宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
宮沢賢治「少年小説」と賢治生存中の少年小説(大衆的児童文学)の出版状況について 前編           

宮沢賢治は、「歌稿B」第一葉余白(創作メモ53)に、「少年小説/ポラーノの広場/風野又三郎/銀河ステーション/グスコーブドリの伝記」、のメモを残しており、創作メモ54、創作メモ56にも同様の書き込みが見られる。

また、時期を明確に出来ないが、時を前後して、創作メモ26「ポラーノの広

場」初期形原稿に「アドレスケート ファベーロ、/ノベーロ レアレースタ(筆者注:青少年向け物語の意のエスペラント語) 黎明行進歌」のメモと少年の生活を表す内容のメモが残されている。

これを賢治の「少年小説」の最初の試みだったと仮定し、明治期から賢治没年までの、賢治の周辺にあった大衆的児童文学(以下少年小説と記す)の流れの中での賢治の活動を辿り、この時期に、なぜ賢治が少年小説を意識したかを明確にし、「少年小説」と規定した四作品を知る為の手がかりとしたい。

 

一、「少年小説」の流れの中の賢治

一―1明治期

江戸時代までは、女性、年少者は「婦女子」としてまとめられ、「子供・児童」の概念はなかった。初めて「児童」が意識されたのは、一八七二(明治5)年学制発布の後で、日本の児童文学は、明治十年代、ヨーロッパですでにあった作品を翻訳、翻案して出版されたのが最初である。 

単行本で、一八七八(明治11年ジュール・ヴェルヌ作川島忠之助訳『新註八十日間世界一周』(出版も訳者)、一八八〇(明治13)年鈴木梅太郎訳『二万里海底旅行』(出版は不明)、一八八四(明治17)年井上勤訳『全世界一大奇書』(「アラビアンナイト」の翻訳)報告堂)などがある。

雑誌では、一八八五(明治18)年発刊の『女学雑誌』(萬春堂)に、「不思議の新衣装」(アンデルセン「裸の王様」の翻案)、一八九〇(明治23)年には、F.H.バーネット作、若松賤子訳「小公子」が掲載される。

『少年園』(小年園発行所・一八八八(明21))は、イギリスの児童雑誌の影響を強く受けて創刊された日本最初の本格的児童雑誌といわれる。文部省で教科書作成にあたった山県悌三郎を主筆に、教育・啓蒙を発刊の主旨とした。以後少年向け雑誌の創刊も盛んとなった

幸田露伴は、少年小説「鉄之(三)鍛」(『少年園』一八九〇(明治23年)、歴史小説「二宮尊徳翁」(『少年文学F』一八九一(明治24)年、再話「宝の蔵」一八九二(明治25)年 学齢館)、科学読み物「北氷洋」(『少国民』一八九四(明治27))など広範囲な作品で、少年小説の出発点を作った。「鉄之()鍛」では逆境と苛酷な人との関わりのなかで、発憤して頑張り、援助者と遭遇して成功する姿を描く。

村井弦齋『近江聖人』は『少年文学叢書』第一四編として一八九二(明治25)年から一九〇五(明治38)年末までに二九版を重ねた。中江藤樹の少年時代を描き、被虐者を助け、病気の母に孝行を尽くし、出世の後も周囲のものに学問や徳を施すという徳性を描き、語り口も面白く、伝記物の傑作といえる。

原抱一庵 『少年小説 新年』(青木嵩山堂 一八九二(明治25)年) は、貧困、いじめ、肉親の病や死や不遇、など逆境にある主人公の少年を描き、「少年小説」を冠する作品の初期のものである。主人公の頑張りと少女との出会いを描くが、虐め、失敗など人と人との関わりは描かれない

森田思軒「十五少年」は『少年世界』に一八九六(明治25)年三月から連載後同年一二月博文館より刊行、ジュール・ヴェルヌ「二年間の休暇」の翻訳として現在でも読み継がれる。

押川春浪『海島冒険奇譚 海底軍艦』(一九九〇(明治33)年 文武堂)は行方不明を伝えられていた海軍大佐桜木が、無人島に籠もり海底軍艦(潜水艦)作っていた所に遭遇した日出雄少年が仲間に加わることからの展開の見事さは、少年の海外進出の抱負を抱かせ、国威発揚の役割をも持たせたが、冒険小説の傑作であると言える。

 泉鏡花「金時計」(『少年文学』一八九三(明治26)年)では西洋人と日本人の魂の違いを描き、尾上新兵衛「近衛新兵」(『少年世界』一八九四(明治27)年)では日清戦争を描いた。

単行本も、旅順戦記桜井忠温『肉弾』(一九〇六(明治39)年 丁未出版社)、ユーモア小説佐々木邦『いたづら小僧日記』(一九〇九(明治42)年 内外出版協会)など、多様な内容を持ち、このころから大人向け雑誌への少年の読者も増える。

「少年小説」とほぼ並行して女子を対象にした「少女小説」というジャンルがあった。初期には北田薄氷が「おいてけぼり」、「食辛棒」(『少年界』(金港堂明治30)は、少女向けに書かれた短篇で、家庭生活の出来事を面白く描くが、物語性などに欠けていた。一九〇二(明治35)年、金港堂書籍から日本最初の少女雑誌として『少女界』創刊、全く少女向けの読み物のなかった時代に、少女のみならず一般の婦人達も読者に加わった。

一九一一(明治44)年、「立川文庫」(立川文明堂)が創刊される。作者は山田敬を中心に、「真田十勇士」や「猿飛佐助」など、講談本、大衆小説の先駆的存在となり、勧善懲悪のモラルを脱し新しいヒーロー像を造った。

 

一―2明治から昭和に向けての出版状況について 

少年小説の販路は何処まで広がっていただろうか。

江戸時代は出版業者の組合に「本屋仲間」と「地本問屋」があり、(本や仲間)は書籍版元・書 籍取次・書籍店を、地本問屋は雑誌版元・雑誌店を兼ねてそれぞれの販路を 持っていた。一八五一(嘉永4)年以前刊の『庭訓往来』に付載されている取次所の広告の書店名は二十九店舗、全国的に散らばっており、東北では「奥州仙台国分寺」、「会津若松市の町」「奥州相馬浪江」、「出羽山形十日町」、の書店所在地が見られる()

明治初期には出版社と小売店とは同一業種だったが、出版業と小売業に分化し始め、一九一〇(明治43)年には、雑誌大取次中取次雑誌店のルートが形成された。一九一四(大正3)年前後から雑誌・出版物の普及によって小売りと卸が分化する。さらに大取次、中取次(地方まで取り次ぐ)、小取次(市内の小売店にも取り次ぐ)に分化した。「せどりや」は小売店を廻って注文を取り見込み仕入れをする業種で、明治大正期は市内回りの取次人として確立した。雑誌出版の隆盛と取次業の整備は車の両輪のようにして発達した。

書籍の委託販売は返品条件付き販売で、一九〇八(明治41)年大学館が東京市内を範囲として始まり翌一九〇九(明治42)年、実業之日本社が『婦人世界』でその方法を取り入れ、講談社も雑誌の大量販売を機に一般化し、主に雑誌の形で広まった少年小説はそのルートに乗った。取次大手の東京堂の社史によると、発送方面区劃に従って鉄道の番線ごとに大量の雑誌が発送されて行く様が描かれる()

これが、花巻周辺まで届いていたのか、実証は掴めなかったが、少なくとも県都盛岡には一九一四(大正3)年前後の段階で到達したであろう。

一九〇一(明治34)年生まれの賢治の妹シゲの回顧録(4)に拠れば、幼少期には、東北大飢饉の記事の載った古い写真総合誌『太陽』(一八九五(明治28)〜一九二八(昭和3)年 博文館)が、宮澤家にあったという事実があるが、ただ、それが花巻の商店で扱われたものなのか、父政次郎氏が注文して取り寄せたものなのかについては調査が及ばなかった。                               

 

一―3明治期における賢治との関わり

賢治誕生一八九六(明治29)年〜賢治一六才(一九一三(明治45)年 )まで賢治と少年小説との関わりが実証される事実はほとんど無い。

宮澤家の読書環境を示すものとして、前述の妹岩田シゲの回想に、宮澤家の古い土蔵「北小屋」に父政次郎の蔵書があり、子どもたちは忍び込んで本を読んだという記述がある。前述の『太陽』のほか、少し成長してからのことだが賢治の一九一六(大正5)年ころ、そこで「伊勢物語」を読んでいたことが記されている。たやすく本に触れられない環境で、密かに蔵の中で古い本を読む、という状況もうかがえる。

唯一の記録は、一九〇五(明治38)年、花巻川口尋常小学校三年のとき、担任の八木英三から、「太一の話」などを聞き感銘を受けたというものである。これはエクトール・マロ原作「家なき子」の五来素川による翻案、『家庭小説 未だ見ぬ親』である。一九〇二(明治35) 年三月一一日から七月一三日まで『読売新聞』に全九十四回にわたり連載され、一九〇三(明治36) 年七月に警醒社,東文館,福音新報社から単行本が出版された

賢治がなぜこの一点のみを記憶していて、それが語り継がれているのか。可能性としては、この時代の子供向け出版物がほとんどの雑誌であり、保存されるものではなかったか、花巻まで出版物の流通網が到達していなかったかでる。

また、賢治の幼少時代、少年小説は排すべきものであり、厳しい家庭になればなるほど、禁じられることが多かった可能性もある。それ故、八木英三の語り聞かせた物語は、後々まで強い感動を残したのかもしれない。

一方、この物語は新聞連載中から「家庭小説」の角書が付され、原作に加味された報恩の観念は、家族主義から個人主義への過渡期にあると見なされた日本の「家庭」にふさわしい親子道徳として、その欠点を補うものとして期待されたと考えられ(5)、小学校のなかでも読み聞かされることが多かったのかも知れない。

一九〇九(明治42)年一三才、盛岡中学校に進学、家を離れ寮生活を送る県庁所在地盛岡では、出版の状況も変わったであろう。

一九一一(明治44)年、賢治は一五才になり、寮の同室の藤原文三の記憶によると、すでに「中央公論」の読者で、エマーソンの哲学書を読んでいたと いう(6)

 

一―4大正期

 一九一三(大正2)年、中里介山「大菩薩峠」は都新聞で連載が開始され、以後毎日新聞、読売新聞と変わりながら一九四一年まで連載、作者死亡により未完に終わった。虚無思想に取り憑かれた主人公と周辺の生き様を描き、作者によれば仏教思想に基づいて人間の業を描こうとしたといい、大衆小説の先駆けとも言われる。 賢治作詞作曲の「大菩薩峠の歌」が出来たのは、藤原嘉藤治の採譜などから、その知己を得た一九二〇(大正10)年以降と思われる。

一九一四(大正3)『少年倶楽部』(大日本雄辮會 一九二五年大日本雄辮會講談社となる。以下講談社と略す。)が創刊された。創刊間もなく社長野間清治が打ち出した編集方針は、学校以外で児童が自ら進んで読んで面白いもので、なおかつ知らず知らずのうちに利益になるものを雑誌の目標とすることであった。利益になるとは精神教育で、「偉大なる人」にならなければならないこと教えることを中心とした。「面白くてためになる」は児童だけでなく、教育関係者、父母にも認められた。雑誌の隆盛は、販売ルートを成立させ、さらに雑誌の隆盛を生むという相乗効果で広まっていった。    

一九二六(大正15)年の東京都社会局の調査「小学児童思想及読書傾向調査」によれば、少女雑誌を含めて、『少年倶楽部』の占有率は三五パーセントに及んだ(7)

一九二一(大正10)年から講談社の編集長を務めた加藤謙一によると、当時最盛期だった『日本少年』(実業之日本社)が二〇万部を誇る中、まず一〇万部の売り上げを目指したという8)

著名な文学者の寄稿に加えて、投稿による討論会、飛行機搭乗体験記、少年発明家の訪問記、読者の原稿募集、相撲の記事、千葉耕堂「滑稽大学」など多彩な記事に加えて魅力ある付録もついた。表紙に高畑華宵を起用したのも人気だった。発行部数は、新年号のみの比較で、一九一四(大正3)年の創刊当時三万部から、一九二〇(大正9)年八万部、一九二四(大正13)年三〇万部、翌一九二五年四〇万部と飛躍的に伸びを見せている(9)

一九二五(大正14)年、挿絵画家高畑華宵とのトラブル後、表紙に頼らぬ編集方針が生まれ、さらに大きな飛躍を生むことになる。一九二三(大正12)年『少女倶楽部』も発刊され、その年の九月の関東大震災の大打撃や児童誌再編制も逆手にとって『少年倶楽部』は飛躍、少年小説黄金時代を迎える。

吉川英治「神州天馬峡」(連載一九二五(大正14)年五月〜一九二八(昭和3)年)は、講談的少年小説から近代性ある少年小説への展開がある。文体の美しさと、敗軍の主人公の宿命を見つめる滅びの美学に加えて歴史の展開やキャラクターの面白さは、後続の作品の要素が見られる。「風神門」(一九三二(昭和7)年五月から一一月 『少年世界』)など、完成度がたかまっていく。

 高垣眸「龍神丸」は一九二三(大正14)年4月から連載され、「宝島」をヒントの秘宝探しで伝奇小説の源流となった。「豹の眼」は成人のための小説へ向かった。

佐藤紅緑「ああ玉杯に花受けて」(一九二七(昭和2)年五月〜六年三月)で、逆境にあって進学できない青木と、有力者の息子で青木を虐める坂井、金持ちの息子で友人全体に愛情を示す柳という典型的人間関係の中で、良き師と先輩と巡り会い、常に正しいものとは何かを考えて行動する姿を描く。究極の将来図が第一高等学校なのは当時の理想像の象徴だったのかも知れない。それと同時に、中学生と働くものたちの野球大会、柳の妹を誘惑する金持ちの医者の息子との事件、中学生の弁論大会、など幅広いストーリー展開は人気を集めた。この路線は「一直線」講談社 一九三一(昭和6)年などにつづく。 

一九一八(大正7)年、鈴木三重吉による童話誌『赤い鳥』は、既存の少年小説、説話、昔話を中心とした旧来の読み物への批判から、純文学としての児童文学を目指して創刊された。出版数創刊当時三万部で、芥川龍之介、有島武郎、川未明、北原白秋ら一流の文学者が子供のために執筆するというスタンスを取り、児童文学の理念を「童心主義」に置き、子どもには大人とは異なる価値があり、価値の本質は純真無垢であるとした。

一九一九(大正8)年 西条八十の詩、成田為三の作曲の「かなりや」が楽譜付きで掲載され、唱歌とは違う芸術性を求め、音楽運動としての先駆けとなった。

また新美南吉など次世代の作家の育成発掘を試みたが、三重吉の意に沿わない作家は退けられるなど限界も生まれた。「童心主義」も現実の子供から遊離しているという批判が生まれ、後のプロレタリア児童文学の台頭も加わっていく。

少女小説は大正時代に入ると隆盛期を迎える。なかでも吉屋信子川端康成など同性に向けた憧れを描く作品の原型が生まれた。

吉屋信子が一九一六(大正5)年から『少女画報』に連載した「花物語」は、花をモチーフに少女たちの友愛を描き、七話完結の予定が八年間続き少女小説界を独走した感がある。

 

(後編に続く)

 

(1)少女雑誌も含めて一八八九(明治22))『日本之少年』(博文館)・『少国民』(学齢社)、一九〇二(明治35)年『少年界』・『少女界』(金港堂)、一九〇三(明治36)年『少年』(時事新報社)、一九〇六(明治39)年『日本少年』(実業之日本社)、一九〇八(明治41)年『実業少年』(博文館)・『少女の友』(実業之日本社)、一九〇九(明治42)年『少女』(女子文壇社)、一九一一(明治44)年『少年園』(盛文社)・『幼年世界』(博文館)、一九一二(明治45)年『武侠世界』(興文社)・『少女画報』(東京社)、一九二三(大正12年)『少女倶楽部』など。(二上洋一「少年小説年表」(『少年小説の系譜』幻影城一九七八)一六七ページ〜一八二ページ)

(2)鈴木俊幸「近世日本における薬品・小間物の流通と書籍の流通」(『書籍流通資料論序説』第二章一三七〜一三九頁 勉誠出版 二〇一二年)

()田中治男『ものがたり東京堂史』二六七〜二七六頁 東販商事一九七五(4)岩田シゲ『屋根の上が好きな兄と私』 蒼穹書林二〇一七)

(5)渡辺貴規子「エクトール・マロ原作、 五来素川訳『家庭小説未だ見ぬ親 』の研究」京都大学大学院人間・環境学研究科「人間・環境学」第 20 巻,八三―九六頁 二〇一一年)

(6)堀尾青史『宮沢賢治年譜』筑摩書房一九九一 四四ページ。

(7)二上洋一『少年小説の系譜』幻影城一九七八 四九ページ 

(8)加藤謙一『少年倶楽部時代』一九六八 一九ページ

(9)前掲書三九ページ

10)宮澤清六「兄賢治の生涯」(『兄のトランク』筑摩書房一九九一) 二五一ページ

11) アミーラ サイード アリー ユーセフ「宮沢賢治の童話の特質について」(『国際日本研究』第2号 (筑波大学人文社会科学研究科国際日本研究専攻)

12)米地文夫「宮沢賢治のヘレンタッピングへの片想いと西洋風街並みへの憧れと―大正ロマンのモリーオ幻想」(『賢治学』第5輯 二〇一八 岩手大学宮澤賢治センター東海大学出版部)

13)渋谷百合絵「宮沢賢治論――小波お伽噺「菊の紋」との比較を中心に」(『日本近代文学九二』日本近代文学会二〇一五)

 

参考文献

『出版事典』編集委員会・布川角左衛門『出版事典』 出版ニュース社 

一九七一

蔡星慧「日本の出版取次構造の歴史的変遷と現状―取次機能の分化と専門化の観点から―」CR-no35-che.pdf   dpt.sophia.ac.jp

 

テキストは『校本宮澤賢治全集』に拠った。

 








永野川2019年1月中旬

19日

珍しく風もなく快晴です。少し寒さを避けて、10:00に出発しました。

川沿いの風が心配なので、コースを変えて、上人橋から入り赤津川から先に廻りました。

上人橋上の河川敷の草むらでは、カワラヒワが25羽群れて飛びました。上からの眼線で見られて綺麗な羽の模様も見ることが出来ました。

昨日、上人橋近くに住む友人からダイサギが30羽くらい群れて旋回していると知らせがありました。確かに多く4、5羽の群れがたびたび飛び、滝沢ハムの調整池には22羽の群れが下りていて、全部で39羽になりました。だいたい上人橋周辺で散っているようです。

 アオサギは、ダイサギに混じって1羽がいるという感じで全部で5羽になりました。

ケリは、赤津川のいつもの場所に1羽いたのみでした。

滝沢ハムのクヌギ林で、シジュウカラの声がして見つけているとエナガ7羽の群れが目に飛び込んできました。先日テレビで見たシマエナガの白さはありませんが、自然な感じで、人の近くまで来てくれるし、動きも早く、好きな鳥です。

大岩橋の河川敷林は、相変わらずたくさんの声が聞こえて悩ましいところです。カワラヒワ10・6・5・2、カシラダカ3、シメ7は確認できましたが。もっとゆっくり構えれば、或いは倍くらい確認できるかもしれません。

大砂橋付近の川で、キセキレイ2羽、セグロセキレイに混じって一瞬確認しました。ここは公園と比べると、川幅も狭く、鳥の動きも速く、観察しにくい気がします。

永野川は二杉橋から睦橋まで、水が全く無くなっていて河原状態でした。時々ダイサギ、草むらに雀の群れ、周囲の木々にヒヨドリの声が聞こえるばかりでした。

鳥たちのためにも雨の降ることを祈ります。

 

鳥リスト

カイツブリ、ヒドリガモ、カルガモ、コガモ、アオサギ、ダイサギ、ケリ、トビ、モズ、コゲラ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、シジュウカラ、エナガ、ウグイス、ヒヨドリ、ツグミ、スズメ、ハクセキレイ、セグロセキレイ、キセキレイ、カワラヒワ、シメ、カシラダカ

 

 

 








永野川2019年1月上旬

 明けましておめでとうございます。
 
今年もよろしくお願いいたします。
 

6日

腰を痛めて、自転車の乗り降りが不安でしたが、少しすこし遅めに10:00ころ家を出ました。

二杉橋から高橋くらいまで、水が涸れ始めていて、ほとんど干潟状態でした。アオサギ3羽・3羽・1羽、ダイサギ2羽・2羽、ハクセキレイ3羽、などたくさん浅瀬を歩いていました。少し遡ったところで、ここでは2016年以来見なかったタヒバリが歩いていました。

また、イカルチドリの声が聞こえて、探していると2羽が駆け回っているのを見つけました。こちらも久しぶりという感じです。

上空をコガモが37羽・14羽・11羽と大量に遡っていきました。少し上の睦橋下に20羽ほど下りていましたが、その他は見られず、別の場所に移動してしまったようです。

カワラヒワは3羽が一瞬飛びましたが、その後は公園まで見られませんでした。上人橋の河川敷の草むらで15羽、大岩橋の河川敷林で5羽・6羽・3羽・5羽・9羽、とあちこちで枝に留まり全部で46羽となりました。

イソシギは公園の川で1羽が鳴いて遡っていきました。帰りに睦橋下で、1羽が石の近くにいたのですが後ろ向きで、動いてくれなくて特徴を捉えられず確認が出来ませんでした。クサシギなど他のシギの特徴も捉えられなかったのでイソシギとしました。

シメは公園のハリエンジュの大木で1羽、土手のエノキで2羽、大岩橋河川敷林で1羽・3羽・4羽と、色々な場所で見られた。今回はすべてシメで、コイカルを疑うものは見られませんでした。あやふやな情報を流して、申し訳ありませんでした。

カワセミが、大砂橋近くの谷津田の川で1羽、私はこの場所で見たのは初めてですが、何回かカメラマンが待機しているのを見かけましたから、カワセミのスポットなのかもしれません。その後、赤津川で1羽、帰りの高橋付近で1羽、と思いがけないところで3回も会えました。

大岩橋近くの山林でカケスの声が賑やかでした。暫く待ちましたが出てこなかったので取りあえず5羽と記録しました。

大岩橋の上から河川敷林を見ると、林の底からカシラダカが次々に枝に飛び移って5羽になりました。

ホオジロは滝沢ハムの草むらで5羽が飛び交っていました。鳥種ごとに日によって場所をかえているのでしょうか。

赤津川岸の田でケリの声がして、2羽が低く移動していて白い羽は見られました。もっとたくさん残ってほしかったのですが。

赤津川の浮巣が出来ている感じの草の上でダイサギが魚を咥えていました。細いけれど10センチくらいあり尾が茶色に見えました。今日はほとんど水がありませんが餌は豊富なのですね

心配していましたが、なんとか無事歩き通せました。タヒバリやカシラダカ、その他の鳥たちに会えてうれしいことでした。まだ、これからも冬鳥を見ることが出来るはずです。体調を戻して充実した鳥見をしたいと、思います。

 

鳥リスト

カイツブリ、ヒドリガモ、カルガモ、コガモ、アオサギ、ダイサギ、イソシギ、ケリ、トビ、モズ、カワセミ、コゲラ,ハシボソカラス、ハシブトカラス、カケス、ウグイス、ヒヨドリ、ツグミ、スズメ、ハクセキレイ、セグロセキレイ、タヒバリ、カワラヒワ、シメ、ホオジロ、カシラダカ








短歌に吹く風―文学の始め―(七)

 「大正七年五月以降」という括り646〜698の中で、風を詠みこんだのは669の一首のみ、さらにこれは歌稿Bには入っていません。
 

歌稿A669たばこばた風ふけばくらしたばこばた光の針 がそゝげばかな
                 し(折壁)

 

 この年4月、高等農林学校卒業後も研究生として残り、土性調査に携わるようになります。

しかし6月には肋膜炎の診断を受け(書簡77宮沢政次郎宛て、書簡78保阪嘉内宛て)、山歩きを止められ、8月には実験指導補助を退職しましたが、予定した土性調査だけはやる決意を持ったようです(書簡83保阪嘉内宛て)

9月の稗貫郡東北部の土性調査は、21日大迫町石川旅館に泊り、22日大迫―立石―鍋屋敷―岳、23日岳―河原坊―早池峰山―中岳―鶏頭山―七折峠―岳、24日岳―天王―覚久―狼久保、25日狼久保―久出内―名目入―長野峠折壁峠―折壁、26日折壁―覚久廻―小呂別―黒沢―立石―大迫というコースで行われました。歌稿A669、670〜679 「折壁」10首の短歌が残され、その中の一首です。この中には歌稿Bに取り入れられなかった作品が、これを含めて5首あります。

この短歌の背景は22日〜23日の大迫一帯と思われます。大迫一帯には、「風の又三郎」の舞台といわれる分教場跡、モリブデンの採掘鉱跡、煙草畑があり、岳川を流れる笛貫の滝は、「どんぐりと山猫」の「笛吹きの滝」のモデルといわれます。賢治の心象の中に深く印象づけられた場所なのでしょう。

歌稿Aのこの歌は9月24日作で、第一形態は

   
秋の風うちくらみ吹く草山をしろきひかりのすぐる朝かな

 

でした。ここでは煙草畑の言葉はありませんが、風によってもたらされる「くらみ」と「ひかり」の対比があります。 
 賢治は葉裏の白い植物、たとえばギンドロ、楊などを風が吹き渡る風景を好みました。ここでは煙草の畑です。「くら」い「たばこばた」は、風で、葉裏の白さが見えなくなった一瞬でしょうか。「光の針がそゝげば」は逆に葉が裏返ったときの目を突くような鋭さの表現でしょうか。「かなし」は悲哀の意味というよりも、「心を打たれた」状況ではないでしょうか。

22日には予定より早く調査が終わって、その後は、雨などで旅館に足止めされることになり、風の風景も描かれず、少し屈折した歌調になってきます。

 

その後、699〜703は歌稿Aのみに存在し、「大正〔七〕年十二月より」の記載に加えて「大正九年十二月」の書き込みがあります。

大正7年12月から、日本女子大学校に学んでいた妹トシが重いインフルエンザにかかり、大正8年2月下旬まで母と看病にために滞京していました。

 

次の括りは「大正八年八月より」711〜762です。

高等農林を退職し、上京中に考えた自分の希望する職業も同意を得られず、日頃から嫌悪感を抱いていた実家の質、古着商を手伝うという、鬱々とした日を送ることとなり、歌もそれを反映して屈折したものが多いのですが、日差しに浮かぶ雲という日常的風景を「寒天」と捉える感覚的な面もあります。
        
         711くらやみの/土蔵のなかに/きこえざる/悪しきわめきをなせ

      るものあり。
713雲きれら/うかびひかりぬ/雨すぎて/さやかに鎖ざす 寒天
          のそら。


風の言葉のある歌はつぎの通りです。
 

北上第四夜
歌稿A733北上の夜の大ぞらに黒き指はびこり立たすそのかみのかぜ
     先駆形 黒き指はびこりうごく/北上の/夜の大ぞらをわたる風はも。
733黒き雲ひろごりうごく北上の/ こよひは水の音のみすなり。
734黒雲の/北上川の橋に上に/劫初の風ぞわがころも吹く735黒雲の/きたかみ川の風のなかに/網うつ音の/とおくきこゆる    
735/736aよるふかき雲と風との北上を/水に網打つ音きこゆな 
                     り 

738風ふけば/こゝろなみだち/うすぐもの空に双子のみどりひかれ
        る。      

739あかつきの/風に吹かれて葉白める/やなぎの前に汽車はとまり
        ぬ

747北風は/すこしの雪をもたらして/あまぐもを追ひ/うす陽そそ
       げり

 

 歌稿Aでは717〜727「北上川第一夜」、728「北上川第二夜」、729〜732「仝第三夜」、ですが、歌稿Bでは717〜721「北上川第一夜」、722は存在せず、723〜730「夜をこめて行くの歌」の標題があります。そこまでは風の表現はなく、北上川の流れや夜空に浮かぶ漁り火、三日月描かれます。

733〜755「北上川第四夜」、は連作で、734,735、735/736a、738、739、747は同じ日の夜から翌朝までの場面と思われます。

歌稿A733では、黒雲の表現を「黒き指はびこり立たす」と人体の表現として不気味さを増しています。黒雲は人の心と力を持つものとして描かれることが後の作品にも多くあります。風はその源基として描かれます

劫初」はこの世の始め、開闢の意味です。それは昔からある風、変わることのない風、という意味でしょうか。黒雲に圧倒されながら身をさらしている姿を感じます。735は、そのような状況のなかで、現実の活計の音、「網打つ音」を聞いて、我に返ったということでしょうか。その音も風が運んだのでしょう。

738では、風に心を揺すられながらも、眼を空に向け双子座の星の光に救われているようです。

やがて夜が明け、風は賢治の好きなヤナギの葉裏の白さ際だたせ、多分一番列車でしょうか、汽車がやってきました。

747は昼になり、風が雪を呼びさらに薄日を呼ぶ、気候の変化を詠んでいます。

まず夜、風の呼んだ黒雲には人の力を感じ、風の中で網打つ音に人の世界を感じ、風に誘われて空の星の光に眼を向けます。朝には、光る柳の葉のなかの列車の姿に現実の力強さのようなものを感じ、ついには雲を払って光をもたらす風に到達したのです。風に寄り添った一夜の様々な思いが描かれました。

大正6年「旅人の話から(『アザリア第一号』)に始まった散文の制作は、「秋田街道」「柳沢」、「沼森」、大正7年「復活の前」(『アザリア五号』)、「峯や谷は」(『アザリア第六号』)に続いて、「大正八年秋」、末尾には1920/6.と書き込まれた短篇「うろこ雲」へと続いていました。浮世絵の蒐集に熱中したのもこの頃と言われます。また、郡立農蚕講習所で、鉱物、土壌、化学、肥料の科目を受け持っています。将来を決めかねている不安のなかで様々な試行錯誤が続いていたのではないでしょうか。そこで風は、風があれば必ず心惹かれ作品に詠みこまれる存在だったと思います。

 








永野川2018年12月下旬

25日

気温は低くなりましたが、風もなくよい天気です。少し遅い10:30の出発です。

二杉橋から入ると、ダイサギ2羽、コガモ12羽、ハクセキレイが3羽、少し浅瀬の多くなった川で元気でした。今日は特にハクセキレイが多く全部で10羽を数えました。

ハクセキレイに混じってイソシギが1羽、忙しく歩いているそばで、カイツブリも1羽潜水を繰り返していました。

高橋そばの屋敷林にヒヨドリ30+の群れが盛んに鳴いていましたが、すべて常緑樹の中にいて姿が見えませんでした。敵もさるもの、といつも思います。

上人橋から上流を眺めているとき、カワラヒワが12羽、綺麗に羽の模様を見せて飛んでくれました。上人橋下の河川上の草むらを見るのに、ここはよいスポットだと初めて気づきました。日差しが降り注いで色々見えそうな気がしましたがスズメの30+の群れが見えたのみでした。

公園に入ると芝生のクワの大木にシメが1羽飛んできたあと、そのあと草むらや、エノキ、対岸の草むらなどに次々に現れ、10羽となりました。

大岩橋の河川敷林で2羽、民家のヒノキの頂上に1羽、シメと同形で頭部が黒く見えるものを見ました。帰って図鑑で見て、コイカルだったかも知れないと思いましたが、嘴の色の確認が出来なかったので、カウントできませんでした。このところ観察が不確かなことが多く反省しています。もう一度行きたかったのですが、暮れの雑用と寒さに負けて断念しました。

公園で、カワセミの声が一瞬して、対岸の桑の木の倒木のなかに1羽発見しました。枝の関係で場所を少し移動すると見えなくなります。最後には後ろ向きで、輝くような青い色を見せてくれました。探鳥会の時のように頻繁ではありませんでしたが、嬉しいことでした。

公園の草むらで一瞬姿を見せたもの、ホオジロかと思いましたが、腹部が白かったので、カシラダカに記録しました。その後先日たくさんカシラダカを見た大岩橋の河川敷林では一瞬出てきたのはホオジでした。河川敷林には小さな声がたくさんしていて、出てくるのをずっと待っていたい気分でした。

池にはヒドリガモ1、カルガモ17羽になっていました。ツグミは公園のエノキに1羽のみ、先日の群れはどこかに行ってしまったようです。

今日も赤津川畔の田に、ハシボソカラスが12羽の群れを作っていました。何かあるのでしょうか。別のカラスが混じっていないか、と思ったのですが、ハシボソカラスのみでした。

赤津川、永野川で、川岸の草むらを飛ぶキジを4羽見ました。いつも雄の色彩にばかり惹かれますが、飛んでいる雌の尾羽が綺麗に整っていることに気づきました。

スズメが100羽単位の群れで動き壮観でした。公園の対岸の低木に並んで真っ白く膨らんだおなかを見せて、枝なりの線を描いている景色は、カメラに収めたい気分でした。

ウグイスの地鳴きも、この頃大砂橋に近い辺りでのみ、聞こえます。

カシラダカやアオジ、オオジュリンを見逃さないように、そしてコイカルも確認したい、課題をたくさん残して今年が暮れていきます。

 

鳥リスト

キジ、ヒドリガモ、カルガモ、コガモ、カワウ、アオサギ、ダイサギ、イソシギ、トビ、モズ、カワセミ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、ウグイス、ヒヨドリ、ツグミ、スズメ、ハクセキレイ、セグロセキレイ、カワラヒワ、シメ、コイカル、ホオジロ、カシラダカ