いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2007/03/07 12:03:19|聖書
レギオンに占領された男 2
私の霊の目に“梁”がかけられたままなのはどうしてか。
自分自身の診療をするのは非常に難かしいのだが、書くことを通して自分を客観的に眺めていれば、気付くかもしれないし、この文章を読んで下さる方が、教えて下さるかもしれない。

実は、3日前からレギオンの記事と格闘しているので疲れ気味だが、今、イエスのよみがえりのことを考えている。
昨年11月に投稿した 「フィクション か それとも 真実」 「キリスト教の爆発的拡大の様子は」 の二つの記事がそれだが、その後、イエスは聖書に登場しなくなる。

使徒の働きを見ると、イエスの代わりに“聖霊”という人格(神格?)の形で、生きている一人一人とかなりリアルにかかわっているが、この“聖霊”も霊であって、肉眼で見えない存在だ。
イエスのよみがえりを信じるとは、よみがえられたイエス御自身が“聖霊”なる方を通して、その意思と力とを私達に伝えることをも含めて信じるのであろう。
どうも私は、“聖霊”なる方とのコミュニケーションに問題がありそうなのだ。
“私”という霊が“聖霊”なる方の自由な働きを阻害している可能性があると気付いたのだ。
ルカによる福音書8章です。

(悪霊の願い)28節
彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。

(イエスの命令)29a節
それは、イエスが、汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられたからである。







2007/03/07 7:33:16|聖書
レギオンに占領された男 1
イエスが十字架に架けられたのは、私の罪のためでもあることを、知識レベルで認識するようになったのは、昨年11月に投稿した 「あなたのためです」 に書きました。
それ以来、聖書が少し身近な書物になりましたが、それでも2000年前の遠い世界の話という感覚が残っている。
特に、この部分のように 「悪霊」 が登場してくると、西洋の古い小説的感覚が私を捉え、科学万能の思想にあこがれた昔の私が顔を出してくる。
理性では、科学的手法の限界をなんとなく捉えているにもかかわらず、そうなのだ。
更に、最近のテレビ番組で、霊視とか霊能者とかが登場すると、少しだけ観るのだが、運動オンチの私でさえサッカー番組より遥かに遠い世界に感じてしまう。
ルカによる福音書8章です。

(悪霊につかれている男の生活)26〜27節
こうして彼らは、ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着いた。
イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。







2007/03/05 14:10:00|聖書
気象予報
人の子イエスの意識が、いつでも天の父の意思を聞いて行なうことに集中していたという表現は、人間イエスを強調した文章である。
そこで、注意しなければならないことが、今日の記事で表現される。
弟子達はまぼろしを見たのだろうか。
ルカによる福音書8章です。

(湖上で突風に遭遇)22〜23節
そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、 「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」 と言われた。
それで弟子たちは舟を出した。
舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。

(気象現象を制する)24〜25節
そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、 「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」 と言った。
イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。
すると風も波も治まり、なぎになった。
イエスは彼らに、 「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。
弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。

(現代の気象予報)
現代の気象予報は、空気の温度分布・空気の湿度分布・湿り空気の質量分布・海水の温度分布と水の蒸発量・地球の回転と太陽熱の影響などといった物理情報が、時間と共にどのような相互作用を起こすのかスーパーコンピューターを使って計算し、時間経過毎の各種物理量の変化を予測しているようだ。(詳しくは知らない)
要するに、時間軸を含めた過去の統計的データを基礎にして、未来予測を行なっているようである。

(局部的気象現象の予報)
さて、今日の記事にある“突風”はどうなのか。
突風は、竜巻・雷・などと同じように、局部的で瞬間的な現象なので予測が困難な現象のようです。
ただし、それらの現象が起き易くなる・起きることはない等という程度の統計的判断ができるようになっている。

(私の信仰)
聖書記者は、イエスが気象現象さえ言葉によって制するのを伝えて、イエスが天地創造の神だと主張していると思う。
失笑、あるいは非難を受ける事を覚悟しているのであるが、神が創造されたと言われたからには、前述の局部的気象現象の発生も含めて、神の計算の範囲内にあるはずなので、一定の法則に従っていると考える。
コンピュータの巨大化・観測データの緻密化・計算式の発見などが進めば、予測可能な範囲に入ってくるのであろう。

あらためて言おう。
神は全てを御存知であり、イエスは 「しかりつけられた」 と書いてあるが 「計画通りに動け」 と命令したのだと思いたい。
文字通り単に 「しかりつけられた」 のなら、神は狭い範囲に混沌の状態を残されたことになる。

現代の人間は、いろいろな部門で、神が判断する領域に突入しつつある。
信仰の先輩の判断はどのようになっているのだろうか。







2007/03/04 9:39:01|聖書
イエスの意識(推定)
読んでいて唐突な発言と感じる部分があちこちにあるのだが、ほんの少し前迄、この部分もそのように感じた部分だ。
ルカによる福音書8章です。

(母、兄弟たち)19〜20節
イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のためにそばへ近寄れなかった。
それでイエスに、 「あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに会おうとして、外に立っています。」 という知らせがあった。
ところが、イエスは人々にこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。

(私個人の理解)
今まで気付かなかったことだが、この記事は 「聞いて行う人」 の締めくくりの部分であり、イエスの意識が非常にリアルに表れている部分だと、改めて感じさせられた。
聖書記者が伝えたかったことは 「人の子イエスの意識が、いつでも『神(天の父)のことば(神の意思)を聞いて行なう』ことに集中していた」 ではなかろうか。
この思想を極限まで推し進めると、神はイエスという完璧な人間によって表現されたことになり、 「イエスは神だ」 ということや 「イエスは神の栄光の現れ」 という思想につながり、三位一体思想を支持することにもつながる。
今まで教えられてきたことが 「そうですか」 から 「そうですネ」 に変わりそうだ。
思想の領域で留めたくない。
信仰の先輩に指導を請わねばならない。







2007/03/03 9:34:00|聖書
そう思いませんか
「この木なんの木」の記事の中であまり言及しなかったが、たとえで語られると真意を探り出すのが難しい。
今日の部分も分かりにくい代表的な部分でしょう。
皆さんはどのように読みますか。
ルカによる福音書8章です。

(光が見えるため)16節
あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです

(隠れているものは、あらわになる)17節
隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。

(与えられ・取り上げられ)18節
だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」

(私個人の理解)
聖書記者は、イエスが語った印象深い言葉を並べているだけでなく、記者自信が感動して受け取ったメッセージを読者にも伝えようとしているはずだ。
即ち 「あなたより多く愛している」 「この木なんの木」 などの部分で語った内容は、一貫して何かを伝えようとしているはず。

今日の部分に対する私の要約は 「信仰による生活」 である。
「聞いて行なう人」 はますますその 「信仰による生活」 に磨きが掛けられ、「聞いても行なわない人」は聞いて受け取った知識も忘れて(取り上げられて)しまうと教えているように思えてくる。
私の弱点に対して 「あなたは間違ってる」 と言わずに、 「そう思いませんか」 と諭すように、自分で気付くように、そっとささやいているように思える。
ここも、信仰の先輩に指導を請わねばならない。
皆さんの意見も伺いたい。