員の養成のための専門学校です。以前から、「女性のための職業」というような本で紹介されていて、図書館という場所も好きでしたから、憧れのような物を持っていました。場所は上野で、頑張れば通えるかも知れないと思い、受験勉強を始めました。でも父母の気持ちを考え、また父母も一言も許すと行ってくれないので、地元の栄養学校を受験して合格していました。
もう二月に入っていたと思うのですが、父が、兄の家において貰うよう頼んだから受験してみろと言ってくれました。嬉しかったと思うのですが、父母や兄に感謝の言葉を言った覚えがありません。そういうことをできない性格だったのか、表し方が分らなかったのか、今思うと本当に申訳なかったと思います。
父は受験日には付き添ってくれました。上野駅の雑踏の中で食べた食事、帰りに連れて行ってくれた浅草の猥雑さが、受験の不安や、祝福されていない進路への不安と重なって暗い日でした。兄の家に寄ったのか帰りが遅くなってバスは無くなくなりタクシーに乗ったのですが、降りたとき膝くらいまで積雪がありました。思えばお彼岸寒波だったのでしょうか。それでも合格しました。
兄は結婚して一年たったばかりでした。当時の研究者は恵まれず、研究室は造幣廠の跡地で、社宅もその工場の内部を仕切って改造した、居間と風呂などのある一階と二階の和室八畳のみでした。そこに住まわせくれる決断をした兄、義姉には、感謝してもしきれないものがあります。工場なので、玄関の上部に屋根裏部屋風の二階部分があり、父がそこにベッドと机を用意してくれました。義姉が梯子を作り、兄が風よけにビニールシートを取り付けてくれ、今では考えられない無理をしてくれたと思います。私自身は、友達にはキューリー夫人みたい!といって自慢していました。
一番感謝しなければならないのは義姉に対してだと思います。素直なだけが取り柄で気が利かず、言われなければ何も分らない子と、急に共に暮らしたのです。義姉は、言うことはきちんと言ってくれる人だったので、私は一緒にいられたのだと思います。
兄は、通学路にある大きな交差点は、青信号に変わるのを待って最初から歩きだせ、と言い、鍵は紛失しないように定期券に丈夫な麻紐でつけてくれるなど、慎重な人でした。
学校は、現在の国立国会図書館国際子ども図書館―当時は台東区立上野図書館でした―の敷地内で、木造二階建て、教室三つ、図書室、教職員室、それとなぜか卓球室がありました。裏庭といった感じの場所にバスケットボールのゴールが、これもなぜか一基ありました。所長、専任教官四人、事務官二名だけでしたが、その他ほとんどの教科は、大学からみえる非常勤講師の授業で、専門の匂いがして楽しく、高校と違って重圧感がなくて、心地よかったのです。
学校は、大学を断念してきた人が多く、不平不満や諦めモードが渦巻いているようでしたが、私は何よりも東京で生活できることが嬉しくて、満員電車に乗り、博物館、美術館を横目に公園を抜けて学校に着き、友人と話し、昼食を選び、また帰ることの繰り返しでしたが満足でした。上野図書館の地下食堂、東京芸大の学食は本当に安く大変お世話になりました。また博物館、美術館の食堂も、現在とは異なり、学食をちょっと上回るほどで、手の届くご馳走でした。
東京都美術館や、その頃できたばかりだった国立西洋美術館も、雰囲気を楽しんでいただけでしたが、たまに行きました。今思うともっと行っておけばよかったと、悔やまれます。
兄は東京都民交響楽団に参加していて、ファゴットを吹いていました。入学後少したったころ、東京文化会館で演奏会がありました。演目はバイオリンのソロを招いて、ベートーベンのバイオリン協奏曲だったと思います。兄のことが自慢だった私は友人に招待券を配り、出かけました。なぜか終了後の打ち上げの会まで一緒に行きました。気が利かず帰らない私と、それを許してくれた兄、そんな構図がずっと続く気がします。
父がほとんど酒を呑まなかったのに反して、兄は酒好きでした。ただ私の目にはそう映っただけで、あるいは普通だったのかも知れません。
よく 近くの親しい寿司屋に、義姉と三人で行きました。それは今思うとすごい贅沢でした。冗談のように「高いもの頼むなよ。」と言われましたが、気にもせず食べていた気がします。ジンギスカンのお店や、居酒屋にも行ったことがありました。でも今思うと、お邪魔虫だったなあと反省します。実家では子どもが多かったのですが、食事は絶対家族平等でした。そんなことも兄は引き継いでいたのでしょうが、義姉には申訳なかった気がします。
今思うと、一度だけ兄の機嫌が悪かったことがありました。上野の科学博物館で、ロケットの歴史展のような企画があって、兄からでなく義姉から「一緒に行く?」という誘いがありました。私は意味も分らずついて行きましたが、あるいは結婚記念日か何かだったのかも知れません。兄は二人で行くつもりだったのを、義姉は義理もあって誘ったのでしょう。いつもはとは違う兄の言葉の端々を感じながら、意味が分りませんでした。
兄から仕事の話を聞くことはほとんど無かったのですが、一度、観測用ロケットの制作を担当する工場との話し合いの苦労を聞いたことがありました。ロケット関係の仕事は、いまでは認められ、マスコミにも登場することもあるのですが、当時は顧みられない仕事で、交渉など苦手な兄には大変だったと思います。でも時には話の合う職人さんのことを嬉しそうに話していました。また国との折衝も大変だったようですが、理解ある政治家については楽しそうに話していました。
兄は寡黙な人ですが、私の話はいつも頷いて聞いてくれました。ギターを買ったときは、倍音の仕組みを面白そうに実演してくれ、なぜバイオリンやフルートの曲を、ギターで弾けるのかなども話してくれました。 二年間で、それまでしなかった話を全部したような気もします。その「ふ〜ん」という相槌が、今でも鮮明に思い出されます。
私ばかりでなく、姉の子どもたち、つまり兄の甥や姪も、大学に進学すると兄を訪ねていたようでした。たまに兄の家を訪ねると、甥のバイクを預かっていたり、この間は誰それが来て、というような話になりました。甥や姪にとって兄は、幼少期に実家で二、三回接しただけの存在だと思いますが、姉を通じて心に刻まれ、また兄も訪れる者には、いつも温かく接していたのでしょう。
東京での生活を続けたい思いは心の底に有りましたが、就職先が見つかり帰郷しました。その後も、何度か上京した折りに訪ねました。違う目的で家を出たのに無性に兄に会いたくなり、方向を変えて兄の家に向かったことや、泊めて貰ったこともありました。突然の訪問がどんなに大変か、家庭を持って見ると分りました。いつも受け入れてくれた兄、義姉でした。
東京での二年間は、私のなかでいつも輝いています。それは兄と過ごした時間でした。
七、別れの時
1、花の季に 高橋キク子
車駆り行く先々に溢れ咲く桜さくらのはるはのどけし
気力にて保ちゐし兄の命かも机(き)に向かひつつこときれゐしと
真夏に父寒の最中(もなか)を母の逝きはるたけなはを兄の逝きたり
兄葬る代々幡(よよはた)斎場に樹々多く高うれに鶸の囀りやまず
歌集『雨夜の花火』(平成十一年 短歌新聞社)所収
2、不思議なインスピレーション 木暮 和子
六十代から七十代にかけたて高校時代の友達と、よく旅行に行きました。上野から始まって長崎、東北、四国と巡り、楽しいひとときを過ごしました。平成五年四月には、広島から鳥取へ行き、吉田松陰の松下村塾や城下町を見て歩きました。松下村塾へ立ち寄った時、ふと兄の本棚にその名前の書かれた本が何冊かあったのを思い出しました。手製で装幀され兄の字で背表紙が書かれていたと思います。よく読んでいたのだなと思いつつ皆と話しながら見学し、その日は最終日なのでゆっくりと広島の宿でくつろぎました。
夕食の時です。突然家から電話が入り、兄が亡くなったとの報らせが届きました。兄とは一月に話し、元気な声を聞いていたので、まさか、と思いましたが、取るものも取りあえず翌朝一番の電車で東京に向かいました。あの時随分慌てていたので兄の家の最寄り駅で下りて道が分らなくなり甥に迎えに来て貰った始末でした。あたふたと家に帰り、葬式をすませたあと、義姉に聞いたのですが、兄が息をひきとったのは午後二時、ちょうど私が松下村塾で兄のことを思い出していたころでした。
後で皆に話す間もなく過ぎましたが、あのインスピレーションのようなものは何だったのかと思います。いつも兄のことばかり考えている訳でもないのに、あの場所で兄を思い出し、それが最期の時だったと考えると今でも不思議に思われてなりません。なかなか忘れられない思い出です。
3、別れ 小林 俊子
兄が入院したという知らせは、突然、まだ暑さの残るころでした。「便りが無いのは無事の便り」の諺どおり、離れている者の無事は疑わず暮らしているのだと言うことを思い知りました。
取りあえず姉たちと病院に行きました。兄はベッドにはいましたが、いつもと変わりなく見えました。義姉から聞いた話は壮絶でした。 しばらく前から起こっていた腹痛を口に出さず、医者にも行かず、耐えながら仕事も休まなかったそうです。ある日、職場から、痛くて歩けないので迎えに来てほしいと電話があって、義姉は初めて知ったのです。
その時も、すぐには病院に行かず、親しい指圧師に手当てをして貰っていたそうです。黄疸が出始めて、それでも救急車ではなく、漢方治療をする大学病院を見つけて入院したということでした。なぜ、痛さを我慢したのか、分った時点で早い対応を取らなかったのか、兄一流のこだわりだったのかも知れません。そうなると人の意見は聞かなかったと思います。 義姉も辛かったと思います。
折しも我が家の九十三才になった姑は、生来の我儘に、加齢による鬱症状や認知症も加わり、ほとんど毎日腹痛を訴え、医者に行くと言い張る日々でした。せめてその十分の一でも、我儘になっていてくれたら、と、その時どんなに思ったことでしょう。
義姉からは、「しこりがあるが、石ではない」と告げられました。怖くてこの意味をはっきり確かめられませんでした。すでに癒着が起きているので、緊急手術を行い、摘出は後ということでした。
その後、姉たちともう一度見舞いに行きました。兄は外見からは普通で、皆を笑って迎えてくれました。今思うと痛さに耐えていたのかも知れません。お見舞いすることの空しさを今は感じます。
摘出を終え、退院したのは十一月くらいだったのでしょうか。義姉の話では、兄の気質から病院は苦痛で、家で養生することになったようです。看護婦さんもやるので大変よ、と言っていました。
後で聞いた話ですが、痛みを抑えるために風呂に入ることもあったようでした。体力をつけるためとチョコレートなど、自分で好きなものを食べている、ということでした。しかし消化器の病人に何でもいいというわけにはいかず、結局、一度林檎を送っただけでした。
林檎を送ったとき、兄は電話をしてきてくれました。「林檎は胃腸の調子がよくなるんだ」と、いつもの調子で言いました。近所で買ったのですが岩手産の林檎だったので、「研究会に行ったのか」と言ってくれたのに、なぜか私は、「そんな遠くへいけないよ」と素っ気なく答えてしまい、兄が少し落胆したように「そうだな」といった気がします。
その後、もう一度電話をくれました。息子のことを聞いてくれたのに、私は、勉強しなくて困るというようなことをこぼし、また兄が「そうか」と言って電話が終わったのでした。兄も、また義姉も元気な声を聞かせようと、少し無理でも電話してきてくれたのに、なぜもっと楽しい話ができなかったのか、いたたまれないほど悔やまれたのは、兄の死後しばらくしてからでした。
おそらく義姉は余命を知らされていたのでしょうが聞かせてくれませんでしたし、こちらも怖くて聞けませんでした。想像つくだろう、と言われそうですが、離れていると自分の周囲のことに追われ、なんとか元気にしているのだろう、と考えてしまう私でした。姑の介護もあって易々と見舞いには行けない状態でしたが、それ以上に兄の病状を知るのが怖かったのもあってその後は会いませんでした。
兄は翌年の四月十六日に亡くなりました。後で聞いたことですが、それに先立ち、研究室に入って以来の先輩であり共に研究に携わってきた室長さん、就職して以来親しくしていた、お寿司屋さんのご主人が、相次いで亡くなっていたのです。兄は張り詰めていた糸が切れるような思いだったのではないでしょうか。
病院の検査を月一度受け、ある数値がでたら、入院することになっていました。入院が決まった日、身支度を調えて、義姉が準備を終えて、兄を呼びにいったとき、パソコンの前で事切れていたそうです。
悲しいほど見事な死に様だったと思います。でもなぜそこまで意思を持って貫いたのでしょうか。周囲の者にとって、これほど悲しいことはないと思います。
ねがはくははなのもとにて春死なむその如月の望月のころ 西行
「如月の望月」は旧暦二月一五日、太陽暦では三月末で、釈迦の入滅の日です。葬儀の日、桜は満開でした。兄がこの歌のように死ぬかもしれないと言っていたことを後に義姉から聞きました。病気の苦痛に耐え、死の予感に怯えながら、最後まで兄は立派に生きたのだと思います。
思えば、父の死は父母の思いに背いて結婚を決めた時、母の死は夫の実家での生活に慣れきれず夢中でいた時でした。初めての肉親の死は、もちろんショックで、なぜ今死ぬの?もう少し待ってくれたら何かできるのに、という思いでしたが、悲しんでいる余裕もなく、暮らしを進めていくのみでした。
兄は離れて暮らしていたので、実際には兄がいないという実感はないはずなのに、はるか離れたところに出来た大きな空虚のようでした。この悲痛は生まれて初めての思いだった気がします。
私は、死後の世界を信じることはありません。でも、父、母、兄、そして最近亡くなった義姉とは、どこか、暖かく静かなところで、寄り添って暮らしていてほしいと思います。
おわりに 小林 俊子
私は、年も離れていたせいか、兄の学歴については、高校ころ兄の同級生だったという教師から聞かされるまで全く知らなかった。父母や姉たちからも聞かされたことはなく、兄のように頑張れといわれてこともない。ただ兄が東京という遙か離れたところにいて研究生活をしているのだということが、私にとっては、とても素晴らしいことだった。
兄の学歴が知れると、そのことだけで皆が賞賛した。また逆に、「宇宙線」は何の役に立つのか、学位は取らなかったのか、大学教官への道を進まなかったのか、とも問われたことがある。
でも、そういうことは、私たち姉妹にとっては、どうでもよいことなのだ。自慢するとすれば、国産観測衛星第一号「おおすみ」の打ち上げ成功に携わったこと、恩師仁科芳雄氏の伝記出版にあたり詳細な年表を作成したことかも知れない。兄は才能と努力によって宇宙線の観測という自分の信じる道を歩み、いつも父母や姉妹を気にかけてくれた大きな人だったのだ。
そのことを誇りに、私たちは生きてきて、これからも歩き続けることができるのだと思う。(2018年1月1日)
筆者紹介
高橋キク子 88歳 教職の後、農家に嫁ぎ、初めての農作業
に苦労を重ねた。
大塚布見子主宰『サキクサ』特別同人。
木暮 和子 84歳 教職の後、実家に入って、母の世話や
実家の管理をしてくれた。
大塚布見子主宰、『「サキクサ』特別同人。
田島ミチ子 82歳 教職を停年まで全うした。
小林 俊子 74歳 図書館勤務を経て専業主婦。宮沢賢治作品を読む
ことがライフワーク。