宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
永野川2025年2月下旬
27日 10:00〜12:30 晴13℃
 暖かくなってきました。
 上人橋から赤津川へ入ります。
 合流点には、カルガモ、カワウ、ハクセキレイ、コガモ、ヒドリガモと多様です。
 加えて、ハクセキレイと抗うようにタヒバリ2羽が移動していました。
 
 赤津川に入って、まず今季初、ヒバリのさえずりに驚きました。一昨日までの寒さに滅入っていた身には、明るい光が差したようです。3か所で聞こえました。
 トビが低空を旋回していました。動き出した獲物を狙っているのでしょうか。
 陶器瓦店手前で、マガモが突然という感じで現れました。♀2羽、♂3羽、存在感のある色彩です。
 土手で、ここでは珍しいウグイスの地鳴きを聞きました。
 カワラヒワが、瓦廃工場の樹木に、1羽、7羽、5羽、と集まってきました。
 田の畔に鳥影、立加減の姿勢、ツグミです。12月中旬以来見ていませんでした。2羽が少し離れた状態で歩いています。北に帰ってしまう前に会えて嬉しいことでした。
 
 ツグミは滝沢ハムの林でも1羽みつけました、この近くに集まっているようです。
 池にはオカヨシガモが8羽、はっきり♂4羽、♀4羽と確認できました。
 サクラ並木に少し小さめのモズを確認。小さかったので他の鳥かと思ったのですが、長い尾を回す姿はモズ、過眼線もなく、かわいい瞳、幼鳥でしょうか。少し離れたところに、♀のモズが1羽いました。あるいは親鳥かもしれません。
 
 大岩橋の上でもトビが旋回していました。
 川辺ににはアオサギ1羽、これは成鳥でしたが、少し上には違う模様の若鳥が見えました。
 大砂橋近くの林縁で、鳥が移動していました。双眼鏡で何とか捉え、カシラダカでした。きっと以前からここにはいたのでしょう。今日は6羽確認できました。
 大岩橋近くの河川敷林で、コゲラの声、同時にエナガ3羽とシジュウカラ3羽確認しました。
 
 公園ではハクセキレイが1羽のみでした。
 渇水期で公園の川には全く水が無くなってしまっていて、水鳥は住めないし、他の鳥も来ないようです。岸の樹木にカワラヒワが8羽いて少し救われます。
 少し離れた滝沢ハム工場付近でハシブトカラス5羽が鳴きながら旋回していました。
 
 公園の池にはやはりヒドリガモがたくさん、さらなる珍客はいませんでした。
 
 上人橋から下ると、やっとセグロセキレイのさえずりを2か所で聞きました。
 マガモが2か所で2羽ずつ、ダイサギ、イカルチドリも集まってきました。
 ここも水が極端に少なくなりました。
 
 北に向かって自転車を走らせていると、いつも、真っ青な空に雪で飾られた男体山が立ちはだかって、見るだけで寒さが増すのですが、今日は幾分霞んで全体柔らかいブルーの景色でした。
 来週は再び寒さが来ると言われますが、少しずつ春が近づくのでしょう。鳥との別れも近づきます。
 
カワウ: 合流点1羽、公園西池1羽、永野川1羽、1羽、計4羽。
カルガモ:合流点7羽、赤津川2羽、3羽、公園東池17羽、
 西池2羽、永野川2羽、計33羽。
ヒドリガモ:合流点2羽、公園西池66羽、東池72羽、計140羽。
コガモ:合流点2羽、赤津川8羽、公園西池7羽、東池17羽、
 計33羽。
オカヨシガモ: 滝沢ハム池8羽。
マガモ: 赤津川、♂3♀2、永野川二杉橋上中州2羽、1羽1羽、
 計9羽。
ダイサギ:合流点1羽、永野川二杉橋〜上人橋1羽、赤津川1羽、
 計3羽。
 アオサギ:大岩橋上永野川1羽。1羽、永野川1羽1羽、計4羽。
イカルチドリ:二杉橋上中州1羽。
トビ: 赤津川上空1羽、大岩橋上空1羽、計2羽。
モズ:滝沢ハム林幼鳥1、♀1、大岩橋付近林1羽、計3羽。
コゲラ:大岩橋河川敷林1羽。
スズメ:赤津川岸草むら5羽。
ハシボソカラス:赤津川1羽。
ハシブトカラス: 滝沢ハム付近5羽。
ヒバリ: 赤津川田3か所で囀り。
ヒヨドリ:滝沢ハム林7羽。
ウグイス: 赤津川、川岸で1羽。
セグロセキレイ:永野川二杉橋〜睦橋1羽囀り、1羽、計2羽。
ハクセキレイ:合流点1羽、赤津川1羽、公園川で1羽、計3羽。
タヒバリ: 合流点2羽。
カワラヒワ:赤津川1羽、7羽、5羽、公園8羽、
 大岩橋河川敷林3羽、計24羽。
シジュウカラ:大岩橋河川敷林3羽。
エナガ:。大岩橋河川敷林3羽。
ツグミ: 赤津川田で2羽、公園1羽、公園池ほとり1羽、計4羽。
カシラダカ: 大砂橋付近山林で6羽。

 







永野川2025年月2中旬
16日 9:30〜12:00 晴 8℃
 
 風が少しありましたが暖かな日でした。
 睦橋から永野川に出て下りました。
 セグロセキレイが2か所で囀っていました。もう季節が変わっていくようです。
 途中でコサギが1羽、こちらも夏羽、頭部に飾り羽が出ていました。
二杉橋近くの中州にカモの一団が見えました。皆寝ていましたが、オナガガモの首の特徴が見えました。♂♀含めて11羽、ここでは23年2月以来見ていませんでした。
 イカルチドリが1羽飛来しました。
 公園の池ではヒドリガモが多く、コガモも意外と多く見られます。
 オカヨシガモのペアが何とか見えました。カモに混じってカイツブリが潜水していました。
 縁のサクラにスズメが2羽、2羽、モズ単独で2羽、ここは水鳥以外も集まる場所なのでしょう。
 公園のエノキでシジュウカラが3羽、1羽、1羽、1羽とバラバラに、草むらではウグイスまだ地鳴きでした。
 草むらの鳥を探していたら、一瞬カワセミが飛び出して移動していきました。多様な鳥がいる場所なのです。
 
 大砂橋付近は鳥の気配がなく、セグロセキレイが1羽がここでも囀っていました。
 アオサギが羽を広げて下って行きました。大きさを実感します。
 
 滝沢ハムのクヌギ林で、コゲラの声のみで姿は見つかりませんでした。
 林ではキジバト2羽、芝生にハシボソカラスが3羽。ムクドリが8羽飛びだしました。
 サクラ並木にカワラヒワがサクラに5羽群れていました。
 
 赤津川に入るとカルガモが18羽、17羽、12羽、この数はここでは珍しく、ヒドリガモも珍しく8羽混じっていました。コガモがここでも元気で10羽、カイツブリも1羽混じっていました。
 ハクセキレイが川から飛び立ちました。
 
 合流点では、ここでもコガモが5羽いました。コガモが活動範囲を広げている感じがします。
 電線にカワラヒワが1羽、一瞬ですが囀りに似た声で鳴きました。
 
 寒さの中、ひと時の暖かさに鳥たちは囀り始めるのでしょうか。
 オオイヌノフグリが草むらで咲き始めました。このさわやかな青にはいつも目を見張り心が動かされます。でもこの名を付けられた不幸を感じます。ちなみに私の幼少時、田舎では「フタゴダマ」と言っていました。
 公園の早咲きの紅梅が色づき始め、5分咲というところでしょうか。
 今日は、もう春の気配ですが、近く気温が下がるという予報です。どうか皆張って生きてほしいものです。
 
カイツブリ:公園東池1羽、赤津川1羽、計2羽。
キジバト:公園1羽、滝沢ハム林2羽、計3羽。
カルガモ:二杉橋上中州7羽、公園東池17羽、西池8羽、
 赤津川18羽、17羽、12羽、計79羽
ヒドリガモ:公園東池32羽、西池62羽、赤津川2羽、6羽、
 計102羽。
コガモ:公園東池30羽、西池16羽、赤津川10羽、5羽、
 合流点5羽、計56羽。
オカヨシガモ: 公園西池2羽。
オナガガモ:二杉橋上中州12羽。
マガモ: 二杉橋上中州4羽。
ダイサギ:永野川二杉橋〜上人橋1羽、1羽、公園1羽、
 大砂橋付近1羽、滝沢ハム池1羽、合流点1羽、計6羽。
コサギ:永野川睦橋付近1羽。
アオサギ:合流点1羽、滝沢ハム池1羽、計2羽。
イカルチドリ:二杉橋上中州1羽。
モズ: 公園池2羽、大岩橋河川敷林1羽、計3羽。
カワセミ:公園川1羽。
コゲラ: 滝沢ハムクヌギ林1羽。
スズメ:公園西池2羽、公園芝生10羽、計12羽。
ムクドリ:滝沢ハム林8羽、赤津川1羽、計9羽。
ハシボソカラス:滝沢ハム林3羽。
ハシブトカラス: 公園池2羽。
ヒヨドリ:公園1羽。
ウグイス: 公園1羽。
セグロセキレイ:永野川二杉橋〜睦橋1羽、1羽、1羽、公園1羽、
 大砂橋付近1羽囀り、赤津川1羽、計6羽。
ハクセキレイ:赤津川1羽。
カワラヒワ:滝沢ハム林5羽、合流点電線に1羽囀り、計6羽。
シジュウカラ:公園サクラ並木3羽、1羽、1羽、計6羽。

 







永野川2025年2月上旬
10日 9:30〜12:00

 典型的な冬型の気圧配置で強風が数日続き、やっと上旬ぎりぎりで出かけることができました。
 合流点から赤津川に向かいます。
 中州でアオサギの色をしているけれど全く動かない物体を発見、双眼鏡に入れるとやはりアオサギ、羽を広げて乾かしている様子でずっと同じ姿勢でした。
 少し離れた場所で、セグロセキレイ、ハクセキレイ、カルガモ、カイツブリ、少し離れた上流にダイサギ、ヒドリガモと、にぎやかでした。  
 キジバトが珍しく歩道の前を歩いていました。

 赤津川にカルガモがペア二組と♂1羽、日光で頭部の色が違う場面を実感しました。
 カイツブリがここでも2羽、カイツブリが増えている感があります。  
 コガモ1羽、迷ったように漂っていました。
 いつもここでは見かけないカワラヒワ7羽の群れがありました。
 
 滝沢ハムの林に、大きめの鳥影5羽、よく見るとキジバトでした。キジバトを群れで見るのはこの探鳥地では珍しいことです。
 どこかで嘴を鳴らす音が聞こえ、少し大きめなので、アカゲラ?と思ったのですが幹をたたく音とは少し違っています。探しているとハシボソカラスが目につきました。よく見ると口を開けたり閉じたりしていて、音源はそこでした。ずっと移動せず、のんびりした様子です。初めての発見ででした。ネットで検索すると、普通は威嚇するためだそうで、そこでも周囲に敵もなく、音を出す練習をしているのか?とありました。
 
 滝沢ハムの池には、なんとオカヨシガモ11羽が来ていました。特徴的なくちばしの♀は1羽のみですが、少しずつ違う色のものもいて、オスのエクリプスも含まれていたのかと思い学習が必要です。
 先回もいたコサギも1羽、ここは水田と隣り合わせの工場なので、市街地とも水田ともいえそうです。
 
 大岩橋の河川敷でスズメ17羽の群れ、河川敷林ではカワラヒワの群れ、キジ、カケスの声がして上空をトビが1羽舞っていました。
 
 公園の川では、セグロセキレイに混じってタヒバリが1羽、今季2回目、定着してくれると嬉しいのですが。
 公園の川の対岸の樹木にマヒワ10羽がまた来ていました。確かにカワラヒワではない、胸の黄色が鮮やかで脇の羽の模様が派手です。今年は珍しいという話なので、慎重に見てみるのですが、確かにマヒワだと思います。
 公園の樹木で、シジュウカラと混じってエナガ9羽、まだ混群を解いていない様子です。
 公園の草むらは、鳥たちが潜んでいる様子ですが、相変わらず見えません。一瞬ですが、暗緑色の鳥影が3羽、アオジのようです。
 
 公園の西池はカモが増えました。
 コガモが陸に上がっていて16羽、水に入っているもの6羽、ヒドリガモが圧倒的に多数です。
 
 永野川は東岸だけを見ました。
セグロセキレイ、カイツブリ、ダイサギ、カルガモ、とともにここにもマガモが2羽来ていました。
 決して暖かくはない日でしたが、鳥は頑張っていました。豊かではない環境ですが、鳥たちが来てくれることはほんとうに有難いことです。できれば環境を整えて迎えたいと思います。
 
キジ: 大岩橋河川敷林 1羽。
カイツブリ:合流点2羽、赤津川1羽、1羽、永野川睦橋付近1羽、
 計5羽。
キジバト:合流点1羽、 滝沢ハム林5羽、大岩橋河川敷林1羽、計7羽
カルガモ:合流点10羽、赤津川10羽、4羽、公園池西5羽、
 東17羽、永野川24羽、計70羽。
ヒドリガモ:公園西池80羽、東池38羽、計118羽。
コガモ:赤津川1羽、公園西池23羽、計24羽。
オカヨシガモ:滝沢ハム池11羽。
マガモ: 赤津川4羽、1羽、滝沢ハム池2羽、計7羽。
ダイサギ:合流点2羽、永野川1羽、1羽、大砂橋付近1羽、計6羽。
コサギ:滝沢ハム池1羽。
アオサギ:合流点1羽、滝沢ハム池1羽、計2羽。
トビ: 大岩橋河川敷上空1羽。
スズメ:大岩橋河川敷17羽。
ムクドリ:赤津川1羽、公園6羽、計7羽。
ハシボソカラス:滝沢ハム林2羽、1羽、計3羽。
カケス:大岩橋付近山林1羽。
ヒヨドリ:公園7羽。
ウグイス: 公園1羽。
セグロセキレイ:合流点3羽、公園1羽、永野川1羽、計5羽。
ハクセキレイ:合流点2羽、公園川 3羽、計5羽。
タヒバリ:公園川1羽。
カワラヒワ:赤津川7羽、大岩橋河川敷林15羽、5羽、3羽、
 計30羽。
マヒワ:公園の樹木に10羽。
シジュウカラ: 滝沢ハム林2羽、大岩橋河川敷林3羽、公園の樹木に
 10羽、計15羽。
エナガ: 公園樹木9羽。
アオジ: 公園川の草むら3羽。

 
 
 







外山紀行における風の特性―なぜ外山の風は香り、そして見えたか。
一、外山詩群の背景
 賢治は、1924年4月19日から20日にかけ、盛岡から徒歩で外山に向かい外山詩群を残した。外山詩群で『新校本宮沢賢治全集』に定稿として取り上げた作品は

 
六九 〔どろの木の下から〕 一九二四、四、一九、(下書稿(二)手入れ)
一七一〔いま来た角に〕一九二四、四、一九(下書稿(四)手入れ
七三 有明 一九二四、四、二〇 (下書稿(三))
七四〔東の空ははやくも蜜の色に燃え〕 一九二四、四、二十、(下書稿(二)手入れ)
七五 北上山地の春 一九二四、四、二〇、(下書稿(三)手入れ

以上「春と修羅第二集」
 
である。
そこからの発展作品として
〔どろの木の根もとで〕(下書稿手入れ)
〔あけがたになり〕(定稿手入れ)
種馬検査日(下書稿手入れ)
以上「春と修羅 第二集補遺」
牧馬地方の春の歌(下書稿)(「補遺詩篇 I 」)

 
がある。
 ここでは、上記五作品の背景を追う。発展形において表現上のかかわりがあるものについてはその後に言及する。
 賢治はトシの死の悲しみから立ち上がり、まだ農村の凶作にも遭っていない、健康にも恵まれた、明るい時代であったといえる。花巻農学校教師という安定した職業を持ち、のちに「その四ケ年がわたくしにどんなに楽しかったか/わたくしは毎日を/鳥のやうに教室でうたってくらした/誓って云ふが/わたくしはこの仕事で/疲れをおぼえたことはない」(「詩ノート付録」「生徒諸君に寄せる」)と述べた期間である。
 4月20日付で第一詩集心象スケッチ『春と修羅』が刊行される予定で、その成否はとにかく、達成感もいっぱいであったろう。 
 様々に繰り出される、「風」は飛躍に満ちている。以前、一つ一つの形容などを取り出して視覚、聴覚との関わりなどを考えてみたが(注1)、この時代になぜ、様々な形容の風が賢治に現れたか考えてみたい。
 まず一作ずつ読み、それが賢治にとっていかなる時を形作るのか、考えてみる。
 
 賢治は4月20日に藪塚の種馬検査所(現外山種畜場)で開かれる、「種馬検査」を見学するために出かけた。種馬検査は優秀な種馬は高く買い上げられるため、周辺の馬産農家にとって誉れの場所である『岩手縣種畜場 自大正十三年一月至る同年十二月 業務功程報告』には
 
第六 種付 一牝馬検査ノ状況 イ牝馬検査場及期日」
「岩手縣外山種畜場  四月二十日 岩手郡 薮川村、玉山村、米内村

 
の項目があり、賢治の詩の場面を裏付ける。
 この情報は『岩手日報』大正十三年三月七日」や『岩手毎日』三月八日」に載っていることで賢治は情報を得て、農学校の教師としてあるいは研究者としてこの時この場を訪ねたのであろう(注2)。
 さらに、外山御料牧場は獣医科の実習地だった関係で、たびたび訪れ、すでに強い印象を持ち、1915(大正4年)短歌A,B231,232を残している。
 1902年からあった滝沢村にあった岩手県種畜場が、1922(大正11)に外山御料牧場が県に移管されたのを機に1923年からここに移転する。
 種畜場は品種改良のセンターで、賢治は、その現場を学ぶため、滝沢村当時から続けて頻繁に通っていた。ここで行われる種馬検査で飼馬が優良馬の子孫を残す資格を得れば農家は将来を保証される、希望の象徴の場である(注3)。
 賢治のたどったのは、盛岡から外山を経て太平洋岸の小本へ向かう旧小本街道で、沢沿いの山道を、大堂→下小浜→上小浜さらに外山―一の渡―南―外山―大の平―葉水―蛇塚とたどっている。
 『盛岡測候所 大正十三年気象月報原簿』の記述には
 
大正13年4月19日
19日快晴 夜の11時ころから曇
19日夜は満月
19日快晴夜11時ころから曇り午前3時4時、晴れ、曇り、月は見えかくれする。
20日午前3時晴 午前4時曇晴 7時以降晴
 
があり、賢治は月明かりの中、林の中を歩いていたことが証明できる。
 
〔どろの木の下から〕
                   一九二四、四、一九、
 
どろの木の下から
いきなり水をけたてゝ
月光のなかへはねあがったので
狐かと思ったら
例の原始の水きねだった
横に小さな小屋もある
粟か何かを搗くのだらう
水はたうたうと落ち
ぼそぼそ青い火を噴いて
きねはだんだん下りてゐる
水を落してまたはねあがる
きねといふより一つの舟だ
舟といふより一つのさじだ
ぼろぼろ青くまたやってゐる
どこかで鈴が鳴ってゐる
丘も峠もひっそりとして
そこらの草は
ねむさもやはらかさもすっかり鳥のこゝろもち
ひるなら羊歯のやはらかな芽や
桜草も咲いてゐたらう
みちの左の栗の林で囲まれた
蒼鉛いろの影の中に
鍵なりをした巨きな家が一軒黒く建ってゐる
鈴は睡った馬の胸に吊され
呼吸につれてふるえるのだ
きっと馬は足を折って
蓐草の上にかんばしく睡ってゐる
わたくしもまたねむりたい
どこかで鈴とおんなじに啼く鳥がある
たとへばそれは青くおぼろな保護色だ
向ふの丘の影の方でも啼いてゐる
それからいくつもの月夜の峯を越えた遠くでは
風のやうに峡流も鳴る

 
 六九〔どろの木の下から〕一九二四、四、一九、では、作者は林の中を歩く。思いがけず、民家の跡地に残された、水力で穀物を搗くための古い「水きね」があり、一定のリズムを刻む。昼間には見られたサクラソウを想像しそこで眠ることを願う。
 いろいろ想像しているうち、眠気に襲われる。近くの曲り屋では馬が飼われていて、胸の鈴の音などが聞こえる。馬も眠っているらしい。
盛岡を見渡せる場所に着く。はるか彼方に渓流もあるようだ。「風」は渓流に例えられ、「風のやうに」途切れず、さらさらと鳴っている。
 下書稿二で最後に次の3行を加えるがまた削除している
 
盛岡の方でかすかに犬が啼いている
わたくしはそこに急いで帰って行って
誰かひとりのやさしい人とねむりたい

 
 ここに消された感情は、秘めた思いか、あるいは賢治その場を設定しようとして作った場面か、不明だが、それがのちに続く表現につながっていくものかどうかを観察していこう。
 
 ここでは、渓流はなぜ「風にやうに」鳴ると捉えられるのか。林の中は風の吹き抜ける場所ではなく、賢治はじっと風を待ちながら、渓流の音に風を聞いたのであろうか。のちに考察しよう。
 
 〔一七一〕
     〔いま来た角に〕
                   一九二四、四、一九、
 
 
いま来た角に
二本の白楊が立ってゐる
雄花の紐をひっそり垂れて
青い氷雲にうかんでゐる
そのくらがりの遠くの町で
床屋の鏡がたゞ青ざめて静まるころ
芝居の小屋が塵を沈めて落ちつくころ
帽子の影がさういふふうだ
シャープ鉛筆 月印
紫蘇のかほりの青じろい風
がれ草が変にくらくて
水銀いろの小流れは
蒔絵のやうに走ってゐるし
そのいちいちの曲り目には
藪もぼんやりけむってゐる
一梃の銀の手斧が
水のなかだかまぶたのなかだか
ひどくひかってゆれてゐる
太吉がひるま
この小流れのどこかの角で
まゆみの藪を截ってゐて
帰りにこゝへ落したのだらう
なんでもそらのまんなかが
がらんと白く荒さんでゐて
風がおかしく酸っぱいのだ……
風……とそんなにまがりくねった桂の木
低原の雲も青ざめて
ふしぎな縞になってゐる……し
すももが熟して落ちるやうに
おれも鉛筆をぽろっと落し
だまって風に溶けてしまはう
このうゐきゃうのかほりがそれだ
 
風……骨、青さ
どこかで鈴が鳴ってゐる
どれぐらゐいま睡ったらう
青い星がひとつきれいにすきとほって
雲はまるで蝋で鋳たやうになってゐるし
落葉はみんな落した鳥の尾羽に見え
おれはまさしくどろの木の葉のやうにふるへる
 
 同日〔一七一〕〔いま来た角に〕 一九二四、四、一九、が発想される。新校本全集には、下書稿(四)手入れを定稿として選んでいる。そこに至るまでの推敲を見てみると、眠さの中、様々な情景が浮かんでいたことが分かる。
 下書稿一「水源手記」にはコサック兵の行進の連想が入る。これは迫ってくる眠気を兵隊の規則正しいリズムに置き換えたものである。またここに来るまでに、同僚たちや校長のいる教員室を抜け出した経緯が述べられる。下書稿二、三では細かな推敲がなされるが、下書稿四では、学校の記述は校長と、白藤教諭と、島地大等の連想が入り、コサック兵の行進の幻想が削られる。
 手入れ稿ではそれに関する連想を削る。賢治は遠い夜の盛岡の街並みを見て、「床屋の鏡」と「芝居小屋」を連想する。これが定稿となる。
 
シャープ鉛筆 月印
紫蘇のかほりの青じろい風
 
 「シャープ鉛筆」はないが。すでにシャープペンシルは徳川家康の時代に輸入され、日本でも1877年、三菱 小池で製造され1915年年早川から繰り出し式鉛筆として発売された。 
 一方、月印鉛筆は1908年ドイツ、ステッドラー社の鉛筆が岩井商店から輸入されている。(注ジャパンアーカイブス1850〜2100) 1914年には真崎市川鉛筆で製造された「ウイング(羽車印)」も「月星印」である。当時、鉛筆は大切なもの、貴重なもので、童話「みじかい木ペン」、「風の又三郎」では、一本しか鉛筆を持たない子とそれを奪おうとする級友の話が描かれる。
 賢治がいつも鉛筆を携えて湧き上がる詩情をノートに書き留めていたことはよく知られている。ふと自身を振り返り携帯している鉛筆を眺め、周囲の風を確認したのであろうか。夜の林の中、風は香りから連想するもののようだ。
 さらに小川には斧が落ちていて、連想は友達につながり、さらに風景は
 
んでもそらのまんなかが
がらんと白く荒さんでゐて
風がおかしく酸っぱいのだ……
風……とそんなにまがりくねった桂の木
 
と少し屈折した風景と風を感じている。さらに眠さは極限にきて
     
低原の雲も青ざめて
ふしぎな縞になってゐる……し
すももが熟して落ちるやうに
おれも鉛筆をぽろっと落し
だまって風に溶けてしまはう
このうゐきゃうのかほりがそれだ
 
風……骨、青さ、

 
 眠さの中で生まれるのは、「ういきゃう」の香り、そして「骨」「、青さ」と連想は広がっていく。
 目覚めた後で、さらにその感激に「どろのきの葉のやうに」震えている。
 
 七三
     有明
                   一九二四、四、二〇、 
 
あけがたになり
風のモナドがひしめき
東もけむりだしたので
月は崇厳なパンの木の実にかはり
その香気もまたよく凍らされて
はなやかに錫いろのそらにかゝれば
白い横雲の上には
ほろびた古い山彙の像が
ねづみいろしてねむたくうかび
ふたたび老いた北上川は
それみづからの青くかすんだ野原のなかで
支流を納めてわづかにひかり
そこにゆふべの盛岡が
アークライトの点綴や
また町なみの氷燈の列
ふく郁としてねむってゐる
滅びる最后の極楽鳥が
尾羽をひろげて息づくやうに
かうかうとしてねむってゐる
それこそここらの林や森や
野原の草をつぎつぎに食べ
代りに砂糖や木綿を出した
やさしい化性の鳥であるが
   しかも変らぬ一つの愛を
   わたしはそこに誓はうとする
やぶうぐひすがしきりになき
のこりの雪があえかにひかる
 

 
 「七三 有明 一九二四、四、二〇、」では、翌朝20日の目覚めから書き出される。
定稿となっているのは下書稿三の手入れ稿で、細かい表現の推敲はあるが大きな変更はないと思う。風の表現として、画期的なのは詩冒頭の
 
あけがたになり
風のモナドがひしめき
 
である。目覚めたときの空気の稠密さを表した語と思う。「モナド=分子」論は、仏教の立場 第からも論じられていて(注4)、賢治はこの意味を持って使ったのかもしれない。のちに詳考する。
 加えて、明け方の光を失った月は「崇厳なパンの木の実にかはり/その香気もまたよく凍らされて/はなやかに錫いろのそらにかゝれば」と香りとともに一種厳かな雰囲気を持つ。
 少し高みから風景を見下ろす賢治は、そこに「滅びる最後の極楽鳥」を見る。それは「それこそここらの林や森や/野原の草をつぎつぎに食べ/代りに砂糖や木綿を出した/やさしい化性の鳥であるが」という思いである。  
 賢治の、風景から感じる盛岡への思いなのだが、何を表すのだろう。賢治は感動して一つの愛を誓う。下書稿二の余白に断片的に「死にいたるで私は/あなたを愛します」の書き込み、また〔どろの木の下から〕下書稿二で、削除された「しづかにあすこでねむるひと」などから、一人の人への恋愛感情ともとれる(注2)。だがそれはすでに賢治の中では否定された感情である(注5)。
 これ以上は推測になるのだが、一つの新しい感情が生まれていた、とも見られるし、一つの風景の彩として加えたのかもしれない。
賢治の心は、静かにウグイスの声と残雪の控えめな白さに辿り着く。
 
 七四
     〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕
                   一九二四、四、二〇、
 
 
東の雲ははやくも蜜のいろに燃え
丘はかれ草もまだらの雪も
あえかにうかびはじめまして
おぼろにつめたいあなたのよるは
もうこの山地のどの谷からも去らうとします
ひとばんわたくしがふりかヘりふりかヘり来れば
巻雲のなかやあるひはけぶる青ぞらを
しづかにわたってゐらせられ
また四更ともおぼしいころは
やゝにみだれた中ぞらの
二つの雲の炭素棒のあひだに
古びた黄金の弧光のやうに
ふしぎな御座を示されました
まことにあなたを仰ぐひとりひとりに
全くことなったかんがへをあたへ
まことにあなたのまどかな御座は
つめたい火口の数を示し
あなたの御座の運行は
公式にしたがってたがはぬを知って
しかもあなたが一つのかんばしい意志であり
われらに答へまたはたらきかける、
巨きなあやしい生物であること
そのことはいましわたくしの胸を
あやしくあらたに湧きたゝせます
あゝあかつき近くの雲が凍れば凍るほど
そこらが明るくなればなるほど
あらたにあなたがお吐きになる
エステルの香は雲にみちます
おゝ天子
あなたはいまにはかにくらくなられます

 
 七四 〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕 一九二四、四、二〇、は下書稿二の手入れ稿を定稿とする。
 下書稿一のタイトルは「普光天子」である。普光天子は法華経における三光天子の一つ、金星を神格化したものである。法華経『序品』には、
 「爾その時に釈提桓因、其その眷属二万の天子と倶なり。復、名月天子、普香天子、宝光天子、四大天王有り。其の眷属万の天子と倶なり」があり、日天・月天・明星天の三天を仏法守護の神として説き、日天(太陽)・月天(月)・明星天(星)の三つをいい、天とは「神」を意味する。
 下書稿一では、「お月さま」という呼びかけではじまり一夜共に過ごした月の運行が意志をもって人に働きかけることへの賛歌を歌う。
 
二つの雲の炭素棒のあひだに
黄色な古風な孤高のやうに
熟しておかゝりあそばした
むかしの普光天子さま
……
 
と、月に代って明け方の空を彩る金星に呼びかける。一行目には「陀羅尼」や「西域風」という言葉で月を形容していたがそれはここで削除される。
 定稿は下書稿二の手入れ稿で、細かい表現の違いが加わる。
「そこらが明るくなればなるほど/あらたにあなたがお吐きになる/エステルの香は雲にみちます」と金星の光が朝の光に変わる瞬間をエステルの香りという香りの表現で表す。

 「普光天子」は「おお天子」に変わり、月か金星かの区別がつかない。ひたすら月や金星への想いが語られて、もっぱら賢治の眼は空を見ている。風の表現はない。
 エステルとは、酸とアルコールが脱水縮合してできる化合物の総称で。酢酸エチルCH3COOC2H5,油脂,蝋(ろう)などがある。加水分解すると酸とアルコールになる。一般に低分子のエステルは芳香をもつ液体で人工の果実エッセンスとして用いられる。(注百科事典マイペデイア 平凡社)賢治は、金星の光に果実の香りを感じている。
 
七五
     北上山地の春
                 一九二四、四、二〇、
   1
 
雪沓とジュートの脚絆
白樺は焔をあげて
熱く酸っぱい樹液を噴けば
こどもはとんびの歌をうたって
狸の毛皮を収穫する
打製石斧のかたちした
柱の列は煤でひかり
高くけはしい屋根裏には
いま朝餐の青いけむりがいっぱいで
大迦藍のドーム(穹窿)のやうに
一本の光の棒が射してゐる
そのなまめいた光象の底
つめたい春のうまやでは
かれ草や雪の反照
明るい丘の風を恋ひ
馬が蹄をごとごと鳴らす
 
   2
浅黄と紺の羅沙を着て
やなぎは蜜の花を噴き
鳥はながれる丘丘を
馬はあやしく急いでゐる
 息熱いアングロアラヴ
 光って華奢なサラーブレッド
風の透明な楔形文字は
ごつごつ暗いくるみの枝に来て鳴らし
またいぬがやや笹をゆすれば
 ふさふさ白い尾をひらめかす    重挽馬
 あるひは巨きなとかげのやうに
 日を航海するハックニー
馬はつぎつぎあらはれて
泥灰岩の稜を噛む
おぼろな雪融の流れをのぼり
孔雀の石のそらの下
にぎやかな光の市場
種馬検査所へつれられて行く
 
   3
かぐはしい南の風は
かげらふと青い雲滃を載せて
なだらのくさをすべって行けば
かたくりの花もその葉の斑も燃える
黒い廐肥の籠をになって
黄や橙のかつぎによそひ
いちれつみんなはのぼってくる
 
みんなはかぐはしい丘のいたゞき近く
黄金のゴールを梢につけた
大きな栗の陰影に来て
その消え残りの銀の雪から
燃える頬やうなじをひやす
 
しかもわたくしは
このかゞやかな石竹いろの時候を
第何ばん目の辛酸の春に数へたらいゝか

 
 七五「北上山地の春」は下書き稿三の手入れ稿を定稿とする。
4月20日朝、賢治は、外山の種畜場に着く。
 下書稿一ではタイトル「浮世絵」定稿では農家の中のいろり端から眺めた様子が語られ、検査日の朝の高揚した雰囲気を感じさせる。
 二では多種多様の馬や、晴れの日として家族総出で馬に付き添い、馬は「水いろや紺の羅紗を着せ」飾られるなど、状況を描く。この日集まる馬は「アングロアラブ、サラーブレッド、重挽馬、ハックニー」など多様である。
 風の表現は、「風の透明な楔形文字は/ごつごつ暗いくるみの枝に来て鳴らし」と晴れの日の背景として登場する。
 3では、風は南風「かげらふと青い雲滃」を載せて吹く。雲滃は上空の雲が地上に落とす影で、広く開けた高原でないとみられない。
 「かぐはしい丘のいたゞき近く/黄金のゴールを梢につけた/大きな栗の陰影に来て/その消え残りの雪から/燃える頬やうなじをひやす」人々の輝く姿に贈る言葉である。
 自己と風景とのつながりは、最終節に「しかもわたくしは/このかゞやかな石竹いろの時候を/第何ばん目の辛酸の春に数へたらいゝか」がある。「石竹色」は多くのに作品で賢治の性的心情を表す(注6)。
関登久也(注7)によると
 
 ある朝館の役場の前の門で旅装の賢治に会いました。それは前の話より,よほど後のことですが、たぶん賢治三十歳前後のことだと思います。顔が紅潮していかにも溌剌とした面持ちでした。どちらへおいでになったとですか、ときくと岩手郡の外山牧場へ行ってきました。昨日の夕方出かけて行って、一晩中牧場を歩き、今帰ったところです。性欲の苦しみはなみたいていではありませんね。そういって別れました。賢治が童貞を守るための行はなかなか容易ならざるものだと感じ、深い崇敬の念さえ湧いてきました。
 
があるが、これは、ある種若い男性同士が交わす、雑談のようなものではないか。確かに普通の人間として、そのような意味を持って一夜を歩いている部分もあるが、それがすべてであると考えると賢治の世界は狭いものになってしまうだろう。
 
 外山紀行で発想された5つの作品を、時系列に従って読んでみた。
そこには、あふれるような明るさとともに描かれる、周辺の空気、風景、言葉があり、他の時代にはない感覚である。
その中で描かれる風の表現は何を表すのか、次章で読み解こう。
 
注1 自著『宮沢賢治 風を織る言葉』
 2 池上雄三『宮沢賢治・心象スケッチを読む』 雄山閣1992
 3 自著『宮沢賢治 かなしみとさびしさ』245p〜248p     
  「「ポラーノの広場」の競馬場」七「ポラーノの広場」の競馬場と  
  広場

 4 清沢満之『清沢満之全集 第五巻 西洋哲学史講義』 186p 
〜200P 「V 近世哲学 9ライプニッツ氏 」 岩波書店 
 2003
5 「小岩井農場パート九」(『春と修羅』)に、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする/この変態を恋愛といふ/そしてどこまでもその方向では/決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を/むりにもごまかし求め得やうとする/ この傾向を性慾といふ」とある。
6 大塚常樹『心象の記号論』228ページ〜233ページ) 「桃色 
 の花の記号論 二章 石竹の花―ピンクの記号論」)「小岩井農 
 場」、「春刻仰臥」など
7 『賢治隋問』角川書店 昭和45年 131ページ「賢治の横顔 
 禁欲」

 







2025/01/30 23:03:49|その他
永野川1925年1月下旬
26日  9:30〜11:30 晴5℃、風少しあり

  睦橋から永野川に出て、まず東岸を下りました。
 セグロセキレイが啼きかわして、ハクセキレイも混じってにぎやかです。カワウが2羽下っていきました。
 二杉橋東詰めにカルガモが18羽休んでいました。
 二杉橋から西岸へまわり遡りました。
 ダイサギが2か所で水中を歩いていました。
 岸辺の草むらから飛び出した鳥、モズでした。
 民家の樹木にハシブトカラス2羽、民家からは嫌がられているのでしょう。
 
 公園東池、まずアオサギ1羽、カルガモ21羽、ヒドリガモが39羽、コガモも25羽、全体に増えてきました。
 カイツブリが1羽、健在で嬉しいことです。
 西池はいつもながら、ヒドリガモが多く54羽、コガモが15羽、今日はコガモが多い日です。コガモは自然に近い鳥、という気して、多くを見ると嬉しいです。
 
 公園の芝生や木々には鳥が見えませんでした。
 公園の川の、ワンド跡の北側の流れに、ダイサギが見え、なんとそばにオオバン1羽がいました。この周辺にはほとんどいませんが、この場所では季節に一度は見ます。繁殖はしていないようですが、何かが変われば、繁殖できるのでしょうか。
 近くにアオサギ1羽、ダイサギ1羽、もう1羽、嘴がグレイの少し大きい白いサギが見えました。飛び立つ一瞬、足先の黄色が見えたのでコサギでしょうか。家で図鑑を見て、同じような灰色の嘴のコサギを見て確認しました。
 少し上でコガモ2羽、ここに住み着いているようです。
 大岩橋に近い所の樹木で、枝が動き、エナガを確認、一羽のみでした。
 大岩橋河川敷の草むらで鳥の動き、少し上に出てきてくれて、カワラヒワ5羽、少し先でも樹木の頂に1羽だけ見えました。
 大岩橋の河川敷林でシジュウカラがしきりに鳴いていましたが1羽のみでした。
 その後反対側の民家から、エナガの声が聞こえ、次々に河川敷林に移ってきて、8羽確認できました。
 滝沢ハムの林で枝陰にいるキジバトを見つけました。目の前を移動して枝にとまったのはムクドリでした。
 滝沢ハムの池、遠くから白いサギの群れが確認できました。この頃鳥が見えなかったので、急いで近づいてみました。ダイサギ7羽、コサギも4羽、ここでこのコサギの数も珍しいことです。
 土手に、マガモ♂2、♀2、ヒドリガモ5羽、ヒドリガモをここで見るのも珍しいです。カルガモも3羽いました。鳥が戻ってきました。やはり季節なのでしょうか。
 
 赤津川は静かで鳥影がありませんでした。でもカイツブリが2羽ここでも確認でき、繁殖が楽しみです。
 
 気温が低く風も少しあったので、鳥はどこかに避難したのでしょうか。
 でもオオバンを確認でき嬉しく、コサギ、ダイサギの多さも気になる日でした。
 
カワウ:永野川二杉橋〜上人橋 2羽、公園池上空を1羽、計3羽。
カイツブリ:公園池1羽、赤津川2羽、計3羽。
オオバン: 公園川1羽。
キジバト: 滝沢ハム林1羽。
カルガモ:永野川二杉橋〜上人橋18羽、公園東池21羽、
 滝沢ハム池3羽、計42羽。
ヒドリガモ:公園東池39羽、滝沢ハム池5羽、公園西池54羽、
 計98羽。
コガモ:公園東池25羽、西池15羽、公園川2羽、計42羽。
マガモ: 滝沢ハム池4羽。
ダイサギ:二杉橋〜上人橋1羽、1羽、公園川1羽、滝沢ハム池7羽、  
 計10羽。
コサギ:公園1羽、滝沢ハム池4羽、計5羽。
アオサギ:公園東池1羽、公園川1羽、滝沢ハム池1羽、計3羽。
モズ: 二杉橋〜上人橋1羽、大岩橋河川敷1羽、計2羽。
スズメ:合流点50+
ムクドリ:滝沢ハム林1羽。
ハシボソカラス:公園3羽。
ハシブトカラス:二杉橋〜上人橋2羽、公園2羽計4羽。
セグロセキレイ:〜上人橋4羽、1羽、2羽、1羽、公園1羽、1羽、  
 計10羽。
ハクセキレイ: 〜上人橋1羽、1羽計2羽。
カワラヒワ: 大岩橋河川敷林1羽、5羽、計6羽。
シジュウカラ: 大岩橋河川敷林1羽。
エナガ: 公園樹木1羽、大岩橋付近林8羽、計9羽。