今年は一関市の「石と賢治のミュージアム」で開かれている小堀博さんの拓版画展『風の刻字・拓版画展』を見せて頂き、種山ケ原をご案内いただける、という夢のようなお話に、思わず飛び込みました。
20年位前、小堀さんの、銀河の中に賢治の佇む版画を拝見したとき、その星空の繊細さ、広い空間の捉え方に魅了され、もし将来、本を出せることがあったら絶対に使わせていただこうと思いました。そして2003年、初めての小著の出版に際しては、念願通り表紙カバーを飾らせていただき、カットにノブドウやサイカチ、ギンドロなどの版画もいただきました。
小堀さんは、複雑な表情を見せる樹木の表皮を拓本によって写し取り、独特の味わいのある画面を作ります。それは本体の表紙に使わせていただきました。さらに2011年の2冊目の時には、柏林の写真の反転した画像をいただき独特の風情となりました。
今回の展覧会には、「山男」小堀さんの思いを込めた、早池峰山や岩手山を彫り上げたもの、またもう一つの分野「刻字」は文字による風の表現です。 その他、賢治の字体を写し取った「どっどど どどうど」、これは文字によって、風の音を表しています。
栗原俊明さんの「よだかの星」彫刻碑を彫りあげた作品は、栗原さんへの敬意を込めた「よだか」の鋭い飛翔線が印象に残ります。
「風の刻字」のとおり、小堀さんの深い感性が一つ一つの絵それぞれに風を捉えて、賢治の風でありながら、小堀さんの風になりました。
館長さんに砕石工場跡をご案内いただきました。
東北砕石工場跡は公開に向けての工事が9月中旬に始まるとのことでした。幸運にも、その直前、昔のままの内部を見せて頂きました。山際の木造の工場の外観はとても瀟洒です。内部には、かつては最新式であったであろう砕石機などが厳然としてありました。
賢治の在籍当時は、上部の山の表面から堀り進んでいたとのことで、賢治が実際に砕石の袋詰作業を手伝った場所に昇る「賢治さんの階段」がありました。
賢治は新しい仕事を得て、技師という立場ながら工員の人たちと親しくなるために一緒に仕事をしていたと考えられます。自分のために準備されたうどんを食べずに 帰った後に工員の皆が食べられるようにしたり、訪問の都度タオルなどのお土産を持参したりして、その配慮は賢治が病に倒れた後も工員の心にきちんと残っていたようです。
解体されてしまっていたら誰も見ることの出来なかった賢治の足跡の残る工場を、保存されてきた旧東山町の皆さんをはじめとする関係者の方々には敬意を表します。
双思堂文庫の、鈴木氏の蔵書を中心に見せていただきました。主に東蔵氏のご子息、實氏のご蔵書で、哲学、社会学、歴史、文学などの叢書、全集が揃っています。 實氏(1916〜2000)は、父上東蔵氏の思いを引き継ぎ、戦後間もない時期に青年たちとともに、賢治の作品を読む学習会を、長坂村(現在一関市東山町長坂)で行い、その活動が発展する形で、1948年、現在の
東山町新山公園に、谷川徹三氏揮毫の、「農民芸術概論綱要」の一節「まずもろともに宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」を刻んだ碑が建てられました。
實氏は詩碑建立時、長坂青年学校の講師で、そののち岩手県内で中学校・高等学校の教師を歴任、自らが校長を務めた陸前高田市の高田高校、遠野市の遠野高校、花巻市の花巻北高校で宮澤賢治の詩碑建立に尽力されました。この地に賢治の足跡を今もたどることが出来るのは氏のご功績に他なりません。
その後、東山町新山公園の詩碑を見学することが出来ました。
堂々とした稲井石に骨太の文字で刻まれ、日本で二番目に古い石碑でありながら、周囲もきちんと手入れがされ、大切に守ってきた方々の思いが覗われます。
種山高原「星座の森」には、よく手入れされたキャンプ場とコテージが並んでいて、コテージは、清潔で広い寝室とキッチンとシャワーを備えていました。センターハウスには湯量の豊かな薬湯もあり、快適な夜を過ごさせていただきました。昔々の登山、ハイキング経験しか無い私には夢のような場所でした。
夜、それまで曇りがちだった空が一瞬にして晴れました。
無数の星が煌めいて、北斗七星、カシオペアがやっと識別で来るくらい、何十年ぶりかで銀河も見ることが出来ました。
必死になって、銀河を渡るハクチョウを探し、織り姫、彦星を探すのが精一杯、なぜもっと知識を仕入れてこなかったのか悔やまれました。こんな見事な星空は、恐らく、これからも見ることはないでしょう。
空はなんとも表現できない深い色で、あの星の近くにも風が吹いているのでしょうか。これが賢治の見ていた星空だったのか、知らずに作品を読んでいたことを恥じました。
翌日も晴天でした。
ほのかな夜明けの光のなか、朝露に濡れたミズナラ、カツラ、コブシ、その他たくさんの自然のままの木々に囲まれて、広場が拡がっています。
中央に「風の又三郎」像が、マントを翻らせています。この像は、1996年「江刺賢治の会」の建立で、制作者は中村晋也氏です。中村氏は京都、薬師寺の西塔内部の釈迦八相、十大弟子像を制作された方で、京都市、京セラ広場にもここと同じ「風の又三郎」像があるそうです。
以前訪ねたときは、霧で周辺が見えず、間近で見た「又三郎の像」は何か不自然に見えましたが、風景の中に遠望すると、この像は「又三郎」の出現に見えました。やはり又三郎は広い空間と風の中にいるものなのでしょう。
物見山も晴天で、360度視界が広がり、もう少し晴れていれば岩手山、早池峰山までも見ることが出来たそうです。
風に吹かれ移動する雲の影が高原に映って動きます。雲も大きくそれを映す高原も広いのです。
かぐはしい南の風は
かげろふと青い
雲滃を載せて
なだらのくさをすべって行けば(「七五 北上山地の春」一九二四、四、二〇、「春と修羅第二集」)
こちらの背景は外山高原ですが、その風景を初めて実感できました。〈
雲滃〉は、この詩以外では
Largoや青い雲滃(かげ)やながれ くゎりんの花もぼそぼそ暗く燃えたつころ
延びあがるものあやしく曲り惑むもの
あるいは青い蘿をまとふもの
風が苗代の緑の氈と
はんの木の葉にささやけば (〔
Largoや青い雲滃(かげ)やながれ〕 一九二五、五、三一、「春と修羅第二集」)
に使われ、同じように風の流れの中で雲を描きます。こちらは音楽用語〈Largo〉(きわめて遅くゆったりと)を使って感覚的に風景を表そうとしています。〈雲滃〉という言葉に以前から惹かれた理由は、いつもこの大きな風景と風ともに使われてきたからだったのでした。
ヤマナシがまだ小さな果実を沢山つけて元気でした。ツリガネニンジンも風に吹かれて震え、ときどきウメバチソウが、〈そっこり〉と顔を覗かせていました。
昨夜からの風景は、賢治が体験したであろう世界をつぶさに見せてくれました。この自然と体験があったからこそ、賢治は、膨大で宇宙に繋がる世界観を持つ作品を書き続けることが出来たのではないかと思いました。
その後、「牧歌」の詩碑のある奥州市江刺区米里立石に行きました。
詩碑は1962年、種山高原観光協会によって建立されました。賢治碑のうち、唯一露岩に銅板をはめこんだ碑です。
碑に刻まれた「牧歌」は、賢治が農学校教師時代に、生徒たちと上演するために書き下ろした劇「種山ヶ原の夜」のなかの樹霊たちの歌で、作曲も賢治です。単純な詩句とメロデイの繰りかえしの中に、夜の種山ヶ原の不思議な世界を、方言も交えて表します。戯曲のことを知る前も、何か温かいものが感じられて、私は賢治の歌曲の中で一番好きでした。
詩碑の場所は、通称「立石」という大きな岩がそびえています。北上山地のあちこちにあるこのような岩は、高い山脈だった北上山地が長い年月をかけて侵食されて準平原になっていく過程で、蛇紋岩のように硬い岩は浸食を受けずに取り残され、賢治が多くの作品にも詠み込んだ、「残丘(モナドノック)」という地学現象です。
ここは牧野を登り詰めた場所にあり、広場の周囲には林が拡がって目立つものはこの岩ばかりで、周囲からは隔絶されている場所です。
20年以上前、初めてここを訪れたときは、岩の向こう側に切り立った崖が落ち込んでいて、遙か下に小さく三、四軒の集落がありました。「風の又三郎」で、子供たちは、あの集落から放牧に来て、嘉吉が迷い、「向こふさ降りだら馬も人もそれっ切りだったぞ」と言われたのはこんな場所か、と想像した覚えがあります。この地を選んで碑を建てた方々の賢治へ思いの深さには驚かされます。
今は樹木が茂って谷は見えなくなっていましたが、刈った草も忘れてしまうほどの広い牧野と風は同じでした。
賢治は
1924年3月24日、雪の降る五輪峠を歩いて越え、人首で一泊して、よく25日には水沢の緯度観測所を訪ね、五輪峠詩群五篇、「一四 〔湧水(みづ)を呑舞うとして〕「一六 五輪峠」、「一七 丘陵地を過ぎる」、「一八 人首町」、「一九 晴天恣意(「春と修羅第二集」)を残しました。 今回は、賢治とは逆に廻って、人首から五輪峠へ出ました。
途中で、旧木細工中学校跡地へ寄りました。ここは1989年の映画「風の又三郎 ガラスのマント」のロケ地でした。もとは
木細工分教場があり、伊手の口沢分教場とともに、「風の又三郎」の学校のモデルと言われてきたそうです。
木細工分教場が新築されたのは明治15年、大正年間には、周辺は栗木鉄山の創業や盛街道からの往来で賑わいを見せていたそうです。
教室には木製の机も並べられ児童画なども貼られ、イベントなどに活用されている模様です。
街道沿いにはカトリック教会、正ハリトリス教会跡など沢山の遺跡があり当時の文化を思わせます。
「人首町」の詩碑は、奥州市江刺区米里壇ヶ岡「久須師神社」境内にあり、2016年、詩碑建立委員会によって建立されました。詩「人首町(下書稿(一))」で、〈……丘には杉の杜もあれば/赤い小さな鳥居もある……〉と書いた鳥居がこの神社の鳥居であることからここに建てられました。
人首の菊慶旅館を訪ねました。東日本大震災以後休業中で、改築されているという情報があり心配だったのですが、工事中ながら、外壁や玄関、二階への階段も残っていて、二階に並んでいた客室の様子も想像できました。
菊慶旅館は、明和3(1766)年に開かれたこの場所に、この名前で四代続く老舗旅館です。馬繋場が隣接していて、馬を連れて泊まれたことなどから、明治後期から大正〜昭和にかけて最も繁盛し、時の大津県知事が十数人の随行者と共に投宿するほどでした。盛街道など二つの主要街道の分岐点としての位置から、必要不可欠な存在だったのでしょう。
賢治は少なくとも2回宿泊しています。
1917年9月3日盛岡高等農林学校3年の時、江刺郡土性調査のために訪れ、ここから出された書簡40、保阪嘉内宛が残っているほか、書簡54、同級生佐々木又治宛には当時を懐かしく思い出した「人首ノお医者サン」の文面があります。生徒の誰かが体調を崩し診察を受けたのが、当時唯一の医院「角南医院」だったことも推測され、跡地に説明板が残っています。
1924年3月25日の日付の詩「一八 人首町」は、
雪や雑木にあさひがふり
丘のはざまのいっぽん町は
あさましいまでに光ってゐる
そのうしろにはのっそり白い五輪峠……
菊慶旅館からの眺めと推定できることから、24日夜はここに宿泊したと思われます。
五輪峠は、奥州市江刺区・遠野市・花巻市東和町の境界、標高556mで、周辺に東和町田瀬町営五輪牧野があります。
五輪塔は、下から方形・円形・三角形・半月形・団形を積んで、地輪、水輪、火輪、風輪、空輪という仏教的な元素論、世界を構成する五大要素を表します。「一六 五輪峠」では
……前略……
なかにしょんぼり立つものは
まさしく古い五輪の塔だ
あゝこゝは
五輪の塔があるために
五輪峠といふんだな
ぼくはまた
峠がみんなで五っつあって
地輪峠水輪峠空輪峠といふのだろうと
たった今まで思っていた
……中略……
このわけ方はいゝんだな
物質全部を電子に帰し
電子を真空異相といへば
いまとすこしもかわらない……
と初めて五輪峠の由来を知りました。そして藩政時代に戦死した武将の霊を弔うために建てられた五輪の塔と、「五輪」の考え方が賢治の時代の電子論と変わりないことを合わせて考えています。
そして、賢治が見た
……いま前に展く暗いものは
まさしく北上の平野である
薄墨いろの雲につらなり……
は、晴天のもとに、明るく光って、遙かに望むことが出来ました。
小さな側碑には「文化十二年亥卯月」とあり、これは賢治が見た五輪塔の建てられた時のものだと思います。 近くの説明版によると、賢治の見た五輪塔は、少し離れた藩境にあった、とありましたが、この立派な五輪塔の正確な建立の日付は見つかりませんでした。
五輪塔と並んで黒御影石に「一六 五輪峠」を文語詩化した「五輪峠」が刻まれた詩碑があります。1980年、五輪牧野記念碑建立委員会が、牧野の完成を記念して建立しました。古くから続く牧畜事業の発展の節目に想起される賢治、やはりここはイーハトーブなのだと思いました。
旅の終わりには、イーハトーブ館に寄りました。
8月3日、4日に開かれた、宮沢賢治学会イーハトーブセンター夏季セミナー「宮沢賢治と「西域」と仏教」関連の展示がありました。ここにも賢治の感じた西域の風が吹いていました。セミナーには出席できなかったので、幸運でした。また事務局のご厚意で資料もいただくことが出来ました。
今年は、9月の賢治祭関連の行事には出席できないかも知れないので、その時にいつも買う『賢治学』の最新号と、前から欲しいと思っていた富山英俊氏の『挽歌と反語』を買い、これから拡がる知識の風を予感しながら帰路につきました。
かけがえのないイーハトーブの二日間、企画ご案内下さった小堀さん、お世話に下さった奥様、豊田さん有難うございました。
またこの文を書くに当り、「石と賢治のミュージアム」の菅原様には沢山ご教示いただきました。また以下のHPを参考にさせていただきました。記してお礼申し上げます。
浜垣誠司氏HP「宮沢賢治の詩の世界」
賢治街道を歩く会HP