「大正七年五月以降」という括り646〜698の中で、風を詠みこんだのは669の一首のみ、さらにこれは歌稿Bには入っていません。
歌稿A669たばこばた風ふけばくらしたばこばた光の針 がそゝげばかな
し(折壁)
この年4月、高等農林学校卒業後も研究生として残り、土性調査に携わるようになります。
しかし6月には肋膜炎の診断を受け(書簡77宮沢政次郎宛て、書簡78保阪嘉内宛て)、山歩きを止められ、8月には実験指導補助を退職しましたが、予定した土性調査だけはやる決意を持ったようです(書簡83保阪嘉内宛て)。
9月の稗貫郡東北部の土性調査は、21日大迫町石川旅館に泊り、22日大迫―立石―鍋屋敷―岳、23日岳―河原坊―早池峰山―中岳―鶏頭山―七折峠―岳、24日岳―天王―覚久―狼久保、25日狼久保―久出内―名目入―長野峠折壁峠―折壁、26日折壁―覚久廻―小呂別―黒沢―立石―大迫というコースで行われました。歌稿A669、670〜679 「折壁」10首の短歌が残され、その中の一首です。この中には歌稿Bに取り入れられなかった作品が、これを含めて5首あります。
この短歌の背景は22日〜23日の大迫一帯と思われます。大迫一帯には、「風の又三郎」の舞台といわれる分教場跡、モリブデンの採掘鉱跡、煙草畑があり、岳川を流れる笛貫の滝は、「どんぐりと山猫」の「笛吹きの滝」のモデルといわれます。賢治の心象の中に深く印象づけられた場所なのでしょう。
歌稿Aのこの歌は9月24日作で、第一形態は
秋の風うちくらみ吹く草山をしろきひかりのすぐる朝かな
でした。ここでは煙草畑の言葉はありませんが、風によってもたらされる「くらみ」と「ひかり」の対比があります。
賢治は葉裏の白い植物、たとえばギンドロ、楊などを風が吹き渡る風景を好みました。ここでは煙草の畑です。「くら」い「たばこばた」は、風で、葉裏の白さが見えなくなった一瞬でしょうか。「光の針がそゝげば」は逆に葉が裏返ったときの目を突くような鋭さの表現でしょうか。「かなし」は悲哀の意味というよりも、「心を打たれた」状況ではないでしょうか。
22日には予定より早く調査が終わって、その後は、雨などで旅館に足止めされることになり、風の風景も描かれず、少し屈折した歌調になってきます。
その後、699〜703は歌稿Aのみに存在し、「大正〔七〕年十二月より」の記載に加えて「大正九年十二月」の書き込みがあります。
大正7年12月から、日本女子大学校に学んでいた妹トシが重いインフルエンザにかかり、大正8年2月下旬まで母と看病にために滞京していました。
次の括りは「大正八年八月より」711〜762です。
高等農林を退職し、上京中に考えた自分の希望する職業も同意を得られず、日頃から嫌悪感を抱いていた実家の質、古着商を手伝うという、鬱々とした日を送ることとなり、歌もそれを反映して屈折したものが多いのですが、日差しに浮かぶ雲という日常的風景を「寒天」と捉える感覚的な面もあります。
711くらやみの/土蔵のなかに/きこえざる/悪しきわめきをなせ
るものあり。
713雲きれら/うかびひかりぬ/雨すぎて/さやかに鎖ざす 寒天
のそら。
風の言葉のある歌はつぎの通りです。
北上第四夜
歌稿A733北上の夜の大ぞらに黒き指はびこり立たすそのかみのかぜ
先駆形 黒き指はびこりうごく/北上の/夜の大ぞらをわたる風はも。
733黒き雲ひろごりうごく北上の/ こよひは水の音のみすなり。
734黒雲の/北上川の橋に上に/劫初の風ぞわがころも吹く735黒雲の/きたかみ川の風のなかに/網うつ音の/とおくきこゆる
735/736aよるふかき雲と風との北上を/水に網打つ音きこゆな
り
738風ふけば/こゝろなみだち/うすぐもの空に双子のみどりひかれ
る。
739あかつきの/風に吹かれて葉白める/やなぎの前に汽車はとまり
ぬ
747北風は/すこしの雪をもたらして/あまぐもを追ひ/うす陽そそ
げり
歌稿Aでは717〜727「北上川第一夜」、728「北上川第二夜」、729〜732「仝第三夜」、ですが、歌稿Bでは717〜721「北上川第一夜」、722は存在せず、723〜730「夜をこめて行くの歌」の標題があります。そこまでは風の表現はなく、北上川の流れや夜空に浮かぶ漁り火、三日月描かれます。
733〜755「北上川第四夜」、は連作で、734,735、735/736a、738、739、747は同じ日の夜から翌朝までの場面と思われます。
歌稿A733では、黒雲の表現を「黒き指はびこり立たす」と人体の表現として不気味さを増しています。黒雲は人の心と力を持つものとして描かれることが後の作品にも多くあります。風はその源基として描かれます
「劫初」はこの世の始め、開闢の意味です。それは昔からある風、変わることのない風、という意味でしょうか。黒雲に圧倒されながら身をさらしている姿を感じます。735は、そのような状況のなかで、現実の活計の音、「網打つ音」を聞いて、我に返ったということでしょうか。その音も風が運んだのでしょう。
738では、風に心を揺すられながらも、眼を空に向け双子座の星の光に救われているようです。
やがて夜が明け、風は賢治の好きなヤナギの葉裏の白さ際だたせ、多分一番列車でしょうか、汽車がやってきました。
747は昼になり、風が雪を呼びさらに薄日を呼ぶ、気候の変化を詠んでいます。
まず夜、風の呼んだ黒雲には人の力を感じ、風の中で網打つ音に人の世界を感じ、風に誘われて空の星の光に眼を向けます。朝には、光る柳の葉のなかの列車の姿に現実の力強さのようなものを感じ、ついには雲を払って光をもたらす風に到達したのです。風に寄り添った一夜の様々な思いが描かれました。
大正6年「旅人の話から(『アザリア第一号』)に始まった散文の制作は、「秋田街道」「柳沢」、「沼森」、大正7年「復活の前」(『アザリア五号』)、「峯や谷は」(『アザリア第六号』)に続いて、「大正八年秋」、末尾には1920/6.と書き込まれた短篇「うろこ雲」へと続いていました。浮世絵の蒐集に熱中したのもこの頃と言われます。また、郡立農蚕講習所で、鉱物、土壌、化学、肥料の科目を受け持っています。将来を決めかねている不安のなかで様々な試行錯誤が続いていたのではないでしょうか。そこで風は、風があれば必ず心惹かれ作品に詠みこまれる存在だったと思います。