16 病技師〔一〕
こよひの闇はあたたかし、 風のなかにてなかんなど、
ステッキひけりにせものの、 黒のステッキまたひけり。
蝕む胸をまぎらひて、 こぼと鳴り行く水のはた、
くらき炭素の燈に照りて、 飢饉供養の巨石並めり。
下書稿一は、下記「 冬のスケッチ」一三葉と一四葉第一章で、成立は、歌稿Bの清書後の大正十年から大正十二年とされる。
※
風の中にて
ステッキ光れり
かのにせものの
黒のステッキ。
※
風の中を
なかんとていでたてるなり
千人供養の
石にともれるよるの電燈
※
やみとかぜとのなかにして
こなにまぶれし水車屋は
にはかにせきし歩みさる
西天なほも 水明り。
下書稿二は黄罫26行詩稿用紙に書かれ、下書稿一に語句の手入れがなされる。
下書稿三は下記第三八葉第二章を第一連にとりいれたうえで、下書稿一の第一連を加え、さらに〈天狗巣のよもぎ〉と〈やまひいよいよふかくして/いよよにひとのみをやぶるべし〉と病の状況が加わる。
眩ぐるき
ひかりのうつろ、
のびたちて
いちじくゆるゝ
天狗巣のよもぎ。
下書稿四は黄罫22行詩稿用紙に、タイトルを「夜」として、三行二連で、定稿とほぼ同じ状況が描かれる。下書稿五はその裏面に、定稿のタイトル「病技師」で、三行三連、下書稿六はその余白に四行二連で定稿とほぼ同じ内容となり、定稿に至る。
〈風のなかにてなかん〉という状況は、下書稿四では主体が第三者になるものの、定稿まで変わらない。
この状況の下に、〈にせもののステッキ〉、蝕む胸、
飢饉供養の碑、がキーワードとして展開する。
本来、杖は笏の一種で、君主や高官の権威を顕すための物であったが、十六世紀以降、文化として欧州の貴族や上流階級を中心に広まった。とくに第一級正装にはモーニングに手袋、シルクハットとステッキが 定番のスタイルとして浸透した。明治維新後,西洋からの文物が集まった銀座にいくつものステッキ専門店も誕生したことでも日本への浸透が分かる。
賢治はフロックコートの写真もあり、正装用としてステッキを意識していたであろう。自らの心境か他者の描写かいずれにしても、弱った身を支える黒く光るステッキは賢治にとっては贋物である。
飢饉供養の碑は、花巻市の宮沢家付近の浄土宗松庵寺の宝暦、天明、天保、の大飢饉での死者供養のための全二十四基の碑で、高さは一、五メートルほどのものである。それは避けることのできない自然の猛威や社会の軋轢に散った弱者の姿を具現するものと言 えるだろう。
病む身と泣かずにはいられない衝動を抱えて闇の中に出て行く。 しかし目に入る
飢饉供養の碑は、もっとつらい現実である。
〈蝕む胸〉は、下書稿一、二には、水車小屋の職人のせき込む姿を描いているが、定稿では、主体の様とも取れる表記となり、かつタイトルも「病技師」という清書時の賢治の状況を暗示させるものとなった。
風は、背景と共に病む賢治と周囲の状況を包み込む大きなものとしてあり、全てを肯定して死を迎えようとしていた賢治を表すものではないだろうか。
参考文献
三谷弘美「病技師〔一〕」(「宮沢賢治文語詩の森」 柏プラーノ 1999)
17、〔水楢松にまじらふは〕 「水楢松にまじらふは、 クロスワードのすがたかな。」
誰かやさしくもの云ひて、 えらひはなくて風吹けり。
「かしこに立てる楢の木は、 片枝青くしげりして、
パンの神にもふさはしき。」 声いらだちてさらに云ふ。
「かのパスを見よ葉桜の、 列は氷雲に浮きいでて、
なが師も説かん順列を、 緑の毬に示したり。」
しばしむなしく風ふきて、 声はさびしく吐息しぬ。
「こたび県の負債せる、 われがとがにはあらざるを。」
推敲に従って、登場者の身分やタイトルが変化するので、それを追って読んでみたい。
下書稿一は黄罫22行の詩稿用紙に、文語詩として書きはじめられている。内容は、父親が息子に引き継がれるべき広大な所有地を示して語りかけるのに対して、息子は答えずむしろ悲しんでいるようすを描くが、これは定稿まで変わらない。
ここの登場者は〈商主〉で、燕尾服に勲章を付け、名誉と地位のある商人と、〈青きかしらをそりこぼち白き袍などつけにたる〉息子である。
袍はかつて束帯の上着、公家・僧侶などの装束の表衣で、色、形によって、職や身分を表しているものもある。広く上着の意もある。白は律令時代には天皇の色であった。ここでは〈青きかしらをそりこぼち〉からは僧職者が想像でき、単に僧衣と考えても良いであろう。
息子の形容に、〈その子善主〉がある。善主は北原白秋「邪宗門秘曲」(『邪宗門』)に 〈いざさらばわれらに賜へ、幻惑の伴天連尊者、/ 百年を刹那に縮め、血の磔脊に死すとも/ 惜しくからじ、願ふは極秘、かの奇しき紅の夢、/善主麿、今日を折に身も霊も薫りこがる。〉があり、マリアとその子イエスを表すというが、ここでは、宗教者の息子を表そうとしたものであろう。
細かな語句の推敲の後、タイトル〈父〉を付し、さらに〈銀行家〉に修正する。
風は父親の燕尾服を〈り〉ならすものである。
17行目〜26行目〈柏は松にまじはりて/古きことばのモザイクや/クロスワードのさまなせり/かくのごときを静六は/混かう林となづけしか〉では子へと受け継がれる森を俯瞰しながら、クロスワードパズルを思わせるミズナラとマツの混淆林の風景、パンの神を思わせる楢の木、順列の法則に従うかのような小道の桜の並木と、肯定的に述べられ、これは定稿までで変わらない。
下書き稿二は黄罫二十二行の詩稿用紙の表に、タイトル「銀行家とその子」、四行四連となる。対話者父と子についての記述は省かれ、ほぼ定稿と変わらない内容の対話のみが記される。
風は〈えらひはなくて風吹けり〉と定形と同じになる。
定稿では二行四連となり、人物を表すタイトルや表現はなくなる。
下書き稿一の〈静六〉は本多静六(1866―1952)で、林学博士であると同時に造園家で、設計や提案を出した公園は1901年の日比谷公園、大沼公園(北海道)をはじめとして76にのぼり、「日本の公園の父」とも呼ばれた。「宮沢賢治の読んだ本―所蔵図書目録補訂」(注)には「本多造林学本論」(三浦書店 明治45年)の記載がある。賢治の景観として山林にを見る意識は、本多静六の影響もあったのかもしれない。
東京帝国大学教授時代の1902年、政府が設置した足尾鉱毒事件の第二次鉱毒調査委員会の委員も委嘱されている。同委員会は1903年に、1897年の予防令後は鉱毒は減少したと結論づけ、洪水を防ぐために渡良瀬川下流に鉱毒沈殿用の大規模な「遊水池」を作るべきとする報告書を提出したが鉱毒が消滅したという調査結果はない。1930年国立公園調査会の委員に就任している。
〈水楢松にまじらふは〉に表される混淆林は、一般にスギやヒノキなどの林では、樹冠が閉ざされて、なかなか広葉樹が生育しにくい。それに比べて松(内陸では通常はアカマツ)林の場合は、林内までよく光が入るので、広葉樹も成長し、亜高木層や低木層が発達し、混交林になりやすいという。
野鳥の種数や生息個体数が最も多いのは、広葉樹の純林よりも、こうしたアカマツと落葉広葉樹(コナラ、ミズナラ、ブナ、その他)との混交林である。
『岩手県史 第九巻』(岩手県著 杜陵印刷 昭和39)によれば、昭和初期の営林政策は営林局、営林署の体制によって、苗木の育成、植林、下草払、伐木、森林鉄道による運搬、貯木場、製材、製品工場、の運営、造林計画までがなされるようになった。
林産物として、建築資材の杉、松、栗、家具・小道具・経木用の白楊、鉄砲台座用のクルミ、箪笥用の桐、装飾用材の楓の欅、薪炭用・相互接製板用の楢、その他の樹木も多くの用途をもって生産された。それはまさに混淆林を形作るものとなったのであろう。それは昭和三年までは順調に推移し、県内六産業のうち、第三位を占めた。しかし昭和四年から七年、世界恐慌のあおりを受けた経済不況のため最低となり、昭和五年〜六年には「県有模範林」への支出も中止される。
〈銀行家〉についての関連は、まず賢治の母方の祖父宮澤善治は明治31年4月に花巻銀行の創
立に携わる。花巻銀行は昭和4年に、第一次世界大戦後の金融界恐慌に対し、銀行整備合同の政策、盛岡銀行に併合されているが、それ以前、大正4年に、1915年上半期には、「整理案発表ノ結果、爾来連日預金之取付ニ遇ヒ、支払高多額ニ上リ、到底此ノ儘営業ヲ継続スルコト至難ニ因リ、整理中一時休業」(『岩手殖産銀行二十五年史』)という状態に追い込まれる。
盛岡銀行への合併は国の政策一県一行主義の路線の中に進められ、花巻電鉄などともに金田一国士の傘下に入ることは、既定路線だったが、大正4年の事件は、身内である宮澤善治一家は私財の提供など心労は多大であった。同年8月の高橋秀松宛て[書簡9])、創作メモ48「花巻銀行」はその事態を反映していると思われる(注)。
ここに〈銀行家〉のタイトルを使ったことは、資産家の父とそこに否定的な面を感じる若い息子とを描くために、賢治がかつて身近に体験し深く印象に残っていたこの言葉を使ったものだろう。
下書き稿から変わらず出現する〈こたび県の負債せる、 われがとがにはあらざるを。」はどんな社会背景があったのだろう。
『岩手県史 第十巻』(岩手県著 杜陵印刷 昭和39)によれば、昭和5年、世界恐慌のあおりを受け、経済界は不況、失業者増大、農産物価格低落、昭和6年は低温多雨で米不作7年も不況続く。また昭和3年、新銀行法が実施され中小銀行の存続が一層難しくなり、昭和4年には、宮澤善治の花巻銀行も昭和4年に盛岡銀行に合併されるが、合併問題の不調で、昭和7年、盛岡銀行、第九十銀行、岩手銀行三行が倒産して税収25%減少する。そのため県債の発行が増え、その利息も多大なものとなった。そのような状況下で、6年7年続いて県財政の歳入歳出差し引き0となる。
〈県の負債〉とはそのような状況をいうのであろう。盛岡銀行の倒産には、前述のように、宮澤善治一族も関わっていて(注2)、ごく身近なものとして賢治は受取ったであろう。また、抗いきれない経済の大きな波に翻弄される中小の資本家にも、いたわりの目を向けたともいえる。
風はむなしく吹く。これはその経済の波をも表しているのかもしれない。四連の詩の三連までを占める風景の美しさは、子に引き継がれるべきものでありながら、四連におけるむなしさが悲しく、風にむなしいと形容しなければならなかった心情を感じることが出来る。タイトルにおける職業は不要となり、社会全般への、むなしさが描かれる。
注
1賢治の死後病床周辺にあった書籍を弟清六氏が整理して目録とし、それを飛田三郎氏が筆写した
「宮澤賢治/蔵書目録」と小倉豊文氏が筆写した「宮澤賢治所蔵図書目録」が残された。それをさ
らに奥田弘氏が補訂したものが「宮沢賢治の読んだ本―所蔵図書目録補訂」(初出『銅鑼 第40
号』 1982年発行・『日本文学研究資料新集26宮沢賢治 童話の宇宙』 有精堂出版 1990)
である。
飛田氏の筆写には(賢治の死後病床辺を整理した時の主要のもの。かれは途中度々古本屋にもうり、
人にも呉れたり。又、この目録中には父の蔵書も多分あるべし。)の注記がある。
2、書簡9注高橋秀松宛(大正4年8月4日)
……町の人たちも又充分しをれてゐます 殊にHanmaki Bank にx,y,zといふやうな問題が起こって私の周囲ははんたいのしをれかた則ち眼が充血しています
3、書簡467森佐一宛(昭和8年3月30日)
……昨夜叔父が来て今日金田一さんの予審の証人に喚ばれたとのことで、何かに談して行きました。花巻では大正五年にちやうど今度の小さいやうなものがあり、すっかり同じ情景をこれで二度見ます。……
参考文献
浜垣誠司氏HP「宮澤賢治 詩の世界」
『岩手県史 第九巻』(岩手県著 杜陵印刷 昭和39)
『岩手県史第十巻』(岩手県著 杜陵印刷 昭和39)
18 二月 みなかみにふとひらめくは、 月魄の尾根や過ぎけん。
橋の燈も顫ひ落ちよと、 まだき吹くみなみ風かな。
あゝ梵の聖衆を遠み、 たよりなく春は来らしを。
電線の喚びの底を、 うちどもり水はながるゝ。
下書稿一は黄罫22行の詩稿用紙に文語詩として書き始められ、二行四連ですでに定稿の四連の形は成立している。
下書稿二は、下書稿一の裏面に書かれ、連の順の移動のほかは、内容もほぼおなじであるが、第一連にある〈二月吹く〉を〈みふゆ吹く〉に直し、〈二月〉をタイトルとする。
下一では〈二月吹く みなみ風かな〉であった。下二ではタイトルとして「二月」を置く。
大角修氏は〈二月〉に、釈迦入滅の二月十五日を重ね、死を意味する月と捉える。
この〈二月十五日〉は旧暦であり太陽暦では三月初旬から中旬にかけてである。現代では太陽暦に置き換えて行事を行うところ、一カ月遅れとして太陽暦三月十五日とするところ、旧暦に従うところ、と様々である。
賢治が涅槃の日として旧暦を思ったか新暦であったかは定かでないのだが、旧暦と捉えていたならば、背景は三月初旬から中旬である。季節の変わり目の不安定な気候が背景にあったのかもしれない。
風の表現は下書稿一から出現する。〈橋の燈も顫ひ落ちよと〉、というくらい強い、季節始めの南風で、不気味に変に温かいのであろう。
新校本全集では、下記「冬のスケッチ第十六葉」の関連を見る。
にはかにも立ち止まり
二つの耳に二つの手をあて
電線のうなりを聞きすます。
※
そのとき桐の木みなたちあがり
星なきそらにいのりたり。
※
みなみ風なのに
こんなにするどくはりがねを鳴らすのは
どこかの空で
氷のかけらをくぐって来たのにちがひない
※
瀬川橋と朝日橋との間のどてで、
このあけがた、
ちぎれるばかりに叫んでゐた、
電信ばしら。
※
風つめたくて
北上も、とぎれとぎれに流れたり
みなみぞら
ここで主に描かれるのは電線を鳴らす風、風は南風ではあるが冷たく、〈どこかの空で/こおりのかけらをくぐって来たのにちがひない〉という清らかな感が漂う。ここでの段階では、むしろその音を楽しんでいるようだ。この電線を鳴らす風は後に「ぬすびと」(一九二二、三、二)、「風景とオルゴール」(一九二三、九、一六)(『春と修羅』)にも重要な 意味を持って登場し、賢治の心象に重い部分を占めていく。
「梵の聖衆」は臨終を迎える人の前に来迎する阿弥陀仏と諸菩薩を意味する。
死は予感されるのに、「梵の聖衆」の来迎はまだ先のようで、死の不安を抱いたまま季節ばかりが廻ってくる。
死を意識した賢治は「冬のスケッチ第十六葉」の風景を、涅槃の月〈二月〉の風景とする。春の初めの風は、激しく吹いて、電線をならし、一つの希望ともいえる欄干にともる燈も消えそうである。その下で、川音も激しく流れながらどこかに引っかかるように流れ、まるで吃音のようで一層神経を逆立てさせる。かつて心に残る音であった電線の風音は、そのときの不安に満ちた風景と作者の心を、倍増させるものとしてある。
参考文献
大角修「二月」(『宮沢賢治 文語詩の森』 柏プラーノ 1999)
19 「公子」 桐群に臘の花洽ち、 雲ははや夏を鋳そめぬ。
熱はてし身をあざらけく、 軟風のきみにかぐへる。
しかもあれ師はいましめて、 点竄の術得よといふ。
桐の花むらさきに燃え、 夏の雲遠くながるゝ。
この詩は大正三年四月、盛岡中学校卒業時に副鼻腔炎の手術で入院したおりの下記短歌を原型として成立した。
歌稿B116風木木の梢によどみ桐の木に花咲くいまはなに をかいたまん
117雲はいまネオ夏型にひかりして桐の花桐の花やま ひ癒えたり
下書稿一は無罫詩稿用紙に書き始められる。
〈父母のゆるさぬもゆゑ/きみわれと 年も同じく/ともに尚 はたちにみたず/われはなほ なすこと多く/きみが辺は 八雲のかなた〉と、そこで病院の看護婦への恋、ともに病んだ父への思いなど、当時の事実が述べられている。
手入れ段階で、具体的事実は消え、一つの虚構を描くべく、象徴的な〈師の言葉〉、〈点竄の術〉などが登場して、変更されながら、下書稿一の裏面に書かれた下書稿二ではさらに〈点竄の術ははかなき〉と〈解析の術得よといふ〉が登場する。
点竄術は、江戸時代、関孝和(せきたかかず)が中国の天元術を改良して作り出した筆算式の代数術で、点竄は本来は文章などの字句を直すことであるが、関孝和の和算の解く過程がそれに似ていたことによって名づけられた。さらに和算は、解析学に関連した研究(円理)も発展し円周率や円積率、球の体積や表面積も求められるようになった。〈解析の術得よといふ〉はさらなる学問の上を目指せという意味か。
定稿に至って〈熱はてし身をあざらけく、 軟風のきみにかぐへる。〉と〈君〉の記述が復活し、ここに初めて「公子」のタイトルと風の記述が登場する。公子とは、中国の春秋戦国時代の各国の公族の子弟を言うが、時を経て、貴い身分のあるものの子弟と広く解釈されている。ここでは賢治自身を表すのではなく、上流社会に生まれ、生きる術を知らぬもの、といった意味であろうか。文語詩の目的、定形化、自己を排した客観化、抽象化、典型化のために、選ばれたのであろう。
軟風は、ビュウホート風力階級
3 の風で、心地よいそよ風である。既に遠く美しいものとなった恋を象徴するものとして、桐の花の美しさ、病気の癒えた清明などとともに、より抽象的な、〈風〉が加えられたのであろう。
参考文献
近藤晴彦『宮澤賢治への接近』 河出書房新社 2001
栗原敦『宮沢賢治 透明な軌道の上から』(新宿書房 1992)
山内修『宮沢賢治研究ノート 受苦と祈り』(河出書房新社 1991)
20 〔銅鑼と看版 トロンボン〕 銅鑼と看版 トロンボン、 弧光燈の秋風に、
芸を了りてチャリネの子、 その影小くやすらひぬ。
得も入らざりし村の児ら、 叔父また父の肩にして、
乞ふわが栗を喰ふべよと、 泳ぐがごとく競ひ来る。
下書稿一は保線工夫(口語詩稿)の裏面、黄罫24行×0の詩稿用紙に「秋祭」のタイトルで二行、二行、四行の三連の文語詩として書き始められる。下書稿二は同用紙余白に書かれ四行二連となる。定稿は定稿用紙に二行二連となる。
内容は小さな異動はあるが定稿までほとんど変わらない。下書稿一では、背景はアーク燈の光の形容が中心であるが、下書稿二から光は風とともに描かれるようになる。定稿では〈秋風〉と規定される。
〈チャリネ〉は明治19年(1886)、外国から日本に来たサーカスの三番目、キャリニー氏率いるイタリアのチャリネ曲馬団(Cirque.Chiarini ) が、西洋曲馬を披露して、そのスピードとスリルが大きな反響を呼び、西洋曲馬と言えばチャリネ、また、以降見世物、サーカスをチャリネと呼ぶ人もあったという。また、その名を借りて、1899年日本初のサーカス団として、山本政七らによって「日本チャリネ一座」が設立された。
江戸時代からの見世物に西洋の要素を加えて、明治中期から新しい見世物の雄として脚光を浴び、大正期に入って進展して活躍していった。この時代なりに活動写真、電気仕掛の見世物などの娯楽が増えかげりが見え始めたが、尾崎宏次『日本のサーカス』、阿久根巌『サーカスの歴史』によれば明治四〇年ころには全国を巡業する興行団が大小合わせて三〇ほどはあったという。
宮澤清六『兄のトランク』(注)には、賢治12歳当時、花巻鳥谷ヶ崎神社の秋祭などではこうした興行がおこなわれていたという。〈チャリネ〉はサーカスの一般名称としてのものであろう。
〈得も入らざりし村の児ら〉からすると、当時あった、満員などのため正規に中に入ることが出来ない観客のために、短い時間テントの幕をあげてみせるという「あおり幕」という習慣によって見ていたと思われる。
サーカスの子供は、サーカス小屋の登って行く途中にある踊り場のような位置で休憩を兼ねて宣伝の任も負っていたという。大人に肩車してもらって栗を渡した、というのはそのためである。
なぜ子供らが子供の芸人に栗を贈ろうと一生懸命なのか、ということは書かれないが、恐らくは自分と同年代の子への親近感に加えて、子供らはその芸に感激しているのであろう。
またサーカスの芸は幼少のころから仕込まないと物にならないことから、サーカスには日々苦労を重ねる子供が存在し、借金などによって年季奉公を強いられる場合も多い。それゆえ〈サーカスの子供〉には悲哀を感じさせるものがあり、子供としても同情のような気持ちも動いたのであろうか。
余談になるが、昭和23年に児童福祉法によって、満15歳以下の子どもが〈公衆の娯楽を目的として曲馬または軽わざを行う業務〉に就くことが禁止され、サーカスにとっては伝統芸の存続が難しくなったが、暗いイメージはなくなっているという。
当時、栗は秋だけのおいしいおやつであった。チャリネを見に来る子供たちにも、苦労を重ねているであろうチャリネの子どもにとっても貴重なものである。栗を通して賢治が描いたものは、小さなほほえましい情景の奥にある、何処も変わらない子供の現実である。
銅鑼の音、派手派手しいであろう看板、金管楽器の騒音の影に、子供の芸人の姿は〈小さい〉。詩の効果的形容を考えた定稿作成時に〈秋風〉が、その寂しさに最もふさわしいと決めたのであろう。
注
宮澤清六『兄のトランク』(筑摩書房 1987)
参考文献
長沼司朗〔銅鑼と看版 トロンボン〕『宮沢賢治 文語詩の森 第三集』 柏プラーノ2002)
ブログ「見世物興行年表」
尾崎宏次『日本のサーカス』、1958 三芽書房
阿久根巌『サーカスの歴史』、西田書店 1977
21 涅槃堂 烏らの羽音重げに、 雪はなほ降りやまぬらし。
わがみぬち火はなほ然えて、 しんしんと堂は埋るゝ。
風鳴りて松のさざめき、 またしばし飛びかふ鳥や。
雪の山また雪の丘、 五輪塔 数をしらずも。
下書稿一は「雨ニモマケズ手帳」で、四行、三行、一行で、タイトルは無い。詩中にあるのは朋友が朝の勤行をする〈羅漢堂〉である。ここでは作者は病床にあって羅漢堂に勤行する朋友を思う。余白に、二連三連を挿入する意図か、〈かの町の淫れをみなに/事ありと朋ら云へども/なほしかの大悲の瞳/おゝ阿難師をまもりませ〉、〈ふるさとははるかに遠く草くらき/よみぢの/原を/ふみわけん/みちは/知らずも〉の書き込みがある。
書き込みの前半の背景にあるのは、〔たそがれ思量惑くして〕(文語詩稿五十篇)にも感じられた、盛岡高等農林一年の冬、盛岡市北山の曹洞宗寺院、報恩寺に参禅した経験である。そのときの住職、尾崎文英は、行動が粗雑で品行も悪かったと言うが、賢治は評価していて、時に問答し座禅も組んでいたという。
〈ふるさとははるかに遠く草くらき/よみぢの/原を/ふみわけん/みちは/知らずも〉は昭和六年九月、東北砕石工場の仕事で出た東京で病に臥したおりのふるさとへの想いを、花巻に帰って「雨ニモマケズ手帳」に記したと言われる(注1)
下書稿二は無罫詩稿用紙に赤インクで書かれ、タイトルは「涅槃堂」となる。内容は下書稿一に、〈定省を父母に欠き/養ひを弟になさで/ひたすらに求むる道の/疾みてなほ現前し来ず〉が加わっている。さらに四回の推敲がなされるなかで、四行五連となりタイトルは〈三昧堂〉となる。
三昧は心を一つの対象に集中させて集中させて動揺しない状態で、〈三昧堂〉は僧が中にこもって、法華三昧や念仏三昧を修する場所で、特に法華経についての長講を行う。また師への擁護に、〈皐諦女師をまもりもせ〉が加わる。日蓮の経典では、〈皐諦女〉は本地を文殊師利菩薩で、どんな場所でも、法華経の行者を守護す可しと明記されている。また朋友の勤行の場所に〈鬼子母堂〉の文字も見える。
さらに二行四連となり、ここから朋友、師についての記述は消え、定稿にほぼ近い内容、死に臨む主体と、降りしきる雪の風景となる。
下書稿三は、黄罫詩稿用紙で二行四連は保たれ、三連と四連の入れ替えがある。
定稿は定稿用紙に一行四連となる。
「涅槃」は釈迦の死を意味し、「涅槃堂」は釈迦の涅槃像を祭る堂であるが、禅宗寺院では病気になった僧侶の病室を指し、省業堂、延寿堂、安楽堂、とも呼ばれる。ここでは、死に臨む作者の病室を意味している。
風は松を鳴らす風で、作者は耳でのみ感じている。降る雪も、鳥の飛ぶ様も聴覚で捉えられている。そして熱の身のほてりという体感がある。
〈雪の山また雪の丘、〉は下書き稿二の〈よろぼひて窓にのぞまば/松なみのけむりにも似ん/雪の山 また雪の丘〉からすると唯一視覚で捉えたものである。
下書き稿二の終形から登場する五輪塔は、方形、円形、三角形、半月形、団形の石材を重ねた仏塔で、それぞれ地、水、火、風、空を表し、五大として、宇宙を構成している五大要素を意味すし、古くは墓石として用いられた。
賢治の詩では、「一六 五輪峠」一九二四、三、二四(「春と修羅第二集」)、文語詩「五輪峠」(文語詩稿五十篇)など五輪峠への想いを書いている。
五輪峠は、奥州市江刺区、遠野市、花巻市東和町の境界にある五五六メートルの峠で、そこにあるのは一基の五輪塔のみである。大角氏によれば、〈五輪塔 数をしらずも。〉での五輪塔は墓であり、自らも死に瀕しながら、死者へのおもいを連ねているという(注2)。
主体は、もしかして〈涅槃〉と言う言葉に釈迦の入滅の図を思ったのではないだろうか。
自身の周辺には、死を悲しむ人々や動物のかわりに、室外の風と降りしきる雪と鳥の羽音だけがある。そこには、事実をみつめる、平静で澄んだ眼があるように思う。
風は、眼に見えぬ松風を、音にして届けてくれる。死に瀕してもなおそこには風が存在していたのである。
注1、2
大角修「涅槃堂」(『宮沢賢治文語詩の森 第三集』2002 柏プラーノ)
参考文献
禅学大辞典編纂所『禅学大辞典』(大修館書店1985)
小倉豊文『「雨ニモマケズ手帳」新考』(東京創元社 1978)
信時哲郎〔たそがれ思量惑くして〕(『宮沢賢治 文語詩五十篇評釈』 朝文社 2010)
22 山躑躅 こはやまつつじ丘丘の、 栗また楢にまじはりて、 熱き日ざしに咲きほこる。
なんたる冴えぬなが紅ぞ、 朱もひなびては酸えはてし、 紅土にもまぎるなり。
いざうちわたす銀の風、 無色の風とまぐはへよ、 世紀の末の児らのため。
さは云へまことやまつつじ、 日影くもりて丘ぬるみ、 ねむたきひるはかくてやすけき。
「装景手記」の一部を文語詩化したもので、下書稿一(メモ)、下書稿二とも一部語句の推敲があるのみで内容は変わらない。風の表現も下書稿一から出現する。
「装景手記」は釜石線の車窓から〈橄欖岩の鋸歯〉をいただく山並みを眺めて、風景の中には、山の創生から、仏教思想までを感じとって、それらを合わせて、壮大なの一つの〈装景〉を描く作者がいる。列車音を連想させるローマ字表記も大きな表現上の意気込みを感じさせる。
文語詩化されたのは121行の詩のなかの、山躑躅に関する部分、次の5行のみである。
やまつゝぢ
何たる冴えぬその重い色素だ
赭土からでももらったやうな色の族
銀いろまたは無色の風と結婚せよ
なんぢが末の子らのため
詩中の〈紅土〉は、〈ラテライトlaterite〉で、高温多雨の熱帯地域に発達し,その成因にもバクテリアが関与しているらしい.インドシナ半島およびインド、キューバなどサバンナ地方に広く分布している。酸性土で栄養分を含まない土で、農業には向いていないが、インドではレンガをつくる原料に利用されている。酸化の度合いによって色は変わるという。
賢治がその生涯をかけて改良しようとしていた酸性土と同色の山躑躅を否定的に見ているのもしかたないであろう。
好ましくなかった山躑躅の色についての部分を取り出して文語詩化したのは、それに比べてそこを渡る風は〈銀の風、 無色の風〉で透明で輝くものであり、〈まぐは〉うことによって冴えた紅色になるように、と祈り、さらに心中には、土壌の改良への夢もあったのではないか。
あるいは賢治はそこにある〈風〉を描きたかったのではないだろうか。〈銀の風〉、〈無色の風〉という表現は唯一この作品でのみ使われている。それは〈青い〉のでも、〈透明〉でも、〈きららか〉でもなく、少し暖かく、静かにひっそりと輝く風なのではないか。
それは文語詩化に際して加えられた最終行〈さは云へまことやまつつじ、 日影くもりて丘ぬるみ、 ねむたきひるはかくてやすけき。〉にも言えるのではないだろうか。そこでは山躑躅を擁する丘にぬくもりと安らぎを感じている。
この時の文語詩化の心象は、この平明さだったのかもしれない。それを象徴する、銀色、無色の風である。
参考文献
佐藤栄二「山躑躅」を読む(賢治研究40 1986)
23 羅沙売 バビロニ柳掃ひしと、 あゆみをとめし羅沙売りは、
つるべをとりてやゝしばし、 みなみの風に息づきぬ。
しらしら醸す天の川、 はてなく翔ける夜の鳥、
かすかに銭を鳴らしつゝ、 ひとは水縄を繰りあぐる。
下書稿一は、下記「冬のスケッチ一三葉第四章、一四葉第一章、第二章」である。
やみのなかに一つの井戸あり
行商にはかにたちどまり
つるべをとりてやゝしばし
一四
天の川をばながめたり。
あまの川の小き爆発
たよりなく行ける鳥あり
かすかにのどをならしつゝ
ひとはつるベを汲みあぐる。
定稿まで、背景の冬の夜、井戸に憩う行商人の姿は代わっていない。
黄罫二十六行用紙の下書稿二の手入れ形で、〈バビロニやなぎ〉、行商人は〈羅紗売り〉と限定される。下書稿三は黄罫二十二行用紙に書きなおされ、ここから風の表現が登場する。ここまで形態は四行二連である。
バビロニは、現在のイラク、メソポタミアの南部、バビロニアあるいはその首都バビロンからの造語であろう。 柳にメソポタミア風の古代を感じての命名だろうか。
〈羅紗〉は、ポルトガル語の「raxa」の当て字の造語で、近世の初頭にポルトガル船が持ち渡った、なめらかな手触りの厚手の毛織物「raxa」をラシャと呼んだのが始まりとされ、それまでは日本に存在しない珍しい舶来品であった。羅も紗も薄い絹織物の事を指すが、二字を合わせた羅紗は、平織の組織がわからない程、毛羽立たせた毛織物である。
実業家、伏島 近蔵(ふせじま ちかぞう)の伝記には、1877年(明治10年)の西南戦争における羅紗(ラシャ)の取引等で巨利を得るという記述があり、ドラマ「おしん」では大正末期に、羅紗問屋で成功する人物が現れたりするので、〈羅紗〉の売買は大きな商取引でもあったのかもしれない。また服地商を総称しての〈羅紗問屋〉であり、服地の行商を〈羅紗売り〉と呼んだのかもしれない。
賢治の詩では〈浅黄と紺の羅紗を着て/…/馬はあやしく急いでいる(「七五北上山地の春」(「春と修羅第二集」)と、種馬検査所に連れられていく選抜された馬が盛装するように、羅紗で飾られている。
面白いのは、行商人が水を飲みながら鳴らすものが、のど(下書稿一)→ひじ(下書稿二)→しずく(下書稿三)→銭(定稿)と変化することである。
下書稿三までは、行為者の一部か行為によっておこる音であるが、定稿では、〈銭〉とした意図は何だろう。
天の川のもと、渡っていく鳥、という静寂の中に、人物が〈天の川〉を眺め、〈さそり〉座を探していた主体が、定稿では〈みなみの風にやすら〉ぐ、という世俗的なものへ変化するのと関係するのかもしれない。
「冬のスケッチ」のこの描写の一こまが、なぜ晩年の文語詩に再生されたのかという理由とともに、疑問である。
24 〔秘事念仏の大師匠〕〔二〕 秘事念仏の大師匠、 元信斉は妻子もて、
北上ぎしの南風、 けふぞ陸穂を播きつくる。
雲紫に日は熟れて、 青らみそめし野いばらや、
川は川とてひたすらに、 八功徳水ながしけり。
たまたまその子口あきて、 楊の梢に見とるれば、
元信斉は歯軋りて、 石を発止と投げつくる。
蒼蠅ひかりめぐらかし、 練肥を捧げてその妻は、
たゞ恩人ぞ導師ぞと、 おのが夫をば拝むなり。
一〇五六〔秘事念仏の大元締が〕一九二七、五、七、 (「春と修羅第三集」)を文語詩化したもので、下書き稿一は〔秘事念仏の大元締が〕下書き稿二の裏面に書かれている。内容も口語詩とほとんど変わらない。風の情景も〈南風〉でここから定稿まで変わらない。
〈秘事念仏の大師匠〉を描いた〔秘事念仏の大師匠〕〔一〕(文語詩稿五十篇)は、羅須地人協会の活動中の賢治に悪意ある行為のあった「隈」との遭遇における心理的な戦い―むしろ賢治の心の中の葛藤―を描いた「憎むべき「隈」辨当を食ふ」を下書き稿一として、ここに一〇二五〔
燕麦の種子をこぼせば〕・「一〇二八酒買船」・〔温く妊みて黒雲の〕のイメージが加わり、密造酒を買いに行く酒買い船と秘事念仏の大師匠元真斉という公然の秘密を持つ二者の遭遇の風景が描かれた。
〔秘事念仏の大師匠〕〔二〕は、主体〈秘事念仏の大師匠〉が、妻子ととも畑仕事をしている風景のみが描かれる。仕事に飽きてしまう子に怒る主体、そんな夫をひたすら信じて仕えている妻、という人間関係を描くが、そこにはその家族への暖かい眼はなく、むしろ悪意も感じられる。風景の中の牛糞に光る蒼蠅も嫌悪感を増す。
〔秘事念仏の大師匠〕〔一〕の章でも述べた通り、秘事念仏は東北地方に広まっていた隠し念仏で、表向きの宗教とは別に、この念仏の導師(大師匠)によって生活のなかで、さまざまの行事が行われていた。法華経や賢治の父が檀家総代だった浄土真宗など既成宗教との対立は深く、賢治にとっても、否定したい人物だったのではないか。〔二〕は対象が秘事念仏の大師匠だけであるため、一層強く出ている。
風は共通して、〈南風〉である。そのむっとするような暑さもそれを倍増させる。
この〔一〕、〔二〕は別の詩からの発展とされているが、登場者も同じで、似た情景を描き、また形式も七五調の四連構成と、共通することが多い。これは推敲が二作を同時に見比べながら為されたのではないかと言われる(注)。
それまでの多くのシーンのイメージが組み込まれながら成立して行く文語詩の不思議さを感じさせる。
注
信時哲郎「〔秘事念仏の大師匠〕〔二〕」(『宮沢賢治「文語詩稿五十篇」評釈』朝文社2010)
25 電気工夫
(直き時計はさま頑く、 憎に鍛えし瞳は強し)
さはあれ攀ぢる電塔の、 四方に辛夷の花深き。
南風光の網織れば、 ごろろと鳴らす碍子群、
艸火のなかにまじらひて、 蹄のたぐひけぶるらし。
下書稿一は無罫詩稿用紙に書かれ推敲前のかたちでは、〈電気工夫〉は登場せず、人物は〈名誉村長〉、〈退耕〉である。退耕は、勤めを退き耕作に従事する人で、〈名誉村長〉や、作者自身もそうである。
風の表現は〈北風氷と光を吹きて〉で、光は共通するが、他は真逆ともいえる。
この作品の源流として、下記、一〇五一〔あっちもこっちもこぶしのはなざかり〕 一九二七、四、二八、が考えられる(注)。書かれている状況は下書稿一とほとんど同じであるから、背景はその時点と推定できる。
一〇五一
〔あっちもこっちもこぶしのはなざかり〕
一九二七、四、二八、
あっちもこっちもこぶしのはなざかり
角をも蹄をもけぶす日なかです
名誉村長わらってうなづき
やなぎもはやくめぐりだす
はんの毬果の日に黒ければ
正確なる時計は蓋し巨きく
憎悪もて鍛へられたるその瞳は強し
小さな三角の田を
三本鍬で日なかに起すことが
いったいいつまで続くであらうか
氷片と光を含む風のなかに立ち
老ひし耕者もわらひしなれ
〈名誉村長〉は、文語詩稿五十篇の〔さきだつ名誉村長は〕にも登場し、そこでは村長の性向を比喩的に表したもので、湯口村村長阿部晁(任期大正十三年十月〜昭和九年一月)だったと推定される。佐藤隆房によれば、阿部は人間性も容貌も豪気であったという。この詩の書かれた時期、農事講演会などで賢治と関わりを持っている(注)。
しかし、この下書き稿一には多くの削除と変更が加えられていく。〈名誉村長〉、〈老いたる耕者〉が消え、タイトル「退耕」が付され、さらに「電気工夫」となり、電気工夫の電塔に上った視点でコブシの花の風景が描かれる。
残されたものは登場する人物の比喩、(直き時計はさま頑く、憎に鍛えし瞳は強し)である。
「電線工夫」(『春と修羅』)は〈でんしんばしらの気まぐれ碍子の修繕者〉ととらえ、雨の中の悪魔の使いと、ユーモラスに捉えられている。電気は当時の文明の象徴でもあり、その従事者は賢治にとっては興味ある対象であったろう。ここでは〈憎に鍛えし瞳は強し〉と対象への作者の心情が描かれる。このような作者の心情こそが描きたかったものであろうか。そのことで、全く別の心象風景が展開する。
さらに風は〈光の網〉を織る南風となる。〈氷片と光を含む風のなかに立ち〉と比べたとき、南風の暖かさや揺らぐ光は、そのまま揺らぐ心や感情などを抑えていることを表すのではないだろうか。
注
「宮沢賢治の文語詩における風の意味 第1章 」小林俊子ブログ宮沢賢治風の世界
参考文献
黒塚洋子「電気工夫」(『宮沢賢治文語詩の森第二集』 柏プラーノ 2000)
26 〔すゝきすがるゝ丘なみを〕
すゝきすがるゝ丘なみを、 にはかにわたる南かぜ、
窪てふ窪はたちまちに、 つめたき渦を噴きあげて、
古きミネルヴァ神殿の、 廃趾のさまをなしたれば、
ゲートルきりと頬かむりの、 闘士嘉吉もしばらくは、
萓のつぼけを負ひやめて、 面あやしく立ちにけり。
「事件」(口語詩稿)を文語詩化したものである。下書稿一は、「事件」(口語詩稿)の清書稿と同面、黄罫二四行の詩稿用紙、「一〇七五囈語」(「春と修羅第三集」)下書稿二の裏面に書き始められた十行で、タイトルは「奇異」である。「事件」の内容は、文語詩とほとんど変わらない。
風の表現は、かな表記、漢字表記の変化のほかは、ここから定稿まで変わらない。
下書稿二は黄罫詩稿用紙、「一〇三四 市場帰り」の裏面に書かれた一〇行である。
定稿は一行五連となるが、ここまで内容は小さな語句の変化はあるがほとんど変わらない。
この詩では、風は、広いススキの原を急激にわたってきて、窪地には渦を生んで行く。それはミネルヴァ神殿の柱を思わせる。
ミネルヴァ神殿はアッシジに残る、紀元前1世紀に築かれたギリシャ神殿で、低めの三角形の切妻壁を、コリント式柱頭もつ6本の溝つき円柱と台座で支える典型的な古代ローマ建造物である。コリント式とは、溝が彫られた細身の柱身と、アザミの葉が象られた装飾的な柱頭を特徴とする。1539年に内部に教会がたてられた。
アッシジの聖フランチェスコ聖堂内に、フランチェスコの生涯を描いた有名なジョットの28枚の連作壁画の中の一枚に描かれているミネルヴァ神殿にはまだ教会が入っていなくて空の状態という。賢治の想像する、〈ミネルバ神殿の廃墟〉とはこちらかもしれない。
風はススキの原に渦を次々に巻きあげて行く。詩の中心はこの風景となり、印象が強い。戦士幸蔵(口語氏「事件」)、闘士嘉吉(文語詩〔すゝきすがるゝ丘なみを〕)、も同一の人物で農夫と思われる。この戦いは、風の中での農作業、風との戦いだろうか。
つぼけは萱、稲藁などを乾燥させるために少量ずつ束ねたものを支柱に円錐形に掛けて置くもので、この季節にそれを利用するものなのであろう。
背景となる事実は下書き稿にもない。
多くの場合、風は詩の背景として、また詩の事実を効果的に表すために使われていたが、ここでは、この急激な南風の作る不思議な風景の印象で作られたものと思う。
27〔腐植土のぬかるみよりの照り返し〕 腐植土のぬかるみよりの照り返し、 材木の上のちいさき露店。
腐植土のぬかるみよりの照り返しに、 二銭の鏡あまたならべぬ。
腐植土のぬかるみよりの照り返しに、 すがめの子一人りんと立ちたり。
よく掃除せしラムプをもちて腐植土の、 ぬかるみを駅夫大股に行く。
風ふきで広場広場のたまり水、 いちめんゆれてさゞめきにけり。
こはいかに赤きずぼんに毛皮など、 春木ながしの人のいちれつ。
なめげに見高らかに云ひ木流しら、 鳶をかつぎて過ぎ行きにけり。
列すぎてまた風ふきてぬかり水、 白き西日にさゞめきたてり。
西根よりみめよき女きたりしと、 角の宿屋に眼がひかるなり。
かっきりと額を剃りしすがめの子、 しきりに立ちて栗をたべたり。
腐植土のぬかるみよりの照り返しに 二銭の鏡売るゝともなし。
下書稿一は、黄罫二六行詩稿用紙に書かれた13行で、さらい複雑な手入れがなされ23行の詩となっている。下書稿二は、黄罫二十二行詩稿用紙に、三行九連六行一連で、内容は定稿とほぼ同じとなる。習字稿。定稿断片があり、ほぼ短歌体の十一行の定稿にいたる。
内容は、駅前の腐食土のぬかるみに、開かれている市の風景である。ぬかるみは、太陽光を照り返し、風にさざめく。すがめ―斜視または片目―目に障害を持つ子供、美女に眼をつけるかどわかし、材木を運ぶ奇装の人々、安くても売れない鏡など象徴的な言葉がならぶ。
文語詩「市日」(文語詩稿一百篇)習字稿はこの〔腐植土のぬかるみよりの照り返し〕下書稿三に重書きされている。丹藤川合流点の集落(現岩手町丹藤)の市の風景と、この詩と同様にきれいに髪を丸刈りにして栗を食べる弟と、鏡を買いたいと思っている姉―恐らく美人で人買いに目をつけられている―が描かれる。この詩で描かれているのと同じ状況であろうが、背景にはぬかるみはなく、輝く姫神山の尾根と、なまこぐもである。
〔銅鑼と看版 トロンボン〕では栗と子ども、市ではないが縁日のサーカスが登場する。〔銅鑼と看版 トロンボン〕でふれたように、当時、栗は貴重なおやつだった。
市の情景を描いた作品は多く、文語詩〔小きメリヤス塩の魚〕では、凶作の年の暮れの市場に農村の苦渋を描く。
「冬と銀河ステーション」(『春と修羅』)では現実の市の風景に加えて、車窓に広がる流氷、木々の枝に飛ぶ雫が光に輝く様を、〈まるで市場のやう〉という。
腐植土は、地表部に堆積した落葉などが微生物や土壌動物による生化学的な代謝作用により分解されて土状になったもので、火山灰土母材として腐植とともに、黒ボク土を作る。一般には腐葉土(ふようど、)ともいう。長い月日をかけて自然が作り出す天然の肥料で、農業では、重要な機能を持つ。黒ボク土は、日本では、北海道、東北、関東、九州に多い。
この〈市〉という状況で、腐植土をぬかるみを作っているものとしているのはなぜだろうか。単にそこが湿地で腐植土だったからかもしれないが、謎めく。「春と修羅」、「原体剣舞連」、「第四梯形」、「過去情炎」、「小岩井農場」パート1、9、「三原第二部」などに登場するが、すべて湿地の形容、あるいは好ましい土壌としてである。
佐藤栄二「市日」(『宮沢賢治 文語詩の森第三集』 柏プラーノ 2002)
28 〔小きメリヤス塩の魚〕 小きメリヤス塩の魚、 藻草花菓子烏賊の脳、
雲の縮れの重りきて、 風すさまじく歳暮るゝ。
はかなきかなや夕さりを、 なほふかぶかと物おもひ、
街をうづめて行きまどふ、 みのらぬ村の家長たち。
背景は下書稿一〜四までの記述から、露店街、あるいは市であることが分かる。正月間近、子供用の衣類や、塩魚、海藻類やイカの塩辛などが並んでいる。凶作のため収入の少なかった一家の主は夕暮れも近くなっても考えを重ね、年の瀬の買い物もできかねている。
文語詩として書きはじめている。昭和五年を上限としている用紙に下書き稿一が書かれていること、昭和三、四年は厳しい旱魃であった事実、から発想は昭和四年以前の暮れと推定できる。
下書一稿では露店に並ぶ品も、茶絣とメリヤスのシャツ、歪める陶器、塩鮭、ふのり、カズノコと具体的である。また、堰一つを境に豊作と凶作に分かれた村、その双方の農民の買い物の姿を描き分けて、厳しい現実が描かれる。
さらにそれと対比するように、〈がたぴしと〉不快な音を奏でる楽隊や、サーベルを下げた巡査など町の様子も描かれている。
定稿では商品は冒頭一行でまとめ、凶作だった農民のみを描く。凝縮されたことによって、〈みのらぬ村〉の厳しさが一層突きつけられる。
風は、下書稿二の推敲段階で、楽隊の音を伝える風から、〈風すさまじく歳くるゝ〉として登場し、定稿で復活する。
年の暮れの今にも雪の落ちてきそうな空の下、寒さを決定づけるように吹く風として、年の瀬を迎える〈みのらぬ村の家長たち〉の寒々としたこれからを感じさせる。
この詩は文語詩化における凝縮と言葉の添加の効力の見事さを実証していると言える。
赤田秀子〔小きメリヤス塩の魚〕(『宮沢賢治 文語詩の森』宮澤賢治研究会編 柏プラーノ 1999)
29 賦役 みねの雪よりいくそたび、 風はあをあを崩れ来て、
萌えし柏をとゞろかし、 きみかげさうを軋らしむ。
おのれと影とたゞふたり、 あれと云はれし業なれば、
ひねもす白き眼して、 放牧の柵をつくろひぬ。
孔雀印手帳に文語詩として書き始められ、黄罫22×22の下書稿二がある。
定稿〈あをあを燃ゆる峯のゆき、風はいくたび崩れきて〉をさらに推敲した段階で、〈あおい風〉の表現は出現する。下書稿一から二まで、〈風〉は〈崩れ〉来るものであり、〈あお〉いのは雪の形容であった。
賦役は小作農の労働という意味と取れる。その苦しみを淡々と綴る後半に比べて、雪、スズランの白さ、柏の緑、そして〈青い〉風、と色どりに満ちた第一節の美しさは何を示すのだろうか。
その差の大きさを悲しむのか、それとも賢治は労働するものへの献じようとこの美を書きこんだのであろうか。
30 〔商人ら やみていぶせきわれをあざみ〕 商人ら、やみていぶせきわれをあざみ、
川ははるかの峡に鳴る。
ましろきそらの蔓むらに、 雨をいとなむみそさゞい、
黒き砂糖の樽かげを、 ひそかにわたる昼の猫。
病みに恥つむこの郷を、
つめたくすぐる春の風かな。
下記〔打身の床をいできたり〕(文語詩稿五十篇)の下書き稿二´から独立して定稿化される。
商人ら、やみていぶせきわれをあざけり
川ははるかの峡に鳴る。
ましろきそらの蔓むらに、
雨をいとなむみそさゞゐ
やがてちぎれん土いろの
かばんつるせし赤髪の子
恥いや積まんこの春を、
つめたくすぐる春の風かな。
〔打身の床をいできたり〕下書稿一から下書稿三まで、病者は訪問者で、嘲るのは店にいる商人であるが、その形は〔商人ら やみていぶせきわれをあざみ〕に受け継がれ、〔打身の床をいできたり〕では、下書き稿四から反転し病床にあるのは商人である。
〔打身の床をいできたり〕(文語詩稿五十篇)が「王冠印手帳」に書かれたことや内容から、背景は、病身をおして東北砕石工場の営業を担当していたことである。
風の表現はこの〔打身の床をいできたり〕下書稿二´から出現する。
本来は暖かいはずの〈春の風〉であるが、熱のある身体にはつめたく、病を恥じる心にも突き刺さる。〈つめたくすぐる春の風かな。〉は月並みな言葉であるが詩全体を考えれば重い意味を持つ。
31 風底 雪けむり閃めき過ぎて、 ひとしばし汗をぬぐへば、
布づつみになふ時計の、 リリリリとひゞきふるへる。
現存するのは定稿のみ、極端に凝縮された作品で、〈風〉もタイトル「風底」として出現する。
文語詩ではタイトルが明示される作品は50篇では一八篇、一百篇では六七篇、主に漢字熟語である。漢字熟語意外のタイトル、「雪の宿」を例にとればここで〈の〉を省略することは不可能であるが「風の底」は〈の〉の省略が可能である。
「風の底」は多くの賢治作品に登場する、〈光の底〉、〈光象の底〉と同様、上空から無限の宇宙につながる世界を表現するものである。
ここで描かれるのは、雪煙りを舞い立たせる風のなか、荷物を背負い汗して一人行く人と、なぜか荷物の中で鳴りだす時計である。〈リリリリ〉という時計の音は、静寂を破りながら、しかし小さく、宇宙の底を感じさせる。
人の小ささ、時計という文明の象徴の危うさは、〈風底〉の象徴する宇宙につながる大きな風景に対比されて一層強く印象付けることが出来る。
また「風底」と言う漢語は表現的にも定型詩にふさわしといわれ(注)、その無機質さはそのまま、自然の非情をも匂わせる。
注
住田美知子「風底」(「宮沢賢治文語詩の森」 柏プラーノ 1999)
後記
「宮沢賢治文語詩における風の意味 第一章」、「宮沢賢治文語詩における風の意味 第二章の1」、「宮沢賢治文語詩における風の意味 第二章の2」、と、「文語詩稿五十篇」、「文語詩稿一百篇」における〈風〉を検討してきた。
詩の背景も可能な限り検証するよう心がけたが、まだまだ疑問が残り、先行論文も読破できていない。
今後は、検証を深めながら、さらに賢治が〈風〉に求めたもの、特に修辞上の役割について、把握したい。