「税務署長の冒険」―風はいつもすべてを包んで吹いて―
この物語は、密造酒摘発にあたる税務署長のお話で、賢治作品には珍しくサスペンスタッチを取り入れています。
内容には、当時の東北における密造酒の問題―民間に伝わる酒自醸への思い、税制、取り締まりへの批判などを含みながら、ブラックユーモアたっぷりの展開です。
その中で、「風」の表現は五例あり、匂いを運ぶ風、比喩表現、とそれぞれが短くても重要な役割を果たしています。引用文中、斜体で示します。
まずストーリーを追って、その面白さを確認してみましょう。
一、濁密防止講演会
赴任した税務署長は、まず学校で濁密(酒の密造)防止の演説会を開きます。
たっぷりの皮肉を込めて濁蜜の実際や酒の礼賛までやりますが、どうも様子がおかしくむしろ歓迎されているよう、あるいは税務署長の腹の底まで見通されている感じです。
「……イギリスの大学の試験では牛でさえ酒を呑ませると目方が増すと云ひます。又これは実に人間エネルギーの根元です。酒は圧縮せる液体のパンと云ふのは実に名言です。堀部安兵衛が高田の馬場で三十人の仇討ちさへ出来たのも実に酒の為にエネルギーが沢山あったから〔〕です。みなさん、国家のため世界のため大に酒を呑んで下さい。」(小学校長が青くなってゐる。役場から云はれて仕方なく学校を借したのだが何が何でもこれではあんまりだと思ってすっかり青くなったな)と税務署長は思ひました。けれどもそれは大ちがひで小学校長の青く見えたのはあんまりほめられて一さう酒が呑みたくなったのでした。……
「濁蜜をやるにしてもさ、あんまり下手なことはやってもらひたくないな。なぁんだ、味噌桶の中に、醪を仕込んで上に板をのせて味噌を塗って置く、ステッキでつっついて見るとすぐ板が出るぢゃないか。廏の枯草の中にかくして置く、いゝ馬だなあ、乳もしぼれるかいと云ふと顔いろを変えている。
新らしい肥樽の中に仕込んで林の萱の中に置く。誰かにこっそり持って行かれても大声で怒られない。煤だらけの天井裏にこさえて置いて取って帰って来るときは眼をまっ赤にしている。できあがった酒だって見られたざまぢゃない。どうせにごり酒だから濁ってゐるのはいゝとして酸っぱいのもある。甘いのもある、アイヌや生蕃にやってもまあご免蒙りませうといふやうなのだ。そんなものはこの電燈時代の進歩した人類が呑むべきもんぢゃない。どうせやるならなぜもう少し大仕掛けに設備を整えて共同ででもやらないか。すべからく米も電気で研ぐべし、しぼるときには水圧機を使うべし、乳酸菌を利用し、ピペット、ビーカー、ビュウレット立派な化学の試験器械を使って清潔に上等の酒をつくらないか。もっともその時は税金は出して貰ひたい。そう云ふにやるならばわれわれは実に歓迎する。技師やなんかの世話までして上げてもいゝ。こそこそ濁酒半分かうじのままの酒を三升つくって罰金を百円とられるよりは大びらでいゝ酒を七斗呑めよ。〔」〕
二、税務署長歓迎会
その後も村の有志たちとの歓迎会に臨み、打ち解けた会話が進むなか、酔ったふりをしていると、酒の種類が変わってきたのが分りました。最後の会話で、酔っていないことがばれ、素早くその場を離れます。その展開も、一つ一つの言葉が効いていて、スリルを感じさせます。
それでももうぐたぐたになって何もかもわからないというふりをしていました。それにくらべたら村の方の人たちこそ却って本当に酔ってしまったのでした。そのうちに税務署長は少し酒の匂が変って来たのに気がつきました。たしかに今までの酒とはちがった酒が座をまわりはじめてゐました。署長は見ないふりをしながらよく気をつけて盃を見ましたが少しも濁ってはいませんでした。どうもおかしい。これは決してここらのどの酒屋でできる酒でもない、他県から来るのだってもう大ていはきまってゐる。どうもおかしいと斯う署長はひとりで考へました。そのうちさっきの村会議員が又やって来てきちんと座って云ひました。
「いや、もう閣下、ひどくご無礼をいたしました。こんな乱雑な席にご光来をねがいまして面目次第もございません。ただもうほんの村民の志だけをお汲み下されまして至らぬところ又すぎました処は平にご容謝をねがいます。」
署長はすっかり酔った風をしながら笑って答へました。「いや、君、こんな愉快なうちとけた宴会ははじめてだよ。こんなことならたびたびやって来たいもんだね。斯う出られたら困るだらう。」 村会議員はちらっと署長を見あげました。本当はまだ酔ってゐないなと気がついたのです。署長が又云ひました。「どうも斯う高い税金のかかった酒を斯う多分に貰っちゃお気の毒だ。一つ内密でこの村だけ無税にしやうかな。」「いや、ハッハッハ。ご冗談。」村会議員は少しあわてて台所の方へ引っ込んで行きました。「もう失礼しやう、おい君。」署長は立ちあがりました。
「もうお帰りですか。まあまあ。」村長やみんなが立って留めやうとしたときそこはもう商売で署長と白鳥属とはまるで忍術のやうに座敷から姿を消し台所にあった靴をつまんだと思うともう二人の自転車は暗い田圃みちをときどき懐中電燈をぱっぱっとさせて一目散にハーナムキヤの町の方へ走ってゐたのです。
三、署長室の策戦
署長は部下のデンドウイ属を村に潜入させ、調べさせます。署長の作戦がとても愉快です。
「変装して行って貰ひたいな。一寸売薬商人がいゝだろう。あの千金丹の洋傘があった筈だね。」「は、ございます。」「ぢゃ、ライオン堂へ行ってこれでウィスキーを一本買ってねそれから広告をくばってやるからと云って何かのちらしを二百枚も貰ひたまえ。そいつを持って入って行くんだ。君の顔は誰も知ってやしない。どうもあの村はわからないとこがある。どうも誰かがどこかで一斗や二斗でなしにつくってゐる。一つ豪胆にうまくやって呉れ給え。」「は、畏まりました。」……
でもデンドウイ属はすぐ欺されます。
「人が集ったらいづれ酒を呑まないでゐないからと存じまして(お弔いの家の)すぐその前のうちへ無理に一晩泊めて貰ひました。するとそのうちからみんな手伝ひに参りまして道具やなんかも貸したのでございます。私は二階からぢっと隣りの人たちの云ふことを一晩寝ないで聞いて居りました。すると夜中すぎに酒が出ました。もう一語でもきゝもらすまいと思ってゐましたら、そのうち一人がすうと口をまげて歯へ風を入れたやうな音がしました。これはもうどうしても濁り酒でないと思っていましたら、」「ふんふん、なかなか君の観察は鋭い。それから。」「そしたら一人が斯う云ひました。いゝ、ほんとにいゝ、これではもうイーハトヴの友もなにも及ばないな。と云ひました。イーハトヴの友も及ばないとしますととても密造酒ではないと存じました。」
「すうと口をまげて歯へ風を入れたやうな音」を、デンドウイ属は、「澄んだ良い酒を飲んだ音」と理解したのですが、これは、濁っていない密造酒を、試すように口に入れた形容ではないかと思います。一瞬の行動を賢治は風を使って表しています。
次に、署長は別の部下シラトリ属に調査を命じます。
あのね、この前の村会議員のとこへ行ってね、僕からと云ふ口上でね、先ころはごちさうをいたゞいて実にありがたう、と、ね、その節席上で戯談半分酒造会社設立のことをおはなししたところ何だか大分本気らしいご挨拶があったとね、で一つこの際こちらから技術員も出すから模範的なその造酒工場をその村ではじめてはどうだろう、原料も丁度そちらのは醸造に適してゐると思うと斯う吹っかけて見てじっと顔いろを見て呉れ給へ。きっと向ふが資本がありませんでと斯う云ふからね、そしたらどうでせう半官半民風にやらうぢゃありませんかと斯うやって呉れ給へ。そしてその返事をもうせき一つまでよく覚え込んで帰って呉れ給へ。
と言う署長の作戦に対して、相手はうまく乗ってくれず、
「仕方ありませんからそこを出て村の居酒屋へいきなり乗り込んであった位の酒を瓶詰のもはかり売のも全部片っぱしから検査しました。」「うんうん。そしたら。」「そしたら瓶詰はみんなイーハトヴの友でしたしはかり売のはたしかに北の輝です。」「北の輝の方がいくらか廉いんだな。」「さうです。」「たしかに北の輝かね。」「さうです。それから酒屋の主人に帳簿を出さしてしらべて見ましたが酒の売れ高がこのごろ毎年減って行くやうであります。」
と、うまくだまされて帰ってきます。
「おかしいな。前にはあの村はみんな濁り酒ばかり呑んでゐたのにこのごろ検拳が厳しくてだんだん密造が減るならば清酒の売れ高はいくらかづつ増さなければいけない。」「けれどもどうも前ぐらゐは誰も酒を呑まないやうであります。」「さうかね。」「それに酒屋の主人のはなしでは近頃は道路もよくなったし荷馬車も通るのでどこの家でもみんな町から直かに買ふからこっちはだんだん商売がすたれると云ひました。」「おかしいぞ。そんなに町からどしどし買って行くくらゐの現金があの村にある筈はない。どうもおかしい。よろしい。こんどは私が行って見やう。どうもおかしい。明日から三四日留守するからね。あとはよく気をつけて呉れ給へ。さあ帰ってやすみ給へ。」
税務署長は唇に指をあて、眼を変に光らせて考へ込みながらそろそろ帰り支度をしました。
四、署長の探偵
署長は自ら出かけることにしました。作中で署長が 「科学的なもん」というやうに、変装の仕方も具体的で、東京を思わせる「トケウ」から来た椎茸の買い付け人に適した身なりが描かれます。
税務署長のその晩の下宿での仕度ときたら実際科学的なもんだった。まず第一にひげをはさみでぢゃきぢゃき刈りとって次に〔揮〕発油へ木タールを少しまぜて茶いろな液体をつくって顔から首すじいっぱい〔に〕手にも〔〕塗った。鼻の横や耳の下には殊に濃く塗ったのだ。それからアスファルトの屋根材の継目に塗りつける黒いペイントを〔顎〕のとこへ大きな点につけてしばらくの間じっとそんな油や何かの乾くのを待ってたが、それがきれいに乾くとこんどは鏡台の引出しをあけてにせものの金歯を二枚出して犬歯へはめました。すると税務署長がすっかり変ってしまって請負師か何かの大将のやうに見えて来た。それから署長は押し入れからふだん魚釣りに行くときにつかふ古いきうくつな上着を出して着ておまけに乗馬ズボンと長靴をはいた。
そして葉書入れを逆まにしてしばらく古い名刺をしらべてゐたがその中からトケウ乾物商サヘタコキチと書いたやつをえらんでうちかくしへ入れた。独りものの署長のことだから実際こんなことができたのだ。それから帽子をかぶり洋傘を持って外へ出たけれども何と思ったかもう一ぺん長靴をぬいでそれを持って座敷へあがった。古い新聞紙を鏡の前の畳へ敷いて又長靴をはいてちゃんと立って鏡をのぞいてさあもうにかにかにかにかし出した。
村人との対応も見事です。小売酒屋に行くと、村人はすぐぼろを出します。
「どうもせいがきれていけない。一杯くれませんか。えゝ瓶でない方。ううい。いゝ酒ですね。何て云ひます。」「北の輝です。」「これはいゝ酒だ。ここへ来てこんな酒を呑まうと思はなかった。どこで売ります。」「私のとこでおろしもしますよ。」「はあ、しかし町で買った方が安いでせう。」「そうでもありません。」……
組合の事務所へ行くと
「どうでせうね。わたしあ東京の乾物屋なんだが貸しの代りに酒をたくさんとったのがあるんだがどうでせう。椎蕈ととり代えるのを承知下さらないでせうかね。安くしますが。」「さあだめだろう。酒はこっちにもあるんだから。」「町から買ふんでせう。」「いゝや。」「どこかに酒屋があるんですか。」「酒屋ってわけぢゃない。」 さあ署長はどきっとしました。「どこですか。」「どこって、組合とはまた別だからね。」若者はぴたっと口をつぐんでしまひました。さあ税務署長はまるで踊りあがるやうな気がした。もうたゞ一息だ。少くとも月一石づつつくってあちこち四五升づつ売ってゐるやつがある。今日中にはきっとつかまへてしまふぞ。……
「どこね、会社へかね。」会社、さあ大変だと署長は思った。
「ああ会社だよ。会社は椎蕈山とはちかいんだろう。」
「ちがふよ。椎蕈山こっちだし会社ならこっちだ。」
「会社まで何里あるね。」「一里だよ。」「どうだろう。会社から毎日荷馬車の便りがある だろうか。」「三日に一度ぐらいだよ。」
署長は密造を確信して山を踏み分けて行きます。そこでは
どこかで蜂か何かがぶうぶう鳴り風はかれ草や松やにのいゝ匂を運んで来た。
ちょっとふりかへって見るとユグチュユモトの村は平和にきれいに横たわりそのずう
っと向うには河が銀の帯になって流れその岸にはハーナムキヤの町の赤い煙突も見えた。
署長はちょっとの間濁密をさがすなんてことをいやになってしまった、
枯れ草や松やにの豊かな匂いを運ぶ風があり、自然の前で、濁密の摘発など小さなことに思えてしまう署長には、作者の思いが色濃く伝わり、この作品を、ただ面白いだけでない展開を感じさせるものにしています。
密造酒の工場と、出来た酒を荷馬車に積んで松の枝で隠し出発するのを見つけ、「
風のやうに三角山のてっぺんから小屋をめがけてかけおり」ます
。証拠をつかもうと工場に忍び込みますが捕まって、「
まるで風のやうにうごいて綱を持って来た」者に署長はくるくるしばられて、」正体がばれてしまいます。その展開をかなりスペースを取って、速いテンポで描き、冒険小説のような筆運びです。素早さを形容する風の比喩が二カ所あります。
いろいろ取引を持ちかけますが、木に吊されてしまいます。なんと、その社長は名誉村長で、監査役が小学校長でした。木に吊された署長は、
おもてへ出て見ると日光は実に暖かくぽかぽか飴色に照っていた。(おれが炭焼がまに入れられて炭化されてもお日さまはやっぱりこんなにきれいに照ってゐるんだなあ。)署長はぽっと夢のやうに考へた。
ここでも
、追うもの追われるもの、すべての立場を超越して、包み込む自然の状況が挿入されます。
五、署長のかん禁
署長が気づいたとき、密造者側が、和解工作を提案してきます。それは、したたかな村人を象徴するものでしたが、署長もその立場を曲げる訳にはいきません。
「……就きましていかゞでございませう。私どもの会社ももうかっきり今日ぎり解散いたしまして酒は全部私の名儀でつくったとして税金も納めます。あなたはお宅まで自働車でお送りいたしますがこの度限り特にご内密にねがいませんでせうか。」
署長はもう勝ったと思った。「いやお語で痛み入ります。私も職務上いろいろいたしましたがお立場はよくわかって居ります。しかしどうも事こゝに至れば到底内密ということはでき兼ねる次第です。もう談がすっかりひろがって居りますからどうしても二三人の犠牲者はいたし方ありますまい。尤も私に関するさまざまのことはこれは決して公にいたしません。まあ罰金だけ納めて下さってそれでいゝやうな訳です。」
その時、警察や税務署の部下たちが駆けつけて、密造者を捕縛、証拠品を確保します。取り締まり側の税務署長、犯人の名誉村長は並んで、ともにクロモジの匂いを感じます。
署長はそらを見あげた。春らしいしめった白い雲が丘の山からぼおっと出てくろもじのにほいが風にふうっと漂って来た。
「ああいゝ匂だな。」署長が云った。
「いゝ匂ですな。」名誉村長が云った。
そして、風はここでもクロモジの匂いを署長にも密造者にも平等に送ってくれるのでした。
この物語の背景について考えます。
1、地理的背景
原稿冒頭のメモ「
かゝとに脉ある村人気質を/軽いユーモアを加へて書く」、「村名等をすっかり東北風のこと」とあり、のちに書き換えの意思があったと思われます。「かゝとに脉ある」は「踵に目がある」―油断ならない―と同義でしょうか。
作中の税務署のある都市「ハーナムキヤ」は花巻市、密造酒の工場のある「ユグチュユモト」は花巻市の西方に広がる旧湯口村、旧湯本村を念頭に置いたと思われます。
ハーナムキヤやユグチュモトを見渡せる、頂上に小さな三角標のある丘は、江釣子森の中腹、観音山近くの通称「裏山」と思われます。
賢治の生家豊沢町から花巻農学校まで1.8q、農学校から旧湯口村役場跡まで西方に5q、湯本村役場跡までは北北西に7q、湯口村から
江釣子森の中腹、観音山の下を経て湯本村まで約7q、デンドウイ属が内偵した、お弔いのあった家のある「ニタナイ」は旧宮野目村似内で湯口村に隣接しています(注1)。
2、東北における密造酒の歴史的背景
東北地方の酒類の自醸自飲の風習は、自給自足経済政策の一環として、旧藩時代から認められていました。しかし明治政府は財源調達の手段として酒造税制を制定し、明治32年1月自家用酒の製造を全面的に禁止しました。政府にとっては財政上の要請による処置でしたが、農民にとっては生活に密着した飲酒生活を根本的に上からの改革で変えられることになりました。
1911(大正9)年仙台税務署監督局制作の『東北六県酒類密造矯正沿革誌』は、密造に対する農民の強い執念と取り締まりの状況が記されます。農民と税務署との駆け引きやだまし合いの様々な事件が新聞を賑わせました。特に大正九年の「鉢屋森山中大密造事件」は「税務署長の冒険」の展開とそっくりといわれます(注2)。
賢治の母方の祖父宮澤善治は、花巻税務署の所得調査員をしていたので、賢治にとっては、祖父の身を案じる気持ちも働き、密造はより身近な問題だったと思われます (注3)。
藤原隆男氏は、「税務署長の冒険」はこのような歴史的背景によって構想されたと指摘しています。(注4)。
童話「ポランの広場」、「雪渡り」、「葡萄水」、詩「酒買船」(「春と修羅第三集」)、一〇九二「藤根禁酒会へ贈る」一九二七、九、一六、(「詩ノート」)、など多くの作品で飲酒については批判的な言葉を残していますが、貧しい生活の中の農民の楽しみの酒を奪い、時には働き手を拘束することになる密造酒摘発には、すべてに賛成ではなかったのではないでしょうか。
3、作品の背景―探偵小説の誕生―
この作品や、設定の似ている「毒もみの好きな署長さん」、「探偵」と言う語の登場する「ペンネンネンネンネンネネムの伝記」、「青木大学士の野宿」が成立したのは、1921(大正10)年から1924(大正13)年と推定されます。
この間、1920(大正9)年、のちに探偵小説隆盛の中心的存在となる雑誌『新青年』(博文館)が創刊されます。
『新青年』には、『冒険世界』の後身として、第一次世界大戦の勝利の結果獲得した海外領土への植民を奨励する国策に添うために、農村の二、三男に向けての情報を発信する目的がありました。編集の森下雨村は、それだけに留まらず、SFや、海外探偵小説の翻訳、スポーツ記事や、懸賞漫画など幅広く載せました。国内の探偵小説のほか、1922(大正11)年新年号別冊「正月探偵名作集」ではコナン・ドイル、モーリス・ルブラン、エドガー・アラン・ポーなどの翻訳と、馬場胡蝶「アラン・ポーの研究」を載せたほか、小阪井不木「科学的研究と探偵小説」で「大都市の生活が科学的であるだけ、それだけ犯罪を行ふには如何にも都合がよい」という理論を展開しました。さらに8月には、小阪井は血液の分析など科学的方法による犯罪解明を説きました。その「都市」と「科学」という二つの要因で、大正時代の探偵小説は成立していきます(注5、6、7)。1923(大正12)年、4月に日本初の本格的探偵小説と言われる江戸川乱歩「一銭銅貨」が掲載され、次第に都会向けの雑誌に変身しました。さらに1923(大正12)の関東大震災とそこからの復興は、都市機能の変化と国民意識の変化をもたらし『新青年』、探偵小説もさらに変化していきます。前記の探偵の登場する作品の時代的背景として日本の探偵小説の誕生があったと言えます(注5)。
『新青年』と賢治との直接の接点は証明されていませんが、1921(大正10年)12月、農学校への就職を決めていた賢治が手に取った、ということも考えられます。村人の言葉など具体的事実から内偵を進める方法はまさに科学的です。署長自らの変装の手順について、作品中の「税務署長のその晩の下宿での仕度ときたら実際
科学的なもんだった。」という言葉は、作者が『新青年』を意識していたのではないかと思わせます。
この作品は、東北が舞台ですが、周辺の農村の農民に対する地方都市ハーナムキヤの官僚という設定があり、さらに中央官庁大蔵省から任命され若くして地方の税務署のトップになった税務署長と地元採用の部下との関係も描かれます。内偵に入る署長に「トケウ乾物商サヘタコキチ」の名刺を持たせるなど、中央から来ている人物であることを暗示させるための細かい配慮がされています。
風はいつも物語の節目で吹きます。それは作者の、密造者の立場(貧しさ、安価な酒への需要、酒による村の憩い)と、摘発をせざるを得ない官吏の立場、双方を思いやる心と、人間の営みなど超越して存在する自然への畏敬の念を表していると思います。
注
1佐々木久春「『税務署長の冒険』考」
(『作品論 宮沢賢治』 双文社出版 1984)146〜150頁
2澤口勝弥「宮沢賢治『税務署長の冒険』―その社会的背景と租税思想―」
(『宮沢賢治研究Annualvol.28』1998 宮沢賢治学会イーハトーブセンター)
150〜157頁
3那珂川裕次郎(酒主邦夫)「密造の話」(『宮沢賢治は社会の諸問題をどう見ていたか』電子書籍2019)
4藤原隆男「自家用酒の製造過程について―密造酒問題の歴史的背景―」
(岩手史学会編『岩手の歴史と風土』)
5大島丈志「「税務署長の冒険」論―「探偵」と「税務署長」をめぐる同時代言説からの考察」
(『文学17−1』 岩波書店2016)105〜109頁
6川崎賢子「大衆文化成立期における〈探偵小説〉ジャンルの変容」
(7『近代日本文化論7 大衆文化とマスメディア』 岩波書店 1999)77〜79頁
7山下武『『新青年』をめぐる作家たち』 筑摩書房 1996 9〜14頁