私の霊の目に“梁”がかけられたままなのはどうしてか。 自分自身の診療をするのは非常に難かしいのだが、書くことを通して自分を客観的に眺めていれば、気付くかもしれないし、この文章を読んで下さる方が、教えて下さるかもしれない。
実は、3日前からレギオンの記事と格闘しているので疲れ気味だが、今、イエスのよみがえりのことを考えている。 昨年11月に投稿した 「フィクション か それとも 真実」 「キリスト教の爆発的拡大の様子は」 の二つの記事がそれだが、その後、イエスは聖書に登場しなくなる。
使徒の働きを見ると、イエスの代わりに“聖霊”という人格(神格?)の形で、生きている一人一人とかなりリアルにかかわっているが、この“聖霊”も霊であって、肉眼で見えない存在だ。 イエスのよみがえりを信じるとは、よみがえられたイエス御自身が“聖霊”なる方を通して、その意思と力とを私達に伝えることをも含めて信じるのであろう。 どうも私は、“聖霊”なる方とのコミュニケーションに問題がありそうなのだ。 “私”という霊が“聖霊”なる方の自由な働きを阻害している可能性があると気付いたのだ。 ルカによる福音書8章です。
(悪霊の願い)28節 彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。」
(イエスの命令)29a節 それは、イエスが、汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられたからである。
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