次に風の表現が現れるのは、〈大正六年一月より〉からです。
この括りは、第一日昼、第二日夜、第三日夕、第四日夜、第五日夜、第六日昼、第七日夜、第x日という章立てがされ、430から449までが最後の一首を除いて「ひのき」を詠みこんでいます。先の稿で書いたように、既に
でも、ヒノキには、般若心経の一句「波羅羯諦」を言わせ、乱れ咲くケシに対比させて、偉大なものとして描いています。
ここでも、寮の窓からの風景で、毎日、時には日に二度も詠んでいます。
第一日はまず、窓からヒノキを見た驚きに始まり、窓という枠の中の構図を感じ取ります。
431,432でのみ、〈風〉という語が使われますが、4首とも、風に動くヒノキの風景です。
〈嵐〉直前の青空がいっそう不気味であるという心象も描かれます。433は青空と光を詠みこんでその中で震える姿を書き、風は全面には出ていません。
第二日夜
434 雪降れば/今さはみだれしくろひのき/菩薩のさまに枝垂れて立つ
435 わるひのき/まひるみだれしわるひのき/雪をかぶれば/菩薩すがたに
第二日夜には、ヒノキは雪に包まれました。その静かな姿は菩薩のようでした。昨日のヒノキの姿に〈わるひのき〉という洗練されていない語が使われたのは、今の情景とあまりに違っていたからでしょうか。
第三日夕
436 たそがれに/すつくと立てるそのひのき/ひのきのせなの銀鼠雲
437 窓がらす/落つればつくる四角のうつろ/うつろのなかの/たそがれのひのき
第三日、窓の枠に囲まれた、風もなく静かな夕暮れのヒノキの姿で、銀色の雲さえ流れています。
第四日夜
438 くろひのき/月光澱む雲きれに/うかがひよりて何か企つ
439 しらくもよ夜のしらくもよ/月光は重し/気をつけよかのわるひのき
夜の風景で、ヒノキは黒い塊となって、月光の中で、雲に何か仕掛けているように見えます。賢治はヒノキの姿に、悪い意志を感じ取って、〈わるひのき〉と言う言葉をつかい、で牽制しています。
第五日夜440 雪おちてひのきはゆるゝ/はがねぞら/匂ひいでたる月のたわむれ
441 うすらなく/月光瓦斯のなかにして/ひのきは枝の雪をはらへり
442 (はてしらぬ世界にけしのたねほども/菩薩身をすてたまはざるはなし
441a442月光の/さめざめ青き三時ごろ/ひのきは枝の雪を撥ねたり
月夜です。月光の中で枝の雪を払い落とす瞬間を捉えています。月光は、〈月光瓦斯〉とも表現され、〈匂ひいでたる〉という共感覚的な表現を生むほど、美しく描かれています。そこでまた、世界の果てまで、その身を捨てて加護をおよぼす菩薩の姿を見ます。
第六日昼
443 年わかき/ひのきゆらげば日もうたひ/碧きそらよりふれる綿ゆき
あらためて見ると、ヒノキは、樹齢が若く、太陽の光の中で歌っているようです。でもまた雪が降ってきました。東北特有の雪空です。
第六日夜
444 ひまはりの/すがれの茎のいくもとぞ/暮るゝひのきをうちめぐりゐる
暮れかかる光の中で、ヒノキの根元に枯れているヒマワリを見つけます。
毎日ヒノキを見続けてきた賢治は、ヒノキが生きて、自分と関わりのある生き物なのかもし得ないと思い始めます。でも、ヒノキはやはり自分のことは知らないのだ、と言う諦めが生まれます。
第x日
448 しばらくは/試験つゞきとあきらめて/西日にゆらぐひのきを見たり
ヒノキに想いを通わせて来た賢治は、風に揺らぐヒノキを見つめて、現実を確認しています。
449 ほの青き/そらのひそまり/光素(エーテル)の弾条もはぢけんとす/みふゆはてんとて
そして、冬の終わりも近づき、空は静けさの中に、春の明るさを含んで弾けるようになりました。春の予感です。
ここで描かれるのは、単純に風にゆられる、光の中を揺れる、雪をかぶって菩薩の姿になった、月光中のヒノキ、太陽光の中のヒノキ、ヒノキの形に命を感じる瞬間、現実世界の試験のこと、ヒノキ周辺に感じる春の予感、と様々ですが、時を追ってヒノキを見続けていた賢治の姿が浮かびます。
歌稿Aではこの
「大正六年一月より」の部分は「ひのきの歌 大正六年一月」としてまとめられています。
また、寮の仲間で発行した文芸同人誌、『あざりあ 第一号』にも「みふゆのひのき 大正六年二月中」として、44〜55 12首を載せています。
これらは歌稿A、Bを推敲したものです。ほとんどがヒノキに〈悪ひのき〉か、菩薩の姿を詠みこんだものになり、叙景、感覚的な美しさは少なくなります。 『あざりあ』は賢治にとって初めての自作の発表の場でした。賢治は、ヒノキへの感動を、いかにして知らしめようかと工夫をした結果でしょうか。
歌稿B「第一日昼」の叙景は、
44 アルゴンの、かゞやくそらに 悪ひ〔のき〕/み〔だ〕れみだれていとゞ恐ろし
45 なにげなく、風にたわめる 黒ひのき/まことはまひるの 波旬のいかり
となり、〈アルゴン〉という比喩も使いながら、〈悪い〉ひのきや、魔王〈波旬〉が言葉となって詠みこまれます。
〈第七日夜〉のヒノキへの深い思い入れや、戸惑いは
55 あはれこは 人にむかへるこゝろなり/ひのきよまこと なれ〔は〕なにぞや
という、観念的な表現になります。
〈ひのきよまこと なれ〔は〕なにぞや〉この言葉が、賢治の心だったのかも知れません。
第五日夜の440、441 は、ほぼそのままの状態で
52 〔雪〕とけて ひのきは 延びぬ はがねのそら/匂(にほ)ひ出でたる 月のたわむれ
53 うすら泣く 月光瓦斯のなかにして/ひのきは枝の雪をはらへり
となって月光の美しい叙景が残されます。
この推敲の中で加わった〈アルゴン〉とは、連作の日付、 (大正六年二月中)の新月の夜22日、19時に見られるは食変光星で、2.1等〜3.4等の間で明るさが変わるペルセウス座の変光星アルゴルか、と言われます。 アルゴル(algol)とは、アラビア語で「悪魔」を指しますが、ギリシャ神話では、勇者ペルセウスが首を切り落とした怪物ゴルゴンで、星座絵などにはその首の絵がよく見受けられるそうです。賢治は、ゴルゴンとアルゴルを混同してその言葉を使った、とも云われます
(注1)。 もう一つの可能性として原子番号18の元素アルゴンがあります。無色の気体で、高圧電場下に置かれるとライラック(紫)色に発色します。
水銀灯、
蛍光灯等の封入ガス、アルゴンレーザー、
アーク溶接時の保護ガス等に用いられ、ここでも光を発します。授業など何らかの場面でその光を体験したとも考えられます。
一方、アルゴンは、
ヘンリー・キャヴェンディッシュが存在に気づいて100年後、1892年にレイリー卿(ジョン・ウィリアム・ストラット)が大気分析の過程で発見、1904年にレイリー卿は「気体の密度に関する研究、およびこの研究により成されたアルゴンの発見」によりノーベル物理学賞を、ウィリアム・ラムゼーは「空気中の希ガス元素の発見と周期律におけるその位置の決定」によりノーベル化学賞を授与されました。賢治はまだ8才ですが、あるいはその何年後かにそのニュースを知って意識したかも知れません。 ヒノキを読んだ430〜449は賢治短歌で最初の連作です。短歌の連作は、作歌のレッスン、とも捉えられます。連作は、他にも「アンデルゼン白鳥の歌」、「青びとのながれ」等があり、連作ということだけでは、賢治の関心の高さや感動を証明できないとも云われます(注2)。
また、短歌は表現が一作中に完了してしまうため、ヒノキについてのある時間の中の表現のつながりを求めての連作とも云われます(注3)。
毎日のようにヒノキを見続けたのは、やはりヒノキに感動を呼ぶ原因があったと考えられます。
ヒノキの自生は福島以南で岩手では自生しておらず、またヒノキは生長が遅く、またヒノキ特有の病気(蝋脂病・ろうしびょう)があって、特に寒冷地ではうまく育たないので、優れた材質ながら植林は薦められない状況でした。
しかし高等農林学校、という性質上、多くの樹木が研究目的で植えられていたのでしょう。賢治は、珍しい樹木を間近に目にして感動していたのかも知れません。
またヒノキは木材として極めて優れたものであるのに加えて、その加工品も抗菌作用、血行促進作用などの用途がありました。賢治は、その頃そのことを学び取り、優れた樹木としてのヒノキに惹かれていたのではないでしょうか。
短歌と同時期、大正六年一月の妹トシ宛の手紙(書簡30)には
(前略)私もまあ、大抵学校を出てからの仕事の見当もつきました――則ち木材の乾溜、製油、製薬の様な孰れと云へば工業の様な充分自信もあり又趣味もあることですからこれから私の学校の如何に係わらず決して心配させる様な事はありません。(後略)
があり、工業的にも優れた材料としてのヒノキが心にあったのだと思います。
賢治が、第一に心を奪われたのは、眼前の状況です。ヒノキは細かな鱗片葉をたくさんならべて、葉面を作り、それらがあつまって枝葉ユニットを大きく水平に展開します。雪が積もりやすく、風にあおられると揺れが大きくなり、大きな想像を生む形状が生まれます。
賢治が感じ取ったのは、「菩薩」とそれと真逆の「わるひのき」の姿でした。〈323 風は樹を/ゆすりて云ひぬ/「波羅羯諦」/あかき〔は〕みだれしけしの一むら〉でもそこに般若心経を感じています。
先行論文では、多くが、賢治の宗教性をもつ短歌、として捉えています。
(注4)。また歌壇圏外にあって、口語、文語に渡る独自の詩境を生み出し、ここでは、菩薩への思いのみが詠われた、とします(注5) もうひとつの、樹木を詠んだ連作に、
「大正八年八月より ゴオホサイプレスの歌」があります。 759 サイプレス/忿りは燃えて/天雲のうづ巻をさへ灼かんとすなり。
760 天雲の/わめきの中に湧きいでて/いらだち燃ゆる/サイプレスかも。
賢治は、雑誌『白樺』の挿絵でゴッホの絵画に触れたといいます(注6)。
これは、ゴッホの絵画「糸杉」を見ての作歌ですが、千葉一幹によれば、ひのき連作の前に、すで
に、絵画ゴッホ「糸杉」を見ていて、「ひのき」
の風景に、「大正八年八月より ゴオホサイプレスの歌」に見られるのと同様に、対象の属性をそのまま自分の感情として描いている、とします。(注7)。
秋枝美保によれば、ひのきに対していた賢治が、対象に対する感情移入がなされ、それが時にキャラクター化し、擬人化して、「われとなれ」との関係を描くうち、自然の景物に対する特異な「われ」を描き出す、とし、あくまで、賢治は主体的に対象を描いているとします。(注8)。さらに、「心象スケッチ」への移行の段階として、捉えています。(注9)。
また、別の角度では、壱はじめは、445までの叙景までで終わらず、446以降には、自分の想いをヒノキに投入したのは、賢治の意図が「短歌で書かれた物語」としての始まりを意味するとも言われます。(注10)
管見した論考を下地にして、ここでは、賢治の、対象「ひのき」に触れた想いとその表現を中心に筆を進めてきました。
まず対象「ひのき」の風景を捉えたことから始まると思います。風に吹かれる乱れた姿、静止した菩薩の姿の相違に気づき、二面性を持つものへの驚愕、疑問や不安、さらに自己の中の二面性も感じて、最終的に
446 (ひのき、ひのき、まことになれはいきものか われとはふかきえにしあるらし)、
447 むかしよりいくたびめぐりあひにけん、ひのきよなれはわれをみしらず
になって、〈えにしあるらし〉〈なれはわれをみしらず〉という、自分と「ひのき」との関係性を思いますが、自分の内面を映した姿を感じ取っているのではなく、図式的、観念的なものではないでしょうか。「わるひのき」は「菩薩」に対応する言葉で、内面の感情と言うよりは、外部にある「悪」として捉えていると思います。
窓を、絵画の枠のように捉えることはしていますが、その、対象に対する心は、「大正八年八月より ゴオホサイプレスの歌」とは、違うと思います。
「大正八年八月より ゴオホサイプレスの歌」は、絵画中の糸杉が、渦巻く雲のなかに、螺旋状になって登っていくように見える風景に、燃え上がる怒りやいらだちを感じ取ったものと言えるのではないでしょうか。この段階では、自分の心情を映すと言うよりも、ゴッホの描いた風景そのものから心情を感じ取った様に思えます。賢治が共感覚的に、風景から言葉や音を、音から色を感じ取ったのと同じものではないでしょうか。
さらに「春と修羅」での内面の修羅と〈ZYPRESSEN〉と表示される糸杉との関係は、周辺の藪や湿地に象徴される内面と対峙して、静かに並んでいる風景として描かれると思います。
これらのこと、また「心象スケッチ」への移行については、稿を新ためたいと思います。
窓から見えるヒノキになぜこれほどまでに惹かれたのでしょう。
ここに「ひのき」を菩薩にも「わるひのき」にもしているのは、風です。賢治はこのことを理解していたのでしょうか。いつもは、風を見つめ、見えない風も感じ取っている賢治が、ここではひたすら風景全体を感じ、ドラマ化していきます。それだけ風景が醸しだすものが、強烈だったのかも知れません。この捉え方については、今後藻考えていきたいと思います。
注
1加倉井厚夫HP「賢治の事務所」 「「みふゆのひのき」の星」
2 『賢治研究129』 読書会リポート(2016)
3秋枝美保「「春と修羅」と「冬のスケッチ」における表現の革新―「修羅」への階梯、「ゴオホサイプレスの歌」とゴッホ「杉(le Cypres)」 (『論攷宮沢賢治第十一号』2013)
4新間進「宮沢賢治の定形詩歌―その宗教性に触れつつ」(『賢治研究2』1969)、及川亮賢「賢治の短歌と宗教」(『宮沢賢治2』 1982)
5新間進「賢治の短歌史的位相」(『宮沢賢治12』1993
)6雑誌『白樺』に掲載されたゴッホに関する記事は第二年二月号(明治44.2〜第一四年三月号(大正12・3)まで一二回にわたる。そのうち「糸杉」に関するものは以下の通り。
第二年六月(明治44年・六月挿絵「プロバンスの田舎道」
第三年一月号(明治45年1月)挿絵「シプレス」
第三年十一月号付録(大正元年11月)「
ヴィンセント・ヴァン・ゴオホ」阿部次郎「若きゴオホ」「ゴオホの芸術」武者小路実篤「ゴオホの一面」、虎耳馬「ヴィンセント・ヴァン・ゴオホの手紙」などの記事
第十年六月号 (大正8年6六月)挿絵「杉le Cypres」
7千葉一幹『賢治を探せ』(講談社選書メチエ2003)
8秋枝美保「「春と修羅」と「冬のスケッチ」における表現の革新―「修羅」への階梯、「ゴオホサイプレスの歌」とゴッホ「杉(
le Cypres) (『論攷宮沢賢治第十一号』2013)
9秋枝美保「宮沢賢治 短歌から「心象スケッチ」への移行―「もの」の提示、一九一〇年代の表現革命(『論攷宮沢賢治第十二号』2014)
10壱はじめHP
インナーエッセイ 「宮沢賢治の短歌〜現場への橋」