次の括りは「大正三年四月」です。
この年、賢治は中学校を卒業しますが、希望した進路に進めず、おまけに肥厚性鼻炎が悪化したために4月中旬から盛岡市岩手病院に入院、疑似チフスの疑いがあって5月中旬まで入院しました。付き添っていた父政次郎も腹部腫瘍で治療を受けることになります。
短歌は、
80 検温器の/青びかりの水銀/はてもなくのぼり行くとき/目をつむれりわれ
という病床詠から始まります。
進学を許さない父への反発、しかしその父親が自分の看病のために病を得たことは、賢治にとって負い目となって父親に反発もできない複雑な心境は次のような具体的な短歌となっています。
86 学校の/志望はすてん/木々のみどり/弱きまなこにしみるころかな
115a116 ぼろぼろに/赤き咽喉して/かなしくも/また病む父と/いさかふことか
そして、病の体や心を安らげてくれるのが、看護婦たちの存在でした。この思いは退院後も大事に持ち続けられます。
92 まことかの鸚鵡のごとく息かすかに/看護婦たちはねむりけるかな
112 すこやかに/うるはしきひとよ/病みはてゝ/わが目 黄いろに狐ならずや
175 君がかた/見んとて立ちぬこの高地/雲のたちまひ 雨とならしを
風が詠われるようになるのは、退院後の生活が始まってからです。
116 風木々の梢によどみ桐の木に花咲くいまはなにをかいたまん
117 雲はいまネオ夏型に光して桐の花桐の花やまひ癒えたり
116が風を読んだ最初の短歌ですが、同時期の117を読めば、それは桐の花の咲く時期、そして病癒えてすぐだった事が分ります。
まず桐の花に眼が行かず、〈木々の梢〉に〈よどむ風〉を見つけるのは、風に対する思いが若年から並外れていたのではないかと思います。確かに賢治は風を見ていたのではないか、という思いを強くします。
そして桐の花はあたかも病み上がりの体を癒やすように迎えてくれたのでしょう。ちなみにキリは、足利時代に遠野南部家が大和から苗を移して以来普及して、春にはその花と香りが広く親しまれます。また県産の桐材は光沢が強く淡紫色をおび「南部の紫桐(むらさききり)」として知られ、昭和30年に県の花に指定されています。
123 風さむし屋根を下らんうろこ雲ひろがりて空はやがて夜なり
132 さみだれにこのまゝ入らん風ふけど半分燃えしからだのだるさ
風を求めて賢治は屋根に登ってみたのでしょうか。しかし病んだ体には〈風はさむ〉く、またある日は風に触れてはみたものの体はだるく、近づく〈さみだれ〉に、時の流れていく空しさを感じてしまいます。
妹シゲさんの『屋根の上が好きな兄と私』(蒼丘書林 2018)には、屋根に登るのが好きだった賢治との想い出が綴られます。
それ以降の、「大正三年四月」の中で風を詠った作品は、いずれも心情を表して、それも少し屈折しています。
149 ちいさき蛇の執念の赤めを綴りたるすかんぽの花に風が吹くなり
〈すかんぽ〉はタデ科スイバの別名です。同じタデ科イタドリも〈すかんぽ〉と呼ばれることがありますが、イタドリの花は普通は白いのでここではスイバだと思われます。
土手や野原に普通に見られ、高さ50cm〜80cmで、春から夏にかけて茎の先が円錐花穂となり、直径3oの花をたくさんつけ、花が終わった萼片が紫紅色です。確かに花、というよりも円形の集合体です。
北原白秋の童謡「すかんぽの咲くころ」(初出『「赤い鳥』
1925(大正14)年7月号)には、〈土手のすかんぽジャワ更紗〉と表現されています。ジャワ更紗は、花など動植物の写生や点描などが格子や斜稿と組み合わされた細かい模様です。
白秋が花全体の景色を捉えたのに対して、賢治は花の一つ一つを見て、蛇の眼を感じています。集合体となった蛇の眼は恐ろしかったと思います。それが〈執念〉という言葉になったのかも知れません。でも、そこには、すべての情景を包み込んで風が吹いています。
157 いかに雲の原のかなしさあれ草も微風もなべて猖紅の熱
賢治は空を見上げて救いを求めているようですが、あれ草を吹くのは身体の熱を感じさせるような微風で、それも〈猩紅の熱〉と感じるほど不気味でした。
176 城趾のあれ草にねて心むなしのこぎりの音風にまじり来
ここでは、〈心むなし〉という言葉が使われます。風に乗って聞こえてくるのは、のこぎりの
音で、建設を思わせる現実的な明るい音ですが、あるいはそれでいっそう自分の身上のむなしさを感じたのかも知れません。
連想されるのは、明治43年、石川啄木が25歳の時に発表した〈不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心 〉です。こちらは、15歳のころを10年後に回想した歌で、空と一体化していく清新な思いを描いています。
啄木に影響されて短歌を詠み始めた賢治の心中にはこの短歌があったと思います。そして無意識に〈城跡に……〉と詠み始めた賢治でしたが、回想ではなく今の自分の短歌となりました。
178 風ふけば草の穂なべてなみだちて汽車のひゞきのなみだぐましき
前作と同時期の作かも知れません。〈汽車〉は、その場所からの出発を感じさせると思います。しかし、賢治にとって、現状は〈出発〉とはほど遠いものでした。〈なみだぐむ〉までの心情を思うと胸が痛みます。
215 秋風のあたまの奥にちさき骨砕けたるらん音のありけり
少し時が過ぎての、この短歌では、〈あたまの奥のほね〉が砕ける音を聞いています。年譜(注1)によれば、この年の9月ころ家業への嫌悪と進学への思いからノイローゼ状態となり、父から盛岡高等農林学校への受験を許された、とあります。
あるいは〈あたまの奥の骨〉が砕け〉る音は、この精神状態を表すのかも知れません。風は〈秋風〉という決まり言葉で捉え、時の経過や冬に向かう厳しさなどへの焦りを表しています。
228 たらぼうのすこし群れたる丘の辺にひつぎと風とはこばれて来し
227から229まで、葬儀の風景が詠われ、賢治も参列者であったことが推定されます。
229には〈喜田先生は/逝きたまへけり〉とありますが、賢治の小学校、中学校の教職員名簿(注2)には記載が無く、別の場所での師弟関係か改姓された方かもしれません。ちなみに225には〈顔あかき/港先生〉が登場しますが、こちらは盛岡中学校の数学化学担当教諭でした。
〈たらぼう〉はウコギ科タラノキの別称、あるいはその若芽、楤穂 (タラボ)を表します。落葉低木で、春サクラの咲く時期に樹頂に出た若芽を食用にします。227から、この時期は稲の〈とりいれすぎ〉で、タラノキは葉を落とし棒状の物が並んでいる寒々とした風景が連想されます。
〈ひつぎと風とはこばれて来〉たとは、風の中、柩が運ばれて来たことでしょうが、おそらく賢治は、風を一つの物体、塊のように捉えることができたのだと思います。あるいは風に包まれた棺でしょうか。深い悲しみというよりは、風のように消えていく命のはかなさを感じていたように思います。
いつも風の風景には、賢治は心を開き、風に心を映しだしている気がします。それはなぜか、また考えて行きたいと思います。
注1 『新校本全集第十六巻 (上)補遺・資料 年譜篇』
注2 『新校本全集第十六巻 (下) 補遺・資料 補遺・伝記資料篇』
※〈149 ちいさき……〉は原文のとおりです。