一、外山詩群の背景
賢治は、1924年4月19日から20日にかけ、盛岡から徒歩で外山に向かい外山詩群を残した。外山詩群で『新校本宮沢賢治全集』に定稿として取り上げた作品は
六九 〔どろの木の下から〕 一九二四、四、一九、(下書稿(二)手入れ)
一七一〔いま来た角に〕一九二四、四、一九(下書稿(四)手入れ)
七三 有明 一九二四、四、二〇 (下書稿(三))
七四〔東の空ははやくも蜜の色に燃え〕 一九二四、四、二十、(下書稿(二)手入れ)
七五 北上山地の春 一九二四、四、二〇、(下書稿(三)手入れ)
以上「春と修羅第二集」
である。
そこからの発展作品として
〔どろの木の根もとで〕(下書稿手入れ)
〔あけがたになり〕(定稿手入れ)
種馬検査日(下書稿手入れ)
以上「春と修羅 第二集補遺」
牧馬地方の春の歌(下書稿)(「補遺詩篇 I 」)
がある。
ここでは、上記五作品の背景を追う。発展形において表現上のかかわりがあるものについてはその後に言及する。
賢治はトシの死の悲しみから立ち上がり、まだ農村の凶作にも遭っていない、健康にも恵まれた、明るい時代であったといえる。花巻農学校教師という安定した職業を持ち、のちに「その四ケ年がわたくしにどんなに楽しかったか/わたくしは毎日を/鳥のやうに教室でうたってくらした/誓って云ふが/わたくしはこの仕事で/疲れをおぼえたことはない」(「詩ノート付録」「生徒諸君に寄せる」)と述べた期間である。
4月20日付で第一詩集心象スケッチ『春と修羅』が刊行される予定で、その成否はとにかく、達成感もいっぱいであったろう。
様々に繰り出される、「風」は飛躍に満ちている。以前、一つ一つの形容などを取り出して視覚、聴覚との関わりなどを考えてみたが(注1)、この時代になぜ、様々な形容の風が賢治に現れたか考えてみたい。
まず一作ずつ読み、それが賢治にとっていかなる時を形作るのか、考えてみる。
賢治は4月20日に藪塚の種馬検査所(現外山種畜場)で開かれる、「種馬検査」を見学するために出かけた。種馬検査は優秀な種馬は高く買い上げられるため、周辺の馬産農家にとって誉れの場所である。『岩手縣種畜場 自大正十三年一月至る同年十二月 業務功程報告』には
第六 種付 一牝馬検査ノ状況 イ牝馬検査場及期日」
「岩手縣外山種畜場 四月二十日 岩手郡 薮川村、玉山村、米内村
の項目があり、賢治の詩の場面を裏付ける。
この情報は『岩手日報』大正十三年三月七日」や『岩手毎日』三月八日」に載っていることで賢治は情報を得て、農学校の教師としてあるいは研究者としてこの時この場を訪ねたのであろう(注2)。
さらに、外山御料牧場は獣医科の実習地だった関係で、たびたび訪れ、すでに強い印象を持ち、1915(大正4年)短歌A,B231,232を残している。
1902年からあった滝沢村にあった岩手県種畜場が、1922(大正11)に外山御料牧場が県に移管されたのを機に1923年からここに移転する。
種畜場は品種改良のセンターで、賢治は、その現場を学ぶため、滝沢村当時から続けて頻繁に通っていた。ここで行われる種馬検査で飼馬が優良馬の子孫を残す資格を得れば農家は将来を保証される、希望の象徴の場である(注3)。
賢治のたどったのは、盛岡から外山を経て太平洋岸の小本へ向かう旧小本街道で、沢沿いの山道を、大堂→下小浜→上小浜さらに外山―一の渡―南―外山―大の平―葉水―蛇塚とたどっている。
『盛岡測候所 大正十三年気象月報原簿』の記述には
大正13年4月19日
19日快晴 夜の11時ころから曇
19日夜は満月
19日快晴夜11時ころから曇り午前3時4時、晴れ、曇り、月は見えかくれする。
20日午前3時晴 午前4時曇晴 7時以降晴
があり、賢治は月明かりの中、林の中を歩いていたことが証明できる。
どろの木の下から
いきなり水をけたてゝ
月光のなかへはねあがったので
狐かと思ったら
例の原始の水きねだった
横に小さな小屋もある
粟か何かを搗くのだらう
水はたうたうと落ち
ぼそぼそ青い火を噴いて
きねはだんだん下りてゐる
水を落してまたはねあがる
きねといふより一つの舟だ
舟といふより一つのさじだ
ぼろぼろ青くまたやってゐる
どこかで鈴が鳴ってゐる
丘も峠もひっそりとして
そこらの草は
ねむさもやはらかさもすっかり鳥のこゝろもち
ひるなら羊歯のやはらかな芽や
桜草も咲いてゐたらう
みちの左の栗の林で囲まれた
蒼鉛いろの影の中に
鍵なりをした巨きな家が一軒黒く建ってゐる
鈴は睡った馬の胸に吊され
呼吸につれてふるえるのだ
きっと馬は足を折って
蓐草の上にかんばしく睡ってゐる
わたくしもまたねむりたい
どこかで鈴とおんなじに啼く鳥がある
たとへばそれは青くおぼろな保護色だ
向ふの丘の影の方でも啼いてゐる
それからいくつもの月夜の峯を越えた遠くでは
風のやうに峡流も鳴る 六九〔どろの木の下から〕一九二四、四、一九、では、作者は林の中を歩く。思いがけず、民家の跡地に残された、水力で穀物を搗くための古い「水きね」があり、一定のリズムを刻む。昼間には見られたサクラソウを想像しそこで眠ることを願う。
いろいろ想像しているうち、眠気に襲われる。近くの曲り屋では馬が飼われていて、胸の鈴の音などが聞こえる。馬も眠っているらしい。
盛岡を見渡せる場所に着く。はるか彼方に渓流もあるようだ。「風」は渓流に例えられ、「風のやうに」途切れず、さらさらと鳴っている。
下書稿二で最後に次の3行を加えるがまた削除している
盛岡の方でかすかに犬が啼いている
わたくしはそこに急いで帰って行って
誰かひとりのやさしい人とねむりたい
ここに消された感情は、秘めた思いか、あるいは賢治その場を設定しようとして作った場面か、不明だが、それがのちに続く表現につながっていくものかどうかを観察していこう。
ここでは、渓流はなぜ「風にやうに」鳴ると捉えられるのか。林の中は風の吹き抜ける場所ではなく、賢治はじっと風を待ちながら、渓流の音に風を聞いたのであろうか。のちに考察しよう。
〔一七一〕
〔いま来た角に〕
一九二四、四、一九、
いま来た角に
二本の白楊が立ってゐる
雄花の紐をひっそり垂れて
青い氷雲にうかんでゐる
そのくらがりの遠くの町で
床屋の鏡がたゞ青ざめて静まるころ
芝居の小屋が塵を沈めて落ちつくころ
帽子の影がさういふふうだ
シャープ鉛筆 月印
紫蘇のかほりの青じろい風
がれ草が変にくらくて
水銀いろの小流れは
蒔絵のやうに走ってゐるし
そのいちいちの曲り目には
藪もぼんやりけむってゐる
一梃の銀の手斧が
水のなかだかまぶたのなかだか
ひどくひかってゆれてゐる
太吉がひるま
この小流れのどこかの角で
まゆみの藪を截ってゐて
帰りにこゝへ落したのだらう
なんでもそらのまんなかが
がらんと白く荒さんでゐて
風がおかしく酸っぱいのだ……
風……とそんなにまがりくねった桂の木
低原の雲も青ざめて
ふしぎな縞になってゐる……し
すももが熟して落ちるやうに
おれも鉛筆をぽろっと落し
だまって風に溶けてしまはう
このうゐきゃうのかほりがそれだ
風……骨、青さ、
どこかで鈴が鳴ってゐる
どれぐらゐいま睡ったらう
青い星がひとつきれいにすきとほって
雲はまるで蝋で鋳たやうになってゐるし
落葉はみんな落した鳥の尾羽に見え
おれはまさしくどろの木の葉のやうにふるへる
同日〔一七一〕〔いま来た角に〕 一九二四、四、一九、が発想される。新校本全集には、下書稿(四)手入れを定稿として選んでいる。そこに至るまでの推敲を見てみると、眠さの中、様々な情景が浮かんでいたことが分かる。
下書稿一「水源手記」にはコサック兵の行進の連想が入る。これは迫ってくる眠気を兵隊の規則正しいリズムに置き換えたものである。またここに来るまでに、同僚たちや校長のいる教員室を抜け出した経緯が述べられる。下書稿二、三では細かな推敲がなされるが、下書稿四では、学校の記述は校長と、白藤教諭と、島地大等の連想が入り、コサック兵の行進の幻想が削られる。
手入れ稿ではそれに関する連想を削る。賢治は遠い夜の盛岡の街並みを見て、「床屋の鏡」と「芝居小屋」を連想する。これが定稿となる。
シャープ鉛筆 月印
紫蘇のかほりの青じろい風
「シャープ鉛筆」はないが。すでにシャープペンシルは徳川家康の時代に輸入され、日本でも1877年、三菱 小池で製造され1915年年早川から繰り出し式鉛筆として発売された。
一方、月印鉛筆は1908年ドイツ、ステッドラー社の鉛筆が岩井商店から輸入されている。(注ジャパンアーカイブス1850〜2100) 1914年には真崎市川鉛筆で製造された「ウイング(羽車印)」も「月星印」である。当時、鉛筆は大切なもの、貴重なもので、童話「みじかい木ペン」、「風の又三郎」では、一本しか鉛筆を持たない子とそれを奪おうとする級友の話が描かれる。
賢治がいつも鉛筆を携えて湧き上がる詩情をノートに書き留めていたことはよく知られている。ふと自身を振り返り携帯している鉛筆を眺め、周囲の風を確認したのであろうか。夜の林の中、風は香りから連想するもののようだ。
さらに小川には斧が落ちていて、連想は友達につながり、さらに風景は
なんでもそらのまんなかが
がらんと白く荒さんでゐて
風がおかしく酸っぱいのだ……
風……とそんなにまがりくねった桂の木
と少し屈折した風景と風を感じている。さらに眠さは極限にきて
低原の雲も青ざめて
ふしぎな縞になってゐる……し
すももが熟して落ちるやうに
おれも鉛筆をぽろっと落し
だまって風に溶けてしまはう
このうゐきゃうのかほりがそれだ
風……骨、青さ、
眠さの中で生まれるのは、「ういきゃう」の香り、そして「骨」「、青さ」と連想は広がっていく。
目覚めた後で、さらにその感激に「どろのきの葉のやうに」震えている。
七三
有明
一九二四、四、二〇、
あけがたになり
風のモナドがひしめき
東もけむりだしたので
月は崇厳なパンの木の実にかはり
その香気もまたよく凍らされて
はなやかに錫いろのそらにかゝれば
白い横雲の上には
ほろびた古い山彙の像が
ねづみいろしてねむたくうかび
ふたたび老いた北上川は
それみづからの青くかすんだ野原のなかで
支流を納めてわづかにひかり
そこにゆふべの盛岡が
アークライトの点綴や
また町なみの氷燈の列
ふく郁としてねむってゐる
滅びる最后の極楽鳥が
尾羽をひろげて息づくやうに
かうかうとしてねむってゐる
それこそここらの林や森や
野原の草をつぎつぎに食べ
代りに砂糖や木綿を出した
やさしい化性の鳥であるが
しかも変らぬ一つの愛を
わたしはそこに誓はうとする
やぶうぐひすがしきりになき
のこりの雪があえかにひかる
「七三 有明 一九二四、四、二〇、」では、翌朝20日の目覚めから書き出される。
定稿となっているのは下書稿三の手入れ稿で、細かい表現の推敲はあるが大きな変更はないと思う。風の表現として、画期的なのは詩冒頭の
あけがたになり
風のモナドがひしめき
である。目覚めたときの空気の稠密さを表した語と思う。「モナド=分子」論は、仏教の立場 第からも論じられていて(注4)、賢治はこの意味を持って使ったのかもしれない。のちに詳考する。
加えて、明け方の光を失った月は「崇厳なパンの木の実にかはり/その香気もまたよく凍らされて/はなやかに錫いろのそらにかゝれば」と香りとともに一種厳かな雰囲気を持つ。
少し高みから風景を見下ろす賢治は、そこに「滅びる最後の極楽鳥」を見る。それは「それこそここらの林や森や/野原の草をつぎつぎに食べ/代りに砂糖や木綿を出した/やさしい化性の鳥であるが」という思いである。
賢治の、風景から感じる盛岡への思いなのだが、何を表すのだろう。賢治は感動して一つの愛を誓う。下書稿二の余白に断片的に「死にいたるで私は/あなたを愛します」の書き込み、また〔どろの木の下から〕下書稿二で、削除された「しづかにあすこでねむるひと」などから、一人の人への恋愛感情ともとれる(注2)。だがそれはすでに賢治の中では否定された感情である(注5)。
これ以上は推測になるのだが、一つの新しい感情が生まれていた、とも見られるし、一つの風景の彩として加えたのかもしれない。
賢治の心は、静かにウグイスの声と残雪の控えめな白さに辿り着く。
七四
〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕
一九二四、四、二〇、
東の雲ははやくも蜜のいろに燃え
丘はかれ草もまだらの雪も
あえかにうかびはじめまして
おぼろにつめたいあなたのよるは
もうこの山地のどの谷からも去らうとします
ひとばんわたくしがふりかヘりふりかヘり来れば
巻雲のなかやあるひはけぶる青ぞらを
しづかにわたってゐらせられ
また四更ともおぼしいころは
やゝにみだれた中ぞらの
二つの雲の炭素棒のあひだに
古びた黄金の弧光のやうに
ふしぎな御座を示されました
まことにあなたを仰ぐひとりひとりに
全くことなったかんがへをあたへ
まことにあなたのまどかな御座は
つめたい火口の数を示し
あなたの御座の運行は
公式にしたがってたがはぬを知って
しかもあなたが一つのかんばしい意志であり
われらに答へまたはたらきかける、
巨きなあやしい生物であること
そのことはいましわたくしの胸を
あやしくあらたに湧きたゝせます
あゝあかつき近くの雲が凍れば凍るほど
そこらが明るくなればなるほど
あらたにあなたがお吐きになる
エステルの香は雲にみちます
おゝ天子
あなたはいまにはかにくらくなられます
七四 〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕 一九二四、四、二〇、は下書稿二の手入れ稿を定稿とする。
下書稿一のタイトルは「普光天子」である。普光天子は法華経における三光天子の一つ、金星を神格化したものである。法華経『序品』には、
「爾その時に釈提桓因、其その眷属二万の天子と倶なり。復、名月天子、普香天子、宝光天子、四大天王有り。其の眷属万の天子と倶なり」があり、日天・月天・明星天の三天を仏法守護の神として説き、日天(太陽)・月天(月)・明星天(星)の三つをいい、天とは「神」を意味する。
下書稿一では、「お月さま」という呼びかけではじまり一夜共に過ごした月の運行が意志をもって人に働きかけることへの賛歌を歌う。
二つの雲の炭素棒のあひだに
黄色な古風な孤高のやうに
熟しておかゝりあそばした
むかしの普光天子さま
……
と、月に代って明け方の空を彩る金星に呼びかける。一行目には「陀羅尼」や「西域風」という言葉で月を形容していたがそれはここで削除される。
定稿は下書稿二の手入れ稿で、細かい表現の違いが加わる。
「そこらが明るくなればなるほど/あらたにあなたがお吐きになる/エステルの香は雲にみちます」と金星の光が朝の光に変わる瞬間をエステルの香りという香りの表現で表す。
「普光天子」は「おお天子」に変わり、月か金星かの区別がつかない。ひたすら月や金星への想いが語られて、もっぱら賢治の眼は空を見ている。風の表現はない。
エステルとは、酸とアルコールが脱水縮合してできる化合物の総称で。酢酸エチルCH3COOC2H5,油脂,蝋(ろう)などがある。加水分解すると酸とアルコールになる。一般に低分子のエステルは芳香をもつ液体で人工の果実エッセンスとして用いられる。(注百科事典マイペデイア 平凡社)賢治は、金星の光に果実の香りを感じている。
七五
北上山地の春
一九二四、四、二〇、
1
雪沓とジュートの脚絆
白樺は焔をあげて
熱く酸っぱい樹液を噴けば
こどもはとんびの歌をうたって
狸の毛皮を収穫する
打製石斧のかたちした
柱の列は煤でひかり
高くけはしい屋根裏には
いま朝餐の青いけむりがいっぱいで
大迦藍のドーム(穹窿)のやうに
一本の光の棒が射してゐる
そのなまめいた光象の底
つめたい春のうまやでは
かれ草や雪の反照
明るい丘の風を恋ひ
馬が蹄をごとごと鳴らす
2
浅黄と紺の羅沙を着て
やなぎは蜜の花を噴き
鳥はながれる丘丘を
馬はあやしく急いでゐる
息熱いアングロアラヴ
光って華奢なサラーブレッド
風の透明な楔形文字は
ごつごつ暗いくるみの枝に来て鳴らし
またいぬがやや笹をゆすれば
ふさふさ白い尾をひらめかす 重挽馬
あるひは巨きなとかげのやうに
日を航海するハックニー
馬はつぎつぎあらはれて
泥灰岩の稜を噛む
おぼろな雪融の流れをのぼり
孔雀の石のそらの下
にぎやかな光の市場
種馬検査所へつれられて行く
3
かぐはしい南の風は
かげらふと青い雲滃を載せて
なだらのくさをすべって行けば
かたくりの花もその葉の斑も燃える
黒い廐肥の籠をになって
黄や橙のかつぎによそひ
いちれつみんなはのぼってくる
みんなはかぐはしい丘のいたゞき近く
黄金のゴールを梢につけた
大きな栗の陰影に来て
その消え残りの銀の雪から
燃える頬やうなじをひやす
しかもわたくしは
このかゞやかな石竹いろの時候を
第何ばん目の辛酸の春に数へたらいゝか
七五「北上山地の春」は下書き稿三の手入れ稿を定稿とする。
4月20日朝、賢治は、外山の種畜場に着く。
下書稿一ではタイトル「浮世絵」定稿では農家の中のいろり端から眺めた様子が語られ、検査日の朝の高揚した雰囲気を感じさせる。
二では多種多様の馬や、晴れの日として家族総出で馬に付き添い、馬は「水いろや紺の羅紗を着せ」飾られるなど、状況を描く。この日集まる馬は「アングロアラブ、サラーブレッド、重挽馬、ハックニー」など多様である。
風の表現は、「風の透明な楔形文字は/ごつごつ暗いくるみの枝に来て鳴らし」と晴れの日の背景として登場する。
3では、風は南風「かげらふと青い雲滃」を載せて吹く。雲滃は上空の雲が地上に落とす影で、広く開けた高原でないとみられない。
「かぐはしい丘のいたゞき近く/黄金のゴールを梢につけた/大きな栗の陰影に来て/その消え残りの雪から/燃える頬やうなじをひやす」人々の輝く姿に贈る言葉である。
自己と風景とのつながりは、最終節に「しかもわたくしは/このかゞやかな石竹いろの時候を/第何ばん目の辛酸の春に数へたらいゝか」がある。「石竹色」は多くのに作品で賢治の性的心情を表す(注6)。
関登久也(注7)によると
ある朝館の役場の前の門で旅装の賢治に会いました。それは前の話より,よほど後のことですが、たぶん賢治三十歳前後のことだと思います。顔が紅潮していかにも溌剌とした面持ちでした。どちらへおいでになったとですか、ときくと岩手郡の外山牧場へ行ってきました。昨日の夕方出かけて行って、一晩中牧場を歩き、今帰ったところです。性欲の苦しみはなみたいていではありませんね。そういって別れました。賢治が童貞を守るための行はなかなか容易ならざるものだと感じ、深い崇敬の念さえ湧いてきました。
があるが、これは、ある種若い男性同士が交わす、雑談のようなものではないか。確かに普通の人間として、そのような意味を持って一夜を歩いている部分もあるが、それがすべてであると考えると賢治の世界は狭いものになってしまうだろう。
外山紀行で発想された5つの作品を、時系列に従って読んでみた。
そこには、あふれるような明るさとともに描かれる、周辺の空気、風景、言葉があり、他の時代にはない感覚である。
その中で描かれる風の表現は何を表すのか、次章で読み解こう。
注1 自著『宮沢賢治 風を織る言葉』
2 池上雄三『宮沢賢治・心象スケッチを読む』 雄山閣1992
3 自著『宮沢賢治 かなしみとさびしさ』245p〜248p
「「ポラーノの広場」の競馬場」七「ポラーノの広場」の競馬場と
広場 4 清沢満之『清沢満之全集 第五巻 西洋哲学史講義』 186p 〜200P 「V 近世哲学 9ライプニッツ氏 」 岩波書店
20035 「小岩井農場パート九」(『春と修羅』)に、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする/この変態を恋愛といふ/そしてどこまでもその方向では/決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を/むりにもごまかし求め得やうとする/ この傾向を性慾といふ」とある。
6 大塚常樹『心象の記号論』228ページ〜233ページ) 「桃色
の花の記号論 二章 石竹の花―ピンクの記号論」)「小岩井農
場」、「春刻仰臥」など
7 『賢治隋問』角川書店 昭和45年 131ページ「賢治の横顔
禁欲」