宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
風穂
     
その頃の風穂の野はらは、ほんとうに立派でした。青い萱や光る茨やけむりのやうな穂を出す草で一ぱい、それにあちこちには栗の木やはんの木の小さな林もありました。(「二人の役人」)
 
 〈風穂〉とはなんでしょうか。風に吹かれる草穂でしょうか。全作品中この一例しか使われませんが、心惹かれる言葉です。
私が最初に思い浮かべたのは、空地や土手に生えるイネ科の雑草カゼクサです。高さは五十〜八十センチほど、夏から秋にかけて、長さ三十センチ前後の円錐花序に密生する、細いまっすぐな枝、紫色を帯びた無数の小穂は、名前の印象もプラスされて透明感があり風を感じます。でも作品の風景はもっと大きいようです。
「沼森」には、〈……この草はな、こぬかぐさ。風に吹かれて穂を出し烟って実に憐れに見えるぢゃないか。〉という例があり、そこから考えると、牧草として移入されたイネ科ヌカボ属コヌカグサかもしれません。高さは一メートルあまり、長さ二十〜三十センチの花序に数節から二、三本の枝をつけ、その基部からやや密に小穂をつけ、そこに一個ずつの小花をつけます。
しかし、〈風穂〉という言葉は、コヌカグサの風のふかれる様というだけでなく、もっと大きな意味を感じます。
それは風、穂という語のイメージが重なり、風の感触、動き、やわらかな草穂の波、野原の広さ、草の香り、自然の持つ大きな力、それらが一体となってこの二字から浮かび上がります。賢治は風と自然との関わりをこの言葉ひとつで表しました。
 
この語はなぜか一例しかありませんが、〈草穂〉という語は、歌稿に七例、詩に十一例、童話に十三例、と多用されています。
「若い木霊」、 「タネリはたしかにいちにち噛んでいたやうだった」では、子供が結んで罠を作って遊ぶことが描かれ、「十力の金剛石」では、露におおわれて宝石となる野原が描かれる中、草穂は〈かがやく猫晴石〉になりますが、他作品ではすべて風とともに描かれます。
「ポラーノの広場」では、共同作業所を新しく始める章のタイトルが「風と草穂」です。広場へ向かう途中で、〈俄かに風が向うからどうっと吹いて来て、いちめんの暗い草穂は波だ〉ち、主人公たちの新しい世界へ出発の不安や期待を象徴して、草穂を吹く風は冷たく浸み透ります。
 
  嘉助はがっかりして、黒い道を又戻りはじめました。知らない草穂が静かにゆらぎ、少し強い風が来る時は、どこかで何かが合図をしてでも居るやうに、一面の草が、それ来たっとみなからだを伏せて避けました空が光ってキインキインと鳴っています。 (中略)
空が旗のやうにぱたぱた光って翻えり、火花がパチパチパチッと燃えました。嘉助はたうたう草の中に倒れてねむってしまいました。
 そんなことはみんなどこかの遠いできごとのやうでした。もう又三郎がすぐ眼の前に足を投げだしてだまって空を見あげているのです。いつかいつもの鼠いろの上着の上にガラスのマントを着ているのです。それから光るガラスの靴をはいているのです。(「風の又三郎」)
 
 野原で迷った嘉助は〈知らない草穂〉のなかでたおれ意識を失い、ガラスのマントをはおった風の又三郎を見ます。
 
そのとき私は大へんひどく疲れていてたしか風と草穂との底に倒れてゐたのだとおもいます。
 その秋風の昏倒の中で私は私の錫いろの影法師にずいぶん馬鹿ていねいな別れの挨拶をやっていました。 (中略)そして私は本統にもうその三人の天の子供らを見ませんでした。 却って私は草穂と風の中に白く倒れてゐる私のかたちをぼんやり思い出しました。(「インドラの網」)
 
〈風と草穂との底に〉倒れた主人公は遺跡に封じ込まれていた世界を見ることができます。
 
そして、ほんたうに、こんなオホーツク海のなぎさに座って乾いて飛んで来る砂やはまなすのいい匂を送って来る風のきれぎれのものがたりを聴いているとほんとうに不思議な気持がするのでした。それも風が私にはなしたのか私が風にはなしたのかあとはもうさっぱりわかりません。またそれらのはなしが金字の厚い何冊もの百科辞典にあるやうなしっかりしたつかまえどこのあるものかそれとも風や波といっしょに次から次と移って消えて行くものかそれも私にはわかりません。ただそこから風や草穂のいい性質があなたがたのこころにうつって見えるならどんなにうれしいかしれません。(「サガレンと八月」)
 
この作品で風は、〈私〉に物語を運んでくれたり話を聞いてくれたりします。〈風や草穂のいゝ性質があなたがたのこゝろにうつって見えますやうに〉には、賢治にとっての草穂がいかに好ましいものであったかを知ることが出来ます。
 
鹿のめぐりはだんだんゆるやかになり、みんなは交る交る、前肢を一本環の中の方へ出して、今にもかけ出して行きそうにしては、びっくりしたやうにまた引っ込めて、とっとっとっとっしずかに走るのでした。その足音は気もちよく野原の黒土の底の方までひびきました。それから鹿どもはまわるのをやめてみんな手拭のこちらの方に来て立ちました。
 嘉十はにわかに耳がきいんと鳴りました。そしてがたがたふるえました。鹿どもの風にゆれる草穂のやうな気もちが、波になって伝わって来たのでした。(「鹿踊りのはじまり」)
 
〈風にゆれる草穂のやうな気もち〉は、鹿の心が草穂のゆれとともに鹿を眺めている嘉十に伝わったことを表し、これを契機に嘉十は鹿の世界にはいりこみ、鹿の言葉が聞こえてきます。
 
 詩ではどうでしょうか。「春光呪阻」(『春と修羅』)では、〈……髪がくろくてながく/しんとくちをつぐむ/ただそれつきりのことだ/春は草穂に呆け/うつくしさは消えるぞ……〉と、草穂は〈呆け〉るものでマイナスイメージです。
「小岩井農場 第六綴」(『春と修羅』補遺)では〈草穂もぼしゃぼしゃしてゐるし、〉
、〈すがれの草穂かすかにさやぐ〉と特に〈草穂〉には感動はしていないように見えます。
一七九〔北いっぱいの星ぞらに〕一九二四、八、一七(「春と修羅第二集」)では、〈いちいちの草穂の影さへ落ちる/この清澄な昧爽ちかく〉、「一八一早池峰山巓 」一九二四、八、一七、(「春と修羅第二集」)では、〈南は青いはひ松のなだらや/草穂やいはかがみの花の間を/ちぎらすやうな冽たい風に/眼もうるうるして息吹きながら/踵を次いで攀ってくる〉美しい風景の一つです。 
「七四二圃道」一九二六、一〇、一〇、(春と修羅第三集)では、〈水霜が/みちの草穂にいっぱいで/車輪もきれいに洗はれた〉、「三原 第一部」では〈緑の草は絨たんになり/南面はひかる草穂なみ〉でも同様です。
 晩年の「文語詩未定稿」では、〔瘠せて青めるなが頬は〕に〈瘠せて青めるなが頬は/九月の雨に聖くして/一すじ遠きこのみちを/草穂のけぶりはてもなし〉、「恋」では〈草穂のかなた雲ひくき/ポプラの群にかこまれて/鐘塔白き秋の館/かしこにひとの四年居て/あるとき清くわらひける/そのこといとゞくるほしき〉の2例があります。いずれも草穂は遠く見遥かすものとして捉えられ、そこに多くの複雑な心情が隠されていると思います。
 こうみると、詩では、草穂は風に揺れる大きな風景としては描かれていないことが分かります。
 
 漢語の穂は穀類の実の出来るところという意味を持ちますが、古代日本文学の伝統では、隠れていたもの、隠していたもの、がホとして神意となって現われるという意味があります。
賢治の〈穂〉は後者に近く、日常性のなかに隠されている、本当のものに気づくとき、シンボリックに穂、とくに草穂が存在すると言われます。(注1) 
特に風にゆれ波立つ草穂には、揺れ動く心や、自然のあるべき好ましい状態という意味を持ち、童話では、それに加えて、異空間への入り口という意味が加わります。
賢治の描く草穂がこのように重要な意味を持ち、多用されたのは、風に揺れる草穂の風景は、波となって体全体を包み込み、草穂の世界に巻き込み異空間へと物語を展開させ、同時に心を揺らし、なにかの真実に気づかせるため、と言えるでしょう物語性よりも心象を明確に記そうとした詩では、風景としての草穂のみを描いているのでしょう。
岩手には種山ヶ原周辺、外山高原周辺、小岩井農場周辺など、多くの広大な草地がありました。そこに自然の法則や人々の営み、生まれいずる生命などを感じながら賢治は生きたのではないでしょうか。
〈風穂〉という語は偶然に賢治が作り出した語なのかもしれませんが、風と草穂を一語で表し、風に揺れる草穂の持つ重要な意味を持たせているのではないでしょうか。賢治の風と広い野原への想いをはっきりと表すことが出来るものだと思います。
 
注1:奥本淳恵「草穂考」(安田女子大学国語国文論集第三〇号)二〇〇〇、一  
参考:小林俊子『宮澤賢治 風を織る言葉』(勉誠出版 2003)
 

 








10月の永野川
10月の永野川

10月の初め、風は爽やかながらまだ少し暑い日が続きます。彼岸花があちこちで咲き、モズも盛んに高鳴きをしています。
カイツブリやバンが増え始めました。バンが嘴の5、6倍の大きなカエルをくわえて懸命に振り回していました。恐らくはウシガエルの小さいものと思います。カイツブリはまだ夏羽の換羽中でした。
滝沢ハムの調整池ではチュウサギ20、コサギ8、アオサギ1がそろって圧巻でした。近くの発着所の救命ヘリの音で、飛び立ったのはチュウサギだけだったのは興味深いことでした。
この頃、カワセミには毎回会うことが出来ます。よく見ると、まだ色の不鮮明な若鳥、♂2羽の親子連れ?などもいて楽しいことです。
上人橋で、西側の杉林から東側の錦着山に向かって、カケス23羽がフワフワと飛び立ちました。この杉林からはいつも声のみが聞こえ、見えたとしても1、2羽でしたから、本当に幸運でした。
ヒヨドリも数を増やし、20羽、30羽の群れで移動しています。

公園内の法面は刈られたまま伸びる気配がなく、冬、ここでたくさん観察できたオオジュリン、カシラダカ、アオジのことを考えると胸が痛みます。
以前、この公園の設計者にお会いした時、ここにある木の実やクズの蔓を使ってリースを作る計画だ、とおっしゃったことを思いだします。公園を作ったとき、なぜこの法面が残されていたかを公園管理者は考えてみてほしいと思います。

中旬、駐車場の桜の木に、久しぶり(2007年以降記録がありません。)にヤマガラ1羽、近くの木立でも2羽、確認しました。
滝沢ハム所有の広葉樹林にもコゲラ、ヤマガラ、シジュウカラの混群に会いました。
二杉橋上の水門に今季初めてコガモ確認、公園内の調整池にはこれも今季初めてヒドリガモもきました。秋です。
カルガモはいつもと比べて増え方が少ないようです。またスズメも以前のように100羽単位の群れは見なくなりました。

下旬になって、チュウサギはすでに渡ってしまったのか、滝沢ハムの調整池のサギもめっきり減りました。
大岩橋上の河畔で今季初めてシメを確認できました。声は少し前から聞こえていたようでしたが確認は初めてです。以前ここでは十数羽の群れを見たことがあり、探鳥会でもシメを楽しみに来る方もいらしたのですが、昨年はとうとう現れませんでした。
また林縁の木に、今季初めてエナガ12羽、シジュウカラ3羽、混じってにぎやかです。ヒヨドリがたくさん鳴いて、カワラヒワも群れ、トビも2羽悠然と空を舞います。毎年決まって来る鳥がきちんと来てくれること、ウォッチャーにとってこれが一番幸せなことです。


今季の永野川ビギナー探鳥会が始まります。
12月15日(土)集合9:00 永野川緑地公園西駐車場 パークハウス前
解散12:00
公園内を二時間くらいかけて歩きます。
見どころ ツグミ、カシラダカ、アオジ、シメ、ヒドリガモ、コガモなど冬鳥と、カワセミ、セキレイ類、サギ類など。
問い合せ 日本野鳥の会栃木事務局(0286−25−4051)まで



10月の鳥リスト(永野川二杉橋から大岩橋まで・赤津川、緑地公園から平和橋まで)

カワウ、カイツブリ、アオサギ、ダイサギ、チュウサギ、コサギ、カルガモ、コガモ、ヒドリガモ、バン、イソシギ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、キセキレイ、シジュウカラ、ヤマガラ、エナガ、コゲラ、カワラヒワ、シメ、ムクドリ、スズメ、モズ、カワセミ、ヒバリ、ホオジロ、キジバト、ヒヨドリ、キジ、トビ、チョウゲンボウ、カケス、ハシボソカラス、ハシブトカラス、










盗賊紳士風した風と中世騎士風の道徳を運ぶ風
    盗賊紳士風した風と中世騎士風の道徳を運ぶ風

賢治の詩集「春と修羅第二集」、「春と修羅第二集補遺」には、〈風〉という語が、他の詩集と比べて突出して144例と、多用されています(注1)。
風が、賢治の中で大きな意味を持っていることは多くの方の論ずるところですが、精神性に加えて、修辞的にも大変興味深いものがあります。今回はそのなかで人物像を介して詩の背景を表現している面白い例をあげてみます。
 
  〔雪と飛白岩(ギャブロ)の峯の脚〕(春と修羅第二集補遺)
雪と飛白岩(ギャブロ)の峯の脚
二十日の月の錫のあかりに
澱んで赤い落水管と
ガラスづくりの発電室と
  ……また余水吐の青じろい滝……
黝い蝸牛水車で
早くも春の雷気を鳴らし
鞘翅発電機をもって
愴たる夜中の睡気を顫はせ
大トランスの六つから
三万ボルトのけいれんを
野原の方へ送りつけ
むら気多情の計器どもを
ぽかぽか監視してますと
いつか巨大な配電盤は
交通地図の模型と変じ
小さな汽車もかけ出して
海よりねむい耳もとに
やさしい声がはいってくる
おゝ恋人の全身は
玲瓏とした氷でできて
谷の氷柱を靴にはき
淵の薄氷をマントに着れば
胸にはひかるポタシュバルヴの心臓が
耿々としてうごいてゐる
やっぱりあなたは心臓を
三つももってゐたんですねと
技手がかなしくかこって云へば
佳人はりうと胸を張る
どうして三つか四つもなくて
脚本一つ書けませう
技手は思はず憤る
なにがいったい脚本です
あなたのむら気な教養と
愚にもつかない虚名のために
そこらの野原のこどもらが
小さな赤いもゝひきや
足袋ももたずにゐるのです
旧年末に家長らが
魚や薬の市へ来て
溜息しながら夕方まで
行ったり来たりするのです
さういふ犠牲に値する
巨匠はいったい何者ですか
さういふ犠牲に対立し得る
作品こそはどれなのですか
もし芸術といふものが
蒸し返したりごまかしたり
いつまでたってもいつまで経っても
やくざ卑怯の遁げ場所なら
そんなもなものこそ叩きつぶせ
云ひ過ぎたなと思ったときは
令嬢の全身は
いささかピサの斜塔のかたち
どうやらこれは重心が
脚より前へ出て来るやう
ねえご返事をききませう
なぜはなやかな機智でなり
突き刺すやうな冷笑なりで
ぴんと弾いて来ないんです
おゝ傾角の増大は
tの自乗に比例する
ぼくのいまがた云ったのは
ひるま雑誌で読んだんです
しっかりなさいと叫んだときは
ひとはあをあを昏倒して
ぢゃらんぱちゃんと壊れてしまふ
愴惶として眼をあけば
コンクリートのつめたい床で
工手は落した油缶をひろひ
窓のそとでは雪やさびしい蛇紋岩の峯の下
まっくろなフェロシリコンの工場から
赤い傘火花の雲が舞ひあがり、
一列の清冽な電燈は、
たゞ青じろい二十日の月の、
盗賊紳士風した風のなかです。

擬人化した発電所の巨大な建物へ、周囲の農村の貧しさへの憤りをぶつけるという幻想が描かれ、その幻想から目覚めたときの風景を吹く風です。
〈盗賊紳士〉には、モーリス・ルブランの作品に登場する盗賊アルセーヌ・ルパンが思い浮かびます。日本での本格的な翻訳は一九一八年(大正七)、保篠龍緒訳のアルセーヌ・ルパン叢書(金剛社刊)の『怪紳士』ですが、保篠龍緒の訳はすぐれていたので後まで題名は変わりませんでした。大正七年刊の再刊である『アルセーヌ・ルパン』(保篠龍緒訳、 講談社スーパー文庫 一九八七)搭載の「怪紳士」で見ると、ルパンの挑戦状に〈怪盗紳士、アルセーヌ・ルパン〉と記され、人物紹介では〈アルセーヌ・ルパン・侠盗〉です。
『アルセーヌ・ルパン叢書 813』(金剛社 一九一九)では、登場人物紹介には〈アルセーヌ・ルパン 強盗紳士!〉です。〈盗賊紳士〉という訳語が、本文中か、他の訳出本、にあったか、あるいは賢治の造語であるか断言はできませんが、アルセーヌ・ルパンのことを指すのは間違いないと思います。
紳士を装って、人に知られず社交界に紛れ込み、手際よく悪事をなすアルセーヌ・ルパンは、〈たゞ青じろい二十日の月〉を吹くひそやかな風の比喩であると同時に、周辺の村の事実を意に介せず動き続ける怪物のような発電所に象徴される現実社会の比喩ともなっています。〈盗賊紳士風した〉は、風の形容だけでなく、そこに描かれる風景すべての理不尽さを表そうとしているのではないでしょうか。
この詩の下書稿は、五〇八「発電所」一九二五、四、二(「春と修羅第二集」)の下書稿一で、「発電所」として定稿化されていくものとは別に発展しています。そこにすでにこの語は登場しますが「発電所」定稿では削除されます。
昭和七年以降の手入れと思われる、この〔雪と飛白岩の峯の脚〕の下書き稿二、さらにこの詩を散文詩として発展させた「詩への愛憎」(昭和八年三月発行の「詩人時代3−3」に発表 )にも、この語は残ります。晩年の詩を再編する意識のなかでも、この語は重要なものとして再認識された、ということでしょうか。

  四〇八〔寅吉山の北のなだらで〕 一九二五、一、二五、

寅吉山の北のなだらで
雪がまばゆいタングステンの盤になり
山稜の樹の昇羃列が
そこに華麗な像をうつし
またふもとでは
枝打ちされた緑褐色の松並が
弧線になってうかんでゐる

恍とした佇立のうちに
雲はばしゃばしゃ飛び
風は
中世騎士風の道徳をはこんでゐた

こちらは〈中世騎士風の道徳をはこんでゐた〉風です。
これは〈山稜の樹の昇羃列〉や〈枝打ちされた緑褐色の松並〉という整然とした風景から導かれるように思い浮かんだ語ではないでしょうか。同時に、その風景全体を暗喩するものもでもあります。

二例とも、盗賊紳士、中世騎士という、よく知られた意味のある語を使って風景を的確にとらえていますし、また洒落た遊び心もあって使ったのではないかと思います。

注1:小林俊子「風の修辞―「春と修羅第二集」・「春と修羅第二集補遺」において」(『宮澤賢治 絶唱 かなしみとさびしさ』(勉誠出版 2011)
〔雪と飛白岩(ギャブロ)の峯の脚〕(春と修羅第二集補遺)は、『新校本宮澤賢治全集 第三巻』(筑摩書房)、『ちくま文庫宮澤賢治全集第三巻』等、 四〇八〔寅吉山の北のなだらで〕 は『新校本宮澤賢治全集 第三巻』(筑摩書房)、『ちくま文庫宮澤賢治全集第一巻』等でご覧になれます。









9月の永野川

9月の永野川


 


9月に入ると、さすがに早朝では暑さは感じなくなります。


まだ、夏鳥のオオヨシキリやセッカやゴイサギが見られる半面、ツバメはめっきり少なくなりました。


栃木県版レッドリスト2011年版で準絶滅危惧種となったコサギを注目しているせいか、ここではよく見かけます。主に緑地公園の赤津川合流点近く、滝沢ハムの調整池(汚水処理池)です。5日には公園で4羽、13日には池で6羽、25日には公園で6羽、池で8羽確認できました。他の鳥たちが少ない中、チュウサギ、ダイサギ、アオサギも健在でした。


 


大岩橋下の草むらで、花の大きなオオマツヨイグサを見つけました。在来種、外来種を問わず、この河原の植生の多様さは、専門家の目で一度調べてほしいと思います。


15日、おそらく市役所担当課の知らないことでしょうが、民間人がこの近くで草刈りをしていました。善意の行為なのでしょうが、果たしてこれでよいのでしょうか。


25日、不安が的中して公園の法面の草を刈られました。8月のお話では、これ以降の草刈はないという話だったのですが、ここで刈られると今季冬鳥の生息するまでに草むらは育ちません。


もう来年度を見越して行動するよりないと思い、担当課へ問い合わせてみました。公園の美化のグループがやっているなら、話し合いの余地があると思えたからです。


担当課の話では、単に公園を利用しているだけの人の強硬な主張をいれて、業者に刈り取りを依頼したそうです。


このように、そのときの流れだけで対応する姿勢は疑問です。ここの刈り取りの善悪は別としても、担当課だけでなく市の方針として根本的な自然保護の姿勢を打ち出すべきではないでしょうか。


あまり何度も繰り返されるので、自分に自信が持てなくなり、もう一度法面の周辺を見なおしてみました。本当に狭い空間ですが、ここに冬鳥の姿が見られた時のことを思い、現状が胸を突きます。


もうひとつ、河原には、ヌスビトハギ、オナモミなど繁殖目的に種子を動物や人に付ける植物がありますが、それが子供たちにつくのは可哀想だ、という意見を耳にしました。一瞬耳を疑いました。


60年前、私たちが子供のころ、それは「面白いこと」でした。少なくとも30年前の息子の子供時代でも、「オナモミ戦争」という遊びもありました。また、それを避けて通る知恵も自分で身につけていったと思います。


そのことから、生物の種の保存しようとするたくましさ―自然界の成り立ちを知り、その中で生かされている人間も感じることが出来るのではありませんか。


時代が変わったと言えばそれまでですが、こと自分の子どもや孫に関することになると、周囲が見えなくなっているような気がします。


 


5日に、モズが今季初めての高鳴きを聞かせたのを皮切りに、その後あちこちで聞こえてきます


ヒヨドリが群れでにぎやかで飛び、モズの高鳴きや鳴きまね、ウグイスの地鳴き、なにか聞いたことのない小さめな声、渡りの途中のカケスの声と、鳥たちの声が増えてきました。


 探鳥シーズンは目前です。


 


9月の鳥リスト(永野川二杉橋から大岩橋まで・赤津川、緑地公園から平和橋まで)


 


カワウ、アオサギ、ダイサギ、チュウサギ、コサギ、カルガモ、イカルチドリ1、イソシギ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、キセキレイ、ウグイス、セッカ、オオヨシキリ、カワセミ、ツバメ、スズメ、ホオジロ、セッカ、コゲラ、カワセミ、モズ、キジバト、ヒヨドリ、キジ、コジュケイ、ムクドリ、オナガ、ハシブトカラス、ハシボソカラス








宮沢賢治の文語詩における〈風〉の意味 第二章 その1
宮沢賢治の文語詩における〈風〉の意味 第二章 その1


第一章では、「文語詩稿五十篇」の〈風〉の出現する14例(14篇)について、評釈を加えながら、以下の表現目的別に検討することを試みた。
T凝縮された言葉―一つの言葉として凝縮し抽象的な意味を持つもの。
U比喩―そこにあるものの心象を暗喩する言葉
V心象を含む背景―背景としてそこにあるものの心象を暗喩する言葉
W背景―背景としての風

第二章では、「文語詩稿「一百篇」中、風の出現する35例(30篇)についてまず評釈を試みる。
表現目的については再考する余地を見いだしたので、第三章以降、文語詩五十篇での考察と合わせて、表現目的別に、文語詩全体における〈風〉の像を捉え、賢治の詩の制作の意図や表現への思いをも明らかにしたい。

文語詩稿を検討してきて、解明不十分と感じていることがある。
一つは推敲過程に出現するタイトルの変化である。詩の〈象徴化、一般化〉だけではくくれないものがあるような気がする。また推敲の意図、背景も詳細には把握できていない。
もう一つは自伝的、歴史的事実で、これを正確に裏付けることが難しい。
これらも第三章では解明していきたい。

この稿、 第二章その1では、35例中、目次順に15篇(17例)について解釈と制作の背景などを検討する。

1、 「母」

   雪袴黒くうがちし     うなゐの子瓜食みくれば

風澄めるよもの山はに   うづまくや秋のしらくも


その身こそ瓜も欲りせん  齢弱き母にしあれば

手すさびに紅き萱穂を   つみつどへ野をよぎるなれ

 「文語詩篇ノート」の18ページ、「22 1917」「八月」の項に、〈瓜喰みくる子  日居城野 鳥 母はすゝきの穂を集めたり〉を四角に囲んだメモが見られることから、この光景は既に高等農林時代の賢治の心に印象付けられていたものである。
 下書稿一は黄罫20行一面の詩稿用紙に書かれ、推敲されず×印で削除される。裏面の下書稿二にいたって〈齢若き〉母を明確に記述する。
「女性岩手」第四号(昭和七年十一月)発表形から定稿に至る間は行の形態、小さな表記の変更はあるが、内容はほとんど変わらない。
まだ自分でも瓜を食べたいであろう年頃なのに、わが子にのみ瓜を食べさせながら歩く、若いというよりも幼い母のけなげさを前面に描きながら、背後にある農村の貧しさを訴えている。若い結婚、出産は貧しさゆえの、口減らしのためでもあり、それゆえの不幸も数多く生まれていた。(注)
〈風澄めるよもの山はに〉は下書稿一から出現している。風景全体を清らかなものにしていて、風がすぐれた背景を生むという例にもなりそうである。
その背景が美しければ美しいほど、言外の現実の重さは読む者の胸に響く。見事な手法である。

参考文献
三神敬子「母」(『宮沢賢治 文語詩の森 第二集』 宮沢賢治研究会編 柏プラーノ 2000)によれば、厚生省人口動態調査によればこの詩の発表された二年前、全国結婚総数のうち十八歳未満は十一%を占め、岩手県はその中で五パーセントを占めた。

2、 「保線工手」

狸の毛皮を耳にはめ、    シャブロの束に指組みて、

うつろふ窓の雪のさま、   黄なるまなこに泛べたり。


雪をおとして立つ鳥に、   妻がけはひのしるければ、

仄かに笑まふたまゆらを、  松は畳めり風のそら。

「四一〇 車中」(一九二五、二、一五、「春と修羅第二集」)を文語詩化したものである。
下書稿一は黄罫22行の詩稿用紙に書かれ、タイトルは「鉄道工夫」で、四行三行の二連である。下書稿二は一の裏面に書かれた三行二連、細かな推敲がなされるが大きな変化はない。
下書稿三は黄罫22行の詩稿用紙に書かれ、四行二連の形が整ってくる。タイトルは手入れ形で「保線工手」に変わる。
細かな推敲の上、「女性岩手第四号」(昭和七年一一月)に掲載されたものは四行二連で、形態以外は定稿と変わらない。
列車で同乗した鉄道工夫と、車窓の景色描いた、「四一〇 車中」下記のとおりである。

ばしゃばしゃした狸の毛を耳にはめ
黒いしゃっぽもきちんとかぶり
まなこにうつろの影をうかべ
     ……肥った妻と雪の鳥……
凛として
ここらの水底の窓ぎわに腰かけてゐる
ひとりの鉄道工夫である
     ……風が水より稠密で
       水と氷は互に遷る
       稲沼原の二月ころ……
なめらかででこぼこの窓硝子は
しろく澱んだ雪ぞらと
ひょろ長い松とをうつす

ここでは車窓の風景はリードではさんで、三文字下げて区別されている。風の描写は〈……風が水より稠密で/水と氷は互に遷る/稲沼原の二月ころ……〉と冷たさの形容となっている。
下書き稿二から風の表現は、定稿と同形 〈松は畳めり風のそら。〉となる。これはは松林をたたむようになぎ倒していく風である。
ここには、車内の保線工夫が窓外の雪の中で膨れた鳥の姿に太った妻を見いだしている、という平和な風景を対比させる意図があったのではないだろうか。
 賢治は列車を好み、新線が開業すると乗っていたという(注)。列車のスピードは時空を超えるイメージがあり、車窓に移り行く風景はパノラマにように展開する。そして車内の人物模様は人間や社会の様を映し、多くの詩や童話のモチーフを得ている。
文語詩稿では八篇の鉄道を舞台にした作品がある。全てが現実の風景であり、季節の記されていない五十篇の「車中〔一〕」以外は、全て冬の風景である。
風の表現は、この「保線工手」にのみ出現する。このことによって、詩は窓外の風景のなかに、温度や動きを感じさせ、詩の舞台は一層拡がりを見せる効果をもつのではないだろうか。

注、信時哲郎「鉄道ファン・宮沢賢治―大正期・岩手県の鉄道開業日と賢治の動向」(「賢治研究96 2005,7」
参考文献 赤田秀子「車窓のうちそと「保線工手」を中心に」(『ワルトラワラ 13』 2000、8)

3、〔南風の頬に酸くして〕

南風の頬に酸くして、  シェバリエー青し光芒。

天翔る雲のエレキを、  とりも来て蘇しなんや、いざ。

「七一四 疲労」(一九二六、六、一八、春と修羅第三集)を文語詩化したもので下書稿一は「七一四 疲労」の下書き稿一の書かれた黄罫両面24行の詩稿用紙の末尾に書かれている。「七一四 疲労」は以下の通りである。

南の風も酸っぱいし
穂麦も青くひかって痛い
それだのに
崖の上には
わざわざ今日の晴天を、
西の山根から出て来たといふ
黒い巨きな立像が
眉間にルビーか何かをはめて
三っつも立って待ってゐる
疲れを知らないあゝいふ風な三人と
せいいっぱいのせりふをやりとりするために
あの雲にでも手をあてゝ
電気をとってやらうかな

「七一四 疲労」から察すると、背景は夏の田園で、巨大な入道雲が林立している。作者は雲にエネルギーを感じ、手を触れて、電気を得たいと思っている。文語詩も内容は変わらず、韻律化簡略化したものである。
シュバリエは大麦の種名で、その語感からも、緑や豊かさが感じられる。
〈南風の頬に酸くして、〉の状況は口語詩から変わらず、夏のけだるさの象徴であろうが、風に味を感じる共感覚的表現で新鮮なので、爽やかさも感じる。
背景は、農学校退職後、農業の実践生活に入ったころで、まだ精神までは追いこまれていない。〈天翔る雲のエレキを、  とりも来て蘇しなんや、いざ。〉には、自然界の力すべてを味方に引き込む自信と前向きな姿勢を感じることが出来る。

4、「種山ヶ原」

春はまだきの朱雲を
アルペン農の汗に燃し
縄と菩提樹皮にうちよそひ
風とひかりにちかひせり

繞る八谷に劈櫪の
いしぶみしげきおのづから
種山ヶ原に燃ゆる火の
なかばは雲に鎖さるゝ

下記の「原体剣舞連」(『春と修羅』一九二二、八、三一)、歌稿B601,602,603(大正六年七月より)を原型としている。

601 目のあたり/黒雲ありと覚えしは/黒玢石(メラファイアア)の/立てるなりけり  
  602a603みちのくの/種山が原に燃ゆる火の/なかばは雲にとざされにけり 

原体剣舞連
         (mental sketch modified)

     dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
こんや異装のげん月のした
鶏の黒尾を頭巾にかざり
片刃の太刀をひらめかす
原体村の舞手たちよ
鴇いろのはるの樹液を
アルペン農の辛酸に投げ
生しののめの草いろの火を
高原の風とひかりにさゝげ
菩提樹皮と縄とをまとふ
気圏の戦士わが朋たちよ
青らみわたる灝気をふかみ
楢と椈とのうれひをあつめ
  蛇紋山地に篝をかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
     dah-dah-sko-dah-dah
肌膚を腐植と土にけづらせ
筋骨はつめたい炭酸に粗び
月月に日光と風とを焦慮し
敬虔に年を累ねた師父たちよ
こんや銀河と森とのまつり
准平原の天末線に
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
    Ho!Ho!Ho!
       むかし達谷の悪路王
       まつくらくらの二里の洞
       わたるは夢と黒夜神
       首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかゞりにゆすれ
       青い仮面このこけおどし
       太刀を浴びてはいつぷかぷ
       夜風の底の蜘蛛おどり
       胃袋はいてぎつたぎた
    dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
さらにただしく刃を合はせ
霹靂の青火をくだし
四方の夜の鬼神をまねき
樹液もふるふこの夜さひとよ
赤ひたたれを地にひるがへし
雹雲と風とをまつれ
    dah-dah-dah-dahh
夜風とどろきひのきはみだれ
月は射そそぐ銀の矢並
打つも果てるも火花のいのち
太刀の軋りの消えぬひま
    dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
太刀は稲妻萓穂のさやぎ
獅子の星座に散る火の雨の
消えてあとない天のがはら
打つも果てるもひとつのいのち
    dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

下書稿一は丸善特製二の原稿用紙に書かれ、4行、3行、2行の三連で、内容はほぼ定稿と同じである。内容を部分的に書いた習字稿、扇面毛筆稿二と定稿がある。
種山ヶ原は、岩手県奥州市、気仙郡住田町、遠野市にまたがる物見山(種山)を頂点とした標高600-870メートルに位置した高原地帯である。北上高地の南西部の東西11キロメートル、南北20キロメートルに及ぶ平原状の山で、物見山・大森山・立石などを総称して別名「種山高原」とも呼ばれている。賢治は盛岡高等農林学校在学中の大正六年八月下旬から九月初旬にかけて、江刺郡一帯の地質調査のときに歩いて歌稿B601,602,603(大正六年七月より)はそのときの作品である。以来、種山ヶ原は賢治の心に大きな位置を占めており、多くの作品を生んでいる。童話「種山ヶ原」、はのちに「風の又三郎」の中に重要な位置を占める。 「原体剣舞連」も種山ヶ原一帯に伝わる舞踊を感動的に描いたものである。そこには、自然のなか、労働を輝く芸術にかえるという自分の理想と同様のものを感じとった賢治の姿がある。この詩は「歌曲」としてもドボルザーク「交響曲第九番 新世界より」の第二楽章の旋律を付けて生徒たちにも教えている。 風の表現は、賢治作品に頻出し、心象の奥にいつもあった〈風とひかり〉のフレーズである。〈風〉は、周辺を取り巻く空気、透明なもの、宇宙につながるもの、を凝縮し、象徴するものである。高原の風、雲、ひかり、そこに生きている人間の力強さ、など、理想の高鳴りがある。
5、「ポランの広場」

つめくさ灯ともす  宵の広場
むかしのラルゴを  うたひかはし
雲をもどよもし   夜風にわすれて
とりいれまじかに  歳よ熟れぬ

組合理事らは    藁のマント
山猫博士は     かはのころも
醸せぬさかづき   その数しらねば
はるかにめぐりぬ  射手や蠍

下書稿一は、「田園の歌(夏)」にタイトルがあり、童話「ポラーノの広場」の挿入歌、 歌曲 「ポラーノの広場の歌」としても用いられた。第一連は「農民芸術概論綱要」の「農民芸術の綜合」にも用いられる。第二連は以下の通りであった。

 まさしきねがひに いさかふとも
 銀河のかなたに ともにわらひ
 すべてのなやみを たきぎともしつゝ
 はえある世界を ともにつくらん

下書稿二は「イーハトーブ農民劇団の歌」のタイトルで、細かい手入れはあるがほぼ同形である。
下書稿三「花巻農学校 同級会へ 第?回卒業生」で、第二連は変更されて、山猫博士が登場する。
下書稿四は、タイトル「ポランの広場のうた」で、「一〇一四 春  一九二七、三、二三、」の下書稿三とその文語詩化「峡野早春」下書稿の左上に寄せて書かれ、定稿とほぼ同様の内容となり、下書稿五を経て定稿に至る。
第一連は前項「種山ヶ原」と同様の役割を持って推敲されている。広場―歌―雲―風というキーワードを繋ぎ、人と宇宙のつながりを謳う。
その想いに繋がる下書稿二までの第二連のかわりに、下書稿四では童話「ポラーノの広場」のエピソード、偽りの広場―山猫博士の選挙の事前運動の場面―をとり入れる。理想の広場と裏面を描くことで、「歌曲」の形のなかで、社会性を持たせたのであろうか。一九二七年という時となり、理想のみを詠うことをはばかったのであろうか。
歌曲は賢治の理想―芸術と労働の融合を具現するものであった。この詩は、その理想を高らかにうたった。〈風〉は〈自然〉の代名詞として労働の苦しみを癒やすために欠くことのできないものであったろう。

6、「巡業隊」

霜のまひるのはたごやに、  がらすぞうるむ一瓶の、
酒の黄なるをわかちつゝ、  そゞろに錫の笛吹ける。

すがれし大豆をつみ累げ、  よぼよぼ馬の過ぎ行くや、
風はのぼりをはためかし、  障子の紙に影刷きぬ。

ひとりかすかに舌打てば、  ひとりは古きらしや鞄、
黒きカードの面反りの、   わびしきものをとりいづる。

さらにはげしく舌打ちて、  長ぞまなこをそらしぬと、
楽手はさびしだんまりの、  投げの型してまぎらかす。

歌稿B14〈楽手らのひるはさびしき(銹びたる)ひと瓶の酒をわかちて銀笛を吹く(戯れごとを云ふ)((明治四十四年一月より))を文語詩に改作したものである。
無罫詩稿用紙に書かれた下書稿一は十一行で、韻律化の度合いは少なく、風の表現は〈風のしろびかりとつめたき影/のぼりかすかにはためけり〉である。
下書稿二は下書稿一の裏面で風の表現は、〈のぼりかすかにはためきて/障子を過ぐる風の影〉となり、〈風の影〉は、のぼりの動きの影であることを予想させる。
下書稿三手入れ、下書稿四では、さらに〈風はのぼりはためかし/障子の紙に影刷きぬ〉とはっきりさせ、〈よぼよぼ〉という馬の形容と座員たちのカード遊びの光景が加わり、座長のいら立ちの原因を明示している。
定稿では内容はほとんど変わらず、二行四連の形が整う。
大正時代、浅草などで公開される映画とは別に、地方での映画上映は、まず現地との交渉や宣伝をする「先乗り」が行き、ついで〈巡業隊〉―上映のための映写技師や弁士、音楽手、会計からなる一行―が行った。
様子の分からない巡業先・観客、あてにならない小屋主・興行主に加えて、隊員の脱退や増加など不安定な生活を強いられたという(注1)。
賢治は中学時代に遭遇した巡業隊の楽士のことに加えて、隊員たちのすさんだ生活を描き、表を通る〈よぼよぼ〉の馬の情景を添えて、当時の最先端文化と言える映画の陰にある不安を強調する。
風にはためく幟の〈揺れる〉様はその頼りなさを象徴するものである。

参考文献
注1 東京人書評(細馬宏通HP)掲載の、前川公美夫『頗る非常』(新潮社)、柳下毅一郎 『興行師たちの映画史』(青土社) による。

 7、〔みちべの苔にまどろめば〕

みちべの苔にまどろめば、  日輪そらにさむくして、 

わづかによどむ風くまの、  きみが頬ちかくあるごとし。

まがつびここに塚ありと、  おどろき離るゝこの森や、

風はみそらに遠くして、   山なみ雪にたゞあえかなる。


下書稿一は黄罫24 0行の「一〇四八レアカーを引きナイフをもって」(一九二七、四、二六 
「春と修羅第三集」)下書稿二の裏面 に書かれ、四行二連である。「一〇四八レアカーを引きナイフをもって」と内容は全く関わりは無いが、 書かれたのは その日付以降で近い時期と推定される。言葉の僅かな推敲と、形態を全四行にして定稿となる。
一、二行は、「冬のスケッチ第一八葉」の状況を映しているが風の表現は文語詩に初めて出現する。
 「冬のスケッチ第一八葉」は以下の通りである。    
 ※
 行きつかれ
 はやしに入りてまどろめば
 きみがほほちかくにあり
 (五百人かと見れば二百人
  二百人かと見れば五百人)
 いつか日ひそみ
 すぎごけかなしくちらばれり。
      ※
 散乱のこゝろ
 そらにいたり
 光のくもを
 織りなせり。

「冬のスケッチ」では〈きみ〉への幻想が夕暮れの林の描写の中に描かれ、悩みに満ちた空気を感じる。時を置いて書かれた文語詩ではどうであろう。
風のよどみは、一瞬、時間の停止を思おわせ、〈きみが頬ちかくあるがごとし〉と感じさせるがそこは〈まがつび〉(災厄)の神の住む林であった。
禍津日神(まがつひのかみ、まがついのかみ)は神道の神で、禍(マガ)は災厄、ツは「の」、ヒは神霊の意味で、マガツヒは災厄を起こす神である。その禍を直すために直毘神(なおびのかみ)が生まれたと言われる。のちにこの禍津日神を祀ることで災厄から逃れられると考えられるようになり、厄除けの守護神として信仰されるようになった。この場合直毘神が一緒に祀られていることが多い。
賢治のいた場所は具体的には分からないが、岩手県では、八十禍津日神など多くの異称のある「瀬織津姫神」が日本で最多確認されているという(注1)ので、〈まがつびの塚〉は賢治の周辺には多くあったと言えるのかもしれない。
成島毘沙門堂は、「毘沙門天の宝庫」(口語詩稿)、「祭日」(文語詩未定稿)にも読みこまれる。前者には人々の雨乞いを願う場所であり、山全体が〈毘沙門天の宝庫〉として人々の祈りを受け入れることが記述される。後者には味噌を足に塗って厄除けを願うことが描かれている。同じ境内にまつられる三熊野神社も厄除けの神である。禍津日神が厄除けの神を指すならば、口語詩稿は、発想時期が1926年から1928年にかけて、執筆は昭和5年以降と推定される。この詩の書かれた「一〇四八レアカーを引きナイフをもって」の用紙の日付、(一九二七、四、二六 )と重なる。
しかし〈まがつびここに塚ありと、  おどろき離るゝこの森や、〉から感じられるのは厄除けではなく、災厄を起こす神のようでもある。後述、「旱倹」では〈鳥はさながら禍津日を、はなるとばかり群れ去りぬ。〉と災厄の意味でこの言葉を使っている。
風は遠くにも吹いて、山脈の雪を美しく見せている。遠い風は作者の向ける眼の先の遠い風景とともに 過去を見はるかす作者の視線を感じさせる。

注1  HP風琳堂主人

8、「肖像」

朝のテニスを慨ひて、   額は貢(たか)し 雪の風。

入りて原簿を閲すれば、  その手砒硫の香にけぶる。

〔冬のスケッチ〕と同じ10・20行のイーグル印原稿用紙二枚に書かれ、その一部かとも疑われる、四行七連、二行一連の文語の長詩「修羅白日」が下地となる。
ここから口語詩〔松の針はいま白金に溶ける〕(補遺詩篇T)が試作され、文語詩から口語詩への転作の珍しい例である。
さらに黄罫22行の詩稿用紙に再び八行の文語詩「松の針」が書かれ〈入りて原簿を閲すれば、 その手砒硫の香にけぶる。〉の状況が加わる。これは全体が×印で抹消される。
その裏に二行二連の下書稿二「病院主」、余白に下書き稿三「M氏肖像」、定稿、と進む。
風の表現〈額は貢し 雪の風〉は、下書稿二から変わらず出現する。
「修羅白日」、「松の針」ではテニスを憤って額をあげているのは主体であるが、下書稿二以降は付けられたタイトルの〈病院主〉、〈M氏〉の想いを描くとも取れる。
 文語詩の推敲におけるタイトルの変化は謎を含む。ここでは自らの想いとして綴るにははばかれる心情があったともいえるが、課題として後に検討したい。
状況のわかりやすい〔松の針はいま白光に溶ける〕を記す。
   
松の針はいま白光に溶ける。
(尊い金はなゝめにながれ……)
なぜテニスをやるか。
おれの額がこんなに高くなったのに。

日輪雲に没し給へば
雲はたしかに白金環だ。
松の実とその松の枝は
黒くってはっきりしてゐる。

雲がとければ日は水銀
天盤も砕けてゆれる
どうして、どうしておまへは泣くか
緑の針が波だつのに。

横雲が来れば雲は灼ける、
あいつは何といふ馬鹿だ。
横雲が行げば日は光燿
郡役所の屋根も近い。

(あゝ修羅のなかをたゆたひ
また青々とかなしむ。)

おれの手はかれ草のにほひ
眼には黄いろの天の川
黄水晶の砂利でも渡って見せやう
空間も一つではない。

〔松の針はいま白光に溶ける〕中〈(あゝ修羅のなかをたゆたひまた青々とかなしむ。)〉は、平穏でない心―怒り―をみつめた言葉であると思う。
「テニスをする人」への憤りは、「一〇八二 あそこの田はねえ」一九二七、七、一〇 春と修羅第三集)などにも、テニスを楽しみながら教育に携わる教師が批判的に描かれる。その風景なのであろうか。具体的な背景は現在不明であるが興味のわくことである。
〈額は貢(たか)し〉の意は怒りに昂然と顔を揚げている状態なのか。文語詩化に際して、加えられた〈入りて原簿を閲すれば、 その手砒硫の香にけぶる。〉の状況は、〈テニス〉に相対する、仕事をする姿と取れるだろうか。風は冷たく、その頬を吹いたのであろう。
 背景、タイトルの変化など、未解決部分の多い詩である。

9、「暁眠」

微けき霜のかけらもて、   西風ひばに鳴りくれば、
街の燈の黄のひとつ、    ふるえて弱く落ちんとす。

そは瞳ゆらぐ翁面、     おもてとなして世をわたる、
かのうらぶれの贋物師、   木藤がかりの門なれや。

写楽が雲母を揉み削げ、   芭蕉の像にけぶりしつ、
春はちかしとしかすがに、  雪の雲こそかぐろなれ。

ちいさきびやうや失ひし、  あかりまたたくこの門に、
あしたの風はとどろきて、  ひとははかなくなほ眠るらし。

下書稿一は下記「冬のスケッチ」第一九葉 第一章を文語詩化したものである。

      ※ 朝
   みちにはかたきしもしきて
   きたかぜ檜葉をならしたり
 贋物師、加藤宗二郎の門口に
   まことの祈りのこゑきこゆ

 下書稿二は黄罫22行の詩稿用紙に書かれるが三行で中断、下書稿三ではタイトル「贋物師」で、四行四連の長詩となる。内容は定稿とほぼ同じである。
「朝」では、〈贋物師、加藤宗二郎の門口に/まことの祈りのこゑきこゆ〉だったが、下書き稿三では、〈かのうらぶれの贋物師〉とマイナスの評価がつく。
〈加藤宗二郎〉からは斎藤 宗次郎(1877年2月20日 - 1968年1月2日)が思い浮かぶ。
齋藤は岩手県東和賀郡笹間村(現・花巻市)生まれで、内村鑑三の最も忠実な弟子のキリスト教徒である。日露戦争の際、内村の影響で、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をするが、そのため小学校教員の職を失い、新聞取次店を営みながら生計を立て、清貧と信仰の生活を送る。
 宮澤賢治とは、宗派を超えた交流があり、宗次郎の1924年(大正13年)の日記には、ともにレコードを聞き、自作の詩を見せられたとの記述がある。
 ただ宗次郎の裏の一面も近年発掘されていて、地元の身近な人の評価はまた別であったかもしれない。
〈加藤宗二郎〉を齋藤宗次郎と仮定した時、「冬のスケッチ」の時代にすでに〈贋物師〉ではあったが、〈まことの祈り〉を感じていた賢治が、文語詩では〈そは瞳(まみ)ゆらぐ翁面、おもてとなして世をわたる、/かのうらぶれの贋物師、木藤がかりの門なれや。〉と書かねばならないわけがあったのかもしれない。
 この詩で描きたかったのは、かつては親交のあったものへの、絶望の気持ちかもしれない。
風の表現は下書稿一から形を変えながら出現する。まず西風にゆらぐ霜のかけらと弱々しく瞬く明かりを、対象人物の周囲に配してその内実を彷彿とさせ、終行で朝の風を描きながら、廟さえも失って眠る対象への祈りのような気持ちをこめるか。

10、「旱倹」

雲の鎖やむら立ちや、     森はた森のしろけむり、
  
鳥はさながら禍津日を、    はなるとばかり群れ去りぬ。


野を野のかぎり旱割れ田の、  白き空穂のなかにして、

術をもしらに家長たち、    むなしく風をみまもりぬ。

 下記「三一一昏い秋」(一九二四、一〇、四、 「春と修羅第二集」)を文語詩化したものである。

黒塚森の一群が
風の向ふにけむりを吐けば
そんなつめたい白い火むらは
北いっぱいに飛んでゐる
  ……野はらのひわれも火を噴きさう……
雲の鎖やむら立ちや
白いうつぼの稲田にたって
ひとは幽霊写真のやうに
ぼんやりとして風を見送る

下書稿一は黄罫22行「三一一昏い秋」の下書き稿二の上部に、下書稿二は黄罫22行の詩稿用紙に書かれる。
心象も背景も「三一一昏い秋」同様で、旱魃の末、決定的となった不作、実らぬ稲のなかで、為す術もない農家の家長の姿を描く。
一連は風景を描くが〈鳥はさながら禍津日を はなるとばかり群れさりぬ〉は、文語詩化に際して加えられたものである。自由な鳥と逃げ出すことも出来ない人間の差を書き加えて、背景を明確にする。
〈風〉は気象語として、この天候をもたらしたものである、という意味も含み、風景全体でもあり、空虚、空間をあらわすものでもある。〈むなしい〉のは為す術もない凶作、空間を見守る以外にないという状況を最終行にこめている。

11、「歯科医院」

ま夏は梅の枝青く、     風なき窓を往く蟻や

碧空の反射のなかにして、  うつつにめぐる鑿ぐるま。

浄き衣せしたはれめの、   ソーファによりてまどろめる、

はてもしらねば磁気嵐、   かぼそき肩ををののかす。

下書稿一は黄罫22行二面の詩稿用紙に四行二連の文語詩として書き始められた。下書稿一の余白には、四角で囲った、「立候補ヤメサセタル娘/ 何回モ眼ヲ赤クシテ出ル」「谷内村長」「銀行家」「県知事/百合/発電所連」 「岩根橋発電所視察図 /一坑内 /二篝火」の五個の題材メモメモがある。
下書き稿二はその裏面に書かれ、ここでは登場者を〈白き衣せしたはれめ〉と規定する。さらに〈伯楽〉も登場する。その推敲形から〈伯楽〉は〈村長〉となるが、下書稿三では、連ごと削除し、代わって〈たはれめ〉中心の連となる。
タイトルの通り歯科医院の風景と思われる。題材メモはこの詩に関するものであろうか。下書稿三では〈村長〉が登場するが、女性は一貫して〈たはれめ〉であり、「立候補ヤメサセタル娘」の意味ではない。深読みすれば、娘が〈たはれめ〉ゆえ村長の立候補がやめざるを得なかった、ということもあるかもしれないが確証はない。加えて「銀行家」以下の記述が見いだせない。
〈たはれめ〉、〈淫れめ〉、〈舞姫〉等、の出現する詩は多く、「八戸」、〔せなうち痛み息熱く〕(未定稿)、〔なまりの色の冬の海の〕では売られていく娘への愁い、〔夜をま青き藺むしろに〕、「一〇三三 悪意」関連では温泉地歓楽街への批判など様々な思いが交錯する。
この作品の〈たはれめ〉について栗原敦は、〈かぼそき肩ををののかす〉、〈浄き衣〉などに作者が込めたものは、おごりやよごれではなくその存在のはかなさであったとする(注1)。
待合室を描いた〔せなうち痛み息熱く〕(未定稿)でも、〈たはれめ〉と村長とその孫が同席している。題材メモが事実ではないとしても、〈村長〉という人生で不動の位置を確保しているものと、〈たはれめ〉という不確実な生を生きているものとを、並べて描くことに意味を持たせているのではないだろうか。
定稿では社会的な事情をすべて排除して、周囲の状況の描写のなかに〈たはれめ〉を置くことで、より鮮明にはかなさを浮き彫りにしようとしたのであろうか。
風もなく蟻の足音さえ聞こえそうに静まり返った晴天の外景と、室内の歯科の治療道具の電気鑿の音とを並べて描き、誰しも好感を持たないその音に耐えてまどろむ〈かぼそい〉女性が描かれる。ここで、風は無風状態で下書稿三から加えられ、外気の暑苦しさ、閉塞感を助長する。

参考
注1、栗原敦「うられしおみなごのうた」『宮沢賢治 透明な軌道の上から』(新宿書房 1992)
谷内(たにない)村は 明治29年和賀郡谷内村となり、昭和30年東和町となり、平成18年花巻市と合併して花巻市となる。丹内山神社などがある。

12、「社会主事 佐伯正氏」

群れてかゞやく辛夷花樹、  雪しろたゝくねこやなぎ、

風は明るしこの郷の、    士はそゞろに吝けき。

まんさんとして漂へば、   水いろあはき日曜の、

馬を相する漢子らは、    こなたにまみを凝すなり。

〈社会主事〉は社会事業主事で、 大正十四年、「勅令第三二三号朕地方社会事業職員制」によって発令された。これは社会事業の運営管理を、一般事務職でなく、専門職を充てるための制度である。
 佐伯正は岩手県社会事業主事等で昭和2年3月〜4年8月まで在任した。賢治の父、政次郎が、方面委員―低所得者層の救済など地域の社会福祉事業を目的とする活動を行う名誉職委員、今日の民生委員の前身にあたる―を務めた関係で面識があった。
佐伯は歌人でもあり岩手の文芸についても関心を持ち、岩手毎日新聞に「退耕漫筆」を不定期に連載していて、昭和5年10月8日には、賢治の『春と修羅』に言及して 理解しがたくても、評価すべきものとその価値を見いだしている。そして羅須地人協会時代の、無私の農業指導には絶対の賛辞を送り、このころ広まっていたプロレタリア文学への批判とともに描いている。
 賢治との関わりを示すのは、佐伯あて書簡315下書き(昭和6年)である。賢治が昭和2年、羅須地人協会時代に、収穫したものを販売のためにリヤカーに乗せて出た花巻で佐伯に遭遇したことを、思い起こして書かれている。そこには佐伯が、父ではなく賢治に会いに花巻を訪ねてくれたこと、この詩と同様に、〈山浄く風明るいその四月〉〈日曜日〉の文面がある。
佐伯の人柄を彷彿とさせるのは、書簡中に見られる、〈水いろの季節〉を表現するのに、Spring, Fruhring,Printemのいずれがふさわしいのか、と大声で叫んだという屈託のなさ、表現へのこだわりを持っていることであろうか。賢治は好感を持って迎えたのであろう。
生前かかわりのあった、母木光によれば、旅館の隣室で騒ぐ、料金不足の手紙を出す、など好感は持っていないが、佐伯の豪快さを表すことにもなろう。
 現存稿は七種ある。下書稿一から定稿まで、小さな異変はあるが、タイトルの示すもの―社会主事佐伯正氏、日曜日、マグノリア、ネコヤナギ、明るい風、吝けき人、などは変わっていない。
下書稿一は黄罫22行の詩稿用紙に文語詩として書きはじめられている。下書稿一、二、では、〈ひとは鈍(をぞ)きと〉〈ひとは鈍(おぞま)し、吝(やぶさ)かと〉〈いまさらに春を忿(いか)りてなにかせん〉と、やぶさけきものへの登場者(佐伯氏)の怒りの描写となっているが、下書稿四以降は〈紳(ひと)はやぶさけき〉と登場人物(佐伯氏)がやぶさけき者ともとれる。母木光はその説を取るが、下書稿一、二の内容、そして前行の〈この郷の〉からかんがえれば、個人ではなく周辺の花巻の人々への、社会事業主事佐伯の感想となるのではないだろうか。まんさん(蹣跚)は酒に酔ってなどで足元がよろよろするさまだが、賢治の佐伯氏への否定感は感じられない。
文語詩が自伝的要素を持ってある時の一齣を描くものであるとしても、この春の風景のなかに描きたかったものを明確にすることは難しい。タイトルとして「佐伯正氏」を置くものの、描かれるのは春の風景のみである。
書簡315があるので、この詩を理解することが出来るが、 他の文語詩では自伝的な背景を理解することは困難で、またどれほどの意味を持つのかも、今後考えて行きたい。
賢治は、昭和六年、既に盛岡での職を辞していた佐伯に何らかの用件で手紙をしたため、昭和二年の佐伯との遭遇、共感、明るい春の日、希望に満ちた日々を思ったのか。それは、〈風は明るし〉の言葉となってその時代を象徴したのである。 

 参考文献信時哲郎「社会主事佐伯正氏」(宮沢賢治学会イーハトーブセンター会報第44号琥珀 2012年3月)

13、「紀念写真」

学生壇を並び立ち、   教授助教授みな座して、

つめたき風の聖餐を、  かしこみ呼ぶと見えにけり。


(あな虹立てり降るべしや)
(さなりかしこはしぐるらし)
 ……あな虹立てり降るべしや……
   ……さなりかしこはしぐるらし……

写真師台を見まはして、   ひとりに面をあげしめぬ。


時しもあれやさんとして、  身を顫はする学の長、

雪刷く山の目もあやに、   たゞさんとして身を顫ふ。


   ……それをののかんそのことの、  ゆゑはにはかに推し得ね、

     大礼服にかくばかり、     美しき効果をなさんこと、

     いづちの邦の文献か、     よく録しつるものあらん……


しかも手練の写真師が、  三秒ひらく大レンズ、

千の瞳のおのおのに、   朝の虹こそ宿りけれ。

歌稿B379〈みんなして/写真をとると台の上に/ならべば朝の虹ひらめけり(大正五年十月より・盛岡高等農林二年)を文語詩化したものである。
 下書稿一は、無罫詩稿用紙に書かれた31行の下書きメモ風に、細かい推敲をくわえたものである。下書稿二は黄罫両面22行詩稿用紙に書かれ、六行四連にまとめたうえさらに推敲を加え、定稿に至る。意味や背景にはほとんど変化はない。
一瞬の虹はまさに紀念写真という晴れの日にふさわしい光景の頂点を表すものである。
内容を見れば、〈紀念写真〉という一つの学校行事が記憶の重要なポイントとして残ったのは、学生の記念の気持ち―例えば進級など―が思い出されているのではなく、撮影中に虹がかかったという出来事を中心に、主に写真師の緊張ぶりや、学長の大礼服の美が詠いこまれている。
 風の表現は下書稿二から、第一連に同様な形容法で出現する。〈つめたき風の聖餐を、かしこみ呼ぶと見えにけり〉には下書稿に書かれた、緊張する学長の様子や、大礼服のモールの輝き、ざわめく学生の様子を凝縮している。学生と学長へのアイロニーは感じられずむしろ、晴れの時を祝福しているようである。
 それはひとえに〈虹〉の出現によるのであろう。人の瞳に映り込んだ虹は、瞳と写真機のレンズとの合わせ鏡によって無限大に往復する。そのことに気付いた賢治は、下書稿一に書き込んだ、学長や学生や写真師などの営みを、簡略化し〈つめたき風の聖餐〉を加えることで、晴れの舞台を演出したのである。

参考文献
須田浅一郎(「宮沢賢治の文語詩による挑戦」(『宮澤賢治研究Annual vol6 1996
宮澤賢治学会イーハトーブセンター)

14、「朝」

旱割れそめにし稲沼に、  いまころころと水鳴りて、
待宵草に置く露も、    睡たき風に萎むなり。

鬼げし風の襖子着て、   児ら高らかに歌すれば、
遠き讒誣の傷あとも、   緑青いろにひかるなり。

 七二七〔アカシアの木の洋燈(ラムプ)から〕(一九二六、七、一四、「春と修羅第三集」)を文語詩化したもので、下書一は七二七〔アカシアの木の洋燈(ラムプ)から〕の下書稿二の余白に書かれた。下書稿二は下書稿一の余白に書かれ、四行二連で、内容は小さな語句の変化があるのみで定稿とほとんど変わらない。下記は〔アカシヤの木の洋燈から〕 
である。

アカシヤの木の洋燈から
風と睡さに
朝露も月見草の花も萎れるころ
鬼げし風のきもの着て
稲沼のくろにあそぶ子

ここでの風の表現は〈風と睡さに〉であるから、 〈睡たき風〉は文語詩においても、主体の眠さも含めた表現といえよう。
アカシアの花の濃い甘い香りは詩から消えているが、子供らの鮮やかな着物や、高らかな歌声、〈ころころ〉というリリカルな水音、という、明るく、プラスの状況をも描き、それらも含めて、恐れていた旱害の田がようやく潤された安堵、過去のものとなった〈懺誣〉の思いを反映する安らぎの言葉ではないだろうか。〈懺誣〉の具体的背景は現在不明である。

15、〔猥れて嘲笑めるはた寒き〕

猥れて嘲笑めるはた寒き、   凶つのまみをはらはんと

かへさまた経るしろあとの、  天は遷ろふ火の鱗。


つめたき西の風きたり、    あららにひとの秘呪とりて、

粟の垂穂をうちみだし、    すすきを紅く燿やかす。

下書稿一は、黄罫26行詩稿用紙に文語詩として書き始められる。ここでは〈あゝまた風のなかに来て/かなしく君が名をよべば〉と作者の恋の想いを中心としている。
手入れ稿ではこの部分を、〈西風きみが名をとりて〉、〈秘めたるきみが名をとりて〉など繰り返して〈きみ〉について苦心して推敲している。また場所を推定できる〈城あと〉の文字が入り、下書稿二では部分的な修正が施される。
下書稿三に至って、〈猥れて嘲笑めるはた寒き〉、〈かえさまたへる〉の語が入り、〈西風きみが名をとりて〉→〈つめたき北の風きたり〉、〈秘めたるきみが名をとりて〉→〈あららにひとの秘呪とりて〉と〈きみ〉の記述を消し、タイトルは「判事」となる。下書稿四では「検事」とタイトルが付き、形態以外は定稿とおなじである。
〈猥れて嘲笑めるはた寒き 凶つのまみをはらはんと/かへさまた経るしろあとの、天は遷ろふ火の鱗。〉は、わけもなく嘲笑し、また寒々しい他人の眼を、忘れようと、帰り道に再び城跡にくれば、夕暮れの空は火のように燃えている、といった意味だろうか。
そのことに連動するように、風は〈ひとの秘呪〉を運ぶものとなっていく。具体的には風景を動かし輝かすものである。:
 秘呪とは、かつて古神道や陰陽道の中で、昔から多くの事柄の中に用いられてきた経緯のある「秘法や呪文」で、己の能力では解決できないことを、神にゆだねるためのものである。魂の強化、除霊、金縛り解除、また、開運、病気、育児、災害、旅行、男女、日常諸呪、の解決 などの目的別の呪文があるという。ここでは自分が唱えるのではなく、誰かが自分に対して唱えているものであろう。
当初の〈きみ〉への想いに佇む姿は消え、もっと邪悪な人の気持ちに耐えている姿を感じる。この記述が出るのが、「判事」、「検事」のタイトルを付してから、ということは自伝的背景か、あるいは表現上の象徴としての意味か、何か秘密がありそうだ。今後の課題である。