「若い木霊」では、作者のトキへの想いが深く関わり、印象的な表現となっています。
「若い木霊
―風と光と春のときめき」でも記したように、トキは、1892(明治25)年、既に保護鳥となりました。
1900(明治33)年、岩手県宮古地方で1羽捕獲されたトキが標本として国立科学博物館に保存されていますが、賢治が花巻付近で日常的に生きているトキを見る可能性は少ないそうです(注1)。
もう一つ、賢治がトキと接する可能性は、岩手大学農業教育資料館に収蔵されているトキの剥製標本です。
先に書いた「若い木霊―風と光と春のときめき」では、賢治が、岩手大学農業教育資料館所蔵のトキ剥製標本に遭遇していたか不明としました。剥製標本の存在、展示が何時ころからだったか不明でした。
その後、岩手大学に在籍、大学の野鳥の会でも活動していた知人から、1968年当時、保管庫のようなところにしまわれていた鳥類の剥製を発見し、整理して学内で展示したということを聞きました。初めてトキの標本に遭遇した時の感激も話してくれました。トキの標本は古くからあったというのは確かで、興味が湧き、調べてみました。
岩手大学農業教育資料館のホームページの、「農業教育資料館展示案内」から、「農学部標本群の作製年代とその判定要素」を見ると
トキ
標本bR
購入推定年月日大正4年
作成者株式会社島津製作所(B)
436赤縁ラベル
大典シール無し
の記載がありました。
さらに「農学部標本目録(旧盛岡高等農林学校動物標本)」(「岩手大学農学部附属農業教育資料館標本(鳥類等)について」畑中ままな 2000年9月)の記載は次の通りでした。
トキ
採集年月不明
採集地不明
嘴峰長177.8mm,フ蹠長102.7mm,翼長411.0mm,尾長148.8mm,繁殖羽(夏羽),
制作推定島津製作所(B)
特徴的な朱鷺色が羽に確認されないが、おそらく本標本は繁殖羽(夏羽)と思われる。
さらに農業教育資料館で詳しい事情をお教えいただきました。要約します。
1、大正4年、島津製とあるのは、大正4年には多数の鳥剥製を購入したという記録があり、台座が大正4年、島津製のものとほぼ同じであることに拠る。
2、物品記号436(赤縁ラベル)については、物品記号は購入すると、消耗品以外の物品には通し番号が記入され登録される。赤縁ラベルは貴重品だと思われる。
3、「大典シール」は、大正天皇即位のお祝いが大正4年10月にあり、その祝行事(大典)にちなんで出した製品に、このシールが着いていたが、このトキの場合、台座はこの年のものと同じだが、大典シールは付いていなかった。
宮沢賢治は、大正4年に入学し、7年に卒業、研究生としてさらに2年在学し、大正9年に修了している。大正4年購入とすれば、十分見ていたと思われる。
野鳥というのは、農学や林学分野でとても重要で、農薬が無かった戦前では、とても大事にされた。野鳥との共存が森林の維持や農作物の健全育成に重要で、鳥の剥製はとても重要な教材だった。戦後、農薬が使われる時代になり、森林や田畑の環境が破壊されたが、現在ではまた、環境の大事さが見直され、生物共生の考え方が広まってきた。この精神は正に賢治の世界と一致するものである。
最近では、鳥については写真や映像ファイルがあるので、剥製を教材としては必要としないが、かつては重要な教材だった。
トキの剥製標本は、現資料館の建物とともに、その後いろいろな変遷を辿ったようです。まず、この資料館の変遷は次の通りです。
1912(大正元)年、盛岡高等農林学校本館として竣工。
1949(昭和24)年〜1974(昭和49)年、岩手大学本部として使用。
1974(昭和49)年〜1978(昭和53)年まで、文化俱楽部等の利用。
1978(昭和53)年から資料館として運用されるようになる。
1989(昭和64)年 資料館の整備が行われ
農学部動物昆虫標本室で保管されていた剥製標本はこちらに移されて展示され始める。
資料館から送っていただいた新聞記事によると、新潟県佐渡トキ保護センターでトキの雛が誕生したころの『岩手日報』、1999(平成11)年5月27日には、「盛岡でもトキ見られます」の見出しで、このトキの剥製について取り上げられています。トキが広く一般にも知られるようになったのです。
もうひとつ、大正6年、賢治が、高等農林学校3年の時に発行した、同人誌『アザリア』第一号(大正6年7月1日発行)掲載の『「旅人のはなし」から』には
(諸国を歩いている旅人が)盛岡高等農林学校に来ましたならば、まづ標本室と農場実習とを観せてから植物園で苺でも御馳走しやうではありませんか。
と、「来訪者に見せたいもの」として「標本室と農場実習と植物園と苺」をあげています。
「植物園」については、拙稿「『ポラーノの広場』の競馬場」(注2)を書いた折り調べ、賢治にとって大切なものであったことを知りました。
さらに、『同窓生が語る宮澤賢治 盛岡高等農林学校と宮澤賢治 120年のタイムスリップ』(注3)には、大正元年の「標本陳列所」の写真とともに、農学・林学・獣医学の様々な標本を展示している、第一教舎と第二教舎の間にある62坪の平屋の建物だった記述されています。
賢治がいかに標本を大事に思っていたか分かり、トキの標本も目にしていたことの証明になると思います。
「若い木霊」におけるトキの描写は次のようなものです。
この太陽の光を浴びて、「桃色にひらめ」く「はねうら」を、賢治はどうやって描くことが出来たのでしょう。剥製は夏羽でトキ色の羽色は出ていません。
初めてトキの剥製を見たときの感動そのままに、いろいろな文献を調べ、トキの羽裏の色を知ったのでしょうか。そして太陽の下に飛ぶ姿を思い浮かべたのでしょうか。 この思いは、賢治の桃色への思いと繋がって、胸の高鳴りの表現に使われ、さらに滅びの鳥への概念へと発展したのでしょうか。
まだまだ謎は解ききれませんが、賢治が抱く、光の中に輝くものへの憧憬は、強く感じることが出来ます。
注1:赤田秀子・杉浦嘉雄・中谷俊雄『賢治鳥類学』(1998年 新曜
社)271ページ
注2:小林俊子「ポラーノの広場」の競馬場(『宮沢賢治 絶唱 かなしみと
さびしさ』 2011年 勉誠出版) 240ページ
注3:若尾紀夫編・著『同窓生が語る宮澤賢治 盛岡高等農林学校と宮澤賢治
120年のタイムスリップ』 (2021年7月 岩手大学農学部北水
会) 234ページ
※引用文のルビは省略しました。