賢治の作歌の記録は大正十年まで記録が残っています。〈風〉という言葉を詠みこんだ短歌を選んで詠んでみましたが、大正七年五月以降という括り以降の短歌、大正十年四月の関西旅行の四一首、東京十首には〈風〉を詠みこんだ短歌はありません。
その他、書簡中の短歌、雑誌発表の短歌がありますが、ABと同風景を読んだものが多くなっています。
9風来たり、高鳴るものは、やまならし、あるいはポプラ、さとりのねがひ。 『校友会会報第三十二号』
この歌の元となっているのは「大正五年三月より」に括られている次の二首です。
296A風きたり高鳴るものはやまならしあるいはポプラさとりのねがひ
296B風きたり/高鳴るものはやまならし/またはこやなぎ/さとりのねがひ
発表に際しては、信条を伝えた短歌が多くなっている、といえるかもしれません。
45なにげなく、風にたわめる黒ひのきまことはまひるの
波旬のいかり
「あざりあ第一号」 大正六年二月中
この歌を含めて十二首44から55までが「みふゆのひのき」というタイトルで載せられています。
みふゆのひのき
ヒノキを密教の魔王波旬(密教胎蔵界曼荼羅で快楽を射こむもの)として捉えています。また保阪嘉内宛書簡63(大正7、5、19)では、維摩経の挿話―魔王波旬が帝釈天に化け、持世菩薩のもとに天女を捧げようとするが、市井の賢者維摩詰が化けの皮をはがして菩薩を救う―を引いて、魔性と聖性の区別の難しさも記しています。
ヒノキへの関心は、既に〈323 風は樹を/ゆすりて云ひぬ/「波羅羯諦」/あかき〔は〕みだれしけしの一むら〉とも詠まれました。この歌の関連を感じさせるのは童話、「ひのきとひなげし」ですが、ここでは徳のある医者に化けているのが悪魔、〈ひのき〉には魔性はなくひなげしを悪魔から救う存在です。
この元となっているのは、歌稿Bでは〈大正六年一月より〉の430から449まで、8日間を記録するように、ヒノキを詠んでいるものです。歌稿Aでは「ひのきの歌」というタイトルがつけられていますが、この歌は入っていません。
430 なにげなく/窓を見やれば/一もとのひのきみだれゐていとゞ恐ろし
431 あらし来んそらの青じろさりげなく乱れたわめる/一もとのひのき
432 風しげく/ひのきたわみてみだるれば/異り見ゆる四角窓かな
433 ひかり雲ふらふらはする青の虚空/延びたちふるふ/みふゆのこえだ
434 雪降れば/今さはみだれしくろひのき/菩薩のさまに枝垂れて立つ
435 わるひのき/まひるみだれしわるひのき/雪をかぶれば/菩薩すがたに
436 たそがれに/すつくと立てるそのひのき/ひのきのせなの銀鼠雲
437 窓がらす/落つればつくる四角のうつろ/うつろのなかの/たそがれのひのき
438 くろひのき/月光澱む雲きれに/うかがひよりて何か企つ
439 しらくもよ夜のしらくもよ/月光は重し/気をつけよかのわるひのき
440 雪おちてひのきはゆるゝ/はがねぞら/匂ひいでたる月のたわむれ
441 うすらなく/月光瓦斯のなかにして/ひのきは枝の雪をはらへり
442 (はてしらぬ世界にけしのたねほども/菩薩身をすてたまはざるはなし
441a442月光の/さめざめ青き三時ごろ/ひのきは枝の雪を撥ねたり
443 年わかき/ひのきゆらげば日もうたひ/碧きそらよりふれる綿ゆき
444 ひまはりの/すがれの茎のいくもとぞ/暮るゝひのきをうちめぐりゐる
445 たそがれの/雪にたちたるくろひのき/しんはわづかにそらにまがりて
446 (ひのき、ひのき、まことになれはいきものか われとはふかきえにしあるらし)
447 むかしよりいくたびめぐりあひにけん、ひのきよなれはわれをみしらず
448 しばらくは/試験つゞきとあきらめて/西日にゆらぐひのきを見たり
449 ほの青き/そらのひそまり/光素(エーテル)の弾条もはぢけんとす/みふゆはてんとて
歌稿から、雑誌掲載歌への推敲については、当ブログ「短歌に吹く風4」に詳述したのでここでは省略します。 ここでも言えることは、発表した作品は、叙景歌が消えて、ひのきを菩薩、或いは魔王として捉え、信条を重ねています。
中秋十五夜
115きれぎれに雨を伴ひ吹く風にうす月こめて虫の鳴くなり
116つきあかり風は雨をもともなへど今宵は虫鳴きやまぬなり
117其のかみもかく雨とざす月の夜をあはれと見つつ過ぎて来しらん
「アザリア三輯」
歌稿Bでは次のようになっています。
613きれぎれに雨をともなふ西風に/うす月みちて/虫のなくなり
614月明かり/風は雨をもともなへど/今宵は虫のなきやまぬなり
615
赭々とよどめる鉄の澱の上に/さびしさとまり/風来れど去らず
115,116は613,614と対応していますが、117に対応する歌は管見の限りでは見つかりませんでした。題材が月ではなく、「中秋十五夜」のタイトルにふさわしくないので、新たに詠み加 えたのかも知れません。ここでは、自身の感情〈さびしさ〉を強く詠みこんでいてふさわしくなかったと思ったのでしょうか。
197そら高く風鳴り行くを天狗巣の/さくらの花はむらがりて咲く
大正八年五月二日 書簡145保坂嘉内宛
次の三篇とともに葉書に短歌のみ書かれています。
195よるべなく夕暮亘る桑の樹の/足並の辺に咲けるみざくら
196
夕暮はエルサレムより飛びきたり/桑の木末をうちめぐりたれ
198天狗巣の花はことさらあわれなり/ほそぼそのびしさくらの梢
天狗巣―天狗巣病は樹木の茎・枝が異常に密生する奇形症状で、サクラでは子嚢菌類タフリナ科に属するサクラ天狗巣病菌が原因です。また一部だけ密生し花が咲かない枝は不気味でもあります。賢治は天狗巣病には興味を示し、「小岩井農場」(『春と修羅』)〈桜の木には天狗巣病がたくさんある。天狗巣は早くも青い芽を出し〉始め数例あり、この短歌群も主題は天狗巣病のようです。
〈そら高く〉なる風は、揺れるさくらの花を一層際だたせますが、同時に花の咲かない天狗巣病の部分は〈あわれ〉だったのです。〈あわれ〉は古語の〈趣深い〉の意味ではなく〈哀れ〉ではないでしょうか。
ここで興味を引くのは196の「夕暮はエルサレムより飛びきたり」です。この唐突な言葉には何か意味があるのでしょうか。エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地dすが、「夕暮れ」を関係づける事実は、管見の限りでは見つかりませんでした。観光記事で夕暮れの眺めが素晴らしいという記事が多くありますが、当時でもそのような話が流れていたのでしょうか。
〔そもそも拙者ほんものの清教徒ならば〕(口語詩稿)下書稿手入れでは、「エルサレムアーティチョーク」(キクイモの英名)が出てきます。
そもそも拙者ほんものの清教徒ならば / 或ひは一〇〇%のさむらひならば /これこそ天の恵みと考へ / 町あたりから借金なんぞ一文もせず /八月までは /だまってこれだけ食べる筈 ……
この詩も夕暮れ時です。キクイモはアメリカ原産の菊科ヒマワリ属で、根にはイヌリンを多く含みデンプンの材料となり、江戸時代末期に飼料用として伝来しました。この詩にも「清教徒」という宗教に関連する言葉が皮肉めいて使われていますが、地名との関連はないかも知れません。
この短歌を含めた五首が賢治の写真の台紙に書き込まれ贈られました。
「橋本大兄」は橋本英之助、賢治の従兄で幼少の頃よく遊び、盛岡中学校の一学年先輩で、寄宿舎でも一緒で、舎監排斥運動にも関わっていたようです。
「文語詩篇ノート」に、
18(賢治の年齢) 1913 寄宿舎舎監排斥
1月 橋本英之助 Pã
の文字があります。友人の門出に際して贈ったものと思われ、五首の中には、「207君は行く太行のみち三峡の険にも似たる旅路を指して」があります。ただし橋本英之助が危険な海外に出かけたということではなく、実家の呉服商を継いだことを意味し、友人の進路への深慮も覗うことができます。「一むねに四とせの雨よはた風よ」は4年間の寮生活を意味しているのだと思われ、風は雨とともに、日々の出来事や思い出を表すもので、このようなごく平板な表現も、現れます。
あはれ赤きたうもろこしの毛をとりてかたみに風に吹きけるものを
「畑のへり」裏表紙
「畑のへり」は麻畑の周囲に植えられたトウモロコシを、蛙の眼線で描いたユーモラスな作品です。この裏表紙裏面から表面にかけて書き散らしてあります。 装幀のような感覚でしょうか。童話の内容と違って、詠嘆調の短歌です。意味は明確ではありませんが〈かたみに〉からは感情を交わす、もう一人の人物がいることが考えられます。
短歌は、若い日の賢治が、ひたむきに自分の心情や周囲の風景を綴って、驚くほど新鮮な感覚を読み取ることが出来ました。風は、ほとんどが風の風景の中で詠まれて自然の中に浸らせてくれる大きな力でもあったと思います。発表や贈呈という別の目的を持つと当然ですが変わっていきます。時に観念的になり技巧が空回りします。でもそれが、後に別な巧みさを持って現れるようになるのではないかと思います。詩や童話にどう引き継がれていくのか、今後も読み続けたいと思います。