9月23日、イーハトーブでの1日の余裕をどう過ごそうか迷った末、小岩井農場に行くことにしました。何度か訪ねてはいますが、生誕100年の年、初めての一人旅、初めての岩手で選んだのが、小岩井農場でした。何も知らず、詩「小岩井農場」の世界に夢中になっていた時代でした。
網張までバスで行ってとんぼ帰りしたり、七ツ森の一つにタクシーで行ったり、今思えば無意味なことをしましたが、そのとき樹木を渡る風が、確かに跛調のリズムで吹いていたのが、とても不思議だったのを覚えています。
幸いホテルでは6:30から食事ができて、早く出られたので、盛岡駅で早いバスに乗ることができ、とても幸いなことに、9:30出発の「狼森賢治ウオーク」に駆け込みで間に合いました。案内してくださったのは自然観察員さんと農場の女性職員さんでした。
牧場の入り口で、初めて気づいたのは、そこに鉄扉ができ施錠されていることでした。案内されるままに、靴の消毒をして、牛舎、レンガサイロ、牧草地に出ている牛たちを眺めて、進みました。
サイロは明治41年と42年に建設された日本で現存する最古のサイロで、昭和56年まで現役で活用されていて、2016年、国の重要文化財に指定されました。
牧草地は、ちょうど端境期で雑草と牧草半々くらいの状況でしたが、その広さは、ほかではなかなか見られないものでした。
どこから見ても大きな岩手山、牧草地、黒々とした狼森が重なって、そこは「狼森と笊森、盗人森」の世界でした。
物語では、岩手山の噴火が収まり、降り積もった灰の上に、草、木々が芽生え、森ができたころ、4人の百姓が家族を連れ、開墾道具を持って、入植します。途中で越えてくる〈東の燧石の山〉は燧堀山(かどほりやま)です。そして周囲の森に、〈「ここへ畑起してもいいかあ。……」〉などと諒解を貰いながら、生活を始めます、これは自然と折り合って生きるべき人間への賢治の主張だと思います。
さて実際の狼森に登ることになりました。「盛岡周辺では、〈森〉は〈山〉だ」という知識はあったものの、ほんとうに傾斜した道を上る〈山〉だったのには、少し驚きました。周囲は松などの常緑樹に混じって広葉樹で満たされ、道はその落ち葉でふかふかで、心配していた膝にも響きませんでした。所々にクマの爪痕などもあり決して侮れない山でした。
もう一つ驚いたのは、頂上には三角点があったことです。標高374メートル、やはり〈山〉でした。そして木々に囲まれた平坦な場所がありました。作品を読んでもイメージできなかった、さらわれた子どもたちと狼がたき火を囲んでいた〈森〉のなかの場所を初めて実感できました。
そこでミルクの香るお菓子とクロモジのお茶をごちそうになりました。クロモジの葉から作られたお茶はほのかに香り、賢治ゆかり木なのが嬉しいことでした。
また、紙芝居が用意されていて、その上演用の木枠には小岩井農場のマークが焼き印されていました。かつて小岩井農場にあった小学校で使われていたものが保存されていたのだそうです。
さらに女性職員の方が、雫石絣の半天を身につけて「狼森と笊森、盗人森」を朗読してくださいました。衒わない静かな声は雰囲気にピッタリでした。
頭上をすっぽりと覆った木々の隙間から青空が覘き、小さな鳥の声がたくさん聞こえていました。残念ながら確認はできませんでしたが……。
帰りは、ウリハダカエデ、イタヤカエデ、ヒトツバカエデ、ハクウンボクなど、様々な葉の形や、真っ赤に色づいた、ツリバナ、ガマズミなど、木の実の名前も教えていただきながら下山しました。
牧場内の賢治の詩碑の前では、碑の建立時のお話や、除幕式のとき、皆で山に「ここに碑を建ててもいいかあ?」と呼びかけたことなどが話され、「どなたか出席したかたは?」と問われて手を上げ、牛乳で乾杯したことをお話して喜ばれました。今日は2才のお子さんが最年少参加者だ!といわれましたが、ひょっとすると後期高齢者一歩手前の私が最高齢参加者だったかもしれません。
もう小岩井農場を自由に歩くことができないのには失望しましたが、年に一度だけのイベントに参加でき、賢治の時間を共有できたのは、つくづく運がよかったと思います。