賢治は風を沢山の比喩に用いていますし、風を表すのにも巧みな比喩を使います。しかし〈風が吹く〉という事実だけでも、そこに多様の意味を持たせています。 特に多く、印象深く感じられる、季節の変化を表している場合を考えてみます。 先月記した、「水仙月の四日」でも風は吹雪とそののちに来る春を予感させるものでした。 「或る農学生の日誌」では、春の訪れを感じるのは、なぜか〈冷たい風〉のなかです。日記体の文章でもあり、二例繰り返し登場します。 季節の変化は、まず、確実に日照の変化があり、温度変化は徐々に現れます。ここでも、日の明るさによって春の到来を感じても、風はまだ冷たく、風を体に受けることによって、日の暖かさをいっそう強く感じているということでしょうか。
まだ朝の風は冷たいけれども学校へ上り口の公園の桜は咲いた。(「或る農学生の日誌」)
風は寒いけれどもいい天気だ。(「或る農学生の日誌」)
反対に、「十月の末」では、秋の気配は、散り落ちた柳の葉、青空に浮く秋の雲などとともに、急にやってくるようです。そこに吹く冷たい風は、もう秋の風になっています。
それはツンツン、ツンツンと鳴いて、枝中はねあるく小さなみそさざいで一杯でした。 実に柳は、今はその細長い葉をすっかり落して、冷たい風にほんのすこしゆれ、そのてっぺんの青ぞらには、町のお祭りの晩の電気菓子のような白い雲が、静に翔けているのでした。 「ツツンツツン、チ、チ、ツン、ツン。」 みそさざいどもは、とんだりはねたり、柳の木のなかで、じつにおもしろそうにやっています。柳の木のなかというわけは、葉の落ちてカラッとなった柳の木の外側には、すっかりガラスが張ってあるような気がするのです。(「十月の末」)
「四又の百合」でははっきりと〈九月の風〉を感じ、それは〈すきとほったするどい秋の粉〉で、〈数しれぬ玻璃の微塵のやう〉という視覚からも捉えられています。
風がサラサラ吹き木の葉は光りました。 「この風はもう九月の風だな。」 「さようでございます。これはすきとほったするどい秋の粉でございます。数しれぬ玻璃の微塵のやうでございます。」 「百合はもう咲いたか。」 「蕾はみんなできあがりましてございます。秋風の鋭い粉がその頂上の緑いろのかけ金を削って減らしてしまひます。今朝一斉にどの花も開くかと思われます。」(「四又の百合」)
季節の変化とともに起こるものとして、種子を飛ばす風があります。「いちゃうの実」、「おきなぐさ」を見てみます。 その明け方の空の下、ひるの鳥でも行かない高い所を鋭い霜のかけらが風に流されてサラサラサラサラ南の方へ飛んで行きました。 実にその微かな音が丘の上の一本いちゃうの木に聞える位澄み切った明け方です。 いちゃうの実はみんな一度に目をさましました。そしてドキッとしたのです。今日こそはたしかに旅立ちの日でした。みんなも前からそう思っていましたし、昨日の夕方やって来た二羽の烏もそう云いました。……
……そうです。この銀杏の木はお母さんでした。 今年は千人の黄金色の子供が生れたのです。 そして今日こそ子供らがみんな一諸に旅に発つのです。 ……突然光の束が黄金の矢のように一度に飛んで来ました。子供らはまるで飛びあがる位輝やきました。 北から氷のように冷たい透きとほった風がゴーッと吹いて来ました。 「さよなら、おっかさん。」「さよなら、おっかさん。」子供らはみんな一度に雨のように枝から飛び下りました。 北風が笑って、 「今年もこれでまずさよならさよならって云ふわけだ。」と云ひながらつめたいガラスのマントをひらめかして向ふへ行ってしまいました。……(「いちゃうの実」)
……奇麗なすきとほった風がやって参りました。まず向うのポプラをひるがへし、青の燕麦に波をたてそれから丘にのぼって来ました。 うずのしゅげは光ってまるで踊るようにふらふらして叫びました。 「さよなら、ひばりさん、さよなら、みなさん。お日さん、ありがたうございました。」 そして丁度星が砕けて散るときのやうにからだがばらばらになって一本ずつの銀毛はまっしろに光り、羽虫のやうに北の方へ飛んで行きました。そしてひばりは鉄砲玉のやうに空へとびあがって鋭いみじかい歌をほんの一寸歌ったのでした。(「おきなぐさ」〈うずのしゅげ〉はオキナグサの別名)
賢治にとって、季節ごとに吹く風は、季節を動かす重要なも のでした。 そして、種子を運び、命を繋ぐものは風は、〈すきとほった風〉 です。〈透明な風〉は賢治にとって最高の価値を持ち、多くの 作品に登場します。 賢治は自然界で最も大切なものとして、生命のつながりを捉え ていたのではないでしょうか。 或る農学生の日誌 自然 春 四月
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