その頃の
風穂の野はらは、ほんとうに立派でした。青い萱や光る茨やけむりのやうな穂を出す草で一ぱい、それにあちこちには栗の木やはんの木の小さな林もありました。(「二人の役人」)
〈風穂〉とはなんでしょうか。風に吹かれる草穂でしょうか。全作品中この一例しか使われませんが、心惹かれる言葉です。
私が最初に思い浮かべたのは、空地や土手に生えるイネ科の雑草カゼクサです。高さは五十〜八十センチほど、夏から秋にかけて、長さ三十センチ前後の円錐花序に密生する、細いまっすぐな枝、紫色を帯びた無数の小穂は、名前の印象もプラスされて透明感があり風を感じます。でも作品の風景はもっと大きいようです。
「沼森」には、〈……この草はな、こぬかぐさ。風に吹かれて穂を出し烟って実に憐れに見えるぢゃないか。〉という例があり、そこから考えると、牧草として移入されたイネ科ヌカボ属コヌカグサかもしれません。高さは一メートルあまり、長さ二十〜三十センチの花序に数節から二、三本の枝をつけ、その基部からやや密に小穂をつけ、そこに一個ずつの小花をつけます。
しかし、〈風穂〉という言葉は、コヌカグサの風のふかれる様というだけでなく、もっと大きな意味を感じます。
それは風、穂という語のイメージが重なり、風の感触、動き、やわらかな草穂の波、野原の広さ、草の香り、自然の持つ大きな力、それらが一体となってこの二字から浮かび上がります。賢治は風と自然との関わりをこの言葉ひとつで表しました。
この語はなぜか一例しかありませんが、〈草穂〉という語は、歌稿に七例、詩に十一例、童話に十三例、と多用されています。
「若い木霊」、 「タネリはたしかにいちにち噛んでいたやうだった」では、子供が結んで罠を作って遊ぶことが描かれ、「十力の金剛石」では、露におおわれて宝石となる野原が描かれる中、草穂は〈かがやく猫晴石〉になりますが、他作品ではすべて風とともに描かれます。
「ポラーノの広場」では、共同作業所を新しく始める章のタイトルが「風と草穂」です。広場へ向かう途中で、〈俄かに風が向うからどうっと吹いて来て、いちめんの暗い草穂は波だ〉ち、主人公たちの新しい世界へ出発の不安や期待を象徴して、草穂を吹く風は冷たく浸み透ります。
嘉助はがっかりして、黒い道を又戻りはじめました。
知らない草穂が静かにゆらぎ、少し強い風が来る時は、どこかで何かが合図をしてでも居るやうに、一面の草が、それ来たっとみなからだを伏せて避けました空が光ってキインキインと鳴っています。 (中略)
空が旗のやうにぱたぱた光って翻えり、火花がパチパチパチッと燃えました。嘉助はたうたう草の中に倒れてねむってしまいました。
そんなことはみんなどこかの遠いできごとのやうでした。もう又三郎がすぐ眼の前に足を投げだしてだまって空を見あげているのです。いつかいつもの鼠いろの上着の上にガラスのマントを着ているのです。それから光るガラスの靴をはいているのです。(「風の又三郎」)
野原で迷った嘉助は〈知らない草穂〉のなかでたおれ意識を失い、ガラスのマントをはおった風の又三郎を見ます。
そのとき私は大へんひどく疲れていてたしか
風と草穂との底に倒れてゐたのだとおもいます。
その秋風の昏倒の中で私は私の錫いろの影法師にずいぶん馬鹿ていねいな別れの挨拶をやっていました。 (中略)そして私は本統にもうその三人の天の子供らを見ませんでした。 却って私は草穂と風の中に白く倒れてゐる私のかたちをぼんやり思い出しました。(「インドラの網」)
〈風と草穂との底に〉倒れた主人公は遺跡に封じ込まれていた世界を見ることができます。
そして、ほんたうに、こんなオホーツク海のなぎさに座って乾いて飛んで来る砂やはまなすのいい匂を送って来る風のきれぎれのものがたりを聴いているとほんとうに不思議な気持がするのでした。それも風が私にはなしたのか私が風にはなしたのかあとはもうさっぱりわかりません。またそれらのはなしが金字の厚い何冊もの百科辞典にあるやうなしっかりしたつかまえどこのあるものかそれとも風や波といっしょに次から次と移って消えて行くものかそれも私にはわかりません。ただそこから
風や草穂のいい性質があなたがたのこころにうつって見えるならどんなにうれしいかしれません。(「サガレンと八月」)
この作品で風は、〈私〉に物語を運んでくれたり話を聞いてくれたりします。〈風や草穂のいゝ性質があなたがたのこゝろにうつって見えますやうに〉には、賢治にとっての草穂がいかに好ましいものであったかを知ることが出来ます。
鹿のめぐりはだんだんゆるやかになり、みんなは交る交る、前肢を一本環の中の方へ出して、今にもかけ出して行きそうにしては、びっくりしたやうにまた引っ込めて、とっとっとっとっしずかに走るのでした。その足音は気もちよく野原の黒土の底の方までひびきました。それから鹿どもはまわるのをやめてみんな手拭のこちらの方に来て立ちました。
嘉十はにわかに耳がきいんと鳴りました。そしてがたがたふるえました。
鹿どもの風にゆれる草穂のやうな気もちが、波になって伝わって来たのでした。(「鹿踊りのはじまり」)
〈風にゆれる草穂のやうな気もち〉は、鹿の心が草穂のゆれとともに鹿を眺めている嘉十に伝わったことを表し、これを契機に嘉十は鹿の世界にはいりこみ、鹿の言葉が聞こえてきます。
詩ではどうでしょうか。「春光呪阻」(『春と修羅』)では、〈……髪がくろくてながく/しんとくちをつぐむ/ただそれつきりのことだ/
春は草穂に呆け/うつくしさは消えるぞ……〉と、草穂は〈呆け〉るものでマイナスイメージです。
「小岩井農場 第六綴」(『春と修羅』補遺)では〈
草穂もぼしゃぼしゃしてゐるし、〉、〈
すがれの草穂かすかにさやぐ〉と特に〈草穂〉には感動はしていないように見えます。
一七九〔北いっぱいの星ぞらに〕一九二四、八、一七(「春と修羅第二集」)では、〈
いちいちの草穂の影さへ落ちる/この清澄な昧爽ちかく〉、「一八一早池峰山巓 」一九二四、八、一七、(「春と修羅第二集」)では、〈南は青いはひ松のなだらや/
草穂やいはかがみの花の間を/ちぎらすやうな冽たい風に/眼もうるうるして息吹きながら/踵を次いで攀ってくる〉美しい風景の一つです。
「七四二圃道」一九二六、一〇、一〇、(春と修羅第三集)では、〈水霜が/
みちの草穂にいっぱいで/車輪もきれいに洗はれた〉、「三原 第一部」では〈緑の草は絨たんになり/
南面はひかる草穂なみ〉でも同様です。
晩年の「文語詩未定稿」では、〔瘠せて青めるなが頬は〕に〈瘠せて青めるなが頬は/九月の雨に聖くして/一すじ遠きこのみちを/
草穂のけぶりはてもなし〉、「恋」では〈
草穂のかなた雲ひくき/ポプラの群にかこまれて/鐘塔白き秋の館/かしこにひとの四年居て/あるとき清くわらひける/そのこといとゞくるほしき〉の2例があります。いずれも草穂は遠く見遥かすものとして捉えられ、そこに多くの複雑な心情が隠されていると思います。
こうみると、詩では、草穂は風に揺れる大きな風景としては描かれていないことが分かります。
漢語の穂は穀類の実の出来るところという意味を持ちますが、古代日本文学の伝統では、隠れていたもの、隠していたもの、がホとして神意となって現われるという意味があります。
賢治の〈穂〉は後者に近く、日常性のなかに隠されている、本当のものに気づくとき、シンボリックに穂、とくに草穂が存在すると言われます。(注1)
特に風にゆれ波立つ草穂には、揺れ動く心や、自然のあるべき好ましい状態という意味を持ち、童話では、それに加えて、異空間への入り口という意味が加わります。
賢治の描く草穂がこのように重要な意味を持ち、多用されたのは、風に揺れる草穂の風景は、波となって体全体を包み込み、草穂の世界に巻き込み異空間へと物語を展開させ、同時に心を揺らし、なにかの真実に気づかせるため、と言えるでしょう物語性よりも心象を明確に記そうとした詩では、風景としての草穂のみを描いているのでしょう。
岩手には種山ヶ原周辺、外山高原周辺、小岩井農場周辺など、多くの広大な草地がありました。そこに自然の法則や人々の営み、生まれいずる生命などを感じながら賢治は生きたのではないでしょうか。
〈風穂〉という語は偶然に賢治が作り出した語なのかもしれませんが、風と草穂を一語で表し、風に揺れる草穂の持つ重要な意味を持たせているのではないでしょうか。賢治の風と広い野原への想いをはっきりと表すことが出来るものだと思います。
注1:奥本淳恵「草穂考」(安田女子大学国語国文論集第三〇号)二〇〇〇、一
参考:小林俊子『宮澤賢治 風を織る言葉』(勉誠出版 2003)