宮沢賢治は、「歌稿B」第一葉余白(創作メモ53)に、「少年小説/ポラーノの広場/風野又三郎/銀河ステーション/グスコーブドリの伝記」、のメモを残しており、創作メモ54、創作メモ56にも同様の書き込みが見られる。
また、時期を明確に出来ないが、時を前後して、創作メモ26「ポラーノの広
場」初期形原稿に「アドレスケート ファベーロ、/ノベーロ レアレースタ(筆者注:青少年向け物語の意のエスペラント語) 黎明行進歌」のメモと少年の生活を表す内容のメモが残されている。
これを賢治の「少年小説」の最初の試みだったと仮定し、明治期から賢治没年までの、賢治の周辺にあった大衆的児童文学(以下少年小説と記す)の流れの中での賢治の活動を辿り、この時期に、なぜ賢治が少年小説を意識したかを明確にし、「少年小説」と規定した四作品を知る為の手がかりとしたい。
一、「少年小説」の流れの中の賢治
一―1明治期
江戸時代までは、女性、年少者は「婦女子」としてまとめられ、「子供・児童」の概念はなかった。初めて「児童」が意識されたのは、一八七二(明治5)年学制発布の後で、日本の児童文学は、明治十年代、ヨーロッパですでにあった作品を翻訳、翻案して出版されたのが最初である。
単行本で、一八七八(明治11年ジュール・ヴェルヌ作川島忠之助訳『新註八十日間世界一周』(出版も訳者)、一八八〇(明治13)年鈴木梅太郎訳『二万里海底旅行』(出版は不明)、一八八四(明治17)年井上勤訳『全世界一大奇書』(「アラビアンナイト」の翻訳)報告堂)などがある。
雑誌では、一八八五(明治18)年発刊の『女学雑誌』(萬春堂)に、「不思議の新衣装」(アンデルセン「裸の王様」の翻案)、一八九〇(明治23)年には、F.H.バーネット作、若松賤子訳「小公子」が掲載される。
『少年園』(小年園発行所・一八八八(明21)年)は、イギリスの児童雑誌の影響を強く受けて創刊された日本最初の本格的児童雑誌といわれる。文部省で教科書作成にあたった山県悌三郎を主筆に、教育・啓蒙を発刊の主旨とした。以後少年向け雑誌の創刊も盛んとなった1。
幸田露伴は、少年小説「鉄之(三)鍛」(『少年園』一八九〇(明治23年)、歴史小説「二宮尊徳翁」(『少年文学F』一八九一(明治24)年、再話「宝の蔵」一八九二(明治25)年 学齢館)、科学読み物「北氷洋」(『少国民』一八九四(明治27)年)など広範囲な作品で、少年小説の出発点を作った。「鉄之(三)鍛」では逆境と苛酷な人との関わりのなかで、発憤して頑張り、援助者と遭遇して成功する姿を描く。
村井弦齋『近江聖人』は『少年文学叢書』第一四編として一八九二(明治25)年から一九〇五(明治38)年末までに二九版を重ねた。中江藤樹の少年時代を描き、被虐者を助け、病気の母に孝行を尽くし、出世の後も周囲のものに学問や徳を施すという徳性を描き、語り口も面白く、伝記物の傑作といえる。
原抱一庵 『少年小説 新年』(青木嵩山堂 一八九二(明治25)年) は、貧困、いじめ、肉親の病や死や不遇、など逆境にある主人公の少年を描き、「少年小説」を冠する作品の初期のものである。主人公の頑張りと少女との出会いを描くが、虐め、失敗など人と人との関わりは描かれない
森田思軒「十五少年」は『少年世界』に一八九六(明治25)年三月から連載後同年一二月博文館より刊行、ジュール・ヴェルヌ「二年間の休暇」の翻訳として現在でも読み継がれる。
押川春浪『海島冒険奇譚 海底軍艦』(一九九〇(明治33)年 文武堂)は行方不明を伝えられていた海軍大佐桜木が、無人島に籠もり海底軍艦(潜水艦)作っていた所に遭遇した日出雄少年が仲間に加わることからの展開の見事さは、少年の海外進出の抱負を抱かせ、国威発揚の役割をも持たせたが、冒険小説の傑作であると言える。
泉鏡花「金時計」(『少年文学』一八九三(明治26)年)では西洋人と日本人の魂の違いを描き、尾上新兵衛「近衛新兵」(『少年世界』一八九四(明治27)年)では日清戦争を描いた。
単行本も、旅順戦記桜井忠温『肉弾』(一九〇六(明治39)年 丁未出版社)、ユーモア小説佐々木邦『いたづら小僧日記』(一九〇九(明治42)年 内外出版協会)など、多様な内容を持ち、このころから大人向け雑誌への少年の読者も増える。
「少年小説」とほぼ並行して女子を対象にした「少女小説」というジャンルがあった。初期には北田薄氷が「おいてけぼり」、「食辛棒」(『少年界』(金港堂明治30年)は、少女向けに書かれた短篇で、家庭生活の出来事を面白く描くが、物語性などに欠けていた。一九〇二(明治35)年、金港堂書籍から日本最初の少女雑誌として『少女界』創刊、全く少女向けの読み物のなかった時代に、少女のみならず一般の婦人達も読者に加わった。
一九一一(明治44)年、「立川文庫」(立川文明堂)が創刊される。作者は山田敬を中心に、「真田十勇士」や「猿飛佐助」など、講談本、大衆小説の先駆的存在となり、勧善懲悪のモラルを脱し新しいヒーロー像を造った。
一―2明治から昭和に向けての出版状況について
少年小説の販路は何処まで広がっていただろうか。
江戸時代は出版業者の組合に「本屋仲間」と「地本問屋」があり、(本や仲間)は書籍版元・書 籍取次・書籍店を、地本問屋は雑誌版元・雑誌店を兼ねてそれぞれの販路を 持っていた。一八五一(嘉永4)年以前刊の『庭訓往来』に付載されている取次所の広告の書店名は二十九店舗、全国的に散らばっており、東北では「奥州仙台国分寺」、「会津若松市の町」「奥州相馬浪江」、「出羽山形十日町」、の書店所在地が見られる(2)。
明治初期には出版社と小売店とは同一業種だったが、出版業と小売業に分化し始め、一九一〇(明治43)年には、雑誌大取次→中取次→雑誌店のルートが形成された。一九一四(大正3)年前後から雑誌・出版物の普及によって小売りと卸が分化する。さらに大取次、中取次(地方まで取り次ぐ)、小取次(市内の小売店にも取り次ぐ)に分化した。「せどりや」は小売店を廻って注文を取り見込み仕入れをする業種で、明治大正期は市内回りの取次人として確立した。雑誌出版の隆盛と取次業の整備は車の両輪のようにして発達した。
書籍の委託販売は返品条件付き販売で、一九〇八(明治41)年大学館が東京市内を範囲として始まり翌一九〇九(明治42)年、実業之日本社が『婦人世界』でその方法を取り入れ、講談社も雑誌の大量販売を機に一般化し、主に雑誌の形で広まった少年小説はそのルートに乗った。取次大手の東京堂の社史によると、発送方面区劃に従って鉄道の番線ごとに大量の雑誌が発送されて行く様が描かれる(3)。
これが、花巻周辺まで届いていたのか、実証は掴めなかったが、少なくとも県都盛岡には一九一四(大正3)年前後の段階で到達したであろう。
一九〇一(明治34)年生まれの賢治の妹シゲの回顧録(4)に拠れば、幼少期には、東北大飢饉の記事の載った古い写真総合誌『太陽』(一八九五(明治28)〜一九二八(昭和3)年 博文館)が、宮澤家にあったという事実があるが、ただ、それが花巻の商店で扱われたものなのか、父政次郎氏が注文して取り寄せたものなのかについては調査が及ばなかった。
一―3明治期における賢治との関わり
賢治誕生一八九六(明治29)年〜賢治一六才(一九一三(明治45)年 )まで賢治と少年小説との関わりが実証される事実はほとんど無い。
宮澤家の読書環境を示すものとして、前述の妹岩田シゲの回想に、宮澤家の古い土蔵「北小屋」に父政次郎の蔵書があり、子どもたちは忍び込んで本を読んだという記述がある。前述の『太陽』のほか、少し成長してからのことだが賢治の一九一六(大正5)年ころ、そこで「伊勢物語」を読んでいたことが記されている。たやすく本に触れられない環境で、密かに蔵の中で古い本を読む、という状況もうかがえる。
唯一の記録は、一九〇五(明治38)年、花巻川口尋常小学校三年のとき、担任の八木英三から、「太一の話」などを聞き感銘を受けたというものである。これはエクトール・マロ原作「家なき子」の五来素川による翻案、『家庭小説 未だ見ぬ親』である。一九〇二(明治35) 年三月一一日から七月一三日まで『読売新聞』に全九十四回にわたり連載され、一九〇三(明治36) 年七月に警醒社,東文館,福音新報社から単行本が出版された
賢治がなぜこの一点のみを記憶していて、それが語り継がれているのか。可能性としては、この時代の子供向け出版物がほとんどの雑誌であり、保存されるものではなかったか、花巻まで出版物の流通網が到達していなかったかでる。
また、賢治の幼少時代、少年小説は排すべきものであり、厳しい家庭になればなるほど、禁じられることが多かった可能性もある。それ故、八木英三の語り聞かせた物語は、後々まで強い感動を残したのかもしれない。
一方、この物語は新聞連載中から「家庭小説」の角書が付され、原作に加味された報恩の観念は、家族主義から個人主義への過渡期にあると見なされた日本の「家庭」にふさわしい親子道徳として、その欠点を補うものとして期待されたと考えられ(5)、小学校のなかでも読み聞かされることが多かったのかも知れない。
一九〇九(明治42)年一三才、盛岡中学校に進学、家を離れ寮生活を送る県庁所在地盛岡では、出版の状況も変わったであろう。
一九一一(明治44)年、賢治は一五才になり、寮の同室の藤原文三の記憶によると、すでに「中央公論」の読者で、エマーソンの哲学書を読んでいたと いう(6)。
一―4大正期
一九一三(大正2)年、中里介山「大菩薩峠」は都新聞で連載が開始され、以後毎日新聞、読売新聞と変わりながら一九四一年まで連載、作者死亡により未完に終わった。虚無思想に取り憑かれた主人公と周辺の生き様を描き、作者によれば仏教思想に基づいて人間の業を描こうとしたといい、大衆小説の先駆けとも言われる。 賢治作詞作曲の「大菩薩峠の歌」が出来たのは、藤原嘉藤治の採譜などから、その知己を得た一九二〇(大正10)年以降と思われる。
一九一四(大正3)『少年倶楽部』(大日本雄辮會 一九二五年大日本雄辮會講談社となる。以下講談社と略す。)が創刊された。創刊間もなく社長野間清治が打ち出した編集方針は、学校以外で児童が自ら進んで読んで面白いもので、なおかつ知らず知らずのうちに利益になるものを雑誌の目標とすることであった。利益になるとは精神教育で、「偉大なる人」にならなければならないこと教えることを中心とした。「面白くてためになる」は児童だけでなく、教育関係者、父母にも認められた。雑誌の隆盛は、販売ルートを成立させ、さらに雑誌の隆盛を生むという相乗効果で広まっていった。
一九二六(大正15)年の東京都社会局の調査「小学児童思想及読書傾向調査」によれば、少女雑誌を含めて、『少年倶楽部』の占有率は三五パーセントに及んだ(7)。
一九二一(大正10)年から講談社の編集長を務めた加藤謙一によると、当時最盛期だった『日本少年』(実業之日本社)が二〇万部を誇る中、まず一〇万部の売り上げを目指したという(8)。
著名な文学者の寄稿に加えて、投稿による討論会、飛行機搭乗体験記、少年発明家の訪問記、読者の原稿募集、相撲の記事、千葉耕堂「滑稽大学」など多彩な記事に加えて魅力ある付録もついた。表紙に高畑華宵を起用したのも人気だった。発行部数は、新年号のみの比較で、一九一四(大正3)年の創刊当時三万部から、一九二〇(大正9)年八万部、一九二四(大正13)年三〇万部、翌一九二五年四〇万部と飛躍的に伸びを見せている(9)。
一九二五(大正14)年、挿絵画家高畑華宵とのトラブル後、表紙に頼らぬ編集方針が生まれ、さらに大きな飛躍を生むことになる。一九二三(大正12)年『少女倶楽部』も発刊され、その年の九月の関東大震災の大打撃や児童誌再編制も逆手にとって『少年倶楽部』は飛躍、少年小説黄金時代を迎える。
吉川英治「神州天馬峡」(連載一九二五(大正14)年五月〜一九二八(昭和3)年)は、講談的少年小説から近代性ある少年小説への展開がある。文体の美しさと、敗軍の主人公の宿命を見つめる滅びの美学に加えて歴史の展開やキャラクターの面白さは、後続の作品の要素が見られる。「風神門」(一九三二(昭和7)年五月から一一月 『少年世界』)など、完成度がたかまっていく。
高垣眸「龍神丸」は一九二三(大正14)年4月から連載され、「宝島」をヒントの秘宝探しで伝奇小説の源流となった。「豹の眼」は成人のための小説へ向かった。
佐藤紅緑「ああ玉杯に花受けて」(一九二七(昭和2)年五月〜六年三月)で、逆境にあって進学できない青木と、有力者の息子で青木を虐める坂井、金持ちの息子で友人全体に愛情を示す柳という典型的人間関係の中で、良き師と先輩と巡り会い、常に正しいものとは何かを考えて行動する姿を描く。究極の将来図が第一高等学校なのは当時の理想像の象徴だったのかも知れない。それと同時に、中学生と働くものたちの野球大会、柳の妹を誘惑する金持ちの医者の息子との事件、中学生の弁論大会、など幅広いストーリー展開は人気を集めた。この路線は「一直線」講談社 一九三一(昭和6)年などにつづく。
一九一八(大正7)年、鈴木三重吉による童話誌『赤い鳥』は、既存の少年小説、説話、昔話を中心とした旧来の読み物への批判から、純文学としての児童文学を目指して創刊された。出版数創刊当時三万部で、芥川龍之介、有島武郎、川未明、北原白秋ら一流の文学者が子供のために執筆するというスタンスを取り、児童文学の理念を「童心主義」に置き、子どもには大人とは異なる価値があり、価値の本質は純真無垢であるとした。
一九一九(大正8)年 西条八十の詩、成田為三の作曲の「かなりや」が楽譜付きで掲載され、唱歌とは違う芸術性を求め、音楽運動としての先駆けとなった。
また新美南吉など次世代の作家の育成発掘を試みたが、三重吉の意に沿わない作家は退けられるなど限界も生まれた。「童心主義」も現実の子供から遊離しているという批判が生まれ、後のプロレタリア児童文学の台頭も加わっていく。
少女小説は大正時代に入ると隆盛期を迎える。なかでも吉屋信子、川端康成など同性に向けた憧れを描く作品の原型が生まれた。
吉屋信子が一九一六(大正5)年から『少女画報』に連載した「花物語」は、花をモチーフに少女たちの友愛を描き、七話完結の予定が八年間続き少女小説界を独走した感がある。
(後編に続く)
注
(1)少女雑誌も含めて一八八九(明治22)年)『日本之少年』(博文館)・『少国民』(学齢社)、一九〇二(明治35)年『少年界』・『少女界』(金港堂)、一九〇三(明治36)年『少年』(時事新報社)、一九〇六(明治39)年『日本少年』(実業之日本社)、一九〇八(明治41)年『実業少年』(博文館)・『少女の友』(実業之日本社)、一九〇九(明治42)年『少女』(女子文壇社)、一九一一(明治44)年『少年園』(盛文社)・『幼年世界』(博文館)、一九一二(明治45)年『武侠世界』(興文社)・『少女画報』(東京社)、一九二三(大正12年)『少女倶楽部』など。(二上洋一「少年小説年表」(『少年小説の系譜』幻影城一九七八)一六七ページ〜一八二ページ)
(2)鈴木俊幸「近世日本における薬品・小間物の流通と書籍の流通」(『書籍流通資料論序説』第二章一三七〜一三九頁 勉誠出版 二〇一二年)
(3)田中治男『ものがたり東京堂史』二六七〜二七六頁 東販商事一九七五(4)岩田シゲ『屋根の上が好きな兄と私』 蒼穹書林二〇一七)
(5)渡辺貴規子「エクトール・マロ原作、 五来素川訳『家庭小説未だ見ぬ親 』の研究」京都大学大学院人間・環境学研究科「人間・環境学」第 20 巻,八三―九六頁 二〇一一年)
(6)堀尾青史『宮沢賢治年譜』筑摩書房一九九一 四四ページ。
(7)二上洋一『少年小説の系譜』幻影城一九七八 四九ページ
(8)加藤謙一『少年倶楽部時代』一九六八 一九ページ
(9)前掲書三九ページ
(10)宮澤清六「兄賢治の生涯」(『兄のトランク』筑摩書房一九九一) 二五一ページ
(11) アミーラ サイード アリー ユーセフ「宮沢賢治の童話の特質について」(『国際日本研究』第2号 (筑波大学人文社会科学研究科国際日本研究専攻)
(12)米地文夫「宮沢賢治のヘレンタッピングへの片想いと西洋風街並みへの憧れと―大正ロマンのモリーオ幻想」(『賢治学』第5輯 二〇一八 岩手大学宮澤賢治センター東海大学出版部)
(13)渋谷百合絵「宮沢賢治論――小波お伽噺「菊の紋」との比較を中心に」(『日本近代文学九二』日本近代文学会二〇一五)
参考文献
『出版事典』編集委員会・布川角左衛門『出版事典』 出版ニュース社
一九七一
蔡星慧「日本の出版取次構造の歴史的変遷と現状―取次機能の分化と専門化の観点から―」CR-no35-che.pdf dpt.sophia.ac.jp
テキストは『校本宮澤賢治全集』に拠った。