宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
賢治のもう一つの浮世絵―青と白の世界
  賢治のもう一つの浮世絵―青と白の世界

宮澤賢治の詩のジャンルに「文語詩」があります。七五調を基本とした文語の定型詩で、脚韻や対句なども考慮に入れられています。
主に晩年、それまでの生き方をみつめ直すように書き始められます。それまでの作品を文語詩化したものと文語詩として書きはじめられたものがあります。
死の直前の昭和8(1933)年8月、賢治によって「文語詩稿五十篇」、「文語詩稿一百篇」として清書された一五一篇と、そこに入れられなかった「文語詩未定稿」一〇一篇が残っています。
  
    春章作中判

    春章作中判 一、

ましろき蘆の花噴けば
青き死相を眼にたゝへ
大太刀舞はす乱れ髪

    春章作中判 二、

白紙を結ぶすはだしや
死を嘲ける青の隈
雪の反射のなかにして
鉄の鏡をかゝげたり    (「文語詩未定稿」)


前回紹介した「浮世絵展覧会印象一九二八、六、一五、」の一部を文語詩に改作、発展させたもので、江戸時代中期の浮世絵師、勝川春章[享保十一(1726)年〜寛政四(1792)]の描いた役者絵を詠っています。
「 春章作中判 一、」に改作されたのは以下の部分です。

……
青い死相を眼に湛え
蘆の花咲く迷の国の渚に立って
髪もみだれて刃も寒く
怪しく所作する死の舞
……

描かれている浮世絵は「中村仲蔵・夜陰野道抜刀」(細版)と推定されます(注1)。 抜き身を構え死相を浮かべて渚に立つ侍が描かれています。演じているのは初代中村仲蔵[元文元(1736)年〜寛政二(1790)年]で、実悪役者として名高く、他の扇面に描かれた絵にもニヒルな雰囲気が漂います。ただし、この絵には〈蘆〉が描かれていません。

「春章作中判 二、」は、

……
白衣に黒の髪みだれ
死をくまどれる青の面
雪の反射のなかにして
鉄の鏡をさゝげる人や
……

の部分を改作し、描かれているのは「大谷弘次・雪中鏡持ち」(細判)と推定されます。雪のなかで、素足で輝く鏡を持ち、顔に隈(くまどり)を持つのはこの絵のみです。(注)。
ただし下書稿一、二にあった〈白衣に黒の髪みだれ〉の光景はむしろ「 春章作中判 一、」に近いものがあります。 
これは文語詩化する際に、行の調整の必要から一度は「春章作中判 二、」に組み込み、他の絵からのイメージで〈白紙を結ぶすはだしや〉を書き入れましたが、〈白〉のイメージが重なることを避けて〈白衣に黒の髪みだれ〉を抹消したのだと思います。
また二つの絵の大きさは細判(約30.3p×15.1p)で、中判(約26.5p×19.5p)ではありません。賢治が訪れた日に出品された勝川春章の作品で中判の役者絵はありませんでした。なぜ賢治が明確に〈中判〉としたのかは謎です。
賢治は文語詩化の際に意図したのは、記憶をそのまま描いたり、直接的な心象を詠いあげたりするのではなく、一つの詩世界として構築し直すということだったのだと思います。
歌麿、春信、北斎なども描かれた「浮世絵展覧会印象」のなかで、文語詩ではなぜ春章の役者絵だけが選ばれたのでしょう。
それは、芝居という架空の世界の多様な題材や、人の生死の境というぎりぎりの場面に、日常にはない修羅を見たからではないでしょうか。それまでの生き方や人の本質を書き残そうとした文語詩のなかで、この詩の目的は絵を借りて〈修羅〉の世界を描くことにあったと思います。
歌舞伎の舞台化粧である隈(くまどり)で、赤系統は荒事など正義を表し、青系統は実悪、鬼畜、怨霊などを表します。勝川春章の時代、まだ非褪色の藍(インディゴブルー)は用いられていませんでしたから、役者絵の青は、賢治の時代でも、ほとんど残っていなかったと思います。ここに賢治が残した〈青〉という言葉は、賢治の心象が感じとった修羅の色でした。
 
注 杉浦静「巨きな四次の軌跡をのぞく窓―「浮世絵展覧会印象」(東京ノート)の浮世絵―」(『賢治研究』50号・宮沢賢治研究会・1989)による。
この展覧会に出品された作品はすべて松方幸次郎所蔵のもので、現在はすべて東京国立博物館に収められている。その目録『御大典記念徳川時代各派名作浮世絵展覧会目録』、『東京国立博物館図版目録浮世絵篇・上』を比較参照した結果の結論。

参照 小林俊子「春章作中判」『宮沢賢治 文語詩の森 第二集』(柏プラーノ・ 2000)








 七月の永野川
    七月の永野川

 今年は梅雨明け前から猛暑が続き、早朝以外は出かけられなくなりました。
6日に赤津川の永野川との合流点の上で、カイツブリの浮巣を発見しました。まだヒナは見えず、親1羽が抱卵中でした。
しかし予報通りその夜には大雨となり、天気の回復を待って行った9日には流されていました。

この場所は釣り堀の機能があるようです。
土手の法面が刈りこまれたと思ったら、15日には除草剤までが撒かれ、中学生の釣り大会の準備中でした。
法面にはノバラやカンゾウなど花も咲き、昆虫や鳥も多いのです
ここでの釣りの一番の利点は、〈自然の中で釣りをする〉ということではないでしょうか。自然の中の危険を察知し対処していくことも、除草剤が川を汚染する、という事実を教えることも教育ではありませんか。

今年はヒナ連れのカルガモは、先月ヒナ6羽親1羽の群れを一回見ただけでしたが、15日に、もう成鳥と同じ大きさでキチンと隊列を組む6羽に会いました。無事ここまで育ったようです。
カルガモと一緒に、胸の黄色みを帯びたマガモとの交雑種が2羽ずつ二か所で見えました。大きな群れになってしまうと識別できないせいもありますが、今の時期のみ見える現象です。
全体カラス類は少なく、ハシボソカラスのみ数羽、ということもあります。ただ時として30羽以上のハシブトカラスの群れに遭遇することもあるので、私の観察の範囲では把握できていない部分もあります。
滝沢ハム所有の広葉樹の木立に営巣していたハシボソカラスが巣立ち、いつでも2羽で行動しています。これも発見です。
常連という感じで、同じ場所に特徴のある鳴き方をするウグイスや囀っているカワラヒワがいたりする中で、このところ少しずつカワウが増えてきています。またこの辺では珍しく、6羽のアオサギの群れや35羽のムクドリの群れにも会いました。
ヒヨドリが増え始め、トビ、モズもちらほらとみかけるようになりました。季節がめぐっても、出来る限りよりよい自然が残っていくことを願っています。

七月の鳥リスト(永野川、二杉橋から大岩橋まで・赤津川、緑地公園から平和橋まで)

カワウ、カイツブリ、アオサギ、ダイサギ、カルガモ、カモ交雑種、イカルチドリ、セグロセキレイ、ホオジロ、ツバメ、イワツバメ、ウグイス、カワラヒワ、シジュウカラ、コゲラ、ヒバリ、セッカ、スズメ、ムクドリ、キジバト、モズ、ヒヨドリ、コジュケイ、キジ、トビ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、
  







六月の永野川

ヨシは緑を増やし始め、少し安堵するこの頃です。


二杉橋上流付近にもかなりのヨシがあります。ここは最も住宅地に近いのですが、冬のアオジをはじめ意外と観察できる鳥が多いのです。3年前、草むらや低木が刈られる前に、ここでコジュケイを初めてみました。


 公園の中の草刈は一段落しました。


以前花壇だった公園の最も北側の部分は、イヌムギ(牧草)が茂っていて確かに刈られてすっきりした面もあります。ヒバリなどの繁殖が終わっていたことを祈ります。


 川沿いのヨシは残して下さったのは有難いことです。出来ればそこに続く草むらをあと幅5メートル残していただけたら多くの生物が棲息出来るでしょう。


 児童遊園と川の間の土手の法面、ここはエノキ、オニクルミ、クヌギ、ハリエンジュなどの樹木、オドリコソウ、ハナウド、マツヨイグサその他、思いがけず多種類の植物があり、それに従って多種類の昆虫の幼虫も棲息できる場所です。


 歩行にはそれほどの影響もないので、刈り取りは最低限、特にこれから秋の刈り取りはやめてほしいと思います。


かつての風景の記憶が次第に薄れていき、現状を受け入れかけている自分を恐いと思います。


 先日、ここで、小学生の虫採りの授業があると聞きました。それは広い意味の環境や生態系の授業でもあります。こんな身近なフィールドを残したいと思いませんか。


  


6月の鳥リスト(永野川二杉橋から大岩橋まで・赤津川緑地公園から平和橋まで)


 


 今の時期、一年で最も鳥の少ない時期です。


6羽のヒナを連れたカルガモがひと組見られました。


 


カワウ、アオサギ、ダイサギ、ゴイサギ、カルガモ、イカルチドリ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、カワセミ(幼鳥)、ホオジロ、オオヨシキリ、ヒヨドリ、ツバメ、イワツバメ、ウグイス、コゲラ、カワラヒワ、シジュウカラ、ヒバリ、セッカ、スズメ、キジ、コジュケイ(山側からの声のみ)、キジバト、ムクドリ、トビ、ハシブトカラス、ハシボソカラス


 








浮世絵の中に流れる風

賢治は浮世絵に強い関心をもち、コレクターでもありました。


浮世絵について、「浮世絵版画の話」、「浮世絵鑑別法」、「浮世絵広告文」を書き、浮世絵に言及した詩もあります。


 


……


  あそこの農夫の合羽のはじが


  どこかの風に鋭く截りとられて来たことは


  一千八百十年代の


  佐野喜の木版に相当する


……(「丘の眩惑」一九二二、一、一二、『春と修羅』)


 


浮世絵の情景を使って、現実の農夫の合羽の翻る様を描きます。〈佐野喜〉は、安藤広重の「名所江戸百景」「花鳥大短冊」などの版元です。そのなかで激しい雨と風の動きを感じさせる絵は、「名所江戸百景」の「大はしあたけの夕立」ですが、翻るものは描かれません。保永堂版「東海道五十三次」の「庄野白雨」には、風に翻る衣服が描かれますが版元は佐野喜ではありません。賢治が版元を記憶違いしたのでなければ、〈截りとる〉と表現されているのは、「大はしあたけのゆうだち」の雨の線から風の鋭さを想定したのでしょうか。


 


次の詩は浮世絵の中の風景を風で表現します。


 


……


  氷点は摂氏十度であって


  雪はあたかも風の積った綿であり


  ……(「浮世絵展覧会印象」 一九二八、六、一五) 


 


 雪は風に置き換えられた事によって、和紙の軽さと乾きと暖かさが強く感じられます。「浮世絵版画の話」には、和紙の繊維の〈膨らみ〉や〈彩色されない白〉についての微妙な記述が見られ、この詩に見られるような、繊細な感覚を裏付けます。


 


1928年6月6日〜25日、報知新聞社主催の「御大典記念徳川時代名作浮世絵展覧会」が、東京府立美術館で開かれました。賢治は15日、16日、21日と絵の入れ替えごとに訪れ、清長53枚、歌麿236枚、春章19枚を見ています。


「浮世絵展覧会印象」はそのときの印象を描いた127行の長詩です。


 


  ……


赤い花火とはるかにひかる水のいろ


たとへばまぐろのさしみのやうに


妖冶な赤い唇や


その眼のまはりに


あゝ風の影とも見え


また紙がにじみ出したとも見える


このはじらひのうすい空色


青々としてそり落された淫蕩な眉


鋭い二日の月もかゝれば


つかれてうるむ瞳にうつる


町並の屋根の灰いろをした正反射


黒いそらから風が通れば


やなぎもゆれて


風のあとから過ぎる情炎


…… (「浮世絵展覧会印象」一九二八、六、一五、)


 


人物の描写です。


 対象となっている絵は、美人画です。〈風の影〉という言葉から連想される移ろいやすさ、儚なさ、空の青さが、浮世絵の人物のはじらいの表情、浮世絵の雰囲気までを思わせます。


眼のまわりに青いくまどりがあるのは、怨霊、実悪、鬼畜などを表す役者絵なので、詩の内容には合いません。この〈風の影ともみえる空色〉は〈はじらひ〉の心理的な表現なのでしょうか。


「浮世絵鑑別法」の五番目に、〈藍顔料の気分〉をあげており、青への関心の深さがうかがわれます。


 


 浮世絵の青の顔料は何が使われていたでしょうか。


 錦絵誕生の直前の宝暦期(1751〜1763)には2色から3色刷りで、紅のほかにくすんだ色調の青が使用されていました。


 明和2年(1765)、鈴木春信が生み出した多色刷りの錦絵では、露草から抽出した爽やかな青絵具が使われましたが、大変褪色しやすいものでした。


 寛政6年(1794)、非褪色の藍(インディゴブルー)が鮮明な青を発色できるように改良され、この年デビューした東洲斎写楽が一部の作品でこの藍を使います。しかし不溶性で、ぼかしなどが難しく広まりませんでした。賢治はこの難しい色の発色の出来栄えを鋭く見極めていたことになります。


文政12年(1830)に北斎の「赤富士」、「神奈川沖浪裏」で使われたベルリンブルー(ベロ藍)は、無機鉄化合物、水溶性で、鮮やかな発色と微妙なぼかしが可能なうえ、光や酸素にも安定していて非褪色でした。


ベルリンブルーは1704年にベルリンで発見され、オランダを通じて日本に入ってきました。閉鎖的と思われる江戸時代、浮世絵師たちは、あらゆる可能性を求めて苦闘していたのだと思います。


賢治が青色を表現する言葉に〈伯林青〉があります。詩「津軽海峡」(『春と修羅』)、「津軽海峡」(春と修羅第二集)では海の色の深い青を表しています。


その後、〔町をこめた浅黄色のもやの中で〕(詩ノート)、「同心町の夜明けがた」(春と修羅第三集)、「短夜」(文語詩一百篇)とその改作のたびに使っています。


時代を追って浮世絵を見るうち、ベルリンブルーの素晴らしさを体感し、〈伯林青〉という表記を作りだしたのではないでしょうか。


 


 浮世絵のなかの風は、視覚を通してのみ感じられる風です。


自然のなかに身をおいて描かれた風が、その色に染まったようにその息吹がきこえるように生々しいのに反し、浮世絵の風は和紙という素材の繊細な感触の上に描かれて切なく、繊細で、はかないものです。


 


「浮世絵展覧会印象」が掲載されている図書


『新校本宮澤賢治全集 第六巻』(筑摩書房)


ちくま文庫『宮沢賢治全集 第三巻』など。


参考


◎『宮沢賢治 風を織る言葉』 勉誠出版2003 (小林俊子)


◎礫川美術館長 松井英男先生講演会「浮世絵「青」絵具変遷の概要と意義―名画〈赤富士〉誕生の秘密―」


(「名品に見る浮世絵の「青」展」《 於、とちぎ蔵の街美術館》関連講演)


 


 


 








宮沢賢治の文語詩における〈風〉の意味 第一章 

   はじめに
 賢治詩に〈風〉の用例(以下〈風〉と略記)は多出するが、出現率が最も高いのは「文語詩稿 一百篇」(1933成立)である。そして作者が〈心象スケッチ〉を目指し発想時の心象をみつめ制作した口語詩群「春と修羅第二集」(1924、2〜1926、1発想)はそれに次ぐものである(注1)。これは何を意味するのであろうか。
 童話において〈風〉はそのものが主人公あるいは登場人物であったり、物語の背景を描くのに大きな効果を与えるものであったりする。また〈心象スケッチ〉と賢治が規定した口語詩群において〈風〉は、心象に捉えられた、ことがらや風景の一つとしてあり、またそれを効果的に表現する手段としての役割もあった。文語詩は、多くの作品が、それまでに制作した詩の文語詩化であり、その方針も多くのメモが示すように、韻律化や凝縮化、自身の生涯を振り返るという意識のもとにつくられている。その制作過程の中での    〈風〉は、普遍的な風の意味を表現する役割を持っているのではないだろうか。〈風〉はなぜ描かれたか、それは、もしそこに風が描かれていなかったら、という問いにもなるだろう。

 凝縮された文語詩の表現のなかで、〈風〉も他の語と同様、背景となる多くの意味を含み、比喩的な表現となっている。
表現目的別にみれば次のようなものになると仮定する。
T凝縮された言葉―一つの言葉として凝縮し抽象的な意味を持つもの。
U比喩―そこにあるものの心象を暗喩する言葉
V心象を含む背景―背景としてそこにあるものの心象を暗喩する背景として―
W背景

 第一章では、「文語詩稿五十篇」について項目別に14例すべてに評釈を加えながら検討する。第二章以降、「文語詩稿一百篇」にも考察を進め、文語詩全体における〈風〉の像を捉え、賢治の詩の制作の意図や表現への思いをも明らかにすることを目的とする。

T凝縮された言葉―〈風の雲〉、〈風輪〉、〈風のみち〉

       上流

   秋立つけふをくちなはの、  沼面はるかに泳ぎ居て、
   水ぎぼうしはむらさきの、  花穂ひとしくつらねけり。

   いくさの噂さしげければ、  蘆刈びともいまさらに、
   暗き岩頸風の雲、     天のけはひをうかゞひぬ。


この〈風の雲〉という短い言葉にはこの詩の成立過程の内容が集約されている。
先駆形の、一〇八一〔沼のしづかな日照り雨のなかで〕(「詩ノート」)の〈洞のやうな眼して/ 風を見つめるもの……〉と〈風にやつれたおももちは〉、〔さわやかに刈られる蘆や〕(春と修羅第三集)の〈風を見つめるその刈り手〉の、気象条件としての風への人の思い―害をもたらすヤマセ、または、風一つで崩れる農業への危うさである。 
文語詩では、その他の詩句はすべて周囲の事物の形容であるのに対し、風の形容のみが抽象的表現である。〈風〉という大きな覆うもの表す語ひとつで、口語詩における空気、社会、人々など全体の不安を形容しようとしている。〈岩頸〉とともに形容する〈暗い〉という語が響き、詩全体の状況、雰囲気を表す。 

  五輪峠

  五輪峠と名づけしは、   地輪水輪また火風、
  (巌のむらと雪の松)   峠五つの故ならず。

  ひかりうづまく黒の雲、  ほそぼそめぐる風のみち、
  苔蒸す塔のかなたにて、  大野青々みぞれしぬ。

 「一六五輪峠 一九二四、三、二四、」(「春と修羅第二集」)を文語詩化したものである。五輪峠は、奥州市江刺区、遠野市、花巻市東和町の境界にある五五六メートルの峠で、安土桃山時代の天正年間に起こった葛西大崎一揆で父を失った子が、菩提を弔うために寛永年間に 開削し、頂上に五輪塔を建てたことによる命名という。
賢治は、大正六年八月、盛岡高等農林の江刺郡の土性調査で、人首方面から、阿原山、種山が原を通って、江刺和賀上閉伊の三郡が接する五輪峠へ向かったと推定される。この方面からの接近により五輪峠の頂上への展望が開ける。
 五輪峠は蛇紋岩の岩帯が通っていて、地質学的にも注目される場所であった。高等農林の同級生高橋秀松は、五輪峠で、蛇紋岩の鉱脈にハンマーを入れて喜ぶ賢治の姿を記憶しているが(注2)、賢治の五輪塔についての認識は全く記憶になかった。
 「一六五輪峠」の発想時(一九二四年三月二四日)、初めて、賢治は五輪塔と峠の名の由来に気付き、その感動から詩作している。五輪塔は方形、円形、三角形、半月形、団形の石材を重ねた仏塔で、それぞれ地、水、火、風、空を表し、五大として、宇宙を構成している五大要素を意味する。密教では五大を五輪と呼び、五輪塔でその思想を具現する。五輪峠の由来を正しく認識した驚きと同時に、〈このわけ方はいゝんだな/物質全部を電子に帰し/電子を真空異相といへば/いまとすこしもかはらない〉と、そこに宇宙、世界の成り立ちと、科学的事実の一致を感じての喜びがある。
また詩の前半〈あ何だあいつは/いま前に展く暗いものは/まさしく北上の平野である/薄墨いろの雲につらなり/酵母の雪に朧ろにされて〉では地主階級への批判と同時に同情も描き、背景のなかに、北上平野の持つ様々な問題を暗示している。
 文語詩化で加えられた第二連の〈ひかりうづまく黒の雲、ほそぼそめぐる風のみち、/苔蒸す塔のかなたにて、大野青々みぞれしぬ〉については、栗原敦は(注3)比喩的な風の道、というよりも曲折しながら峠に続いている細い風の吹き寄せる道、としている。この言葉から、下書稿の状況を読みとるのは不可能だが、この字句で賢治が表そうとしたものは、宇宙を構成している五大要素を具現する五輪塔に由来する地に立ちながら、現実をみわたせば、〈いま前に展く暗いものは/ まさしく北上の平野である〉という村の状況である。壮大な五大思想の具現である〈風輪〉と現実とを対比させるように選ばれた表現が〈ほそぼそめぐる風のみち〉ではないだろうか。

U比喩―歯に吸い込む風、風桜、過冷のシロッコ  

    〔林の中の柴小屋に〕
  林の中の柴小屋に、 醸し成りたる濁り酒、 一筒汲みて帰り来し、
  むかし誉れの神童は、 面青膨れて眼ひかり、 秋はかたむく山里を、
  どてら着て立つ風の中。 西は縮れて雲傷み、 青き大野のあちこちに、
  雨かとそゝぐ日のしめり、 こなたは古りし苗代の、 刈敷朽ちぬと水黝き
  なべて丘にも林にも、 たゞ鳴る松の声なれば、 あはれさびしと我家の、
  門立ち入りて白壁も、 落ちし土蔵の奥二階、 梨の葉かざす窓べにて、
  筒のなかばを傾けて、 その歯に風を吸ひつゝも、 しばしをしんとものおもひ、
  夜に日をかけて工み来し、 いかさまさいをぞ手にとりにける。

 〈その歯に風を吸ひつゝも〉は、実際の風ではなく、密造酒をこっそり飲む情景を表すもので、童話「税務署長の冒険」にも見られる。ものをごまかすものの心理と行為を〈風〉―息遣いに象徴させているものである。
 もう一例〈どてら着て立つ風の中。〉は、働かず無為に過ごすものの形容で、〈風〉は外気を表し〈どてら〉という室内着との不相応を象徴する。
二例とも、自然現象としての風の透明感やすがすがしさはなく、登場人物や社会へのやりきれない思いを象徴する。
 もう一例、五・六行目では、本来ならば耳に嬉しいものでもある松を渡る風を、避けるように閉じこもる姿を描き、これも、状況への相容れない思いを表している。
形式としては、七音五音で七行と「五十篇」でもっとも長く、調子のよい語り口で不道徳な人物への批判というよりも、おかしみを込めて描くことに成功しているが、そのことが逆に寂寥感を強めている。さらにいえば、富裕層の没落を描いて、一九三〇年の昭和恐慌の余波で、地主小作ともども困窮していくことへの鋭い眼を感じる。

    風桜
  風にとぎるゝ雨脚や、     みだらにかける雲のにぶ。
  まくろき枝もうねりつゝ、   さくらの花のすさまじき。
  あたふた黄ばみ雨を縫ふ、   もずのかしらのまどけきを。
  いよよにどよみなみだちて、  ひかり青らむ花の梢。

 文語詩として書き始められ、下書き稿一と定稿のみ、タイトルが「風桜」→「花鳥〔図〕→削」→「風桜」と、一部の語句の推敲がなされたのみであり、背景となる事実もつかめない作である。
 盛岡高等農林学校三年、卒業後の進路に悩み始めていた時期の短歌、歌稿B「大正六年四月」中の桜を描いた472〜474(注4)、また上京中の賢治と保阪嘉内で盛岡高等農林時代の恩師関豊太郎を訪ね花見の宴を持った折の、酔いしれる師と悩みを抱えてか酔えない友、宗教への満たされぬ思いと見通せぬ将来とに悩む賢治が桜の風景の中に描かれる「大正十年四月」の歌稿B805〜811(注4)は関連が窺え、共通した言葉もあるが、証明されるまでに至っていない。
 風はタイトルの、造語〈風桜〉と〈風にとぎるゝ雨脚や、みだらにかける雲のにぶ。〉で始まり、うねる桜の枝、波立つ花の様子と、全体に風によって動く風景が描き出される。
 冒頭の〈みだらにかける〉雲は、賢治がいつも雲に対して抱いていた心乱される思いを表す。桜は賢治とっては、「土神ときつね」における女性の樺の木をめぐる三角関係(樺はこの作品ではサクラである。)や、〔向ふも春のお勤めなので〕、や〔ある農学生の日誌〕での桜の花からカエルの卵を連想する場面など性のシンボルとしてあった。三連に登場する鳥も、性を象徴する黄色で、繁殖期の特徴的な行動として桜の木の間を飛びかう。
 〈風〉のなかに、なぜこれほど衝動的な想いを描いているのだろうか。ここに描かれる荒らぶる風は、人や世界を揺り動かし、破壊する力を持つ自然のもう一つの面である。〔風がおもてで呼んでいる〕(「疾中」)で描かれる、賢治に〈結婚しろ〉と迫ることもあった心を乱される自然現象である。そのなかに描いた、桜や乱れた雲や鳥のあやしい動きとともに、賢治の心を動揺させたのではないか。造語された〈風桜〉というタイトルもそれら暗喩したものではないだろうか。 

     〔さき立つ名誉村長は〕  


  さき立つ名誉村長は、   寒煙毒をふくめるを、
  豪気によりて受けつけず。

  次なる沙弥は顱を円き、  猫毛の帽に護りつゝ、
  その身は信にゆだねたり。

  三なる技師は徳薄く、   すでに過冷のシロッコに、
  なかば気管をやぶりたれ。

  最后に女訓導は、     ショールを面に被ふれば、
  アラーの守りあるごとし。

 シロッコは、初夏にイタリアに吹く熱い南、あるいは東南の風である。サハラ砂漠で発生した時は乾燥しているが、地中海を越えることでイタリア南部到達時には高温湿潤風となり時に砂嵐を伴う。賢治は、同時期の作品、〈〔馬が一疋〕に〈マイナスのシロッコというふやうな/乾いてつめたい風を/まっかうから吹きつければ〉でのみ使い、熱い風としては使わない。
 下書き稿一の書かれた用紙〔四信五行に身を守り〕(口語詩稿)と同日の事柄をあつかった詩、〔馬が一疋〕(口語詩稿)は〔吹雪かゞやくなかにして〕(五十篇)となり、〔めづらしがって集まってくる〕は〔雪うづまきて日は温き〕に、〔職員室に、こっちが一足はいるやいなや〕は「来賓」に文語詩化される。また〔氷柱かゞやく窓のべに〕、「訓導」も関係深い。これら同時期の小学校での集まりでの印象をつづった詩群から、風景を選択し、言葉を選び、象徴化させたのが、〔さき立つ名誉村長は〕である。
 この集まりは、「農事講演会」であったという。「農事講演会」は佐藤成(注5)によれば大正十一年から稗貫郡の小学校を会場にして毎年巡回弁論大会(弁論部農談会)が開催され、賢治の農学校退職後も続けられたという。学校と地域農村の密接な連携、学校の紹介、生徒募集、卒業生の追指導などの目的で、講師は校長、教諭、卒業生で、賢治は人気の講師であったばかりでなく生徒の講義の補説や指導を行ったようだ。
『花農六十周年記念誌』掲載の、昭和三年以降と推定される会の内容は、「農業の過去現在並びに将来について」(中野新佐久 校長)、「農作業の病害」(堀籠文之進 教諭)、「農業の科学化」(阿部繁 教諭)、「農村青年の使命」(柳原昌悦 昭和三年卒)、「共存共栄の鍵」(川村義郎 昭和二年卒)、「価値アル人物」(高橋秀蔵 昭和三年卒)、「混沌たる農村の進路」(島(小川)友三 昭和二年卒)、「自覚ある労働」(滝田武男 昭和二年卒)、「畜産品の加工」(菊井清人 昭和二年卒) となっている。
 下書稿二から前半に登場する〈名誉村長〉は、村長の性向を比喩的に表したもので、湯口村村長阿部晁(任期大正十三年十月〜昭和九年一月)だったと推定される。佐藤隆房によれば(注6)、阿部は人間性も容貌も豪気であったといい、栗原敦・杉浦静「「家政日誌」による宮澤賢治周辺資料」(『宮澤賢治研究Annualvol.15』 平成十七年三月)によれば昭和三年二月一六日に湯口村村長阿部晁は講演依頼の書簡を賢治に送っている。また「大正一五年から昭和三年、羅須地人協会時代肥料設計事務所や農事講演を行った場所」(『宮澤賢治生誕百年記念特別企画展図録』宮澤賢治イーハトーブ館 平成九年)によれば、同年の湯口村宝閑小学校での講演記録が残っている。 この二つのことから、賢治は阿部の依頼を受け湯口村宝閑小学校での講演会に出ていると推定される。そこには、賢治に想いを寄せ葛藤を生んだ高瀬露が訓導として勤務していた。 
 第二連の〈沙弥〉は修行浅い僧侶のことで、本願寺派に属して、「氷質の冗談」(春と修羅第二集)にも〈ろ頂部だけをてかてか剃っ〉た〈白淵先生〉として登場する、花巻農学校時代の同僚白藤慈秀と推定される。女訓導は高瀬露、気管を破られた徳薄い技師はすでに肺疾患を感じていた賢治自身であろう。
 寒さのなか、気概で寒さを跳ね返す〈名誉村長〉、僧侶なのに殺生戒を破って猫毛の帽子を被って暖を得ている未熟な僧侶、イスラム教徒のごとくショールで寒さを防ぐ女性教師に対し、技師は徳がないので、寒さで気管を破られてしまっている。
 ここで、冬季の湿潤な冷たい靄の比喩に本来は熱風のシロッコという真逆の現象を用いたは、七五調の軽い四拍のリズムでと揶揄と自虐の比喩に満ちた言葉と共に、農事講演会の目的とは裏腹の実情と、わが身への揶揄であったのではないか。

V心象を含む背景―さびしい風、葱嶺に鳴る風、睡い南風、秋風


    〔こらはみな手を引き交へて〕

  こらはみな手を引き交へて、  巨けく蒼きみなかみの、
  つつどり声をあめふらす、   水なしの谷に出で行きぬ。

  廐に遠く鐘鳴りて、      さびしく風のかげろへば、
  小さきシャツはゆれつゝも、  こらのおらびはいまだ来ず。

 下書稿一〈ひるの膏(あぶ)油(ら)のしたたりて〉、下書稿二〈ひるの緑油(あぶら)のしたたりて〉、下書稿三〈ひるのみどりのかげろひに〉と、真昼を思わせる太陽光の記述があるが、定稿では消えて〈さびしく風のかげろへば〉となる。吉本隆明(注7)、伊藤真一郎(注8)、栗原敦(注9)、信時哲郎(注10)も、夕暮れとして、子を心配する母の思いの強さの背景とする。島田隆輔(注11)は、下書稿の記述を重んじて、鐘は昼の鐘とし、昼時の子を待つ母の姿としている。時刻の記述はないのに、夕刻とする意見が多数出るのは、〈風〉、〈鐘〉などの言葉と共に、〈さびしく風のかげろへば〉にあり、〈さびしく〉、〈かげろふ〉はうつろっていくもの感じさせ、母の心配の深さを表そうと賢治は意識してそうしたのではないか。
 加えて、沢田由紀子の指摘 (注12)では、詩の前半に、〈こらはみな〉、〈みなかみの〉、〈あめふらす〉、〈水なしの谷〉、など水に関するイメージを連ねて、子らの危険を象徴するという。
 下書稿二には「渓流の母」「準平原の母」「外山所見」のタイトルが見られ、 背景は「風の又三郎」の背景ともなった、種山の北西五キロほどのところにある外山(そでやま)集落と推定される。外(そで)山沢(やまざわ)―上流の伏流水に拠っている沢―水なしの谷―があり、危険な場所でもある。この背景に加えて、危険や不安を暗示する言葉は、風に関する言葉とともに、自然との関わりの深さ、自然の脅威、その中で生きる母の子への賢治の思いの深さをしめす。

    〔たそがれ思量惑くして〕

  たそがれ思量惑くして、  銀屏流沙とも見ゆるころ、
  堂は別時の供養とて、  盤鉦木鼓しめやかなり。

  頬青き僧ら清らなるテノールなし、  老いし請僧時々に、
  バスなすことはさながらに、  風葱嶺に鳴るがごとし。

  時しもあれや松の雪、  をちこちどどと落ちたれば、
  室ぬちとみに明るくて、  品は四請を了へにけり。 

 下書稿一は 雨ニモマケズ手帳で、タイトルは「報恩寺」、文語詩篇ノートの一九一六年二月にもタイトル「報恩寺」の項に、〈◎寒行に出でんとして/銀のふすま、◎暁の一燈。◎警策/◎接身居士/品行悪しといふとも/なほこの僧のまなざしを見よ〉がある。
 報恩寺は盛岡市北山の曹洞宗寺院である。盛岡高等農林一年の冬、賢治は参禅している。そのときの住職、尾崎文英は、行動が粗雑で品行も悪かったと言うが、賢治は評価していて、時に問答し座禅も組んでいたという。曹洞宗なので日常は法華経を読経することは無いのだが、第一連〈堂は別時の供養にて〉から、いつもとは違う法華経の読経が参禅していた賢治の耳に入ったことがわかる。信奉していた法華経の読経に賢治の心は高揚する。
 風は、第二連、僧の読経の形容〈風葱嶺に鳴るがごとし〉と使われる。法華経を読経する若い僧の高めの声―テノール―と老僧の低めの声―バス―、二重唱になっている。〈葱嶺〉はパミール高原で、タクラマカン砂漠を表す第一連の〈流沙〉とともに、賢治の関心の深い西域を連想させる言葉である。
若き日の一瞬の記憶を文語詩として書きとどめたのは、賢治にとって偉大な法華経への思いと、音―美声―ゆえであろうか。風として表現することでより記憶の鮮烈さと崇敬の念が感じられる。

    秘事念仏の大師匠〕〔一〕


  秘事念仏の大師匠、    元真斉は妻子して、
  北上岸にいそしみつ、   いまぞ昼餉をしたゝむる。

  卓のさまして緑なる、   小松と紅き萓の芽と、
  雪げの水にさからひて、  まこと睡たき南かぜ。

  むしろ帆張りて酒船の、  ふとあらはるゝまみまじか、
  をのこは三たり舷に、   こちを見おろし見すくむる。

  元真斉はやるせなみ、   眼をそらす川のはて、
  塩の高菜をひた噛めば、  妻子もこれにならふなり。

 秘事念仏は東北地方に広まっていた隠し念仏で、昭和初期まで弾圧される存在であったが、表向きの宗教とは別に、この念仏の導師(大師匠)によって生活のなかで、さまざまの行事が行われていたという。飛田三郎(注13)によれば羅須地人協会のあった桜集落では隠し念仏が盛んで法華経との対立が深かったという。また、父が檀家総代だった浄土真宗の安養寺は隠し念仏を糾弾したといい、隠し念仏は賢治一家にとって忌むべきものであったろう。
下書稿一の書かれた用紙「憎むべき「隈」辨当を食ふ」は、羅須地人協会の活動中の賢治に悪意ある行為のあった「隈」との遭遇における心理的な戦い―むしろ賢治の心の中の葛藤―を描いたものである。ここに一〇二五〔燕麦(オート)の種子をこぼせば〕・「一〇二八酒買船」・〔温く妊みて黒雲の〕のイメージが加わり、〔秘事念仏の大師匠〕〔一〕では、密造酒を買いに行く酒買い船と秘事念仏の大師匠元真斉との遭遇の風景となった。
 〈まこと睡たき南かぜ〉は二者の描写の間で、背景を描く連に登場する。公然の秘密といえる隠し念仏の権力者導師と同じく公然と密造酒を買う者二者間の、故なき無意味な反感を皮肉をこめて〈生ぬるい風〉に象徴させる。

    初七日


  落雁と黒き反り橋、     かの児こそ希ひしものを。
  あゝくらき黄泉路の巌に、  その小き掌もて得なんや。

  木綿つけし白き骨箱、    哭き喚ぶもけはひあらじを。
  日のひかり煙を青み、    秋風に児らは呼び交ふ。

 幼くして死んだ子供の初七日の光景を描く。
風の出現するのは定稿のみで、生きてはしゃぐ子らを包む秋の風である。
悲痛を象徴するものは、冒頭の〈落雁〉〈反り橋〉という菓子の名で、菓子を食べることのできない死んだ幼子、応えるはずもない死んだ子供を呼び続ける親と、相反して友だちの死ゆえに菓子を貰うことが出来てはしゃぐ子らの叫び声と、それぞれに対照的事実を書き込む。
ここの菓子は、葬式の供え物で特別なものである。『注文の多い料理店』序〈氷砂糖をほしいくらい持てなくても〉にあるように、この時代、一般には日常生活に菓子は普及していない。菓子のみならず一九三〇年(昭和五年)に発生した昭和恐慌によって農村は大打撃を受け東北地方を中心に各地で欠食児童が深刻な社会問題となった(注14)。
特別なものとしての菓子を介して、死んでいった子と生きる子らの姿を対照して描くことによって、死の悲しみを浮き立たせているも。
秋の風が感じさせるものは、澄んだ心地よいそして冬の前にして幾分かげりのある、といったものであるが、そこには子らの健全さとともに、いつ訪れるかもしれない不幸な影をも象徴する。

W背景―〈水と濃きなだれの風や〉、〈風きららかに吹ききたり〉、〈蒼茫として夏の風〉、〈柏原風とゞろきて〉

    〔水と濃きなだれの風や〕


  水と濃きなだれの風や、    むら鳥のあやなすすだき、
  アスティルベきらめく露と、  ひるがへる温石の門。

  海浸す日より棲みゐて、    たゝかひにやぶれし神の、
  二かしら猛きすがたを、    青々と行衛しられず。

 「三七五山の晨明に関する童話風の構想 一九二五、八、一一」(春と修羅第二集)から発展した〔水よりも濃いなだれの風や〕(春と修羅第二集)を文語詩化したものである。これら二作は早池峰山の情景を、色彩豊かに〈電気菓子〉、青ザラメ、カステーラなどを使って童話風の描き方をしている。風はかがやき、そこに陶酔している作者がある。
 定稿に至って、早池峰の風景の中から選ばれたのは、〈温石の門〉、〈アスティルベ〉、〈海浸す日より棲みゐて、たゝかひにやぶれし神〉である。
早池峰山の山体は蛇紋岩、橄欖岩から成っていて、〈門〉と形容できる、突起物がたくさん見受けられる。また蛇紋岩は焼いて懐炉として使用する温石に適している。
 早池峰山には縄文から続く山の神が、早池峰神楽などに語り継がれているが、海底にあった時代の海の神は滅び去ったものとして賢治は捉えたのであろう。そこに、早池峰山の、敷衍すれば、隆起という地球規模の変化、失われたもの、歴史の重みを感じ取って、悲しみを書き込もうとしたのではないか。
 下書稿の早池峰の童話的世界から文語詩の深く沈静したものへの変化の過程で、〈水と濃いなだれの風や〉は変わらず導入部の言葉として一貫している。濃密な風は、二つの世界―光のファンタジイと、遠い日の悲しみとを繋げるものでもあった。 

    〔きみにならびて野にたてば〕

  きみにならびて野にたてば、  風きららかに吹ききたり、
  柏ばやしをとゞろかし、    枯葉を雪にまろばしぬ。

  げにもひかりの群青や、    山のけむりのこなたにも、
  鳥はその巣やつくろはん、   ちぎれの艸をついばみぬ。

 下書稿一は雨ニモマケズ手帳に書かれ、その三連に〈「さびしや風のさなかにも/鳥はその巣を繕はんに/ひとはつれなく瞳(まみ)澄みて/山のみ見るときみは云ふ」があり、下書稿二のタイトルには恋愛を象徴する「ロマンツェロ」があることから、〈きみ〉は女性とされる。
 一方、下書稿一の〈まこと恋するひとびとの/とはの園をば思へるを〉からすると、言及されているのは〈まこと〉―賢治の求めつづけた大きな真実―であり、大正十四年五月一〇日、一一日小岩井農場から姥屋敷をへて柳沢、焼け走りをともに歩いた(森佐一宛書簡474(昭和八年))、森荘已池(佐一)とする説(注14)もある。巣作りを詠みこんだのは、誕生と命へ思いであったとすれば女性とは限らない。   
 風は視覚に訴えて〈きららか〉に吹く。その音感とともに、詩全体の爽やかさからはむしろ信頼を寄せる人物への高揚する心を感じる。

     〔川しろじろとまじはりて〕

  川しろじろとまじはりて、   うたかたしげきこのほとり、
  病きつかれわが行けば、    そらのひかりぞ身を責むる。

  宿世のくるみはんの毬、    干割れて青き泥岩に、
  はかなきかなやわが影の、   卑しき鬼をうつすなり。

  蒼茫として夏の風、      草のみどりをひるがへし、
  ちらばる蘆のひら吹きて、   あやしき文字を織りなしぬ。

  生きんに生きず死になんに、  得こそ死なれぬわが影を、
  うら濁る水はてしなく、    さゝやきしげく洗ふなり。

 詩前半は病んだ身で、北上川の情景、泥岩層に自らの修羅を映してさまよう姿を描く。風の表現は三連に、転句のように豊かな芦原の風に吹かれる情景を表現する。
修羅の意識は、下書稿一の〈きみ待つことの/むなしきを知りて/なほわが瞳のうち惑ふ〉から恋愛感情とも考えられる。しかし背景が賢治がイギリス海岸と名付け、太古からのクルミやハンノキの実の化石、第三期偶蹄類の足跡の発見された北上川と猿ヶ石川の合流する辺であることから、賢治が人の進化の過程(注15)や、仏教の十界互具思想(注15)を感じ取ったための感情と思われる。 
 賢治は、進化論からは自分の中に動物であった時の記憶が残っていること、十界互具思想からは人間の心の中には常に地獄も畜生など十界の世界がある、と信じ、自らの修羅の心を気付かせられることとなったという(注16)。歌曲「イギリス海岸の歌」では〈修羅の渚〉の語句もある。
 さらに最終連、死からも取り残された自分の様を描き、〈あやしき文字〉は死を連想させる不吉なもの、と解することが出来る
賢治は植物が風によって動くときに現れる光の輝きを好んで、風で翻る豆畑や、葉裏の白の美しいギンドロ、ヤナギを多く作品に取り上げているが、ここでは、ただ美しい情景ではなく〈あやしき文字〉を見いだす。鈴木健司(注17)、近藤晴彦は(注18)詩全体の〈あやしさ〉を象徴するものと見る。
 豊かな芦原を吹く風も、詩人の心、死や宿世や修羅への慄きを映しこむ。風のもつ違った一面である。 

    〔そのときに酒代つくると〕


  そのときに酒代つくると、  夫はまた裾野に出でし。
  そのときに重瞳の妻は、   はやくまた闇を奔りし。
  柏原風とゞろきて、     さはしぎら遠く喚ひき。
  馬はみな泉を去りて、    山ちかくつどひてありき。

 風によって原野を表現する。下書き稿一のタイトルが「柳沢」で、「柳沢」([初期短篇綴等])が原点であると言われる。(注19)
 柳沢の夜の原野を背景に、他人の馬を細工して酒代を脅し取ろうと出て行く夫と、その留守に愛人のもとへ〈奔〉りでて行く妻が描かれる。
妻の眼、重瞳(ちょうどう)は、二重になっている瞳で、貴人の身体的特徴として中国の舜、項羽、日本でも豊臣秀吉、平清盛などの権威づけのための伝説にも使われた。医学的には虹彩離断、瞳孔膜遺残などで、または黒目が黄みを帯びた薄い茶色であるために中心にある眸子がくっきり見えるものという。「柳沢」と同じ背景の、大正六年に岩手山登山の折、ホテルの隣室の帝室林野局員の話を聞きまとめた詩「三三〇〔うとうとするとひやりとくる〕に出現する、馬の値下がりのために身売りをしなければならない〈ひとみ黄色のくわしめ(美女)〉もその例かもしれない。また大正八年に同じホテルで起こった殺人事件―自分の情婦の夫を殺して出所後、それを隠して未亡人(旅館主人)と同棲、前科を知った妻から別れ話を持ち出されて、殺害未遂―も遠景としてあるかもしれない。
 賢治は夫に愛想を尽かすように他の男のもとへ走ることを予想される女性に、あやしく魔力的なものの形容を加えたのであろう。
 その性に関わるドロドロとした因縁話が、ひとつの闇の中の話として組み立てられ、原野のなかに展開する。自然はそのかげにうごめく人間などは知らないのだが、なぜかこの風もサワシギも、あやしい雰囲気を感じさせる。 人のあやしさとそれを包む夜の深さを感じさせるのがこの風なのである。
 
注1、拙稿「風の修辞―「春と修羅第二集」・「春と修羅第二集補遺」において」付表(『宮沢賢治絶唱 かなしみとさびしさ』(勉誠出版 2011)
2、「賢さんの思い出一」(川原仁左衛門『宮沢賢治とその周辺』(同刊行会 昭和四七年)
3、「五輪峠」(『宮澤賢治文語詩の森 第二集』 柏プラーノ二〇〇〇)
4、歌稿B「大正六年四月」
472花咲ける/さくらのえだのあまぞらに/ゆらぐはもとしまれにあらねど
473さくらばな/日詰の駅のさくらばな/風に高鳴り/こゝろみだれぬ
473a474焼杭の/棚にならびて/あまぞらを/風に高鳴る/さくらばななり
473b474あまぞらの風に/高鳴るさくらばな/ならびて黒き焼杭の棚
473c474あまぞらの風に高鳴り/さくらばな/あやしくひとの/胸をどよもす
474さくらばな/あやしからずやたゞにその/枝風になりてかくもみだるは
「大正十年四月」
805エナメルのそらにまくろきうでをさげ、花を垂るるは桜かあやし
806青木青木はるか千住の白きそらをになひて雨にうちどよむかも
807かゞやきのあめにしばらくちるさくらいづちのくにのけしきとやみん
808ここはまた一むれの墓を被ひつゝ梢くらみどよむときはぎのもり
809咲きそめしそめいよしのの梢をたかみひかりまばゆく翔ける雲かな
810雲ひくく桜は青き夢の列汝は酔いしれて泥州にをどり
811汝が弟子は酔はずさびしく芦原にましろきそらをながめたつかも
5、『証言宮澤賢治先生』(農文協 平成四年)
6、『新版宮澤賢治素顔のわが友』(冨山房 平成六年)
7、吉本隆明「孤独と風童」(『吉本隆明全著作集15』 勁草書房 昭和四九年)
8、伊藤真一郎「文語詩篇」(『国文学解釈と鑑賞611』至文堂 昭和五七年)
9、栗原敦「賢治の口語詩と文語詩」(「日本語学16−10」 明治書院 平成九年九月)
10、信時哲郎『宮沢賢治「文語詩稿五十篇」評釈』(朝文社 二〇一〇年)
11、島田隆輔『宮沢賢治研究 文語詩五十篇・訳注2』(二〇一一年一一月)
12、沢田由紀子「宮澤賢治「文語詩」における“定稿性”についての考察」(甲南大学紀要文学編111 甲南大学 平成一一年)
13、「肥料設計と羅須地人協会」(『宮澤賢治研究』筑摩書房 昭和四十四年)
14、島田隆輔『宮沢賢治研究 文語詩五十篇・訳注3』(二〇一一年七月)
15、小野隆祥『宮澤賢治の思索と信仰』(泰流社一九七七) 223pによれば、中学五年のころ、丘浅次郎『進化論講和』、エルンスト.ヘッケル『生命の不思議』をよみ、島地大等と生命の起源や行方の問題を問答している。エルンスト.ヘッケル(1834〜1919年) はドイツの博物学者で、系統発生は個体発生を繰り返すという「生物発生原則」を主張してダーウィンの進化論を強力に支持し、系統樹を初めて発案した。
十階互具思想 人間は十の生存領域(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏)を持ち、十界の一つ一つが他の九界を備え、絶対の悪、善、はないこと。
16、大塚常樹『宮沢賢治 心象の宇宙論』(朝文社 平成五年)
17、鈴木健司『宮沢賢治文語詩の森第2集』(柏プラーノ 二〇〇〇)
18、近藤晴彦「宮澤賢治への接近」(河出書房新社 二〇〇一)
19、榊昌子『宮澤賢治初期短篇綴の世界』(無明舎出版 平成一二年)

詩の解釈については前述、信時哲郎『宮沢賢治「文語詩稿五十篇」評釈』、島田隆輔『宮沢賢治研究 文語詩五十篇・訳注1〜4』に拠るところが大きい。