前々回、「冬の風」で書いた、「シグナルとシグナレス」では、シグナルの言葉をひそかに伝えるのは西風でした。 ここでは風が伝える香りについて考えてみます。
「どうしても雪だよ、おっかさん谷のこっち側だけ白くなってゐるんだもの。どうしても雪だよ。おっかさん。」 すると母親の熊はまだしげしげ見つめていたがやっと云った。 「雪でないよ、あすこへだけ降る筈がないんだもの。」 子熊はまた云った。 「だから溶けないで残ったのでしょう。」 「いいえ、おっかさんはあざみの芽を見に昨日あすこを通ったばかりです。」 小十郎もじっとそっちを見た。 月の光が青じろく山の斜面を滑っていた。そこが丁度銀の鎧のやうに光ってゐるのだった。しばらくたって子熊が云った。 「雪でなけぁ霜だねえ。きっとさうだ。」 ほんたうに今夜は霜が降るぞ、お月さまの近くで胃(筆者注:コキエ、昴のこと)もあんなに青くふるえているし第一お月さまのいろだってまるで氷のやうだ、小十郎がひとりで思った。 「おかあさまはわかったよ、あれねえ、ひきざくらの花。」 「なぁんだ、ひきざくらの花だい。僕知ってるよ。」 「いいえ、お前まだ見たことありません。」 「知ってるよ、僕この前とって来たもの。」 「いいえ、あれひきざくらでありません、お前とって来たのきささげの花でしょう。」 「そうだろうか。」子熊はとぼけたやうに答へました。小十郎はなぜかもう胸がいっぱいになってもう一ぺん向ふの谷の白い雪のやうな花と余念なく月光をあびて立ってゐる母子の熊をちらっと見てそれから音をたてないやうにこっそりこっそり戻りはじめた。風があっちへ行くな行くなと思いながらそろそろと小十郎は後退りした。くろもじの木の匂が月のあかりといっしょにすうっとさした。(「なめとこ山の熊」)
「なめとこ山の熊」では、熊の親子の幸せそうな姿を目にした小十郎が、自分の気配が風によって伝わらないことを願います。賢治はそんな小十郎をねぎらうように、クロモジの香りを送ったのです。
クロモジはクスノキ目クスノキ科クロモジ属、低山や疎林の斜面に自生する落葉低木で2m〜5mくらい、多くは2m前後です。緑色の木肌に黒い斑紋が出来る様子からクロモジの名前が付いたといわれます。 葉や枝にクスノキ目特有の芳香があり、それを利用して楊枝が作られるほか、かつては抽出した油が香料や化粧品に使われました。 東北、北越では、狩りの獲物に突き刺して神への供物にするのも、その香りを利用したものでしょう。 クロモジは4月に黄色い小さな花を付けますが香りはなく、木も傷つけなければ芳香は出ませんが、賢治はそこにいつも香りを描き、他の作品でも象徴的に使われます。
すぐ向うに一本の大きなほうの木がありました。「ああもうあの日から四日たってゐるなあ。ちょっとの間に木の芽が大きくなった。」 署長はそらを見あげた。春らしいしめった白い雲が丘の山からぼおっと出てくろもじのにほいが風にふうっと漂って来た。 「ああいい匂だな。」署長が云った。 「いい匂ですな。」名誉村長が云った。(「税務署長の冒険」)
税務署長が密造酒の探索に出たのは恐らく四月、クロモジは花を付けていたでしょう。四日間の山中での苦労や密造人への対応の辛さを一瞬忘れさせてくれるものとして、風はそこにクロモジの香りを運んでくれたのです。 「兄さん。ヒームカさんはほんたうに美しいね。兄さん。この前ね、僕、ここからかたくりの花を投げてあげたんだよ。ヒームカさんのおっかさんへは白いこぶしの花をあげたんだよ。そしたら西風がね、だまって持って行って呉れたよ。」(「楢の木大学士の野宿」)
クロモジの香りはモクレン属の花と同時に描かれることが多いようです。 「なめとこ山の熊」でも親子熊の会話に、コブシの古名、方言〈ひきざくら〉が登場します。 「楢の木大学士の野宿」では、岩頸は、大好きな山に、風に託してカタクリやコブシの花を届けます。実際には香りがどのくらい強いかわかりませんが、風に頼んだのはきっとコブシの花の香りだったでしょう。賢治は花の美しさに香りを感じていたのだと思います。
いきなり険しい灌木の崖が目の前に出ました。 諒安はそのくろもじの枝にとりついてのぼりました。くろもじはかすかな匂を霧に送り霧は俄かに乳いろの柔らかなやさしいものを諒安によこし ました。 諒安はよじのぼりながら笑ひました。……中略…… 諒安は眼を疑ひました。そのいちめんの山谷の刻みにいちめんまっ白にマグノリアの木の花が咲いてゐるのでした。その日のあたるところは銀と見え陰になるところは雪のきれと思はれたのです。 (けはしくも刻むこころの峯々に、いま咲きそむるマグノリアかも。)斯う云う声がどこからかはっきり聞えて来ました。諒安は心も明るくあたりを見まわしました。(「マグノリアの木」)
「マグノリアの木」では、クロモジの香りを運ぶものは風ではなく霧です。 修行僧と思われる諒安は、西域を想像させる地をさまよううち崖に阻まれます。クロモジの木を支えに登ると、黄金の平原が開け、周囲の谷には、〈マグノリアの木〉の白い花と芳香に満ちています。マグノリアは、モクレン目モクレン科のモクレン属の学名で、園芸関係では、モクレン、コブシ、オオヤマレンゲなどに広くこの言葉が使われます。 その情景は絶対の〈覚者の善〉と説かれます。
花も大きく香りの強いものもあるマグノリア属の花に比べると、クロモジは目立たなくて香りも実際には届きません。 でも春先の風に吹かれるクロモジの細い枝と黄色い花は、春の象徴のように、人を安らかにし、また実用にもなりました。 賢治にとって、マグノリア属の花は高い精神性と宗教性を持っていたのに対して、クロモジは人の身近にあって、多くの人に手を差し伸べる存在だったのかもしれません。
|