三二六 〔風が吹き風が吹き〕 一九二五、四、二〇、
風が吹き風が吹き 残りの雪にも風が吹き 猫の眼をした神学士にも風が吹き 吹き吹き西の風が吹き はんの木の房踊る踊る 偏光! 斜方錐! トランペット! はんの木の花ゆれるゆれる 吹き吹き西の風が吹き 青い鉛筆にも風が吹き かへりみられず棄てられた 頌歌訳詞のその憤懣にも風が吹き はんの木の花おどるおどる (塩をたくさんたべ 水をたくさん呑み 塩をたくさんたべ 水をたくさん呑み) 東は青い銅のけむりと いちれつひかる雲の乱弾 吹き吹き西の風が吹き レンズ! ヂーワン! グレープショット! はんの雄花はこんどはしばらく振子になる
これほど、風がたくさん吹いている詩はないでしょう。 全21行の詩のなかで、〈風が吹き〉という言葉は9行あり、その他のほとんどの行に、風に関する言葉―〈ゆれる〉・〈おどる〉・〈振子〉―などがあります。 そのなかに、ところどころに謎めいた言葉がちりばめられています。 まず、言葉を調べてみましょう。
〈はんの木の房〉 〈はんの木〉は、ブナ目カバノキ科ハンノキ属ハンノキで、山野の低地や湿地、沼に自生し、樹高は15〜20m、直径60cmほど、過湿地で森林を形成する数少ない樹木です。生産力の低い環境でも適応性が強く、早期緑化や立地回復、砂防造林樹種として選ばれます。同属のヤシャブシは根粒菌を持ち空中窒素を固定するので、土壌改良にも役立ちます。 早春に、葉に先だって雄花の穂は黒褐色の円柱形で尾状に垂れ、雌花穂は楕円形で紅紫色を帯び雄花穂の下部につきます。〈房〉はそれを言ったのでしょう。 〈偏光・斜方錐・トランペット〉 〈偏光〉 電場および磁場が特定の(振動方向が規則的な)方向にのみ振動する光で、一部の結晶や光学フィルターを通すことによってつくられるものです。 〈斜方錐〉 鉱物を形作るものは結晶ですが、結晶は幾何学的な配列の繰り返しによって形作られています。そこには6つのグループに分けられる対称性があります。その中の一つが斜方晶系で、3本の結晶軸が互いに直行し、異なる軸長を持っているもので、かんらん石、霰石、黄玉などがあります。霰石は「十力の金剛石」に〈野ばらの枝は茶色の琥珀や紫がかった霰石でみがきあげられ…〉と使われます。〈斜方錐〉は斜方晶系という言葉からきていると思われますが未解決語です。 なお、その中の一つ単斜晶系を賢治は風の形容に〈ああこの風はすなわちぼく/且つまたぼくが/ながれる青い単斜のタッチの一片といふ〉(「一五二 林学生」 一九二四、六、二二 春と修羅第二集)と使います。単斜晶系は三本の結晶軸がすべて違った長さを持ちひとつの軸は他に二本の軸と直行するもので、白雲母、ヒスイ輝石、孔雀石、単斜硫黄などがありますが必ずしも青くはありません。二つとも、風の中にきらめく光に、鉱物の結晶を重ねていたのではないでしょうか。 話は少しそれますが、賢治のフィールド、北上川の下流の中州には、現在でも赤いジャスパー、黄緑色の蛇紋岩、緑黄色の緑れん石、青黒い角閃石、などの色とりどりの礫(れき)、また高温水晶と呼ばれる、透明な礫がたくさん発見できると言います。賢治が〈石こ賢さん〉といわれるほど鉱物好きで、鉱物や宝石関係の仕事に就きたいと願っていたことは有名ですが、賢治の鉱物へのこだわり、そして透明なもの、彩りを持つものへの憧れは、ここから生まれたのかもしれません。 また、進学した盛岡高等農林学校の研究室には、当時日本では東大など限られた場所にしか無かった岩石標本や、様々の分析器具、試薬がそろっていました。またドイツ製の偏光顕微鏡は、平凡な石をカットして偏光プリズムを通すと、予想もつかない輝きを見せます。賢治は一つの石の持つ多くの様態を知り、またその生成や変化の気の遠くなるような時間を感じて、世界観をどれだけ深く大きくしたことでしょう。前述の〈偏光〉はそこに見た色彩を風景に感じていたのかもしれません。 〈偏光!斜方錐!トランペット!〉は三つ合わせて、春の光の輝きを表そうとしたのでしょうか。トランペットの響きも、輝きとして捉えたのです。 〈レンズ! ヂーワン! グレープショット!〉 〈ジーワン〉は競馬などでは最高ランクの格付けを表す語ですが、銃に関する語でこれが登場するのは戦後のことですのでまだ解明できません。グレープショットは葡萄玉ともいわれ、 小型の鉄球を細長い布でくるみ、捩って螺旋状に纏めた対人・対騎兵用散弾です。 纏めた形状が葡萄に似ています。これは、前の行の〈いちれつひかる雲の乱弾〉をうけて、銃関係の言葉関係の言葉をつづったのだと思います。 〈猫の眼をした神学士〉 〈猫の目〉は変わりやすいものの例えとしてマイナスイメージがあります。〈神学士〉は現実を知らない人の比喩でしょうか。あるいは周辺の無理解な人への批判か、現実の凶作などに対処できなかった賢治自身かもしれません。
〈頌歌 〉は詩の一形式Odeの訳語です。賢治の時代、J.Keats(1795〜1821)“Ode to the Neighchingale” ,P.B.Shelly(1792〜1822)“Ode to the West Wind”,W.Wordsworth(1770〜1832) “Ode to the Duty”に接する可能性があります。またSir Walter Scott (1771~1832)、“Donald Caird’s Come Again”が「夜」(「補遺詩篇T」)に使われているなど、深い認識があったと思われます。
詩の発想された前年、一九二四年八月、賢治は自作の劇「飢餓陣営」、「植物医師」、「ポランに広場」、「種山ヶ原の夜」を農学校の生徒と上演しています。それは打ち上げに狂喜乱舞するほどの熱の入れようでした。しかし、一九二四年九月、文部省は学校劇禁止令を出し、賢治は農学校で生徒に演劇をやらせることが出来なくなっています。 前述の〈頌歌〉は下書稿一では〈戯曲〉、下書稿一の訂正では〈詩〉でした。この語には演劇禁止令の深い傷をこの一行に秘め、推敲の末、あからさまな表現を避けてこの言葉が選ばれたのではないでしょうか。 同年は旱魃による凶作で、賢治は農学校の生徒を通じてその悲惨な状況を知り、教師としての無力さ、さらに科学でも人の力でもどうにもできない物のあることを実感します。自負していた分、深い失望が加わります。 またこの年、四月に春に詩集『春と修羅』、十二月に童話集『注文の多い料理店』を出版しますが、世間の理解を得ることはできませんでした。一九二五年一月、三陸方面への旅での詩は絶望に満ち、二月以降四月まで詩作はとだえます。詩作が復活したのは四月二日、饒舌な風景描写の中に皮肉を込めた数編の後、一九二五年四月四月一三日の教え子への書簡(205)で、賢治は農学校の教師を辞め、農業の実践によって農村を救おうという決心を記しています。 その後、この詩は書かれます。 行頭を下げて書かれた(塩をたくさんたべ/水をたくさん呑み/塩をたくさんたべ/水をたくさん呑み)があります。これは掲げた理想―農村を実戦で救うこと―の奥ふかく沈殿するように、塩と水とに象徴される厳しい生活があることを、感じていたのだと思います。 この詩の発想された四月二十日の平均風速は水沢では1.8m、盛岡では3・9m、最大でも午後一時に北西9・03mで、その日の風速に合わない風の描写はこの詩だけです(注)。 この風は、賢治の心の中に吹いていた風でした。実際に風の中にいたら賢治は風をもっと鮮やかに表現をしたのではないかと思います。〈風が吹き〉という平明な言葉の中に、失望や反発、諦め、そしてそこからの出発の前の一瞬の静寂を描きます。春の日差しの中に佇む賢治の姿が見える気がします。
注 佐藤泰平「『春と修羅』第一集、第二集、第三集の〈気象スケッチ〉と気象記録」(「宮沢賢治研究Annualvol.3」1993) 参考文献 堀秀道『宮澤賢治はなぜ石が好きになったのか』 どうぶつ社2006) 宝石と生活研究会『おもしろサイエンス宝石の科学』(日刊工業新聞社 2011)小林俊子「表現から見た賢治の転換期」(『宮沢賢治 風を織る言葉』 勉誠出版 2003)
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