「石と賢治のミュージアム」の主催で毎年行われる「グスコーブドリの大学校」は、とても充実した内容で、参加したいと思いながら、日程や体力などを考えて望みが叶いませんでしたが、一人でも短時間でも、「石と賢治のミュージアム」だけなら行けると思い立ちました。また昨年お亡くなりになった斎藤文一先生のご蔵書が寄贈され閲覧可能であることを知ったのもその大きな理由でした。
この地で長く農村改革の思いを発信していた鈴木東蔵氏は、大正13年土地改良材としての石灰石粉を製造する「東北砕石工場」を創業しました。賢治との関わりは、昭和4年、東蔵氏が製品の改良のための相談に、病床の宮沢賢治を訪ねたことから始まります。共に農村の救済を目指していた2人は、以後往復書簡を交わします。
昭和6年2月、病癒えた賢治は、「東北砕石工場」に技師として就任します。炭酸石灰の販売や斡旋のために、パンフレットの作成や商品の命名、重い見本を持ってのセールス活動などに従事し、同年9月に主張先の東京で倒れるまで続きます。
「石と賢治のミュージアム」は陸中松川駅近くのゲートから始まるトロッコ道と「太陽と風の家」。旧東北砕石工場を主な施設として、平成11年4月に開館しました。
きっかけは、東山町が平成6(1994)年〜8(1996)年、「宮沢賢治・みちのくフォーラムin東山」を開催し、平成7(1995)年10月に『グスコーブドリの町』を宣言したことです。加えて、平成6(1994)年、「東北砕石工場」が東山町に寄贈され、平成8(1996)年に産業分野の近代化遺産として登録されたこともありました。賢治と東蔵氏の農村にかける思いが、東山町及び「東山賢治の会」に引き継がれ、結実したのだと思います。
斎藤先生と「石と賢治のミュージアム」との繋がりは、「石と賢治のミュージアム」立ち上げに携わった吉成信夫さんが、平成11 (1999)年、斎藤先生に「第一回グスコーブドリの大学校」の講演を依頼されたのが最初でした。先生はその講演で、東山のエネルギー、精神、風土に惹かれたとおっしゃられたそうです。その後、賢治が全精力をかけて活動した東北砕石工場のある東山町こそが賢治を勉強するのにふさわしい場所だとして、ご自分の全資料・書籍の寄贈を町に申し出られました。それを受けて、平成15(2003)年、斎藤先生のご蔵書5000冊と東蔵氏のご子息鈴木實氏のご蔵書3000冊を所蔵する「双思堂文庫」が開館しました。「双思堂文庫」の名前は、「農民救済」、「みんなの幸せ」に賭ける、宮沢賢治と鈴木東蔵氏の2人の想いと、図書を寄贈くださった斎藤文一先生、東蔵氏のご子息實氏お2人の賢治への思慕に由来するものです。
今から50年近く前だったと思いますが、賢治がまだマイナーだったころ、斎藤先生の小さな記事が新聞に載りました。賢治作品と科学的な事象との関係を述べられたもので、そのような作品へのアプローチを私は初めて知り、それ以来先生は私の秘かな目標となりました。でも斎藤先生は遙か雲の上の存在で、実際には読んだご著書も2冊のみ、晩年になられてから一度だけご講演をお聴きしただけで、ご業績に近づくことなど出来ませんでした。
後に見つけた、私の大好きな童話「十力の金剛石」についてのご論文、「「十力の金剛石」――「黙示録」風の光のヴィジョン――」(『国文学解釈と鑑賞61−11』(至文堂 1996年10月)では、主題となる露の輝きに、水の科学的変化と仏教の「一切衆生悉有仏性」の融合を説かれ、私のこの作品への想いが、一層明確なものになりました。
初めて乗る大船渡線はかなり混んでいたのに、最寄り駅の陸中松川で下車したのは私一人でした。 賢治が通っていた当時は、石灰の輸送や従業員の足も列車で、もっと活況だったのでしょう。少し離れた山には石灰を切り崩した山肌が見え、いくつかの石灰関連の事業所が点在していますが、山並みに包まれて、ひっそりとしていました。
陸中松川駅は無人駅の上、人影も全く見えず、ミュージアムへの道を聴くこともできませんでしたが、少し離れて所に小さな目印と入り口ゲートがあり、枕木を模した道が続いているので辿っていきました。途中に「蛙のゴム靴」をイメージした彫刻や、「月夜のでんしんばしら」、クワガタ、アンモナイトなどのオブジェ、「太陽と風の塔」など、青い空に溶け込んで、もう賢治の世界でした。
ミュージアムの中心部「太陽と風の家」では、いつも「グスコーブドリの大学校」に参加している友人が、前もって知らせてくれていたので、館長さんがご案内下さいました。
展示室では東北の気候や農村の貧困、それを石灰によって解決できると信じた賢治や東蔵氏の熱い想いを感じることが出来ました。
化石展示室では、東山町内で採集された鱗木や日本最古のアンモナイト、世界の化石など豊富な収集品があり、一部を除いて触れることもできます。身近にあったという豊富な化石は、賢治の土や地球に対する強い想いにつながっていったのだと思います。
紫外線で光る石、音の出る石、その他岩手県以外からも幅広く蒐集した美しい鉱石の数々、知識は無くても美しさだけでも圧倒されます。職員の方々の賢治や石に対する深いご見識と情熱を感じました。
「双思堂文庫」は一部を除いて開架式で手に触れる事ができる、というのも希有なことです。斎藤先生のご蔵書は、ご専門の科学書はもちろん、賢治研究書、仏教関係書、賢治の本棚にもあったという『化学本論』、また美術雑誌『みすず』、「月面着陸」や「オウム真理教」関係のスクラップなど、その幅広さに圧倒されました。
賢治の高等農林学校時代の同人誌『アザリア』のガリ版刷のコピーに初めて触れて胸が熱くなりました。また、なかなか目にすることが出来なかった、賢治研究誌『イーハトーボ』のコピーもありました。
そのほか、東蔵氏あての賢治の書簡や「雨ニモマケズ」手帳も、高品質コピーで見ることができます。蒐集、保存にかける職員の方々の姿勢に心から敬服いたします。
その後の予定もあって2時間ほどで失礼しました。心に残る暖かさや宝石の輝きは、農村のために命を賭けた賢治や東蔵氏、その想いを引き継いだ東山町、東山賢治の会、ミュージアムの職員の皆さんの想いなのだと思いました。
付近の山から、まだ私の居住地では聞けないカケスの声がしました。今度はもっとゆっくりと、双思堂文庫の本を読み、化石や宝石を見て、賢治も歩いたはずの工場跡や周辺の石灰の山、砂鉄川の水辺も歩きたいと思います。