宮澤賢治、風の世界

宮澤賢治の作品を彩る言葉と風を追って宮澤賢治の世界を訪ねよう。 賢治は風という言葉に何を託したか。風を描くためにどんな言葉を選んだか。 賢治は何を求めて風の中に身を置いたのだろう。 そこに少しでも近づきたくてページを埋めていく。
 
永野川2017年2月下旬

 27日

この頃少しずつですが暖かくなって来ています。風もなく穏やかです。

上人橋近くまで来ると、ホオジロがさえずり始めていました。

久しぶりで赤津川を先に遡ることにしました。

上人橋上の河川敷でダイサギ1羽、ハクセキレイ1羽、セグロセキレイ1羽見つけました。セグロセキレイは囀り始めていました。

保育園の桜の木にシメが1羽、ごく普通に留まっていました。このところ住宅地にまで広がっているようです。

河川敷の草むらから、アオジが2羽、カワラヒワ2羽が飛び立ちました。その後、カワラヒワ20羽の群れが川下に下っていきました。

合流点で、コガモ10羽とカワウが1羽、カワウはいつもここに1羽でいるようです。ここは足りるだけの魚がいるのでしょうか。

合流点の上流では、カルガモ3羽とともに、マガモ1羽、いつも1羽だけです。

赤津川に入ると、カルガモ、コガモが2羽、3羽と川岸に丸まっていたのが、泳ぎ始めたりしていました。バンも2羽いました。

栃木陶器カワラの手前の東側の田で、今季初、ヒバリが囀っていました。2羽はいるようでした。もうその季節なのか、驚きました。このところ感覚がずれています。

西側を下っているとき東側の田んぼで白いものが動き、よく見るとケリでした。近くにもう1羽いて、2羽一緒なのを見たのは、今季初めてです。ホオジロやモズも時に飛び立ちます。

調整池にはヒドリガモが21羽戻っていました。

公園の中では、シメが時々1羽で飛び、ハクセキレイも4羽、セグロセキレイ4羽。ここでもセグロセキレイが囀っていました。

大岩橋の河川敷で次々とキジバトが飛び立ち7羽となりました。この公園一帯で、こんなに沢山いたのは初めてです。タイミングもあるのかもしれません。

橋から見下ろす河原でイカルチドリが2羽けたたましく鳴いて争っているようでした。アイリングは確認できません。

山林で、一瞬カケスの声がして動きがありましたが、見えませんでした。そのほかウグイス、シジュウカラの声、エナガ数羽の声が聞こえました。この山林にも、もう少し近づいてみたいのですが、個人の所有地のような部分もあって、果たせません。

永野川を下っていくと、アオサギ、コガモ6,3.9の群れ、カルガモ17羽、12羽の群れ、カイツブリ2羽、3羽、やはりここは、鳥の数が多いようです。

二杉橋上の河川敷で、珍しくキジ1羽みつけました。ウグイスの地鳴きは、ここの定番です。

東岸を登っているとの川岸の藪のなかに、ウグイスの姿を確認できました。

今日は回り方を変えてみたので、見えなかったものも見えてきたところもあります。菜の花や、オオイヌノフグリの花が咲き始め、梅も紅梅白梅が揃って咲きました。ウグイスは地鳴きですが、ヒバリやホオジロ、セキレイも囀って、何かやり残したように、冬が去って行きます。

 

鳥リスト

キジ、カイツブリ、カルガモ、コガモ、マガモ、ヒドリガモ、キジバト,カワウ、ダイサギ、アオサギ、バン、イカルチドリ、ケリ、モズ、カケス,ハシボソカラス、ハシブトカラス、シジュウカラ、ヒバリ、ヒヨドリ、ウグイス、エナガ、ムクドリ、ツグミ、スズメ、セグロセキイ、ハクセキレイ、カワラヒワ、シメ、ホオジロ、アオジ








永野川2017年2月中旬

16日

風が無く、暖かい日です。

二杉橋から入ると、まずウグイスの地鳴きが聞こえました。上旬と違って、コガモガ12羽、ハクセキレイが1羽、と少なめです。鳥も、気温や時間で移動しているのでしょうか。

ホオジロが1羽、土手の枯れ草の上に出てきました。カイツブリが2羽、1羽と二カ所で見えました。

上人橋に平行する南側の電線に、今日もシメが停まっていました。定位置になってきたのでしょうか。河川敷には、カワウ1羽、セグロセキレイ2羽、これも定番のようです。

公園のハリエンジュには、全く鳥がいません。ワンド跡に、モズが一羽、どこかでシジュウカラの声が聞こえました。

カワラヒワが11羽、モズを恐れたのか飛び立ちました。

公園内の川に、イソシギ1羽、イカルチドリ2羽、コチドリの特徴を見ようと思いましたが、今日は確認できませんでした。ただ、1羽の過眼線が薄いのがわかりました。

シメが分散して1羽、2羽ずつ、公園のなかで6羽見えました。

ツグミも分散して、公園だけでも7羽、大岩橋でも滝沢ハムでも確認しました。

鳴き声につられてみると川岸の草むら枯れ草にアオジ1羽が出てきていました。かなり腹部の黄色みが強い個体でした。

土手の桜の木にムクドリ7羽、一名サクラ鳥とも云うそうですが、ここでは初めて見ました。

調整池西にはアオサギ1羽、ここで生まれた個体かもしれないカイツブリ若鳥が1羽、東にヒドリガモ1羽とカルガモ1羽のみでした。ヒドリガモは何が原因で減ってしまったでしょう。今

市街地を流れる巴波川に沢山みかけるのですが、あるいは人の撒く餌を求めて移動したのかもしれません。

大岩橋の河川敷林で、モズ1羽、ツグミ1羽、シメ1羽、少なめでした。

滝沢ハムの近くの草むらで、カシラダカ3羽、このところ見えなかったのでほっとしました。

公園の川岸の梢で、何か変わった声がするので見るとホオジロでした。さえずりが完成していないという感じでした。

泉橋下で、珍しくマガモ1羽がカルガモ3羽とともに、川岸の草むらの下に隠れていました。

赤津川に入って、カルガモ11羽、カワラヒワ10羽、ケリ1羽、ムクドリ10羽、とやはりこのあたりは鳥種が豊富です。

バンが2羽、いくらか額板がオレンジになり始めていました。

今日は、このあたりにもコガモが4羽移っていました。

永野川を下って戻ると、二杉橋付近でカルガモが17羽になっていました。

 

 11月頃、公園の草地で鳥を追う子猫3匹が気になりました。今日は調整池ですっかり大きくなった3匹を見かけました。誰かが餌をあげているのか、よく太っていました。これから鳥の天敵になっていくのか、不安です。

紅梅が咲き、サクラは堅い蕾を見せ、カワズザクラはいくらか色づき、日差しは明るくなりました。冬鳥の季節ももうじき終りでしょうか。今年は一ヶ月休んでしまったので、何か淋しい気がします。

 

鳥リスト

カイツブリ、カルガモ、コガモ、マガモ、カワウ、ヒドリガモ、ダイサギ、アオサギ、バン、イカルチドリ、ケリ、イソシギ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、シジュウカラ、ヒヨドリ、ウグイス,ムクドリ、ツグミ、スズメ、セグロセキイ、ハクセキレイ、カワラヒワ、シメ、ホオジロ、アオジ、カシラダカ

 

 








永野川2017年2月上旬

 

6日

骨折した膝がどうにか回復したので、足慣らしのつもりで、永野川緑地公園だけの予定で出かけてみました。

気温は低くないのですが、風が時折強く吹き付けるので、公園の中を中心に1時間ほどで帰りました。でも鳥には沢山会いました。

公園東のハリエンジュの大木と、ワンド跡の草むらを行き来して、シメが12羽、風に巻き上げられるように飛んでいました。何かスズメ並という感じでした。

公園の中の川の下流で、カイツブリが2羽、カルガモが10羽、思いがけないところで沢山集まっていました。

セグロセキレイ1羽、と思うとハクセキレイも来て、ツグミも来て、ダイサギもいて、探鳥会向きの出足です。少し上流の川岸にイソシギが1羽見えました。

ピオピオという声がずっとしていて、イカルチドリ2羽、と思って見ると、アイリングがはっきりしていて、コチドリでした。ここでは滅多に出会ったことがなく、何ともラッキーな偶然です。なぜか2羽で中州の狭い範囲を、ずうっと鳴きながら駆け回っていました。

対岸をカワラヒワの15羽の群れが木から木へ渡っていきました。

大岩橋の上から上流を眺めると、中州にキジバトが1羽じっとしていました。ちょっと珍しい光景です。

滝沢ハムの草むらの中では、鳥の小さな声と動きが感じられるのですが、風の中に出てくるものは無く、やっと雑木の頂にホオジロが1羽、留まっているのを見つけました。

赤津川との合流点に、アオサギ1羽、カワウが1羽見えました。

錦着山裏の休耕田にケリが1羽、この場所も、1羽でいるのも珍しいことです。

短い時間でしたが、鳥種が豊富でした。明日にでも残りの場所を歩き、上旬記録をまとめたいと思います。

 

鳥リスト

カイツブリ、カルガモ、キジバト、カワウ、ダイサギ、アオサギ、コチドリ、ケリ、イソシギ、モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、エナガ、ツグミ、スズメ、セグロセキイ、ハクセキレイ、カワラヒワ、シメ、ホオジロ

 

8日

昨日は強風で出かけられなかったので、一日間をおいての観察になりました。永野川と赤津川を往復する予定で出かけました。風もなく暖かくて探鳥日和です。

二杉橋から入りました。

二杉橋付近は、川の水が減って中州が広く、ダイサギ、セグロセキレイ、カルガモ、コガモ、カイツブリ、イカルチドリが揃っていました。

コガモが、睦橋までの間に、20羽、10羽、8羽、3羽、2羽、1羽と近い場所に分散して、合計44と今年最大となっていました。

川岸ではウグイスが地鳴きして、上人橋までの間にカルガモ、カワラヒワ、アオサギ、ハクセキレイ、カワウなどが次々に現れ、みんな元気だったね!といいたくなりました。

このあたりの工事は80パーセント終わったようです。

上人橋上で、イソシギが鳴いて飛び立ち、カワセミが錦着山裏の田んぼから飛び立ち川に向かいました。

泉橋上では、バン2羽、カルガモ7羽、3羽、ここも工事は一部を残して終了しつつあります。

新井町に入るとツグミが次々に田んぼから飛び立ち川を越えて行きました。

カワセミがずっと川岸に留まって、鮮やかな青を十分に見せてくれました。嘴も十分見る時間があり、でした。

いつもの田で、ケリが1羽だけ見えました。もうは分散してしまったのでしょうか、今日も錦着山裏で1羽見つけました。

草むらに隠れていて見えませんが、カワラヒワが10羽以上はいるようでした。

上人橋に平行する電線にムクドリが7羽、並んで留まっていました。ほんとにスズメ状態です。

調整池のヒドリガモは11羽、カルガモ7羽でした。

3日間になってしまいましたが、いつもの顔ぶれに会うことができて幸いでした。中旬には1回で見られるよう、頑張りたいと思います。

 

鳥リスト

カイツブリ、カルガモ、コガモ、ヒドリガモ、カワウ、ダイサギ、アオサギ、バン、イカルチドリ、ケリ、イソシギ,モズ、ハシボソカラス、ハシブトカラス、ツグミ、スズメ、セグロセキイ、ハクセキレイ、カワラヒワ、シメ

 








〔フランドン農学校の豚〕―体を吹き抜ける冬の風 ―
 この物語は、人間の言葉や表情を理解できる豚が人間の放つ言葉に傷つく姿を描きながら、命を取るものと取られるものとの関係を冷徹に見つめます。風は時折吹いて、その場の雰囲気や、登場者の心象を象徴します。
 
 〈フランドン農学校〉の豚は、参考書に、豚は〈…原稿無し…以外の物質は、みなすべて、よくこれを摂取して、脂肪若くは蛋白質となし、その体内に蓄積す。〉と書かれていたため、〈金石でないものならばどんなものでも片っ端から、持って来て〉食べさせられます。生徒の一人が言った、
 
「ずゐぶん豚といふものは、奇体なことになってゐる。水やスリッパや藁をたべて、それをいちばん上等な、脂肪や肉にこしらへる。豚のからだはまあたとへば生きた一つの触媒だ。白金と同じことなのだ。無機体では白金だし有機態では豚なのだ。考へれば考へる位、これは変になることだ。」
 
を聞いて豚は、自分が白金と並べられたのを知って喜んでいましたが、あるとき、餌の中に豚毛の〈ラクダ印の歯磨楊子〉(歯ブラシ)を見つけます。
 
豚は実にぎょっとした。一体、その楊子の毛を見ると、自分のからだ中の毛が、に吹かれた草のやう、ザラッザラッと鳴ったのだ。豚は実に永い間、変な顔して、眺めてゐたが、たうとう頭がくらくらして、いやないやな気分になった。いきなり向ふの敷藁に頭を埋めてくるっと寝てしまったのだ。
 
 風は、豚の心を表して、〈からだ中の毛が、風に吹かれた草のやう、ザラッザラッと鳴ったのだ。〉とその寒々しさの比喩に使われます。〈ザラッザラッと〉というオノマトペは、古くなった歯ブラシの反り返った毛の様子とともに豚の心が傷ついている様子も表しているようです。
 
晩方になり少し気分がよくなって、豚はしづかに起きあがる。気分がいゝと云ったって、結局豚の気分だから、苹果のやうにさくさくし、青ぞらのやうに光るわけではもちろんない。これ灰色の気分である。灰色にしてやゝつめたく、透明なるところの気分である。さればまことに豚の心もちをわかるには、豚になって見るより致し方ない。
 外来ヨークシャイヤでも又黒いバアクシャイヤでも豚は決して自分が魯鈍だとか、怠惰だとかは考へない。最も想像に困難なのは、豚が自分の平らなせなかを、棒でどしゃっとやられたとき何と感ずるかといふことだ。さあ、日本語だらうか伊太利亜語だらうか独乙語だらうか英語だらうか。さあどう表現したらいゝか。さりながら、結局は、叫び声以外わからない。カント博士と同様に全く不可知なのである。
 
 作者は豚の心情を書きながら大変冷静です。本来は絶対わかることのない動物の心情や、それに寄せる自分も含めた人間の身勝手さも含めて、皮肉を込めて書いています。
 豚はどんどん太っていきますが、毎日、豚の太り具合を見に来る畜産科の教師が気になります。自分を太らせることのみ考えている人間を見透かした豚は、いたたまれない気分です。
 ある時、その国の王は、家畜撲殺同意調印法―誰でも家畜を殺そうというものは、その家畜から死亡承諾書を受け取ること、また、その承諾書には家畜が調印すること―という布告を出しました。これほど人間の身勝手さを表すものはありません。殺されるものが自分で承諾したことで、殺すものは免罪符を得るのです。 豚のところにも、フランドン農学校の校長が承諾証書をもって来ました。ここでは風は冷たく吹き込んで、小屋の中に雪をためて、豚のつらさを暗示するようです。
 
そのあとの豚の煩悶さ、(承諾書といふのは、何の承諾書だらう何を一体しろと云ふのだ、やる前の日には、なんにも飼料をやっちゃいけない、やる前の日って何だらう。一体何をされるんだらう。どこか遠くへ売られるのか。あゝこれはつらいつらい。)豚の頭の割れさうな、ことはこの日も同じだ。その晩豚はあんまりに神経が興奮し過ぎてよく睡ることができなかった。
 
(見たい、見たくない、早いといゝ、葱が凍る、馬鈴薯二斗、食ひきれない。厚さ一寸の脂肪の外套、おお恐い、ひとのからだをまるで観透してるおお恐い。恐い。けれども一体おれと葱と、何の関係があるだらう。ああつらいなあ。)
 
 豚が何かを感じ取ったのを知って、いったん校長は去って行きますが、その後にやってくる、畜産学の教師や生徒たちの放つ撲殺をほのめかす言葉に、豚は傷つきます。
 
「そこで実は相談だがね、私たちの学校では、お前を今日まで養って来た、大したこともなかったが、学校としては出来るだけ、ずゐぶん大事にしたはずだ。お前たちの仲間もあちこちに、ずゐぶんあるし又私も、まあよく知っているのだが、でさう云っちゃ可笑しいが、まあ私の処ぐらゐ、待遇のよい処はない。」……「つまりお前はどうせ死ななけぁいかないからその死ぬときはもう潔く、いつでも死にますと斯う云ふことで、一向何でもないことさ。死ななくてもいいうちは、一向死ぬことも要らないよ。ここの処へただちょっとお前の前肢の爪印を、一つ押しておいて貰ひたい。それだけのことだ。」
 
「いやかい。それでは仕方ない。お前もあんまり恩知らずだ。犬猫にさへ劣ったやつだ。」校長はぷんぷん怒り、顔をまっ赤にしてしまい証書をポケットに手早くしまい、大股に小屋を出て行った。
「どうせ犬猫なんかには、はじめから劣ってゐますよう。わあ」豚はあんまり口惜しさや、悲しさが一時にこみあげて、もうあらんかぎり泣きだした。けれども半日ほど泣いたら、二晩も眠らなかった疲れが、一ぺんにどっと出て来たのでつい泣きながら寝込んでしまふ。その睡りの中でも豚は、何べんも何べんもおびえ、手足をぶるっと動かした。
 
  そんな豚の気持ちも知らず、また校長がやってきて、承諾書の押印を迫ります。校長の言葉はまさしく人間の身勝手な言い分です。承諾書の内容を知った豚の抵抗の言葉は激しく切ないものですが、校長は怒りしか感じず、その場を去ります。 
 まもなく来る死を悟った豚はやせてしまいます。太らせることのみ考えている人間、まず畜産科の教師は、まずは豚の気分を直そうと、おいしいキャベツを与えたり散歩させたり、という方法をとります。助手は、〈チッペラリー〉を口笛で吹きながらやってきます。〈チッペラリー〉は 原題「It’s a long long way to Tipperary」という曲で、第一次大戦の時、イギリス軍兵士の間で広く歌われ大戦後はヨーロッパやアメリカでも大流行したもので、日本では浅草オペラに取り入れられ、広まりました。作者は自作の劇「飢餓陣営」の開幕前に、この旋律で〈私は五聯隊の古参の軍曹〉を歌わせました。人の無情さ、気楽さを豚の心情と対比させる小道具です。
 散歩に連れ出す助手の言葉が〈「少しご散歩はいかがです。今日は大へんよく晴れて、風もしずかでございます。それではお供いたしましょう、」〉で、風はごくうわべの機嫌取りの言葉の中に使われます。
しかし豚は回復せず、校長は強制的に承諾書に押印させて、教師は強制肥育という手段を執ります。豚は口に管を押し込まれ食べ物を流し込まれます。この描写は読むのがつらいくらい過酷です。
 
 こんな工合でそれから七日といふものは、豚はまるきり外で日が照ってゐるやら、が吹いてるやら見当もつかず、ただ胃が無暗に重苦しくそれからいやに頬や肩が、ふくらんで来ておしまひは息をするのもつらいくらゐ、生徒も代る代る来て、何かいろいろ云ってゐた。
 
 豚はその状況でも確実に太って行きました。胃が重く、体が膨らんでいるのを感じるだけで、外の日の光も、風も全く感じられません。ここでは風は、外界を象徴する良きものとして使われます。生徒たちの話は、豚の体の比重を考えたり肉の量を推測したり、豚は傷つきます。
 7日が過ぎ、豚は周囲の人間の言葉から、撲殺の日を悟ってしまいます。豚の心情にかまわず進められる撲殺の準備からその瞬間までの描写が非情です。豚は人間のために清潔にした豚小屋で、きれいに体を洗われ、太陽のまぶしい雪の上で撲殺され切断されます。
 
一体この物語は、あんまり哀れ過ぎるのだ。もうこのあとはやめにしよう。とにかく豚はすぐあとで、からだを八つに分解されて、廏舎のうしろに積みあげられた。雪の中に一晩漬けられた。
 さて大学生諸君その晩空はよく晴れて金牛宮もきらめき出し二十四日の銀の角、つめたく光る弦月が、青じろい水銀のひかりを、そこらの雲にそゝぎかけ、そのつめたい白い雪の中、戦場の墓地のやうに積みあげられた雪の底に豚はきれいに洗はれて八きれになって埋まった。月はだまって過ぎて行く。夜はいよいよ冴えたのだ。
 
 雪の中に埋められた豚の上には、〈金牛宮もきらめき出し二十四日の銀の角、つめたく光る弦月が、青じろい水銀のひかりを、そこらの雲にそそぎかけ、〉という風景を豚への鎮魂のように作者は用意しています。それまでの文中にはなかった、美しい光の描写です。この作品では、風は現実を象徴し、最後に光が作者の祈りを表しています。
 
 この作品の初期形が書かれたのは1922〈(大正11)年後半から1923(大正12)年前半と推定されます。 
では、作者は、命を取るもの取られるものについて、どのように考えてきたでしょうか。
 書簡38、1917(大正六)年8月31日、保阪嘉内宛て書簡には、土性調査で行った岩手県江刺郡の風景のなかに、理想的な世界像、「マコトの世界」を感じ取っています。
 書簡46、1918(大正7)年2月23日の、父政次郎宛ての徴兵検査の延期の提案に対する反論のなかでは、自然現象と並べて戦争や病気という社会現象における生と死に言及し、〈その戦争に行きて人を殺すと云ふことも殺す者も殺さるゝ者も皆均しく法性に御座候。 起是法性起滅是法性滅という様の事の例へ〉、〈十界百界の依って起こる根源妙法連華経にお任せ下されたく候〉と、法華経の教理に基づく世界観を展開する中で、牛の撲殺について触れ、〈牛が頭を割られの咽喉を切られて苦しみ候へどもこの牛は元来少しも悩みなく喜びなくまた輝き又消え全く不可思議なるやうの事感じ候。それが別段に何の役にたつかは存じ申さず候へども只然くのみ思はれ候。〉があり、実感というよりも、法華経の教義に基づいた理解だったと思います。
 作者は1922(大正11年)冬に、稗貫農学校の畜産の実習で豚の撲殺を経験しています(注1)が、それ以前、盛岡高等農林学校の実習でも経験しています。
 書簡63、友人保阪嘉内宛て (1918年5月19日)は、高等農林学校の撲殺を見た後のものと推測されますが、そこには、食物連鎖への罪悪感と離脱の思いを語る中で、そのときの様子が書かれています。それは自分の身を削るような、祈りに似た言葉です。
 
私は春から生物のからだを食ふのをやめました。けれども先日「社会」と「連絡」を「とる」おまじなゑにまぐろの刺身を数切食べました。(…中略…)食
はれるさかながもし私のうしろに居て見てゐたら何と思ふでせうか。(…中略…)
 
又屠殺場の紅く染まった床の上を豚が引きずられて全身赤く血がつきました。転倒した豚の瞳にこの血がパッとあかくはなやかにうつるのでせう。忽然として死はいたり、豚は暗い、しびれのする様な軽さを感じやがてあらたなるかなしいけだものの生を得ました。これらを食べる人とてもなんとてもこうふくでありませうや。
 
 この書簡に作者が綴ったものは、生物の命を取る人間と、人間である自分を認められず、苦しんでいる姿です。
 食物連鎖を風刺的に捉えた作品に1921(大正10)年に書かれたと推定される「ビヂテリアン大祭」があります。仏教の殺生戒の思想を基にしていますが、ビヂテリアン(菜食主義者)には、動物への同情派(食べたら可哀想)と予防派(肉食は体に悪い)とがあり、その方法には大乗派(菜食動物を食べる動物を食べる事はよい)と絶対派(決して動物の肉は食べない)と折衷派(ミルク、バターなど動物の命を取らないものはよい)があるという人間中心の考えや、大会そのものが演出されたものだったこと、周辺の人々の無関心ぶりも描き、人間の身勝手さや、理論と現実、組織と個人の関係など、現実の重さが描かれます。
 
 〔フランドン農学校の豚〕では、作者は、宗教的な観念や、主義主張ではなく、豚の撲殺という事象のみを描きますが、「童話」という方法をとることで、命を取られる動物の心情を描き出し、非情さが伝わってきます。その非情な世界の中で、人間も生きていかねばならないことの悲しみを言外に伝えているものと思います。
 
注1
岡澤敏男「『フランドン農学校の豚』のリアリティ」
(『国文学 解釈と鑑賞 69−8』 至文堂 2003 3
 
参考文献
栗原敦「〔フランドン農学校の豚〕」考
(『作品論宮澤賢治』 双文社出版 1984

 







「ポラーノの広場」―風と追憶が生み出すもの  (四)

U「ポラーノの広場」の背景

1、「ポラーノの広場」の成立

「ポラーノの広場」の成立は1927(昭和2)年以降と推定されますが、先駆形として

 

@ 「ポランの広場」(1924(大正13)年以前成立)

A その第三章を戯曲化して1924(大正13)年に農学校の生徒に演じさせた戯曲「ポランの広場」、

B 「ポラーノの広場」の手入れ前稿

 

があります。

「ポランの広場」では主人公の名前はキュステで、一緒に〈ポランの広場〉を探すファゼロは小学生です。山羊の行方不明という事件はなく、野原で出会ったことのみが記されます。ただ定稿として採用されなかった文には、野原でファゼーロが山羊と追いかけっこをして最終的には山羊を捕まえてくれる過程が描かれ、それによって、ポランの広場を探しにいくきっかけが生まれます。

最もページを割くのが「三 ポランの広場」の章です。それは仮装舞踏会という設定で、仮装の衣装、会場の装飾、夜空を飛び交う蝶や甲虫などが色彩豊かに描かれ、また会場でのやりとりも魔法めいていてファンタスティックです。

山猫博士は〈山猫を釣って来てならして町へ売る商売〉とのみ記されます。山猫博士の会場での乱脈ぶりも、ファゼーロとの決闘のきっかけも場面も「ポラーノの広場」とほぼ同じですが、山猫博士が逃げた後、そこでは楽しく舞踏会が続きます。

その後もう一度ポランの広場へ行きたいというキュステに対してのファゼロの言葉では、ツメクサの花が終わったら、もう広場へは行けないという設定です。

そのあとの章は原稿が失われたためでもありますが、キュステが海岸へ出張する予定と、毒蛾の発生が暗示されるのみです。

「ポラーノの広場」との決定的な違いは、まずファゼロが小学生であり、働く環境や雇い主の非情さなどが描かれず、姉ロザーロも存在しません。

悪役山猫博士も、市会議員、密造酒の会社の社長という社会的な身分や、選挙の事前運動のための集まりという設定もありません。原稿の喪失に加えて、物語の社会的背景がないので物語の展開の必然性を欠き、完成度は低いと思います。

ただファンタジイの要素はここで生まれていると言えるでしょうか。

その「三 ポランの広場」を劇に改作して、作者は農学校の生徒と上演しています。確かにこの部分の音楽性やファンタスティックな部分は、劇化したらとても魅力的だったろうと思います。

「ポラーノの広場」の手入れ前稿では、「六、風と草穂」に大きな相違があります。新しい広場の計画が話される中で、キューストは未来に向けての理想を述べますが最終稿では削除されます。主な削除された部分を記してみます。

 

「なにをしやうといってもぼくらはもっと勉強をしなくてはならないと思ふ。かうすればぼくらが幸になるといふことはわかってゐてもそんならどうしてそれをはじめたらいゝかぼくらにはまだわからないのだ。町にはたくさんの学校があってそこにはたくさんの学生がゐる。その人たちはみんな一日一ぱい勉強に時間をつかへるし、いゝ先生は覚えたいくらゐ教へてくれる。僕らには一日に三時間の勉強の時間もない。それも大ていはつかれてねむいのだ。先生といったら講義録しかない。わからにないところができて質問してやってもなかなか返事が来ない。けれども僕たちは一生けん命に勉強していかなければならない。ぼくはどうかしてもっとべんきょうできるやうなしかたをみんなでやりたいと思ふ。」

 

という子供の意見に対して、キューストは〈思はずはねあがって〉思いを語ります。

 

「諸君の勉強はきっとできる。きっとできる。町の学生は勉強はしてゐる。けれども何のために勉強してゐるかもう忘れてゐる。先生の方でもなるべくたくさん教えやうとしてまるで生徒の頭をつからしてぐったりさしてゐる。そしてテニスだのランニングも必要だと云って盛んにやってゐる。諸君はテニスだの野球の競争だなんてことはやらない。けれども体のことならやり過ぎるくらゐやってゐる。けれどもどっちがさきにすすむだらう。それは何といっても向ふの方が進むだらう。そのときぼくらはひどい仕事をしたほかにどうしてそれに追い付くか。さっきの諸君の云ふ通りだ。向ふは何年か専門で勉強すればあとはゆっくりそれでくらして、酒を呑んだり、うちをもったりだんだん勉強しなくなる。こっちはいつまでもいまの勢で一生勉強していくのだ。

諸君酒を呑まないことで酒を呑むものより一割余計の力を得る。たばこをのまないことから二割よけいな力を得る。まっすぐに進む方向を決めて頭のなかのあらゆる力を整理することから、乱雑なものに比べて二割以上の力を得る。さうだあの人たちが女のことを考へえたりお互の間の喧嘩のことでつかふ力をみんなぼくらのほんたうの幸をもってくることにつかふ。見たまへ諸君はあれらの人たちにくらべて倍の力をえるだらう。けれどもかういふやりかたをいままでのほかの人たちに強ひることはいけない。あの人たちはあゝいふ風に酒を呑まなければ淋しくて寒くて生きてゐられないやうときにうまれたのだ。

僕らはだまってやって行かう。風からも光る雲からも諸君にはあたらしい

力が来る。そして諸君はまもなくここへ、ここのこの野原へむかしのお伽噺よりももっと立派なポラーノの広場をつくるだらう。」

「さうだ、諸君、あたらしい時代はもう来たのだ。この野原のなかにまもなく千人の天才が一緒にお互に尊敬し合ひながらめいめいの仕事をやって行くだらう。ぼくももうきみらの仲間にはいらうかなあ。」

「あゝはいっておくれ。おい、みんな、キューストさんがぼくらのなかまにはいると。」「ロザーロ姉さんをもらったらいゝや」だれかゞ叫びました。わたくしは思はずぎくっとしてしまひました。いいや、わたくしはまだまだ勉強しなければならない。この野原に来てしまってはわたくしにはそれはいゝことではない。

 

 「いや、わたくしはいらないよ。はいれないよ。なぜなら、もうわたくしは何もかもできるといふ風にはなっていないんだ。私はびんばうな教師の子どもに生まれてずうっと本ばかりを読んで育ってきたのだ。諸君のやうに雨にうたれ風に吹かれて育ってきてゐない。ぼくは考はまったくきみらの考だけれども、からだはさうはいかないんだ。けれどもぼくはぼくできっとしごとをするよ。ずうっと前からぼくは野原の富をいまの三倍もできるやうにすることを考へてゐたんだ。ぼくはそれをやっていく。」

 

演説は、「農民芸術概論綱要」の思想を反映し、熱く心を打つものです。その自分の思いに押されるようにキューストはファゼーロたちとともに野原の建設に加わろうと一度は思います。しかし、ファゼーロの姉ロザーロへの想いを指摘されると、たじろぎ、その思いをのみ込んでしまいます。思いが熱い分だけ、それをあきらめるキューストの悲しみの深さが強く伝わってきます。

ロザーロへの思いを、キューストは自分に許されないものとしていたのでしょうか。その思いを未来の希望のなかに組み込むことも、許さなかったのです。

作者には、キューストのロザーロへの思いや、未来図の中に自分を書き加えるか否かという一瞬の迷いは、未来に向けた物語の展開上、ふさわしくない、という思いがあったのではないでしょうか。また熱い理想も、一つの物語の中でとらえると、生硬であるようにも思えます。

 

この部分については、作者の実人生と重ねて論じられ、そこに羅須地人協会の挫折と作者の理想の甘さを見る論(注1)ほか、否定的にに捉えられることが多いようです。

また、この削除について、書簡488(昭和8年9月、柳原昌悦当て)、日付の確定できる生前最後の書簡に見られる、病状悪化の中で記した、それまでの農村活動の高い理想を自分の「漫」として否定したのと同じ心だという見方もあります。(注2)

しかし成立時が確定されない「ポラーノの広場」について、羅須地人協会の挫折の事実や、書簡488と作者の関わりを云うのは避けたいと思います。

削除された部分は、高い理想を持って飛び込んだ農村活動への苦い思いを暗示したかもしれません。しかし定稿では、その後の作者の活動の可能性を暗示しているのではないかと思います。「7、みんなのユートピアとキューストの今―エピローグ」で記したように、最終章にはファゼーロたちの組合の活動とキューストの援助が細かく書き加えられます。

 

2、〈広場〉の社会的背景としての産業組合 

●この作品の制作時期に実際に存在した産業組合は次のようなものです。

1帝国農会から繋がる行政組織の下請け的存在である県農会

2明治33年に公布された「産業組合法」に基づく産業組合。

基本的に生産者の組合で、組合員を個として捉えて主体とするもの。ただし行政の監督、命令下に置かれ、成立、解散も許可制で、ファゼーロの組合のような自立性はありません。

 

●産業組合の種類

1、信用組合(貯金・貸付)

2,購買組合(原料等の共同購入・生活用品の掛け売り)

3,販売組合(組合員の生産物を消費者に販売)

4,利用組合(耕作機械などの共同購入、共同利用)

 

ファゼーロの組合は購買組合から販売組合に発展しています。

 

3、「ポラーノの広場」とユートピア思想

「ポラーノの広場」はユートピア思想を具現化しようとした作品とも言われます。

〈ユートピア〉は、ギリシャ語で〈どこにもない場所〉を意味しますが、現実の都市について、形態や運営の理想像と捉えられることもあります。

作者の接したユートピア思想で、明治3年〜大正中期に広められたL.N.トルストイ(1828〜1910)のユートピア思想は、羅須地人協会で唱えられた芸術と労働の融合の主張があり、物々交換の推奨、貨幣経済への嫌悪などが見られますが、「ポラーノの広場」では物々交換から始まって最終的には販売事業も行って、貨幣経済は認めています。

W・モリス(1834〜1896)の思想は、1921(大正10)年〜1926(大正15)年ころ、生活の芸術化、田園都市構想、教育と啓蒙の重要性などを謳い、当時の思想家、本間久雄・室臥高信・木村毅・柳宗悦などが、それぞれの分野で取り入れて広め、農民芸術概論綱要や、羅須地人協会の活動の理念にも重なる部分があります。

「ポラーノの広場」は、いくつかのユートピア思想からの影響を受けながら、実現可能な場所として描かれていると言えるでしょうか。詳考はまた後の機会にします。

〈ポラーノの広場〉作りのきっかけは、山羊の逃走という偶然から始まり、ファゼーロの出奔、皮革業者との出会い、と幸運が重なっています。ファゼーロの技術の習得も3カ月という短期間ですみ、それまでの雇用関係からも解放されるなど、理想図の一面もありますが、最終的には、それを越える現実的な結果が描かれています。それは、販売経路や原材料の購入など組織的な経営の成功には時間がかかり、そこにキューストやその知人たちの援助や協力がありました。

柳田国男は農村の貧困の対策として産業組合の普及を強くすすめ、組合員(農民)のために、知識人(公吏、資産家、教師、医師、僧侶等)の啓蒙や援助が必要であることを主張ました。(注3)

キューストは、実際の〈広場〉には加わりませんでしたが、知識人としての援助という形でその任務を果たしています。そしてキューストは産業組合の成功を高く評価していて喜んでいて、自らの関わり方―協力や助言―にも満足しているといえると思います。その意味ではキューストは挫折してはいません。それも作者の考える一つの理想だったと思います。

作者の実人生と照らし合わせれば、知識人としての農村への対し方の限界を認め、肥料設計や石灰の販売などに転換しました。そこに死を迎えなければきっと別な未来が開けていたと思います。 

 

4、「少年小説」という設定について

序説でも書いたように、この物語を作者は、「風野又三郎」、「銀河鉄道の夜」、「グスコーブドリの伝記」とともに「少年小説」として捉えていた時期がありました。

明治20年代から昭和初期にかけて、タイトルに〈少年小説〉と冠したジャンルが生まれました。原抱一庵『少年小説 新年』(青木嵩山堂 明治25年) を始めとして、貧困、いじめ、肉親の病や死や不遇、など逆境にある主人公の少年の立志伝的なものが主流です。

川路柳虹「少年小説 雪空」 (『日本少年』 大正8年一月) ではそのなかに 不幸克服の心を描き、幸田露伴「鉄三鍛」(『少年文学』明治33年10月 内外出版協会)では主人公を救う人物が現れ、 佐藤紅緑「あゝ玉杯に花うけて」(『少年倶楽部』 講談社 昭和2年五5月〜3月は少年の正義感を描くなどそれぞれ特色があります。

有本芳水「少年小説 松前追分」(『日本少年』大正11年六月〜12月 実業之日本社)は父親の職業がラッコやオットセイの狩猟だったことなどは「銀河鉄道の夜」への投影も感じられます。

この『日本少年』は明治39年1月創刊、昭和13年10月終刊で、当時の中学生に広く読まれ、作者も触れていた可能性もあります。有本芳水はここで少年のための小説として「少年小説 松前追分」のような「悲哀小説」のほか、「滑稽小説」、「冒険小説」など、ジャンル別の幅広い作品を書き、その物語の方法など作者も影響を受けたかもしれません。

作者の「少年小説」4作品では、主人公は逆境にある少年とも言えますが、その現状や立志を描くものではなく、どちらかと言えば『注文の多い料理店』広告文で述べられた〈少年少女期の終りころからアドレッセンス中葉に対する一つの文学形式〉に近く、少年の心の成長を主に描いていると思います。なぜ作者が「少年小説」と云う括りを設けたのかということに対する先行論文は管見した限りでは見つかりませんでした。あるいは作者が、物語が読まれるための効果を考えて、世に広まっていたその冠称を考えた、ということもいえるかもしれません。

 

V終わりに―哀愁について―

この作者が括った「少年小説」で、「銀河鉄道の夜」では、大切な友の死によって知らされる自分の進むべき道、「グスコーブドリの伝記」では命と引き換えにしか手に入れられないユートピア、「風の又三郎」では、突然やって来て突然去っていく友だち、と、いずれも絶対の喪失を描いているのに対し、「ポラーノの広場」では、到達可能なユートピアを描き、失ったものは主人公キューストのユートピアのなかの居場所だけです。

ユートピアや成し遂げた者たちへの追憶は、悲痛ではなく、読むものにも「哀愁」となって響いて来るのではないでしょうか。

加えて、追憶という形で書きはじめられ、更に新しい追憶が積み重ねられていき、その一つ一つが象徴的にその時を描きながら組み立てられながら増幅し、結末の主人公の現在の追憶と絡み合いながら描き出されるためかもしれません。

そして、ちりばめられた背景の、透明な風、青い光、風に光る緑、星雲に喩えられたツメクサの花などとともに描かれる、理想でしかないもの、現実とかけ離れた思い、は、物語に豊かな色彩を与えると同時に、それがユートピアの実現に必要であったことを表すと思います。

 

注1中村稔『定本 宮沢賢治』(七曜社 1962)

注2 磯貝英夫「ポラーノの広場」(『作品論 宮沢賢治』 双文社1984)

注3『最新産業組合通解』自序 第日本実業会 明治35年11月
(『定本 柳田国男集 第二八巻』 筑摩書房 1964

 

参考文献

中地文「ジョバンニの悲哀」(『宮沢賢治 17』洋々社 2006)

人見千佐子「イーハトーヴとユートピア」

(『リアルなイーハトーヴ 宮沢賢治が求めた空間』 新典社 2015)

大島丈志「「ポラーノの広場」論 産業組合から見えるもの」

(『宮沢賢治の農業と文学 過酷な大地イーハトーブの中で』蒼丘書林2013)