宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
花巻(2013、9、23)
  賢治忌9月21日から、花巻では多くの関連行事が開催されます。
体調や時間の許す限り訪れるのが私にとっての決まり事でもあり喜びでもあります。
今年は「さいかち淵」のモデル地を訪ねました。昨年、地図を頼りに歩き、ついにたどり着けずに、諦めたところです。今年は、地元の方から情報を得ておこうと相談したところ、案内していただけることになりました。車でのアクセスの何と早くて簡単だったことか。(お礼の申し上げようもありません!)
  「さいかち淵」の碑は、花巻市石神町の住宅地のなかにありました。賢治の時代には、豊沢川はこの地点まで溢れて子供たちの水遊び場だったそうで、1941年に公開された日活映画「風の又三郎」の野外ロケはこの近くの豊沢川で行われたそうです。
碑は1972年に地元の有志によって建立され、碑文には、「さいかち淵」の一節〈・・・蝉が雨の降るやうに鳴いてゐる/いつもの松林を通って・・・〉と、それにちなんで、蝉が2匹とまっているように彫られていて、面白いものでした。
  少し離れた豊沢川の道治橋の下流が「まごい淵」です。こちらは1989年公開の映画「風の又三郎 ガラスのマント」のロケ地です。以前はススキの野原だったという広い河原も芝生が整備され、大きなサイカチが二本枝をひろげています。
  河畔にはヤナギやサイカチの大木があり、ススキの白い穂が揺れ、水量は泳げるほどではありませんが、豊かな景色でした。賢治の時代を偲ぶことはできないのかもしれませんが、映画のロケ地として選ばれたことは頷けます。
  ほかに、花巻軽便鉄道の跡、賢治産湯の井戸、鳥谷ヶ崎神社、高常組製作所、賢治の友人阿部孝の実家、鼬ぺい神社も訪ねました。賢治の時代から待ち合わせ場所に使われたという、高常組製作所は当時のハイカラさの残る廃屋でした。
  身照寺にお参りし、ぎんどろ公園で一休みしました。ぎんどろ公園も、杉などが伐採され明るくなっていました。ギンドロは成長していて、以前、耳元で聞こえたと思った葉擦れの音は、遥か高いところで鳴っているようでした。樹木は年とともに変り、公園もその時代の人の考え方によって変わるのだ、ここでもそんな思いがよぎりました。
  午後は、学会主催のエクスカーションで石鳥谷の賢治の足跡を訪ねました。
まず、昭和3年3月15日から1週間余り、石鳥谷町好知八重樫宅で、賢治が「石鳥谷肥料相談所」を開設した跡地へ行きました。
  この肥料相談所の開設に尽力し、賢治の世話人、助手役も務めた、石鳥谷出身で賢治の教え子の菊池信一(大正14年3月花巻農学校卒業、岩手国民高等学校大正15年1月15日〜3月27日在籍)は〔あすこの田はねえ〕の少年のモデルとも言われています。賢治の教えをそのままに、ひたむきに生き、雨ニモマケズ詩碑の建立にも携わりましたが、昭和12年12月、戦争が命を奪いました。
  石鳥谷道の駅構内の石碑は、石鳥谷町地形図をバックに、「三月」(口語詩稿)が彫られています。これは、石鳥谷肥料相談所の様子を描いたもので、深刻な凶作のあとの農民の姿が描かれています。見下ろした田んぼには田んぼアート、「なめとこ山の熊」があり、皆の笑顔を誘っていました。
  森と渓谷をぬって葛丸ダム湖畔の「葛丸」の石碑へ着きました。碑文は歌稿B668の〈ほしぞらは/しづにめぐるを/わがこゝろ/あやしきものにかこまれて立つ〉で、土性調査で野宿した折のものです。今でも人工物はダムのみ、空気も一段と冷たく、ここでの夜を想像して、身も震える思いでした。
  この地では「楢の木大学士の野宿」も発想されたと言います。闇の中で、古生代から続く大地と生息したであろう恐竜を感じとった賢治、思考のスケールが違うと思いました。
  個人的にはアクセスの難しい場所を案内していただき、たくさんの資料をご用意くださった、賢治学会、花巻賢治の会、石鳥谷賢治の会の皆様には心からお礼申し上げます。
  私が訪ねる9月、花巻はいつも晴れて、田は黄金色に色づき、空は青く平和です。賢治の望みを具現しているようで、胸がいっぱいになります。それを支えるように、市民のみなさんの暖かさが、旅の不安を包んでくれます。帰るとまた行きたくなる、花巻は私にとってそんなところです。
 
 







11月の永野川 12月のビギナー探鳥会のお知らせ
11月の永野川 12月のビギナー探鳥会のお知らせ
 
 
永野川緑地公園ビギナー探鳥会(主催・日本野鳥の会栃木)
ベテランリーダーのご案内で、常連さんから初心者、小さなお子さんまで集う楽しい会です。
日時 2013年12月21日(土)AM9:00〜12:00
集合 栃木市岩出町 永野川緑地公園西駐車場
申込不要
参加費200円(会員100円)
雨天中止
無料貸し出し 双眼鏡、図鑑
問い合せ 日本野鳥の会栃木(028-625−4051・またはホームページ)
 
  7日、昨夜からの雨が昼にやっと上り、まだ曇っていましたが出かけました。意外に鳥が多く、このところ少なかったスズメが、100羽単位の群れで出て来たほか、ハクセキレイ、セグロセキレイも多く、キセキレイも一羽確認できました。
  二杉橋上でカルガモに交じって、コガモが4羽、公園の調整池にヒドリガモも3羽初飛来、いよいよ本格的に渡りが始まったようです。シジュウカラ、コゲラも今季初、ホオジロも3羽目視できました。
  滝沢ハム近くの桜の木に、ハト大で、胸が白く、黒い縦班があり、尾が長めの鳥がいて、そこまで確認したところで、飛び去ってしまいました。旋回というよりは羽ばたいていたので、チョウゲンボウかと思いました。羽の細さは確認できなかったので、今一正確ではないかもしれません。 もう一羽、第五小付近で、カラスよりも小さめで尾が長いもの、カラスに追われていた。曇っていて色は黒っぽいとしか分からなかったのですが、あるいはオオタカかもしれません。猛禽類をもう少し確認できるようにしないと、不確かな報告になってしまいます。
  公園内で、カワセミが2羽連なって飛んできて、青さがひときわ美しかったのですが、途中で上流と下流に分かれてしまい、一瞬の幸運におわりました。
  ようやく緑になってきた、以前除草剤をまいた所を、今日また刈込が始まりました。今の時点ではあまり大差はないのですが、こちらの神経を逆なでされているようで不快です。公園課の目的、ビジョンを知りたいと思います。
 
17日
  久しぶりの快晴となり、日差しもたっぷりと暖か、今日も午後の探鳥です。スズメが戻って来たようで、100羽超の群れ、50羽、30羽と群れて草むらを飛び、電線に並ぶ姿は、とても気持ちを豊かにしてくれます。
  コガモ4羽、珍しくマガモ♂1羽、ヒドリガモ11羽、と冬のお客さんが増えています。
  キジが、一瞬ツグミと間違うような声でしばらく鳴いていて、遠いせいもあって小さく見えました。あるいは幼鳥の声なのでしょうか。また、公園の池で、カワセミがいつもと違う少し濁った太い声で鳴いていました。こちらも初めて聞く声でした。
  この季節に、また公園の草むらが刈られて、もう公園で冬の草むら、と呼べるのは、ワンド跡と川岸の狭い部分となってしまいました。大岩橋上の河川敷は大木が切られた跡が、完全な草むら状態で、川岸にはヨシやススキがありますが、大変見えにくいところです。車が多くて危なくても永野川や赤津川の川岸を歩く方がよい時もあります。今年の探鳥会は大丈夫でしょうか。たくさんの鳥たちがきてくれるよう祈るばかりです。
 
26日
  今日も雨上がりの風もない快適な日和でした。
  新井町の赤津川河畔の草むらで、かなり黄色の目立つアオジ、緑褐色のアオジと見つけました。今季初で鳴き声も確認しました。私の力では、まだ鳴き声だけでは確認できません。滝沢ハム近くの草むらでも1羽、帰り際永野川の第五小近くの河畔の草むらでも3羽、今年もやっと来てくれたな、という思いです。アオジは自分で図鑑を頼りに確認した最初の鳥なので、とりわけ嬉しいことです。
  調整池のヒドリガモは15羽に増えました。飛来地として定着したのかもしれなません。スズメ、カラスは午後から出てくるのでしょうか、あまりいませんでした。
  赤津川に、珍しくコサギ1羽、カルガモに交じっていました。コサギの減少はこの辺でも著しいようです。
  大岩橋上で、何か珍しい声が聞こえましたが、多分ヒヨドリだったと思います。ヒヨドリはとても多様な声をするものだとこの頃思います。
  滝沢ハムの広葉樹林も葉を落とし始め、コゲラ、ウグイス、シジュウカラも出てきました。我が家にも2日前、エナガの群れが初めて現れました。冬の探鳥は期待できそうです。
 
鳥リスト
キジ、カルガモ、ヒドリガモ、コガモ、マガモ、カワウ、カイツブリ、ダイサギ、アオサギ、コサギ、イソシギ、オオタカ、チョウゲンボウ、バン、ケリ、イカルチドリ、キジバト、カワセミ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、キセキレイ、カワラヒワ、ホオジロ、アオジ、ヒヨドリ、ウグイス、モズ、シジュウカラ、コゲラ、スズメ、ムクドリ、ハシボソカラス、ハシブトカラス
 
 
 
 







風と雲と空と―「竜と詩人」
 
風がうたひ雲が応じ波が鳴らすそのうたをたゞちにうたふスールダッタ
星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覚悟する  
あしたの世界に叶ふべきまことと〔〕美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる予言者、 設計者スールダッタ
 
 若い詩人スールダッタは、〈誌賦の競いの会〉に詩を発表し、絶賛の中に優勝します。老詩人アルタは、この賛辞を送って、詩の世界から去っていきます。
 スールダッタは、海辺にまどろんでいるとき、詩を発想したのですが、それがその下にある海の洞窟に閉じ込められた竜チャーナタのつぶやきを聞きそれを詩にして優勝したのだという噂が流れます。スールダッタは自らを悔い、竜チャーナタに侘びようと海辺に来ます。チャーナタは、アルタがスールダッタに与えた賛辞を聞き、答えます。
 
尊敬すべき詩人アルタに幸あれ、
スールダッタよ、あのうたこそはわたしのうたでひとしくおまへのうたである。いったいわたしはこの洞に居てうたったのであるか考へたのであるか。おまへはこの洞の上にゐてそれを聞いたのであるか考へたのであるか。おおスールダッタ。
そのときわたしは雲であり風であったそしておまへも雲であり風であった。詩人アルタがもしそのときに冥想すれば恐らく同じいうたをうたったであらう。けれどもスールダッタよ。〔ア〕ルタの語とおまへの語はひとしくなくおまへの語とわたしの語はひとしくない韻も恐らくさうである。この故にこそあの歌こそはおまへのうたでまたわれわれの雲と風とを御する分のその精神のうたである。
 
 それは、老詩人アルタ、スールダッタ、チャーナタそれぞれの詩は、表現こそ違っても、等しく雲と風をうたえば、そのことによってみな等しく雲や風になることができるのだ、ということでした。竜はスールダッタを讃えて、自分の大切な赤い宝珠を与えようとします。
 さらに、自分の過去―千年の昔、風と雲とを自分のものとしたとき、力を試すそうと荒れて人々を不幸に陥れたために、竜王によって十万年の間洞窟に封じ込められ、陸と海の境を守ることを命じられ、日々罪を悔い竜王に感謝する日々であること―を明かします。
スールダッタは、その許しと壮大な竜の運命に感動し、母の死を見届ることができたら、海に入り〈大経〉を求めることを誓い、その時まで宝珠を竜に預けて去ります。竜は人間の理解を得た喜びを感じながら、また洞窟の水に沈んで懺悔の言葉を続けるのです。
 
 この作品は、原稿末尾に一〇、八、二〇、と記述があり発想はこの時期と推定されますが、新校本全集では、草稿の用紙、字体などから原稿成立は大正11年以降、と推定しています。
 大正10年1月、賢治は、信仰していた法華経の実践と将来の職業の模索のために突然上京します。そして国柱会(信奉する田中智学主宰の宗教団体)で奉仕活動を行う中で、上京中の親友保阪嘉内に入信をせまりますが、嘉内は応ぜず、二人の距離は離れてしまいます。また納得できる職業も得られず、国柱会の実態も賢治の理想とはかけ離れていたのではないでしょうか。そんな折、8月中旬、妹トシの病気の知らせを受けて帰郷します。
 発想はこのような時期でした。このころ成立した作品は、「ひのきとひなげし」(推定大正10年ころ発想、最終手入れ推定昭和8年夏)、「連れて行かれたダァリア」(推定大正10年秋執筆)、「貝の火」(発想大正9年、現存稿成立大正10年)、「ペンネンネンネンネンネネムの伝記」(成立大正10年、あるいは11年)など、いずれも、何らかの成功を手にしたものが慢心によってそれを手放してしまうという物語です。そこには大正10年の上京中の深い傷を、自分の慢心のためと位置付けた賢治が感じられます。
 「竜と詩人」でも、竜は雲と風を自由に操る力を得たのに海を荒し、竜王の怒りに触れて幽閉され、詩人も詩の王座につき周囲に絶賛されながら、盗作のうわさを流されます。
しかしこの作品に強く感じられるのは、その後の救いです。
 詩人が詠った詩は、竜のものであると同時に詩人のものであるのということ、ひとしく雲と風になった二者が詠ったものということは、そこに介在する〈風〉、〈雲〉は存在そのものが詩であり、対峙すべき二者をも広く包み込むものであることを示します。そこには自然や宇宙への絶対の信頼を感じることができます。
 これは発想から現存稿成立までに賢治が模索しながらたどり着いた結果かもしれません。
 また、老詩人アルタがスールダッタに与えた賛辞、
 
あしたの世界に叶うべきまことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなわしむる予言者、 設計者スールダッタ
 
 さらに、スールダッタが竜に送った言葉、
 
さらばその日まで竜よ珠を蔵せ。わたしは来れる日ごとにここに来てそらを見水を見雲をながめ新らしい世界の造営の方針をおまえと語り合おうと思う。
 
には、最も大切なものは未来に向ける眼である、という思いも込められています。
 難解な物語ながら人の心をとらえるのは、その風と雲と空を詠みこんだスケールの大きさと、未来への眼差しではないでしょうか。
 
参考文献
 伊藤真一郎「「龍と詩人」論」(『作品論 宮沢賢治』 双文社出版 1984)
 小林俊子『宮沢賢治 風を織る言葉』(勉誠出版 2003)
 







10月の永野川(2013)
 10月7日
 よく晴れて、動くと汗ばむくらいです。
公園内でツバメ2羽、帰りが遅れたのでしょうか、越冬するのでしょうか。川岸の低木の陰に、ゴイサギが1羽、水に腹部が触れるくらいになってじっとしていました。このあたりには滅多にいないゴイサギですが、この場所では、2年に1度くらい見かけます。
カルガモが増えてきました。赤津川、泉橋上で、数羽のカルガモに、コガモ♀が1羽混じっていました。今季初です。
 コガモは、本格的な飛来の前の早い時期に、2,3羽の見られるのが不思議でした。どこかに迷い込んで夏を越していたのかと思っていましたが、もう県北ではたくさん飛来しているということですから、そこから来たのかもしれません。
 赤津川岸の新井町の休耕田にケリが14羽、この辺にもケリが訪れるようになりまし。
 大岩橋上の山林で、カケスの声のみ、2羽ほどでしょうか、冬鳥のシーズン間近です。
 公園内のワンド跡のヤナギがアレチウリにすっぽり覆われ、このままだと枯れてしまうのではないか心配です。アレチウリは芝生にまで伸び出していて、このままだと、またワンドを刈ろうという意見にもなりかねません。「アレチウリ」のみ除く、という選択もあるのではないか、そうすればかなりの景観と植物が救われると思いますが。
 
 17日
 台風が過ぎた後の快晴、日差しは強かったのですが、風は涼しくなりました。
 ヒヨドリが本格的にわたり始め、20羽の群に会いました。また賑やかになります。
 かすかにカワラヒワの声が聞こえたように思いましたが、姿は確認できません。
 永野川二杉橋上の取水口で、今季初めてのキセキレイ1羽に会いました。今日は鳥の数も少なかったので、これがご褒美となりました。
   
 27日
 また台風の翌日で、よく晴れて気持ちの良い日になりました。永野川、赤津川とも水量がかなり増えて濁り、河原も中州も無くなって、カルガモが岸辺に貼りつくようにして寄り添っていました。中州はなかったのですが、空中を飛ぶセグロセキレイ、ハクセキレイが目立ちました。
 公園のワンド跡、少し上流、滝沢ハムの草むらでは、チッチという小さな地鳴きの声が聞こえました。しばらく待ちましたが、鳥は現れず、一羽見えたのはホオジロの♂でした。カシラダカ、アオジとも違うようですが、ホオジロのように3回の連続でもないようです。
 新井町の赤津川岸でカワラヒワが2羽、今度は姿を確認できました。
休耕田の上で、8羽ほどの鳥が群れて飛びかったり田んぼに降りたりしていました。腹部の白さ、尾の両端の白い筋、などからヒバリのようです。声は囀りとは違って初めて聞く声でした。5分程後に、降りているヒバリ1羽確認できました。ヒバリはこれから南へ渡っていくことを教えていただきました。お恥ずかしいのですがヒバリが渡ることを初めて知りました。
 ケリ6羽、以前と同じ休耕田に降りました。ここは定位置になったのかもしれません。少しずつ季節が変わって来たようです。
 
鳥リスト
キジ、カルガモ、コガモ1、カワウ、カイツブリ、キジバト、アオサギ、ダイサギ、ゴイサギ、バン、イカルチドリ、ケリ、トビ、モズ、カケス、ハシブトカラス、ハシボソカラス、ヒバリ、ツバメ、ヒヨドリ、スズメ、セグロセキレイ、ハクセキレイ、キセキレイ、カワラヒワ、ホオジロ
 
 
 
 
 







実らぬ年の秋の風
 
三一一 昏い秋   一九二四、一〇、四、
 
黒塚森の一群が
風の向ふにけむりを吐けば
そんなつめたい白い火むらは
北いっぱいに飛んでゐる
  ……野はらのひわれも火を噴きさう……
雲の鎖やむら立ちや
白いうつぼの稲田にたって
ひとは幽霊写真のやうに
ぼんやりとして風を見送る 
 
 賢治が花巻農学校の教師をしていた1924年の6月、7月は、7月23日まで40日間、雨が降りませんでした。農学校の教師として、賢治は学校の実習田の水の確保のために徹夜で見張りを続け、盛岡測候所に福井規矩三を訪ねて相談もしています。また身近に農家の水争いにも接し、農家の子弟の教え子たちの切実な状況も耳にしたと思います。しかしその心配や苦労もむなしく、凶作の秋を迎えます。
 近くの田では、日照りのために干割れして火も吹きそうで、稲はいまだに実が入っていません。そこには静かに風も吹いているのですが、人はそこに安らぐこともできず、風の吹く方向をみつめるしかありません。みつめたその先、〈風の向ふ〉の森では冷たい空気が北いっぱいに拡がって、もう冬がそこまで来ています。
この詩には、風の表現が2か所あります。〈風の向ふ〉は風の流れていく先、その距離を表しています。同時に何か不確かなよりどころのなさも感じさせます。
そして、〈風を見送る〉人は、不確かな風をみつめるしかない深い絶望を感じさせます。一方で〈風の向ふ〉の〈つめたい白い火むら〉は、気象学上の冬の風の冷たさです。また風は、気象的な問題として、凶作にも関わっているものでもあります。それを思った時、作者はまた一層のやり場のなさを感じたのでしょう。
 ここでは、風の気象学上の意味と風の空虚感が重なって詩に深い影を落としています。
 
 三三一  凍雨     一九二四、一〇、二四、
 
つめたい雨も木の葉も降り
町へでかけた用足(タシ)たちも
背簑(ケラ)をぬらして帰ってくる
 ……凍らす風によみがへり
   かなしい雲にわらふもの……
牆林(ヤグネ)は黝く
上根子堰の水もせゝらぎ
風のあかりやおぼろな雲に洗はれながら
きゃらの樹が塔のかたちにつくられたり
崖いっぱいの萓の根株が
妖しい紅をくゆらしたり
 ……さゝやく風に目を瞑り
   みぞれの雲にあえぐもの……
北は鍋倉円満寺
南は太田飯豊笹間
小さな百の組合を
凍ってめぐる白の天涯   ()内は原文のルビ
 
 
 最初の詩の10日後の日付を持つ詩です。季節は進み、東北ではすでに初冬です。〈凍雨〉は気象用語では、地表付近の温度が0℃以下で、上空の温度が0℃以上の場合、上空の0℃以上の空気を通過した雪、霰、雲が落下する間にいったん融解して水滴となり地上付近の0℃以下の空気で再び凍結したものを言い、雪、霰、が不透明なのに対して透明です。上空の0℃以上の空気の層に比べて、地表付近の0℃以下の空気の層が厚く、雨粒が再凍結するのに十分な冷気層があるときに起る、ということは、詩に描かれた場所が十分に寒いということだと思います。
 この詩では生活している人たちが中心に描かれます。まず恐らく金策か生活用品の買い物のために町へ出た人々は、冷たい雨の中を黙々と帰ってきます。氷のような風に、一瞬我に帰れば、空は雲に覆われ、笑うしかない現実だけがあります。
 その雲に覆われた風景は、風や雲のかすかな動きに時に僅かに彩りを見せます。人はそんな風景も目に入らず、また喘ぐように歩きます。これは生活の現実を描くものでしょうか。
 鍋倉・円満(万)寺、太田・飯豊・笹間は、花巻市街の西に広がる田園地帯の集落名で、上根子を挟んで北と南にあり、花巻の農村部全域を表すと言えるかもしれません。ます。この詩が吉野信夫編『現代日本詩集』(1933)に発表されたときのタイトル「県道」からすると、作者の位置は、上根子の現在の花巻大曲線でしょう。
 〈小さな百の組合〉は必死に活動している農民たちでしょうか。あるいは賢治の教え子たちを想定したのかもしれません。すべてを白く凍る大きな冷たい空が覆っています。
 この詩では、〈もの……〉という表現が2回使われます。〈もの……〉は第一には、そこに描かれ用足帰りの人を表しますが、それを含むより大きなものを描くという効果があります。ここでは、凶作の中に寒さを迎えたえた、農村全体ではないでしょうか。〈……〉でかこまれて、下げて表記されたのは、潜在して消えることのない現実を表そうとしているのではないかと思います。
 
三二四  郊外  一九二四、一〇、二九、
 
卑しくひかる乱雲が
ときどき凍った雨をおとし
野原は寒くあかるくて
水路もゆらぎ
穂のない粟の塔も消される
    鷹は鱗を片映えさせて
    まひるの雲の下底をよぎり
    ひとはちぎれた海藻を着て
    煮られた塩の魚(さかな)をおもふ
西はうづまく風の縁(へり)
紅くたゞれた錦の皺を
つぎつぎ伸びたりつまづいたり
乱積雲のわびしい影が
まなこのかぎり南へ滑り
山の向ふの秋田のそらは
かすかに白い雲の髪
    毬をかゝげた二本杉
    七庚申の石の塚
たちまち山の襞いちめんを
霧が火むらに燃えたてば
江釣子森の松むらばかり
黒々として溶け残り
人はむなしい幽霊写真
たゞぼんやりと風を見送る   ()内は原文のルビ
 
 ここでは夕暮れの風景が中心に描かれます。凍雨のなか、いくらかの日差しは西の山際で紅を帯びた模様を作っていますが、やがて森の影を残して暮れていきます。
 人は手に入らない塩干しの魚を思い、そこから作者がそこから想起した〈海藻〉のように粗末な衣服を着ていることのみが描かれます。それは既にあきらめ意外に感じられない人の姿であると同時に、賢治の心中でもあったのでしょうか。
 この詩は「凍雨」とともに「十一月」の総題で、吉野信夫編『現代日本詩集』(1933)に発表されています。その発表段階で、「昏い秋」で使われた最終二行が暗喩の形となって加えられます。賢治は発表を意識しての表現だったのかもしれませんが、同じ語句が二つ以上の詩に使われることはあっても、2行がほとんど同形ということは、この詩だけではないでしょうか。
〈十一月〉は農学校教師としての農業の仕事の、総決算のようなものだったのかもしれません。賢治はこののち深い絶望のなかから、新しい出発を決意することになります。
それは10年たって死を目前にした発表の折にも、深く心に残っていた時間だったのだと思います。