宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
永野川2019年1月下旬

26日

天気予報に反して、風もなかったので10:00ころ家を出ました。

二杉橋から睦橋の間は、相変わらず干上がっています。

上空をダイサギの9羽、6羽の群れが下ってきました。その後も、あちこちで1羽ずつ、また滝沢ハム付近で11羽・4羽、樹上にも5羽、今日も計41羽になりました。アオサギは計8羽、と結構いるのですが、ダイサギに圧倒されます。

ムクドリは、第五小付近で6羽、公園のエノキで45羽、群れが多く見られました。

多いと言えばカワラヒワで、赤津川の電線に37羽が並んで留まっているのに出会い、また大岩橋の河川敷林で29羽の群れが飛び、そのほか11・3・3・2・1と合わせて、計85羽となりました。これも季節の風景で、会えて幸せでした。

カシラダカも大岩橋の河川敷林で12羽、5羽と確認できました。公園のハリエンジュで1羽、この場所では初めて見ました。その他会わせて21羽、今季最大確認できました。

シメは上人橋付近の電線で1羽、公園のエノキで1羽、やはり大岩橋河川敷林が多く、2・1・3と多く、計8羽になりました。

水は無くてもセキレイ類が意外と多くて、ハクセキレイ7,セグロセキレイ8羽、或いはカウント出来なかったものもいたかも知れません。公園でキセキレイも1羽確認できました。

川での居所を失って、カルガモは公園の調整池に25羽、赤津川泉橋下の澱みに17羽、など計58羽と、意外と多く、ヒドリガモ5羽、コガモは赤津川のみで20羽でした。

赤津川のケリ2羽、バン1羽、も健在でした。

ホオジロが公園の川の対岸で2羽、ワンド跡で1羽、飛び出して確認できました。

 

今日の最大の収穫はカワセミの雌の確認です。赤津川でカワセミを見かけて、素通りするところでしたが、暫く留まっていたので、双眼鏡に入れてみると、一瞬下の嘴が赤く見えました。正面を向いてしまったりするのを、じっと横を向くのを待って再度確認しました。恥ずかしながら初めてです。私のハンドルネームは、宮沢賢治が「カワセミのお嬢さん」につけた名前なのですが……。 これだけでも今日の探鳥の成果は十分です。

 

永野川の川岸の土手の一部で、綺麗に芝が植えられた場所があり、「土手の強度が落ちるので除草剤の使用は避けてください」という意味の警告が張り出されていました。公共用地への除草剤の散布の禁止は、ここ15年くらいの間、何回も市役所の環境問題の話し合いにも発言し、環境政策にも盛り込んでほしいと要望してきたのですが、ついに認められなかったことで、意外な気がしました。

ただ警告の出所が示されていなくて、どんな立場の発言か、どの位の強制力があるのか、全く分らず不安のほうが膨らみました。この動きが、土手にとどまらず広まってほしいと思います。

 

カワセミの雌発見、ムクドリの大群、カシラダカ、カワラヒワの群れの確認、水が無いのは悲しいことですが、まさに冬の鳥見の本番です。

 

鳥リスト

カイツブリ、ヒドリガモ、カルガモ、コガモ、キジバト、カワウ、アオサギ、ダイサギ、バン、ケリ、カワセミ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、ウグイス、ヒヨドリ、ムクドリ、ツグミ、スズメ、ハクセキレイ、セグロセキレイ、キセキレイ、カワラヒワ、シメ、カシラダカ、ホオジロ








宮沢賢治「少年小説」と賢治生存中の少年小説(大衆的児童文学)の出版状況について 後編 

一―5大正期における賢治との関わり

賢治の弟清六の記憶によると、盛岡高等農林学校で研究生として学んでいた一九一八(大正7)年八月、弟妹たちに初めて書いた童話「蜘蛛となめくぢと狸」や「双子の星」を読み聞かせたとい(10)

鈴木三重吉の『赤い鳥』創刊は前月七月である。前章でも述べたように、鈴木三重吉の理想は従来の少年小説や説話を否定、子供の純正を保全開発するために一流の芸術家をあてる、という画期的なもので、賢治が読んで創作を啓発されたということは十分に考えられる。賢治が生前に最初に出版した、『イーハトーヴ童話 注文の多い料理店』の「序」、新刊案内の賢治の理想を読むとき、そこに、三重吉から引き継いだものを感じることができるという(11)

ただ賢治童話の底に流れる、自然や科学の裏付け、人間への凝視、光や風の描写は、独特の世界になっていると感じられるが、三重吉の子供の文学への理想への取り組みには十分刺激されたと思われる。

一九一六(大正5)年から連載が始まった吉屋信子「花物語」は、一九二〇(大正9)年二月に『花物語第一集』、『花物語第二集』として落陽堂から発行される。

同性の友人や教師に抱く友情や尊敬を、一作ごとに取り上げた花が象徴するものを物語に反映させ、主人公の思いの一途さと対象となる花や風景が美しい整った文体で描かれる。対象の持つ美への憧れに近い思いを表現しようとする意識が感じられる。『花物語 第一集』に所収の一七作は、すべて何らかの形の別れの切なさが主題で、わびしい、かなしいという言葉も多用される。

「マリブロンと少女」は、師への憧れと別れを題材にし、吉屋の「鈴蘭」、「紅薔薇白薔薇」と、大変似通っている。また、作者のその対象を究極的な美とする描き方も類似している。

同時に先行作品「めくらぶだうと虹」のメクラブドウの虹への憧れの描き方も強い類似性が感じられる。影響を受けたとすれば「めくらぶだうと虹」(一九二一(大正10)年秋頃と推定)が最初であろう。

同年夏ころ成立の短篇「いてふの実」、「おきなぐさ」、「まなづるとダァリア」を見ると同様の意図と表現を感じる。対象は人間ではないが、生物の生命の終わりと再生への限りない賞賛を描いて、対象に対する突き詰めた眼はそれまでの寓話には感じられなかったものである。

この時期は、『花物語』の普及した年月にかなり近い。ここからは推定になるが、この年、妹トシは花巻高当女学校女教諭となっており、少女向け小説に触れる機会も多く、また賢治と接する時間も多くなり、或いはそこで伝えられた可能性もあるのではないか。

「マリブロンと少女」の女教師のモデルを、盛岡バプティスト教会牧師ヘンリータッピングの娘で賢治にオルガンの手ほどきをしたヘレンとする説(12) もあるが、ここでは作品の中から感じられる影響について考える。

 

一―6昭和期

一九二五(大正14)年終わり、『少年倶楽部』は全盛期を迎え、その力をバックに、吉川英治(歴史小説)、高垣眸(伝奇小説)、佐藤紅(友情と正義物語)など一流の作家を集め、少年雑誌界を独走した。さらに大佛次郎は一九二七(昭和2)年三月〜一九二八年五月「角兵衛獅子」をはじめとして一九三三年(昭和8)年まで七作品が掲載され、近代的少年小説を定着させる結果となる。加えて山中峯太郎は「敵中横断三百里」(一九三〇(昭和5)年四月〜九月)で、優れた主人公の記録としての日露戦争従軍記を描き、読者の共感を得た。南洋一郎は、密林の冒険物語を一九二九(昭和4)年から発表していたが、一九三二(昭和7)年四月〜一二月の「吼える密林」は、決定的な人気作品となり、池田宣正の名で発表した「桜ん坊の少年」のような感動小説とともに人気を得た。

賢治の死後、一九三六(昭和11)年から江戸川乱歩「怪人二十面相」が連載される。探偵小説は、一九二二(大正11)年横溝正史『恐ろしき四月馬鹿』、一九二二年江戸川乱歩「一銭銅貨」が雑誌『新青年』に掲載されたことが始まりと言われる。乱歩は、そこで探偵小説のレギュラー作家森下雨村の影響を受けながら成長した。

少年雑誌ではないが、森下雨村の編集で創刊された『新青年』(一九二〇〜一九五〇年 博文館〜江古田書店〜文友館〜博友社)は一九二〇年〜一九三〇年のモダニズムの時代の代表的な雑誌で、現代小説から時代小説、さらには映画・演芸・スポーツなどの話題と共に、国内外の探偵小説を紹介し、日本の推理小説の歴史上、大きな役割を果たした。平均発行部数は三万部前後、多い時は五、六万部に達していたと言われている。また内務省警保局による調査では、一九二七(昭和2)年当時約一万五〇〇〇部という。

弟清六が賢治の童話を持参して面会した、といわれる『コドモノクニ』社の小野浩は、『赤い鳥』に移って後、昭和三年に退職、『新青年』に「意外つづき」(ブラックウッド著)など、多くの翻訳を寄稿している。また『赤い鳥』の挿絵を手がけた深沢省三とも関係が深く、賢治が個人的にこの名前を認識していて『新青年』を手にしたかも知れない。賢治が当時の文化の最先端の雑誌にも目を向けていたことは考えられる。

この少年小説の全盛期、一九二九(昭和4)年三月、童話誌『赤い鳥』が休刊となった。一九三一( 昭和6)年会員制によって復刊したが、鈴木三重吉の死により、一九三六(昭和11)年終刊する。

さらに一九三三(昭和8)年、詩人佐藤一英の編集した『児童文学』が廃刊となる。第一集(昭和6年7月)に「北守将軍と三人兄弟の医者」、第二集(昭和7年3月)に「グスコーブドリの伝記」を掲載し、続刊していれば「風の又三郎」も掲載予定だった。

 

二、宮沢賢治と少年小説―改稿と発表の意志

二―1改稿への意志

生前発表作品についてみると、「雪渡り」(一九二一(大正10)年一一月〜一九二二年一月 『愛国婦人』)、「やまなし」(一九二三(大正12)年四月、「岩手毎日新聞」)、「シグナルとシグナレス」(一九二三(大正12)年五月「岩手毎日新聞」)までは数少なく、推敲による変化は著しくない。

『注文の多い料理店』は、一九二四(大正13)年、杜陵出版部、東京光原社から一千部発行された。賢治初めての童話集で、その意気込みは序や広告文からも感じられる。しかし当時の映画館入場料が三〇銭ほどだったのに対し一円六〇銭と高額だったためもあって売れず、賢治は二〇〇部を自費で買い取ったという。 

賢治は作品に対して、「売れる」事よりも、共感してくれる人が一人でもいれば、という思いだった。「心象スケッチ」についての書簡421母木光あてに、「ただ幾人かの完全な同感者から「あれはさうですね」といふやうなことを、ぽつんと云はれる位がまずのぞみといふところです。」がある。だが周囲の出版状況が耳に入る時代となって、また恐らくは商才のある父政次郎の眼なども感じて、心穏やかならぬ事もあったのではないか。

大正十五年以降では、「オツベルと象」『月曜』一九二六(大正15)年一月、「ざしき童子(ぼっこ)のはなし」(『月曜』一九二六(大正15)年二月)、「寓話 猫の事務所」(『月曜』一九二六(大正15)年三月)「北守将軍と三人兄弟の医者」(『児童文学』第一集 一九三一(昭和6)年七月)、「グスコーブドリの伝記」(『児童文学』第二集 一九三二昭和()年三月)「朝に就(つい)ての童話的構図」(『天才人』第六輯一九三三(昭和8)年三月)、と数を増していると同時に、ほとんどが既存作品を改稿したものである。この時期、賢治のなかに、「少年小説」―大衆的児童文学の意識が生まれ、既存の作品を発表に向けて改作したのではないだろうか。

さらに創作メモ53にある「銀河鉄道の夜」第四次稿、「ポラーノの広場」最終稿、「グスコーブドリの伝記」、「風の又三郎」も改稿されている。

この時、「少年小説」として自作の童話を位置づけようとし改稿を思い立ったのは、少年小説、特に『少年倶楽部』の成功と内容の充実に心を動かされたのではないだろうか。

その意識の流れの中で、一九二九(昭和4)年三月、『赤い鳥』が休刊する。童話制作のきっかけとも、理想としていたと推定される雑誌の休刊にはショックを受け、さらなる少年小説を目指し、昭和六年以降の改稿が始まったと推定する。

一九三三(昭和8)年、『児童文学』廃刊となる。書簡459(一九三三年三月七日)母木光宛て)には、『児童文学』廃刊や児童文学界の行き詰まりを直感していた事実が残されている。『児童文学』は第一集(一九三一(昭和()年七月)に「北守将軍と三人兄弟の医者」、第二集一九三二(昭和7)年三月に「グスコーブドリの伝記」掲載し、続刊していれば「風の又三郎」も掲載予定だった。病との戦いの中で、さらなる改稿や創作を考えていたかも知れない。

他の作品の改稿については、「まなづるとダァリア」の一九三〇年と推定される第五形態への改稿段階での巌谷小波「菊の紋」の影響が指摘されている13

これは昭和初年代に功績が集大成され、「小波お伽全集一二巻」(小波お伽全集刊行会一九三〇(昭和5)年として出版された巌谷小波の全集からの影響と見られ、賢治が出版物への多くの興味を持ってアンテナを広げていたと言える。 

 

二―2「アドレスケート ファベーロ、/ノベーロ レアレースタ 黎明行進歌」

創作メモ26の、「ポラーノの広場」初期形原稿に残された「アドレスケート ファベーロ、/ノベーロ レアレースタ (青少年向け物語のエスペラント語)黎明行進歌」のメモには、少年を主人公にして、具体的な家族構成や生活状況が設定され、学校行事に沿って具体的に物語を進展させる構想が書かれている。家の貧しさや母の死や上級学校への諦めなど、当時の少年小説、「ああ玉杯に花受けて」を感じさせる。

〔或る農学生の日誌〕の下書き稿とされるこのメモを、ここでは「少年小説」の試みのメモとして捉え、ここから、賢治の「少年小説」の意図を感じ取りたい。  

成立は「ポラーノの広場」初期形原稿成立の一九二四(大正13)年以降、作品中の日付の最後「一千九百二十七年」の間と推定される。

主人公は「岩手県稗貫郡湯本村日居城野/徳松長男 栂沢舜一」、「一千九百廿五年、十七才/稗貫農学校の第三学年」と設定される。父は自作農で土地はすべて抵当に入っていること、家族構成は姉二一才、弟一〇才、妹一三才、一二才、七才、祖父である。

四月から月ごとに学校行事を中心にした出来事が、一千九百二十六年、一千九百二十六年と続く。

ここには賢治の経験した事柄が並ぶ。「校友会行事」、「校友会誌成る」、「土性調査」は高等農林学校時代の出来事である。「父との衝突」は高等農林卒後の宗教対立か。細かい時間割や「松並木問題」「修学旅行の出発前の不安」、「旱害」、「県視学来校」、「一学期試験」、「カンニング」、「夏季実習」、「家事労働」、「遊園地遠足」「凶作」、「雄辯大会」、「授業料滞納」」などは、花巻農学校の教師時代の経験、教え子の事件である。「ヴァイオリン」、「肥料設計」、「グラジオラス」、「レコードコンサート」は、農学校退職後の出来事であろう。その他、人の世の悲哀を描くための、祖父(祖母)、母(姉)、妹の死を配している。

そこから創作された〔或る農学生の日誌〕は、さらに自分の体験や心情―上級学校へ行けなかった自分、退学した友への思いを重ねる。さらに桜の花への複雑な思いとたんぽぽの綿毛を染める夕日の美しさが語られ、修学旅行の楽しさ、稲作への希望など、周囲の事象への感情が書き込まれている。

賢治は「少年小説」について、『少年倶楽部』の作風の中から、少年への道標となるような作品を目指し、貧しさという社会の現実を設定し、そこに自分の体験を具体的に書き、未来の農業への希望に向けての作品にしようとしたのであろう。

『少年倶楽部』の掲載の作品に比べれば、物語の展開は少なく、人間関係、社会状況についての描写がないのは、一つには少年小説の大きな課題「立志」を書き込んでいないからであろう。

しかし自分の内面や自然描写、農業への視線は美しく、賢治作品の特徴が見える。前述の一面に加えて、この特徴は、その後の、創作メモ535456に記された四作品の改稿において、どのように生き続けるのだろうか。

一九二九(昭和4)年三月の童話誌『赤い鳥』が休刊、一九三三(昭和8)年、『児童文学』廃刊は、さらに賢治の創作への思いを変えていったであろう。四作品は、どのように改稿され、賢治の「少年小説」となったか。次の課題としたい。

 

 

12)米地文夫「宮沢賢治のヘレンタッピングへの片想いと西洋風街並みへの憧れと―大正ロマンのモリーオ幻想」(『賢治学』第5輯 二〇一八 岩手大学宮澤賢治センター東海大学出版部)

13)渋谷百合絵「宮沢賢治論――小波お伽噺「菊の紋」との比較を中心に」(『日本近代文学九二』日本近代文学会二〇一五)

 

参考文献

『出版事典』編集委員会・布川角左衛門『出版事典』 出版ニュース社 

一九七一

蔡星慧「日本の出版取次構造の歴史的変遷と現状―取次機能の分化と専門化の観点から―」CR-no35-che.pdf   dpt.sophia.ac.jp

 

テキストは『校本宮澤賢治全集』に拠った。

 








宮沢賢治「少年小説」と賢治生存中の少年小説(大衆的児童文学)の出版状況について 前編           

宮沢賢治は、「歌稿B」第一葉余白(創作メモ53)に、「少年小説/ポラーノの広場/風野又三郎/銀河ステーション/グスコーブドリの伝記」、のメモを残しており、創作メモ54、創作メモ56にも同様の書き込みが見られる。

また、時期を明確に出来ないが、時を前後して、創作メモ26「ポラーノの広

場」初期形原稿に「アドレスケート ファベーロ、/ノベーロ レアレースタ(筆者注:青少年向け物語の意のエスペラント語) 黎明行進歌」のメモと少年の生活を表す内容のメモが残されている。

これを賢治の「少年小説」の最初の試みだったと仮定し、明治期から賢治没年までの、賢治の周辺にあった大衆的児童文学(以下少年小説と記す)の流れの中での賢治の活動を辿り、この時期に、なぜ賢治が少年小説を意識したかを明確にし、「少年小説」と規定した四作品を知る為の手がかりとしたい。

 

一、「少年小説」の流れの中の賢治

一―1明治期

江戸時代までは、女性、年少者は「婦女子」としてまとめられ、「子供・児童」の概念はなかった。初めて「児童」が意識されたのは、一八七二(明治5)年学制発布の後で、日本の児童文学は、明治十年代、ヨーロッパですでにあった作品を翻訳、翻案して出版されたのが最初である。 

単行本で、一八七八(明治11年ジュール・ヴェルヌ作川島忠之助訳『新註八十日間世界一周』(出版も訳者)、一八八〇(明治13)年鈴木梅太郎訳『二万里海底旅行』(出版は不明)、一八八四(明治17)年井上勤訳『全世界一大奇書』(「アラビアンナイト」の翻訳)報告堂)などがある。

雑誌では、一八八五(明治18)年発刊の『女学雑誌』(萬春堂)に、「不思議の新衣装」(アンデルセン「裸の王様」の翻案)、一八九〇(明治23)年には、F.H.バーネット作、若松賤子訳「小公子」が掲載される。

『少年園』(小年園発行所・一八八八(明21))は、イギリスの児童雑誌の影響を強く受けて創刊された日本最初の本格的児童雑誌といわれる。文部省で教科書作成にあたった山県悌三郎を主筆に、教育・啓蒙を発刊の主旨とした。以後少年向け雑誌の創刊も盛んとなった

幸田露伴は、少年小説「鉄之(三)鍛」(『少年園』一八九〇(明治23年)、歴史小説「二宮尊徳翁」(『少年文学F』一八九一(明治24)年、再話「宝の蔵」一八九二(明治25)年 学齢館)、科学読み物「北氷洋」(『少国民』一八九四(明治27))など広範囲な作品で、少年小説の出発点を作った。「鉄之()鍛」では逆境と苛酷な人との関わりのなかで、発憤して頑張り、援助者と遭遇して成功する姿を描く。

村井弦齋『近江聖人』は『少年文学叢書』第一四編として一八九二(明治25)年から一九〇五(明治38)年末までに二九版を重ねた。中江藤樹の少年時代を描き、被虐者を助け、病気の母に孝行を尽くし、出世の後も周囲のものに学問や徳を施すという徳性を描き、語り口も面白く、伝記物の傑作といえる。

原抱一庵 『少年小説 新年』(青木嵩山堂 一八九二(明治25)年) は、貧困、いじめ、肉親の病や死や不遇、など逆境にある主人公の少年を描き、「少年小説」を冠する作品の初期のものである。主人公の頑張りと少女との出会いを描くが、虐め、失敗など人と人との関わりは描かれない

森田思軒「十五少年」は『少年世界』に一八九六(明治25)年三月から連載後同年一二月博文館より刊行、ジュール・ヴェルヌ「二年間の休暇」の翻訳として現在でも読み継がれる。

押川春浪『海島冒険奇譚 海底軍艦』(一九九〇(明治33)年 文武堂)は行方不明を伝えられていた海軍大佐桜木が、無人島に籠もり海底軍艦(潜水艦)作っていた所に遭遇した日出雄少年が仲間に加わることからの展開の見事さは、少年の海外進出の抱負を抱かせ、国威発揚の役割をも持たせたが、冒険小説の傑作であると言える。

 泉鏡花「金時計」(『少年文学』一八九三(明治26)年)では西洋人と日本人の魂の違いを描き、尾上新兵衛「近衛新兵」(『少年世界』一八九四(明治27)年)では日清戦争を描いた。

単行本も、旅順戦記桜井忠温『肉弾』(一九〇六(明治39)年 丁未出版社)、ユーモア小説佐々木邦『いたづら小僧日記』(一九〇九(明治42)年 内外出版協会)など、多様な内容を持ち、このころから大人向け雑誌への少年の読者も増える。

「少年小説」とほぼ並行して女子を対象にした「少女小説」というジャンルがあった。初期には北田薄氷が「おいてけぼり」、「食辛棒」(『少年界』(金港堂明治30)は、少女向けに書かれた短篇で、家庭生活の出来事を面白く描くが、物語性などに欠けていた。一九〇二(明治35)年、金港堂書籍から日本最初の少女雑誌として『少女界』創刊、全く少女向けの読み物のなかった時代に、少女のみならず一般の婦人達も読者に加わった。

一九一一(明治44)年、「立川文庫」(立川文明堂)が創刊される。作者は山田敬を中心に、「真田十勇士」や「猿飛佐助」など、講談本、大衆小説の先駆的存在となり、勧善懲悪のモラルを脱し新しいヒーロー像を造った。

 

一―2明治から昭和に向けての出版状況について 

少年小説の販路は何処まで広がっていただろうか。

江戸時代は出版業者の組合に「本屋仲間」と「地本問屋」があり、(本や仲間)は書籍版元・書 籍取次・書籍店を、地本問屋は雑誌版元・雑誌店を兼ねてそれぞれの販路を 持っていた。一八五一(嘉永4)年以前刊の『庭訓往来』に付載されている取次所の広告の書店名は二十九店舗、全国的に散らばっており、東北では「奥州仙台国分寺」、「会津若松市の町」「奥州相馬浪江」、「出羽山形十日町」、の書店所在地が見られる()

明治初期には出版社と小売店とは同一業種だったが、出版業と小売業に分化し始め、一九一〇(明治43)年には、雑誌大取次中取次雑誌店のルートが形成された。一九一四(大正3)年前後から雑誌・出版物の普及によって小売りと卸が分化する。さらに大取次、中取次(地方まで取り次ぐ)、小取次(市内の小売店にも取り次ぐ)に分化した。「せどりや」は小売店を廻って注文を取り見込み仕入れをする業種で、明治大正期は市内回りの取次人として確立した。雑誌出版の隆盛と取次業の整備は車の両輪のようにして発達した。

書籍の委託販売は返品条件付き販売で、一九〇八(明治41)年大学館が東京市内を範囲として始まり翌一九〇九(明治42)年、実業之日本社が『婦人世界』でその方法を取り入れ、講談社も雑誌の大量販売を機に一般化し、主に雑誌の形で広まった少年小説はそのルートに乗った。取次大手の東京堂の社史によると、発送方面区劃に従って鉄道の番線ごとに大量の雑誌が発送されて行く様が描かれる()

これが、花巻周辺まで届いていたのか、実証は掴めなかったが、少なくとも県都盛岡には一九一四(大正3)年前後の段階で到達したであろう。

一九〇一(明治34)年生まれの賢治の妹シゲの回顧録(4)に拠れば、幼少期には、東北大飢饉の記事の載った古い写真総合誌『太陽』(一八九五(明治28)〜一九二八(昭和3)年 博文館)が、宮澤家にあったという事実があるが、ただ、それが花巻の商店で扱われたものなのか、父政次郎氏が注文して取り寄せたものなのかについては調査が及ばなかった。                               

 

一―3明治期における賢治との関わり

賢治誕生一八九六(明治29)年〜賢治一六才(一九一三(明治45)年 )まで賢治と少年小説との関わりが実証される事実はほとんど無い。

宮澤家の読書環境を示すものとして、前述の妹岩田シゲの回想に、宮澤家の古い土蔵「北小屋」に父政次郎の蔵書があり、子どもたちは忍び込んで本を読んだという記述がある。前述の『太陽』のほか、少し成長してからのことだが賢治の一九一六(大正5)年ころ、そこで「伊勢物語」を読んでいたことが記されている。たやすく本に触れられない環境で、密かに蔵の中で古い本を読む、という状況もうかがえる。

唯一の記録は、一九〇五(明治38)年、花巻川口尋常小学校三年のとき、担任の八木英三から、「太一の話」などを聞き感銘を受けたというものである。これはエクトール・マロ原作「家なき子」の五来素川による翻案、『家庭小説 未だ見ぬ親』である。一九〇二(明治35) 年三月一一日から七月一三日まで『読売新聞』に全九十四回にわたり連載され、一九〇三(明治36) 年七月に警醒社,東文館,福音新報社から単行本が出版された

賢治がなぜこの一点のみを記憶していて、それが語り継がれているのか。可能性としては、この時代の子供向け出版物がほとんどの雑誌であり、保存されるものではなかったか、花巻まで出版物の流通網が到達していなかったかでる。

また、賢治の幼少時代、少年小説は排すべきものであり、厳しい家庭になればなるほど、禁じられることが多かった可能性もある。それ故、八木英三の語り聞かせた物語は、後々まで強い感動を残したのかもしれない。

一方、この物語は新聞連載中から「家庭小説」の角書が付され、原作に加味された報恩の観念は、家族主義から個人主義への過渡期にあると見なされた日本の「家庭」にふさわしい親子道徳として、その欠点を補うものとして期待されたと考えられ(5)、小学校のなかでも読み聞かされることが多かったのかも知れない。

一九〇九(明治42)年一三才、盛岡中学校に進学、家を離れ寮生活を送る県庁所在地盛岡では、出版の状況も変わったであろう。

一九一一(明治44)年、賢治は一五才になり、寮の同室の藤原文三の記憶によると、すでに「中央公論」の読者で、エマーソンの哲学書を読んでいたと いう(6)

 

一―4大正期

 一九一三(大正2)年、中里介山「大菩薩峠」は都新聞で連載が開始され、以後毎日新聞、読売新聞と変わりながら一九四一年まで連載、作者死亡により未完に終わった。虚無思想に取り憑かれた主人公と周辺の生き様を描き、作者によれば仏教思想に基づいて人間の業を描こうとしたといい、大衆小説の先駆けとも言われる。 賢治作詞作曲の「大菩薩峠の歌」が出来たのは、藤原嘉藤治の採譜などから、その知己を得た一九二〇(大正10)年以降と思われる。

一九一四(大正3)『少年倶楽部』(大日本雄辮會 一九二五年大日本雄辮會講談社となる。以下講談社と略す。)が創刊された。創刊間もなく社長野間清治が打ち出した編集方針は、学校以外で児童が自ら進んで読んで面白いもので、なおかつ知らず知らずのうちに利益になるものを雑誌の目標とすることであった。利益になるとは精神教育で、「偉大なる人」にならなければならないこと教えることを中心とした。「面白くてためになる」は児童だけでなく、教育関係者、父母にも認められた。雑誌の隆盛は、販売ルートを成立させ、さらに雑誌の隆盛を生むという相乗効果で広まっていった。    

一九二六(大正15)年の東京都社会局の調査「小学児童思想及読書傾向調査」によれば、少女雑誌を含めて、『少年倶楽部』の占有率は三五パーセントに及んだ(7)

一九二一(大正10)年から講談社の編集長を務めた加藤謙一によると、当時最盛期だった『日本少年』(実業之日本社)が二〇万部を誇る中、まず一〇万部の売り上げを目指したという8)

著名な文学者の寄稿に加えて、投稿による討論会、飛行機搭乗体験記、少年発明家の訪問記、読者の原稿募集、相撲の記事、千葉耕堂「滑稽大学」など多彩な記事に加えて魅力ある付録もついた。表紙に高畑華宵を起用したのも人気だった。発行部数は、新年号のみの比較で、一九一四(大正3)年の創刊当時三万部から、一九二〇(大正9)年八万部、一九二四(大正13)年三〇万部、翌一九二五年四〇万部と飛躍的に伸びを見せている(9)

一九二五(大正14)年、挿絵画家高畑華宵とのトラブル後、表紙に頼らぬ編集方針が生まれ、さらに大きな飛躍を生むことになる。一九二三(大正12)年『少女倶楽部』も発刊され、その年の九月の関東大震災の大打撃や児童誌再編制も逆手にとって『少年倶楽部』は飛躍、少年小説黄金時代を迎える。

吉川英治「神州天馬峡」(連載一九二五(大正14)年五月〜一九二八(昭和3)年)は、講談的少年小説から近代性ある少年小説への展開がある。文体の美しさと、敗軍の主人公の宿命を見つめる滅びの美学に加えて歴史の展開やキャラクターの面白さは、後続の作品の要素が見られる。「風神門」(一九三二(昭和7)年五月から一一月 『少年世界』)など、完成度がたかまっていく。

 高垣眸「龍神丸」は一九二三(大正14)年4月から連載され、「宝島」をヒントの秘宝探しで伝奇小説の源流となった。「豹の眼」は成人のための小説へ向かった。

佐藤紅緑「ああ玉杯に花受けて」(一九二七(昭和2)年五月〜六年三月)で、逆境にあって進学できない青木と、有力者の息子で青木を虐める坂井、金持ちの息子で友人全体に愛情を示す柳という典型的人間関係の中で、良き師と先輩と巡り会い、常に正しいものとは何かを考えて行動する姿を描く。究極の将来図が第一高等学校なのは当時の理想像の象徴だったのかも知れない。それと同時に、中学生と働くものたちの野球大会、柳の妹を誘惑する金持ちの医者の息子との事件、中学生の弁論大会、など幅広いストーリー展開は人気を集めた。この路線は「一直線」講談社 一九三一(昭和6)年などにつづく。 

一九一八(大正7)年、鈴木三重吉による童話誌『赤い鳥』は、既存の少年小説、説話、昔話を中心とした旧来の読み物への批判から、純文学としての児童文学を目指して創刊された。出版数創刊当時三万部で、芥川龍之介、有島武郎、川未明、北原白秋ら一流の文学者が子供のために執筆するというスタンスを取り、児童文学の理念を「童心主義」に置き、子どもには大人とは異なる価値があり、価値の本質は純真無垢であるとした。

一九一九(大正8)年 西条八十の詩、成田為三の作曲の「かなりや」が楽譜付きで掲載され、唱歌とは違う芸術性を求め、音楽運動としての先駆けとなった。

また新美南吉など次世代の作家の育成発掘を試みたが、三重吉の意に沿わない作家は退けられるなど限界も生まれた。「童心主義」も現実の子供から遊離しているという批判が生まれ、後のプロレタリア児童文学の台頭も加わっていく。

少女小説は大正時代に入ると隆盛期を迎える。なかでも吉屋信子川端康成など同性に向けた憧れを描く作品の原型が生まれた。

吉屋信子が一九一六(大正5)年から『少女画報』に連載した「花物語」は、花をモチーフに少女たちの友愛を描き、七話完結の予定が八年間続き少女小説界を独走した感がある。

 

(後編に続く)

 

(1)少女雑誌も含めて一八八九(明治22))『日本之少年』(博文館)・『少国民』(学齢社)、一九〇二(明治35)年『少年界』・『少女界』(金港堂)、一九〇三(明治36)年『少年』(時事新報社)、一九〇六(明治39)年『日本少年』(実業之日本社)、一九〇八(明治41)年『実業少年』(博文館)・『少女の友』(実業之日本社)、一九〇九(明治42)年『少女』(女子文壇社)、一九一一(明治44)年『少年園』(盛文社)・『幼年世界』(博文館)、一九一二(明治45)年『武侠世界』(興文社)・『少女画報』(東京社)、一九二三(大正12年)『少女倶楽部』など。(二上洋一「少年小説年表」(『少年小説の系譜』幻影城一九七八)一六七ページ〜一八二ページ)

(2)鈴木俊幸「近世日本における薬品・小間物の流通と書籍の流通」(『書籍流通資料論序説』第二章一三七〜一三九頁 勉誠出版 二〇一二年)

()田中治男『ものがたり東京堂史』二六七〜二七六頁 東販商事一九七五(4)岩田シゲ『屋根の上が好きな兄と私』 蒼穹書林二〇一七)

(5)渡辺貴規子「エクトール・マロ原作、 五来素川訳『家庭小説未だ見ぬ親 』の研究」京都大学大学院人間・環境学研究科「人間・環境学」第 20 巻,八三―九六頁 二〇一一年)

(6)堀尾青史『宮沢賢治年譜』筑摩書房一九九一 四四ページ。

(7)二上洋一『少年小説の系譜』幻影城一九七八 四九ページ 

(8)加藤謙一『少年倶楽部時代』一九六八 一九ページ

(9)前掲書三九ページ

10)宮澤清六「兄賢治の生涯」(『兄のトランク』筑摩書房一九九一) 二五一ページ

11) アミーラ サイード アリー ユーセフ「宮沢賢治の童話の特質について」(『国際日本研究』第2号 (筑波大学人文社会科学研究科国際日本研究専攻)

12)米地文夫「宮沢賢治のヘレンタッピングへの片想いと西洋風街並みへの憧れと―大正ロマンのモリーオ幻想」(『賢治学』第5輯 二〇一八 岩手大学宮澤賢治センター東海大学出版部)

13)渋谷百合絵「宮沢賢治論――小波お伽噺「菊の紋」との比較を中心に」(『日本近代文学九二』日本近代文学会二〇一五)

 

参考文献

『出版事典』編集委員会・布川角左衛門『出版事典』 出版ニュース社 

一九七一

蔡星慧「日本の出版取次構造の歴史的変遷と現状―取次機能の分化と専門化の観点から―」CR-no35-che.pdf   dpt.sophia.ac.jp

 

テキストは『校本宮澤賢治全集』に拠った。

 








永野川2019年1月中旬

19日

珍しく風もなく快晴です。少し寒さを避けて、10:00に出発しました。

川沿いの風が心配なので、コースを変えて、上人橋から入り赤津川から先に廻りました。

上人橋上の河川敷の草むらでは、カワラヒワが25羽群れて飛びました。上からの眼線で見られて綺麗な羽の模様も見ることが出来ました。

昨日、上人橋近くに住む友人からダイサギが30羽くらい群れて旋回していると知らせがありました。確かに多く4、5羽の群れがたびたび飛び、滝沢ハムの調整池には22羽の群れが下りていて、全部で39羽になりました。だいたい上人橋周辺で散っているようです。

 アオサギは、ダイサギに混じって1羽がいるという感じで全部で5羽になりました。

ケリは、赤津川のいつもの場所に1羽いたのみでした。

滝沢ハムのクヌギ林で、シジュウカラの声がして見つけているとエナガ7羽の群れが目に飛び込んできました。先日テレビで見たシマエナガの白さはありませんが、自然な感じで、人の近くまで来てくれるし、動きも早く、好きな鳥です。

大岩橋の河川敷林は、相変わらずたくさんの声が聞こえて悩ましいところです。カワラヒワ10・6・5・2、カシラダカ3、シメ7は確認できましたが。もっとゆっくり構えれば、或いは倍くらい確認できるかもしれません。

大砂橋付近の川で、キセキレイ2羽、セグロセキレイに混じって一瞬確認しました。ここは公園と比べると、川幅も狭く、鳥の動きも速く、観察しにくい気がします。

永野川は二杉橋から睦橋まで、水が全く無くなっていて河原状態でした。時々ダイサギ、草むらに雀の群れ、周囲の木々にヒヨドリの声が聞こえるばかりでした。

鳥たちのためにも雨の降ることを祈ります。

 

鳥リスト

カイツブリ、ヒドリガモ、カルガモ、コガモ、アオサギ、ダイサギ、ケリ、トビ、モズ、コゲラ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、シジュウカラ、エナガ、ウグイス、ヒヨドリ、ツグミ、スズメ、ハクセキレイ、セグロセキレイ、キセキレイ、カワラヒワ、シメ、カシラダカ

 

 

 








永野川2019年1月上旬

 明けましておめでとうございます。
 
今年もよろしくお願いいたします。
 

6日

腰を痛めて、自転車の乗り降りが不安でしたが、少しすこし遅めに10:00ころ家を出ました。

二杉橋から高橋くらいまで、水が涸れ始めていて、ほとんど干潟状態でした。アオサギ3羽・3羽・1羽、ダイサギ2羽・2羽、ハクセキレイ3羽、などたくさん浅瀬を歩いていました。少し遡ったところで、ここでは2016年以来見なかったタヒバリが歩いていました。

また、イカルチドリの声が聞こえて、探していると2羽が駆け回っているのを見つけました。こちらも久しぶりという感じです。

上空をコガモが37羽・14羽・11羽と大量に遡っていきました。少し上の睦橋下に20羽ほど下りていましたが、その他は見られず、別の場所に移動してしまったようです。

カワラヒワは3羽が一瞬飛びましたが、その後は公園まで見られませんでした。上人橋の河川敷の草むらで15羽、大岩橋の河川敷林で5羽・6羽・3羽・5羽・9羽、とあちこちで枝に留まり全部で46羽となりました。

イソシギは公園の川で1羽が鳴いて遡っていきました。帰りに睦橋下で、1羽が石の近くにいたのですが後ろ向きで、動いてくれなくて特徴を捉えられず確認が出来ませんでした。クサシギなど他のシギの特徴も捉えられなかったのでイソシギとしました。

シメは公園のハリエンジュの大木で1羽、土手のエノキで2羽、大岩橋河川敷林で1羽・3羽・4羽と、色々な場所で見られた。今回はすべてシメで、コイカルを疑うものは見られませんでした。あやふやな情報を流して、申し訳ありませんでした。

カワセミが、大砂橋近くの谷津田の川で1羽、私はこの場所で見たのは初めてですが、何回かカメラマンが待機しているのを見かけましたから、カワセミのスポットなのかもしれません。その後、赤津川で1羽、帰りの高橋付近で1羽、と思いがけないところで3回も会えました。

大岩橋近くの山林でカケスの声が賑やかでした。暫く待ちましたが出てこなかったので取りあえず5羽と記録しました。

大岩橋の上から河川敷林を見ると、林の底からカシラダカが次々に枝に飛び移って5羽になりました。

ホオジロは滝沢ハムの草むらで5羽が飛び交っていました。鳥種ごとに日によって場所をかえているのでしょうか。

赤津川岸の田でケリの声がして、2羽が低く移動していて白い羽は見られました。もっとたくさん残ってほしかったのですが。

赤津川の浮巣が出来ている感じの草の上でダイサギが魚を咥えていました。細いけれど10センチくらいあり尾が茶色に見えました。今日はほとんど水がありませんが餌は豊富なのですね

心配していましたが、なんとか無事歩き通せました。タヒバリやカシラダカ、その他の鳥たちに会えてうれしいことでした。まだ、これからも冬鳥を見ることが出来るはずです。体調を戻して充実した鳥見をしたいと、思います。

 

鳥リスト

カイツブリ、ヒドリガモ、カルガモ、コガモ、アオサギ、ダイサギ、イソシギ、ケリ、トビ、モズ、カワセミ、コゲラ,ハシボソカラス、ハシブトカラス、カケス、ウグイス、ヒヨドリ、ツグミ、スズメ、ハクセキレイ、セグロセキレイ、タヒバリ、カワラヒワ、シメ、ホオジロ、カシラダカ