イエスの伝道旅行に同行した女性達が、意外に多いようだ。 引き続き、概要の羅列かな。 ルカによる福音書8章です。
(伝道旅行の様子)1〜3節
(種蒔きのたとえを話す)4〜8節 (たとえで話す理由)9〜10節 (種蒔きのたとえの解説)11〜15節 このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。
道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。
岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。
いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。
しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。
(私個人について) 記憶力が低下し、忘却力が成長しているので道端の様だ。 イエスが、私の罪の代償として十字架刑を受けられたと聞けば喜んで受け取るが、試練の時に私はどんな行動を採るのだろうか。根が有るかどうか自分では分からない。 私の周りの人々は、仏教徒や神道の人達ばかりなので、おろおろする。 慶弔の交際ごとは後ろ指さされたくないし、わずかな富も、サッカーのテレビ観戦も捨てたくないし、私の行動は中途半端だ。 イエス様の目で見ると、霊の世界の足萎えだろうか。 だとすれば、ますますイエスに哀れみを請わねばならない。 人生の終局が来る前に、実が熟するように。
神の国の奥義を知ることが許されているのは誰か。 投稿記事 「見えていない私だから」 で触れた 「聞いて行なう人」 のような気がする。 これも教えを乞わなければならない。 私達の信仰は、一人一人の人生の途上で試されることがわかります。
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