「風野又三郎」は「風の又三郎」の初期形と捉えられます。大正十三年二月一二日に農学校の教え子、松田浩一に筆写を依頼した記録があるので、成立はそれ以前ということになります。
東北、長野などに伝わる、「風の三郎」伝説をもとに、「風の精」風野又三郎を通じて、自然科学、地誌学、科学技術論を組み込み、風の本質を伝えようという意思を感じます。
「風の又三郎」は、そこに転校生「高田三郎」を設定し、より現実的な世界の中に、「風の精」の不可思議を描き、ファンタジーの成立を目指しました。
谷川の岸の小さな小学校に、夏休みの終わった九月一日、「青ぞらで風がどうと鳴」っていました。子供らが登校してくると教室に見知らぬ子供が座っています。子供は赤毛で自分たちとは違った都会風の服装です。自分の席に座られた子は泣き出します。この部分は「風の又三郎」とほとんど同じです。先生が来ますが子供の姿は先生には見えません。そこは「風の又三郎」との相違点です。
風の表現は、25例、「風の又三郎」の33例に比べると少ないのですが、作品の長さ、構造上の問題などを考えると、必ずしも少ないとも言い切れません。より「風」の本質に密着した描写が多いのではないかと思います。検討してみます。
A、風景を表す風
この部分は「風の又三郎」にも登場し、分教場の環境を象徴します。
B比喩
みんなおじぎをするや否やまるで風のやうに教室を出ました。
(「九月一日」)二人はそこで胸をどきどきさせて、まるで風のやうにかけ上りました。((「九月二日」)
これは早さの比喩表現で、子供たちが素早く教室をでる場面、又三郎を見つけて駆け上がる場面です。
C、タケニグサと風
みんながやっとその栗の木の下まで行ったときはその変な子はもう見えませんでした。そこには十本ばかりのたけにぐさが先生の云ったとほり風にひるがへってゐるだけだったのです。 (「九月一日」)
ところがどうです。丘の途中の小さな段を一つ越えて、ひょっと上の栗の木を見ますと、たしかにあの赤髪の鼠色のマントを着た変な子が草に足を投げ出して、だまって空を見上げてゐるのです。今日こそ全く間違ひありません。たけにぐさは栗の木の左の方でかすかにゆれ、栗の木のかげは黒く草の上に落ちてゐます。 (「九月二日」)
初めの例は、期待していた風野又三郎がいなくて、タケニグサが風に吹かれているのみだった、という、空虚を表しています。「先生の云ったとほり」とあるのですが、それに対応する先生に関する記述はなく、先生とタケニグサの関係は分かりません。
次の例は、又三郎が現れ、やはり栗の木と風に揺れるタケニグサが一緒です。栗の木は異界との境を表すということなので(注1)、それも加えて場面を構成するのでしょうか。タケニグサは、他の童話には登場しません。なぜ「風野又三郎」で二箇所に登場し、また定稿「風の又三郎」では無いのか、考察が必要です。
詩では、「病床」(疾中)に、「たけにぐさに/風が吹いてゐるといふことである/たけにぐさの群落にも/
風が吹いてゐるといふことである」があり、病床で思い起こす漠とした風景です。タケニグサは風に吹かれ探すものはいない、という構図が定着しています。 タケニグサはケシ科タケニグサ属の多年草で、本州〜九州の日当たりのよい荒地や道ばたなどに自生します。高さ1〜2mでかなり丈の高い草です。全体に粉白を帯び、中空の茎を切ると黄色の乳液を出します。薬にも使われますが、毒性も持っています。葉は長さ10〜30cmと大きく菊の葉のように裂け、裏面にはふつう縮毛が密生します。7〜8月に茎の先に大きな円錐花序をつくり、白い花を多数つけます。花には花弁はなく、萼片も開花と同時に落ちます。雄しべは多数あり、葯は線形で花糸は糸状です。実はは長さ約2.5cmで、枯れてもそのまま残ります。
背の高さ、花序の長さ、葯、実の状態も、すべてが風に吹かれると景色を作ると思います。
D、風になりたい 風のいい面。
「いゝなぁ、おらも風になるたぃなぁ。」 (「九月二日」)
又三郎と初めて子供たちが親しく話をした日、岩手山や中国へ行った話を聞いた子供たちが発する言葉です。又三郎=風と言う感覚が生まれています。言われた又三郎は体全体で喜びを表します。又三郎は子供たちに好かれたいと思っていたのです。
小さな子を風のかげになるやうにいたはってやりながら、自分はさも気持がいいといふやうに高く叫んだんだ(「九月三日」)
少し話しが進んだ後、又三郎は風のなかで弟をかばうように風に立ち向かう子供の話をします。幼いもの弱いものへのいたわりを、賢治は大切にしていたのだと思います。
E、気象用語
「ゐねむりたって僕がねむるんぢゃないんだよ。お前たちがそう云ふんぢゃないか。お前たちは僕らのじっと立ったり座ったりしているのを、風がねむると云ふんじゃないか。僕はわざとお前たちにわかるやうに云ってるんだよ。」(「九月二日」)
「風がねむる」は気象用語にはありませんが、風が動く場所がなく静止していることです。これに対して「九月八日」の「赤道無風帯」は気象用語です。
「ギルバート群島の中の何云ふ島かしら小さいけれども白壁の教会もあった、その島の近くに僕は行ったねえ、行くたって仲々容易ぢゃないや、あすこらは赤道無風帯ってお前たちが云ふんだらう。僕たちはめったに歩けやしない。それでも無風帯のはじの方から舞ひ上ったんぢゃ中々高いとこへ行かないし高いとこへ行かなきゃ北極だなんて遠い処へも行けないから誰でもみんななるべく無風帯のまん中へ行かう行いかうとするんだ。(「九月八日」)
赤道無風帯は、北半球の北東
貿易風と南半球の南東貿易風にはさまれた
赤道付近の風の弱い地帯を云います。この地帯は強い日射のため上昇気流が起こり
低圧帯となっているため
赤道低圧帯とも呼ばれます。
亜熱帯無風帯(平均緯度35°の海洋上)とともに航海上の用語です。又三郎たち風にとっては苦手の場所です。
ギルバート群島は、現キリバス領、北緯3度23分 - 南緯2度38分、東経172度50分 - 東経176度49分の珊瑚礁、環礁からなる16の群島です。賢治の時代にはイギリス領でした。主要産業はバナバ諸島、ファニング島で採掘される鉱石からのリン酸塩、またココヤシです。或は肥料の産地として賢治はその名を記憶していたのかも知れません。
『これはきっと颶風ですね。ずゐぶんひどい風ですね』 /すると支那人博士が葉巻をくはへたまゝふんふん笑って/『家が飛ばないぢゃないか』と云ふと子供の助手はまるで口を尖らせて/『だって向ふの三角旗やなにかぱたぱた云ってます。』と云ふんだ。
(「九月五日」)
「九月五日」の章では、又三郎が上海の気象台を通過したときのことが語られます。大きな気象台として、上海の中華気象台、東京の中央気象台をあげ、また水沢の臨時緯度観測所も、その記録は、世界中に報告されるところで、そこの風力計に大きな記録を残したくて風は勢いよく吹くという又三郎の子供らしい告白もなされます。
まず、上海の気象台を又三郎が通り過ぎた時の理学博士と子供の助手との会話です。颶風は気象用語で、
ビューフォート風力階級表における名称です。ビューフォート風力階級表は、イギリス海軍の提督、F.ボーホートによって1805年によって提唱され、1874年には国際気象委員会
]で国際気象通報式に採用されました。20世紀に入ると
風速の物理値との関係式が定められ、0から12までの階級に分けられています。
あくまで地上10mにおける風速を地上の煙や木の揺れなどと関連付けたものなので、地表付近の風速とは少し異なります。現在は「颶風」は「颱風」に改められています。「気象庁風力階級表」の風力階級表は、ビューフォート風力階級表を翻訳したもので現在も使われています。表によると
11 暴風 烈風 風速28.5〜32.6 滅多に起こらない広い範囲の被害
12 颶風 風速32.7以上 甚大な被害、
子供の助手は、この階級表を覚えたばかりなのでしょう。風が最も強い階級のものであると思いたがっています。暴風は28.5メートル以上、颶風は32.7メートル以上です。博士の言葉を聞けば、風力3.4以上軟風程度です。知識を自慢しているようにも思え、その後も『この風はたしかに颶風ですね』、『こいつはもう本たうの暴風ですね』、『これは本当の暴風ですね、林ががあがあ云ってますよ、枝も折れてますよ。』と繰返しては、博士から否定されています。最後の話でも、「疾風 葉のある潅木が揺れ始める」風力8メートル、疾風程度ですが、暴風、颶風と思いたい子供の思いは変わりません。
上空を飛んだ最後の日、又三郎は『今日は暴風ですよ、そら、暴風ですよ。今日は。さよなら。』といいながら「風力計の椀がまるで眼にも見えない位速くまは」してあげます。賢治の子供への温かい眼とユーモアが感じられます。
水沢の気象台では、著名な木村博士がテニスをしている場面遭遇します。又三郎はテニスの不得意な助手に味方して博士のボールを風で飛ばします。
「大循環の話なら面白いけれどむずかしいよ。あんまり小さな子はわからないよ。」
(「九月八日」)
この「九月八日」の章では大循環の風を又三郎が子供たちに説明します。地球規模の風の動きや、気象上の問題などを誰かに教えようとしていた意図を感じます。
大循環の風とは、
全地球的な
規模の
大気の
循環をいいます。
高温の
赤道付近と
低温の
極付近との間に
大規模な
熱対流が
起こり、それに
地球の自転の影響コリオリ力が
影響するため
三つの
対流、つまり、北半球、南半球それぞれの低緯度(約30°以下)で見られる「ハドレー循環」、高緯度(約60°以上)の「極循環」、そして、その間の中緯度の「フェレル循環」に
分かれ、これらの循環によって、地表面では、低緯度で「貿易風」、極地で「極偏東風」と呼ばれる東寄りの風が生じます。また、コリオリ力の強い中緯度では循環が明確ではなく、大きく蛇行した西寄りの風「偏西風」が吹きます。大気大循環は熱や水蒸気の移動をともなうため、地球規模の気温や降水量の分布に大きな影響を及ぼし、また、熱帯性低気圧や前線などが定常的に発生する要因にもなっています。
海上での現象に「海洋大循環」があります。海面を吹く風の働きによって生じる「風成循環」と、水温や塩分濃度からくる密度の違いによって生じる「熱塩循環」とがあり、風と関連するのは風成循環で、深さ数百m程度までの表層の流れ(表層流)であり、日本近海の「黒潮」「親潮」と呼ばれる海流も、北太平洋をめぐる風成循環の一部です。
大循環の風に参加するためには試験があるなど特別の風のようです。「わかるかね。僕は大循環のことを話すのはほんたうはすきなんだ。僕は大循環は二遍やったよ。」と自慢します。
朝鮮から僕は又東の方へ西風に送られて行ったんだ。海の中ばかりあるいたよ。(「九月九日」)
これも大循環の風に加わって北極からベーリング海、アラスカを回って北海道、朝鮮などを通る話の中で現れます。
F、風の害
「そうだ。おら去年烏瓜の燈火拵へた。そして縁側へ吊して置いたら風吹いて落ちた。」と耕一が言いました。
すると又三郎は噴き出してしまひました。
「僕お前の烏瓜の燈籠を見たよ。あいつは奇麗だったねい、だから僕がいきなり衝き当って落してやったんだ。」
「うわぁい。」
耕一はただ一言云ってそれから何ともいへない変な顔をしました。(「九月二日」)
又三郎が、面白がって上空から子供のカラスウリの燈火をめがけて風を吹きつけた場面です。でも代わりに何か持ってきてくれる約束をしています。
そしたら俄にどうっと風がやって来て傘はぱっと開きあぶなく吹き飛ばされさうになりました。(「九月六日」)
たうとう傘はがりがり風にこはされて開いた蕈のやうな形になりました。(「九月六日」)
耕一が学校からの帰り道に、木の露を落とされたり、傘を壊されたりします。でも家に帰ってみると、傘はきちんと干されていました。
又三郎の悪戯は決して悪意をもたないのでしたが、翌日会うと耕一はつい又三郎と喧嘩になり、風などなくてもよい論争が始まります。最後に風車も壊すといってしまい、大笑いのうちに仲直りし、その後風の有益なことなど話します。確かに理科の学習のために書かれているようです。
よく一年中の強い風向を考へてその風下の方からだんだん伐って行くんだよ。(「九月七日」)
関連して風が木を倒すことの善悪についての話です。風に倒されないようにするのには人間の管理が必要であることが述べられます。1年間の風向を考えて風下から切っていくこと、林の中と外では木の生育が違うので、それも考慮すべきなど、樹木について農林学校で学んだ賢治の筆が光っています。
G、わらべ歌
風どうと吹いて来(こ)、豆呉(け)ら風どうと吹いで来(こ)
子供たちが又三郎を呼んで歌う歌です。これは、岩手でよく知られた伝承的なわらべうたのひとつです。昭和4年、アルス刊の、北原白秋編『日本童謡集』(日本児童文庫)46ページ、「空や季節の唄」81篇の中に、「陸中」の歌として収録されています。この時代、「童謡」はわらべ歌のことで、創作童謡は「新童謡」と区別されています。
〈風ぁどうと吹いて来、豆けるぁ、
風ぁどうと吹いで来、海の隅から、風ぁどうと吹いで来〉でほとんど同形です。これは、北原白秋没後、『日本伝承童謡集成』全6巻 (昭和22年〜25年国民図書刊行会)にも収録され、1974年に三省堂から復刻されました。
この本で、風についてのわらべ歌を見ると、10篇中7篇までが風を呼ぶ歌で、風吹くなというものは2篇のみ、他の一篇は「子供は風の子、大人は火の子」でした。
「どう」という言葉を使っているのは東京の「風吹け吹け/どうどの山で/麥一升やるから/どうどとふぅきやぁれ」があります。
その他、風にまつわる童歌は他にも広く分布しています。(注2)
この陸中地方の歌は挿入歌に引き継がれ、囃し詞は「ドッドドドドウドドドウドドドウ」となり、さらに「風の又三郎」の表記に変わって行くのですが、このことにつては後に詳考したいと思います。
H、「九月十日」―別れの風
「ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ、
ああまいざくろも吹き飛ばせ、
すっぱいざくろも吹き飛ばせ、
ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ
ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ。」
先頃又三郎から聴いたばかりのその歌を一郎は夢の中で又きいたのです。
びっくりして跳ね起きて見ましたら
外ではほんたうにひどく風が吹いてうしろの林はまるで咆えるやう、あけがた近くの青ぐろいうすあかりが障子や棚の上の提灯箱や家中いっぱいでした。 一郎はすばやく帯をしてそれから下駄をはいて土間に下り馬屋の前を通って潜りをあけましたら
風がつめたい雨のつぶと一諸にどうっと入って来ました。馬屋のうしろの方で何かの戸がばたっと倒れ馬はぶるるっと鼻を鳴らしました。
一郎は風が胸の底まで滲み込んだやうに思ってはあと強く息を吐きました。そして外へかけ出しました。
外はもうよほど明るく土はぬれて居りました。
家の前の栗の木の列は変に青く白く見えてそれがまるで風と雨とで今洗濯をするとでも云ふやうに烈しくもまれてゐました。青い葉も二三枚飛び吹きちぎられた栗のいがは黒い地面にたくさん落ちて居りました。
空では雲がけはしい銀いろに光りどんどんどんどん北の方へ吹きとばされてゐました。
遠くの方の林はまるで海が荒れているやうにごとんごとん鳴ったりざあと聞こえたりするのでした。
一郎は顔や手につめたい雨の粒を投げつけられ風にきものも取って行かれさうになりながらだまってその音を聴きすましじっと空を見あげました。もう又三郎が行ってしまったのだらうかそれとも先頃約束したやうに
誰かの目をさますうち少し待って居て呉れたのかと考えて一郎は大へんさびしく胸がさらさら波をたてるやうに思いました。けれども又じっとその鳴って吠えてうなってかけて行く風をみていますと今度は胸がどかどかなってくるのでした。昨日まで丘や野原の空の底に澄みきってしんとしてゐた風どもが今朝夜あけ方俄かに一斉に斯う動き出してどんどんどんどんタスカロラ海床の北のはじをめがけて行くことを考へますともう一郎は顔がほてり息もはあ、はあ、なって自分までが一諸に空を翔けて行くやうに胸を一杯にはり手をひろげて叫びました。「ドッドドドドウドドドウドドドウ、あまいざくろも吹きとばせ、すっぱいざくろも吹きとばせ、ドッドドドドウドドドウドドドウ、ドッドドドドウドドドードドドウ。」その声はまるできれぎれに風にひきさかれて持って行かれましたがそれと一緒にうしろの遠くの風の中から、斯ういふ声がきれぎれに聞こえたのです。
「ドッドドドドウドドドウドドドウ、
楢の木の葉も引っちぎれ
とちもくるみもふきおとせ
ドッドドドドウドドドウドドドウ。」
一郎は声の来た栗の木の方を見ました。俄かに頭の上で
「さよなら、一郎さん、」と云ったかと思ふとその声はもう向ふのひのきのかきねの方へ行ってゐました。一郎は高く叫びました。
「又三郎さん。さよなら。」
かきねのずうっと向ふで又三郎のガラスマントがぎらっと光りそれからあの赤い頬とみだれた赤毛とがちらっと見えたと思ふと、も
うすうっと見えなくなってたゞ雲がどんどん飛ぶばかり一郎はせなか一杯風を受けながら手をそっちへのばして立ってゐいたのです。「
ああ烈で風だ。今度はすっかりやらへる。一郎。ぬれる、入れ。」いつか一郎のおぢいさんが潜りの処でそらを見上げて立ってゐました。一郎は早く仕度をして学校へ行ってみんなに又三郎のさやうならを伝へたいと思って少しもどかしく思ひながらいそいで家の中へ入りました。
「九月十日」の章は、又三郎の別れを予感した一郎が感じる空や風の有様が、風という言葉11例とともに全体から感じられます。特に私の好きな風の風景なので、全文引用してみました。それまで、主に登場する子供は、「耕一」ですが、一郎に変わっていて、それは「風の又三郎」に引き継がれます。
又三郎との別れを予感した一郎が目覚めて外に出てみると、一郎が起きるのを待っていたかのように、一郎の周囲は風に包まました。一郎の胸の奥まで風が滲みこんできます。風と雨で木は揉まれています。風の流れを感じながら空を見上げていると身近にあった風が遠くタスカロラ海床まで行ことを感じます。以前又三郎が話していたことです。胸の高まりが烈しくなります。
一郎は「ドッドドドドウドドドウドドドウ、あまいざくろも吹きとばせ、すっぱいざくろも吹きとばせ、ドッドドドドウドドドウドドドウ、ドッドドドドウドドドウドドドウ。」と歌っていました。そうすると風のなかから「ドッドドドドウドドドウドドドウ、/ 楢の木の葉も引っちぎれ/とちもくるみもふきおとせ/ ドッドドドドウドドドウドドドウ。」、又三郎のこの歌とともに、「さやうなら一郎さん」という声が聞こえ、ガラスのマントがキラッと光ります。一郎も「さやうなら又三郎さん」と叫びます。静かな別れの成立です。
この挿入歌には賢治の風への思い、憧れ、畏敬の念とともに、賢治が感じ取った風の音、リズム、勢いや手ざわりが、全部込められているのではないでしょうか。「風の又三郎」に引き継がれ、読者の心にも強く残るのは、その背景があるのかも知れません。のちに「風の又三郎」への転換やこのオノマトペの推移については考察したいと思います。
お祖父さんの「ああ烈で風だ。」という現実的な言葉とともに、一郎も学校に行って又三郎のことを友達に教えなくては、と思いたちます。
「風の又三郎」で、別れの言葉もなく高田三郎は去り、子供の心に残った不安、不思議さ、空虚、不可思議さ、とは違って、子供同士の穏やかな交歓が描かれます。この後「風の又三郎」の制作に賢治が託したものはなにか、これからの課題です。
注1 栗原俊明「気になるキーワード・〈栗の木〉」
(『栃木・宮沢賢治の会通信 ぎんどろ』 2017、1)
注2 桐田真輔HP「風の又三郎私考」
新潟県村上市の「風の三郎」:豆一升くれんに/ 風吹いて 来いや/ 来いや 来いや 来いや」、(風が吹いてほしいときに歌う)、「豆一升くれに/ 風吹くな 吹くな/ 吹くな 吹くな 吹くな/ 吹くな」(風が吹いてほしくないとき)があり、(「童歌―光りへの旅」)
山形県最上郡真室川町の「凧上げ」:「風の三郎ア 背病(ヘヤミ)みだ/ お陽(ヒ)さま まめだ/ カラカラ風 吹け吹け」(HP「安楽城のわらべ唄」)
など広く分布します