賢治は浮世絵に強い関心をもち、コレクターでもありました。
浮世絵について、「浮世絵版画の話」、「浮世絵鑑別法」、「浮世絵広告文」を書き、浮世絵に言及した詩もあります。
……
あそこの農夫の合羽のはじが
どこかの風に鋭く截りとられて来たことは
一千八百十年代の
佐野喜の木版に相当する
……(「丘の眩惑」一九二二、一、一二、『春と修羅』)
浮世絵の情景を使って、現実の農夫の合羽の翻る様を描きます。〈佐野喜〉は、安藤広重の「名所江戸百景」「花鳥大短冊」などの版元です。そのなかで激しい雨と風の動きを感じさせる絵は、「名所江戸百景」の「大はしあたけの夕立」ですが、翻るものは描かれません。保永堂版「東海道五十三次」の「庄野白雨」には、風に翻る衣服が描かれますが版元は佐野喜ではありません。賢治が版元を記憶違いしたのでなければ、〈截りとる〉と表現されているのは、「大はしあたけのゆうだち」の雨の線から風の鋭さを想定したのでしょうか。
次の詩は浮世絵の中の風景を風で表現します。
……
氷点は摂氏十度であって
雪はあたかも風の積った綿であり
……(「浮世絵展覧会印象」 一九二八、六、一五)
雪は風に置き換えられた事によって、和紙の軽さと乾きと暖かさが強く感じられます。「浮世絵版画の話」には、和紙の繊維の〈膨らみ〉や〈彩色されない白〉についての微妙な記述が見られ、この詩に見られるような、繊細な感覚を裏付けます。
1928年6月6日〜25日、報知新聞社主催の「御大典記念徳川時代名作浮世絵展覧会」が、東京府立美術館で開かれました。賢治は15日、16日、21日と絵の入れ替えごとに訪れ、清長53枚、歌麿236枚、春章19枚を見ています。
「浮世絵展覧会印象」はそのときの印象を描いた127行の長詩です。
……
赤い花火とはるかにひかる水のいろ
たとへばまぐろのさしみのやうに
妖冶な赤い唇や
その眼のまはりに
あゝ風の影とも見え
また紙がにじみ出したとも見える
このはじらひのうすい空色
青々としてそり落された淫蕩な眉
鋭い二日の月もかゝれば
つかれてうるむ瞳にうつる
町並の屋根の灰いろをした正反射
黒いそらから風が通れば
やなぎもゆれて
風のあとから過ぎる情炎
…… (「浮世絵展覧会印象」一九二八、六、一五、)
人物の描写です。
対象となっている絵は、美人画です。〈風の影〉という言葉から連想される移ろいやすさ、儚なさ、空の青さが、浮世絵の人物のはじらいの表情、浮世絵の雰囲気までを思わせます。
眼のまわりに青いくまどりがあるのは、怨霊、実悪、鬼畜などを表す役者絵なので、詩の内容には合いません。この〈風の影ともみえる空色〉は〈はじらひ〉の心理的な表現なのでしょうか。
「浮世絵鑑別法」の五番目に、〈藍顔料の気分〉をあげており、青への関心の深さがうかがわれます。
浮世絵の青の顔料は何が使われていたでしょうか。
錦絵誕生の直前の宝暦期(1751〜1763)には2色から3色刷りで、紅のほかにくすんだ色調の青が使用されていました。
明和2年(1765)、鈴木春信が生み出した多色刷りの錦絵では、露草から抽出した爽やかな青絵具が使われましたが、大変褪色しやすいものでした。
寛政6年(1794)、非褪色の藍(インディゴブルー)が鮮明な青を発色できるように改良され、この年デビューした東洲斎写楽が一部の作品でこの藍を使います。しかし不溶性で、ぼかしなどが難しく広まりませんでした。賢治はこの難しい色の発色の出来栄えを鋭く見極めていたことになります。
文政12年(1830)に北斎の「赤富士」、「神奈川沖浪裏」で使われたベルリンブルー(ベロ藍)は、無機鉄化合物、水溶性で、鮮やかな発色と微妙なぼかしが可能なうえ、光や酸素にも安定していて非褪色でした。
ベルリンブルーは1704年にベルリンで発見され、オランダを通じて日本に入ってきました。閉鎖的と思われる江戸時代、浮世絵師たちは、あらゆる可能性を求めて苦闘していたのだと思います。
賢治が青色を表現する言葉に〈伯林青〉があります。詩「津軽海峡」(『春と修羅』)、「津軽海峡」(春と修羅第二集)では海の色の深い青を表しています。
その後、〔町をこめた浅黄色のもやの中で〕(詩ノート)、「同心町の夜明けがた」(春と修羅第三集)、「短夜」(文語詩一百篇)とその改作のたびに使っています。
時代を追って浮世絵を見るうち、ベルリンブルーの素晴らしさを体感し、〈伯林青〉という表記を作りだしたのではないでしょうか。
浮世絵のなかの風は、視覚を通してのみ感じられる風です。
自然のなかに身をおいて描かれた風が、その色に染まったようにその息吹がきこえるように生々しいのに反し、浮世絵の風は和紙という素材の繊細な感触の上に描かれて切なく、繊細で、はかないものです。
「浮世絵展覧会印象」が掲載されている図書
『新校本宮澤賢治全集 第六巻』(筑摩書房)、
ちくま文庫『宮沢賢治全集 第三巻』など。
参考
◎『宮沢賢治 風を織る言葉』 勉誠出版2003 (小林俊子)
◎礫川美術館長 松井英男先生講演会「浮世絵「青」絵具変遷の概要と意義―名画〈赤富士〉誕生の秘密―」
(「名品に見る浮世絵の「青」展」《 於、とちぎ蔵の街美術館》関連講演)