一―5大正期における賢治との関わり
賢治の弟清六の記憶によると、盛岡高等農林学校で研究生として学んでいた一九一八(大正7)年八月、弟妹たちに初めて書いた童話「蜘蛛となめくぢと狸」や「双子の星」を読み聞かせたという(10)。
鈴木三重吉の『赤い鳥』創刊は前月七月である。前章でも述べたように、鈴木三重吉の理想は従来の少年小説や説話を否定、子供の純正を保全開発するために一流の芸術家をあてる、という画期的なもので、賢治が読んで創作を啓発されたということは十分に考えられる。賢治が生前に最初に出版した、『イーハトーヴ童話 注文の多い料理店』の「序」、新刊案内の賢治の理想を読むとき、そこに、三重吉から引き継いだものを感じることができるという(11)。
ただ賢治童話の底に流れる、自然や科学の裏付け、人間への凝視、光や風の描写は、独特の世界になっていると感じられるが、三重吉の子供の文学への理想への取り組みには十分刺激されたと思われる。
一九一六(大正5)年から連載が始まった吉屋信子「花物語」は、一九二〇(大正9)年二月に『花物語第一集』、『花物語第二集』として、落陽堂から発行される。
同性の友人や教師に抱く友情や尊敬を、一作ごとに取り上げた花が象徴するものを物語に反映させ、主人公の思いの一途さと対象となる花や風景が美しい整った文体で描かれる。対象の持つ美への憧れに近い思いを表現しようとする意識が感じられる。『花物語 第一集』に所収の一七作は、すべて何らかの形の別れの切なさが主題で、わびしい、かなしいという言葉も多用される。
「マリブロンと少女」は、師への憧れと別れを題材にし、吉屋の「鈴蘭」、「紅薔薇白薔薇」と、大変似通っている。また、作者のその対象を究極的な美とする描き方も類似している。
同時に先行作品「めくらぶだうと虹」のメクラブドウの虹への憧れの描き方も強い類似性が感じられる。影響を受けたとすれば「めくらぶだうと虹」(一九二一(大正10)年秋頃と推定)が最初であろう。
同年夏ころ成立の短篇「いてふの実」、「おきなぐさ」、「まなづるとダァリア」を見ると同様の意図と表現を感じる。対象は人間ではないが、生物の生命の終わりと再生への限りない賞賛を描いて、対象に対する突き詰めた眼はそれまでの寓話には感じられなかったものである。
この時期は、『花物語』の普及した年月にかなり近い。ここからは推定になるが、この年、妹トシは花巻高当女学校女教諭となっており、少女向け小説に触れる機会も多く、また賢治と接する時間も多くなり、或いはそこで伝えられた可能性もあるのではないか。
「マリブロンと少女」の女教師のモデルを、盛岡バプティスト教会牧師ヘンリータッピングの娘で賢治にオルガンの手ほどきをしたヘレンとする説(12) もあるが、ここでは作品の中から感じられる影響について考える。
一―6昭和期
一九二五(大正14)年終わり、『少年倶楽部』は全盛期を迎え、その力をバックに、吉川英治(歴史小説)、高垣眸(伝奇小説)、佐藤紅(友情と正義物語)など一流の作家を集め、少年雑誌界を独走した。さらに大佛次郎は一九二七(昭和2)年三月〜一九二八年五月「角兵衛獅子」をはじめとして一九三三年(昭和8)年まで七作品が掲載され、近代的少年小説を定着させる結果となる。加えて山中峯太郎は「敵中横断三百里」(一九三〇(昭和5)年四月〜九月)で、優れた主人公の記録としての日露戦争従軍記を描き、読者の共感を得た。南洋一郎は、密林の冒険物語を一九二九(昭和4)年から発表していたが、一九三二(昭和7)年四月〜一二月の「吼える密林」は、決定的な人気作品となり、池田宣正の名で発表した「桜ん坊の少年」のような感動小説とともに人気を得た。
賢治の死後、一九三六(昭和11)年から江戸川乱歩「怪人二十面相」が連載される。探偵小説は、一九二二(大正11)年横溝正史『恐ろしき四月馬鹿』、一九二二年江戸川乱歩「一銭銅貨」が雑誌『新青年』に掲載されたことが始まりと言われる。乱歩は、そこで探偵小説のレギュラー作家森下雨村の影響を受けながら成長した。
少年雑誌ではないが、森下雨村の編集で創刊された『新青年』(一九二〇〜一九五〇年 博文館〜江古田書店〜文友館〜博友社)は一九二〇年〜一九三〇年のモダニズムの時代の代表的な雑誌で、現代小説から時代小説、さらには映画・演芸・スポーツなどの話題と共に、国内外の探偵小説を紹介し、日本の推理小説の歴史上、大きな役割を果たした。平均発行部数は三万部前後、多い時は五、六万部に達していたと言われている。また内務省警保局による調査では、一九二七(昭和2)年当時約一万五〇〇〇部という。
弟清六が賢治の童話を持参して面会した、といわれる『コドモノクニ』社の小野浩は、『赤い鳥』に移って後、昭和三年に退職、『新青年』に「意外つづき」(ブラックウッド著)など、多くの翻訳を寄稿している。また『赤い鳥』の挿絵を手がけた深沢省三とも関係が深く、賢治が個人的にこの名前を認識していて『新青年』を手にしたかも知れない。賢治が当時の文化の最先端の雑誌にも目を向けていたことは考えられる。
この少年小説の全盛期、一九二九(昭和4)年三月、童話誌『赤い鳥』が休刊となった。一九三一( 昭和6)年会員制によって復刊したが、鈴木三重吉の死により、一九三六(昭和11)年終刊する。
さらに一九三三(昭和8)年、詩人佐藤一英の編集した『児童文学』が廃刊となる。第一集(昭和6年7月)に「北守将軍と三人兄弟の医者」、第二集(昭和7年3月)に「グスコーブドリの伝記」を掲載し、続刊していれば「風の又三郎」も掲載予定だった。
二、宮沢賢治と少年小説―改稿と発表の意志
二―1改稿への意志
生前発表作品についてみると、「雪渡り」(一九二一(大正10)年一一月〜一九二二年一月 『愛国婦人』)、「やまなし」(一九二三(大正12)年四月、「岩手毎日新聞」)、「シグナルとシグナレス」(一九二三(大正12)年五月「岩手毎日新聞」)までは数少なく、推敲による変化は著しくない。
『注文の多い料理店』は、一九二四(大正13)年、杜陵出版部、東京光原社から一千部発行された。賢治初めての童話集で、その意気込みは序や広告文からも感じられる。しかし当時の映画館入場料が三〇銭ほどだったのに対し一円六〇銭と高額だったためもあって売れず、賢治は二〇〇部を自費で買い取ったという。
賢治は作品に対して、「売れる」事よりも、共感してくれる人が一人でもいれば、という思いだった。「心象スケッチ」についての書簡421母木光あてに、「ただ幾人かの完全な同感者から「あれはさうですね」といふやうなことを、ぽつんと云はれる位がまずのぞみといふところです。」がある。だが周囲の出版状況が耳に入る時代となって、また恐らくは商才のある父政次郎の眼なども感じて、心穏やかならぬ事もあったのではないか。
大正十五年以降では、「オツベルと象」『月曜』一九二六(大正15)年一月、「ざしき童子(ぼっこ)のはなし」(『月曜』一九二六(大正15)年二月)、「寓話 猫の事務所」(『月曜』一九二六(大正15)年三月)、「北守将軍と三人兄弟の医者」(『児童文学』第一集 一九三一(昭和6)年七月)、「グスコーブドリの伝記」(『児童文学』第二集 一九三二昭和(7)年三月)、「朝に就(つい)ての童話的構図」(『天才人』第六輯一九三三(昭和8)年三月)、と数を増していると同時に、ほとんどが既存作品を改稿したものである。この時期、賢治のなかに、「少年小説」―大衆的児童文学の意識が生まれ、既存の作品を発表に向けて改作したのではないだろうか。
さらに創作メモ53にある「銀河鉄道の夜」第四次稿、「ポラーノの広場」最終稿、「グスコーブドリの伝記」、「風の又三郎」も改稿されている。
この時、「少年小説」として自作の童話を位置づけようとし改稿を思い立ったのは、少年小説、特に『少年倶楽部』の成功と内容の充実に心を動かされたのではないだろうか。
その意識の流れの中で、一九二九(昭和4)年三月、『赤い鳥』が休刊する。童話制作のきっかけとも、理想としていたと推定される雑誌の休刊にはショックを受け、さらなる少年小説を目指し、昭和六年以降の改稿が始まったと推定する。
一九三三(昭和8)年、『児童文学』廃刊となる。書簡459(一九三三年三月七日)母木光宛て)には、『児童文学』廃刊や児童文学界の行き詰まりを直感していた事実が残されている。『児童文学』は第一集(一九三一(昭和(6)年七月)に「北守将軍と三人兄弟の医者」、第二集一九三二(昭和7)年三月に「グスコーブドリの伝記」掲載し、続刊していれば「風の又三郎」も掲載予定だった。病との戦いの中で、さらなる改稿や創作を考えていたかも知れない。
他の作品の改稿については、「まなづるとダァリア」の一九三〇年と推定される第五形態への改稿段階での巌谷小波「菊の紋」の影響が指摘されている(13)
これは昭和初年代に功績が集大成され、「小波お伽全集一二巻」(小波お伽全集刊行会一九三〇(昭和5)年として出版された巌谷小波の全集からの影響と見られ、賢治が出版物への多くの興味を持ってアンテナを広げていたと言える。
二―2「アドレスケート ファベーロ、/ノベーロ レアレースタ 黎明行進歌」
創作メモ26の、「ポラーノの広場」初期形原稿に残された「アドレスケート ファベーロ、/ノベーロ レアレースタ (青少年向け物語のエスペラント語)黎明行進歌」のメモには、少年を主人公にして、具体的な家族構成や生活状況が設定され、学校行事に沿って具体的に物語を進展させる構想が書かれている。家の貧しさや母の死や上級学校への諦めなど、当時の少年小説、「ああ玉杯に花受けて」を感じさせる。
〔或る農学生の日誌〕の下書き稿とされるこのメモを、ここでは「少年小説」の試みのメモとして捉え、ここから、賢治の「少年小説」の意図を感じ取りたい。
成立は「ポラーノの広場」初期形原稿成立の一九二四(大正13)年以降、作品中の日付の最後「一千九百二十七年」の間と推定される。
主人公は「岩手県稗貫郡湯本村日居城野/徳松長男 栂沢舜一」、「一千九百廿五年、十七才/稗貫農学校の第三学年」と設定される。父は自作農で土地はすべて抵当に入っていること、家族構成は姉二一才、弟一〇才、妹一三才、一二才、七才、祖父である。
四月から月ごとに学校行事を中心にした出来事が、一千九百二十六年、一千九百二十六年と続く。
ここには賢治の経験した事柄が並ぶ。「校友会行事」、「校友会誌成る」、「土性調査」は高等農林学校時代の出来事である。「父との衝突」は高等農林卒後の宗教対立か。細かい時間割や「松並木問題」「修学旅行の出発前の不安」、「旱害」、「県視学来校」、「一学期試験」、「カンニング」、「夏季実習」、「家事労働」、「遊園地遠足」「凶作」、「雄辯大会」、「授業料滞納」」などは、花巻農学校の教師時代の経験、教え子の事件である。「ヴァイオリン」、「肥料設計」、「グラジオラス」、「レコードコンサート」は、農学校退職後の出来事であろう。その他、人の世の悲哀を描くための、祖父(祖母)、母(姉)、妹の死を配している。
そこから創作された〔或る農学生の日誌〕は、さらに自分の体験や心情―上級学校へ行けなかった自分、退学した友への思いを重ねる。さらに桜の花への複雑な思いとたんぽぽの綿毛を染める夕日の美しさが語られ、修学旅行の楽しさ、稲作への希望など、周囲の事象への感情が書き込まれている。
賢治は「少年小説」について、『少年倶楽部』の作風の中から、少年への道標となるような作品を目指し、貧しさという社会の現実を設定し、そこに自分の体験を具体的に書き、未来の農業への希望に向けての作品にしようとしたのであろう。
『少年倶楽部』の掲載の作品に比べれば、物語の展開は少なく、人間関係、社会状況についての描写がないのは、一つには少年小説の大きな課題「立志」を書き込んでいないからであろう。
しかし自分の内面や自然描写、農業への視線は美しく、賢治作品の特徴が見える。前述の一面に加えて、この特徴は、その後の、創作メモ53、54、56に記された四作品の改稿において、どのように生き続けるのだろうか。
一九二九(昭和4)年三月の童話誌『赤い鳥』が休刊、一九三三(昭和8)年、『児童文学』廃刊は、さらに賢治の創作への思いを変えていったであろう。四作品は、どのように改稿され、賢治の「少年小説」となったか。次の課題としたい。
注
(12)米地文夫「宮沢賢治のヘレンタッピングへの片想いと西洋風街並みへの憧れと―大正ロマンのモリーオ幻想」(『賢治学』第5輯 二〇一八 岩手大学宮澤賢治センター東海大学出版部)
(13)渋谷百合絵「宮沢賢治論――小波お伽噺「菊の紋」との比較を中心に」(『日本近代文学九二』日本近代文学会二〇一五)
参考文献
『出版事典』編集委員会・布川角左衛門『出版事典』 出版ニュース社
一九七一
蔡星慧「日本の出版取次構造の歴史的変遷と現状―取次機能の分化と専門化の観点から―」CR-no35-che.pdf dpt.sophia.ac.jp
テキストは『校本宮澤賢治全集』に拠った。