宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
永野川2019年2月下旬

 

24日

3月下旬並という暖かさ、風もない探鳥日和でした。9:30出発しました。

歩く順序を変えて、上人橋から赤津川に入りました。さくら保育園のサクラにシジュウカラが1羽が囀っていました。上人橋下の草むらから、エナガの声のみ聞こえました。

合流点にはいくらか流れがあり、ダイサギ2羽、アオサギ1羽、セグロセキレイ2羽、キセキレイ2羽、ハクセキレイ1羽が行き来して、イカルチドリの声も聞こえました。

合流点上にはいくらか豊かな水があるので、カルガモ5羽・9羽の群れ、コガモ5羽、カイツブリ4羽が揃っていました。カイツブリが4羽揃うのは珍しいことです。カイツブリは少し上流でも1羽、計5羽になりました。

赤津川の土手で、動きとチッチという声がしてアオジが1羽出てきました。ここは以前はもっと草むらがあり、オオジュリンなども見えましたが、今はアオジも珍しい存在になりました。

田んぼで今季初ヒバリが囀りました。やはり去年と同じ場所です。

赤津川は、いくらか水の流れがあり、コガモ12羽、バン2羽が見られました。

滝沢ハムの調整池には、ダイサギ9羽、アオサギ1羽が来ていました。ここはもう調整池ではないようですが、よく鳥たちが集まっています。ダイサギはその他合わせて13羽になりました。

大岩橋の上から河川敷林を覗くとウグイスの地鳴きが聞こえてきました。

大岩橋の河川敷林、やはり鳥たちの集まるところで好きです。カワラヒワ15羽・2羽、カシラダカ5羽が次々に現れます。

少し奥にノスリが留まっていました。こんな近くで留まっているのを見るのは初めてかも知れません。行き過ぎてから確かにワシタカらしい声が聞こえ、帰って確認するとやはりノスリの声でした。細くよく通る声です。

少し登って林縁の、広葉樹の大木一本と杉林が繋がっているところで、シメ7羽が動きました。こちらの気配を感じて林の中に移動してしまったようです。シメの群れを見るのは久しぶり、今季初め以来かもしれません。

一瞬ですがメジロの顔が見え、確認は出来ませんでした、少し奥で声が聞こえました。

カケスが、ご一緒しますという感じで二声ばかり鳴きました。

帰りの永野川では、シロハラが一瞬見え、ツグミ1羽、シメ1羽、アオサギ3羽、ダイサギ1羽、セグロセキレイ1羽、上空トビ1羽と、変化に富んでいました。いつもはあまり見られない西岸からです。岸の木が刈られたせいかもしれません。いつもたくさん記録する東岸ではほとんど見えませんでした。廻る順序を変えると少し景色も変わってくる気がします。

オオイヌノフグリが咲き、紅梅、マンサクが満開でした。カワヅザクラはまだ堅い蕾でした。

春とともに現れるもの、去って行くもの、でもここでは、来年を期待することが出来るのは幸いな事だと思います。

暖かい一日でしたが、また冬に戻るのが生理的に恐い気がします。

 

鳥リスト

カイツブリ、ヒドリガモ、カルガモ、コガモ、キジバト、アオサギ、ダイサギ、イカルチドリ、トビ、ノスリ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、カケス、バン、ウグイス、エナガ、ヒヨドリ、ムクドリ、ツグミ、シロハラ、スズメ、ハクセキレイ、セグロセキレイ、キセキレイ、カワラヒワ、シメ、シジュウカラ、メジロ、カシラダカ、ホオジロ、アオジ、ヒバリ

 

付記

3月1日
我が家の近くで今季初カワラヒワの囀りを聞きました。

この辺りはカワラヒワの群れはほとんど見られませんが、囀りはよく耳にします。








永野川2019年2月中旬

17日

昨日ほど暖かくはありませんが、風は少なく、歩きやすい日でした。9:30に家を出ました。

二杉橋から入ったのですが、相変わらず水は無く、1、2カ所に水たまりがある程度です。川には鳥は下りておらず、アオサギが2羽上空を通り過ぎました。アオサギは高橋付近の民家の大木のてっぺんに留まっていたほか、いくらか水のある所の川岸に佇んでいて、計10羽になりました。

ダイサギは今日も多く、滝沢ハムの調整池に9羽、また赤津川でも12羽の群れが上空を飛び、壮観でした。計27羽になりました。

睦橋付近で土手の草むらからホオジロが飛び出しました。ホオジロはよく姿を見せ、公園の川岸の草むらでは、草のてっぺんで囀っていました。今季初です。

民家の前の畑にツグミ1羽、ツグミは少なくて、公園の芝生で1羽、土手の木に1羽のみでした。

大岩橋上の河川敷林、草むらは、本当に鳥の宝庫です。カワラヒワの7,8,9羽の群れが飛び、公園の群れなど、合わせて42羽となりました。

カシラダカも一瞬ですが、時々姿を見せます。

アオジが山林側に3羽、河川敷林で2羽、公園で1羽、と6羽も見えました。

シメも1羽ずつ3羽、その中の1羽がどう見ても全身グレイで、頭と羽根先がうっすらとシメの模様があり、嘴は肌色でした。バードリサーチのお話では、シメということで、雌雄や年齢で差があるとのことです。

赤津川ではカイツブリが3羽一緒に泳いでいました。また合流点付近でも2羽いて、一日で5羽カウントできるのは珍しいことです。

赤津川の岸で、カラス大で、白っぽく茶色の斑点のみえるワシタカ1羽が尾羽を広げた姿で旋回していました。ノスリよりも小さいので、図鑑の飛翔図などからオオタカとしました。その前の一瞬、ハト大で尾の少し長い鳥が、羽ばたきながら飛び去りました。こちらはチョウゲンボウではないかと思います。トビも3羽見えました。今日のワシタカは狩りに忙しいようです。

上人橋近く、さくら保育園のサクラにエナガの声がしたので待っていると、2羽現れました。いつもは群れなのですが、バードリサーチさんのお話では、これはもうツガイでの行動との事で、モズなどもツガイで行動しているとのことでした。

ツガイと言えば、滝沢ハムのクヌギ林で、ハシボソカラスが2羽、巣の上にいました。もう営巣の時季でしょうか。季節がどんどん変わっていく気がします。もう少しゆっくり、季節はめぐってほしい、もっと冬鳥を見たいのですが。

栃木工業高校の二本のポプラの大木が、無残に枝をほとんど切られて、トーテムポール状態になっていました。恐らく開校以来50年以上、ずっと変わらず大きな枝を風に吹かれ、時には、100羽単位の鳥の群れが留まっていたのですが。

ここ5、6年、公共の場所での大木がこんな状態になっているのをよく見ます。これが庭園管理の主流なのでしょうか。その後、確かに枝は復活するのですが、周辺の空気も変わって行くし、鳥の数に変化が出るのではないかと思います。何よりも見た者の胸が痛みます。もっとよい方法はないのでしょうか。

 

鳥リスト

カイツブリ、ヒドリガモ、カルガモ、コガモ、キジバト、アオサギ、ダイサギ、イソシギ、トビ、オオタカ、チョウゲンボウ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、カケス、エナガ、ヒヨドリ、ツグミ、スズメ、ハクセキレイ、セグロセキレイ、カワラヒワ、シメ、カシラダカ、ホオジロ、アオジ

 

 

 

 

 

 








永野川2019年2月上旬

5日

昨日の春のような気温は一変しましたが、風もなく歩きやすそうな日になり、9:30出発しました。

3日前に降った雨はほとんど影響がなく、二杉橋近くに水たまりが出来た程度でしたが、鳥は数多く見られました。

対岸の木に、シメが1羽、ここでは珍しいことです。シメは多く、全部で9羽になりました。余談ですが、自宅に戻ると、となりのお宅の庭にシメが1羽きていました。ここでは10年に1度くらいで、ほんとに珍しいことです。

高橋付近の土手で一瞬少し大きめの鳥が動き、おなかの鮮やかな赤褐色のみ見えました。アカハラです。時折、こんな所にまで姿を見せてくれる鳥には、本当に感謝したい気持ちになります。(思えば勝手な言い分ですが。)

高橋付近の田にムクドリが22羽下りていました。群れはここのみで、計25羽となりました。

風が無いためか、草むらで時折ホオジロが姿を見せ、計4羽となりました。

カワウが公園で上空を飛んだほか、赤津川では2羽で泳ぐ姿が見えました。その後争いの声を立てながらどこかに飛び去りました。

ツグミが多かったのも特記すべきでしょう。今までせいぜい2羽でしたが、赤津川の休耕田で4羽、公園の芝生で5羽、と平らなところでの群れが多く、合わせて16羽となりました

カワラヒワも多く79羽となりました。

多いと言えば、スズメが200羽、100羽単位の群れでいて400+と数えました。

大岩橋の河川敷林でカシラダカが1羽姿を見せましたが、草むらのなかで数羽のグゼリが聞こえました。オオジュリンやアオジではないのでカシラダカのグゼリと思います。

アオジも養護施設の近くの林から1羽が飛び出したほか、大岩橋近くの河川敷林で3羽確認できました。久しぶりです。

カケスは、上人橋、大岩橋、両方の山林で声を聞くことができました。

公園の水たまりで、イカルチドリを発見しました。豊富な水と水辺があれば、もっとたくさん集まってくるでしょうに。異常な気候の原因は何でしょう。人間ののせいかもしれませんが、それによって人も被害を受けることになります。

滝沢ハムの近くにあった雑木林は枝が落とされ、下草がかられ、「よく手入れされた雑木林」となりましたが、ホオジロやカシラダカが群れ飛ぶ場所はなくなりました。これからどうなって行くのでしょう、ススキやヨシの原っぱも刈られ、ここも春以降の姿が想像できません。

大岩橋の上流、右側の土手のハリエンジュが全部切られました。このところあまり足を向けなかったのですが、草むらや木の枝には、結構鳥がいたのですが。ハリエンジュは土留めのために植えられたと聞きます。この後、ハリエンジュの代わりに土留めをしてくれるものは何なのでしょうか。

先日見かけた除草剤散布禁止は、県の土木事務所名がありました。土手の崩れを心配するなら、まず木を切らないことではないかと思います。除草剤散布はもちろんなくすべきですが、川全体を見据えた対策を考えなければ、また被害が起こるのではないでしょうか。

赤津川では、川の整備を望む男性に会いました。確かに草の生い茂る川は見苦しいのかも知れませんが、土手にサクラを植えた川ばかりが美しいとは限りません。現在より少し前、ズミやクサギや葛の茂った土手は美しかったと思います。無計画に伐採をした結果の現在を見据えないで、美化ばかりを求めたら、水害の心配ばかりではなく、生態系そのものの危機にも繋がるでしょう。

いつもいる鳥が、たくさん出てきて嬉しかった代わりに、たくさんの問題を見せつけられた日でした。

 

鳥リスト

キジ、カイツブリ、ヒドリガモ、カルガモ、コガモ、カワウ、アオサギ、ダイサギ、イカルチドリ、カワセミ、トビ、モズ、コゲラ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、カケス、ウグイス、ヒヨドリ、ムクドリ、ツグミ、アカハラ、スズメ、ハクセキレイ、セグロセキレイ、カワラヒワ、シメ、カシラダカ、ホオジロ、アオジ

 








永野川2019年1月下旬

26日

天気予報に反して、風もなかったので10:00ころ家を出ました。

二杉橋から睦橋の間は、相変わらず干上がっています。

上空をダイサギの9羽、6羽の群れが下ってきました。その後も、あちこちで1羽ずつ、また滝沢ハム付近で11羽・4羽、樹上にも5羽、今日も計41羽になりました。アオサギは計8羽、と結構いるのですが、ダイサギに圧倒されます。

ムクドリは、第五小付近で6羽、公園のエノキで45羽、群れが多く見られました。

多いと言えばカワラヒワで、赤津川の電線に37羽が並んで留まっているのに出会い、また大岩橋の河川敷林で29羽の群れが飛び、そのほか11・3・3・2・1と合わせて、計85羽となりました。これも季節の風景で、会えて幸せでした。

カシラダカも大岩橋の河川敷林で12羽、5羽と確認できました。公園のハリエンジュで1羽、この場所では初めて見ました。その他会わせて21羽、今季最大確認できました。

シメは上人橋付近の電線で1羽、公園のエノキで1羽、やはり大岩橋河川敷林が多く、2・1・3と多く、計8羽になりました。

水は無くてもセキレイ類が意外と多くて、ハクセキレイ7,セグロセキレイ8羽、或いはカウント出来なかったものもいたかも知れません。公園でキセキレイも1羽確認できました。

川での居所を失って、カルガモは公園の調整池に25羽、赤津川泉橋下の澱みに17羽、など計58羽と、意外と多く、ヒドリガモ5羽、コガモは赤津川のみで20羽でした。

赤津川のケリ2羽、バン1羽、も健在でした。

ホオジロが公園の川の対岸で2羽、ワンド跡で1羽、飛び出して確認できました。

 

今日の最大の収穫はカワセミの雌の確認です。赤津川でカワセミを見かけて、素通りするところでしたが、暫く留まっていたので、双眼鏡に入れてみると、一瞬下の嘴が赤く見えました。正面を向いてしまったりするのを、じっと横を向くのを待って再度確認しました。恥ずかしながら初めてです。私のハンドルネームは、宮沢賢治が「カワセミのお嬢さん」につけた名前なのですが……。 これだけでも今日の探鳥の成果は十分です。

 

永野川の川岸の土手の一部で、綺麗に芝が植えられた場所があり、「土手の強度が落ちるので除草剤の使用は避けてください」という意味の警告が張り出されていました。公共用地への除草剤の散布の禁止は、ここ15年くらいの間、何回も市役所の環境問題の話し合いにも発言し、環境政策にも盛り込んでほしいと要望してきたのですが、ついに認められなかったことで、意外な気がしました。

ただ警告の出所が示されていなくて、どんな立場の発言か、どの位の強制力があるのか、全く分らず不安のほうが膨らみました。この動きが、土手にとどまらず広まってほしいと思います。

 

カワセミの雌発見、ムクドリの大群、カシラダカ、カワラヒワの群れの確認、水が無いのは悲しいことですが、まさに冬の鳥見の本番です。

 

鳥リスト

カイツブリ、ヒドリガモ、カルガモ、コガモ、キジバト、カワウ、アオサギ、ダイサギ、バン、ケリ、カワセミ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、ウグイス、ヒヨドリ、ムクドリ、ツグミ、スズメ、ハクセキレイ、セグロセキレイ、キセキレイ、カワラヒワ、シメ、カシラダカ、ホオジロ








宮沢賢治「少年小説」と賢治生存中の少年小説(大衆的児童文学)の出版状況について 後編 

一―5大正期における賢治との関わり

賢治の弟清六の記憶によると、盛岡高等農林学校で研究生として学んでいた一九一八(大正7)年八月、弟妹たちに初めて書いた童話「蜘蛛となめくぢと狸」や「双子の星」を読み聞かせたとい(10)

鈴木三重吉の『赤い鳥』創刊は前月七月である。前章でも述べたように、鈴木三重吉の理想は従来の少年小説や説話を否定、子供の純正を保全開発するために一流の芸術家をあてる、という画期的なもので、賢治が読んで創作を啓発されたということは十分に考えられる。賢治が生前に最初に出版した、『イーハトーヴ童話 注文の多い料理店』の「序」、新刊案内の賢治の理想を読むとき、そこに、三重吉から引き継いだものを感じることができるという(11)

ただ賢治童話の底に流れる、自然や科学の裏付け、人間への凝視、光や風の描写は、独特の世界になっていると感じられるが、三重吉の子供の文学への理想への取り組みには十分刺激されたと思われる。

一九一六(大正5)年から連載が始まった吉屋信子「花物語」は、一九二〇(大正9)年二月に『花物語第一集』、『花物語第二集』として落陽堂から発行される。

同性の友人や教師に抱く友情や尊敬を、一作ごとに取り上げた花が象徴するものを物語に反映させ、主人公の思いの一途さと対象となる花や風景が美しい整った文体で描かれる。対象の持つ美への憧れに近い思いを表現しようとする意識が感じられる。『花物語 第一集』に所収の一七作は、すべて何らかの形の別れの切なさが主題で、わびしい、かなしいという言葉も多用される。

「マリブロンと少女」は、師への憧れと別れを題材にし、吉屋の「鈴蘭」、「紅薔薇白薔薇」と、大変似通っている。また、作者のその対象を究極的な美とする描き方も類似している。

同時に先行作品「めくらぶだうと虹」のメクラブドウの虹への憧れの描き方も強い類似性が感じられる。影響を受けたとすれば「めくらぶだうと虹」(一九二一(大正10)年秋頃と推定)が最初であろう。

同年夏ころ成立の短篇「いてふの実」、「おきなぐさ」、「まなづるとダァリア」を見ると同様の意図と表現を感じる。対象は人間ではないが、生物の生命の終わりと再生への限りない賞賛を描いて、対象に対する突き詰めた眼はそれまでの寓話には感じられなかったものである。

この時期は、『花物語』の普及した年月にかなり近い。ここからは推定になるが、この年、妹トシは花巻高当女学校女教諭となっており、少女向け小説に触れる機会も多く、また賢治と接する時間も多くなり、或いはそこで伝えられた可能性もあるのではないか。

「マリブロンと少女」の女教師のモデルを、盛岡バプティスト教会牧師ヘンリータッピングの娘で賢治にオルガンの手ほどきをしたヘレンとする説(12) もあるが、ここでは作品の中から感じられる影響について考える。

 

一―6昭和期

一九二五(大正14)年終わり、『少年倶楽部』は全盛期を迎え、その力をバックに、吉川英治(歴史小説)、高垣眸(伝奇小説)、佐藤紅(友情と正義物語)など一流の作家を集め、少年雑誌界を独走した。さらに大佛次郎は一九二七(昭和2)年三月〜一九二八年五月「角兵衛獅子」をはじめとして一九三三年(昭和8)年まで七作品が掲載され、近代的少年小説を定着させる結果となる。加えて山中峯太郎は「敵中横断三百里」(一九三〇(昭和5)年四月〜九月)で、優れた主人公の記録としての日露戦争従軍記を描き、読者の共感を得た。南洋一郎は、密林の冒険物語を一九二九(昭和4)年から発表していたが、一九三二(昭和7)年四月〜一二月の「吼える密林」は、決定的な人気作品となり、池田宣正の名で発表した「桜ん坊の少年」のような感動小説とともに人気を得た。

賢治の死後、一九三六(昭和11)年から江戸川乱歩「怪人二十面相」が連載される。探偵小説は、一九二二(大正11)年横溝正史『恐ろしき四月馬鹿』、一九二二年江戸川乱歩「一銭銅貨」が雑誌『新青年』に掲載されたことが始まりと言われる。乱歩は、そこで探偵小説のレギュラー作家森下雨村の影響を受けながら成長した。

少年雑誌ではないが、森下雨村の編集で創刊された『新青年』(一九二〇〜一九五〇年 博文館〜江古田書店〜文友館〜博友社)は一九二〇年〜一九三〇年のモダニズムの時代の代表的な雑誌で、現代小説から時代小説、さらには映画・演芸・スポーツなどの話題と共に、国内外の探偵小説を紹介し、日本の推理小説の歴史上、大きな役割を果たした。平均発行部数は三万部前後、多い時は五、六万部に達していたと言われている。また内務省警保局による調査では、一九二七(昭和2)年当時約一万五〇〇〇部という。

弟清六が賢治の童話を持参して面会した、といわれる『コドモノクニ』社の小野浩は、『赤い鳥』に移って後、昭和三年に退職、『新青年』に「意外つづき」(ブラックウッド著)など、多くの翻訳を寄稿している。また『赤い鳥』の挿絵を手がけた深沢省三とも関係が深く、賢治が個人的にこの名前を認識していて『新青年』を手にしたかも知れない。賢治が当時の文化の最先端の雑誌にも目を向けていたことは考えられる。

この少年小説の全盛期、一九二九(昭和4)年三月、童話誌『赤い鳥』が休刊となった。一九三一( 昭和6)年会員制によって復刊したが、鈴木三重吉の死により、一九三六(昭和11)年終刊する。

さらに一九三三(昭和8)年、詩人佐藤一英の編集した『児童文学』が廃刊となる。第一集(昭和6年7月)に「北守将軍と三人兄弟の医者」、第二集(昭和7年3月)に「グスコーブドリの伝記」を掲載し、続刊していれば「風の又三郎」も掲載予定だった。

 

二、宮沢賢治と少年小説―改稿と発表の意志

二―1改稿への意志

生前発表作品についてみると、「雪渡り」(一九二一(大正10)年一一月〜一九二二年一月 『愛国婦人』)、「やまなし」(一九二三(大正12)年四月、「岩手毎日新聞」)、「シグナルとシグナレス」(一九二三(大正12)年五月「岩手毎日新聞」)までは数少なく、推敲による変化は著しくない。

『注文の多い料理店』は、一九二四(大正13)年、杜陵出版部、東京光原社から一千部発行された。賢治初めての童話集で、その意気込みは序や広告文からも感じられる。しかし当時の映画館入場料が三〇銭ほどだったのに対し一円六〇銭と高額だったためもあって売れず、賢治は二〇〇部を自費で買い取ったという。 

賢治は作品に対して、「売れる」事よりも、共感してくれる人が一人でもいれば、という思いだった。「心象スケッチ」についての書簡421母木光あてに、「ただ幾人かの完全な同感者から「あれはさうですね」といふやうなことを、ぽつんと云はれる位がまずのぞみといふところです。」がある。だが周囲の出版状況が耳に入る時代となって、また恐らくは商才のある父政次郎の眼なども感じて、心穏やかならぬ事もあったのではないか。

大正十五年以降では、「オツベルと象」『月曜』一九二六(大正15)年一月、「ざしき童子(ぼっこ)のはなし」(『月曜』一九二六(大正15)年二月)、「寓話 猫の事務所」(『月曜』一九二六(大正15)年三月)「北守将軍と三人兄弟の医者」(『児童文学』第一集 一九三一(昭和6)年七月)、「グスコーブドリの伝記」(『児童文学』第二集 一九三二昭和()年三月)「朝に就(つい)ての童話的構図」(『天才人』第六輯一九三三(昭和8)年三月)、と数を増していると同時に、ほとんどが既存作品を改稿したものである。この時期、賢治のなかに、「少年小説」―大衆的児童文学の意識が生まれ、既存の作品を発表に向けて改作したのではないだろうか。

さらに創作メモ53にある「銀河鉄道の夜」第四次稿、「ポラーノの広場」最終稿、「グスコーブドリの伝記」、「風の又三郎」も改稿されている。

この時、「少年小説」として自作の童話を位置づけようとし改稿を思い立ったのは、少年小説、特に『少年倶楽部』の成功と内容の充実に心を動かされたのではないだろうか。

その意識の流れの中で、一九二九(昭和4)年三月、『赤い鳥』が休刊する。童話制作のきっかけとも、理想としていたと推定される雑誌の休刊にはショックを受け、さらなる少年小説を目指し、昭和六年以降の改稿が始まったと推定する。

一九三三(昭和8)年、『児童文学』廃刊となる。書簡459(一九三三年三月七日)母木光宛て)には、『児童文学』廃刊や児童文学界の行き詰まりを直感していた事実が残されている。『児童文学』は第一集(一九三一(昭和()年七月)に「北守将軍と三人兄弟の医者」、第二集一九三二(昭和7)年三月に「グスコーブドリの伝記」掲載し、続刊していれば「風の又三郎」も掲載予定だった。病との戦いの中で、さらなる改稿や創作を考えていたかも知れない。

他の作品の改稿については、「まなづるとダァリア」の一九三〇年と推定される第五形態への改稿段階での巌谷小波「菊の紋」の影響が指摘されている13

これは昭和初年代に功績が集大成され、「小波お伽全集一二巻」(小波お伽全集刊行会一九三〇(昭和5)年として出版された巌谷小波の全集からの影響と見られ、賢治が出版物への多くの興味を持ってアンテナを広げていたと言える。 

 

二―2「アドレスケート ファベーロ、/ノベーロ レアレースタ 黎明行進歌」

創作メモ26の、「ポラーノの広場」初期形原稿に残された「アドレスケート ファベーロ、/ノベーロ レアレースタ (青少年向け物語のエスペラント語)黎明行進歌」のメモには、少年を主人公にして、具体的な家族構成や生活状況が設定され、学校行事に沿って具体的に物語を進展させる構想が書かれている。家の貧しさや母の死や上級学校への諦めなど、当時の少年小説、「ああ玉杯に花受けて」を感じさせる。

〔或る農学生の日誌〕の下書き稿とされるこのメモを、ここでは「少年小説」の試みのメモとして捉え、ここから、賢治の「少年小説」の意図を感じ取りたい。  

成立は「ポラーノの広場」初期形原稿成立の一九二四(大正13)年以降、作品中の日付の最後「一千九百二十七年」の間と推定される。

主人公は「岩手県稗貫郡湯本村日居城野/徳松長男 栂沢舜一」、「一千九百廿五年、十七才/稗貫農学校の第三学年」と設定される。父は自作農で土地はすべて抵当に入っていること、家族構成は姉二一才、弟一〇才、妹一三才、一二才、七才、祖父である。

四月から月ごとに学校行事を中心にした出来事が、一千九百二十六年、一千九百二十六年と続く。

ここには賢治の経験した事柄が並ぶ。「校友会行事」、「校友会誌成る」、「土性調査」は高等農林学校時代の出来事である。「父との衝突」は高等農林卒後の宗教対立か。細かい時間割や「松並木問題」「修学旅行の出発前の不安」、「旱害」、「県視学来校」、「一学期試験」、「カンニング」、「夏季実習」、「家事労働」、「遊園地遠足」「凶作」、「雄辯大会」、「授業料滞納」」などは、花巻農学校の教師時代の経験、教え子の事件である。「ヴァイオリン」、「肥料設計」、「グラジオラス」、「レコードコンサート」は、農学校退職後の出来事であろう。その他、人の世の悲哀を描くための、祖父(祖母)、母(姉)、妹の死を配している。

そこから創作された〔或る農学生の日誌〕は、さらに自分の体験や心情―上級学校へ行けなかった自分、退学した友への思いを重ねる。さらに桜の花への複雑な思いとたんぽぽの綿毛を染める夕日の美しさが語られ、修学旅行の楽しさ、稲作への希望など、周囲の事象への感情が書き込まれている。

賢治は「少年小説」について、『少年倶楽部』の作風の中から、少年への道標となるような作品を目指し、貧しさという社会の現実を設定し、そこに自分の体験を具体的に書き、未来の農業への希望に向けての作品にしようとしたのであろう。

『少年倶楽部』の掲載の作品に比べれば、物語の展開は少なく、人間関係、社会状況についての描写がないのは、一つには少年小説の大きな課題「立志」を書き込んでいないからであろう。

しかし自分の内面や自然描写、農業への視線は美しく、賢治作品の特徴が見える。前述の一面に加えて、この特徴は、その後の、創作メモ535456に記された四作品の改稿において、どのように生き続けるのだろうか。

一九二九(昭和4)年三月の童話誌『赤い鳥』が休刊、一九三三(昭和8)年、『児童文学』廃刊は、さらに賢治の創作への思いを変えていったであろう。四作品は、どのように改稿され、賢治の「少年小説」となったか。次の課題としたい。

 

 

12)米地文夫「宮沢賢治のヘレンタッピングへの片想いと西洋風街並みへの憧れと―大正ロマンのモリーオ幻想」(『賢治学』第5輯 二〇一八 岩手大学宮澤賢治センター東海大学出版部)

13)渋谷百合絵「宮沢賢治論――小波お伽噺「菊の紋」との比較を中心に」(『日本近代文学九二』日本近代文学会二〇一五)

 

参考文献

『出版事典』編集委員会・布川角左衛門『出版事典』 出版ニュース社 

一九七一

蔡星慧「日本の出版取次構造の歴史的変遷と現状―取次機能の分化と専門化の観点から―」CR-no35-che.pdf   dpt.sophia.ac.jp

 

テキストは『校本宮澤賢治全集』に拠った。