「大正六年四月」の括りは、短歌数も多く、自然詠で風とともに光を詠みこんだものになっています。風を詠う短歌はここでも樹木を詠みこんでいます。
一、ドイツトウヒ
〈ドイツたうひ〉は、
マツ科トウヒ属の
針葉樹オウシュウトウヒの別名ドイツトウヒです。ヨーロッパ原産の針葉樹で、日本には明治時代の中頃移入されました。50メートルにも達する高木で、円錐形の樹形が美しく公園や庭園に植えられ、クリスマスツリーにも使われます。
高等農林学校創設当時から、本館周辺は、外国産のトウヒ類やモミ類を主体にした常緑針葉樹に包まれた景観を目指していました。賢治は在学中、その発達していく円錐形を見ていたと思われます。
〈わがうるはしき〉という形容は、修辞としては平板で大仰なのかも知れませんが、賢治の樹木への想いを強く感じます。その大仰さを受け入れるのが〈(かゞやきのそらに鳴る風/なれにもきたれ)〉という語句で、大切なものに、自分の感じる最も素晴らしい〈風〉を送りたいと言う気持ちが溢れています。
さらに〈ケンタウル祭の聖木とせん〉とその想いは膨らんでいきます。
「ケンタウル祭」といえば思い浮かぶのは、1924(大正13)年成立の「銀河鉄道の夜」初期形第一次稿から最終形までに登場する、カンパネルラとジョバンニが銀河の旅の途中で見た風景です。
「ケンタウル露をふらせ。」いきなりいままで睡ってゐたジョバンニのとなりの男の子が向ふの窓を見ながら叫んでゐました。
あゝそこにはクリスマストリイのやうにまっ青な唐檜(たうひ)かもみの木がたってその中にはたくさんのたくさんの豆電燈がまるで千の螢(ほたる)で も集ったやうについてゐました。 「あゝ、さうだ、今夜ケンタウル祭だねえ。」 「あゝ、こゝはケンタウルの村だよ。」カムパネルラがすぐ云ひました。
また、初期形第三次稿から書き加えられる地上での場面で、子どもたちが繰り広げる七夕を思わせる行事〈ケンタウル祭〉の描写には
「ケンタウルス、露をふらせ」と叫んで走ったり、青いマグネシヤの花火を燃したりして、楽しさうに……
が登場します。ここでのみ〈ケンタウルス〉の語が使われます。〈ケンタウル祭〉はケンタウルス座の祭で、星座の人物、ケンタウルスが露を降らせると言う設定を感じます。
この語の初出は、この大正六年の短歌です。賢治がこの「祭」を創造したのは何故だったのでしょう。「「銀河鉄道の夜」を発想した時期に書いたものか」(注1)という説もあり、発想の時期を特定できれば、それは納得できる理由となります。
〈ケンタウル〉は上半身が人間で下半身が馬という、ギリシャ神話に登場するケンタウルス族の姿を表した星座から取っていると思われます。宇宙情報センターHPによれば、この星座を日本で観測できるのは、5月〜8月の約4ヵ月間で、見頃は春、6月上旬に20時に正中するとのことです。
花巻では、8時頃に南あるいは南西、銀河が地平線で南に流れる北上川と交差する所に、上半身の部分だけが現れ、賢治がその頃の祭の名前として選んだのではないかと言われます。(注2)
また仏教の教えでは、仏教が流布する以前の古代インド鬼神、戦闘神、音楽神、動物神などが、
釈尊に教化された、八種の
天部、天,竜,
夜叉,
乾闥婆 (けんだつば) ,
阿修羅,
迦楼羅 (かるら) ,
緊那羅 (きんなら) ,摩ご羅伽 (まごらか) があり、ケンタウルスと同じ半人半獣の「緊那羅」「緊那羅(きん なら)」(梵名:kimunara)、乾闥婆(けんだつ ば)」(梵名:ガンダルヴァgandharva、
迦楼羅 (かるら) garudaも存在します。また、「ケンタウルス座」が位置する方位には,仏教の護法善神である「閻魔天」や「羅刹天」 がいて,それぞれ「聖」なる水牛や獅子に乗り,そ の姿はキメラの怪人に似ているとする説もあります。(注2)。
天体と仏教の世界と両方に知識のあった賢治が、〈聖なる〉存在として意識して、自らの「祭」としたのでしょうか。賢治が誰かと「ケンタウルス祭」を祝ったという事実が見つかれば面白いのですが、管見した限りではありませんでした。
一方、ギリシャ神話では、星座の馬人の名はフォーローといい、仲間がヘラクレスの放った毒矢に射られた時、それを助けようとして誤ってその矢で自分を刺し命を落としました。大神ゼウスはフォーローを悼んで星座としたのがケンタウルス座だといいます。この話を賢治が知っていたら、大正6年の段階でも感激したかも知れませんし、人のために命を落とす、という、「銀河鉄道の夜」の発想に関係するかも知れません。
星座には関係なくギリシャ神話の半人半馬の怪物ケンタウロスのドイツ語読みケンタウルスを、祭の名に用いたものであるとする説もあります。盛岡高等農林学校で馬の飼育管理とドイツ語を学び、また馬産県岩手に育って馬への関心の強かった賢治が、馬を祝福することで春の農耕の始まりに豊饒を祈るドイツにもある風習を学び、さらに人間の上半身と馬体の下半身をもつケンタウルを、理性と本能的欲望との葛藤に悩む自分になぞらえ、若い男性としての高揚感をケンタウル祭と表したとします(注2) 。ただ、筆者の私感ですが、賢治が理性と本能的欲望との葛藤を感じたとすれば、もっと否定的な感情となると思われ、この歌にあるような高揚感に至ったかと言うとそれは疑問です。
賢治がキメラ――ギリシャ神話に登場する頭がライオン、胴体が山羊、尾が蛇、という神――転じて複数の遺伝情報を持つ細胞からなる個体、さらに二つの性状を具有する個体―に関心があった事は、その後の詩などにも明らかです。「犬」(『春と修羅』)、〔はつれて軋る手袋と〕(「春と修羅第二集」)では、含まれる二つのものの葛藤を描いていますが、この短歌で感じるのは、爽やかな感情で、もっと外面的な明るさ、輝き、そして、ある種の「聖性」です。その意味では、「銀河鉄道の夜」の場面と、昼と夜の違いだけであまり変わらない気がします。
〈聖木〉は、既にあったクリスマスツリーの概念と同じものだと思います。モミやトウヒなどがクリスマスと関係してくるのは、カソリック教会がゲルマン人にキリスト教を布教するために,樫などの樹木を崇拝するゲルマンの土着信仰を利用して、キリスト教の「祭」の中に「唐檜」や「もみ」を「クリスマスツリー」として取り入れたことによるといいます(注2)。
この短歌で一番賢治が言いたかったのは、実際に目にした、風の中に堂々と揺れる緑のドイツトウヒへの感動で、それを表そうとした言葉が〈聖木〉だったのではないでしょうか。それを心の中で作り上げていた「ケンタウル祭」のための樹木としたのだと思います。
二、サクラ
日詰駅は、紫波郡志波町北日詰字八反田、東北本線、石鳥谷駅と紫波中央駅との間にあり、1890年開業、1908年国有化、2004年盛岡駅管理の業務委託駅となっています。
史料はありませんが賢治の片恋の相手とされる女性―賢治が中学卒業時入院していた岩手病院の看護婦―の出身地が日詰でした。その説に基づいて2010年、駅前に「さくらばな/日詰の駅のさくらばな/風に高鳴り/こゝろみだれぬ。」の歌碑が建立されました。
日詰駅舎は1975年ころまで開業当時のものだったそうです。現在の駅前には桜はありませんが、歌碑の建立時の岩手日報の記事によると、駅前在住の方のお話として、60年くらい前には、ホーム沿いにきれいな桜並木があったとのことです。
賢治の短歌に、その恋が現れるのは、「大正三年四月」の括りの三首です。
92 まことかの鸚鵡のごとく息かすかに/看護婦たちはねむりけるかな
112 すこやかに/うるはしきひとよ/病みはてゝ/わが目 黄いろに狐ならずや
175 君がかた/見んとて立ちぬこの高地/雲のたちまひ(まま) 雨とならしを
175の背景は、花巻市の胡四王神社の高みから、日詰方面を展望したものと思われます。さらに晩年制作の文語詩「丘」(文語詩未定稿)には
森の上のこの神楽殿
いそがしくのぼりて立てば
かくこうはめぐりてどよみ
松の風頬を吹くなり
野をはるに北をのぞめば
紫波の城の二本の杉
かゞやきて黄ばめるものは
そが上に麦熟すらし
さらにまた夏雲の下、
青々と山なみははせ、
従ひて野は澱めども
かのまちはつひに見えざり
うらゝかに野を過ぎり行く
かの雲の影ともなりて
きみがべにありなんものを
さもわれののがれてあれば
うすくらき古着の店に
ひとり居て祖父や怒らん
いざ走せてこととふべきに
うちどよみまた鳥啼けば
いよいよに君ぞ恋しき
野はさらに雲の影して
松の風日に鳴るものを
とあり、大正三年の短歌と同様の想いが明確に表現されています。
その女性の縁の駅ということで試みに日詰駅を降りてみた、と仮定しても、駅ではサクラが咲き風に乱されていました。〈ゆらぐはもとしまれにあらねど〉には、それに当惑する賢治の姿が感じられます。大正三年の短歌のようなひたむきさは感じられません。風はサクラの風景をさらに複雑にするものでした。
その後、賢治が描くサクラから感じられるのは、七八〔向ふも春のお勤めなので〕(「春と修羅第二集」)の〈蛙の卵のやうだ〉という感情と、〔或る農学生の日誌〕に見られるような、月並みなサクラ賛歌への反発でした。また「土神ときつね」の〈樺の木〉は東北ではサクラを意味します。賢治にとってサクラは性を意識させられる存在でもありました。また桜色、石竹色も性のシンボルとして使われました(注4)。
この短歌群と関連が感じられる、「風桜」(文語詩稿五十篇)にも、風雨に揺らぐサクラの風景の中に、様々な性を意識した言葉が組み込まれています。
風にとぎるゝ雨脚や、 みだらにかける雲のにぶ。
まくろき枝もうねりつゝ、 さくらの花のすさまじき。
あたふた黄ばみ雨を縫ふ、 もずのかしらのまどけきを。
いよよにどよみなみだちて、 ひかり青らむ花の梢。
賢治を誘惑する存在となった雨雲(注5)、〈すさまじき〉と表現されるサクラ、繁殖行動を感じさせる鳥の動き、短歌では漠然としていた思いを集約し、一つの時代を詠った文語詩となったのだと思います。
三年経てば、片恋の想いは心の中で膨らみ、また変形していて、もはや雨空に鳴るサクラのように〈あやしく〉、〈胸をどよもす〉という漠としたものになってしまったのかも知れません。あるいは、この女性とは全く関わりのない感情で詠まれたものかも知れません。
ここで〈焼杭〉と取り合わせた歌が二首あります。腐食防止に木材を焼いたものと思います。駅周辺に線路侵入を防ぐために杭が並んで打たれ、サクラが植えられている風景は、よく目にするところです。
何故、焼杭の印象が強かったのでしょうか。あるいは、その黒さが花の色の中に突出して感じられたのかも知れません。「風桜」にも、〈まくろき枝もうねりつゝ、さくらの花のすさまじき。〉と、風景の中の「黒」が印象的です。サクラを動かしている「何か」なのか、あるいはサクラを支えている黒なのか、いずれにしても賢治の心の中の揺れるサクラに拮抗している色と存在なのかも知れません。また考えてみたいと思います。
注1「読書会リポート」(『賢治研究129』 宮沢賢治研究会 2016、7)
2石井竹夫「宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する聖なる植物(中編)」
(『帝京平成大学薬学部人植関係学誌 資料・報告』 2014)
3米地文夫「宮沢賢治が創った「ケンタウル祭」の由来と意義ー短歌や「銀河
鉄道の夜」とドイツ語・ドイツ文化との関わりをめぐって」(岩手
県立大学総合政策学会編『総合政策 』2009、12 )
4大塚常樹「桃色の花の記号論」(『宮沢賢治 心象の記号論』 朝文社
1999)
5「一〇七二県技師の雲に対するステートメント」(「春と修羅第三集」)、〔その恐ろしい黒雲が〕(「疾中」)など
参考文献
信時哲郎「36風桜」(『宮沢賢治「文語詩稿五十篇」評釈』 朝文社
2010)
小林俊子「風桜」(宮沢賢治研究会編『宮沢賢治 文語詩の森 第三集』 柏
プラーノ 2002)