宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
9月の永野川

9月の永野川


 


9月に入ると、さすがに早朝では暑さは感じなくなります。


まだ、夏鳥のオオヨシキリやセッカやゴイサギが見られる半面、ツバメはめっきり少なくなりました。


栃木県版レッドリスト2011年版で準絶滅危惧種となったコサギを注目しているせいか、ここではよく見かけます。主に緑地公園の赤津川合流点近く、滝沢ハムの調整池(汚水処理池)です。5日には公園で4羽、13日には池で6羽、25日には公園で6羽、池で8羽確認できました。他の鳥たちが少ない中、チュウサギ、ダイサギ、アオサギも健在でした。


 


大岩橋下の草むらで、花の大きなオオマツヨイグサを見つけました。在来種、外来種を問わず、この河原の植生の多様さは、専門家の目で一度調べてほしいと思います。


15日、おそらく市役所担当課の知らないことでしょうが、民間人がこの近くで草刈りをしていました。善意の行為なのでしょうが、果たしてこれでよいのでしょうか。


25日、不安が的中して公園の法面の草を刈られました。8月のお話では、これ以降の草刈はないという話だったのですが、ここで刈られると今季冬鳥の生息するまでに草むらは育ちません。


もう来年度を見越して行動するよりないと思い、担当課へ問い合わせてみました。公園の美化のグループがやっているなら、話し合いの余地があると思えたからです。


担当課の話では、単に公園を利用しているだけの人の強硬な主張をいれて、業者に刈り取りを依頼したそうです。


このように、そのときの流れだけで対応する姿勢は疑問です。ここの刈り取りの善悪は別としても、担当課だけでなく市の方針として根本的な自然保護の姿勢を打ち出すべきではないでしょうか。


あまり何度も繰り返されるので、自分に自信が持てなくなり、もう一度法面の周辺を見なおしてみました。本当に狭い空間ですが、ここに冬鳥の姿が見られた時のことを思い、現状が胸を突きます。


もうひとつ、河原には、ヌスビトハギ、オナモミなど繁殖目的に種子を動物や人に付ける植物がありますが、それが子供たちにつくのは可哀想だ、という意見を耳にしました。一瞬耳を疑いました。


60年前、私たちが子供のころ、それは「面白いこと」でした。少なくとも30年前の息子の子供時代でも、「オナモミ戦争」という遊びもありました。また、それを避けて通る知恵も自分で身につけていったと思います。


そのことから、生物の種の保存しようとするたくましさ―自然界の成り立ちを知り、その中で生かされている人間も感じることが出来るのではありませんか。


時代が変わったと言えばそれまでですが、こと自分の子どもや孫に関することになると、周囲が見えなくなっているような気がします。


 


5日に、モズが今季初めての高鳴きを聞かせたのを皮切りに、その後あちこちで聞こえてきます


ヒヨドリが群れでにぎやかで飛び、モズの高鳴きや鳴きまね、ウグイスの地鳴き、なにか聞いたことのない小さめな声、渡りの途中のカケスの声と、鳥たちの声が増えてきました。


 探鳥シーズンは目前です。


 


9月の鳥リスト(永野川二杉橋から大岩橋まで・赤津川、緑地公園から平和橋まで)


 


カワウ、アオサギ、ダイサギ、チュウサギ、コサギ、カルガモ、イカルチドリ1、イソシギ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、キセキレイ、ウグイス、セッカ、オオヨシキリ、カワセミ、ツバメ、スズメ、ホオジロ、セッカ、コゲラ、カワセミ、モズ、キジバト、ヒヨドリ、キジ、コジュケイ、ムクドリ、オナガ、ハシブトカラス、ハシボソカラス








宮沢賢治の文語詩における〈風〉の意味 第二章 その1
宮沢賢治の文語詩における〈風〉の意味 第二章 その1


第一章では、「文語詩稿五十篇」の〈風〉の出現する14例(14篇)について、評釈を加えながら、以下の表現目的別に検討することを試みた。
T凝縮された言葉―一つの言葉として凝縮し抽象的な意味を持つもの。
U比喩―そこにあるものの心象を暗喩する言葉
V心象を含む背景―背景としてそこにあるものの心象を暗喩する言葉
W背景―背景としての風

第二章では、「文語詩稿「一百篇」中、風の出現する35例(30篇)についてまず評釈を試みる。
表現目的については再考する余地を見いだしたので、第三章以降、文語詩五十篇での考察と合わせて、表現目的別に、文語詩全体における〈風〉の像を捉え、賢治の詩の制作の意図や表現への思いをも明らかにしたい。

文語詩稿を検討してきて、解明不十分と感じていることがある。
一つは推敲過程に出現するタイトルの変化である。詩の〈象徴化、一般化〉だけではくくれないものがあるような気がする。また推敲の意図、背景も詳細には把握できていない。
もう一つは自伝的、歴史的事実で、これを正確に裏付けることが難しい。
これらも第三章では解明していきたい。

この稿、 第二章その1では、35例中、目次順に15篇(17例)について解釈と制作の背景などを検討する。

1、 「母」

   雪袴黒くうがちし     うなゐの子瓜食みくれば

風澄めるよもの山はに   うづまくや秋のしらくも


その身こそ瓜も欲りせん  齢弱き母にしあれば

手すさびに紅き萱穂を   つみつどへ野をよぎるなれ

 「文語詩篇ノート」の18ページ、「22 1917」「八月」の項に、〈瓜喰みくる子  日居城野 鳥 母はすゝきの穂を集めたり〉を四角に囲んだメモが見られることから、この光景は既に高等農林時代の賢治の心に印象付けられていたものである。
 下書稿一は黄罫20行一面の詩稿用紙に書かれ、推敲されず×印で削除される。裏面の下書稿二にいたって〈齢若き〉母を明確に記述する。
「女性岩手」第四号(昭和七年十一月)発表形から定稿に至る間は行の形態、小さな表記の変更はあるが、内容はほとんど変わらない。
まだ自分でも瓜を食べたいであろう年頃なのに、わが子にのみ瓜を食べさせながら歩く、若いというよりも幼い母のけなげさを前面に描きながら、背後にある農村の貧しさを訴えている。若い結婚、出産は貧しさゆえの、口減らしのためでもあり、それゆえの不幸も数多く生まれていた。(注)
〈風澄めるよもの山はに〉は下書稿一から出現している。風景全体を清らかなものにしていて、風がすぐれた背景を生むという例にもなりそうである。
その背景が美しければ美しいほど、言外の現実の重さは読む者の胸に響く。見事な手法である。

参考文献
三神敬子「母」(『宮沢賢治 文語詩の森 第二集』 宮沢賢治研究会編 柏プラーノ 2000)によれば、厚生省人口動態調査によればこの詩の発表された二年前、全国結婚総数のうち十八歳未満は十一%を占め、岩手県はその中で五パーセントを占めた。

2、 「保線工手」

狸の毛皮を耳にはめ、    シャブロの束に指組みて、

うつろふ窓の雪のさま、   黄なるまなこに泛べたり。


雪をおとして立つ鳥に、   妻がけはひのしるければ、

仄かに笑まふたまゆらを、  松は畳めり風のそら。

「四一〇 車中」(一九二五、二、一五、「春と修羅第二集」)を文語詩化したものである。
下書稿一は黄罫22行の詩稿用紙に書かれ、タイトルは「鉄道工夫」で、四行三行の二連である。下書稿二は一の裏面に書かれた三行二連、細かな推敲がなされるが大きな変化はない。
下書稿三は黄罫22行の詩稿用紙に書かれ、四行二連の形が整ってくる。タイトルは手入れ形で「保線工手」に変わる。
細かな推敲の上、「女性岩手第四号」(昭和七年一一月)に掲載されたものは四行二連で、形態以外は定稿と変わらない。
列車で同乗した鉄道工夫と、車窓の景色描いた、「四一〇 車中」下記のとおりである。

ばしゃばしゃした狸の毛を耳にはめ
黒いしゃっぽもきちんとかぶり
まなこにうつろの影をうかべ
     ……肥った妻と雪の鳥……
凛として
ここらの水底の窓ぎわに腰かけてゐる
ひとりの鉄道工夫である
     ……風が水より稠密で
       水と氷は互に遷る
       稲沼原の二月ころ……
なめらかででこぼこの窓硝子は
しろく澱んだ雪ぞらと
ひょろ長い松とをうつす

ここでは車窓の風景はリードではさんで、三文字下げて区別されている。風の描写は〈……風が水より稠密で/水と氷は互に遷る/稲沼原の二月ころ……〉と冷たさの形容となっている。
下書き稿二から風の表現は、定稿と同形 〈松は畳めり風のそら。〉となる。これはは松林をたたむようになぎ倒していく風である。
ここには、車内の保線工夫が窓外の雪の中で膨れた鳥の姿に太った妻を見いだしている、という平和な風景を対比させる意図があったのではないだろうか。
 賢治は列車を好み、新線が開業すると乗っていたという(注)。列車のスピードは時空を超えるイメージがあり、車窓に移り行く風景はパノラマにように展開する。そして車内の人物模様は人間や社会の様を映し、多くの詩や童話のモチーフを得ている。
文語詩稿では八篇の鉄道を舞台にした作品がある。全てが現実の風景であり、季節の記されていない五十篇の「車中〔一〕」以外は、全て冬の風景である。
風の表現は、この「保線工手」にのみ出現する。このことによって、詩は窓外の風景のなかに、温度や動きを感じさせ、詩の舞台は一層拡がりを見せる効果をもつのではないだろうか。

注、信時哲郎「鉄道ファン・宮沢賢治―大正期・岩手県の鉄道開業日と賢治の動向」(「賢治研究96 2005,7」
参考文献 赤田秀子「車窓のうちそと「保線工手」を中心に」(『ワルトラワラ 13』 2000、8)

3、〔南風の頬に酸くして〕

南風の頬に酸くして、  シェバリエー青し光芒。

天翔る雲のエレキを、  とりも来て蘇しなんや、いざ。

「七一四 疲労」(一九二六、六、一八、春と修羅第三集)を文語詩化したもので下書稿一は「七一四 疲労」の下書き稿一の書かれた黄罫両面24行の詩稿用紙の末尾に書かれている。「七一四 疲労」は以下の通りである。

南の風も酸っぱいし
穂麦も青くひかって痛い
それだのに
崖の上には
わざわざ今日の晴天を、
西の山根から出て来たといふ
黒い巨きな立像が
眉間にルビーか何かをはめて
三っつも立って待ってゐる
疲れを知らないあゝいふ風な三人と
せいいっぱいのせりふをやりとりするために
あの雲にでも手をあてゝ
電気をとってやらうかな

「七一四 疲労」から察すると、背景は夏の田園で、巨大な入道雲が林立している。作者は雲にエネルギーを感じ、手を触れて、電気を得たいと思っている。文語詩も内容は変わらず、韻律化簡略化したものである。
シュバリエは大麦の種名で、その語感からも、緑や豊かさが感じられる。
〈南風の頬に酸くして、〉の状況は口語詩から変わらず、夏のけだるさの象徴であろうが、風に味を感じる共感覚的表現で新鮮なので、爽やかさも感じる。
背景は、農学校退職後、農業の実践生活に入ったころで、まだ精神までは追いこまれていない。〈天翔る雲のエレキを、  とりも来て蘇しなんや、いざ。〉には、自然界の力すべてを味方に引き込む自信と前向きな姿勢を感じることが出来る。

4、「種山ヶ原」

春はまだきの朱雲を
アルペン農の汗に燃し
縄と菩提樹皮にうちよそひ
風とひかりにちかひせり

繞る八谷に劈櫪の
いしぶみしげきおのづから
種山ヶ原に燃ゆる火の
なかばは雲に鎖さるゝ

下記の「原体剣舞連」(『春と修羅』一九二二、八、三一)、歌稿B601,602,603(大正六年七月より)を原型としている。

601 目のあたり/黒雲ありと覚えしは/黒玢石(メラファイアア)の/立てるなりけり  
  602a603みちのくの/種山が原に燃ゆる火の/なかばは雲にとざされにけり 

原体剣舞連
         (mental sketch modified)

     dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
こんや異装のげん月のした
鶏の黒尾を頭巾にかざり
片刃の太刀をひらめかす
原体村の舞手たちよ
鴇いろのはるの樹液を
アルペン農の辛酸に投げ
生しののめの草いろの火を
高原の風とひかりにさゝげ
菩提樹皮と縄とをまとふ
気圏の戦士わが朋たちよ
青らみわたる灝気をふかみ
楢と椈とのうれひをあつめ
  蛇紋山地に篝をかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
     dah-dah-sko-dah-dah
肌膚を腐植と土にけづらせ
筋骨はつめたい炭酸に粗び
月月に日光と風とを焦慮し
敬虔に年を累ねた師父たちよ
こんや銀河と森とのまつり
准平原の天末線に
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
    Ho!Ho!Ho!
       むかし達谷の悪路王
       まつくらくらの二里の洞
       わたるは夢と黒夜神
       首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかゞりにゆすれ
       青い仮面このこけおどし
       太刀を浴びてはいつぷかぷ
       夜風の底の蜘蛛おどり
       胃袋はいてぎつたぎた
    dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
さらにただしく刃を合はせ
霹靂の青火をくだし
四方の夜の鬼神をまねき
樹液もふるふこの夜さひとよ
赤ひたたれを地にひるがへし
雹雲と風とをまつれ
    dah-dah-dah-dahh
夜風とどろきひのきはみだれ
月は射そそぐ銀の矢並
打つも果てるも火花のいのち
太刀の軋りの消えぬひま
    dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
太刀は稲妻萓穂のさやぎ
獅子の星座に散る火の雨の
消えてあとない天のがはら
打つも果てるもひとつのいのち
    dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

下書稿一は丸善特製二の原稿用紙に書かれ、4行、3行、2行の三連で、内容はほぼ定稿と同じである。内容を部分的に書いた習字稿、扇面毛筆稿二と定稿がある。
種山ヶ原は、岩手県奥州市、気仙郡住田町、遠野市にまたがる物見山(種山)を頂点とした標高600-870メートルに位置した高原地帯である。北上高地の南西部の東西11キロメートル、南北20キロメートルに及ぶ平原状の山で、物見山・大森山・立石などを総称して別名「種山高原」とも呼ばれている。賢治は盛岡高等農林学校在学中の大正六年八月下旬から九月初旬にかけて、江刺郡一帯の地質調査のときに歩いて歌稿B601,602,603(大正六年七月より)はそのときの作品である。以来、種山ヶ原は賢治の心に大きな位置を占めており、多くの作品を生んでいる。童話「種山ヶ原」、はのちに「風の又三郎」の中に重要な位置を占める。 「原体剣舞連」も種山ヶ原一帯に伝わる舞踊を感動的に描いたものである。そこには、自然のなか、労働を輝く芸術にかえるという自分の理想と同様のものを感じとった賢治の姿がある。この詩は「歌曲」としてもドボルザーク「交響曲第九番 新世界より」の第二楽章の旋律を付けて生徒たちにも教えている。 風の表現は、賢治作品に頻出し、心象の奥にいつもあった〈風とひかり〉のフレーズである。〈風〉は、周辺を取り巻く空気、透明なもの、宇宙につながるもの、を凝縮し、象徴するものである。高原の風、雲、ひかり、そこに生きている人間の力強さ、など、理想の高鳴りがある。
5、「ポランの広場」

つめくさ灯ともす  宵の広場
むかしのラルゴを  うたひかはし
雲をもどよもし   夜風にわすれて
とりいれまじかに  歳よ熟れぬ

組合理事らは    藁のマント
山猫博士は     かはのころも
醸せぬさかづき   その数しらねば
はるかにめぐりぬ  射手や蠍

下書稿一は、「田園の歌(夏)」にタイトルがあり、童話「ポラーノの広場」の挿入歌、 歌曲 「ポラーノの広場の歌」としても用いられた。第一連は「農民芸術概論綱要」の「農民芸術の綜合」にも用いられる。第二連は以下の通りであった。

 まさしきねがひに いさかふとも
 銀河のかなたに ともにわらひ
 すべてのなやみを たきぎともしつゝ
 はえある世界を ともにつくらん

下書稿二は「イーハトーブ農民劇団の歌」のタイトルで、細かい手入れはあるがほぼ同形である。
下書稿三「花巻農学校 同級会へ 第?回卒業生」で、第二連は変更されて、山猫博士が登場する。
下書稿四は、タイトル「ポランの広場のうた」で、「一〇一四 春  一九二七、三、二三、」の下書稿三とその文語詩化「峡野早春」下書稿の左上に寄せて書かれ、定稿とほぼ同様の内容となり、下書稿五を経て定稿に至る。
第一連は前項「種山ヶ原」と同様の役割を持って推敲されている。広場―歌―雲―風というキーワードを繋ぎ、人と宇宙のつながりを謳う。
その想いに繋がる下書稿二までの第二連のかわりに、下書稿四では童話「ポラーノの広場」のエピソード、偽りの広場―山猫博士の選挙の事前運動の場面―をとり入れる。理想の広場と裏面を描くことで、「歌曲」の形のなかで、社会性を持たせたのであろうか。一九二七年という時となり、理想のみを詠うことをはばかったのであろうか。
歌曲は賢治の理想―芸術と労働の融合を具現するものであった。この詩は、その理想を高らかにうたった。〈風〉は〈自然〉の代名詞として労働の苦しみを癒やすために欠くことのできないものであったろう。

6、「巡業隊」

霜のまひるのはたごやに、  がらすぞうるむ一瓶の、
酒の黄なるをわかちつゝ、  そゞろに錫の笛吹ける。

すがれし大豆をつみ累げ、  よぼよぼ馬の過ぎ行くや、
風はのぼりをはためかし、  障子の紙に影刷きぬ。

ひとりかすかに舌打てば、  ひとりは古きらしや鞄、
黒きカードの面反りの、   わびしきものをとりいづる。

さらにはげしく舌打ちて、  長ぞまなこをそらしぬと、
楽手はさびしだんまりの、  投げの型してまぎらかす。

歌稿B14〈楽手らのひるはさびしき(銹びたる)ひと瓶の酒をわかちて銀笛を吹く(戯れごとを云ふ)((明治四十四年一月より))を文語詩に改作したものである。
無罫詩稿用紙に書かれた下書稿一は十一行で、韻律化の度合いは少なく、風の表現は〈風のしろびかりとつめたき影/のぼりかすかにはためけり〉である。
下書稿二は下書稿一の裏面で風の表現は、〈のぼりかすかにはためきて/障子を過ぐる風の影〉となり、〈風の影〉は、のぼりの動きの影であることを予想させる。
下書稿三手入れ、下書稿四では、さらに〈風はのぼりはためかし/障子の紙に影刷きぬ〉とはっきりさせ、〈よぼよぼ〉という馬の形容と座員たちのカード遊びの光景が加わり、座長のいら立ちの原因を明示している。
定稿では内容はほとんど変わらず、二行四連の形が整う。
大正時代、浅草などで公開される映画とは別に、地方での映画上映は、まず現地との交渉や宣伝をする「先乗り」が行き、ついで〈巡業隊〉―上映のための映写技師や弁士、音楽手、会計からなる一行―が行った。
様子の分からない巡業先・観客、あてにならない小屋主・興行主に加えて、隊員の脱退や増加など不安定な生活を強いられたという(注1)。
賢治は中学時代に遭遇した巡業隊の楽士のことに加えて、隊員たちのすさんだ生活を描き、表を通る〈よぼよぼ〉の馬の情景を添えて、当時の最先端文化と言える映画の陰にある不安を強調する。
風にはためく幟の〈揺れる〉様はその頼りなさを象徴するものである。

参考文献
注1 東京人書評(細馬宏通HP)掲載の、前川公美夫『頗る非常』(新潮社)、柳下毅一郎 『興行師たちの映画史』(青土社) による。

 7、〔みちべの苔にまどろめば〕

みちべの苔にまどろめば、  日輪そらにさむくして、 

わづかによどむ風くまの、  きみが頬ちかくあるごとし。

まがつびここに塚ありと、  おどろき離るゝこの森や、

風はみそらに遠くして、   山なみ雪にたゞあえかなる。


下書稿一は黄罫24 0行の「一〇四八レアカーを引きナイフをもって」(一九二七、四、二六 
「春と修羅第三集」)下書稿二の裏面 に書かれ、四行二連である。「一〇四八レアカーを引きナイフをもって」と内容は全く関わりは無いが、 書かれたのは その日付以降で近い時期と推定される。言葉の僅かな推敲と、形態を全四行にして定稿となる。
一、二行は、「冬のスケッチ第一八葉」の状況を映しているが風の表現は文語詩に初めて出現する。
 「冬のスケッチ第一八葉」は以下の通りである。    
 ※
 行きつかれ
 はやしに入りてまどろめば
 きみがほほちかくにあり
 (五百人かと見れば二百人
  二百人かと見れば五百人)
 いつか日ひそみ
 すぎごけかなしくちらばれり。
      ※
 散乱のこゝろ
 そらにいたり
 光のくもを
 織りなせり。

「冬のスケッチ」では〈きみ〉への幻想が夕暮れの林の描写の中に描かれ、悩みに満ちた空気を感じる。時を置いて書かれた文語詩ではどうであろう。
風のよどみは、一瞬、時間の停止を思おわせ、〈きみが頬ちかくあるがごとし〉と感じさせるがそこは〈まがつび〉(災厄)の神の住む林であった。
禍津日神(まがつひのかみ、まがついのかみ)は神道の神で、禍(マガ)は災厄、ツは「の」、ヒは神霊の意味で、マガツヒは災厄を起こす神である。その禍を直すために直毘神(なおびのかみ)が生まれたと言われる。のちにこの禍津日神を祀ることで災厄から逃れられると考えられるようになり、厄除けの守護神として信仰されるようになった。この場合直毘神が一緒に祀られていることが多い。
賢治のいた場所は具体的には分からないが、岩手県では、八十禍津日神など多くの異称のある「瀬織津姫神」が日本で最多確認されているという(注1)ので、〈まがつびの塚〉は賢治の周辺には多くあったと言えるのかもしれない。
成島毘沙門堂は、「毘沙門天の宝庫」(口語詩稿)、「祭日」(文語詩未定稿)にも読みこまれる。前者には人々の雨乞いを願う場所であり、山全体が〈毘沙門天の宝庫〉として人々の祈りを受け入れることが記述される。後者には味噌を足に塗って厄除けを願うことが描かれている。同じ境内にまつられる三熊野神社も厄除けの神である。禍津日神が厄除けの神を指すならば、口語詩稿は、発想時期が1926年から1928年にかけて、執筆は昭和5年以降と推定される。この詩の書かれた「一〇四八レアカーを引きナイフをもって」の用紙の日付、(一九二七、四、二六 )と重なる。
しかし〈まがつびここに塚ありと、  おどろき離るゝこの森や、〉から感じられるのは厄除けではなく、災厄を起こす神のようでもある。後述、「旱倹」では〈鳥はさながら禍津日を、はなるとばかり群れ去りぬ。〉と災厄の意味でこの言葉を使っている。
風は遠くにも吹いて、山脈の雪を美しく見せている。遠い風は作者の向ける眼の先の遠い風景とともに 過去を見はるかす作者の視線を感じさせる。

注1  HP風琳堂主人

8、「肖像」

朝のテニスを慨ひて、   額は貢(たか)し 雪の風。

入りて原簿を閲すれば、  その手砒硫の香にけぶる。

〔冬のスケッチ〕と同じ10・20行のイーグル印原稿用紙二枚に書かれ、その一部かとも疑われる、四行七連、二行一連の文語の長詩「修羅白日」が下地となる。
ここから口語詩〔松の針はいま白金に溶ける〕(補遺詩篇T)が試作され、文語詩から口語詩への転作の珍しい例である。
さらに黄罫22行の詩稿用紙に再び八行の文語詩「松の針」が書かれ〈入りて原簿を閲すれば、 その手砒硫の香にけぶる。〉の状況が加わる。これは全体が×印で抹消される。
その裏に二行二連の下書稿二「病院主」、余白に下書き稿三「M氏肖像」、定稿、と進む。
風の表現〈額は貢し 雪の風〉は、下書稿二から変わらず出現する。
「修羅白日」、「松の針」ではテニスを憤って額をあげているのは主体であるが、下書稿二以降は付けられたタイトルの〈病院主〉、〈M氏〉の想いを描くとも取れる。
 文語詩の推敲におけるタイトルの変化は謎を含む。ここでは自らの想いとして綴るにははばかれる心情があったともいえるが、課題として後に検討したい。
状況のわかりやすい〔松の針はいま白光に溶ける〕を記す。
   
松の針はいま白光に溶ける。
(尊い金はなゝめにながれ……)
なぜテニスをやるか。
おれの額がこんなに高くなったのに。

日輪雲に没し給へば
雲はたしかに白金環だ。
松の実とその松の枝は
黒くってはっきりしてゐる。

雲がとければ日は水銀
天盤も砕けてゆれる
どうして、どうしておまへは泣くか
緑の針が波だつのに。

横雲が来れば雲は灼ける、
あいつは何といふ馬鹿だ。
横雲が行げば日は光燿
郡役所の屋根も近い。

(あゝ修羅のなかをたゆたひ
また青々とかなしむ。)

おれの手はかれ草のにほひ
眼には黄いろの天の川
黄水晶の砂利でも渡って見せやう
空間も一つではない。

〔松の針はいま白光に溶ける〕中〈(あゝ修羅のなかをたゆたひまた青々とかなしむ。)〉は、平穏でない心―怒り―をみつめた言葉であると思う。
「テニスをする人」への憤りは、「一〇八二 あそこの田はねえ」一九二七、七、一〇 春と修羅第三集)などにも、テニスを楽しみながら教育に携わる教師が批判的に描かれる。その風景なのであろうか。具体的な背景は現在不明であるが興味のわくことである。
〈額は貢(たか)し〉の意は怒りに昂然と顔を揚げている状態なのか。文語詩化に際して、加えられた〈入りて原簿を閲すれば、 その手砒硫の香にけぶる。〉の状況は、〈テニス〉に相対する、仕事をする姿と取れるだろうか。風は冷たく、その頬を吹いたのであろう。
 背景、タイトルの変化など、未解決部分の多い詩である。

9、「暁眠」

微けき霜のかけらもて、   西風ひばに鳴りくれば、
街の燈の黄のひとつ、    ふるえて弱く落ちんとす。

そは瞳ゆらぐ翁面、     おもてとなして世をわたる、
かのうらぶれの贋物師、   木藤がかりの門なれや。

写楽が雲母を揉み削げ、   芭蕉の像にけぶりしつ、
春はちかしとしかすがに、  雪の雲こそかぐろなれ。

ちいさきびやうや失ひし、  あかりまたたくこの門に、
あしたの風はとどろきて、  ひとははかなくなほ眠るらし。

下書稿一は下記「冬のスケッチ」第一九葉 第一章を文語詩化したものである。

      ※ 朝
   みちにはかたきしもしきて
   きたかぜ檜葉をならしたり
 贋物師、加藤宗二郎の門口に
   まことの祈りのこゑきこゆ

 下書稿二は黄罫22行の詩稿用紙に書かれるが三行で中断、下書稿三ではタイトル「贋物師」で、四行四連の長詩となる。内容は定稿とほぼ同じである。
「朝」では、〈贋物師、加藤宗二郎の門口に/まことの祈りのこゑきこゆ〉だったが、下書き稿三では、〈かのうらぶれの贋物師〉とマイナスの評価がつく。
〈加藤宗二郎〉からは斎藤 宗次郎(1877年2月20日 - 1968年1月2日)が思い浮かぶ。
齋藤は岩手県東和賀郡笹間村(現・花巻市)生まれで、内村鑑三の最も忠実な弟子のキリスト教徒である。日露戦争の際、内村の影響で、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をするが、そのため小学校教員の職を失い、新聞取次店を営みながら生計を立て、清貧と信仰の生活を送る。
 宮澤賢治とは、宗派を超えた交流があり、宗次郎の1924年(大正13年)の日記には、ともにレコードを聞き、自作の詩を見せられたとの記述がある。
 ただ宗次郎の裏の一面も近年発掘されていて、地元の身近な人の評価はまた別であったかもしれない。
〈加藤宗二郎〉を齋藤宗次郎と仮定した時、「冬のスケッチ」の時代にすでに〈贋物師〉ではあったが、〈まことの祈り〉を感じていた賢治が、文語詩では〈そは瞳(まみ)ゆらぐ翁面、おもてとなして世をわたる、/かのうらぶれの贋物師、木藤がかりの門なれや。〉と書かねばならないわけがあったのかもしれない。
 この詩で描きたかったのは、かつては親交のあったものへの、絶望の気持ちかもしれない。
風の表現は下書稿一から形を変えながら出現する。まず西風にゆらぐ霜のかけらと弱々しく瞬く明かりを、対象人物の周囲に配してその内実を彷彿とさせ、終行で朝の風を描きながら、廟さえも失って眠る対象への祈りのような気持ちをこめるか。

10、「旱倹」

雲の鎖やむら立ちや、     森はた森のしろけむり、
  
鳥はさながら禍津日を、    はなるとばかり群れ去りぬ。


野を野のかぎり旱割れ田の、  白き空穂のなかにして、

術をもしらに家長たち、    むなしく風をみまもりぬ。

 下記「三一一昏い秋」(一九二四、一〇、四、 「春と修羅第二集」)を文語詩化したものである。

黒塚森の一群が
風の向ふにけむりを吐けば
そんなつめたい白い火むらは
北いっぱいに飛んでゐる
  ……野はらのひわれも火を噴きさう……
雲の鎖やむら立ちや
白いうつぼの稲田にたって
ひとは幽霊写真のやうに
ぼんやりとして風を見送る

下書稿一は黄罫22行「三一一昏い秋」の下書き稿二の上部に、下書稿二は黄罫22行の詩稿用紙に書かれる。
心象も背景も「三一一昏い秋」同様で、旱魃の末、決定的となった不作、実らぬ稲のなかで、為す術もない農家の家長の姿を描く。
一連は風景を描くが〈鳥はさながら禍津日を はなるとばかり群れさりぬ〉は、文語詩化に際して加えられたものである。自由な鳥と逃げ出すことも出来ない人間の差を書き加えて、背景を明確にする。
〈風〉は気象語として、この天候をもたらしたものである、という意味も含み、風景全体でもあり、空虚、空間をあらわすものでもある。〈むなしい〉のは為す術もない凶作、空間を見守る以外にないという状況を最終行にこめている。

11、「歯科医院」

ま夏は梅の枝青く、     風なき窓を往く蟻や

碧空の反射のなかにして、  うつつにめぐる鑿ぐるま。

浄き衣せしたはれめの、   ソーファによりてまどろめる、

はてもしらねば磁気嵐、   かぼそき肩ををののかす。

下書稿一は黄罫22行二面の詩稿用紙に四行二連の文語詩として書き始められた。下書稿一の余白には、四角で囲った、「立候補ヤメサセタル娘/ 何回モ眼ヲ赤クシテ出ル」「谷内村長」「銀行家」「県知事/百合/発電所連」 「岩根橋発電所視察図 /一坑内 /二篝火」の五個の題材メモメモがある。
下書き稿二はその裏面に書かれ、ここでは登場者を〈白き衣せしたはれめ〉と規定する。さらに〈伯楽〉も登場する。その推敲形から〈伯楽〉は〈村長〉となるが、下書稿三では、連ごと削除し、代わって〈たはれめ〉中心の連となる。
タイトルの通り歯科医院の風景と思われる。題材メモはこの詩に関するものであろうか。下書稿三では〈村長〉が登場するが、女性は一貫して〈たはれめ〉であり、「立候補ヤメサセタル娘」の意味ではない。深読みすれば、娘が〈たはれめ〉ゆえ村長の立候補がやめざるを得なかった、ということもあるかもしれないが確証はない。加えて「銀行家」以下の記述が見いだせない。
〈たはれめ〉、〈淫れめ〉、〈舞姫〉等、の出現する詩は多く、「八戸」、〔せなうち痛み息熱く〕(未定稿)、〔なまりの色の冬の海の〕では売られていく娘への愁い、〔夜をま青き藺むしろに〕、「一〇三三 悪意」関連では温泉地歓楽街への批判など様々な思いが交錯する。
この作品の〈たはれめ〉について栗原敦は、〈かぼそき肩ををののかす〉、〈浄き衣〉などに作者が込めたものは、おごりやよごれではなくその存在のはかなさであったとする(注1)。
待合室を描いた〔せなうち痛み息熱く〕(未定稿)でも、〈たはれめ〉と村長とその孫が同席している。題材メモが事実ではないとしても、〈村長〉という人生で不動の位置を確保しているものと、〈たはれめ〉という不確実な生を生きているものとを、並べて描くことに意味を持たせているのではないだろうか。
定稿では社会的な事情をすべて排除して、周囲の状況の描写のなかに〈たはれめ〉を置くことで、より鮮明にはかなさを浮き彫りにしようとしたのであろうか。
風もなく蟻の足音さえ聞こえそうに静まり返った晴天の外景と、室内の歯科の治療道具の電気鑿の音とを並べて描き、誰しも好感を持たないその音に耐えてまどろむ〈かぼそい〉女性が描かれる。ここで、風は無風状態で下書稿三から加えられ、外気の暑苦しさ、閉塞感を助長する。

参考
注1、栗原敦「うられしおみなごのうた」『宮沢賢治 透明な軌道の上から』(新宿書房 1992)
谷内(たにない)村は 明治29年和賀郡谷内村となり、昭和30年東和町となり、平成18年花巻市と合併して花巻市となる。丹内山神社などがある。

12、「社会主事 佐伯正氏」

群れてかゞやく辛夷花樹、  雪しろたゝくねこやなぎ、

風は明るしこの郷の、    士はそゞろに吝けき。

まんさんとして漂へば、   水いろあはき日曜の、

馬を相する漢子らは、    こなたにまみを凝すなり。

〈社会主事〉は社会事業主事で、 大正十四年、「勅令第三二三号朕地方社会事業職員制」によって発令された。これは社会事業の運営管理を、一般事務職でなく、専門職を充てるための制度である。
 佐伯正は岩手県社会事業主事等で昭和2年3月〜4年8月まで在任した。賢治の父、政次郎が、方面委員―低所得者層の救済など地域の社会福祉事業を目的とする活動を行う名誉職委員、今日の民生委員の前身にあたる―を務めた関係で面識があった。
佐伯は歌人でもあり岩手の文芸についても関心を持ち、岩手毎日新聞に「退耕漫筆」を不定期に連載していて、昭和5年10月8日には、賢治の『春と修羅』に言及して 理解しがたくても、評価すべきものとその価値を見いだしている。そして羅須地人協会時代の、無私の農業指導には絶対の賛辞を送り、このころ広まっていたプロレタリア文学への批判とともに描いている。
 賢治との関わりを示すのは、佐伯あて書簡315下書き(昭和6年)である。賢治が昭和2年、羅須地人協会時代に、収穫したものを販売のためにリヤカーに乗せて出た花巻で佐伯に遭遇したことを、思い起こして書かれている。そこには佐伯が、父ではなく賢治に会いに花巻を訪ねてくれたこと、この詩と同様に、〈山浄く風明るいその四月〉〈日曜日〉の文面がある。
佐伯の人柄を彷彿とさせるのは、書簡中に見られる、〈水いろの季節〉を表現するのに、Spring, Fruhring,Printemのいずれがふさわしいのか、と大声で叫んだという屈託のなさ、表現へのこだわりを持っていることであろうか。賢治は好感を持って迎えたのであろう。
生前かかわりのあった、母木光によれば、旅館の隣室で騒ぐ、料金不足の手紙を出す、など好感は持っていないが、佐伯の豪快さを表すことにもなろう。
 現存稿は七種ある。下書稿一から定稿まで、小さな異変はあるが、タイトルの示すもの―社会主事佐伯正氏、日曜日、マグノリア、ネコヤナギ、明るい風、吝けき人、などは変わっていない。
下書稿一は黄罫22行の詩稿用紙に文語詩として書きはじめられている。下書稿一、二、では、〈ひとは鈍(をぞ)きと〉〈ひとは鈍(おぞま)し、吝(やぶさ)かと〉〈いまさらに春を忿(いか)りてなにかせん〉と、やぶさけきものへの登場者(佐伯氏)の怒りの描写となっているが、下書稿四以降は〈紳(ひと)はやぶさけき〉と登場人物(佐伯氏)がやぶさけき者ともとれる。母木光はその説を取るが、下書稿一、二の内容、そして前行の〈この郷の〉からかんがえれば、個人ではなく周辺の花巻の人々への、社会事業主事佐伯の感想となるのではないだろうか。まんさん(蹣跚)は酒に酔ってなどで足元がよろよろするさまだが、賢治の佐伯氏への否定感は感じられない。
文語詩が自伝的要素を持ってある時の一齣を描くものであるとしても、この春の風景のなかに描きたかったものを明確にすることは難しい。タイトルとして「佐伯正氏」を置くものの、描かれるのは春の風景のみである。
書簡315があるので、この詩を理解することが出来るが、 他の文語詩では自伝的な背景を理解することは困難で、またどれほどの意味を持つのかも、今後考えて行きたい。
賢治は、昭和六年、既に盛岡での職を辞していた佐伯に何らかの用件で手紙をしたため、昭和二年の佐伯との遭遇、共感、明るい春の日、希望に満ちた日々を思ったのか。それは、〈風は明るし〉の言葉となってその時代を象徴したのである。 

 参考文献信時哲郎「社会主事佐伯正氏」(宮沢賢治学会イーハトーブセンター会報第44号琥珀 2012年3月)

13、「紀念写真」

学生壇を並び立ち、   教授助教授みな座して、

つめたき風の聖餐を、  かしこみ呼ぶと見えにけり。


(あな虹立てり降るべしや)
(さなりかしこはしぐるらし)
 ……あな虹立てり降るべしや……
   ……さなりかしこはしぐるらし……

写真師台を見まはして、   ひとりに面をあげしめぬ。


時しもあれやさんとして、  身を顫はする学の長、

雪刷く山の目もあやに、   たゞさんとして身を顫ふ。


   ……それをののかんそのことの、  ゆゑはにはかに推し得ね、

     大礼服にかくばかり、     美しき効果をなさんこと、

     いづちの邦の文献か、     よく録しつるものあらん……


しかも手練の写真師が、  三秒ひらく大レンズ、

千の瞳のおのおのに、   朝の虹こそ宿りけれ。

歌稿B379〈みんなして/写真をとると台の上に/ならべば朝の虹ひらめけり(大正五年十月より・盛岡高等農林二年)を文語詩化したものである。
 下書稿一は、無罫詩稿用紙に書かれた31行の下書きメモ風に、細かい推敲をくわえたものである。下書稿二は黄罫両面22行詩稿用紙に書かれ、六行四連にまとめたうえさらに推敲を加え、定稿に至る。意味や背景にはほとんど変化はない。
一瞬の虹はまさに紀念写真という晴れの日にふさわしい光景の頂点を表すものである。
内容を見れば、〈紀念写真〉という一つの学校行事が記憶の重要なポイントとして残ったのは、学生の記念の気持ち―例えば進級など―が思い出されているのではなく、撮影中に虹がかかったという出来事を中心に、主に写真師の緊張ぶりや、学長の大礼服の美が詠いこまれている。
 風の表現は下書稿二から、第一連に同様な形容法で出現する。〈つめたき風の聖餐を、かしこみ呼ぶと見えにけり〉には下書稿に書かれた、緊張する学長の様子や、大礼服のモールの輝き、ざわめく学生の様子を凝縮している。学生と学長へのアイロニーは感じられずむしろ、晴れの時を祝福しているようである。
 それはひとえに〈虹〉の出現によるのであろう。人の瞳に映り込んだ虹は、瞳と写真機のレンズとの合わせ鏡によって無限大に往復する。そのことに気付いた賢治は、下書稿一に書き込んだ、学長や学生や写真師などの営みを、簡略化し〈つめたき風の聖餐〉を加えることで、晴れの舞台を演出したのである。

参考文献
須田浅一郎(「宮沢賢治の文語詩による挑戦」(『宮澤賢治研究Annual vol6 1996
宮澤賢治学会イーハトーブセンター)

14、「朝」

旱割れそめにし稲沼に、  いまころころと水鳴りて、
待宵草に置く露も、    睡たき風に萎むなり。

鬼げし風の襖子着て、   児ら高らかに歌すれば、
遠き讒誣の傷あとも、   緑青いろにひかるなり。

 七二七〔アカシアの木の洋燈(ラムプ)から〕(一九二六、七、一四、「春と修羅第三集」)を文語詩化したもので、下書一は七二七〔アカシアの木の洋燈(ラムプ)から〕の下書稿二の余白に書かれた。下書稿二は下書稿一の余白に書かれ、四行二連で、内容は小さな語句の変化があるのみで定稿とほとんど変わらない。下記は〔アカシヤの木の洋燈から〕 
である。

アカシヤの木の洋燈から
風と睡さに
朝露も月見草の花も萎れるころ
鬼げし風のきもの着て
稲沼のくろにあそぶ子

ここでの風の表現は〈風と睡さに〉であるから、 〈睡たき風〉は文語詩においても、主体の眠さも含めた表現といえよう。
アカシアの花の濃い甘い香りは詩から消えているが、子供らの鮮やかな着物や、高らかな歌声、〈ころころ〉というリリカルな水音、という、明るく、プラスの状況をも描き、それらも含めて、恐れていた旱害の田がようやく潤された安堵、過去のものとなった〈懺誣〉の思いを反映する安らぎの言葉ではないだろうか。〈懺誣〉の具体的背景は現在不明である。

15、〔猥れて嘲笑めるはた寒き〕

猥れて嘲笑めるはた寒き、   凶つのまみをはらはんと

かへさまた経るしろあとの、  天は遷ろふ火の鱗。


つめたき西の風きたり、    あららにひとの秘呪とりて、

粟の垂穂をうちみだし、    すすきを紅く燿やかす。

下書稿一は、黄罫26行詩稿用紙に文語詩として書き始められる。ここでは〈あゝまた風のなかに来て/かなしく君が名をよべば〉と作者の恋の想いを中心としている。
手入れ稿ではこの部分を、〈西風きみが名をとりて〉、〈秘めたるきみが名をとりて〉など繰り返して〈きみ〉について苦心して推敲している。また場所を推定できる〈城あと〉の文字が入り、下書稿二では部分的な修正が施される。
下書稿三に至って、〈猥れて嘲笑めるはた寒き〉、〈かえさまたへる〉の語が入り、〈西風きみが名をとりて〉→〈つめたき北の風きたり〉、〈秘めたるきみが名をとりて〉→〈あららにひとの秘呪とりて〉と〈きみ〉の記述を消し、タイトルは「判事」となる。下書稿四では「検事」とタイトルが付き、形態以外は定稿とおなじである。
〈猥れて嘲笑めるはた寒き 凶つのまみをはらはんと/かへさまた経るしろあとの、天は遷ろふ火の鱗。〉は、わけもなく嘲笑し、また寒々しい他人の眼を、忘れようと、帰り道に再び城跡にくれば、夕暮れの空は火のように燃えている、といった意味だろうか。
そのことに連動するように、風は〈ひとの秘呪〉を運ぶものとなっていく。具体的には風景を動かし輝かすものである。:
 秘呪とは、かつて古神道や陰陽道の中で、昔から多くの事柄の中に用いられてきた経緯のある「秘法や呪文」で、己の能力では解決できないことを、神にゆだねるためのものである。魂の強化、除霊、金縛り解除、また、開運、病気、育児、災害、旅行、男女、日常諸呪、の解決 などの目的別の呪文があるという。ここでは自分が唱えるのではなく、誰かが自分に対して唱えているものであろう。
当初の〈きみ〉への想いに佇む姿は消え、もっと邪悪な人の気持ちに耐えている姿を感じる。この記述が出るのが、「判事」、「検事」のタイトルを付してから、ということは自伝的背景か、あるいは表現上の象徴としての意味か、何か秘密がありそうだ。今後の課題である。








8月の永野川
8月に入ると暑さの中にも、秋への空気を感じるのか、少しずつ鳥が多くなってきます。
Bird watcherはもちろん、誰でも見つけたら嬉しいカワセミにも、8月には行くたびに会っています。 公園の中の川面を一直線に下っていく姿を一瞬捉えることができたときは、宝物を探し当てたような気分です。 16日には、赤津川の堤防に近い所の用水路に留っていて、横顔、真正面、眼の上の黄色の斑点まで観察できました。嘴の黒い♂でした。
キジの幼鳥は、うっすらと♂♀の違いが表れ始めています。
ムクドリも群れを作って飛ぶようになり、サギ類も、栃木県版レッドリスト2011年版で準絶滅危惧種となったコサギを始め、アオサギ、ダイサギ、チュウサギ、ゴイサギまで来ています。
公園内のヨシ原で、繁殖期を終わったオオヨシキリの姿を3度見ることが出来ました。7月まではここでは鳴き声が聞こえず、今年は来なかったのかとさびしく思っていました。
 ここはかつてワンドとして造成されたのにヨシが茂ってしまったのだと言う声も聞かれますが、川辺のヨシ原とともに貴重なヨシだと思います。
 秋に入れば、Bird watcher垂涎のベニマシコ、カシラダカ、オオジュリンなどの冬鳥や、渡りのノビタキも飛びかいます。
 夏の川岸には、アレチマツヨイグサ、コマツナギが色彩を添えます。また公園の中の土手の法面に、初めてキツネノカミソリを見つけました。
これらも清潔に刈り取りたい、という意見の人もいるようです。
先日、日本野鳥の会栃木代表の高松健比古氏がご一緒して下さり、維持管理課を訪ねました。公園の管理のなかに、野鳥の棲息のことを少し考慮に入れて、刈り取りの時期、回数、場所を考えてもらいたいと思ったからでした。
しかし維持管理課には管理意外の観点は全くないようでした。さらに驚いたことは、刈り取りなどは、年間契約で業者に委託し、刈り取り時期などは考慮していないこと、伸びすぎたと思えば民間人が自由に刈り取りに入れることです。
 以前、環境課に、教育の場として保護してほしい、と申し入れたことがあるのですが、そのときは維持管理課に回すという回答でした。
 高松氏のお話では、環境課、さらに県などにも働きかけ、河川の植生の調査から始めて行かなければならないのではないか、ということでした。
 私はもう少し、水際で頑張って見るつもりです。 

 9月に近付いて、赤津川、永野川川岸のクズやクサギが花をつけ、甘い匂いが満ちています。センニンソウも静かに香っています。
 またクヌギやエゴノキの青い実も膨らみました。それを求めて秋には冬鳥たちが来てくれるでしょう。
 これからの充実を目指して頑張っているような気がする川辺の生物たちです。

八月の鳥リスト(永野川、二杉橋から大岩橋まで・赤津川、緑地公園から平和橋まで)

カワウ、アオサギ、ダイサギ、チュウサギ、コサギ、ゴイサギ、カルガモ、キジ、イソシギ、イカルチドリ、キジバト、カワセミ、ツバメ、イワツバメ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、ヒヨドリ、モズ、ウグイス、セッカ、オオヨシキリ、ホオジロ、
スズメ、ムクドリ、ハシブトカラス、ハシボソカラス







風の音―賢治のオノマトペ(擬音語)
どっどどどどうど どどうど どどう、
 青いくるみも吹きとばせ
 すっぱいかりんもふきとばせ
 どっどどどどうど どどうど どどう    「風の又三郎」 九月一日

童話「風の又三郎」の冒頭を飾る挿入歌です。
昭和15年に、日活、島耕二監督によって映画化された時、この歌に付けられたメロディが、映画の評判と共に全国に広まり、当時子供だった人たちの記憶の中に今も残っているようです。
〈九月一日〉は、立春から数えて210日目で、稲の開花と台風の上陸の多い時期とが重なるため、厄日二百十日として認識されてきました。
夏休み明けのこの日、谷川の岸の小さな小学校に都会から高田三郎が転校してきました。子供たちは、三郎がいつも不思議な風を起こすように感じ、伝説の妖精〈風の又三郎〉だ、と思います。
でも三郎と子供たちは、周囲の山や野原に溶け込むように、仲良くなっていきます。
しかし9月12日、子供の一人がこの歌を夢の中に聞いた日、学校へ行くと三郎は転校してしまっていました。村に台風の来た翌朝でした。

この擬音語〈どっどどどどうど どどうど どどう、〉は、風の音を表すものですが、それにとどまらず、未熟なクルミやカリンをも吹き飛ばす強い風の勢いとこの時期の湿った風を感じさせると同時に、効果的な囃子言葉でもあります。
加えてこの言葉は、風の息―瞬間風速の最大値と、吹き始めの値(最小値)との差―の大きいことを意味しているもので、花巻地方に吹く風は、他の地方に比べ、その割合が多いといいます(注1)。
私が初めて花巻を訪れたとき聞いた風の音は、大木をゴウーと過ぎて行くのでなく、何か立ち止まるような、息づくようなもので、いままでに経験したことがなく、長いこと疑問に思っていました。

賢治は教え子沢里武治にはこの風の音を〈どっ どどどどう どどどう どどどう〉と伝えていたそうです(注2)。こちらのほうが、実際の「風の息」のリズムをよく捉えています。

このリズムは古くから賢治の中に育っていたようです。初期の童話「十力の金剛石」のなかで、雨の音を使った囃子言葉も

ザッ、ザ、ザ、ザザァザ、ザザァザ、ザザア、
  ふらばふれふれ、ひでりあめ、
  トパァス、サファイア、ダイヤモンド。

で、リズム形態は全く同じです。
「かしはばやしの夜」(一九二一)のなかで、カシワの木が即興に作った歌の囃子言葉では、

風はどうどう どっどゞゞゞゞう 

で、滑稽さが強調され、リズミカルさを欠きます。
「風の又三郎」後半、雷雨の兆しの中で、誰が歌ったともわからず聞こえてくる声、

風はどっこどっこ又三郎

では、からかうようなリズムとなっています。

賢治はいつも風の中に身を置いて、その息を感じとって来たのでしょう。それを、童話の場面に適した形に変えて、効果的な囃子言葉を作っていたのだと思います。
このリズムは、賢治の作品の様々な場面に登場しますが、それはまた後日書きたいと思います。

 それにしても、近頃の人間の生活を全て飲み込むような暴風雨には、この音を感じる余裕はありません。温暖化による熱帯性の豪雨、開発による地盤の弱体化、このあたりでゆっくり考えてみるべきかもしれません。

注1 麦田穣「風の証言」―童話「風の又三郎」の風のオノマトぺ(『火山弾』第四二号 火山弾の会 1997、5)
注2 堤照實「けんじ分室」の五年間」(『エディター』 1978、4)

参照 「童話に吹く風―賢治の風の音」(小林俊子『宮沢賢治 風を織る言葉』 勉誠出版 2003)










賢治のもう一つの浮世絵―青と白の世界
  賢治のもう一つの浮世絵―青と白の世界

宮澤賢治の詩のジャンルに「文語詩」があります。七五調を基本とした文語の定型詩で、脚韻や対句なども考慮に入れられています。
主に晩年、それまでの生き方をみつめ直すように書き始められます。それまでの作品を文語詩化したものと文語詩として書きはじめられたものがあります。
死の直前の昭和8(1933)年8月、賢治によって「文語詩稿五十篇」、「文語詩稿一百篇」として清書された一五一篇と、そこに入れられなかった「文語詩未定稿」一〇一篇が残っています。
  
    春章作中判

    春章作中判 一、

ましろき蘆の花噴けば
青き死相を眼にたゝへ
大太刀舞はす乱れ髪

    春章作中判 二、

白紙を結ぶすはだしや
死を嘲ける青の隈
雪の反射のなかにして
鉄の鏡をかゝげたり    (「文語詩未定稿」)


前回紹介した「浮世絵展覧会印象一九二八、六、一五、」の一部を文語詩に改作、発展させたもので、江戸時代中期の浮世絵師、勝川春章[享保十一(1726)年〜寛政四(1792)]の描いた役者絵を詠っています。
「 春章作中判 一、」に改作されたのは以下の部分です。

……
青い死相を眼に湛え
蘆の花咲く迷の国の渚に立って
髪もみだれて刃も寒く
怪しく所作する死の舞
……

描かれている浮世絵は「中村仲蔵・夜陰野道抜刀」(細版)と推定されます(注1)。 抜き身を構え死相を浮かべて渚に立つ侍が描かれています。演じているのは初代中村仲蔵[元文元(1736)年〜寛政二(1790)年]で、実悪役者として名高く、他の扇面に描かれた絵にもニヒルな雰囲気が漂います。ただし、この絵には〈蘆〉が描かれていません。

「春章作中判 二、」は、

……
白衣に黒の髪みだれ
死をくまどれる青の面
雪の反射のなかにして
鉄の鏡をさゝげる人や
……

の部分を改作し、描かれているのは「大谷弘次・雪中鏡持ち」(細判)と推定されます。雪のなかで、素足で輝く鏡を持ち、顔に隈(くまどり)を持つのはこの絵のみです。(注)。
ただし下書稿一、二にあった〈白衣に黒の髪みだれ〉の光景はむしろ「 春章作中判 一、」に近いものがあります。 
これは文語詩化する際に、行の調整の必要から一度は「春章作中判 二、」に組み込み、他の絵からのイメージで〈白紙を結ぶすはだしや〉を書き入れましたが、〈白〉のイメージが重なることを避けて〈白衣に黒の髪みだれ〉を抹消したのだと思います。
また二つの絵の大きさは細判(約30.3p×15.1p)で、中判(約26.5p×19.5p)ではありません。賢治が訪れた日に出品された勝川春章の作品で中判の役者絵はありませんでした。なぜ賢治が明確に〈中判〉としたのかは謎です。
賢治は文語詩化の際に意図したのは、記憶をそのまま描いたり、直接的な心象を詠いあげたりするのではなく、一つの詩世界として構築し直すということだったのだと思います。
歌麿、春信、北斎なども描かれた「浮世絵展覧会印象」のなかで、文語詩ではなぜ春章の役者絵だけが選ばれたのでしょう。
それは、芝居という架空の世界の多様な題材や、人の生死の境というぎりぎりの場面に、日常にはない修羅を見たからではないでしょうか。それまでの生き方や人の本質を書き残そうとした文語詩のなかで、この詩の目的は絵を借りて〈修羅〉の世界を描くことにあったと思います。
歌舞伎の舞台化粧である隈(くまどり)で、赤系統は荒事など正義を表し、青系統は実悪、鬼畜、怨霊などを表します。勝川春章の時代、まだ非褪色の藍(インディゴブルー)は用いられていませんでしたから、役者絵の青は、賢治の時代でも、ほとんど残っていなかったと思います。ここに賢治が残した〈青〉という言葉は、賢治の心象が感じとった修羅の色でした。
 
注 杉浦静「巨きな四次の軌跡をのぞく窓―「浮世絵展覧会印象」(東京ノート)の浮世絵―」(『賢治研究』50号・宮沢賢治研究会・1989)による。
この展覧会に出品された作品はすべて松方幸次郎所蔵のもので、現在はすべて東京国立博物館に収められている。その目録『御大典記念徳川時代各派名作浮世絵展覧会目録』、『東京国立博物館図版目録浮世絵篇・上』を比較参照した結果の結論。

参照 小林俊子「春章作中判」『宮沢賢治 文語詩の森 第二集』(柏プラーノ・ 2000)